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西川貴教の少年時代をたどる旅 〜野洲ゆかりの地

アニメ「るろうに剣心」を見て、エンディング曲「HEART OF SWORD 〜夜明け前〜」が好きになったのをきっかけに貴教を好きになったのですが、あるとき、実家に帰り、TVで「WHITE BREATH」を歌う貴教を見ていると、通りかかった母が何気なく言いました。
「この子、西川さんとこの息子さんなんやってな」

えええええええええええええええええ!?
今、何ゆーた!?


そうだったのです。私の実家は野洲。貴教の実家はうちの実家から歩いて5分ほどの距離にあったのです。
なんで今まで知らなかった、自分! っていうか、なんでうちのオカンは貴教のお母さんと知り合いになっとかんかったんや(T_T)

接点といえば、うちの弟が同じ時期に同じ小学校に通ってたってことくらいです。学年が違うので、存在すら知らなかったとぬかしております。
あとは、母が親しくしてる近所の奥さんの子供さんが貴教の妹さんと同級生で、奥さんは貴教のお母さんを知っているという程度。友達の友達は友達さ・・・みたいな感じですね(^^;)

(追記(2009年11月10日) それから、母が市内循環バスの中で乗り合わせた時に世間話をする人が貴教のお祖母さんだということが最近わかりました。「あの人の孫は西川貴教やで」と人に教えてもらって知ったそうです。
・・・なんでうちのオカンは誰ともわからん相手と長年世間話してるんや(笑)
どこで調べて来るのか、ファンの子が家に来るので大変だそうです。みなさん、自重しましょうね(^^;))
←お祖母さんに母がいただいた名刺。表には住所氏名電話番号があり。

それにしても、貴教が野洲にいた頃、もしかしたら同じバスに乗って隣に座ってたかもしれないのに。もしかしたら、くみあいマーケット(町内にあった農協系の店。つぶれてしまい、今は家が建っている)で買い物しててすれ違ってたかもしれないのに。もしかしたら町内の祭で、町民運動会で、一緒の空間にいたかもしれないのにぃぃぃ!!

と思うとくやしくてねえ。わかってもらえるでしょうか。

まあ、過ぎたことは仕方がない。

今回、このページを作ろうと思ったのは、イナズマロックフェス2009の時に、野洲駅の写真を撮っているファンや、「野洲に行ってみたい」「通ってた小学校を見てみたい」としゃべってたファンがいたことから、ゆかりの場所を見てみたいファンが意外と多いんじゃないかと思ったからです。
・・・というわけで、前置きが長くなりましたが、どうぞ。
撮影日はイナズマロックフェスの興奮もさめやらぬ2009年9月21日(月)。
【実家跡】
三上山(みかみやま:別名・近江富士)のふもと、県道27号線沿いに広がる新興住宅地「近江富士団地」。
この団地は県道から離れた奥から1区、2区、3区・・・と分かれていて、今は8区くらいまであるかなり大規模な住宅地になったが、貴教がいた当時は4区か5区くらいまでしかなかった。
貴教が住んでいたのはこのうち、2区である。
当時の地名は滋賀県野洲(やす)郡野洲町南桜(みなみざくら)。
(※現在の野洲市南桜とは違う。もっと前は野洲町大字南桜と「大字」がついていた)。
貴教が野洲を離れた後、地名は南桜から近江富士に変更され、合併で野洲郡野洲町は野洲市となって現在に至る。

川沿いにはいまだに蛍が飛んでいるようなのどかなところで、今は違うが当時は速達配達区域外だった(速達配達区域外というのは、相手がこの地域に速達で郵便物を出しても、普通郵便扱いで届けられてしまう地域のこと。「速達配達区域外」という赤いスタンプが押された郵便物を見るたび、「おまえの家はド田舎だ」と宣告されているような気分になったものだ。もちろん、差出人が余分に払った速達料金は返してもらえない)。

場所は保育園の近くだが、ご両親は既に引っ越されていて、家は人手に渡った後、建て替えられてしまったので、貴教が育った家はもう存在しない。残念。

同じような形の質素な(笑)建売住宅が並んでいる新興住宅地だった。
今は建て替えられた家が多くて、当時からある家はあまり残っておらず、すっかり雰囲気が変わってしまっている。

←貴教が遊んだ(かもしれない(笑))近くの公園
(この写真のみ2010年6月11日撮影)






←同じく近くの公園







←貴教が利用したバス停「近江富士団地」

ここは野洲駅から6km奥地なので、滋賀交通バスで駅までは15〜20分くらいかかった。今は信号も車も増えたので30分くらいかかるかな。
本数は当時は1時間に1〜2本。まったくない時間帯もあった。駅からの最終は20時台だったと思う。
駅からは「ハイウェイサイドタウン行き」「北山台団地行き」に乗る。
今のバスは白地に赤と青のラインが入っているデザインだが、当時は赤と空色に塗り分けた丸みを帯びた形をしていた。→当時のバスの写真その1その2
ほんとに辺鄙(へんぴ)なところで、私は高校時代に家に遊びに来た複数の友達から「よくこんなところから学校に通ってるね」「ほんとに何もないな」と、散々言われた。
このへんの人にとって車は足代わり。少年時代の貴教にとってはバスか自転車が移動手段だった。

【三上幼稚園跡】
貴教が通っていた三上幼稚園。実家から360m。子どもの足で徒歩7〜8分ほど。

少子化のあおりを受けて数年前に廃園になり、遊具もウサギ小屋も撤去されて、今は町内会が市から借り受けて地域の老人用の施設として使っている。
「三上幼稚園」じたいは野洲市三上の三上小学校の隣に移転した。



幼稚園から三上山を望む。

手前にある黄色いのはプール。ここで貴教も遊んだんだろうなあ・・・。







【三上小学校】
貴教が通った三上小学校。1977年〜1983年在学。実家から裏道を通って950m。徒歩10〜15分くらいか。

道を挟んで目の前に田んぼがあり、その向こうに三上山がそびえている。

「小学校時代は剣道をしており、大会での優勝経験もある」(Wikipediaより)とのこと。
























【野洲中学校】
貴教が通った野洲中学校。1983年〜1986年在学。今は市立だが当時は町立だった。
通学手段は自転車。写真右側に見えるのが自転車小屋。
(部活に来てる女子中学生が二人いた。きっと自分たちが貴教の後輩だなんて知らないんだろうなあ・・・)
中学校は実家から県道27号線を経て国道8号線を北東へ向かって4.6km。


「中学高校時代はハンドボールをやっていた。中学3年の応援合戦で応援団長を務める。振り付けを自ら考案する。修学旅行の実行委員にもなる」(以上、Wikipediaより)。

男子は黒い詰襟、女子は紺のセーラー服でリボンも紺色。夏は男女とも白いカッターシャツ(長袖と半袖がある)。
なんと男子は校則により丸刈りです(笑) 今はたぶん違うだろうけど。
貴教も丸刈りだったわけですね。14歳でバンドを組んだと言ってたっけ。Wikipediaによれば当時のバンド名は「エルフ」。
丸刈りでバンド・・・(笑) さぞかわいかったことだろう。
ちなみに貴教はお母さん似だそうです。
【追記:「ロック・オブ・エイジズ」の記者発表での発言】2011年9月30日
MOVIE ENTER!
「西川貴教、トム・クルーズ主演で映画化もされる舞台「ロック・オブ・エイジズ」けいこ中に涙」
当時は中学校の校則で西川は丸刈りだったと言い、「男は丸坊主と決まっていて、髪の毛が5ミリしかなかったからとにかく長髪にあこがれていました。初めて人前で歌ったのは文化祭のライブだったんだけど、Tシャツを墨汁で染めたりデニムをちぎってカスタムしたりして演奏しました」と当時からこだわりを持っていた様子を懐かしそうに振り返った。


右手手前に見えるのは体育館。










後ろを振り向くと、果てしなく続く田んぼと畑の中にぽつんぽつんと民家が見える。
野洲は貴教がいた頃に比べて、かなり都市化されたが、貴教の少年時代はこういう風景ばかりだった。


















 そういや正面からの写真がなかった〜! ってことで、この写真と次の写真は後から追加。(2010年9月20日撮影。イナズマロックフェス2010の翌日。聖地巡礼(笑)のファンを数人見ました)













改築中でした(2010年9月20日撮影)。









うちの弟の卒業アルバムより。











【野洲高校】
貴教が中退した(^^;)滋賀県立野洲高校。サッカー部は2005年に全国優勝を果たしており、高校生離れした卓越した技術が「セクシーサッカー」と呼ばれ話題になった。アニメ「とっとこハム太郎」のハム太郎役の声優、間宮くるみの出身校でもある。

実家より4.1km。自転車通学もしくはバス通学だった。田んぼと畑がいっぱいののどかな田園地帯の中にあり、近くを新幹線が通っている。野洲駅からは徒歩15分。






















【野洲駅南口】
貴教が何度も利用しただろう野洲駅(南口)。










当時はエレベーターもエスカレーターもなかった。
駅前のロータリーもあとから出来た。

幾度か改築されている野洲駅だが、この階段は当時のまま。ここを貴教は数え切れないほど昇ったり降りたりしたんだろうな。





手前のホームが京都方面行き。向こうが米原方面行き。
当時、滋賀県民は遊びやショッピングに行くときは地元じゃなく京都や大阪に出たので、貴教も京都方面行きのホームをよく利用したはず。






【大阪スクールオブミュージック専門学校】
貴教が野洲高校を中退し、進学した音楽の専門学校、OSM(大阪スクールオブミュージック専門学校)
(Wikipediaには一時期、「大阪市立東商業高校を卒業」と書かれていましたが、今はその部分の記述が消されており、真偽のほどはわかりません)
Wikipediaによれば総合音楽科に在籍し、「ここで知り合ったメンバーとLuis-Maryを結成。人気を得るに従って授業に出席出来なくなり、卒業はしていない。」とのこと。

大阪市西区にある。2008年7月撮影(逆光で明るさを調整したのでちょっとぼやけてます)。
なんでこんな写真を持っているかというと・・・息子が進学したからさ(笑) 中退しましたけど(^^;)

これは保護者会のときに撮った写真で、中も見学させてもらった。プロのアーティストも借りに来るというすごい設備のスタジオがあり、講師陣も豪華で、息子はSMAPに歌唱指導していてアーティストのバックコーラスなどをやっているプロの歌手や元プリンセスプリンセスのリーダー・ベーシストの渡辺敦子に指導してもらっていた。それだけに学費は高い(^^;)
貴教がいた頃より学校も大きくなったようで、当時どんな規模でどんな内容の教育を受けていたのかは不明。

【終わりに】
西川貴教の少年時代をたどる旅、いかがだったでしょうか。幼かった貴教が、思春期の貴教が、どんな風景の中でどんなふうに暮らしていたか、なんとなく想像できたでしょうか。

滋賀県はここ20年ほどの間にずいぶん都会化しました。舞台やコンサートやバレエなどが楽しめる滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール、テニスコートやプール、結婚式場を擁した38階の高層ホテル・大津プリンスホテル、ファッションとシネマコンプレックスの大津パルコなどが次々と出来、田んぼと畑しかなかった野洲にさえ、コンサートのできる文化ホールが出来ました(ここで貴教も凱旋公演をやった)。大学も移転してきたし、ずいぶんと「楽しめる」街に変貌したのです。

貴教が少年時代を過ごした1970〜1980年代の滋賀は、ほんとに何もないところでした。いや、豊かな自然や歴史的文化遺産などはあったのですが、若者が楽しめるという意味では何もないところでした。
私たちはみんな、映画やショッピングやコンサートや美術館などへ行こうと思ったら、地元を素通りして京都や大阪に出かけてました。滋賀で遊ぶという発想は最初からなかったですね。遊ぼうと思っても何もないし。私の場合、友達と遊ぼうと約束したら、それは京都へ行こうという意味でした。

滋賀にも映画館はあるにはあったのですが、汚くて暗くて座席のカバーが破れてて中からスプリングが飛び出しているという・・・ちょっと信じられないでしょうけど、そんな映画館しかなかったです。なにかの統計で、全国で映画館の数が少ないランキングの2位に滋賀県が入ってたくらいですからね。

紅葉パラダイスとか、びわこタワー(当時はタワーとレストランのみ)とか、レジャー施設っぽいものもありましたが、県外の友達は恥ずかしくて連れて行けないようなショボくて寂れたところでした。
辺鄙(へんぴ)で交通の便が悪くて、楽しいものは何もなくて、悲しいくらいショボくて・・・。
貴教が「おらこんな村いやだ。おらこんな村いやだ。東京へ出るだ♪」という気持ちになったのも無理はないと思います。

貴教が全国の小さい街ばかり選んでツアーを組んだことがありましたが、それも、自分の街でライブをやってくれるアーティストがいなくて悔しい思いをしている人たちの気持ちが痛いほどよくわかったからなんでしょうね。

故郷を飛び出しながらも故郷を愛する気持ちを忘れず、滋賀出身であることを隠さないで、むしろ前面に押し出してくれている貴教。今はきっと、滋賀県出身であることを誇りに思ってくれているに違いありません。
←面白かったら拍手していただけるとうれしいです。

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