生産者とその背景

活動の様子は「草の根ニュース」「パレスチナ・オリーブ通信」をご覧ください。

[MAP] Palestine

この他、世界各国に約450万人のパレスチナ人が住んでいます。


「ガリラヤのシンディアナ」について

「ガリラヤのシンディアナ」は、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル)、コフル・カナ村と周辺の村々における非営利団体であり、高品質な無農薬栽培オリーブオイルなどを生産し国内外に販売しています。1996年に、HPH(後述)の農業部門として発足し、その後、一つの組織として独立しました。農家がオリーブ栽培を発展させること、生産意欲と収入を高めること、女性の仕事を作ることを目的としています。2003年、IFAT(国際オルタナティブ・トレード組織連盟)へ加盟しました。

また、ナーブルス(ヨルダン川西岸地区)で作られている高品質のオリーブ石けんを海外に紹介、販売してパレスチナ自治区の産業も支援しています。

1.「ガリラヤのシンディアナ」の活動

農業活動として、以下のことが中心に行われています。

2.構成メンバー

この他、農業専門家、ボランティアスタッフなど複数の人たちが協力して活動が行われています。

3.効果

このほか、収穫や苗木の植樹のときにユース・ボランティア(パレスチナ人、ユダヤ人、外国人)が協力したり、と複合的な活動を行い、地域に刺激を与えています。

「ガリラヤのシンディアナ」には以下の団体と連携して活動しています。

●HPH(ハニトッツ・パブリッシング・ハウス)

■出版部門
アラビア語月刊誌al-Sabbar、英語隔月誌Challenge、ヘブライ語季刊紙Etgarを出版。オルタナティブ情報満載。

■教育部門
女性フォーラム、子供向けの放課後授業、ユースキャンプ、ワークショップなど教育・文化・社会活動などを行なっています。ナザレやコフル・マンダ村(ガリラヤ地方)のマアンの事務所を使って活動をしています。

●マアン(WAC=ワーカーズ・アドバイス・センター)
イスラエル国内で民族的・階級的に差別されているパレスチナ労働者のための労働組合。ナザレ、ガリラヤ地方、東エルサレムに事務所があります。具体的には、建設会社や農場へパレスチナ人労働者の雇用、労働条件の改善を求め、イスラエル内のパレスチナ人、東エルサレムのパレスチナ人の仕事を獲得しています。「ガリラヤのシンディアナ」と共同でカゴ作り・販売のプロジェクトを開始しました。

イスラエルのパレスチナ農業と生産者をめぐる環境

オリーブは中東地域原産の基本的な農作物の一つであり、何世紀にもわたってこの地域のアラブ農民を支える大黒柱でした。1948年のイスラエル「建国」以来、農地の没収や水の配分の不公平さのために、柑橘類やタバコのような伝統的に利益をもたらしてきた作物が栽培が難しくなった中で、オリーブはイスラエル国内でパレスチナ農民たちが今も生産者の多数を占めている唯一の作物となっています。イスラエル国内でパレスチナ人が所有している土地70万ドゥナムのうち(1ドゥナム=約900平方メートル)、10万3千ドゥナムにはオリーブの木が植えられています。

パレスチナ人たちにとってのオリーブの木は土地とのつながりや共同体の継続性を象徴するものでした。1948年に15万ドゥナムに植えられていたオリーブの木は、パレスチナの土地の大規模な没収によって1970年までに8万ドゥナムに減ってしまいました。ところが、1970年代になって人口の増加に伴いオリーブ需要が高まりました。加えて、パレスチナ人が所有している土地の没収を防ぐことが必要だとの認識が広がってきました。そして1980年代に岩地を開拓してオリーブの木を植え、13万5千ドゥナムに回復したのです(そのうち10万ドゥナムをパレスチナ人が、3万2千ドゥナムをユダヤ人が所有しています)。*この数字は1990年代のもので2000年代に入って需要の拡大を受け、ユダヤ人のオリーブ栽培が増加しています。

しかし、イスラエル国内のパレスチナ人が生産したオリーブ油の流通や販売は、ずっとイスラエル当局によって妨害されてきました。イスラエル農業省は、パレスチナ人のオリーブの栽培を奨励したり援助したりすることは一切せず、十分な水の割り当ても行いませんでした。市場もイスラエル企業によって独占されており、農民の収益は低い状態に置かれています。近年、イスラエル市場では、もっと安い輸入物がヨーロッパなどから入ってきたこと、パレスチナとの「和平」も崩壊し、経済も破綻してきている(株価の下落、GNPのマイナス成長)ことから、イスラエル市場で販売していくことはさらに難しくなってきました。

イスラエルのパレスチナ人

パレスチナの地にユダヤ教徒の国イスラエルを作ろうという、19世紀末からのシオニズム運動の結果、1948年前後には70〜100万人のパレスチナ人が故郷を追われて難民となり、また約80万人のパレスチナ人がヨルダンあるいはエジプトの統治下に置かれた一方、約15万6千人のパレスチナ人がイスラエル領内にとどまりました。イスラエル領内のパレスチナ人都市・町村は1966年まで軍政下に置かれ、多くのパレスチナ人所有地がイスラエルに接収されました。1967年には第三次中東戦争が起こり、その結果、ガザ地区とヨルダン川西岸地区への新たな占領が始まりました。現在、イスラエルのパレスチナ人は約120万人に達し、イスラエル総人口(約620万人)の2割弱を占めています。

彼らは、イスラエル国籍を持つもののユダヤ人の一段下の二級市民として扱われ、3K労働以外の仕事に就くことは難しく、経済的にも厳しい状況に置かれています。また、自らをアラブ系イスラエル人と認識するか、パレスチナ人として認識するかなどの文化やアイデンティティの問題、自治などの政治的問題等複雑な問題を抱えています。

→イスラエルのアラブ/パレスチナ人に関する情報サイト「坂の街石の家」


ナーブルスの石けん工場

パレスチナ・オリーブ石けんは、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスの石けん工場で作られ、「ガリラヤのシンディアナ」で包装・出荷されています。

オリーブの実とオリーブオイルはパレスチナのあちこちで取れますが、オリーブ石けんは古くからの産業都市ナーブルスがもっとも有名です。パレスチナ・オリーブ石けんを作っているのは、ナーブルス伝統の石けん工場を営む家系の一つティベーレ家で6人の職人さんが働いています。

地元の原材料で作られた最高の品質のオリーブ石けんをこそ海外に紹介・販売して、活動を広げる、そしてパレスチナと経済的に結びあっていこうと考えていた「シンディアナ」、純粋に混ぜ物なしの理想のオリーブ石けんを形にしたい、世に出したいと考えてきた石けん工場。この両者が出会って高品質のオリーブ石けんが作られています。イスラエル軍によって、家屋だけでなく工場や道路などパレスチナの産業が破壊されている中で、働く人たちと石けん産業の維持を支援することはますます重要になっています(写真は、石けん製造の過程で粒状にした石鹸素地を乾燥させているところ)。

ナーブルス

石けん工場のあるナーブルスは、エルサレムの北63kmの所に位置する内陸部の都市で、山の狭間にありもともと水が豊かで緑に囲まれていました。およそ9000年前からアラブ・カナーン人の町として発達したと言われている歴史ある町です。

1948年にイスラエルの建国が宣言され第1次中東戦争が起きてから、ヨルダン川西岸地区はヨルダンの統治下に置かれてきましたが、1967年の第3次中東戦争でイスラエルに占領されました。1993年にはイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の間で暫定自治合意(オスロ合意)が結ばれ、その後パレスチナ自治政府の管轄となりましたが、現在いわゆる「和平プロセス」は崩壊し、パレスチナ国家の独立が果たされてないだけでなく、イスラエル軍による再占領が行われています。

とくに2000年9月末以降は、ナーブルスでもイスラエル軍の侵攻、空爆、町の封鎖、外出禁止が断続的に行われてきました。封鎖や外出禁止の時には、原料の調達もできず、石けん工場へ行くこともできません。また、製品となった石けんをナーブルスの外に運ぶにも検問所や分離壁に妨げられ困難が続いています。


イドナ女性組合

1998年設立、ヨルダン川西岸地区イドナ村で刺繍製品を生産し、スンブラ(パレスチナの女性生産団体ネットワーク)や、パレスチナ・オリーブを含むいくつかの海外の団体に販売しています。メンバーは、村の女性約55名(縫製4人、刺繍50人)。中心スタッフ3名が週3日センターに常駐し、刺繍は各家庭で空いた時間に行なっています。イスラエルへの出稼ぎが断たれ男性たちの仕事がない中、女性たちの仕事がそれぞれの家庭で唯一の収入源になっています。

 

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