『ぜいとぅーん』34号(2008.10.7発行)


オスロ合意から15年

2008年9月は、1993年9月の「歴史的」オスロ合意からちょうど15年でした。オスロ合意は、調印当時は、華々しく演出され、和平機運が高まりましたが、次第に、実はパレスチナの側が一切得るものがないまま、ユダヤ人入植地やエルサレムや難民帰還権などを一方的に譲歩させられてしまった内容であることが明らかとなりました。[解説参照]

実際、93年から2000年までのあいだで、つまり和平プロセスのもとで、ヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植地は倍増しているのです。2000年の第二次インティファーダは、進展しない「和平」に対するパレスチナ人の不満の爆発でした。いま、オスロ合意から15年、第二次インティファーダから8年も経過しています。

この8年間で、パレスチナ自治区へひどい軍事侵攻が繰り返され、検問所や分離壁も建設が進められ、和平プロセスなど消し飛んでしまいました。しかし、その問題の原因はインティファーダなのではなく、オスロ合意にこそあるのです。「オスロの後しばらくは良い時代だった」という発言がしばしば聞かれますが、パレスチナにとって「和平」などあったためしはありません。

エドワード・サイード『収奪のポリティックス――アラブ・パレスチナ論集成1969-1994』(川田潤他訳、NTT出版、2008年)

最近、この問題を振り返って考えるのに格好の本が出ました。この本は、アメリカに住んでいたパレスチナ知識人サイード(故人)が、1967年の第三次中東戦争(このときからパレスチナはイスラエルの全面的な占領下におかれている)によってパレスチナ問題に目覚めてから、オスロ合意によって幻滅するまでの四半世紀に書かれた時事評論集です。

あらためてその時代の流れを読み直すと、なぜオスロ合意などという「不平等条約」を結ばざるをえないことになったのかが見えてくるのと同時に、サイードの目には93年当時から、オスロ合意が民族の権利を放棄する決定的な敗北であり、それがその後のパレスチナの運命を変える転換点となることが明白だった、ということがわかります。

実際、現在の国際社会のハマス政権ボイコットや、日本政府のパレスチナODAなども、すべてオスロの幻想の上に成り立っている非現実的で地元を無視した政策です。現在のパレスチナ支援の限界について考えるうえでも、オスロを反省することが必要だと思います。

オスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)

1993年にノルウェーのオスロで進められた秘密交渉を経て9月にワシントンで調印された「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」。内容的には、イスラエル政府とPLOの相互承認(PLOをパレスチナの代表と認める)、将来的なパレスチナ自治に向けて交渉を開始する、と宣言するにとどまり、重要な課題(エルサレムの帰属、パレスチナ難民の帰還権、ユダヤ人入植地、水資源の配分、境界線の確定と最終的地位)が全て先送りされました。

94年のガザとジェリコの先行自治開始後、95年には、ヨルダン川西岸地区の町と周辺に自治が拡大しましたが、イスラエル軍が自由に侵攻し、検問所を設けてパレスチナ人の人とモノの移動を管理しています。また、未だに、ヨルダン渓谷周辺などは行政も治安も完全にイスラエルの占領下に置かれ、パレスチナ政府も独自には何のプロジェクトもできない状況です。

 

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