Challenge No.88(2004年11-12月号)
「壁の裏側で」ウンム・ル・ファヘムの不法西岸労働者

アスマ・アグバリエ著


イスラエル・アラブの町ウンム・ル・ファヘムに夜が訪れ、星空が広がる。木々の下では、イスラエルで働く許可を持たない2000人のヨルダン川西岸地区からの労働者が眠っている。多くは、ジェニン近郊の村からやってくる。そこは数マイルしか離れていないが、分離壁の反対側にある。これはロマンチックな田園詩でも自然回帰運動の一環でもない。長い場合は何ヶ月も、彼らは木立の中に住んでいる。周りにはシャワー代わりの水のペットボトル、野菜やイワシ・マグロの缶詰、チーズが散らばっている。

2002年4月に壁が出来上がると同時に、イスラエル政府は彼らを不法移民と位置付け、彼らの移動に協力した者や宿泊場所を提供した者、彼らを雇った者とともにすべて排除する作戦を開始した。この作戦は”Targeted Weeding(標的を定めて邪魔者を取り除く)”という誇らしげな名前をもっている。これは、パレスチナ民兵のリーダーに対する”Targeted Assassination(標的を定めた暗殺)”作戦から名を取っている。結果、何千人もの労働者が、非人間的な扱いにはことかかないハイファのダムン刑務所に入れられた。毎日、何百人もの人々が罰金を払うことを強制された後、村へ送り返されている。しかし、イスラエルの断固とした作戦にもかかわらず、彼らは必ず戻ってくる。

政府の言い分は、その労働者が彼らの言うところの「テロリズム」の基盤となっている、というものだ。政府によれば、労働者の一部が家族に、乗せてくれたタクシーの運転手の電話番号などの情報を送っている。「テロリスト」のリーダーたちはその情報を受け取り、標的を攻撃するために利用しているという。

私がウンム・ル・ファヘムで出会った労働者たちはこれを否定していた。近くのアーニーン村から来ているナビール(22)は話す。「そんな言いがかりに根拠はない。東エルサレムに住むアラブ人、そして東エルサレムに行くことができるアラブ人なら誰でも、妨害なしにタクシーを拾ってイスラエルのどこへでも行ける(町を囲む壁が完成にはほど遠い状態のため、今のところ通行に問題がない−編者注)。誰も、攻撃前に私たちに相談する必要はない。壁とこの虐げの目的はこうだ。私たちの家族を飢えさせ、イスラエルの要求を飲んでしまおうと私たちがリーダーに圧力をかけるよう仕向ける。

不法移民の生活

私たちは、労働者たちと会うため、ヤーファを未明に出た。彼らは毎朝、オリーブの木立の隠れ家から、ウンム・ル・ファヘムのアル・ミダーンという広場に出てくる。ここに集まって、仕事を探すのだ。ウンム・ル・ファヘム自体が労働者の町であり、ワディ・アラとガリラヤ南部を見下ろす高地、西岸の北西の端に近い場所に位置している。住人はイスラエル国籍のアラブ人だ。朝6時に仕事の手配が終わってしまうので、私たちは6時前にアル・ミダーン広場に着かなければならなかった。2000人のうち、彼らを雇ってくれるアラブ人を見つけられるのは300人に過ぎない。残りは静かに木立へ戻る。ウンム・ル・ファヘムでぶらぶらすることもしない。国境警備隊に見つからないようにしなければならないし、この信仰心の厚い町で住人と摩擦を起こすことも避けなければならないからだ。見知らぬ者は、この町では疑いの目を向けられる。彼らは木立へ戻り、無為に空を眺めて1日が過ぎるのを待つ。そして再び広場へ出かける。

多くはアーニーン村から来ている。この村は、ウンム・ル・ファヘムのイスカンダルの丘から見える距離にあり、徒歩10分で行くことが出来る。「昔はアーニーン村でタバコに火をつけて、ウンム・ル・ファヘムについたときに消していたものだけど」20歳のマジドは言う。分離壁ができる前のことだ。今では、村へ行くには片道10時間かかる。労働者たちはアーニーンのある西岸北部からずっと下って行きエルサレムに忍び込んでウンム・ル・ファヘムまでタクシーで来る。乗り合いタクシー代の料金は乗客みんなで分けるが、それでも一人140〜200シェケル(4.5シェケル=1ドル)かかる。ついた後、彼らはネヴォ山のモーセのようにイスカンダルの丘に立ち、あまりに近くあまりに遠い自分の村を眺め−「私の心をえぐる」と40歳のアフマドは言う。

「これは労働者のナクバ(破滅)だ」と6児の父のムハマド(32)はそれに加える。「労働者は無力な難民になってしまった。村に残れば、ひとかけらのパンのために戦わなければならない。単純に仕事そのものがない。たまたまあったとしても、1日20シェケルにしかならない。運に賭けてここに来れば、夜にはさそりや蛇や凍える寒さ、昼には軍や仕事につきまとう危険、照りつける太陽、そして飢えと戦う生活が待っている。」

そして、死の危険すらある。2ヶ月前、18歳の労働者が国境警備隊から逃げようとして、建築現場の足場から落ちた。彼は3ヶ月も、ジェニン近くの村に住む家族と会っていなかった。彼は死体で戻ってきた。彼の名前を知る者は誰もいなかった。もう一人が、蛇にかまれて木立の中で亡くなった。

会話に、ムハンマド・ナーセル(30)が加わった。彼は、レバノン人の詩人、エリア・アブー・マーディの詩の一節を朗読する。

30年間生きている間、私は常に探しつづけてきた。
生計の手段を求めて西を向けばそれは東にあり、東を向けば西にあった。
私たちは、叫び声をあげては鳴くふくろうしか寄り付かないあばら家で眠る。
壁と屋根はばらばらになって、日が昇っては沈むのが見える。
つらい生活、しかし屈辱からは遠く、高貴な心には甘く感じる。
魂に痛みが牙を立てるとき、私は忍耐せよと語りかける。忍耐があれば、求めているものを見つけることが出来ると。

労働者たちはうなずいた。子供を養うには忍耐するしかないと、誰もが納得しているからだ。6児の父である最初のムハンマドの体験がそれを物語る。彼と数人の友人たちは5ヶ月前、境界警備兵に襲われたのだ。「彼らは私たちを殴り、金を盗み、強制送還した。私からは、20日分の賃金1700シェケルを盗んだ。訴えたが何も変わらなかった。私が村に帰った日は、屈辱以外の何者でもなかった。私の立場に置かれたら、他の人はどう感じるだろう。屈辱に打ちひしがれて家に帰り、『おとうちゃんがお金を持たずに帰ってきた』と息子に言われるのは。その人の息子はどう感じることだろう。これ以上ない屈辱だ」

詩の好きなムハンマド・ナーセルは18年間イスラエルで働いてきた。「ウンム・アル・ファヘムの雇い主のほとんどは、仕事に見合った給料、1日50〜150シェケルを払ってくれるし、尊厳を持って接してくれる。だが、不法移民であることを利用してただ働きさせる者もいる。私の弟はこの手合いにつかまってしまった。毎日朝7時から夜11時まで働き、木立に戻ってくると屠殺された子牛のように横になって一晩中いびきをかいていた。そんな仕事のあとで、そいつはびた一文払わなかった」

アル・ミダーン広場には、地元の人々が朝6時からぶらぶらしているカフェがある。彼らもかつては建設労働者だった。ウンム・ル・ファヘムのハーリド・スレイマン(62)は言う。「あの労働者たちがいったい何をしたっていうんだ?生活の糧と自由が欲しいだけだというのに」近所に住むマスード・フセイン(42)が加える。「彼らの状況に痛みと同情を感じる。私たちは同じ穴の中にいるのだから」

不法移民のつくりかた

グループの中に、アーニーン出身の小さな巨人、モフセンが立っている。彼は13歳で、1年半イスラエルで働いてきた。8年生にいるはずの年だが、父の死後、母と12人の兄弟の生活を支えなければいけなくなった。ムセインは掃除夫や、その他見つけられる仕事は何でもして、1日50~60シュケル稼ぐ。仕事が終わったら、木立の中かモスクの入り口で眠る。

労働者の一人、サイードが彼を労働者の仲間に入れた。サイードは18歳だ。

仕事が終わったら何をしているのか、私たちはモフセンに尋ねた。
「何もしない」
「サイード、彼にサッカーボールを買ってあげたらどうだろう」
サイード「それで十分、兵士がこちらを見つけて『まだここで遊んでいる神経が残ってくるのか』と怒鳴りつけてくる」

ひとしきり笑った後、サイードは続けた。「僕も、ボールで遊んだことがない。もらっても、蹴り方がわからない。10歳のときから、僕はイスラエルで働きつづけてきた。兄弟は、僕以外みな成績が良かったから、両親は僕を働きに出したんだ」

サイードの家族はイスラエルに家の装飾品を輸出する商いをしており、繁盛していた。今回のインティファーダで生活が破壊され、父親は倒れてしまった。それから、サイードは16人の家族の生計を支えている。「大変な生活だけど、」と彼は言う、「兄弟たちがいい成績をとって帰ってくると、それを誇りに感じる。一番上だし、父親役でもあるから、兄弟たちは僕をとても尊敬してくれる」

4年間のインティファーダ

不法労働者問題の解決法はいたって簡単だ。彼らに許可証を与え、合法的にイスラエルに入国できるようにすればいい。しかし、ナビールが言うように、それはイスラエルの政策と合致しない。「問題は、帰還権やエルサレムなど、私たちの要求がイスラエルにとって飲みにくいものだということだ。要求を飲んだら、(ユダヤ人国家としての)イスラエルは消えてしまうから。だから壁の両側で殺戮が続いているけれども、結局何の解決にもならない。私たち労働者が最も痛めつけられている。イスラエルが私たちを、パレスチナのリーダーに意向を強要するための人質にしているからだ」

ナビルは4年間のインティファーダをまとめる。「始まる前、私たちは帰還権を求めていた。今では、村からイスラエルが出て行くこと、閉鎖を止めることを要求している。帰還権やエルサレムのことはすっかり忘れてしまった。インティファーダで、たくさんのことが逆戻りしてしまった」

これらの労働者たちは、パレスチナ抵抗運動の最も重要な拠点と考えられているジェニンの「発火地域」から来ている。ナビールにこの抵抗運動の形についてどう考えているか尋ねると、彼は慎重に言葉を選んだ。「それは私の関与するところではないし、答えることも出来ない。私は労働者で、パレスチナを愛している。抵抗運動は独自の考えと要求を持っていて、その要求を通そうとするのは彼らの権利だ。これだけは言える、今までのところこのインティファーダで得たものは何もない」

私たちが話した他の労働者も同じ立場だった。アフマド(40)は話す。「どちらの側の殺戮も何にもならない。どちらも負け、財布に敗北を感じることになるのは労働者だ」タヘル(46)が加える。「結果がどうであれ、パレスチナ自治政府のために働く人々は給料をもらえる。しかし私たち労働者には出口がない。自爆攻撃は私たちをひどく痛めつけた。持っていた土地を取り戻すことも、生計の手段を手に入れることもできなかった」

より広い視野

このような状況にも関わらず、絶望の言葉は一言も聞かなかった。マヘル(20)は簡潔に表す。「彼らは僕たちの希望をひからびさせようとするが、僕は希望をなくしはしない」なぜ?「絶望は性に合わないから」 マジド(20)「イスラエルが壁に隙間を残している限り、僕たちは仕事を探しに忍び込む。ヘブロンまで迂回しないといけなくなったとしても」他の青年たちも加わる。「壁は、僕たちが仕事をするのを止めることはできない!」ここでナビールが現実に引き戻す。「それは違う。目と鼻の先に私たちのアーニーン村があるが、行くことができない。壁はたくさんの自爆攻撃を止めたが、何千人もの仕事も奪った」

アフマドはもっと広い視野で見ている。「私たちは隣同士だ。彼らは私たちなしではやっていけないし、私たちも彼らなしではやっていけない」

「壁を取り払え」サイードは言った。「人々に仕事を取り戻すんだ」 

つらい生活、しかし屈辱からは遠く、高貴な心には甘く感じる。
魂に痛みが牙を立てるとき、私は忍耐せよと語りかける。忍耐があれば、求めているものを見つけることが出来ると。

(明城和子訳)

 

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