Challenge No.77(2003年1-2月号)
オリーブを喰う壁 〜西岸の町カッフィーンから〜

ハダス・ラハブ著・明城和子訳


地図

 

「ガリラヤのシンディアナ」は、イスラエルで唯一、フェアトレードの原則に基づいて活動する非営利組織だ。2002年のオリーブ収穫期にパレスチナ人農家が受けた損害の報告を聞き、ヒターム・ナアムネーハと私はカッフィーンの町を直接見に行くことにした。イスラエルはいま、1967年の境界線の東側で、この村の土地を通る「分離壁」を建設している。カッフィーン地域では、幅百メートル、長さ6キロの土地が、壁とその付属物で占拠されている。

カッフィーンにたどり着くのは簡単なことではなかった。私たちがカッフィーンに向かった12月8日はムスリムにとっての祭りイード・ル・フィトルの最終日で、西岸は完全に封鎖されていた。私たちは1967年の境界線(グリーンライン)のふちにある西岸の町、バーカ・ッ・シャルキーヤの市場にある軍検問所を通過しようとした。眠たげな兵士たちは私たちを通そうとしなかった。彼らはもう「閉鎖」とヘブライ語でかかれた札を立てていた。つまり、もう今日は通す気はないということだ。

2人の兵士がライフルを手に市場を歩きまわっているので、商人たちは店を閉めていた。祭りの最中なのに、バーカ・ッ・シャルキーヤの通りは空だった。

私たちと同行してくれた人はグリーンラインをはさんで隣にあるバーカ・ル・ガルビーヤから来ていた。彼は検問所を避ける抜け道を知っていた。私たちは別な入り口へ向かったが、そこは土砂の山でふさがれていた。いたちごっこの中で、今回は軍が勝ったというわけだ。

私たちはあきらめなかった。私たちは、カッフィーン付近の壁の建設にあたって、イスラエルが何千本ものオリーブの木を引き抜き、村人の土地のほとんどを没収したという報告を受け取っていた。(分離壁については、『チャレンジ74号』掲載「今すぐ壁を!」を参照のこと)私たちはそれを直に確かめないわけにはいかなかった。

同行者は、なんとしても私たちを通すと腹を決めていた。何度か失敗した後、わたしたちは野菜畑や果樹園の間を行く道を見つけた。途中、畑を灌漑する井戸のそばを通った。電動の井戸は大きな音を立てていた。それは、(標識によると)「水資源アクションプログラム・パレスチナ水文[すいもん]学モニタープロジェクト」によって管理されている5つの井戸の1つだった。壁がここまで来ると、5つの井戸は全て、バーカ・アッ・シャルキーヤの人々とともに、その西側[イスラエル側]に置かれることになる。西岸から切り離されてしまうということだ。水はイスラエルが持っていく。人々がどんな社会的地位を得ることになるかは不明確だ。

バーカ・アッ・シャルキーヤの2キロほど北のあたりから、トラックやブルドーザーが見えてきた。イスラエルの国防省に雇われた工事請負業者は、1月28日の選挙の前にかなりの長さにわたる壁を公開したいと考えている。彼らは忙しく働き、果樹園を根こそぎにして大地に裂け目を作っていた。

私たちはカッフィーンに到達した。村は小さな緑の丘にある。そこは牧歌的な静けさに包まれていた。壁の建設工事が始まるまでは。

オスロ合意の取り決めによれば、カッフィーンはエリアBにあり、民事司法権はパレスチナ当局(ごみ箱にそのロゴがついている)に、治安のコントロールはイスラエルに、それぞれ属する。村の土地は

エリアC、つまり完全なイスラエルの支配下にある場所に位置する。

カッフィーンに住む55歳のジャミーラ・アブ・トーマは、11人の子供を育ててきた。今ほど大変な状況はかつてなかった。彼女のほかの家族を含めると総勢20人の一家は、生活のすべを失ってしまったのだ。彼女の夫のマアルーフはバーカ・ル・ガルビーヤから来た難民だったが、彼は1948年に、衣類だけを背負ってカッフィーンにやってきた。年月が過ぎ、彼は何とかオリーブの植えられた20ドナム(5エーカー)の土地を購入した。ここから年平均1500リットルのオリーブオイルが取れ、それが一家の収入の大部分を占めていた。ジャミーラは次のように言う。「今年は大変な豊作だったのに、300リットルしか取れなかった。9月には、もうすぐ壁の建設が始まって木が引き抜かれるといううわさが村に広まった。村人はオリーブを失うことを恐れて、ここでは11月にあたる収穫期より前に実を摘み始めた。私たちの土地は壁の作られているところの西側[イスラエル側]にある。もし収穫期を待っていたら、収穫はできなかっただろう。急いで摘まなければならなかったので、私たちは収穫の一部を報酬にして人を雇った。武装した兵士が、私たちが働いている周りをパトロールしていた。彼らは時には私たちを退去させ、時には催涙ガスを使い、時には家の中に縮こまっていることを強制した。」

これらの困難に加え、もう1つの困難がおきた。この困難はすぐに西岸一帯に広まった。それは入植者の問題だった。ジャミーラは続けた。「村人の一部は、入植地のヘルメッシュとメヴォ・ドータンの近くにオリーブ畑を持っていた。毎年、そこの持ち主は収穫の一部と引き換えに、私たちに収穫を手伝わせてくれた。それが、収入を増やす手段だった。今年は誰も、決してその畑に入ろうとはしなかった。入植者が、誰であれ近づくものには石を投げ、時には銃撃することもあったからだ。オリーブの実は、入植者が盗んでいったもの以外は、木になったまま腐ってしまった。」

数年前には、ジャミーラの子供のうちの3人が毎日イスラエルに出稼ぎに行っていた。3人合わせた収入は月7000シュケル(およそ1400ドル[17万円])に達し、生活していくには充分だった。インティファーダ以来、彼らは[イスラエルへの]入国を許されていない。その一人、アンワール(26歳)はテル・アヴィヴの建築現場で働いていた。2年前、彼は就労許可なしで働いて逮捕された。制限命令のため、彼はイスラエルに7年間入国することが出来ない。

私たちはアンーワルと共に、壁が作られている地点へ出かけた。道には木の切り株が散乱していた。私たちは建設現場の500ヤードほど手前で止まった。子供たちが地面に座って、ブルドーザーが仕事を進めるのを眺めていた。私たちは、彼らに何をしているのかとたずねた。何も、と彼らは答えた。「行動」を待っていたのだ。彼らはそのまま眺めつづけた。

私たちは、自分たちだけで壁の方へ向かった。壁がオリーブ畑に与えた被害を写真に収めようとしていると、丘の上からの声が私たちの足を止めた。「そこから出て行かなけりゃ、降りていってお前のカメラをぶち壊すぞ!」それは私服の警備員だった。すぐさま2人の兵士が彼の隣に現れ、ライフルの照準を私たちに合わせた。私たちの後ろにいた子供たちは一目散に逃げ出した。何人かは石を握っていた。私たちは後ろに下がった。

かつてはカッフィーンのオリーブ畑がカイサーリーヤ[カイザリヤ:テル・アヴィヴの北部]の砂浜まで広がっていたと、ワジーフ・サッバーフ(68歳)は言う。彼は語る。「イスラエルが彼の家族から1948年以来奪った600ドナムの土地のどの部分のことも私は忘れない。」彼はオリーブの枝の山のそばに立ち、自分がどれだけのものを失ったのか、把握しようとする。「1948年の後、私たちは先祖伝来の240ドナムのオリーブ畑をまだ持っていた。今では壁がそれを全て持っていってしまった。30ドナムは壁の建設予定地にあるし、209ドナムは壁の向こう側にある。今では1ドナムしか手元に残っていない。」

ワジーフは、1年前に3000ヨルダンディナール(4200ドル[50万円]、西岸の農家にとっては莫大な額)を投資して、新しくオリーブを植えるための土地10ドナムを準備した。これが全て水の泡になってしまった。木を引き抜いた請負業者は移植するのに50本の木を返したが、彼にはもう植える土地が残されていない。

村議会の長、タイシール・ハラーシャは、「何千本ものカッフィーンの木が、壁の建設が始まった9月15日以来引き抜かれています。持ち主に返されたのはわずか10%ほどです。残りは請負業者が盗んでイスラエルで売っているのです。」と私たちに話した。イエディオット・アハロノート紙は、11月22日の週末増刊版で、この現象について報じた。「過去数ヶ月で、壁の建設過程でパレスチナのオリーブの木が何千本も引き抜かれた。控えめな見積もりでも、過去数ヶ月で少なくとも2万本が引き抜かれた。一部は引き抜く途中で破壊され、一部はパレスチナ人の持ち主に返された。そしてかなりの数がイスラエルの養樹園に売却された。」

土地の没収を指示する政府の命令では、引き抜かれた自分の木は農民に返還されると明記されている。しかし、ワジーフ同様、彼らにはもはや木を植える土地が残っていない。そうなったら売るしかない。パレスチナ農業省からのこんな統計もある。このデータは世界銀行の、占領地の経済状況に関する報告にも取り上げられた。過去2年間で、イスラエルは16万本のパレスチナのオリーブの木を引き抜いたという(同イディオット・アハロノート紙11月22日)。理由は様々だ。軍事目的、バイパス路の建設、入植者の攻撃、そして今度は壁。

カッフィーンの村民は八方手を尽くして、近づいてくる壁を阻もうとした。イスラエルの裁判所に訴えたが無駄だった。抵抗のデモンストレーションは力ずくで解散させられた。パレスチナ自治政府へ支援してほしいと訴えても、返事は来なかった。ハラーシャは、「結局、私たちは農地の80%を失ったのです。全てオリーブ畑です。私は、おおよそ750の、壁のおかげで損害をこうむった一家を知っています。その一部には生活手段が何も残されていません。正式に土地が没収されたのでなくても、現実にはもう完全に失われてしまったのです。」

現時点では、壁と境界の間に位置する800メートルかそれ以上の幅の土地がどうなるか、村民たちはわからない。2002年8月8日に、イスラエルは土地を没収するよう議会に命じた。この命令によれば、その地域の村に1つずつ、計7つの門が作られるという。自分の土地に行くには、どの農民も軍からの許可を取らなければならない。ハラーシャは、この仕組みは現実には働かないという。「軍は自分の優先事項に応じて、特定の日の特定の時間に特定の相手に限定して許可を出すだろう。そんなことをすれば、結局農民たちは絶望し、土地をあきらめてしまうようになる。」

メツェル・キブツはカッフィーンの3キロ西、イスラエル領内にある。首長のドロン・リベルは私との電話で、意気消沈した様子だった。彼はハラーシャの意見に賛同する。「国防省の約束には中身なんてない。壁の西側にあるカッフィーンの土地は、政府の近くにいる者の手に落ちてしまうだろう。誰かがその土地の支配権を手に入れる。それがこの国で事が進んで行くやり方なんだ。ただ、誓って言うが、それは私が率いるキブツではない。」

リベルは、壁を境界より東[パレスチナ側]のカッフィーンの土地に建設することを政府に思いとどまらせようとするキブツ内の運動の先頭にたった。キブツの住民たちは、壁が正確にグリーンライン上に作られることを望んでいた。壁がグリーンラインを越えたりすれば、彼らと村民の間の良好な関係が崩れてしまうと、彼らは危惧する。予測を的中させることになる記事の中で、リベルは壁が最終的には彼のキブツに対しても損害を与えると批判した。「・・・これら全て(良好な関係−筆者)は終わろうとしている。彼らの生命が危険にさらされているときには、私たちの命も危険にさらされているからだ。彼らにかけられている圧力はとても耐えられないようなもので、その圧力がこちらにまで蔓延するであろうことに疑いの余地はない。」

リベルは2002年10月11日のハアレツ紙週末増刊号でこの主張を表明した。11月10日、西岸のパレスチナ人がメツェル・キブツに侵入し、2人の子供と彼らの母親を含む5人の住民を殺害した。キブツは自己抑制で応え、軍に報復しないように頼みさえした。しかし、今日ではリベルは声をひそめている。カッフィーンの問題は棚上げにされようとしていると、彼は私に言った。1つにはテロ行為が、もう1つには政府の閉鎖的な思考が、このキブツの人々の立場を時代から外れたものにしてしまった。リベルはもう、壁の経路を変えられるとは考えていない。分離そのものについては、他のイスラエルの左派の人々同様、彼は全面的に賛成している。彼はこれ以上の[壁建設の]遅延の責任を取ることを望んでいない。たとえ隣人が苦しむことになったとしても。

カッフィーンに壁を作るという決定は、村民と彼らの土地を分断するというばかげた状況を作り出した。イスラエルの35年の占領[1967年戦争以降]の中で引き起こされたゆがんだ創造物の中でも、これは最もグロテスクな部類に入るだろう。カッフィーン村議長はこの事態を次のように言う。「私たちは新しい種類の難民だ。自分たちの家にとどまっていながら、土地から追放されているのだ。」

 

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