番外編
「手首を傷つける」と「リストカット」
「手首を傷つける」というのを英語風にいうと「リストカット」といいます。
最近は省略して「リスカ」という人もいるようです。
ところで、これを読まれている皆さんは、
「手首を傷つける」と「リストカット」とで、どちらに重みを感じますか?
もちろん、確実な正解もないし、「それはないだろ?」といわれるような間違いもありません。
どちらでもいいのです。
ことばの意味をとるという行為は、主観的な側面があるからです。
コップに半分水があるのを、「まだ半分もある」とも言えるし、「もう半分しかない」とも言えることからも分かるかと思います。
さて、私の答えとしては、どちらにも重みに差は感じません。もっといえば、どちらの言葉も私には重いです。
手首を傷つける(あるいはリストカット)という行為そのものの重みを無視できないと思うからです。
ところが、8月14日の北海道新聞の社説を書いた人にとっては、そうではないようです。
その社説の主張を箇条書きでかいつまんで書くとこうなります。
・「リストカット」という言葉は、「手首を傷つける」というよりも重みがない。
(「リスト(wrist:手首)」「カット(cut:切る)」という軽い言葉、とはっきり書いていました)
・身体を繰り返し傷つける行為・心理を表すのに、「リストカット」という軽い言葉で表していいものだろうか。
・・・まぁ結局は「リストカットと言う言葉は重みがない」という主張の繰り返しになりました。
さらに、その社説の結論はこうです。
・命も心も軽すぎる風潮に合わせた新語は悲しくないか。
さぁてどうなんでしょう、この結論。
手首を傷つける(リストカット)という行為や心理自体が重いはずなのに、
外来語を使ったからといって、そんなに重みは変わるもんなんでしょうか。私にはとっても疑問です。
なぜ「リスト」や「カット」が軽いと感じるのか、恐らくこの社説を書いた人は、考えたこともないのだろうと思います。
・・・まぁこれは人それぞれの主観によるのだからまだ良いとして、
ことばを研究する側から言わせてもらうと、本当の問題は、
「意味をとるという行為には人それぞれの主観による」ということを無視し(知らないだけ?)、自分の主観を押し付けていることです。
自分の主観を押し付けることは、他の主観があることを認めないことと同じような気がします。
だから、上の結論に私は強い嫌悪感を覚えたわけです。
そもそも「リスト」「カット」を軽いと感じる、きわめて客観的な根拠はどこにもないのです。
きわめて主観的な問題なのです。
しかし、手首を傷つける(リストカット)という行為そのものが重いのは、
心理的にも社会的にも医学的にも明らかでしょう。
何でもかんでもカタカナの外来語を使う風潮があるのは否めないが、
それを言葉の重みの問題に軽々しく反映させてよいものではないような気がします。
繰り返します、言葉の意味の捉え方は人それぞれで違いうる、これがことばの意味解釈の真理です。
だから自分の捉え方、考え方を押し付けるような書き方をする必要はなかった。そう思います。
(2003年8月14日)