上越・高田寺町界隈寺院ガイド


 「越後高田に過ぎたるものは犬・寺・道心・時の鐘」と城下の繁栄を囃された上越市のシンボル高田城は、慶長19年(1614)徳川家康の六男松平忠輝公の居城として築かれました。
 築城にあわせて城下の整備も行われ、儀明川の西側に寺院を集中させました。これが寺町の始まりといわれています。
 しかし、忠輝公の築いた高田城下は、寛文5年(1665)の地震で大被害を受けてしまいます.現在見られる寺町のまち並みは、当時の高田城主松平光長公によって、新たに復興されたものと考えられています。
 今でも、63カ寺もの寺院が甍を連ねており、通りを挟んで、二列に整然と配置されている寺町の景観は、たいへん珍しい寺院群として全国的にも他に例を見ないものです。
 深いみどりと静寂な寺町のたたずまいは、私たちの生活に安らぎと潤いをもたらし、まちに”奥行き”を与える空間となっています。



[善行寺] [太岩寺] [大嚴寺] [長徳寺






高陽山 太岩寺 曹洞宗
戦前の寺町の風情を今に残す
太岩寺  関ヶ原の合戦に敗れ。堀秀治に預けられた岩村城主(岐阜県岩村町)田丸直昌が開基と伝えられています。直昌は、名立寺(西頚城郡名立町)第6世の忠山泉恕に帰依して、慶長10年(1605)に福島城下小町川のほとりに太岩寺を建立しました。
 現在の場所へは、寛永年間(1624〜44)に移りました。境内には閻魔堂や直昌の墓があります。また、境内の周辺には、水田が残り、戦前の寺町の風情を今に伝えています。




五台山 常住院 大嚴寺 浄土宗
足利尊氏の菩堤所として創建
大嚴寺  杉並木の参道とツツジの美しさで広く知られている大嚴寺は、正長元年(1428)に永受によって足利(群馬県足利市)に創建されました。はじめ永徳寺といい、足利尊氏の菩提所でした。
 慶長16年(1611)、台山によって寺町に移され再興されました。この時、大嚴寺と改め、今にいたっています。
 現在の場所には、寛文5年(1665)の地震後にうつりました。
 かって境内に正受院と長現院の塔頭がありました。






洞獄山 長徳寺 曹洞宗
寅御前が寄進したお地蔵さま
長徳寺  上杉謙信の母、寅御前が寄進したと伝えられている地蔵菩薩が境内に祀られています。
 このお地蔵様は「まま子地蔵」と呼ばれ、信仰を集めてきました。また、前庭には金棒を握りしめた石の鬼や小石、泣く子供の像が配され、さながら「賽の河原」を表現しているようです。しかし、この鬼、どこかユーモラスで憎めません。
 元文年間(1736〜41)に正寿によって創建されたと伝えられています。もともと顕聖寺(新潟県浦川原村)の末寺だったそうです。





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