Challenge No. 74 (2002年7-8月号)
安全確保を口実に境界を変更

ミハエル・シュワルツ


地図

 

イスラエルは、一部がフェンスになった防御壁の建設工事を開始し、西岸地区からの出入りを一方的に閉鎖しようとしている。工事が始まったのは、政府の認可がおりる数日前の6月13日。防御壁の大部分はパレスチナ人の土地を通っており、ユダヤ人の土地を通っている部分はほとんどない。第一期工事は、[ウンム・ル=ファヒム]の北東に位置する[サーレム]から南部の「三角地帯」に位置する[コフル・カーセム]に至る110キロメートル(68マイル)に渡って実施される予定だ(地図に記載のある地名は[ ]で囲ってある)。完成時の総延長は360キロメートルになると見込まれている。イスラエルの防衛筋によれば、電子装置を含めると、防御壁1キロメートルあたり100万ドルの経費がかかる。防御壁の大部分は鉄柱と鉄条網。いくつかの地点(ユダヤ人の町に近い場所など)では、高さ8メートルのコンクリート壁が築かれる予定。

この隔離用フェンスは専守防衛用ではなく、将来的な政治的意図のもとに建設が進められている。ところが、首相のアリエル・シャロンと国防相のベンヤミン・ベンエリエゼルは、防御壁建設は防衛目的であると主張しており、パレスチナ人自爆者を食い止めるためだと述べている。防御壁はパレスチナ人がイスラエル領内に入るのを防ぐためだが、イスラエルからはパレスチナ領内に入ることができる。イスラエルは西岸地区内で自由に行動する権利を保持しており、防御壁建設が入植地からの撤退もしくは入植地の移動を意味しているのではないかという見方は成り立たない。防御壁建設の目的は、パレスチナ人を一方的に隔離することにある。新たな境界を設定し、イスラエルが20年間に渡ってレバノンに設置したような「安全地帯」建設を目的としている。

だが、この「安全地帯」は、適当な時期がくればイスラエルに併合されるだろう。これは二大政党(リクード党、労働党)が共通に掲げるスローガン「67年の境界には戻らない!」に呼応している。イスラエルによる一方的な防御壁建設の理由はここにある。イスラエルは、「防衛の楯」作戦によって実質的に消滅したパレスチナ暫定自治政府との協議を行っていない。建設が始まって数日後の6月19日、パレスチナ人が建設作業員の重機に向けて発砲したのには、充分な理由がある。

相次ぐ自爆攻撃によって世論が硬化すると、防御壁建設のスピードが加速された。すでに述べたように、建設が始まったのは、内閣での協議が行われるより前、6月16日の公式決定以前のことだ。外見上は突然の工事開始だが、背後には90年代初期に始まる例の計画が隠れている。この計画の推進者シャロンとべンエリゼエルは、現在の防御壁建設の立役者でもある。この「セブンスター計画」は、「汎イスラエル・ハイウェイ」(建設中)と密接にからんでいる。

セブンスター防御壁

「セブンスター計画」の追随者にしてみれば、防御壁およびこれが定める新境界は目新しいものではない。この計画を初めておおやけにしたのは、ハニトッツ出版(原註1)だった。計画は当時のシャロン住宅相のもとで発案され、リクード党政府によって1991年に承認を受けた。名目上の目的は、ソ連からの大量移民用の住宅確保だった。これは単なる口実にすぎない。イスラエルの国土は中央部が狭くなっている。この部分に位置するユダヤ人入植地の東部境界線を拡張することが、本当の目的だった。これらの地域にはアラブ人の村が散在しており、「セブンスター計画」は人口のバランスを崩すためのものだった。1992年にベンエリゼエルが住宅相に就任すると、シャロンの計画および西岸地区への入植を一気に推し進めた。

シャロンが90年代初期に計画していたのは、既成事実を作ることで境界線の変更を有効なものにすることだった。計画達成の1つの手段として、グリーンライン(1967年当時の境界線)の両側にユダヤ人入植地を築き、双方を統合するというものがあった。この結果、イスラエルの「既成」境界線が東部に拡張された。二大政党はどちらも、このような「境界調整」が必要不可欠であるという点に同意した。

モディインが最大の「スター」になった。モディインはイスラエル内に建設された後、西岸地区にある2つのユダヤ人入植地(モディイン・イリットおよびキリヤット・セフェル)と行政統合された。第二の「スター」であるショーハムはグリーンライン近くのイスラエル内に建設された。これらの北に位置する[ローシュ・ハアイン]は東部境界に向けて拡張していった。

Wadi Araの南部地域では、イスラエルの計画はうまく進まなかった。資産のあるイスラエル市民は、アラブ人の多い同地域への移住を避けた。イスラエルはグリーンライン沿いに[カツィール・ハリーシュ]を建設しようとしたが、期待したような成果は得られなかった。ウンム・ル=ファヒムに近い西岸地区にある[シャケッド」、[レイハン]、[ヒナニット]の入植地もこの計画に含まれていた。これらの入植地は、予定ではスラーヤと呼ばれることになるイスラエルの新しい町と統合されて、グリーンラインをまたぐはずだった。結局、スラーヤの町は建設されなかった。

このような挫折はあったが、防御壁の建設ラインはセブンスター計画そのままだ。いくつかの例を以下に挙げよう。[シャケッド」、[レイハン]、[ヒナニット]は防御壁の「イスラエル側」、つまり西側に取り込まれることになる。同じことは、[サリット]と[カルキリーヤ]の近くに位置する[ツォフィーム]の入植地についてもいえる。さらに南では、[ローシュ・ハアイン]の近くにある[オラニット]の入植地も防御壁の西側に入ることになる。

防御壁の建設予定コースは、シャロンとベンエリゼエルとの間で折りにふれて議論されてきた(この記事の執筆時には結論は出ていない)。ベンエリゼエルは、シオニストの原理である「最大限の土地に最小限のアラブ人」に沿ったコースを想定してきた。このため、東側に位置するアラブ人の町[トゥルカレム]と[カルキリーヤ]は防御壁の東に置かれている(地図参照)。一方、シャロンは、東側への出口を一箇所に限定する条件で[カルキリーヤ]を防御壁の西側、つまり「イスラエル側」に入れようとしている。安全対策が主要目的というのであれば、この案は筋が通らない。シャロンの本意は何だろうか? [カルキリーヤ]が防御壁の東側になってしまうと、主要なユダヤ人入植地である[アルフェイ・メナシェー]も防御壁の東側に置かれることになるからだ(地図参照。なお、この地図はベンエリゼエル案を示している)。

[ローシュ・ハアイン]以南の地域を通るコースは未決定のままだ。だが、モディインの東部に「大エルサレム」の境界があることは秘密でも何でもない。この境界はラーマッラー近郊の南部、グーシュ・エツィオン(南部)にある入植地、ジェリコ周辺部(東部)を通っている。この広大な地域が防御壁で囲まれた場合、西岸地区を南北に分断する現在の動きは固定化されるだろう。

入り口も出口もない生活

防御壁の建設にともない、壁の西側で暮らすことになる何万人ものパレスチナ人はどっちつかずの中途半端な状況に追い込まれることになる。慣れ親しんできた西岸地区からは切り離され、かと言ってイスラエルに暮らすわけでもない。[バーカ・ル=ガラビーヤ](イスラエル)と隣の[バーカ・ル=シャルキーヤ](西岸地区)、[バルタア]の場合はまさにこのような状況となる。カルキリーヤの近くにある[ハブラ]も[Nazlat Issa]、[ウンム・ッリハーン]、ベイト・アブドゥッラー・ユーニスと同じ運命だ。多数のパレスチナ人集落は防御壁の「東部」に位置することになるが、農地の多くは防御壁の西部に残されることになる。(訳註:現在はヨルダン川西岸地区内部に位置するが、壁の建設によって集落が「東部」、イスラエル側に入る)

イスラエル領内にあるアラブ人の町や村も、かなりの土地を失うことになる。確かに、防御壁の大部分は西岸地区内を通る予定になっている。だが、[ウンム・ル=ファヒム]では、防御壁が町の東側かつグリーンラインの西側を通ることになり、町民の所有地250エーカーを分断してしまう。[サーレム]などの村にしても、残されていたささやかな土地の幾分かを失うことになるだろう。

防御壁が建設されると、[サーレム]などのアラブ人集落に暮らす住民は、結婚によってイスラエルの身分証明書を所持している西岸地区の親戚から切り離されることになる。たとえば、防御壁の建設以前には、ジェニン出身の既婚女性が[サーレム]に住む親戚を訪問しようと思えば、10分ほど車を走らせてから徒歩で境界を越えればよかった。また、他の村にいる親戚を訪ねるには、20分も歩けば充分だった(囲み記事を参照)。

防御壁は混乱を助長する

イスラエルの世論は防御壁の建設を支持している。世論調査によると、ユダヤ人口の60パーセントがこれに賛成している(6月17日付、ハ=アレツ紙)。防衛上層部はこれの建設を勧めており、経済上層部は防御壁によって経済が安定すると考えている。だが、専門家筋は、防御壁の建設によって生じる影響は、むしろ心理的なものだと指摘する。防御壁が完成しても自爆者は入ってくるだろう。イスラエル国民は厳戒態勢を維持しなくてはならず、必然的に経済は停滞するだろう。

政治的には、防御壁建設をめぐって、左右両派内部で分裂が生じている。一部左派は、1967年当時の境界に復帰するという理由で防御壁建設を支持している。これと全く同じ理由で、一部右派はこれに反対している。

6月18日付のハ=アレツ紙は、「防御壁、欠点はあるけれど」と題した社説で、問題はあるとしながらも以下のように主張した。「直接的な安全保障というメリット以外にも……(防御壁は)二つの民族と地理的なまとまりを分断することに、明白な現実性を与えるだろう……革命的な変化がもたらされる可能性もある。物理的変化が心理的変化を生み、この結果、かねてよりの懸案であった政治的変容を取り戻せるかもしれない」。同社説はイスラエル人に向けて、「防御壁の建設を最優先事項であると見なして、工事を早急に完成させなくてはならない」と呼びかけた。

しかし、この工事はベンエリゼエル側の作戦にすぎないと考える人も多い。防衛相ベンエリゼエルは労働党の党首でもあり、党内ではライバルのハイム・ラモンと張り合っている。数ヶ月前、ラモンは、防御壁の建設を労働党の主要政策にしてはどうかと提案した。ラモンによれば、防御壁の建設はさらに大きな計画の一部であり、いくつかの占領地区からの全面撤退や孤立した入植地の解体をにらんだものだという。ラモンの論理は単純明快だ。今や、パレスチナ側には一人のパートーナーもいない。したがってイスラエルとしては、一方的に安全を追求しなくてはならず、政治的合意を待たずに大半の占領地区から撤退すべきだというものだ。自爆攻撃が激化している状況にあっては、このような大衆迎合主義は効果的だ。ラモンは、党首選に向けて確かな手ごたえをつかんだようだ。

その場しのぎの政策にかけては、ベンエリゼエルもラモンと変わらない。防御壁建設構想に人気が集まってくると、ベンエリゼエルはこれを採用した。ただし、ラモンが主張する、入植地からの全面撤退および入植地の解体については、先送りとした。

右派は、入植地の現状維持という条件付きで、一方的な分断という考えに賛成している。クネセト議員ミカエル・エイタンは、防御壁建設に賛成だ。入植者のための「イェシュア委員会」の指導者、ピナス・ワレンシュタインとBentzi・リーバーマンの二名も支持を表明している。両者によれば、防御壁は「安全のための壁であり、将来の政治的境界ではない」(6月18日付、ハ=アレツ紙)。

防御壁に反対する人々は、極右派と極左派に属している。片方の極にいるのは、クネセト議員エフィー・エイタンに率いられた強硬派の入植者たちだ。彼らは、防御壁は、彼らの「大イスラエル」構想に限界が定められるとらえている。もう一方の極にいるのが、ヨシー・サリッドとヨシー・ベイリンだ。彼らは、この工事が一方的なものであり、パレスチナ人と協議の上で決定すべきであるとして反対を表明している。だが、後者の立場をとる人は少数だ。その理由は、(アメリカ大統領ジョージ・ブッシュのみならず)イスラエルの民衆が、パレスチナ暫定自治政府との協定締結および、パレスチナ人との平和的共存にかける期待を完全に失ってしまったことにある。現在のイスラエルでは誰もが、もう少し穏やかな暮らしをしたいと望んでいる。

イスラエル内のアラブ人については、最高監視委員会が6月15日に召集されて、防御壁への反対を表明した。パレスチナ暫定自治政府との協議が行われておらず、国際的な承認も受けていないというのがその理由だ。委員会の報道担当者が語ってくれたところでは、この見解は委員会独自のものであり、同委員会はパレスチナ暫定自治政府と協議したわけではないという。だが、このような公的見解にもかかわらず、アラブ人指導者の多くは、イスラエル側に取り込まれるアラブ人の土地を押収しないという条件付きで、防御壁建設に賛成している。

両政府がともに制御力を失っているという現状そのままに、防御壁をめぐっては多方面で混乱が生じている。イスラエルが、第一次インティファーダ後に平和へのきっかけをつかんで、1967年の占領地区内にある入植地の解体と撤退を実施していたら、今になってこのような防御壁を作る必要はなかっただろう。それどころか、双方ともに自立経済を確立し、両者の間を人々が自由に移動していたはずだ。とりあえずは、防御壁の建設によって、自爆者がイスラエルに入ってくることはいっそう困難になるだろう。だが、全体的な影響を考えるなら、イスラエルに入ろうとする人間の数は増えるだろう。防御壁の建設によって、35,000人のパレスチナ人労働者が締め出されることになるからだ。壁ができる前であれば、チェックポイントの周囲に集まってはイスラエル内での仕事を見つけ、食糧を手に自宅へ戻っていくことができた。だが、子どもたちを養えなくなった今、自爆志願者の数が増えたとしても、驚くにはあたらない。このような現状では、防御壁を建設しても待望の平和は訪れない。それどころか、両者間の暴力闘争が新たな段階に突入するだろう。

(西尾ゆう子さん訳)

【原註1】
Assaf AdivおよびMichal Schwarts "Sharon's Star Wars: Israel's Seven Star Settlement Plan" Jerusalem, Hanitzotz A-Sharara Publishing House, 1992 (英語版)。アラビア語版は1991年に出版された。

 

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