Look Back to 2002 〜葛藤と疾走〜
2002年を振り返ると、大学院生としての自分が色濃く出た1年だったと思う。
このHPで日記を書いていても、院生としての日常を書くことが多かった気がするし。
そこでここでは、院生としての2002年を、「葛藤」と「疾走」とキーワードに、私が出会った言葉とともに振り返ろうと思う。
2002年の最大の目標は、何と言っても良い修士論文を仕上げることだった。
そのために、この1年どうやって動こうか、正月に夕張で計画を立てた。
実はこの時点で考えていたテーマと、今扱っているテーマは違うのだ。
変えなければならなかったのは、
当初予定していたテーマで、英語学の世界で新たな貢献を成す研究ができるのか、という葛藤が生まれたからだ。
4月上旬に指導教官からそう指摘され、それから1ヶ月、文法書や本を読みまくってネタを探し、
その挙句、今のテーマ(助動詞mustについて)に決めたのが5月中旬。
それから、7月末に学会発表の計画を提出するまでは、
ひたすら調査しては、上手くいくかという不安(むしろ恐怖に近い)と戦っていた。
そして7月から8月にかけては、その不安・恐怖と戦うことに疲れてしまったことに気づいた。
疲れつつも、ちゃんと研究できるかという葛藤におぼれ、
今後研究者としてやっていけるのかという不安から抜け出せず、完全に自信を無くしていた。
他の研究者の論文を読むたびに、こんな立派な研究なんてできるわけがない、と落ち込む日々だ。
だから、今年の夏は今までの人生で最悪の精神状態だったのだ。
そんな中、最終的には論文を仕上げようとしているわけだが、
どうやってそんな精神状態から抜け出せたのかを考えてみる。
一言で言うと、「こんなんじゃいけない」と自分で自分を奮い立たせる行動をとっていたからだと思う。
過去の優れた人物は、どうやって苦悩を乗り越えたのか、を、研究そっちのけで追い求めた。
自動車作りに情熱を傾けトヨタ自動車の基礎を作った豊田喜一郎氏は、
周りからの悪口や批判に耐えに耐えて、ついに自動車つくりで日本に貢献した、という話を読んだ。
彼の父豊田佐吉は、耐え忍び続ければ、やりたいことは達成できる、という意味の言葉を残した。
私はその言葉を筆で書いて、今も机からよく見えるところに貼ってある。
小説家の三浦綾子氏も、「自分は小説を書くのが好きなだけだったら、ここまで続けられなかった」という言葉にも出会った。
これは、「私は研究を好きでやってるんだろうか。好きでやっていないから上手くいかないんじゃないか」と思っていた私にとって
最高の言葉だった。好きでやっていてもつらいことはあって当たり前だ、という意味で受け取れるからだ。
それからは、周りの人たち(家族や大学の先生や先輩方)に、要所要所で励まされて、
データ集めや原稿執筆など、私のすべきことに疾走できた。
今考えたら、この時期が一番忙しく、夢中だった気がする。
そして9月中旬、学内での研究発表、10月上旬の道内規模の学会発表を迎えることができた。
そこでは予想していた以上に、多くのアドバイスをもらえた。
「アドバイスや質問をもらえるというのは、その研究に興味を持ってもらえた証拠」と
別の先生から言われたから嬉しかった。
研究に向けて、少しだけ自信をつけ、モチベーションを高められたのはなぜか、と問われたら、
この研究発表と、もう一つ、アメリカから来た言語学の世界的権威との会話は外せない。
飲み会の場にまで彼の論文を持ち込んで、いくつか質問をぶつけた私に、彼は簡潔だが快く応えてくれた。
彼は「私は今は助動詞を研究していないので、何か面白いことがわかれば教えてほしい」と最後に言った。
彼と握手をしながら私は、その言葉が社交辞令だとしても、その言葉に感謝せずにはいられなかった。
その後、私は、年内ずっと、研究した成果を文字化するのに疾走することになる。
文章をかくのは難しく、また私は英語の間違いが意外と多いため、最終的に5回書き直した。
そのたびに、指導教官は、よくもまぁこんな雑な文章を何度も読んでくれたものだ、と半分申し訳なく思う。
思わず、「何度も見てもらってすみません」と言わずにはいられなかったが、教官は
「20代で立派な論文を書くのは難しい、だから大学院で鍛えられるのだ」と言った。
そして大晦日の今日、論文完成直前を迎えることができた。
2002年、葛藤と疾走の院生生活を送って思ったこと、それは
「悩んで良いから、とにかくやってみろ」ということだ。
2003年は博士課程に進む予定なので、年明けからその院試の勉強だ。
おそらく今年以上に苦しむことになるだろうが、葛藤しそして疾走して目標達成、と行きたいものだ。
(2002年12月31日)