神様のボートの話。 あの結末って・・・
液体だったらいいのに
箱に入る
おかしとバターは得意
子供と恋愛はテーマ
何のためにかくのか
3歳の頃の手
水浸しの絵の話
誰に作品を読ませたいか
たとえ話が出てこない
新作の話 ぼうしときゅうりと数字の2
愛は再生できない。 失われた愛について。
校正の話。 赤ペンで・・・
三省堂のパンフ
大盛りご飯ととんかつ
ひらがなについて

神様のボートの話。 あの結末って・・・

川上さんから江國さんへの質問。 あの本を読んだ川上さんは、江國さんが書かれたあとがきを読んで(これは狂気の物語です、というところ)、最後はハッピーエンドなのかわからなくなったらしい。 そこで質問。
江國さんはあの話はハッピーエンドとして書いたつもりで、3人で逗子の海沿いのレストランで気まずくご飯を食べるというその後の話までかんがえてあるそうだ。 多くの人からあれはハッピーエンドなのかそれともあの男の人は存在しなくてすべてが狂気の中の妄想なのかと聞かれたので、「あの話って・・・」と始まると「きたきた」と思うほどになったそう。 で、ある時女性編集者の人が「江國さん、あの話の最後って・・・」と始めたので「あ、きたな」と思ったら、あの男の人はちゃんと奥さんと別れて来たんですか、という質問だったそうで、江國さんは、そうです、すべてきれいにして戻ってきたのです、と答えたそうな。
<トップへ>

液体だったらいいのに

テーマ「愛はなぜかなしいのですか?」にふれて江國さんが言った言葉。 もし人間が液体だったら相手と完全に混ざることができて、一緒になれる。 混ざってしまったらもう離れられない。 でもそれができないから愛はかなしいんじゃないかと思う、と。 うーん、いかにもと感心したのだけど、理系の川上さんが一言。 「液体でも昇華させれば分離させることはできるよ」 江國さん言葉につまる。
<トップへ>

箱に入る

恋愛の話で。 恋をしていると外部を拒否して箱に入ってしまう。 恋人と自分以外の関わりを閉じてしまう。 神様のボートの葉子がいい例で、彼女は去っていった恋人のことを忘れることがないようにその人以外の人に優しくされたりするともうここにはいられない、と思い、引っ越してしまう。 それは他の人の優しさや思いやりにふれることによって、恋人との思い出が薄れてしまうのが怖いから。 ウェハースの椅子の主人公も他に家族がいる恋人との時間がすべてなので、他の人といる時間はおまけのようなもの。
<トップへ>

おかしとバターは得意

江國さんが得意としている創作分野。 自分でもバターのことを書いた文を読んだときは「うまいな」とうなったらしい。 やっぱり好きなものは書くのもうまいのでしょう。 バターは大好きで、昔銀座のレストランでまるい形のバターがあって、それが好きでとおっしゃっていた。 余談だけど、レストランに行くと他の人よりはバター消費量が絶対的に多いのだけど、陶器の入れ物に入ったバターが出てくると、これは残ったらどうなるのだろうと疑問を持っていた。 人より多く食べるわけだから、もしレストランが残ったものに継ぎ足していくのだったら、自分が食べているのは下に行くにしたがって古いバターになるのでは・・・と心配されていた。 私は確か残ったら料理に使うときいたことがあるのだけど。 どうなんでしょう。
<トップへ>

子供と恋愛はテーマ

江國さんの話って、子供や恋愛が出てくることが多いよね、と川上さん。 その二つは自分の小説のテーマだと江國さんはおっしゃっていた。 特に自分の小説に出てくる主人公は恋愛に対しては異常なほど執着していて、どうしてそんなにと書いている本人でも思うのだけど、神様のボートの葉子にしろ、薔薇の木の衿にしろ、恋をするとその人だけが絶対的な存在になってしまう。 
恋をすると子供に戻ってしまうのだが、江國さんの場合には自分の基礎となっているのが9歳の時なので、従って恋をすると9歳の子供に戻ってしまうらしい。 なぜ9歳なのかは明らかにされなかったけど、そんな子供の自分に戻るので結構やっかい。 よく人は子供のころに戻れたらいいのに、とか子供を清らかなものとしていうけれど、江國さんは子供のころのことは忘れていない、と言っていた。
<トップへ>

何のためにかくのか

よく読者のためか自分のために書くのかと聞かれるのだけど、物語のために書く、とおっしゃっていた。 物語は書かれるために出てきて、なんだかわからないけど書いているとその場面の風景が見えてくる。 あのテーブルには何があってとか。 だからあの話は実体験なんですかと聞かれるのだけれど、すべて体験したことを書いているわけではなく、自分の想像力を使って、見えてくるものを書いているのだそう。 これには川上さんも面白いことを言っていて、「溺レル」と言う小説の中に「七面鳥に上に乗られて」と言う文があったため、本当に乗られたのですか、とよく聞かれると言っていた。
<トップへ>

3歳の頃の手

子供のころの話で。 人間は髪や爪以外はずっと子供のころと同じものを使っていて、それってすごいなと思っていて、手は3歳の頃とずっと同じで、でも小さな頃はうまくできなかったことも今では何とかなっている。 そう思うと、電車の中でおじさんの手とかを見ると、ああこの人も子供のころの手と同じ手で会社でがんばってるんだなぁ、と思う。
<トップへ>

水浸しの絵の話

心理テストで自分の好きな絵を描いてください、と言うテストがあったときのこと。道とか田圃とかを書いたのだけど、どうも水と離れられないらしく、田圃を書いたらじゃあ私水田にします、といい、家を書いたら晴れている設定なのにそのまわりだけ雨を降らせてと言う風に、水だらけの何の合理性もない絵になってしまった。 反対に川上さんは妙に合理的で道を描き、じゃあ季節はこういう設定だから木はこういう木がなくちゃと細部まで徹底した。 これはどういう判断になるのでしょう。 結果は聞けなかったです。  
<トップへ>

誰に作品を読ませたいか

誰に読ませたいかと言うよりは、ハードルとして読んで欲しい人はいる。 信頼している何人かの編集者とか、妹さん(最近ランクが落ちてきているらしいのだが)とか。この人たちにおもしろくないとかよくわからない、と言われたら自分はもう終わりだなと思う、とおっしゃっていた。 余談だけど、大事な人と言うつながりで、歯医者さんがいなくなったらとっても困る、ともおっしゃっていた。 歯がとても悪いので子供のころからずっと通っている歯医者さんがいるのだけど、もうだいぶお年なのでねえ、と。 
<トップへ>

たとえ話が出てこない

たとえば夫婦げんかの時に理路整然とあのときはああでこうで、と言うことが言えなくて、説明しようとすると「・・・いっぱい悲しいことがあったの」としか言えない。 でもいっぱいいろんな例を言える人ってすごいよね、それをためていることによって疲れないのかな、と江國さんがいうと、川上さんがそれが一種の才能だから疲れないんだよ、と言っていた。
<トップへ>

新作の話 ぼうしときゅうりと数字の2

今度春に書き下ろしの新作がでるとのことで、その内容はと言うと恋愛小説ではないのだけれど、3階にぼうしと、2階にきゅうり、1階に数字の2がすんでいるマンションのお話だそうです。 うーん、摩訶不思議。 擬人化の反対の象徴化?という話ですが。
<トップへ>

愛は再生できない。 失われた愛について。

再びテーマにそって。 失われた愛は再生できないと思う。 別の形でもう一度始まると言うことはあるかもしれないけれど、同じものは再生できない。 もし愛が終わったら江國さんはどうすると言う質問では、ひたすら喪に服します、とおっしゃり、その恋人のためにと言うことではなく、かつて二人の間にあった輝かしいものがもう今はないということに対して悲しく思い、立ち直ろうと思っても無理だからそのまましばらく喪に服す、との答え。
<トップへ>

校正の話。 赤ペンで・・・

ひらがなが多いですね、のつながりで出てきたお話。 昔のことだけど、小説の校正で校正者の人から帰ってきた原稿の表紙に赤ペンで「ひらがなが多いようですが、作者の意図なのでしょうか」と書かれていた。 江國さんはむっ、辞書くらい持ってるぞと思い、(漢字が)書けないのかと思われたらしくって、と笑っていらっしゃいました。
<トップへ>

三省堂のパンフ

三省堂で作家の人何人かから言葉について(うろ覚えですが)書いてくれと頼まれたそうです。 一冊の冊子にして配られるそうです。 江國さんは言葉は伝わらなくても気にしなくてもいい、と他の人とは違うことを書いたらしいです。 いつ頃配られるのかあるいはもう配られたかは不明ですが、要チェックです。
<トップへ>

大盛りご飯ととんかつ

非常にプライベートな話ですが。 昔江國さんが妻子ある男性と恋愛をしていたときのこと。 その男性の家に招待され、夕飯をごちそうになったそうです。 そのときのメニューがどんぶり一杯のごはんと豚カツと豚汁かなんかで、そんなに一杯は今だったら絶対食べないのだけど、そのときは変な意地を張って、全部食べてやる、と思い、食べたそうな。 そういう意地の張り方や対抗のし方は絶対違うって今だったらわかるのだけど、とおっしゃっていた。
<トップへ>

ひらがなについて

最後に質問タイムがもうけられました。 そのときにひらがなを多用するのはどうしてですか、と言う質問をうけて。 ひらがなを使うときは、よく考えて選んでいて、漢字がある言葉だとしても、自分のなかでその漢字と単語の意味がマッチしないときはひらがなを使います、とおっしゃっていました。 たとえば「かなしい」と言う言葉を使うとして、「悲しい」や「哀しい」と言う漢字が当てはまらないような漠としたかなしみの時にはひらがなを使うのです、とのこと。
<トップへ>