Challenge No.90(2005年3-4月号)
イスラエルの検事総長ヘ−土地の差別の撤廃を「シオンの地に未だアラブ人の土地はなく」

ミハル・シュワルツ著、明城和子訳


(訳注:ここで「アラブ人」というのはイスラエル内のパレスチナ人のことです)

歴史的決断!2005年1月27日、イスラエル法務長官メナヘム・マズーズの行った決定を、メディアはそう表現する。マズーズは、「イスラエル土地管理局(Israel Land Authority)はユダヤ民族基金(Jewish National Fund、ヘブライ語ではケレン・ケエメット)の土地を、ユダヤ人だけでなくアラブ人にも平等に売らなければならない」と宣言したのだ。ただし、ユダや民族基金の保有する土地の面積の減少を防ぐため、アラブ人に土地が分配されたときにはILAは同じ広さの土地を補償しなければならない。

だが、この決定ははたして本当に「歴史的」なのだろうか?

まず、これまでの経緯を見てみよう。イスラエル国土20,325平方キロメートルの93%はイスラエル土地管理局の管轄下にある。(残りの7%は私有地で、ユダヤ人とアラブ人がおよそ半分づつ所有している。)93%のうちの80%が国有地で13%がユダヤ民族基金の所有地である。国有地の大部分は、1948年の戦争まで公式には誰の所有地でもなかった。(イスラエルの半分以上は砂漠で、ベドウィンが使用権を持っている。)だか、1948年以前にアラブ人が所有していた豊かな農地の約半分が現在までにイスラエルに押収されたのもまた事実である。(ヒレル・コーエン、Present Absentees: The Palestinian Refugees in Israel Since 1948, p100)

ユダヤ民族基金は、アラブ人に「奪われた」土地をユダヤ人に「取り戻す」資金を調達する目的で1901年に設立された。実際、1948年までに936平方キロメートルを買収している。残り1555平方キロメートルの土地は、イスラエルが押収して所有を移したものだ。ひとたびJNFの所有となれば、その土地は確実に、イスラエルでいうところの「ユダヤ化」(詳細は後述)がなされる。ユダヤ民族基金の憲章第27項で、非ユダヤ人との土地の取引は禁じられているのだ。

この人種差別主義は、民主主義国家というイスラエルの建前に明確に反しているため、イスラエルの最高裁判所にこの憲章が訴えられないよう、今日までさまざまな対策が取られてきた。現在のユダヤ民族基金代表であるヤヒル・レケットは、マズーズの判断に肯定的な反応を示した。「私たちは賢い解決法を見つけ、今までずっと最高裁判所の目に留まることなくユダヤ入植地政策を支えてきた。」(ダン・アイゼンベルグ引用、2005年1月28日付エルサレム・ポスト紙から)

ユダヤ民族基金と国の間の契約に基づき、ユダヤ民族基金はイスラエル土地管理局の評議会で49%の議席を持つ。よって、ユダヤ民族基金はイスラエルの93%の土地に大きな影響力を持つことができる。さらに、ヨルダン川西岸地区やエルサレム、ガザの占領地に関する決定にも重要な役割を果たす。ハアレツ紙(1月31日)でのアキバ・エルダーの報告によれば、「国の入植地推進計画」というプログラムの下、「入植地や公園、道路を建設するための何万ドナムもの土地は、ヒムヌータによって購入されたものです。ヒムヌータはユダヤ民族基金の補助機関で、仲買人を通してパレスチナ人から土地を買うことを専門にしていました。」(寄付が減ることを恐れ、ユダヤ民族基金はグリーンラインの向こうの土地を直接買うことはなかった。代わりに購入したのがヒムンタだった。訳註:グリーンラインは1949年、1967年の停戦ライン)

最高裁の目から逃れる「賢い解決策」のひとつとして、ユダヤ民族基金代表のレケットは影でアラブ人にユダヤ民族基金の土地を買うことを許可していた。アラブ人が土地を入札したときは、イスラエル土地管理局がユダヤ民族基金に同じ広さの土地を補償していたのである。2004年春、イスラエル土地管理局は、ユダヤ民族基金が所有する、カルミエールのマコシュの丘として知られる土地43区画の入札を行なった。(この土地は、昔からのChallenge購読者のみなさんならご存知の「非公認の村」ラーミヤに隣接している。詳しくはこちら。ラーミヤはビデオ48のドキュメンタリー、”Not In My Garden”でも取り上げられている。)ここでマコシュ区画のいくつかをアラブ人が落札したことに、カルミエールのユダヤ人たちが激怒した。この結果、イスラエル土地管理局はその区画の入札を凍結した。9月に26区画の入札を再開したとき、イスラエル土地管理局はユダヤ民族基金との非公式な処置を停止し、「ユダヤ民族基金の土地をユダヤ人以外に提供することはできない」という公の見解に立ち返った。

これに対し、イスラエル市民権協会(ARCI)、アラブセンター(Arab Center for Alternative Planning)、アラブ・マイノリティーの法的権利支援センター(Adalah)がイスラエル土地管理局の判断を最高裁に提訴した。立場上、マズーズは最高裁の判例(後述)を無視することはできず、ユダヤ民族基金の入札はアラブ人にも等しく開放されていなければならない、という見解を出したのだ。彼は、イスラエル土地管理局とユダヤ民族基金の間の交換条件を正式なものにすることで、全体の「バランス」をとった。繰り返すが、ユダヤ民族基金の土地がアラブ人に提供されたときには、イスラエル土地管理局から同じ広さの土地が供給され、ユダヤ民族基金は常に国土の13%を保持し続ける、という条件である。

しかし、公有地はすべての市民のものである。どんな権利があって、公有地を人口の一方のためのみに土地を保持する団体に譲渡できるというのだろうか。ARCIの弁護士で今回の提訴に加わったアウニ・バンナーは、ARCIは今回のマズズの決定は歓迎するものの、その条件は「JNFが保有する国土の13%の公有地はユダヤ人とアラブ人の間の違法な差別を続けるものである」とChallengeに語った。ARCIは提訴を取り下げる予定はなく、JNFへの土地の提供に反対する、と彼は言う。マズズが書類で彼の見解を提出したら(返答までに90日が与えられている)、ARCIはそれに基づき提訴の内容を変えるかどうか、変えるとすればどのように変えるかを判断する予定である。バンナ「私たちが要求しているのはユダヤ人とアラブ人の完全な平等であり、それ以下のものはありえません。ですから、マズーズの判断は満足できるものではないのです。」

さらなる問題

ユダヤ民族基金の土地問題をいくら議論しても、実はイスラエルに住むアラブ人が抱える本当の土地問題の本質に近づくことはできない。アラブ人は自分たちの土地を広げることができないのである。アラブ人の家族は、込み合った家の窓から、かつて自分たちのものだった土地をのぞき見ることしかできない。今では国の管理値になっているため、村は狭い土地に押し込められざるを得ないのだ。マズーズの今回の判断で理論的には土地を取り戻すことができたとしても(後述の通りこれにはさらなる困難が伴う)、何も建てることができなかったら何の改善にもならない。

Arab Center for Alternative Planning議長のハンナ・スウェードはChallengeにこう語る。「差別構造を作り出しているのはユダヤ民族機関ではありません。イスラエル土地管理局と他の政府機関なのです。アラブ住民を絞め殺しているは、内務省が主体となって実施している計画的な行政計画の結果なのです。内務省は、人口の増加に合わせたアラブ人所有地の拡大を認めず、逆に地元アラブ議会の管轄権のある土地を縮小して土地を所有できないゲットーへと変えていきます。」

ラサーム・ハマイシー教授(地理学部、ハイファ大学)は、「アラブ地域発展の居住環境政策と統制」(2004年、ネットで閲覧可能)という論文で政府の取っている土地政策を論じている。彼は、主な方法を3つ指摘する。1.アラブ人が管轄を持つ土地を減らす。2.アラブ人が管轄権を持つ土地同士を接触させない。3.すべての地域で、アラブ人が人口の多数派となることを防ごうとする。

アラブ人はイスラエルの人口の18%を占めるが、ハマイシーによれば管轄する土地は2.5%に過ぎない。(ユダヤ人の地方議会は83%の土地を治めている。)1950年から続く、管轄権のある土地の厳密な定義によって、アラブ人自治体はバラバラに分けられ管轄する土地を減らされてきた。コフル・カナやアラーベをはじめ、多くの場合管理が及ぶのは村の土地の3分の1にしか過ぎない。

たとえばコフル・カナ(人口1万7千人)では、村の住民の所有地は20平方キロメートルになるが、村の自治が及ぶのはその半分に過ぎず、政府に強要されたマスタープランで村の人口増加にあわせて広げることを許可されたのはわずか3.6平方キロメートルである。アラベ(人口1万4千人)では、村民所有地が30平方キロメートル、村の自治範囲が9平方キロメートル、人口増加で広げられるのが3平方キロメートルである。

村の管轄が及ばない村民所有地の自治権を持つのは、たいていユダヤ人地方議会である。この地方自治体のいくつかは、1970年代後半に始まった「ガリラヤのユダヤ化」という政策の一環として設立された。たとえばミスガヴの議会は、アラーベやその周りの村々の村民所有地の大部分に対する管轄権を持つ。

アラブ人の人口増加を切り詰める主なメカニズムは、いうまでもなく計画である。一番最近出た35番目の国家計画では、「イスラエルをユダヤ人の国として、そして民主的な国として発展させる」という目標が設定されている。(国家計画作成委員のうち、アラブ人はハマイシー教授ただ一人である。)道路や森林のために確保された土地も、アラブ人の所有地拡大を制限している。1980年代に作られたガリラヤやネゲヴの都市計画では、いくつかのアラブ地区が完全に無視され、その結果非公認のアラブの村々が発生することとなった。(そのひとつが前述のラーミヤである。)これらの計画の背景にある政策は、市街地の家屋密集地を満タンにして村の拡大を防ぐことである。「村を拡大せずに人口増加に対応するには、建物の密度を上げる必要がある。基本的に、これは垂直方向に高くすることを意味する。伝統的には村は水平方向に広がっていくものなので、これは村人にとって文化的に異質な拡大様式である。」(ハマイシー、10頁)マスタープランで村の権限が及ばないとされる土地に自分たちの所有地があれば、家族の人数の増加に対応するためにはその土地に違法に家を建てざるを得ない。しかしこれは家を破壊される危険を伴う。

ハマイシーは続ける。「アラブの村の発展と拡大を制限するため、公認のすべての村の計画概要が決められている。・・・表向きの目的はアラブ人の生活水準を向上させることだ。近代的、西洋的な都市型計画を用い、それを伝統的、東洋型の村社会に押し付ける。しかしながら、裏の目的は、アラブ地域を狭くすることだ。「都市化」という言葉のもつ前向きな雰囲気のおかげで、土地所有者を支援すると称しながら土地をを手放させることができる。さらにいえば、都市では、政府は人口を一定の範囲に集め、社会基盤の整備に関する支出を減らし、住居の密度をさらに増やすことができる。最後に、都市化は人口の増加を抑える・・・」(ハマイシー、11頁)

最後の言葉は、イスラエルの不安と計画の動機、つまり人口統計学を示している。家が足りなければアラブ人の出生数は下がるだろうというはっきりした希望がわかる。1990年代に旧ソ連から100万人規模のユダヤ人が移民したにもかかわらず、アラブ人(移民を許可されていない)の割合は18%から一向に減る気配がない。レバノン国境に接するガリラヤの中部、海岸部の平原とヨルダン川西岸の間に位置する三角地帯で、アラブ人は人口の多数派となっている。この人口統計学的要因は、土地配分に関するイスラエルの政策を決める一番大きな根拠であり続けるだろう。

広い目で現実を見れば、マズーズの決定は決して歴史的とはいえない。


カーダン対カツィール

アラブ人の住宅不足の結果、何百組ものアラブ人の若い夫婦が、たとえばカルミエールのマコシュの丘、上ナザレなどのユダヤ人地区の近くにアパートを探すようになっている。住居を見つけられた場合、どうにか買えることもあるが、大抵は借りることになる。彼らが入居すると、近所にアラブ人がいることに反対したり、建物の資産価値が下がることを心配したりするユダヤ人の人種差別主義者たちを怒らせることになる。

1995年、アラブ人のカーダン一家はカツィールという、ユダヤ機関が作った新しい共同体入植地に土地を購入しようとした。一家は、こういった入植地から今までアラブ人たちを締め出してきたのと同じ行政上の壁に突き当たった。(初期の共同体入植地は、アラブ人が多数派を占め政府が『ユダヤ化』を進めようとやっきになっていた地域に、小さな『監視場(Mizpim)』として始まった。)入植地となる土地を借りるには、3つの関係者が契約に署名しなければならない。1.イスラエル土地管理局、2.ユダヤ機関、3.入植地居住者の総意、である。このような形の入植地で土地を購入するには、地域の全住民が参加する協同組合に受け入れられなければならない。誰がそこに住むのかを選択し拒否するのは組合なのだ。こうしてアラブ人−そして歓迎されない民族出身のユダヤ人−は行政手続きの中で埋もれて住むことができない、という構図ができあがっているのだ。

拒否され、カーダン一家は市民権協会(ARCI)へ行き、最高裁へ提訴した。5年間、裁判所は双方の和解を促し、判決を出さずに済ませようとした。2000年、水面下の手を使い尽くし、裁判所は判決を下した。この判決は、法務長官マズズが先日下した判断の判例となった。(前述)

4対1で裁判所はカダン一家の主張を認め、アラブ人を入植地から締め出す行政手続きを否定した。国は、国有地を「カツィール入植地の建設のためにユダヤ機関に配分するにあたって、ユダヤ人とユダヤ人以外の人々を差別してはならない」。しかし、判事たちは罰則を設けなかった。ただ、国に「すべての人の平等の原則に立って・・・請願人がカツィール入植地の敷地内に敷地を購入することを許可できるかどうか・・・」考慮するように、と申し渡しただけなのだ。(BGZ[Bagatz]6698/95 Par.40)

国の機関は先例に従い、決定をいつまでも先延ばしにすることでカダン一家をあきらめさせようとした。そこで市民権協会は2004年に再び請願を出し、最高裁は判決が決定するまでカツィールの土地を1区画空けておかなければならない、という暫定命令を出した。一方ILAはカダン一家に土地を配分することを承諾した。カダン一家が最初に訴えを出してから10年、カツィール共同体入植地はいまだ壁を作っている。

一家の父親のアデル・カダンは、「現存する国の機関で、カツィールの自治体に最高裁の決定を守らせることのできるものは存在しない」とChallenge誌に語った。何年もの間、期待を何度も裏切られ、公私両面でイスラエルの人種差別に直面し続けたにもかかわらず、アデル・カダンは楽観的だ。「マズズの決定は重要な先例になります」彼は言う。「ただ、国がそれに消化不良を起こさなくなるまでもう少し時間が必要なのです。結局のところ、ユダヤ人とアラブ人が一緒に住むのを防ぎ続けることなどできないのですから」

 

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