News from Within2004-no.4
ドルーズの良心的兵役拒否者


ドルーズ(註1)の若者たちが、兵役拒否支援のための政治運動を展開している。彼らはこれまでに何度も家庭内集会を開き、軍の監獄で何百日も過ごしたこともあるが、今回初めてドルーズ・コミュニティーの指導者の支援を取り付けることに成功した。『コール・ハイル』(イスラエルの週刊誌。All the City の意)のライターであり、「ダンシング・アラブ」の著者でもあるサイード・カシュアが、イスラエル最北部にあるドルーズ・コミュニティーを訪問し、かつてはイスラエル一精強な兵士として勇名を馳せた若きドルーズらが、親アラブの平和主義者になった経緯について取材した。


サイード・カシュア

アル・ブカイア(ヘブライ語ではペキイン)の早朝。大きな帽子にスニーカー履きの年配旅行客らが、ドルーズの女性が器用な手さばきで薄いパン生地をターブーン(パン焼き釜)に貼り付けているさまに見入っている。観光客の一団は、レストランの入り口にあるスギの木陰に腰を下ろした。レバノンの国旗に描かれているあのスギだ。それから上質のラバネ(ヤギの乳で作ったチーズ)を食べ始めた。付け合せはオリーブオイルとオリーブの実だ。通りの向かい側にある地方議会の建物には二本の旗が風に揺れていた。一つは青と白のイスラエル国旗、もう一つは色彩豊かなドルーズの旗だ。

ナショナリティの創出

「イスラエルはドルーズを[アラブから区別された独自の]一民族にしたがっていた」と語るのは自由ドルーズ連合のサーミ・マハナだ。マハナはさらに続ける。「だが、ドルーズはひとつのエスニック・グループであって、アラブ民族に属している」。新しい民族運動によって結成された自由ドルーズ連合の主要目的は、ドルーズ男性に課せられている兵役義務をなくすことだ。マハナは保険外交員をやっており、詩作が趣味だという。自宅の居間にかけられた大きな額には、ワーリド・ジュンブラートとマハナ本人の写った写真がおさめられている。レバノン人のドルーズ政治家であるジュンブラートは、進歩社会党を率いている。ヨルダンで開かれた会議に出席した時に撮影したものだ。ジュンブラートが会議を主催者となり、著名なレバノンのドルーズと自由ドルーズ連合の主要メンバーが参加した。議題となったのは、イスラエルのドルーズによる兵役拒否の重要性だった。マハナによれば「これはわれわれにとって非常に重要なことだった。この会議で自分たちの位置を確認し、共同していく機会を得ることができた」。ドルーズ自由連合の調べによると、アル・ブカイアだけでも18歳から25歳の良心的兵役拒否者数は60名を超えている。マハナの意見はこうだ。「われわれが入手しているデータによれば、ドルーズ派に属する良心的兵役拒否者40名が投獄中だ。彼らの名を記したリストもある。」

「ドルーズ派はアラブだ。私もアラブだ。私はアラビア語で詩を書いている。アラビア語で夢を見る」とマハナは続ける。

「イスラエルは、ドルーズには[アラブとは]一線を画したナショナリティ(註2)があるという考え方を作り出した。だが、そんなものは存在しない。ドルーズのコーヒーとアラブのコーヒーは同じものだ。ドルーズのクーフィーヤ(頭に被るスカーフ)とアラブのクーフィーヤは同じものだ。言葉、歴史、服装、どれをとってもすべてアラブだ。念入りに仕組まれた陰謀のせいで、われわれは追放されたエスニック・グループになってしまった。仲間うちで身を潜め、自分たちはアラブではないのだと子どもたちに言い聞かせる。なぜだ?」

「イスラエルが国家として発展しつつあった50年代には、ほぼ14,000人のドルーズがいた。その大多数は教育を受けていなかったから、ナショナリティだとかナショナル・アイデンティティーだとかいう考えを理解していなかった。当時は、ドルーズ・コミュニティーの指導者数人が、シオニスト開拓者多数との関係を築いていた。彼らはこう宣言した。『今後、あなたがたにのナショナリティはドルーズだ』。だが現在のドルーズの中では教育を受けた世代が大多数を占めるようになり、イスラエルが文化的破壊を進めていると考え始めている。イスラエルは、人々と文化を切り離してしまった。これはとんでもなく危険な結果を招いている。社会経済的な視点から言えば、ドルーズはイスラエル国内で最も後進的なコミュニティーをなしている。」

サーミ・マハナの話に耳を傾けているのは、親族にあたるラシャード・マハナだ。変化に対する彼の見方はサーミよりも悲観的だった。ラシャードはイデオロギー上の理由で兵役を拒否している。彼は兵役拒否がいい結果をもたらすのではないかと考えている。だが、イスラエル軍に入隊することがいかに不適切であり、自分たちの破滅につながることであるかをドルーズの若者に確信させるための長い道のりから言えば、ささやかな一歩を踏み出したにすぎない。「アル・ブカイアの状況は違っているようだ。ここではほかの村よりも教育を受けた人の数が多い。自分は高校でキスラーハ、コフル・サーミヤ、ヤヌーフなどの村出身の少年たちと一緒に勉強した。彼らは兵役にあこがれていた。入隊を待ちきれずに『ゴラン師団』だとか『国境警備部隊』とかいった戦闘部隊の記章のついた軍服をまとっていた。彼らから返ってくる反応は絶望的だ。どうしようもない。草の根レベルで何を訴えても、本質的な変化は望めないんじゃないかと思う。」

サーミは、ラシャードの話にびっくりしたようだ。彼は突っ込んできた。「君は十分な情報を持っていない。それほど深く関わっているわけじゃないし、変化を目指す運動にどのくらいの力があるかを判断することはできない。まだ始まったばかりだ。変化はこれからだ。」

ラシャードの答えはこうだ。「ドルーズがどんな経験をしていようと、自分たちがアラブだと考えている人はわずかだ。結局は『ドルーズのイスラエル人』なんだ。サーミは医者、弁護士、各界の専門家との交際がある。でも、自分が話しているのはどこにでもいる普通の人間だ。彼らが憎しみをこめてアラブについて語り、イスラエル軍を礼賛するのを聞いたことがある。ショックだった。」

ラシャードは、アラブの人びとによるドルーズ理解にも幻滅している。「アラブはドルーズに固定観念を押し付けており、『ドルーズはイスラエル軍に入る』と決め付けている。自分のことはドルーズとしてではなく、一人の人間として見てほしい。時にはこう言ってやじられることもある。『あいつには構うなよ。ドルーズだ。武装しているぞ』などといった類だ。自分たちでやったことだ。イスラエル政府が武器を持たせようとしたのに、抗議しなかった。何よりもまず、コミュニティーが抱いている疎外感は内部から出てきたものだ」。ラシャードはミュージックショップを経営しており、CDやカセットテープを地域内で販売している。彼は、ドルーズの若者は十分に目を開けてはいるが、現実を見据えている者は少ないと感じている。

「ドルーズの若者たちは数え切れないほどの民族差別を経験してきた。理由はただ一つ。アラビア語を話しているところを見られたからだ。こういった状況のせいで、彼らは自分たちのアイデンティティーを軽んじるようになった。ディスコに入る際のチェックも若者たちをいらつかせている。外見で判断されて、君たちはアラブだからという口実のもとに入場を拒否される。こういうケースは他にもいっぱいある。自分たちは否定的な取り扱いを受けているのに、ドルーズの多くはアラブとヨッシ・ベイリン(イスラエルの左派政治家)を憎悪している。そしてシャロンに拍手を送ることを強要される。アラブ人を殺すメリットだとか、アラブの側ではイスラエルと共存することに関心を持っていないことについて、ドルーズの友人と何度か議論したことがある。信じられるかい? こういった極端な考え方もあるんだ。クラスメートの話をしよう。実際に誰かが言った意見でなければ意味がないと思うからだ。多くの人は中立の立場をとっている。彼らによれば、兵役期間には人生を犠牲にしなければならないが、さっきも言ったとおり、入隊を心待ちにしている人はとても多い。」

サーミがまたラシャードをさえぎった。「変化はゆっくり起こる。わかるだろう? 君は数人の若者に会っただけで、結論を出している。データを見るんだ。ドルーズの精神的指導者の死に哀悼の意を表すため、300人のドルーズの ウッカール(知者層)がレバノンを訪問しようとした。今までにこんなことがあったか? ベイト・ジャンで開かれた女性向けの講義には35人の女性―男性じゃない―が参加して、その多くは自分たちの息子を軍隊に入れるつもりはないと明言した。こういったことからもわかるだろう。変化は起きている。それが事実だ。」

ラシャードの家庭は政治への関心が強かった。彼はそのことを感謝している。彼の父は詩人のフセイン・マハナだ。父も良心的兵役拒否者であり、コミュニティーからは排斥された。ラシャードは続ける。「良心的兵役拒否者にとって、70年代と80年代は辛い時代だった。父は長い間投獄されていた。反逆者だと見なされていた。共産主義者で『アッ・イッティハード(統一)』紙を購読していたからだ。あのころ、父のように行動した人たちは異端者だと思われていた。今ではこういうことはない。軍務を拒否することが、異端であるとは考えられなくなった。この意味では変化は起こっている。この変化はイスラエル側の寛容政策のせいなのか、もしくは、イスラエルの反応と増加する兵役拒否は自分自身の感情によるものであって、ドルーズの民族的動機に原因があるのだろうか? 自分にはわからない。」

ラシャードは、自分はアラブだと思ってきたと言う。IDカード請求の際には、「ナショナリティ」欄に「アラブ」と記入して内務省に提出した(註3)。だが、彼が受け取ったIDカードの「国籍」欄には「ドルーズ」と明記されていた。「中央バスステーションのような場所では、警察官に呼び止められてIDカードを見せろと言われることもある。そういう時には自分はドルーズだと答えている。自分のIDカードにはそう書いてあるし、警官と話をするのは嫌だからだ。こういう状況で自分はアラブだと名乗ったりすると、まず間違いなく尋問される破目になる。こういったことで時間をつぶしたくはない。だからこういう場合には、手間を省くために自分はドルーズだと答えている。」

青い制服の憂鬱

夕刻になって多くの車がベイト・ジャンを目指すようになると、警察の制服を着た人が多いことに気づかないわけにはいかない。イスラエル拘留当局と国境守備警察からの通行人だ。ナブルス(ヨルダン側西岸地区)の近くにあるヨセフの墓で起こった銃撃戦で、致命傷を負いながら放置されたマドハット・ユーセフ(註4)の家からそう遠くない場所にナーファ家の家がある。19歳のサケル・ナーファは弟と一緒に兄の家の床を張っていた。サケルは軍隊の第4監獄で84日を過ごし、2週間前に釈放された。

「僕は絶対に軍隊には入らないと思っていた」とサケルは語った。「第11学年[高校2年生]になると、最初の徴集令状が送られてくる。僕はそれには応えず、ハイファの新兵事務所には出向かなかった。第12学年には赤い徴集令状[警告のため]が届いて、その後で逮捕警告が来る。これには逆らわなかった。その代わりにカルミエールの警察署に行って、軍務にはつかないと告げた。同胞の土地を占領し、彼らを抹殺しようとしている軍隊に入るつもりはないと言ったんだ。自分はアラブのドルーズだと思っている。ガザと西岸地区でイスラエル軍がやっていることには加わりたくない。逮捕に先立って行われた最初の聴聞会には役人が出席していた。自分はアラブ人であり、別のアラブ人と戦いたくはないと説明した。役人は、ドルーズはアラブではない、イスラエルにはアラブ、ユダヤ人、ドルーズがいると答えた。だが僕が見たところではその役人は、ドルーズはアラブそのものだと確信していた。」

サケルが軍の監獄にいた時には、50人を超えるドルーズの人びとも獄中にいた。その中にはサケルと同じような理由で投獄された人もいた。社会的もしくは経済的な理由で逃亡もしくは徴兵を拒否した人々もいた。サケルは続ける。「ベイト・ジャンの男性の中で、兵役を拒否している者は多くない。だが、その数は少しずつ増えている。クラスメートの中では、5、6人が拒否した。拒否の理由はよく知らない。大多数の者は熱に浮かされたように軍務に服しているが、彼らの熱意は冷めつつある。軍隊は経済的な支えになる。ごく若いころから、自分は軍隊に入りたいと思うようになり、軍人のキャリアを選ぶ。それが受け入れられれば、軍人が彼らの職業となり、生活の手段となる。だがいったん入隊すれば、軍隊内のキャリア組にはなれないと告げられることになる。それにドルーズの士官はたとえ高官であったとしても、軍隊を追われる場合が多い。自分の家族にも同じことが起こった。こういった不運な人たちは村に戻り、今後の生活を思って途方に暮れている。最近も多くのドルーズが軍隊から追い出された。人々は軍人になるという職業選択には困難が多いことに気づき始めている。」

軍務に服している友人たちとの関係は?

「普通は何も変わらない。学校では僕の選択を支持した人もいたし、軍に入れと説得しにきた人もいた。何も言わない人もいた。軍隊に入った友人もいるが、彼との関係は昔と変わらない。軍人になった従兄もいる。でも、軍隊に入らなかった人間の方が、入った人間よりもいい生活をしていると気づき始めた人が多い。人生最良の3年間を有効に使う意味がわかるようになったんだ。この時期を何か別のもっといいことに使うんだ。たとえば勉強とかね。先週の月曜日、新兵事務所から公式の除隊通知が来たので、大学に入学することができるようになった。」

「権力」の近くにいる必要を感じなかった? 軍務に服している他のイスラエル人みたいに。

「いや、全然そうは感じなかった。僕たちは他のイスラエル人と同じじゃないんだよ。軍隊生活の間もそうだろうし、兵役が終わってからはもっとそうだ。ドルーズの大多数は戦闘部隊に配属される。非戦闘部隊で勤務するのは、特殊な位置にいるごく少数にすぎない。軍隊内での僕たちはドルーズ兵なんだ(註5)。3年の兵役が終わると、他のアラブと同じように、アラブに戻ることになる。多くのドルーズは、兵役を終えてしまってからこのことに気づくんだ。僕の隣人は、イスラエル軍の軍服を着て武器まで持っていたのに、アクセントのせいでタクシーの運転手ともめたことがある。軍服を着たとしてもイスラエル人にはなれず、アラブとして扱われる。兵役につく3年間で、アラブとしてのアイデンティティーを消すのはそんなにたやすいことではない。」

ヒルミ・ナーファはサケルの長兄にあたる。彼も兵役には服さなかった。「僕は自分の個人的な利益のために軍務にはつかなかった。だから、サケルとは理由が異なっている。役人に対して、自分はアラブだと答えたわけじゃない。僕は、入隊したくありません、なぜなら、軍務は自分には適していないからだと言ったんだ。この選択をして本当によかったと思っている。友人たちは兵役を終えたばかりだ。キャリアを築けたのはほんの数人だ。多くは軍務についたことを後悔しており、僕のことをうらやんでいる。僕はこの3年間、仕事を続けて金を稼いでいたからね。来年の夏には自宅が完成して結婚することになっている。友人たちは、時間を無駄にしたと感じている。世間知らずだったとね。僕が見るところでは、軍隊に勤務しているドルーズは使い捨て要員みたいなものだ。」

ヒルミとサケルの父カーシムは、運転手として軍隊に勤め、レバノン国境にいたことがある。息子たちは、軍務に対する父親の考えを読み切れない。カーシムは、軍務に服することが正しいのかどうかを息子たちに決めさせた。息子たちは二人とも、自分たちの決断は父親を満足させたと確信している。サケルは言う。「兵役についての決断に、両親が口をはさむべきじゃない。テレビでいろいろ見たよ。そして占領政策の道具にはなりたくないと思ったんだ。ベイト・ジャンにはドルーズが多いから、ここではイスラエルの戦争で死んだドルーズの割合も一番高い。僕たちの村はどうかって? 他のアラブの村よりも暮らし向きがよさそうに見えるかい? 事実はその反対だ。状況はもっと悪い。支払ったものに見合うだけの報償を受け取ってはいないんだ。あまりにも貧しくて失業率も高い。それに過密状態だ。多くの村人は納得できないでいる。何のために軍務に服したのかとね。」

監獄での4年間

スレイマン・ダラシュの息子ナジャルとファタハも軍務を拒否した。父のスレイマンは70年代の兵役拒否者だ。軍隊はファタハの兵役を延期したが、ナジャルは投獄されて90日を過ごした。父のスレイマンが監獄で過ごした4年間に比べればささやかな処置だった。ムガール村の村議会の衛生局長を務めるスレイマン・ダラシュは、自由ドルーズ連合のメンバーでもある。彼は、良心的兵役拒否者に関するデータについて、慎重ながらも楽観的な見方を示した。彼は1956年にドルーズが見せた抗議行動を鮮明に記憶している。イスラエル政府がドルーズに徴兵制を課した年だ。

スレイマンが説明する。「あのころは、ムフタール(村と国の橋渡しをするためにイスラエル政府が使った長老たち)の時代だった。軍制が敷かれていた。ドルーズの各村が代表者一人を選び、全部で16人が集められた。彼らは、義務兵役に関する取り決めに同意させられた。イスラエル政府は、ドルーズはすすんで軍務に服そうとしていると見せかけようとした。この時われわれは1,600の反対署名を集めた。取り決めに同意した16人のムフタールへの対抗だ。われわれはこの署名を国防省に持参した。この抗議活動の結果として、軍務拒否運動のリーダーらには大きな圧力がかかることになった。そして、ドルーズは脅迫されたり、逮捕されたりした。生命の危険もあった。」

「当時、イスラエルの政治状況は今とは異なっていた。軍隊がすべてを仕切っていたから、抗議活動は抑圧された。あのころ、われわれは本当に少数派だった。将来への見通しもまったくなかった。すべては個人的利益、金銭的地位的な見返りにかかっていた。われわれのコミュニティーは弱くて教育もなかった。他のアラブと同じだった。都市近郊に暮らしていた学識層は1948年の戦争中にイスラエルから出ていった。」

ダラシュは、ドルーズの指導層を批判するのは不適切だと思っている。彼によれば、そのようなことをすればコミュニティー全体に災厄をもたらすことになる。だが彼は、アラブ社会と当時活発に活動していた共産党の振る舞いには批判的だ。「ドルーズへの兵役強制に対して、彼らはもっと有意義な役割を果たせたはずだ。不幸なことにアラブ社会は、われわれを裏切り者として非難する立場をとり、そうすることによって問題を解決しようとした。ドルーズが1948年の戦争で果たした[抵抗者としての]役割や、イギリスの委任統治に対する抵抗運動はすっかり忘れられていた。ドルーズは1927年にイギリスの占領に抗議するために『緑の手』を結成した。オスマン帝国に対する抵抗運動を始めたのもドルーズだ。シリアとレバノンのドルーズは帝国主義との戦いでは常に最前線に立っていた。」

「イスラエル当局は念入りな計画をたてて、ドルーズの文化と歴史を根絶することに成功した。ドルーズは預言者ムハンマドの娘ファーティマの末裔であるアラブだ。もともとはアラビア半島に暮らしていた。現在では自分がアラブの出身だとは思わない若者もいる。ドルーズは軍隊とイスラエル当局に洗脳されたが、一番の影響力を振るったのはドルーズの学校で実施された特別カリキュラムだった。このカリキュラムは(イスラエルの)教育省にあるドルーズ局によって定められていた。」

ドルーズは本質的にも信仰上からも、常に体制側につくという風評があるが?

「ナンセンスだ。その話は前にも聞いたことがあるが、正確でないだけではなく、事実はまったくその逆だ。ドルーズの精神には、革命的な特質がある。ドルーズは常に支配体制の対極にいた。シリアによるレバノン侵略の際に起きた反対運動もそうだ。ここでも他の国でも、他のアラブはドルーズのことをまるでわかっていない。これについては、アルジャジーラやアルアラビーヤなどのアラブ系テレビの責任が大きい。これらのメディアは、イスラエル政府の見解を代弁するサーレフ・ターリーフだとか、アユーブ・カラへのインタビューを好んで放送してきた。このこと自体に問題はないが、公正を期するのであれば、彼らとは意見を異にするサミーハ・アルカーシム(註6)だとかサイード・ナーファらへのインタビューも流すべきだ。」

「メディアが描き出すドルーズは裏切り者であり、イスラエルによる占領政策の共犯者だ。このようなドルーズに対するイメージが愚かさから来ているのか、あるいはイスラエルに暮らすアラブへの憎悪に由来するのかどうか、自分にはわからない。ドルーズは自分たちの家に留まっているから裏切り者なのだろうか? 難民キャンプに逃れてサブラやシャティーラやタッル・ザアタルで虐殺されていた方がよかったとでも?(註7) 難民になっていれば裏切り者ではなかったのか? そんなのはナンセンスだ。アルジャジーラはヒズボッラーが3人の兵士を誘拐したニュースを伝えるたびに、兵士の一人の名前がオマール・スアドであり、彼はドルーズだとつけ加えるが、実際には彼はベドウィン[ムスリム・スンナ派]の出身だ。アルジャジーラはオマール・スアドをドルーズにしたがっているのに、アラブ系メディアはイスラエルの監獄にいるサミール・クンタール(註8)がドルーズであることは報道しない。」

困難に立ち向かっているダラシュにしても、軍務を拒否するのは60年代や70年代よりも現在の方が難しいと感じている。「あのころはナセルがいた。ナセルと彼の汎アラブ主義はアラブにとっての希望だった。現在は失敗続きだ。希望を托せる指導者がおらず、アラブ世界の構図は崩れてしまった。アラブはもう終わりだという人も多い。だが自分はこういった動きには加わりたくない。活動を続けたいんだ。アラブ世界の先行きは明るくはない。誇りを感じられる要素もない。だが、ドルーズがおかれた状況は一言では割り切れない。イスラエル軍に入ったところで、ドルーズの村の状態がよくなるわけではない。イスラエル政府はドルーズはよそものであると見なし、イスラエル国家の一部であるとは思っていない。ドルーズはそのことをよくわきまえている。」

「それでもなお、軍務を生計の手段であると考えている人々は多い。実際にも、軍務は多くの人にとって主要な収入源となっている。パンをあきらめるようにと人々を説得するのは難しく、イスラエル政府はわれわれの首根っこをおさえている。ドルーズの経済は伸び悩み、イスラエル国家とその安全保障策がなければやっていけない。もし軍務に服していなければ、職を得られないだろうと思っている人が多い。まるで、軍務によって職探しのチャンスが増えるかのように思っているんだ。だが、不文律になりつつあるのは、こういうことだ。「プロファイル21[心理上の問題に基づく兵役免除]だと認定されれば、誰からも仕事はもらえない」。この文句は何度も繰り返されてきた。誰かを自分の同胞と戦わせようとするのは犯罪だと思う。アラブと戦うだけではなく、レバノンやシリアとの緊張関係が高まれば、それら二国のドルーズとも戦わせることになる。ドルーズをイスラエル軍に組み入れようとする計画は成功をおさめてきた。だが十分な成功だったとは言えない。」

自由ドルーズ連合

弁護士のサイード・ナーファは、自由ドルーズ連合とアル・ジュダード基金の代表を務めている。彼の主張はこうだ。「連合と基金の間には根本的な違いがある。連合は政治的な運動だが、基金は文化団体であって、ドルーズの歴史的文化的強化を目指している」。ナーファや彼の賛同者らの運動にはドルーズの住民が直接的に関わっており、「家庭集会」が重要視されている。ドルーズの村では、1ヶ月の間に最低でも5、6回の家庭集会が開かれる。ナーファは、軍務を拒否している若者の多くは、政治的もしくは民族的な理由でそうしているのではなく、軍務によって邪魔されたくないからだと言う。大切なのは、彼らが軍務についていないという事実の方だ。

ナーファは続ける。「若者たちは目を開いて村の状況を直視するようになってきた。軍務についても何の得にもならないことがわかったのだ。このような状況は歓迎できる。さらに、地方議会の指導者らが、クネセトの前でデモをして暴力的な扱いを受けたことも知っている。また、10の議会のうち7つでは、職員が1年以上も給料を受け取っていないことも、ベイト・ジャンではゴミが回収されずに街路に放置されていることも知っている。汚水や貧困、失業、土地の差し押さえ、建築に対する罰則にも気づいている。少なくとも現在の若者たちは、軍務につけば優遇措置を得られるという幻想は抱いていない。こういった幻想は消滅してしまった。」

「ドルーズに課せられた義務兵役の撤廃要求は、何よりも人道に基づくものだ。自分の同胞と戦うために強制的に徴集される国はどこにもない。こういったことは自由意志によるべきだ。[イスラエル国籍の]キリスト教徒やムスリム・スンナ派に対しては、自由意志による選択が許されている。」

未来に対して楽観的か?

「非常に楽観的だ。ドルーズは転換期にあると思っている。われわれはウッカールの地位につくことができた。これはとても重要なことだ。ドルーズ連絡議会を設立したのは彼らだからだ。彼らの主な目的は、レバノンとシリアのドルーズとの関係を再構することだ。とりわけ、レバノンにいるドルーズとの関係は大切だ。ドルーズの聖地はレバノンに集中しているからだ。イスラエル政府は、人々の安全を保障するため、宗教上の巡礼に関しては国法に従うと述べている。だが、イスラエルはサウジアラビアとの外交関係を結んでいないのに、スンナ派のメッカ巡礼を許しているし、1967年までは[イスラエルの]キリスト教徒がヨルダンを経由して聖誕教会(ベツレヘム)と聖墳墓教会(東エルサレム)に巡礼することを許していた(註9)。ドルーズだけが聖地巡礼を許されていなかった。われわれの偉大な精神的指導者がレバノンで他界した際、イスラエル政府は長老たちが弔問のためにレバノンを訪問することを許可しなかったが、これは偶然ではなかったんだ。イスラエル政府は、これはドルーズの安全に関わる問題だというわけのわからない理由を口実にもってきた。だが、これは本当の理由ではない。われわれがレバノンの指導者らとの関係を再構することを恐れたからというのが、本当の理由だ。」

イスラエルのドルーズ人口は、全世界のドルーズ人口の5パーセントにとどまっているが、イスラエル政府はこの5パーセントを孤立させて、自分たちの意のままにしようと試みている(註10)。標的となっているのは、イスラエル内のドルーズだけではなく、シリアとレバノンのドルーズにしても同じことだ。イスラエル政府はドルーズを裏切り者にしようとしている。この国で軍務についているからだ。ドルーズの長老たちはすべての省庁と連絡をとり、この問題について精力的に働きかけている。彼らは高等裁判所に訴状を提出しようとしている。これは新しい戦略であり、多くのウッカールにとっては大きな一歩となるだろう。」

(西尾ゆう子訳)


補註

(早尾貴紀)

(註1)ドルーズは、イスラームの一派であるため、スンナ派やシーア派などと並んで「イスラーム・ドルーズ派」と表記をされることもあるが、その異端性や独立性から「ドルーズ教/教徒」と表記をされることもある。ここでは、たんに「ドルーズ」で統一をした。

(註2)ナショナリティは、ヘブライ語で「レオム」というが、この言葉は日本語で「国籍」とも「民族性」とも訳される。しかし、英語にせよヘブライ語にせよ、そのどちらの訳語ともずれるため、ここでは便宜的にカタカナで「ナショナリティ」と置く。「国籍」としては、もちろんドルーズも「イスラエル国籍」を持っており、また民族としては「アラブ」である。

(註3)IDカードなどに記載させられる「ハレオム」(The Nationality)は、民族的出自のことを問うており、通例は「ユダヤ人」「アラブ」などと記載されるが、同時に「クリスチャン」という宗教的なカテゴリーが使われることもある(キリスト教徒のアラブ系市民に用いられる)。ところが「ドルーズ」というカテゴリーは、民族としての「アラブ」とも宗教徒としての「ムスリム」とも別種の区分として差別的に用いられている。このことがここでは問題とされている。

(註4)2000年に、負傷したドルーズ兵が置き去りにされ死亡した起きた事件。負傷者の置き去りというのは、ユダヤ人兵士であれば(たとえ死体であろうとも)ぜったいに起こりえなかった性質のことであり、この事件はドルーズ社会に大きな衝撃を与えた。兵役によって国家へどれだけ忠誠を示そうとも、決して差別がなくならないということを思い知らされ、この事件をきっかけに兵役を拒否するドルーズがいっそう増えたとされる。

(註5)ドルーズ兵は多くの場合、歩兵としてガザ地区やヨルダン川西岸地区でのチェックポイントや家宅捜索、軍事作戦に従事をすることになり、占領下のパレスチナ人と直接対峙させられることが多い。ドルーズ兵のみで一部隊を構成することもある。そのことがまた、占領地のパレスチナ人によるドルーズのイメージを悪化させる一因になっている。

(註6)パレスチナの抵抗詩人として著名であり、マフムード・ダルウィーシュが1972年に亡命をする前には、ガリラヤやハイファでダルウィーシュとともに生活をし、詩作や政治活動を行なっていた。そのためもあってか、サミーハ・アルカーシムがドルーズであることはあまり知られていない。『パレスチナ抵抗詩集(1)ファドゥワ・トゥカン/サミーハ・アルカーシム』(アラブ連盟駐日代表部発行、土井大助訳、1981年)に一部の訳詩があるが、一般に流通した図書ではなかったため、入手は困難である。

(註7)いずれもレバノンのパレスチナ人難民キャンプ。サブラとシャティーラでは1982年にイスラエル軍の支援を受けたレバノンの右派民兵が、タッル・ザアタルでは1976年にシリア軍の支援を受けたレバノンの右派民兵が、パレスチナ難民を襲撃し、それぞれ3000人とも4000人とも言われる死者を出した。

(註8)1979年にレバノンからイスラエルに侵入、ユダヤ人を殺害し逮捕された。以来25年間、現在に至るまで獄中におり、収監期間は最長の部類になることもあって、イスラエル政府とヒズブッラーとのあいだで捕虜交換の交渉があるたびに、クンタールが解放者リストに入るかどうかが最大の駆け引きとなっている。レバノンの難民キャンプや占領地のパレスチナ人にとっては英雄扱いをされているが、彼がドルーズであるということもあまり知られてはいない。

(註9)1948年の第一次中東戦争から1967年の第三次中東戦争まで、東エルサレムとベツレヘムを含むヨルダン川西岸地区はヨルダン統治下にあった。エルサレムは東と西に壁によって分断され、往来ができなかった。そのため、東エルサレムに行くにも、いちどヨルダンに出国をしてから行かざるをえなかったが、当時イスラエルとヨルダンのあいだに国交がなかったのはもちろん、二国は休戦状況にあったため、移動には政府の特別な許可を必要とした。

(註10)イスラエルのドルーズ人口はおよそ7万人で、イスラエル総人口680万人のおよそ1パーセントである。ちなみに、イスラエルのアラブ・クリスチャンは約11万人、アラブ・ムスリムは約110万人となっている(ドルーズとクリスチャンを加えて130万人)。また、ドルーズがもっとも多いのはシリアとレバノンであり、それぞれ30万人と20万人となっている。

附記

ドルーズに関する概論で、唯一日本語で読めるものとして次の本がある。
宇野昌樹『イスラーム・ドルーズ派』(第三書館、1996年)

また、ドルーズのアイデンティティーや兵役の問題に関しては、パレスチナ・オリーブやパレスチナ情報センターにある、下記の文章をご参照ください。

 

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