Challenge No.75(2002年9-10月号)
アル=バカーのサマーキャンプ:ガッサン・カナファーニーとナジー・アル=アリーの再会

Orit Sudri著
明城和子さん訳


 

この6月、ヤーファ、マジダ・ル=クルームそしてナザレの子供たちは1週間のキャンプを楽しんだ。キャンプを運営したのは、ヤーファとマジダ・ル=クルームで、何年も子供の教育に携わってきたアル=バカー・センターと、ナザレに本部を置き、労働者やその家族を守る活動をしている非営利団体のWAC[ワーカーズ・アドバイス・センター]だ。3つのセンターは今年の初めから、キャンプで子供たちが教育的でしかも楽しい体験ができるように、連携して活動してきた。もう1つ、アル=バカー・センターとともに育ってきた大勢の若者たちが、今年は常勤スタッフと一緒になって子供たちの面倒を見る指導員になるという点でも、このキャンプは注目されていた。

ヤーファ・キャンプの最初の日には、私たちは子供を年齢別に3つのグループに分けた。それぞれのグループにトレードカラーがあったが、グループの名前は秘密にしてあった。そうして、子供たちの宝捜しが始まった。それぞれのグループは、渡されたリストにのっている、よく知られた場所に行かなければならない。その場所ごとにグループのトレードカラーに塗られた、ヒントを書いたメモがある。地中海を見渡す丘のオリーブの木に隠されて、グループの色の「オリーブ」があり、この「実」に、ヤーファの情報が書かれている。最も小さい6-7歳の子供のグループは、街の名が”jamila[ジャミーラ]”、「美しい」という意味からきていることを発見した。子供たちはヒントをたどり続け、ついに古い港の灯台で宝、つまりグループの名「船乗り」を見つけた。8-9歳児のグループは「海の花嫁」という、ヤーファのもう一つの名前を突き止めた。一番年長のグループが見つけた、自分たちのグループの名は、「ガッサン・カナファーニー」だった。

イスラエル教育省が決めたカリキュラムにしたがっている学校では、アラブの子供たちはアラブの伝統や偉人たちのことを学ばない。たとえば、ガッサン・カナファーニーは、重要なパレスチナ革命思想家であるのみならず、小説家・演出家でもあった。最年長グループの指導員を務めるアル=バカー・センターのラーファ・ハッターブはいう。「年長の子供たちは彼の業績を通じて、彼が私たちの民族の抵抗の中で果たした役割、さらにはヤーファの歴史についても知識を深めることができます。人は2通りの方法で学ぶことができるのです。1つは本から学ぶ方法ですが、このやり方では子供たちの多くは退屈してしまうようです。もう一つは絵、劇、歌、対話を全部組み合わせたものを通して学習する方法です。宝捜しを通して、子供たちはヤーファがかつては今のように注目もされない、貧しい町ではなかったことを学びました。街はパレスチナの主要な商業中心地だったのです。周りの村も合わせれば、1948年の戦争の前には人口は12万人を数えました。今日では荒れ果ててしまっている港も、当時は大規模な漁業産業が発達し大変な活況を呈していたのです。しかし、1948年の住民の追放の後には、3千人しか残りませんでした。キャンプの参加者たちは、他の人たちはどうなったのかたずねました。カナファーニーはそういった難民の一人だったのです。私は、彼の生涯の業績についてのクイズを使ってパズルを作りました。これを解いていくことを通して、子供たちは彼が12歳の誕生日に、つまり自分たちと同じくらいの年でパレスチナから追い出されたことを知りました。そのことで、子供たちは彼に強い親近感を持ったようです。」

(ガッサン・カナファーニーは1972年、レバノンで殺害された。多くの人は、それが当時イスラエルのモサド[諜報機関]が実行していた、一連の暗殺の1つだったと考えている。)

マジダ・ル=クルームのキャンプでは、「ハンダラ」として知られているキャラクターが、3つのキャンプ合同のお祭りで演じられる劇の主人公になった。最終日のお祭りの会場、ルビア・ウッズは、1948年に住民が追放された村の廃墟のすぐ近くにある。

ハンダラは漫画の登場人物で、パレスチナ人の諷刺家、ナジー・アル=アリーが自分の絵に記した署名のようなものだった。パレスチナ人の少年がこちらに背を向け、両手をきつく組んでいる。「いつになったらハンダラの顔を見られるのか?」という質問に、彼は「ハンダラがパレスチナに帰れるまでは見られない」と答えたと言う。(後の記事参照)

彼自身ガリラヤからの難民だったナジー・アル=アリーは、一生パレスチナに帰れなかった。彼は1987年6月、ロンドンで殺害された。犯人は、誰も知らない。しかし、彼はマジダ・ル=クルームの子供たちの心の中によみがえった。劇では、ハンダラが故郷に帰ってきて、パレスチナのあちこちのことを子供たちにたずねる。その後、今度は子供たちが世界中の革命家、たとえばチェ・ゲバラのことをたずねる。

子供たちの身近な人やテーマから始めて、そこから普遍的なことへ広げて考えていくことが、キャンプのアイデアだった。指導員のマナル・ヤボルは言う。「ナザレでは、私たちは70年代と80年代にこの町の市長だったタウフィーク・ジアードに焦点を当てることにしました。ジアードは強い愛国心を持った詩人で、アラブ世界全体で詩才を認められた最初の2人のパレスチナ人の詩人の一人でした。彼は共産党に加わっていました。1976年3月30日、土地の日の総ストライキを組織し、イスラエルのアラブ人を受身の姿勢と無力感から目覚めさせた中心人物でもありました。」

ナザレのキャンプで、年長の参加者は自分たちのグループを「手に手を取って」と名づけた。子どもたちは、劇の中で、アラブ人労働者が受けてきた搾取を表現した。

小旅行やプール遊び、美術プロジェクトや劇に加え、私たちは科学の大切さも忘れなかった。3つのキャンプはどれもハイファの科学博物館を見学した。ヤーファ、アル=バカー・センターの若者グループから指導員として参加した15歳のジャミーラ・アイーシュは、この経験についてこう言っています。

「プールに入る日には、日射病にならないように水分をたくさんとって、日陰にいなくてはなりませんでした。でも、科学の日には、日光はとても役に立つものでもあることを再認識しました。科学博物館では、様々な電力のことを学び、電気回路を作ることもできました。暗室では、子どもたちは水晶玉が電気でいっぱいになっているなんてとても信じられませんでした。私たちは太陽光発電について勉強し、光の力だけでどうやって電気仕掛けのからくりを動かすかを学びました。私も全部はわからなかったので、博物館のガイドさんをずっと質問攻めにしました。とても面白かったです。私たちは何が起こるか確かめようとボタンを全部押し、押す度にびっくりしました。人骨を見たときには、子どもたちは怖がりましたが、私たちがなだめると、皆笑い出しました。ものがどうやってつくられるかを見るのは、子どもたちにとても大切なことだったと思います。私たちは、棒と糸から楽器を作る方法も学びました。」

社会の子供に対する態度は、社会をはかる物差しである。アル=バカーのキャンプでは、子どもたちは個人としてもグループの一員としても、他者との特別なつながりを感じることができた。「子どもたちは何かを言いたがっているし、私たちはそれを聴きたいと思っている」これが指導員たちの共通のモットーだった。これは、子供が考え、答え、創造することができる環境をつくる、という私たちの大原則の一つを体現している。

刺激的な一週間を過ごした後、ガッサン・カナファーニーと名づけられたグループは、キャンプ全体としてヤーファに贈り物をすることにした。子供たちは、アル=バカー・センターの子供たちが3年前に見つけた「夢の庭」の壁に、カナファーニーの肖像を描いたのだった。


ハンダラの誕生−ナジー・アル=アリーの文章から−

私が政治への意見表明として絵を使い始めたのは、レバノンの監獄に入れられたときだった。60年代に、パレスチナのキャンプの政治活動を押さえ込むのにドゥジューム・ビューロー(レバノンの情報局)がとっていた施策のおかげで、私はビューローに拘束されていた。私は監獄の壁に絵を描いたのだが、続いてその幾つかを見た、ジャーナリストでアル=ホッリーヤ[自由]誌の発行者でもあったガッサン・カナファーニー(1971年にベイルートで暗殺)が続けるようにと励ましてくれたのだった。最終的に、彼は何冊か私の漫画を出版してくれた。

(ここまで、http://hanthala.virtualave.net/hanthala.htmlより引用)

私には、いっしょに働き、抵抗し、投獄されていたのに、ある日突然ビジネスに精を出し株に投資する「タナーベル」(ばか者・筆者注)になってしまった友人が何人もいた。私は、自分もそのうち「タナーベル」になって消耗してしまうのではないかと心配になった。湾岸地域で、私はこの子供を生み出し、人々に差し出した。彼は、彼を大事にする人たちの手にゆだねられているのだ。私は彼をハリネズミのようなとげとげの髪型の、醜い子供として描いた。ハリネズミは、とげを武器に使うからだ。

ハンダラは、甘やかされて肥えた、何不自由ない子供ではなく、他の難民キャンプの子供たちと同じようにはだしだ。彼の姿が、私を過ちや混乱から守ってくれる。彼は決してかわいらしくはないが、無垢な心と、麝香やアンバーのように薫る良心を持っている。彼のためなら、彼を傷つけようとするものを殺すことを、私はためらわない。この国が、アメリカと彼らの言う「システム」から提供された「解決策」にしたがっているこの時代、彼の両手は拒絶のしるしとして背で組まれている。

ハンダラは10歳の子供として生まれ、ずっと10歳でありつづける。その歳で、私は故郷を離れたのだ。ハンダラがパレスチナに帰れたときに初めて、彼は成長を始め、10歳をこえて大きくなる。自然法則は、彼には当てはまらない。彼は時間法則の例外であり、パレスチナに帰れて初めて、彼の世界は普通の時の流れにのって動き始める。彼は私自身と、私たち皆がおかれている状況で生き、耐えている全ての人を代表するシンボルなのだ。私は彼を読者に提供し、苦しみのシンボルとしてハンダラと名づけた。

「諷刺画の政治的役割とはなんだろう?それは、新しいアラブ人の誕生を述べ伝え、人々を煽動することだ。煽動は、ずっと昔からよく知られている諷刺画の役割だ。スルタンの前で、何が正しいか話すことは正しくないだろう?(補足1) 諷刺画は人生をありのままの姿でさらけ出し、一連の人生を開かれた空間、皆が通る路上に撒き散らす。どこだろうと人生を見つけると捕まえて、ごまかす余地がなく、欠点を覆い隠す余地もないところへ持っていき世の中に明らかにするのだ。私の考えでは、諷刺画は希望、革命、そして新しい人間の誕生を述べ伝えるのだ・・・」

私はクウェートでハンダラを身ごもり、生み出した。私は波が彼を私から奪い、パレスチナから遠く離れたところに連れて行ってしまうのではないかと恐れていた。ハンダラはパレスチナに対して誠実で、私が変わることを許さない。彼は、私が臆病になったり、後退したりしそうになるのを止めてくれる。皆が彼の顔を見られるのはいつの日だろう?それは、アラブの尊厳がもはや脅かされず、自由と人間性を取り戻したときだ。しかしながら、一番大変なのはあらゆる抑圧につぶされずに、抵抗しつづけることだ。彼は過去何世代にわたって死ななかった、今後も死ぬことはない証言者だ。彼は永遠の存在なのだ。

ハンダラを創ったのは私だが、私が死んでも彼が死ぬことはない。こう言うことが誇張にならないことを願う。私は、死んでからもハンダラとともに生き続けるのだと。

(出典:"Naji al-Ali al-hadiye lam tasal ba'ad" 1997, Dar al-Karmel Lilnasber wal tawzieh, Amman).

 

補足1:出典(アラビア語)では、「私たちは不正義なスルタンの前では真実の言葉を話す必要はないのか? 風刺、ここでは真実の言葉が要求されている......多くのスルタンの前で。」と書いてある。英訳の際に抜けたと考えられる。(補足のみ皆川万葉)

 

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