CounterPunch (August 27, 2002)
外出禁止令という暴力

Sam Bahour


 

(アル・ビーレ、ラーマッラー)

「神様、私が学校に行けるように、どうかシャロンにこの土曜日までに外出禁令が終わるように言ってください。」 ここ2週間、このようにして私の8歳になる世俗的な娘、アリーンは眠りについています。アリーンやここの他の多くの人は、西岸のパレスチナの世界外交の村や町、難民キャンプに課せられたイスラエルの5ヶ月に渡る軍事外出禁止令が終わるよう神頼みをするようになってきました。「9月11日」後、世界外交がオスロ平和合意の失敗の処理をいかにすべきか慎重に協議している中、イスラエルはシステマティックにパレスチナの生活を破壊し、それとともに、二つの民族が将来和解するため希望も破壊しています。

パレスチナに関わる全てのものをイスラエルがシステマティックに破壊するということは、目新しいことではありません。少なくともイスラエルによる何十年にも渡る破壊をこれまで生き延びてきたパレスチナ人にとっては。しかし、何が受け入れがたいかといえば、この破壊が国際社会の目前でおおっぴらに行われているということです。傷に屈辱を上塗りし、私たちの生活への破壊は、イスラエルの司法および政治制度によって公然と話し合われ、合意されています。

政治的暗殺を抜きにしても、軍事的虐殺が、イスラエルのパレスチナ側管轄区域を侵略するというオスロ合意の違反の中で行われ、F16や60トン級のメルカバ戦車がこの2年間パレスチナの町を荒らし回り、何千ものパレスチナ市民や何人かの選挙で選ばれた人たちが容疑や裁判なく刑務所に入れられ、何エイカーにも渡るオリーブ畑がブルドーザーで破壊され、イスラエルの入植地が止むことなく拡大し続けているのです。他にもありますが、これらのことは別にして、イスラエルがシステマティックにパレスチナ人の生活を破壊しているというどちらかというと見えにくい側面について絞ってお話したいと思います。

これはイスラエル軍の婉曲表現で「外出禁止令(curfew)」と言い表されています。これは「軍事外出禁止令(military curfew)」と表現したようがよりよいようです。より法的、人権的な用語で言えば、これは「集団的懲罰(collectivepunishment)」と呼ばれるでしょう。最近文通仲間が、欧米の人々により正確に伝えるならこれは「監禁(lockdown)*」だと指摘してくれました。これがどう呼ばれようと、銃口や戦車の砲身を突きつけられ、150万人のパレスチナ人を強制的に家の中に閉じ込める政策の継続は、占領そのものによってうまくやりとげられる暴力の最も洗練された形の一つです。
*lockdown (暴動や騒動が起きそうなので)囚人を監房に監禁すること(EXCEED英和辞典)

イスラエルの占領を正当化しようと試みる人の中には、「外出禁止令」はイスラエルが通常使用するほかの手段に比べ暴力的でないし、それ故、そんなにきつい言葉で語るべきでないと言うでしょう。議論のために、私の個人的感覚で、特に私のイスラエルの隣人に対して、外出禁止令が個人に、家族に、ビジネスに、そして学校に何をしているか説明させてください。世界がこの先数年間にパレスチナ難民だけでなくパレスチナ人から何を期待すべきか、読み手の方それぞれが個々の結論に達することができるよう説明したいと思います。

まず最初に、イスラエル軍の外出禁止令はアメリカの様々な都市で未成年者を対象に時々行われる制限的な外出禁止令とは異なります。イスラエルが外出禁止令をパレスチナ人に課す時、それは全面的、総括的で、そして事前連絡はありません。ビジネスは休業し、学校は下校となり、官庁事務所は閉鎖され、薬局は閉店し、一般市民の医療サービスへのアクセスは事実上不可能になります。それではこれはどうやって行われるのでしょうか。全面的閉鎖は、パレスチナの狭い通りをイスラエル軍のジープ、戦車、装甲車が走り回り、スピーカーから大きく、訛りのある酷いアラビア語で、全ての人に家に帰るよう通達することで始まります。このアナウンスは通常、人々にメッセージが伝わったか確認をするため、広場で、空への立て続けの威嚇射撃や催涙円筒弾や催涙手投弾を爆発したりすることが伴います。閉鎖が昼間に始まれば最長でも6分くらいでは町はゴーストタウンに変わります。もし閉鎖が早朝(5時ー7時)にアナウンスされれば、そしてこのケースが増えてきているのですが、町は目覚めないままです。

外出禁止令もしくは監禁の間、家族は家に閉じ込められます。パレスチナ人の50%が、平均7人家族で住んでおり、その中の91%は混み合った環境、つまり一部屋に2人以上で生活しています(出処:) 。両親も子どももすぐにいらいらしてきます。そしてこれに付け加え、約2年間のイスラエルの引き続く破壊の後で、パレスチナ経済は深刻な不景気に陥っており、何千もの家族が外出禁止令が次に解除されるまでやっていけるための基本的食料を十分蓄えておくことができていません。一人当たりの実質収入は2000年全体で12%落ち込み、そして2001年にはさらに19%下落しました。付け加えて、貧困ライン(一日当り一人2米ドル)以下で暮らすパレスチナ人口の割合が現在45〜50%と見積もられています(出処:)!これらの驚くべき数字はイスラエルの指導者たちをあわてさせるものではなく、彼らは私たちの生活を打ち壊すために兵士を送り続けています。イスラエル人は、兵士も市民も同様に、パレスチナ人をもっと打ちのめせば、イスラエルの町や市民はより安全になるだろう、というばかげた信念を持っています。これはイラクを攻撃することがアメリカ内外の国益を推進すると考えるのと同じくらい悲しい気持ちの持ちようです。

一日、二日、または三日、−−−またはナブルスのように66日の間、24時間、ロックダウン(監禁)されると、人の神経は限界に達します。肉体的には、運動不足が始まり、筋肉が硬直してきます。外出禁止令が解除された時でさえ、2,3時間は次のロックダウンに備え食料を蓄えることや、1週間分の仕事を4〜6時間で済ませようと職場に駆け込む以外考えなれなくなります。個人的には私は椎間板ヘルニアを患っており、このために規則的な散歩に出るなどの運動をしなくてはいけません。この5ヶ月間、私は毎晩イスラエルの外出禁止令に監禁され、ラマッラーの町を歩いて、涼しい夜風にあたる、ということは今は私の記憶にとどめるのみです。私が支払う肉体的コストは、両足の後ろに振動を与える継続的な電流とともに暮らすということ、そして幾夜も足の痙攣の痛みに目覚めるということです。私の2人の娘、アリーンと2歳のナディンも彼女らの体格に運動不足の症状が見られるようになりました。妻アビールは、家事をこなし、度々騒音をとどろかせ通りを走る戦車やジープからこどもたちの注意をそらせようと一緒に遊び、外出禁止令の断続的な解除がキャンセルになる場合に備え、必需品を蓄えながら、奇跡的に健康を維持しています。

ビジネスの見地から見ると、非常に先行き暗い状況です。外出禁止令が解除される度に、雇用の動きありますが、少し深く考えれば、このペースをそう長く維持できるとは普通誰も思わないでしょう。企業の大多数はすでにビジネスを続けていく力を失っており、そして多くの企業は雇用人を雇い続ける能力もすでに失っています。ビジネスへの強い関心は経済活動においてまだ活発ですが、それは国家や雇用人への義務感からであり、また徐々にしぼんできてはいますが占領が終わる日も近いという望みを持っているからなのです。まだ仕事を持っている幸運な人々にとって、多くの場合、外出禁止令の日数分が給与から差し引かれます。控除の額は月によりますが、労働者の給与10〜15%カットとになります。他の土地に仕事を求めるため、その資力があってパレスチナを離れることを選ぶ人、もしくは余儀なくパレスチナを離れなければいけない人の数は増えてきています。インティファーダの初期には、これは個人に限られていました。今日、会社全体がビジネスの運営拠点を他に移すことを考慮しています。パレスチナに残る私たちにとって、キャリアを積みたいという自然な望みは、自分たちの職業において急速な遅れをとるのではないだろうか、そして元にはもう戻れないのではないだろうか、という認識に徐々に置き換えられています。パレスチナを離れる余裕がある人々にとってはこれは特に気をくじかれる認識なのです。

学生にとって、学校や大学がまたこの年も中断させられたりするだろう、といういらだたしい現実は、説明できるものではありません。イスラエルの36年に渡る占領の間、パレスチナ人は、占領という最も厳しい政策ですら彼らから奪えない資質ー知性ーを持ってきたことに誇りを感じてきました。伝統的に、教育はパレスチナ人の生活において家族の次に重要なものでした。大学は何とか授業を提供し、学生を幾年もの危機の間卒業させてきました。保育園、小学校などは引き続く閉鎖や外出禁止令の政策を引き起こすような環境に直面してきたことはありませんでした。しかし、今日、イスラエルの一見静かな外出禁止令という政策で、全てが変わりました。(前述の)私の娘の言葉が表すように、小学校3年生でさえ外出禁止令による教育制度の中断が引き起こす構造的ダメージを感じとっています。中断の政策に付随する複雑な事柄を付け加えて言えば、イスラエル軍が道路閉鎖やチェックポイントを学生たちと彼らの学校や大学の間に設置することで、あらゆるパレスチナ人の中心地をほかの中心地と引き離す閉鎖が外出禁止令には伴うということです。実際に幾つかの村ではイスラエルのキャタピラブルドーザーが村をの出入り口となる道を掘り起こし、代わりに泥の山をおいていっていきました。これらのパレスチナの村では過去24ヶ月間「開放刑務所」となり、外出禁止令でなく「ロックダウン(監禁)」という語を用いるに値します。つまり全体の世代がシャロンによって文盲、よくいって無知という刑の宣告を受けているということは今やパレスチナでは常識です。

外出禁止令が課せられている間、昼夜問わず行われる戸別捜索という別のイスラエル軍の現象によって各家庭に与えられる恐怖を別にしても、とにかくこのように私たちは過去5ヶ月間生きてきました。私の一番下の娘の例が、外出禁止令がパレスチナの子どもに与える影響を良く表しているとしたら、それは彼女が最初に覚えた言葉でしょう。例えば「dabbabeh(戦車)」、「naqelet jonnood(装甲車)」、「tayyara(戦闘機)」などは全体の世代をリハビリさせるために私たちが直面している課題をよく表しています。僅かの望みは娘が時々イスラエル兵のことを「Ammou(おじさん)」と呼ぶことかもしれません。

この狂気の中で、家族を失ってこなかった私たちのようなものは幸運を感じています。まだ電気や水道施設がまるまる攻撃を逃れ無事だった私たちのようなものはまずまずです。まだ雇用を主張できる私たちのようなものはパレスチナにまだ関わりを持ち続けてくれている投資家たちに感謝しています。幸運で、まずまずでそして感謝できる私たちのようなものはパレスチナで急速に少数派になっています。

通りのうわさでは私たちは来たるユダヤの休日の間じゅう、24時間外出禁止令/ロックダウン(監禁)に置かれるだろいうということです。私のイスラエルの隣人が祝祭日の準備をしている時、私の娘の学校が予定通りに開いてくれたら、という夜な夜なのお祈りに彼れも一緒に祈ってくれるだろうかと思っています。それまでは、私たちは外出禁止令の合間に国づくりと続けていくことでしょう。

Sam Bahour is a Palestinian-American businessman living in the besieged Palestinian City of Al-Bireh in the West Bank. He is co-author of HOMELAND:Oral Histories of Palestine and Palestinians (1994).

(安藤直美さん訳)

 

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