
野球は会議室でやっているんじゃなく球場でやっているんだ!
第19編
| 憂鬱な季節の到来です?!−2001.03.12 |
| 私にとって憂鬱な季節の到来です。「春の到来そして球春の到来がなんで憂鬱なんだ」と訝しく思われる方もいらっしゃるかもしれません。確かに気候も温暖になり過ごし易くなります。私は花粉症ではないので、別段花粉の飛び交う季節が来ても憂鬱ではないのです。花粉症ってそんなに辛いもんなんですかね。一度なってみたいものです。話が横道にそれてしまいました。軌道修正っと。私というより高校野球ファンとしての私を憂鬱にさせるもの、それは某高校野球雑誌の甲子園出場選手の進学・就職先の進路特集。キャッチコピーによると恒例なんだそうです。なんでこんなプライベートなことを一流新聞社系列の出版社が掲載するのか理解に苦しみます。最近では、「学校側の希望により公表せず」というコメントも見かけるようになりました。この進路特集は明らかにプライバシーの侵害です。しかし、出版社は需要さえあれば、「報道の自由」という大義名分を持ち出して極めて私的な情報でさえ供給する。本当は販売部数を伸ばすだけが目的なのに。百歩譲って、出版社は企業なのだから利潤を追求する為にはえげつない記事の掲載も許容範囲なのかもしれない。しかし、学校側が選手の進路情報を提供しなければ、こんなアホな企画が成立するはずがない訳です。教育機関である学校の選手・生徒のプライバシーに対する配慮が欠けています。出版社のアホな要請には、前述したように「学校側の希望により公表せず」と回答すればいい。もっと言えば、高野連が伝家の宝刀である「進路情報公表の自粛に関する規定」を作って各校に通達すればいいだけのこと。「違反すればペナルティを科す」という得意の条項をつければ効果はてきめん。出版社側も伝家の宝刀である「報道の自由」を持ち出すかもしれないけど。高野連という組織は高校野球部に対しては倫理や品位を要求しますが、マスコミには協力一辺倒で「選手のプライバシー」さえ守ろうともしない。本当に矛盾した組織ですね。インターネットでも選手の進路情報を特集しているサイトもありますし、この季節になると掲示板などで進路情報の書き込みが増えると聞いています。憂鬱ですね。私なんかがこんなマイナーなサイトで「選手のプライバシーを第一に」と吼えたところで大勢に影響がないのが、我ながら無力で情けないです。選手に関する情報は、彼らのグラウンド内でのプレーや成績に関することまでにしましょう。グランド外の情報なんか仮に知っていても、書かないのが良識というもの。この良識が通用しないのがインターネットの世界なのですかね。バーチャルな世界だけに、一般社会よりも質が悪いのかもしれません。あーあ、憂鬱な季節の到来だ・・・。 |
| ボールパークのイチロー君と新庄君−2001.03.19 |
| 今季から戦いの場を日本の「球場」からメジャーの「ボールパーク」に移したイチロー君と新庄君。ふたりのオープン戦での活躍が連日マスコミで大々的に報道されています。天才・イチロー君は、メジャーに徹底的にマークされ始めているとのこと。一方、宇宙人・新庄君は意外にも予想外の好成績を残し口の方も絶好調。意味不明かつ内容空虚なコメントを連発しているとか。私も彼のいくつかのコメントを聞きましたが、まったく理解できませんでした。このふたり、まったくもって好対照。日本での7年連続首位打者という輝かしい実績を引っさげて、破格の待遇でメジャーに乗り込んだイチロー君。3割さえ一度も打った実績なし・タイトル歴なし・実力不明・性格支離滅裂というよく分からない肩書きのみで、メジャー最低年俸で乗り込んだ新庄君。イチロー君の活躍は誰もが予想していたこと。しかし、新庄君の活躍を誰が予想したことでしょう。新庄君には「球場」よりも「ボールパーク」の水の方が合うみたいですね。まだオープン戦の段階なので即断はできませんが、もしシーズンに入っても今ぐらいの活躍ができるようなら、新庄君に対する認識を全面的に改めなければならないですね。日本で実績が残せなかったのは、新庄君の実力不足ではなく、ただ単に日本の「球場」の水に合わなかっただけだと。日本の「球場」という井戸の水では、蛙にも成長できなかったおたまじゃくしが、メジャーの「ボールパーク」という井戸の水を得て蛙になったかのようにフィールドを縦横無尽に飛び跳ねています。「ボールパーク」でプレーする彼の映像を見ていると、すごく楽しく野球をやっているなという印象を受けます。目がきらきらと輝いていますよね。日本でプレーしていた時の彼の目は、雑念だらけの死んだ魚のような目でしたが。例えはおかしいかもしれませんが、「井の中のおたまじゃくしが、ひょんなことから大海に出て突然変異で鯨になりつつ」あるのが新庄君かもしれないですね。イチロー君の場合は、「井の中に安住することを嫌った力自慢の蛙が、自らの跳躍力で大海に飛び出して鯨になろうとしている」という感じかな。我ながら、あまりいい例えじゃないですね。いずれにしても、「球場」のおたまじゃくしと蛙が「ボールパーク」で鯨になって欲しいものです。なにかよく分からない締めになってしまいました。陳謝。 |
| 試合そのものよりNHKの中継が楽しみです!−2001.03.19 |
| センバツの組合せも決まり、あとは開幕を待つばかり。今年は甲子園という舞台でどんなドラマが繰り広げられるのでしょうか。橋田先生の「渡る世間は鬼ばかり」のように局面がころころと変わるスリリングな展開の試合が多く演じられることを期待しています。私は今年も甲子園に行くことが出来ないので、いつものようにテレビ観戦。もちろん日本放送協会いわゆるひとつのNHKで。私の場合、グランドの試合そのものを見るというよりもアナウンサーの実況と解説者のコメント、そして両者のやりとりをバックミュージックとして試合を鑑賞するというものです。映画を観るような感覚で試合を見ています。これは高校野球にかぎらず、プロ野球中継の時も同様です。アナウンサーの実況には特に興味を持っているので、小姑的にチェックしています。NHKのアナウンサーは、民放のアナウンサーと違って絶叫などすることなく感情を押し殺して淡々と試合を実況していますね。黒子に徹しているようです。今はやりの「不適切な」表現や言葉がないようにと慎重に言葉を選んで喋っているのが手にとるように分かります。どこぞの首相のように失言などすればアナウンサー生命にかかわりますから。一方解説者も当り障りのないコメントをします。辛辣なコメントをする解説者も数名いますが、そんな時は、アナウンサーがすかさずフォロー。さすがプロですね。うまくその場を取り繕います。漫才のボケとツッコミのような絶妙な呼吸です。昔は個性的でアクの強い解説者が結構いましたが、最近は優等生的な解説をする人がほとんどですね。そういう意味では、昔の中継の方が面白かったかな。口の悪い一癖も二癖もありそうな解説のおっさんいましたもの。その分、アナウンサーが大変だったのでしょうが。話は少し変わって、数年前まで試合をする両チームの関係者がゲストとして招かれていましたが、最近はこのゲスト解説なくなってしまいましたね。私は個人的にはこの方式好きだったのですが。このゲスト解説ではハプニングが起こりがちです。アナウンサーが解説者に話をふれば、大体予想通りのコメントが返ってきますが、緊張しているゲスト解説者に話をふると、予期しないとんでもないコメントが返ってきたり、言葉に窮してしばし無言であったりする場面を何度も見かけたことがあります。ゲスト解説者から的外れのコメントが返ってきた時のアナウンサーのフォローのコメントで、そのアナウンサーの力量が分かるような気がします。ベテランのアナウンサーはうまく話題を転換して、自分のペースに持ち込みますよね。そんな時は思わず、「座布団一枚」と口走ってしまいます。しかし、老練なベテランアナウンサーといえど如何ともしがたい状況の時があります。10点とか大差のついたワンサイドゲームの時です。特にリードされているチームの攻撃時の実況には、場を盛り上げようと言葉を連発すればするほど空回り。その場の空気が凍りついてきます。解説者に話をふっても、「試合をあきらめず頑張って欲しいものですね」とか「高校野球は最後までなにが起こるかわかりません」という薀蓄のないコメントが返ってくるばかり。もう八方塞。テレビを見ているこちら側も閉塞感に包まれます。こんな時は、虚しい打開策などを話題にせず、ストライク・ボール・打った・捕った・アウトという野球用語のみの無味乾燥な実況をするのが一番。まぁ、こんな実況にならない接戦の試合が多ければいいのですが。アナウンサーの方も解説者の方も頑張ってください。 |
| 結果論で語るまい!−2001.04.09 |
| 新世紀最初の選抜大会も常総学院の優勝で閉幕しました。常総のじいちゃん監督の木内さん、取手二高時代にも優勝していますから2度目の全国制覇ですね。この木内のじいちゃんの采配に関してはよく分からないのですが、いいキャラクターしています。勝利監督インタビューでの茨城弁訛りのとぼけたコメントの数々いいですね。決して本音は語らない。腹芸の達人です。木内のじいちゃんのことについてはこれまでにしてっと。大会の方は、今大会から新設された「21世紀枠」で出場した宜野座高の活躍で盛り上がったのだそうです。NHKの実況アナウンサーを始めとして新聞などのメディアは宜野座を評する時、枕詞のように「21世紀枠の宜野座高」と必ず「21世紀枠」という言葉を付けていました。大会前「21世紀枠」については、「賛否両論」というより「反対9割」といたって評判が悪かったのですが、大会後の「21世紀枠」に対する世間の評価はどうなのでしょうか。高野連やNHKは「21世紀枠」で出場の宜野座の活躍をもって、この制度の採用は成功だったと自画自賛していましたけどね。私は大会前も大会後も一貫して反対です。ヤフーの高校野球の掲示板などでは、宜野座が勝ち進むにつれて「21世紀枠」を賞賛する書き込みが増えてきていたように思います。「21世紀枠がなかったら、今大会は盛り上がらなかっただろう」という論旨のものも見かけました。「大会で宜野座の活躍があったから」という結果論ですね。こういう結果論で物事を判断するのは賢明だとは思えないですけど。確かに宜野座の活躍は素晴らしかった。賞賛に値するものだと思います。それは単に宜野座というチームが素晴らしかったのであって、「21世紀枠」という制度が素晴らしいのとは違うと思います。宜野座というチームと「21世紀枠」という制度は切り離して考えるべきだと思います。宜野座を賞賛するばかりでなく、宜野座の活躍をもって「21世紀枠」を自画自賛しこの制度の正当性の論拠としようとする高野連までをも賞賛するのはおかしいと思いますけど。宜野座の活躍がなかったら、今頃高野連の顔色は真っ青だったでしょうね。来年以降も「21世紀枠」を採用するらしいのですが、話題性とか注目度ばかりにとらわれる大会にだけはして欲しくないですね。選抜にしろ選手権にしろ、本来高校野球部員の野球部員による野球部員の為の大会にすぎないのだから。話題性もなく盛り上がりに欠ける地味な大会であってもいいと思うのですけどね。最後に私は断固として「21世紀枠反対派」です。宜野座の活躍の一事でもって、容認あるいは賞賛派へと宗旨変えはいたしません。江戸時代、徳川幕府に弾圧されながらも最後まで棄教しなかったキリシタンを尊敬していますから。話は脱線しますが、遠藤周作の「沈黙」は江戸時代のキリシタンを取り上げた秀作です。 |
| 今後の選抜について−2001.04.09 |
| 「21世紀枠」を新設した今選抜大会では、言葉の本来の意味について考えさせられました。「選抜」大会なのだから、秋季大会の結果に拘束されることなくいろんな特徴を持った高校を選んで出場させることができる。本来「選抜」大会とはそういう大会なのだと。「選抜」という意味からすれば、そういう解釈も成り立つのかなとも思う一方で、法廷で弁護士が法律の条文の一部を拡大解釈して詭弁を弄しているのと似ているようで好感は持てませんけどね。簡単に言えば、高野連は出たい高校よりも主催者のお眼鏡に適った高校を今後出場させるという方針に転換したということでしょう。夏の選手権との差別化を図るという意味もあるらしいですが。主催者のお眼鏡に適った高校を出場させるのが大会の趣旨なら、「選抜大会」という名称をやめて「高野連会長招待野球大会」に変更すればいい。こういう大会名称にすれば、選考過程が不明瞭だとか選考方法が不公平だと世間から批判は浴びなくなりますし、正々堂々と高野連お気に入りの高校を選考することができます。一般枠と21世紀枠のある今年のような選考方法では、いつかこの制度の矛盾が沸点に達し高校野球自体が破綻してしまうのではないかと憂慮しています。こんな鵺のような選考方法を続けるのなら、いっそのこと前述したように「高野連会長招待野球大会」にした方がましではないかと思うのですが。如何でしょう。以上、市井の高校野球ファンの戯言でした。 |