Challenge No.82(2003年11-12月号)
段ボールの上で寝る--ラマット・ガン公園の不法パレスチナ労働者--

筆者:アスマ・アグバリーエ


彼らは分離フェンスをすり抜けて、何キロも丘を越えて歩いてきた。飢えと失業という現実から逃れるために。こうしてヨルダン川西岸地区から労働者らが、テルアヴィヴ地区にたどり着き、子どもたちに食べさせてやるパンを探し求めるのだ。夜には、木立のあいだ、砂利の上に段ボールを敷き、そこで眠る。労働許可がないので、いつ警官から殴られ屈辱を受けるかわからない。しばしば彼らはイスラエルから強制退去させられるが、また戻ってくるまでのことだ。


彼らと同じく私たちも5時半に起きた。テルアヴィヴ郊外のラマット・ガン近く、ゲーハ・ジャンクションに彼らは集まると聞いた。それで私たちもそこに向かった。私たちはあちこちの街角を探して歩いたが、誰も見つけられなかった。が、その後次第に木立の中から、人びとが現れ始めた。食べ物の入ったビニール袋を片手に、そして今日この日仕事が見つかるという期待を胸に。

およそ200人がいるが、その大半はナブルス地区からの建設労働者である。毎週日曜日に彼らはこのジャンクションに来て、木曜日に西岸に帰っていく。オレンジ色のID(訳者註:占領地のパレスチナ人IDの一つ)とは別に、ナブルス地区の(パレスチナ・イスラエル間の)連絡調整機関から発効された、「品行方正証明書」も携帯していた。この証明は、あくまで治安上彼らが問題ないということを示すだけで、イスラエルに入ることを許可するものではない。情勢が悪化し続けるかぎり、イスラエルに入る許可証を手に入れる夢がかなうことはない。

彼らが自分の生活について私たちに語ってくれているあいだ、彼らの目は近づいてくる車を追っていた。仕事を期待して。

 

ヴィア・ドロローサ

ムハマンド・ファラーハ・マスード(45歳)は、このジャンクションに25年通い続けている。建設労働をしながら、10人の家族を養っている。ナブルス近くの彼の村ザアタラからラマット・ガンへの道のり(約35マイル)は、さまざまな困難との闘いの連続だ。

「私は日曜の朝6時には家を出るが、それはここに午後1時に到着するためなのだ。中には早朝3時に出る人もいる。最初はナブルスからのバイパスを走り、ザアタラ(ナブルスの南)からカラーワまで、そこからアッズーン・アトメーハ(さらに南西方向へ)まで。フォード製の乗り合いタクシー(訳者註:パレスチナで10人乗りのタクシーはフォード製が多い)はそこで私たちを降ろし、そこから約3時間歩く。オリーブ林と畑の中を歩き、分離フェンスの新しいゲートのところまで。そこからコフル・カーシム(カルキリヤの南、イスラエル側)に行き、そこで私たちはイスラエル側の乗り合いタクシーを拾う。それでようやくこのジャンクションまで来られるのだ。その道のり全体で、7時間と70シェケル(約1800円)がかかる。」

私たちはどうやってフェンスのゲートを通過するのかを聞いた。

アクラバ(ナブルス近くの村)出身のアベッド・アル・ハミッド・カーシム(55歳)が言う。「ヤツらがフェンスの高さを50メートルまで延ばしたとしても、我々はそれでもテルアヴィヴまでの道を見つけてみせる。フェンスの下を掘らざるをえなくなっても。フェンスなぞに、我々を生活手段から切り離すなんてことはさせはしない。」

みんなの意見が一致していたのは、フェンスはイスラエルの治安とは何の関係もないこと。壁には政治的な意味があるのだ。その目的は、パレスチナ人を土地と権利から引き離すことだ。

 

段ボールのベッド

「侵入者」らは、ゲーハ道路近くの公園で眠る。これは大きなハイウェイで、明け方近くなるまで交通量が多い。

ムハマンド・マスードが語る。「夜の10時頃まで働くこともある。一日働いた後には、当然体を洗って、きれいな服に着替えて、晩ご飯を食べたい。だけれども、こんなふうにして木立のあいだで、砂利の上に段ボールを敷いて寝て、しかも布団も屋根もないなんて生活を、まともな考えの人は誰も選び取りはしないだろう。我々が小さなスーパーで買う食料は、トゥヌーヴァ・クリームパンだ。(トゥヌーヴァはイスラエルの主要な乳製品工場であり、そのクリームパンは、イスラエルによる占領の開始以降、何千人ものパレスチナ人労働者らにとっての 主食になってきた。)」

時折、深夜1時とか2時に、警察官が現れては、労働者らを逮捕していく。そしてクファル・カーシム近くの67年境界線(グリーンライン)まで連れてゆき、そこで解き放つが、結局数日後には同じ場所にまた戻ってくるだけのことだ。そして、こうして警官が現れるときには、たいていは殴られ屈辱を受けることになる。労働者らの中には、「盗られる金すらもない」と言う者もいる。

ナブルスから来ているムハンマド(34歳、姓は本人の希望で伏せる)は、頭にある傷を指さした。「二週間前、警官に呼び止められた。逃げようとなんかしなかったのに、警官らの一人がいきなり後ろから真鍮製のナックルで頭を殴りつけてきた。その警官が自分を消火栓の水道のところまで引きずっていき、血を洗い流した。どうして殴ったのかと聞いたら、『おまえはユダヤ人殺しだ』という答えが返ってきた。働きに来ただけで、何か悪いことをしたか、と言い返した。ヤツらはすべてのアラブ人を憎んでいるんだ。」

ナブルス近くのアワルタから来ているワリッド(35歳、姓は本人の希望で伏せる)は、4児の父である。「9月29日に、雇用局の査察官らが無許可労働者を調べにやってきた。いっしょに来たイスラエル兵が、われわれのIDを破り捨て、容赦なく殴ってきた。そして何人かを墓地に投げ捨てていった。こっちには13人もいたけれども、何もできなかった。あまりに無力だ。」

「まるで狩の獲物のようだ」と、テルアヴィヴで働くパレスチナ人労働者アリ(27歳、姓は本人の希望で伏せる)が語る。彼は結婚していて、子どもも一人いる。「普通は、道路を渡る前に左右を確認する。でも自分たちはテルアヴィヴにいるときには、つねにどこでも左右を確認しているんだ。我々の人生は巨大な交差点みたいなものなんだけれども、しかし行った先にはどこにたどり着くこともない。」

 

集合場所から労働現場へ

毎日、労働者らは公園を出発して、工事請負業者らに知られているある場所に集まる。来るのはたいてい小さな会社の請負業者だ。賃金を安く抑えるために、リスクを冒してでも不法労働者を雇おうとするのだ。不法外国人労働者もまたここに来る。請負業者らは朝の7時ころに現れはじめ、その時から本当の闘いが始まる。ここに来るまでの困難な道のりと野外宿泊が、その苦労に値するものであったかどうかが決まるのだ。彼らが仕事を見つけられる保証はない。

ナブルス近くのサーリム出身のアベッド(姓は本人の希望で伏せる)は34歳で、8人の子持ちだ。彼は「働けるのは週に二、三日だ。」と言う。頭の傷を見せてくれたムハンマドも、「日曜にここに来て木曜に帰るあいだ、一日も仕事がないときさえある。」とつけ加える。

占領地から来た労働者らは、いくら稼ぐことができるのだろうか。アワルタ出身で4児の父タラール・ガーズィ(42歳)が答える。「日によって違う。50シェケル(約1300円)のときもあれば、250シェケル(約6500円)のときもある。週末に500シェケルを持ち帰れるときもあれば、1000シェケルのときもある。そして無一文のときも。たいていの仕事は建設現場だ。熟練労働者であれば、一日に300シェケル稼ぐ。これが定職じゃないことを考えれば、そんなに高い金額じゃない。たいてい下請業者との仕事になる。大企業はもうアラブ人を雇いたがらないからだ。外国人労働者が仕事を取ってしまい、アラブ人労働者は建設現場ではマイノリティになってしまった。」

時折彼らは、第二次インティファーダが始まる前の日々に対するノスタルジーを見せる。アベッド・アル・モネム(42歳、8児の父)は、かつてブネイ・ブラク(テルアヴィヴ近郊のユダヤ教超正統派の町)の食料品店で働いていた。「一ヶ月で6000〜7000シェケル(15〜18万円)を稼いでいた。今ではその四分の一にもならない。第二次インティファーダ開始以降の二年間は、西岸内部のパレスチナ人の下請工事業者のところで働いていたが、一日で60〜70シェケルにしかならなかった。」

ナブルス近郊のアスカル難民キャンプ出身のムハンマド(30歳、2児の父、姓は本人の希望で伏せる)は、もともとはヤーファから来た難民の一家の一人だ。「問題は、西岸の労働市場が死んでいることだ。」と説明する。「我々は、屈辱に苦しむ以外にない選択肢なしの状態で放置されてしまった。占領地では、熟練労働者でさえも一日に70シェケルしか稼げない。単純労働者なら、30シェケル(約800円)だ。」

サーリムのアベッドがまた会話に加わる。彼はイスラエルで20年以上働いてきた。第二次インティファーダ以降は、許可証なしで入ってきている。「他に何ができる?」そう彼は言う。「イスラエル側が入境許可の取得を要求してきたときに、我々の運命は政治に結びつけられた。最初の湾岸戦争のときに、封鎖が始まった。それ以前には、第一次インティファーダのあいだでさえも、誰もが許可なしでイスラエルで働けたんだ。エゲッド・バス(イスラエルのバス会社)でさえも西岸の中に入ってきて、労働者をイスラエルに連れていった。ロードブロック(道路を封鎖するコンクリート塊)だってなかったし。」

 

将来に何があるか?

労働者らは、はじめのうちは政治の話題に入らないように慎重に話をする。もちろん誰もが政治状況こそが、彼らがまともな仕事を見つけるのを阻害している主要因であることは知っているのだが。しかし、私たちは、自爆者の話を切り出す。彼らは、自分たち労働者とは何の関係もないことだと言い放つ。アワルタのワリッドは結論づけるようにこう言う。「我々がそういう(自爆)活動を実行するために来たなどということは、非論理的だ。全員が治安証明を持っている。尊厳を持って、自分たちの生活を支えるためにここに来ているんだ。我々が受けているプレッシャーはイスラエルの政策の一部で、それによってイスラエルはパレスチナ民族全体を絶望に追い込んで、譲歩せざるをえなくしている。例えば50歳の男が一週間ここにいて仕事が一日も見つからないで、それで家に帰ったとする。そして彼がイスラエルで警備員に殴られ、皿洗いのスポンジのようなひどい扱いを受けたということを、彼の子どもたちが聞いたとする。そうすれば、この子どもたちがハマースに走る動機になってしまう。屈辱は復讐心を生む。自爆でもしたいと思わせられてしまうんだ。」

アリ(27歳、姓は本人の希望で伏せる)はイスラエルで10年間働き続けた。苦笑いをしながら、バール・イラン大学のレストランでの仕事を思い起こす。「このインティファーダ前には、何の問題もなくロードブロックをすり抜けていた。自分と兄は、西岸を示す緑ナンバープレートの車を運転して、通ってきていたんだ。簡単な検査を受けただけで、イスラエル兵は礼儀正しくこう言っていたものだ、『イットファッダル』(アラビア語で「どうぞ」の意)と。許可証も要らなかった。もちろん一般的な治安意識はあったけれども。第二次インティファーダ開始後、すべてが変わってしまった。それからだ、こうしてここ(ゲーハ・ジャンクション)に仕事を求めて来はじめたのは。だが、それも不可能な状況になりつつある。自爆者のせいで、入ってこられなくなってきているんだ。我々がすり抜けて来ようとすれば、警官が追っかけてくる。そして何も手にできずに逃げ去るしかない。」

最初は彼ら自身が避けようとしていた(政治的な)話題に、だんだん熱が入ってくる。ワリッドが言う。「最初のインティファーダのあいだは、自分たちがイニシアチブを握っていると感じていた。いまではヤツらの番だ。イスラエルがすべてを支配し、好き放題に何でもやっている。いま自分たちにかけられているプレッシャーは、第一次インティファーダのときに自分たちがイスラエルにかけていたプレッシャーよりもずっと重い。」

「政治解決しかないよ」とアベッド・アル・ハミッド・カーシムがつけ加えた。「シャロンの手の中にあるのに、シャロンは平和を欲してはいない。イスラエル人はすべてを手に入れたい、つまり我々には何も残さないってわけだ。」

私たちは話を続けているが、今日二度目の捜索のために警察がやってくる。労働者たちはいっせいに逃げていき、ビル群の中に隠れていく。

 

10月8日の夜、私たちはゲーハ・ジャンクションに戻ってみた。しかし、前回彼らが眠るのに使っていた公園は見当たらなかった。しばらく探して、大きな橋の下にある公園に入った。公園には人はいなかったが、間違いなくここだとわかった。段ボールが地面に散らばっており、その脇にはトゥヌーヴァ・クリームパンの袋があった。警察が私たちよりも先に来ていたのだ。

Update:10月28日の夜に、イスラエルのチャンネル1(国営放送)は、120人の無許可労働者がゲーハ・ジャンクション近くで逮捕されていたことを報じた。

(早尾貴紀訳)

 

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