ユダヤ系イスラエル人左派、アメリカ帝国、そして二国家解決案の終焉:
ロニ・ベン=エフラートへのインタヴュー

MERIP(Middle Eastern Reportのオンライン版のインタヴュー、2003年8月21日


ロニ・ベン=エフラートは、イスラエル・パレスチナの政治分析をしている批判的な左派の雑誌『チャレンジ』の編集者である。彼女はイスラエル国内と占領地のパレスチナ人の権利のために長くに渡って活動を続けており、イスラエル国籍のユダヤ人とパレスチナ人によって構成するマルクス主義政党「民主的行動のための組織=the Organization for Democratic Action (ODA)」の創設メンバーでもある。第二次インティファーダの勃発と、アリエル・シャロンの首相選出以降、イスラエルのユダヤ人社会ははるかに右傾化してきている。ユダヤ人の左派は、その数を急激に減らしつつ、歴史の中でつねにそうであったように、孤立化を深め中傷を浴びている。占領に反対する活動を続ける少数の急進的なユダヤ人活動家らは、正当かつ有効な国際的支援を受けることがない中で、理念的にも政治的にも苦境に陥っている。ヨルダン川西岸地区とガザ地区の再占領と、パレスチナ側の世俗的(非宗教的)左派の崩壊という事態を受けて、 イスラエルの左派はどのような活動形態を取るべきなのか。どのような政治的解決が構想可能なのか。どのようにしてイスラエルの左派は、より広範な世界規模の正義を求める運動と連携しうるのか。地域の平和と正義を求めるイスラエル人による闘争が、どのようにしてこの10年間に渡るイスラエル国内の急激な変化に取り組んできているのか。2003年6月テルアヴィヴで、デューク大学助教授であり『中東リポート』の編集者でもあるレベッカ・スタインが、ロニ・ベン=エフラートに、これらの差し迫った課題について聞いた。

 

質問:2000年秋以降、イスラエルの和平派の崩壊についてさかんに言われています。イスラエルのシオニスト左派と反シオニスト左派の1990年代の歴史は、この崩壊を理解するうえで役立つでしょうか。

回答:はっきりしているのは、1991年の湾岸戦争と1993・94年のオスロ合意がイスラエルの和平派ないし左派にとっての転換点であったということです。1980年代にあった、反戦と親パレスチナの二つの波が去った後に、多くのシオニスト左派とより急進的な左派らが、オスロ合意とアメリカの圧勝とソ連邦の崩壊という考え方の中に取り込まれてしまい、オスロが「唯一の選択肢」であると信じてしまいました。問題は、オスロ和平プロセスに対して労働党が持つ利害について多くの人がたんに誤解をしたということではありません。真の問題は、世界全体で起こりつつある悲劇を、左派が認識することができなかったことです。いまや唯一の超大国によって支配をされていますが、私たちはそれに取り込まれるのではなく、これまでにないほど迅速かつ徹底して政治的なオルタナティヴを作り上げなければなりません。もう一つの悲しむべき展開は、パレスチナ側・イスラエル側の両方で、「政治」が悪い意味をもつ言葉になってしまったことです。多くの政党がNGOという形に解消していきました。確かにNGOもいい仕事はしていますが、ひじょうに細分化したやり方ででしかありません。大きな枠組みで考えられる人がいないのです。

質問:言及された傾向について、もう少し具体的に言っていただけませんか。

回答:その時点でのイスラエルの左派の問題は、パレスチナ側の組織の問題にもリンクしていました。というのも、イスラエルの左派は、これまでそれ自身の勢力として登場したことがないからです。つねにパレスチナの側で生じていることへのリアクションでしかなかった。パレスチナ人の反対勢力の崩壊(PLO主流派のファタハがオスロ体制の側についたという事実)によって、イスラエルの左派が口々にこう言ってしまう事態を生みだしました。「ローマ教皇以上にカトリック的になるなんてことは不可能だ。我々が占領をしている側なのだから、もしパレスチナ人らがオスロを受け入れてしまったのなら、どうして我々がそれに反対することができようか。」左派はイスラエル・パレスチナ紛争という枠を超えて事態を見抜くことができませんでした。もう少し広い範囲を見れば、つまりアラブ世界、先進工業諸国、アメリカなどのことですが、オスロ合意など持ち堪ええないものだということがわかったはずです。オスロ合意は、嘘に基づいて作られたのですから。これが嘘なのは、パレスチナ問題に「真の解決」をもたらすとしたことだけではありません。「世界新秩序」の嘘、グローバリゼーションの嘘のことを言っています。誰もがこの新世界から得をするのであって、機会はすべての人びとに開かれている、と。そしていまや国境などなくテクノロジーがすべての問題を解決する、と。しかしイスラエルの左派が世界にいるパレスチナ人の活動家や知識人と喜んで会っていた一方で、地元のパレスチナ人らはひどく苦しんでいました。どこへ移動することもできず、働きに出ることもできない。いまでも彼らは、イスラエルとパレスチナ自治政府によって、二重の抑圧を受けているのです。占領地では、新聞が廃刊にされたり、政治活動家が逮捕されたりしています。ヤーセル・アラファト議長に反対するものは誰であれ、即座に刑務所行きです。

 

質問:イスラエル左派は、アラファト体制に対して、どのように応えてきたのでしょう?

回答:人権団体のブツェレムと私たち以外には、誰も自治政府を批判しようとはしませんでした。大半の左派らは、こういう恩着せがましい寛容さを共有しています。「まだ自治政府は発足したばかりではないか。一朝一夕ですべてが変わるはずがないのだから。」と。ブツェレムが1990年代後半にパレスチナ自治政府の人権侵害についてのレポートを発表したときには、 イスラエルの急進的左派の中からさえ、「それは我々には無関係だ」という声が上がりました。これは基本的人権に対するもう一つの裏切り行為であり、西岸やガザにおける現実に真っ正面から立ち向かうことができていませんでした。

 

質問:和平派の多くが2000年7月のキャンプ・デービッド会談に失望したのは、彼らが「アラファト側の和平ためのパートナーを失ってしまった」と考えたからです。第二次インティファーダが始まったときには、それはすでに和平派からはさらなる裏切り行為であると見なされていました。イスラエルの和平派の中の急進派もまたこの見方を共有していましたか。

回答:もしオスロが一つのターニングポイントだったとすれば、キャンプ・デービッドは二番目のポイントだったと言えるでしょう。イスラエルの左派は地図を読み間違えました。キャンプ・デービッドではイスラエル首相エフード・バラクが代表でしたが、その会談はオスロ和平プロセスの頂点となるはずだったのです。ところが実際には、その希望のための基礎は完全に欠如しており、かつ人びとはそのことを直視しようとはしませんでした。アラファトは、この物語の中ではわき役の登場人物にすぎません。キャンプ・デービッドでアラファトに署名をさせなかったのは、パレスチナ民衆の力です。アラファトは、自分がこの合意に署名をできる立場にはまったくないということに気づいていました。和平派と左派は、パレスチナ人らとやり取りをしていたのであって、アラファトとではありませんでした。キャンプ・デービッドの失敗とインティファーダについて誰に責任があったのかと問えば、和平派はパレスチナ民衆だった言うでしょう。これはもっと大きな問題を引き起こします。もし自分が「解放」したいと思っているまさに同じ相手と敵対するという地点に達してしまった場合、あなたならどの立場を取りますか。ほとんどのイスラエルの左派は、オスロ合意の年にパレスチナ人が受けたフラストレーションと苦痛と屈辱を理解することができず、また理解しようともしませんでしたが、まさにそれこそが第二次インティファーダの主たる問題だったのです。唐突にイスラエルの左派はパレスチナ人に失望をしてしまったのです。しかし、何にそんなに失望をしたのでしょう。パレスチナ人らがオスロ和平プロセスに、イスラエルの左派に失望していたことを理解していなかったのでしょうか。そして、左派が作り上げようとしている「新中東」の富をオスロが不均等に山分けしていることを左派が見ていないことに、パレスチナ人が失望していたことも理解していなかったのでしょうか。パレスチナ人らが失望し、イスラエル人が失望し、それが生みだしたのは(相互)不信でしかありません。イスラエルとパレスチナのインターナショナリストの活動家による会合が生みだした1990年代の現象は、キャンプ・デービッド以降はもう消滅しました。いまでは、ひじょうに重要な地位を持つイスラエル人作家や活動家らが、突然に反パレスチナに転じ、こう言っているのを見いだすことができます。「いまや我々は、あなた方の本性を理解している。」と。

 

質問:左派と第二次インティファーダについて、もう少しお聞かせください。

回答:私が注目したいのは、第二次インティファーダを読み違えているインターナショナリストの左派です。彼らは、これを民族解放運動だと信じていました。つまり、1980年代後半の最初のインティファーダの第二波であると。私たちODAは、第二次インティファーダを支持しませんでした。はじめのうちインティファーダは、オスロ体制に対する人びとの深刻なフラストレーションを反映してはいませんでした。しかし、政治的なオルタナティヴがまったく欠如していたために、すぐさまこのフラストレーションに乗っ取られてしまったのです。それでインティファーダが、三つの勢力に収斂して終わっていることがわかるでしょう。一つはパレスチナ自治政府で、彼らはオスロ合意にまだ縛られているために、公然とはインティファーダを支持できませんでした。しかし背後では物資を与え支援し、アラファトが失った威信を取り戻すためにこれを利用しました。二つ目はファタハで、彼らもインティファーダを利用して、亡命地から戻ってきたPLOメンバーによって奪われた(と思い込んでいる)ポジションを取り返そうとしていました。私には、ファタハが本当に状況を理解していたようには思えませんし、パレスチナに新しい別の社会をつくるために闘うモチベーションを持っていたとも思えません。彼らはイスラエル軍を打ち負かす可能性をまったく持っていないにもかかわらず、それが目標であると言っていたのです。三つ目の勢力はもちろんハマースで、オスロ以降も武装闘争を緩めなかった唯一の組織でした。このインティファーダは彼らのものです。ハマースは、次々と起こす自爆攻撃によって、5年以内にパレスチナを解放すると人びとに約束しました。言うまでもなく、完全にナンセンスです。倫理的にも政治的にも。パレスチナの左派は、ハマースの粗野な言説に完全に取り込まれてしまい、その人数を悲惨なまでに減らしました。

インターナショナリストの左派らはアリエル・シャロン首相に反対をすることで、地図を読み間違え、このインティファーダが変革への媒介であるとみなしました。しかし、私は変革にはなりえないと思います。メッセージも戦略も目標もないのですから。一つの例を示しましょう。ラマッラーでイスラエル兵二人をリンチで殺した、あの評判の悪くショッキングな事件ですが(2000年10月)、私はインティファーダ前であったならそういうことは起こりえなかったと思います。政治対話を担っていたはずの、良識のある世俗的な左派のリーダーシップが欠如してしまったことで、パレスチナ社会はおそらく変わってしまった。最初のインティファーダのときには、進歩的なパレスチナ人組織が、ユダヤ人とシオニストを、あるいは少なくともユダヤ人入植者らと平和活動家らをきっちりと区別できていた。今日では、経済状況の悪化のためだけでなく、左派のリーダーシップがなくなってしまったために、「ユダヤ人」というたった一つのバスケットに誰もかれもを投げ込んでしまっています。

質問:つまりあなたのご判断では、イスラエルの左派は、完全に分析を欠いていると。

回答:そうです。もし彼らがインティファーダを見ていたとすれば、それはまずなによりも、オスロとオスロを導くすべてに対してノーと言う方法としてだったし、いまでもそれでしかない。しかし、理解しなければならないのは、イスラエル人らはまったく新しい解決方法を探らなければならないということと、中東を見るに際してシオニストとアメリカの至上性というプリズムを通すのをやめなければならないということです。ほとんどのイスラエル人が、ここのポイントまでは見ようとしなかった、つまりシオニズム・アメリカのプリズムを通してしか現実を見ようとしてこなかったのです。

 

質問:キャンプ・デービッドとインティファーダの後で、あなたがたは新しい形の政治戦略を追求し始めたわけですが、多くのイスラエルの左派はそうはしませんでした。ではどのような道を彼らは取ったのでしょうか。

回答:イスラエルの左派の大部分は、労働党とピース・ナウの人びとですが、彼らは主として入植地に焦点を当てました。彼らは政治的には撤退をし、事態が好転する日を待望し、そして失望をしていました。その他の左派はひじょうに少数でしかなく、彼らが始めたことといえば、イスラエルの占領によって引き起こされる苦難を多少とも緩和しようとしたことくらいです。とりわけ、2002年4月にイスラエルがパレスチナ自治政府管轄(A地区)の再占領をして以降は、毛布や小麦粉などの支援物資を運び込むことくらいのものです。確かに、占領地の状況は現時点でもひじょうに悪く、封鎖と貧困が深刻です。食糧や医薬品も手に入らない人びともいます。しかし、問題は毛布と小麦粉よりもはるかに大きいのです。この問題には二つの局面があります。パレスチナ社会は、現在の指導部に替わるオルタナティヴを内部から作りだすことができるのか。パレスチナの指導部が長期的に見て和平合意にサインをするつもりがあるのであれば、何袋の小麦粉を運び込むことができたかは問題ではありません。そしてイスラエル側の問題としては、左派が相変わらず中東を自らの至上性というプリズムを通して見続けるのか、ということです。イスラエルは、つねにアラブ世界よりも優越していなければならないのでしょうか。

質問:つまりあなたがおっしゃっているのは、連帯運動の活動家らは占領の構造を支えてしまっているということでしょうか。

回答:私たちも、人道主義者の使命としては連帯運動をすることもありえますが、それはパレスチナ側の空洞状態に対して政治的対案を立てるという条件においてです。もし占領地でかつてのように良識のある左派組織を私たちが今日も見つけられるのであれば、そしてもし支援物資を運び込むことで、よりよい社会構造を作ろうとしているグループを支援することになるのであれば、それなら私たちも戦術の一つとして物資支援の連帯運動をするでしょう。しかしそれで本当に飢えが緩和されるとは考えないほうがいいでしょう。国際的な注意を喚起するくらいの意味しか持ちません。しかし、もし占領地の側で諸政党がこうした連帯支援を、改革のための政治的チャンネルに変換しようとしなければ、そして残念なことですが、もしいまのパレスチナ指導部が民衆に毛布や小麦粉を配分できなければ、指導部は替えられるしかないでしょう。しかし、もしあなたが毛布と小麦粉を運び込んでいたとすれば、どうして指導部は変わりますか。

 

質問:世界的に見て、イスラエルの世論だけがイラク戦争を支持するアメリカの世論に迎合しました。シオニストと反シオニスト両方の左派は、この戦争欲望に対して、どのように応えたのでしょうか。

回答:不運なことに、イスラエルの左派は全体として、差し迫ったこの戦争の危機を理解していませんでした、またしても。というのも、彼らは相変わらずイスラエル・パレスチナ紛争というひじょうに狭いプリズムにこだわっていたからです。ここに私たちは、アメリカに生まれつつある準ファシズム指導体制を見いだすことができます。本当に恐ろしいのは、ディック・チェイニー文書です(1992年の防衛政策のガイドラインで、2002年にホワイトハウスに取り入れられた国家的治安戦略の先駆であると広く認められている)。そこではっきりと言われていることは、アメリカによる世界支配をできるだけ長く確実にするには海外に積極的に出ていくということです。この戦争が始まる前に、私たちはイスラエルで反戦運動の連合を組織しようとしましたが、私たちは失敗したと言わなくてはなりません。アメリカ大使館の前で数回ほどデモを行ないました。もちろんデモ参加者らが戦争を実際に止められるとは思っていませんでしたが、しかし反対の声を高めることはとてもとても大事なことだと考えていました。長い目で見れば、イスラエル・パレスチナ紛争は、イスラエルとパレスチナ、イスラエル人とパレスチナ人という要因のみでは解決不可能であるということを私たちはみな知っています。この問題は、世界の勢力バランスが変わったときに初めて解決可能なものです。戦争前に世界規模でデモが始まったことは、ブッシュ政権が世界にもたらそうとしている危険に世界各地の人びとが気づいているということを示す重要な徴候です。しかし不幸にも、イスラエルの中の左派は、この危機に正面から向き合うことができなかったのです。

質問:既存の急進的左派らが、世界の反戦デモの流れに加わり損ねたということを、どのように理解されましたか。

回答:結局のところ彼らがアメリカをピースメーカー(調停者)と見なしたという事実によって説明可能です。アメリカなしには「ロードマップ」はありえず、アメリカ以外には誰もイスラエルに対して協定による和平を「強いる」ことができない、と。彼らは、アメリカは主戦論者であるとして反対するデモを行なうこともできず、むしろ和平のためにアメリカに来てくれと頼んでいるのです。アメリカがイラクにおける占領を所管しているというのに、どうしてアメリカが、何十年も続いている別の占領(パレスチナ)を解消できるというのでしょうか。アメリカがイスラエル・パレスチナ紛争を解決してくれるのを待ったところで、そんなものは起こりません。私が注目すべきだと思うのは、私たちが行なったおよそ七つほどの独創的で大掛かりな活動です。その抗議行動には、芸術家コミュニティとユース・コミュニティが、つまり政治的活動をした経験はないけれども戦争の問題には関心があるというイスラエル人らが参加をしたのです。例えば、ヴェート・シアターでのイベントでは、30人の独創的な表現者らに出演してもらい、250人ほどが押し寄せました。私は、およそ政治には無関心な人びとについて語っています。彼らは、内心ではこの戦争は間違っていると感じていて、反対の声を上げなくてはと思っている、そういう人びとです。彼らの行動はたしかにとても重要でしたが、しかしそれは継続した活動には展開していきませんでした。いったん戦争が終わってしまえば、運動も終わってしまったのです。

 

質問:歴史的に見て、ユダヤ系イスラエル人の左派は、イスラエル内のパレスチナ人の置かれた状況について深刻に考えてきませんでした。しかし、この分野こそが、あなたがたがこの数十年ずっと取り組んできたものです。この歴史的な局面において、イスラエル国内のパレスチナ人は、どのようにより大きな地域紛争の中に位置づけられるのでしょうか。

回答:パレスチナ人らはイスラエル国内では、マイノリティとして長く差別を受けてきました。これはいまでも変わっていません。第二次インティファーダが始まったときに、それはイスラエル内のパレスチナ人にも飛び火しました。そのインティファーダは下から上へ向けて発生したものだったからです。オスロ体制下でイスラエル人社会だけが豊かになっていることに対する怒りが、パレスチナ人の町では見られました。投資はイスラエルへとなされるのに、そのイスラエル国内のパレスチナ人社会には何も来ないのですから。イスラエル内のアラブ人たちは、自分らの存在は、アラブ世界とイスラエルとのあいだの媒介であると思っていましたが、しかし(オスロ以降)彼らは脇へとどかされたのです。

私たちODAでは、イスラエル内のパレスチナ人の失業問題に取り組み始めました。イスラエル全体の失業率は10パーセントであるのに対して、アラブ人地域における失業率は20パーセントにまで達しました。オスロ以降の経済構造は、2000年10月の騒乱(第二次インティファーダの始まり)の一因になっています。軽工業はイスラエルからはすべて消え去り、イスラエルはハイテク国家になりました。他方で、ハイテク産業は、アラブ人には「治安」問題を理由として禁止されているのです。イスラエルと占領地両方のパレスチナ人は、建設産業においてはこれまでつねに主要な労働力となってきました。しかし、当時のイツハク・ラビン首相が1993年に封鎖政策を宣言してからは、占領地のパレスチナ人は締め出されました。イスラエルは外国人労働者を輸入しはじめ、それはイスラエル・アラブの労働者を追放するのにもとても好都合でした。1995年から2000年までのあいだに、3万5千人のイスラエル内パレスチナ人労働者が建設産業において失業者となったのです。(安価な)外国人労働者は国家にとっては経済的でした。2001年から2002年にかけて、私たちは現場の失業問題を解決する方法を探り始めました。大きなイスラエル企業の中のアラブ人施工業者らの現場と交渉をするのです。その一年で、およそ600の仕事場と交渉を行ないました。もちろん私たちは、外国人労働者の排除を支持するものではありません。しかし、彼らの「輸入」を終わらせることは、断固として支持します。

 

質問:いまや既存のイスラエルの左派は、二国家解決の実行可能性について疑問を呈しはじめています。あなたがたは、そしてあなたがたといっしょに活動をしている組織などは、この問題について最近はどのように取り組んでいらっしゃいますか。一国家解決案はいまだに実行可能なオルタナティヴでしょうか。

回答:第一次インティファーダの後と、それから1980年代を通して、私たちは二国家解決を強く支持していました。しかしオスロ以降は、イスラエルが二国家解決を望んでいないことは明らかです。イスラエルが思い描いているのは、自分らの影響下に置かれたパレスチナ人存在も含めたイスラエルだけの主権国家です。「ロードマップ」の文脈においてさえも、イスラエルは決してパレスチナの主権国家については語ろうとしません。オスロがなしえたことは、二国家解決がもはや不可能であるということを明らかにしたことです。国際的な文脈から言っても、いったい誰がそれを実行できますか。あるいは誰がそれを強制できますか。イスラエルとパレスチナの両方の知識人の中には、まだ一国家解決について語っている人もいます。しかし、私はこれは、一種の知的ゲームだと思います。二国家解決にすらたどり着けないというのに、どうやって一国家にたどり着けるというのでしょうか。

基本線はこうです。中東に公正かつ公平な解決がありうるためには、世界像から変わる必要があります。究極的には、世界的な変化は、先進工業国の側から起こらざるをえないでしょう。第三世界は疲弊しています。ソ連邦がまだ健在だったときには、第三世界に頼ることも可能だったでしょう。しかし今日では、アメリカだけが唯一の超大国です。そしてもし対抗勢力がないとすれば、近い将来においては問題の解決がありえないということになってしまいます。だからこそ私たちは、注意深く反グローバリゼーション運動と反戦運動を見て、そしてこれらの領域から世界的な対抗勢力が現れることを期待しています。これまでのところ、これらの運動は、自ら実際の政治勢力を形成していこうとは望んでいないようです。抗議活動はいいですが、それでは不十分です。もしシステムを変えたければ、体制を変えなければなりません。権力を敬遠するだけでは体制は変えられません。

質問:あなたのご判断では、イスラエルの左派は、紛争に関するより大きな世界的枠組みを見誤ってきたということですね。相変わらず連帯運動に力を注ぎ、それが前提としているパレスチナ対イスラエル、占領者対被占領者という二項対立に焦点を当てている。いまだに1980年代のパラダイムで動いているということですね。

全くその通りです。イスラエルの左派はすでに燃え尽きました。疲れ切っています。世界的なパースペクティヴも持っていません。イスラエル・パレスチナ紛争は大きな紛争ですが、しかしもっと巨大なものが、つまり世界紛争があるのです。もし私たちが中東に公正な解決を望むのであれば、これこそが取り組まなければならない紛争なのです。

(早尾貴紀訳)

 

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