(1)生い立ちと夢       宗一郎幼少 宗一郎  井深幼少 大
 日露戦争が終わり、日本が近代化へとひた走っていた20世紀初頭、本田宗一郎と井深大は相次いで生まれた。
 西洋先進国と日本では技術力に格段の差があった時代、二人は生き方を決定する体験をする。宗一郎にとっては飛行機と自動車との出合いだった。学校をさぼり、20キロの道のりを自転車で飛ばして見に行ったアメリカ人の曲芸飛行の感激。村に来た自動車のエンジンの爆音に胸を震わせ、ガソリンとオイルのにおいを吸い込んで宗一郎は心に決めた。「いつか自動車を作ってみたい」。
 同じころ井深少年は科学に目覚めていた。大人の手にも負えない外国製の組み立て式玩具や、電気時計、モールス信号機がおもちゃ代わりというなかで「ものづくり」のコツを得ていく。またアマチュア無線の黎明期にあって、高価なうえ、無免許者には買うことのできない受信機をなんとしても手に入れたい中学生の井深は、パーツと真空管を買い手作りに成功、ラジオの試験放送まで傍受してしまう。
生まれも育ちも対照的ながら、二人に共通する好奇心と探究心は、どんなふうに育まれたのか…彼らの少年時代と夢見たものを追う。

・T型フォードとの出会いが 宗一郎の「夢」の原点。
・卒業論文 早稲田大学在学中から学生発明家として名を馳せた井深の卒業論文。
 (2)創業と発展
 高等小学校を終えるころ、宗一郎の家は自転車店として評判になっていた。父親の読む業界誌で知った自動車修理工場にあこがれ、手紙を書いて丁稚奉公を願い出た。生涯の財産となる修理工の経験はここで得たものだ。22歳で独立を許され、「アート商会浜松支店」を開業。社員1名のささやかなスタートを切った。
一方、名門中学を経て早稲田大学へと進んだ井深は「走るネオン」などの発明で、学生発明家として知られるようになっていた。その技術力は軍関係者にも評価され、潜水艦の探知機などで実力を発揮したものの、敗戦後は「やりたいことをやれるところを自分で作ろう」と焼け残ったビルの一室で「東京通信研究所」を立ち上げた。
 一面の焼け野原の中、敗戦のショックで誰でもが途方に暮れていた時、宗一郎と井深は違っていた。こんな時代だからこそ、新旧大小の関係なく誰でも新たなスタートラインに立てると考えた。ともに得難き人材を得て、「本田丸」「井深丸」という小舟で大海に乗り出す。日本の再建を目指し、将来を切り開こうと

・ホンダA型 初めてホンダの名で製品化した自転車補助エンジン。
・ドリームE型 画期的な4サイクルOHVエンジンを搭載した本格的なオートバイ。
・テープレコーダーG 日本初のテープレコーダー。官公庁・企業向けに井深が開発。
 (3)失敗を恐れるな
 宗一郎いわく 「成功は99%の失敗に支えられた1%である」。井深いわく「トライ・アンド・エラーを繰り返すことが経験と蓄積になる」。失敗を教訓とし、恐れることなく、また新しいことに挑戦していく…そうした技術者魂が、あとに続く若い技術者たちを育てていった。
 宗一郎は消費者の立場から、「安全かつ良心的」との理由で空冷式エンジンに固執、渋る現場に開発を迫り続けた。度重なる設計変更に研究者たちは疲弊、製造ラインも混乱を極めた。「困難は承知のうえだ。だからこそ挑戦するのだ」。トップとして、若い技術者たちにそう教えたかったのではないか。結局は空冷式を断念、水冷式にシフトしたものの、この時期とことん可能性を突き詰めたことが3年連続日本カー・オブ・ザ・イヤーに輝く「シビック」の開発につながっている。二輪世界GPやF1に挑戦し続けたことも、国際市場で通用する技術力さらには社員の団結を生んだ。
一方ソニーは、1950年代半ばトランジスタ生産技術を開発するものの、資本力のある他社に生産量で追い抜かれていたことを指し「モルモット企業」と揶揄された時期があった。しかし技術を独占することなく、むしろ積極的に他社に活用を促したことで日本の電子工業全体が成長することができたといえる。海外輸出が増え、電子王国として世界的に認知されるようになったのは、先駆者たらんとする井深の面目躍如といったところか。クロマトロンの失敗を経て取り組んだトリニトロンテレビの開発では自身が終始先頭に立った。すでに他社で一般的だったブラウン管は井深の目には不完全だった。「あえて困難に立ち向かえば、そこで培ったノウハウが必ず次に生きる」「ソニーにしかできないことをやるんだ」。この信念は次の世代に受け継がれ、一世を風靡した「パスポートサイズのハンディカム」などを世に送り出した。

・ホンダS600 ホンダ初の小型スポーツカー。華麗なスタイルで、今でもファンが多い。
・ホンダスーパーカブC100 世界各国で愛用されている、20世紀最大のベストセラー小型バイク。
・クロマトロンテレビ 技術的困難に挑戦した意欲作だが、短期で販売を断念。
・トリニトロンテレビ クロマトロンでのつまづきを見事に乗り越えた大ヒット商品。
 (4)夢のつづき
 日本は世界有数の経済大国と言われるようになり、二人の夢も実現されたかに見える。だが、本当にそうだろうか?
 宗一郎の場合、自動車を作り、世界レースで優勝することだけが夢ではなかった。技術を磨き、顧客にすぐれた廉価な製品を提供するため精度と量産性にこだわった、これも宗一郎のもうひとつの夢といえる。また、いったん撤退したF1レースへの復帰は「従業員に夢を持たせる」ためだったという。
「ものづくり」の夢を実現した井深にとって、次なる関心は「人間の心」だった。もともと教育普及活動に熱心だったが、幼児教育にも力を入れた。「心が育まれてこそ、知恵や知識がついてくる」と晩年の著書で述べている。
二人の軌跡をたどり、心に響くこと…「夢」は見飽きることなく、「創造」は限りなく続く…熱いメッセージが今日の「不況ニッポン」に投げかけられている、そんな気がする。

・設立趣意書 東京通信工業設立にあたって、井深が起業理念を記したもの。
・トーキングカード 第一線から退いた井深が手掛けた幼児用の語学学習玩具。

■HONDA     ■SONY

ウオークマン


ウォークマン TPS−L2
「井
深の楽しみから生まれた」。海外出
張のとき、機内に持ち込める小型ステレ
オカセットプレーヤ3万3000円
(1979年)
ラジオ


トランジスタラジオTR-55
お茶の間でみんなで聞くラジオから
パーソナルラジオへ 1万8900円
(1955年)
カブF


カブF
「ひらめきは運命を大きく変えた」
自転車用エンジン付二輪車
半年で2万5000台を売り上げた
(1952年)
初期のテープレコーダー


テープレコーダーG型
日本最初のテープレコーダー
重さは40キロ以上、16万円という
重厚型
(1950年
初期のF1


初期のF1 RA273
世界への挑戦第一歩
1965年、RA 272で出場した
メキシコGPで念願の初勝利
(1967年) 
S600


オープンカーS600
徹底的にデザインにこだわったSシリーズ
アメリカの俳優もオーナーに
(1964年)
ポータブルテレビ


ポータブルテレビ
世界初の直視型トランジスタ式
6万9800円
(1960年)
初期のテープレコーダー


 テープレコーダーH型
トランク型のケースに収められている
インダストリアル・デザイン
(1951年)
RC−162


RC162
ドイツGP250ccで高橋国光が日本人
初優勝を果たした
 (1961年)

トリニトロンカラーテレビ



トリニトロンカラーテレビ
画期的なカラーテレビの誕生
11万8000円で発売
(1968年)

スパーカブC50


スパーカブC50
出前で、新聞配達で、郵便配達で!
徹底的に操作性と利便性にこだわって開発
(1966年)

ジュノオK


ジュノオK
雨風を避けるスクリーンなど豪華装備と
華麗なスタイルが自慢のスクーター
(1954年)
      (展示構成が多少変更になる場合があります)