『ぜいとぅーん』32号(2008.3.8発行)


草の根ニュース

ガザ地区はどうなっているのか

この1月下旬、ガザ地区とエジプトとの国境の壁が、パレスチナの武装勢力によって破壊され、封鎖されていたガザ地区から膨大な数のパレスチナ人が自由に国境を往来できる状態になったというニュースが飛び込んできて、驚いたり拍手喝采した人がいたのではないかと思います。(詳しくは解説コーナー)

しかし、通信を書いている間に、ガザへのイスラエル軍の軍事侵攻が始まりました。2月27日からの5日間で、120人以上のパレスチナ人が殺されています(多数の子どもも含まれています)。

ガザからジェリーさんの来日

その封鎖されたガザ地区から、「パレスチナ子どものキャンペーン」や「パレスチナと仙台を結ぶ会」など日本のNGOの支援する、ガザにあるアトファルナろう学校の校長、ジェリー・シャワさんが1月に来日。仙台、東京、大阪で講演会を開き、ガザの状況を生の声で伝えていきました。

ジェリーさんはパレスチナ人と結婚してガザに暮らして40年。パレスチナとアメリカの両方のパスポートをもっています。しかし、これまで何度も講演活動のために海外に出ようとしてきましたが、イスラエルはこれを拒否。日本での講演会の計画も直前で中止・延期が繰り返されてきました。今回、ようやく来日が実現しました。今年は、息子さんの結婚式がアメリカで予定されているそうですが、出席できないかもしれないと嘆いていました。


仙台集会参加者、Mさんより

「もしもこの仙台から一歩も外に出られないとしたら……まわりに分離フェンスが張り巡らされ、外からは食料も薬も入ってこないとしたら……みなさん、想像してみてください」ジェリーさんは、そう話し始めました。ガザのひどい状況を想像することは、仙台に住むわたしにとっても、そう難しくはありませんでした。

ろう学校のこどもたちの写真も、数々紹介されました。おもちゃを抱えながら耳の診察を受ける小さな子。しかし、補聴器どころか故障した時の替えの商品すら今は入ってこないということが、わたしの気持ちを暗くし、希望のもてないものにしました。同時にまた、万華鏡を覗いて驚く女の子やおもちゃで遊ぶこどもたちの笑顔は、暗い心境の中でわたしをほっとさせるものがありました。

わたしたちがほんの少しの想像力を動かして、ガザの人々の暮らしを自分たちの暮らしに引き寄せて感じることができたら、本当に何かを変えることができるのだろうか?と大きな疑問を持ちながらも、けれどもそれすらなかったらきっと、何ひとつ変わらないに違いない、と信じずにはいられませんでした。


西岸地区からファトヒさんの来日

1月のジェリーさん講演会に先立って、12月には、ヨルダン川西岸地区で隔離壁や検問所などの占領政策を批判するNGO「反アパルトヘイトウォール草の根キャンペーン」のファトヒ・クデイラートさんが来日、仙台も含めて北海道から沖縄まで全国公演ツアーを行ないました(招聘は大阪の「パレスチナの平和を考える会」)。

ファトヒさんの講演は、おもにヨルダン渓谷地帯という、西岸地区のなかでも、ユダヤ人入植地などのために最も厳しく地元住民が差別・排除されている地域の現状報告でした。この地域には、『ぜいとぅーん』29号で詳しく書いたとおり、日本政府とイスラエル政府による共同開発プロジェクト、「平和と繁栄の回廊」構想が進められつつあります。このプロジェクトは占領の容認であり国際法違反の可能性もあると指摘されています。ファトヒさんは、各地での講演会以外に、国会議員・秘書向けの集会と外務省協議も行ない、この回廊構想に対して地元住民から重大な不満・批判が出ていることを訴えました。

月刊オルタ07年12月号』で特集「パレスチナ――平和と繁栄の回廊構想」PARC発行

この問題について、来日時のファトヒさんへのインタヴューなどが掲載されています。日本のODA政策による重大な問題ですが、雑誌の特集としては初めてのものです。

*一般の書店やパレスチナ・オリーブでご注文下さい。(630円)

 

解説

ガザ地区の歴史と近年の状況

ガザ地区は、地図で見ても明らかなように、ひじょうに狭い地区(東京23区の2/3)に150万人ものパレスチナ人が生活しており、世界一人口密度の高い場所だと言われています。1948年のイスラエル建国によって、パレスチナの各方面から避難民が押し寄せてきたためです。その後ガザ地区は、67年の第三次中東戦争までは事実上エジプトが管理、そして戦争によって、ヨルダン川西岸地区などとともに、イスラエルの占領下におかれました。

90年代には、西岸地区で現在問題になっている隔離壁の「先行例」として、イスラエルがガザ地区全体を囲い込む感知機能付きのフェンスを設置。150万人の人間が、イスラエルとの境であるエレツ検問所とエジプトとの境であるラファ検問所の2ヶ所だけで管理される、「巨大監獄」となっていました。もちろん領空権も領海権もありません。ごくわずかに許可を受けた労働者と病人のみが検問所の通過を認められるのみでした(以前は数万人認められていた労働者は数千人になりました)。

そのガザ地区は、厳しい占領支配ゆえに、かえってパレスチナ人の強い抵抗運動を誘発し、とくにハマスの支持基盤となりました。抵抗運動の取り締まりに手を焼いたイスラエル軍は、2005年に軍事基地とユダヤ人入植地を撤去する「一方的撤退」を実施。実のところこれは、占領地支配のメリットとコストを計算してのことでしたし、また、ガザ地区内部から基地と入植地を取り除くだけのことで、隔離フェンスも検問所もそのまま、領空権・領海権がないのもそのままで、巨大監獄であることに変化はありませんでした。

しかしイスラエルは、世界に対して、「占領の終結」を宣言、自分たちは和平のために痛みをともなう譲歩をしたとアピールを行ない、これでも抵抗運動が終わらないなら、その責任は和平を望まない野蛮なパレスチナ人の側にあるのだ、という論理を展開しました。実際日本の大手メディアも「占領終結」だと「誤報」をしています。

完全封鎖

しかし、これで情勢がなんら好転するはずがありません。2006年にハマスは民主的選挙によってパレスチナ自治政府の政権与党になりましたが、イスラエルと国際世界はこれを承認せず、没交渉とし、兵糧攻めを展開。とりわけ密閉されているガザ地区では、またたくまに食糧・燃料・医薬品・建築資材などが不足し、価格も高騰、一般市民の生活が打撃を受けました。「一方的撤退」を主張することで、イスラエルはガザ住民への関与・責任を放棄し、労働者や病人の検問所通過さえも拒否。失業率は最悪の状態となり、また治療を受けられずに亡くなる人も急増しました。

その間、何度となく、ハマス政権とアッバス大統領擁するファタハとの連立交渉が進展しては、イスラエルやアメリカの介入により挫折。イスラエルとアメリカは、パレスチナ各派の大連立が進展し、統一された強い民族抵抗運動となることを恐れ、ハマス弾圧と同時にファタハへ支援を行ない、内紛を扇動していました。政権奪還を望むファタハの一部がこの扇動に乗ったことで、07年3月にいったん成立した連立内閣は、十分に機能する前に崩壊、対立が激化。連立後にイスラエルが執拗にガザのハマス拠点に対し武力攻撃を重ねたことが、ハマス側の武装蜂起を誘発、6月にガザのファタハ拠点をハマスが制圧したことで、パレスチナにガザ地区のハマス政府と西岸地区のファタハ政府の二つの分裂政権が併存することになってしまいました。

それ以降、イスラエル軍による空爆と封鎖という「外側からの占領」が続くガザ地区では、もちろん抵抗運動も収まることはありませんでした。とうとう2008年1月18日にイスラエルは、従来の食糧・燃料の運び込みに対する制限だけでなく、医薬品なども含めた支援物資まで全面的に運び込みを禁止し、完全な封鎖状態におくことを宣言しました。

壁の破壊

こうした状況が忍耐の限界を超え、1月23日の早朝に、ガザ地区とエジプトとの国境である壁やフェンスが爆破され、パレスチナ人たちは一斉にエジプト側に生活必需品を求めてなだれ込みました。もちろん出入国手続きなしに。一週間のうちにガザ地区を出てエジプトに行って戻ってきた人は、延べ推計で80万人〜100万人。その数字が、ガザの閉塞・困窮の深刻さを表しています。

親米・親イスラエルのエジプト側が、なだれ込むパレスチナ人たちを許容したのは、エジプトの人々の大半が心情的には親パレスチナであり、またガザの惨状を知っているからです。エジプト政府が軍に即座に弾圧を命じれば、国民の反発を買い国内政情を危うくしてしまいます。パレスチナ人たちが、買い出しや医療のために往来する分には、数日は黙認という態度をとりました。

とはいえ、エジプト政府としてはイスラエルの顔も立てなければならず、数日をおいてから壁を立て直し、また武装勢力に破壊され、そして数日様子を見て、本腰を入れて壁を再建。およそ元の状態に戻りました。

そういう意味では、この出来事はパレスチナ人が数十万人単位で国境を突破したという点で画期的であったものの、何か問題が解決したとか、根本的に情勢が変わったとか、そういうことではありませんでした。やはり問題が解決するには、イスラエル社会が変わらなければなりませんし、そのためには日本とアメリカなどの国際社会が変わらなければなりません。一次的に国境が取っ払われても、ただのガス抜きに終わってしまいます。

ガザ地区は、パレスチナ人や物資が出入りできないだけではなく、一般外国人の立ち入りも禁じられているため、パレスチナ・オリーブのスタッフもここ5年程訪問できないでいます。(早尾)

 

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