―――あなたを愛しています。

 彼女はあの時そう言った。
 その言葉の真偽を今はもう考えたりはしないが、それでも自らに問うた言葉を忘れたりはしない。
 言峰綺礼は空を見上げる。あの頃から何か変わっただろうか?
否、と綺礼は自らに答える。我は生まれながらにして人としての在り方を欠損した者。たとえどのような者とて、彼女達とて、私を変えることは出来ないであろう。
 幾度となく繰り返したその言葉を呟き、綺礼はふと視線を横に移した。
「衛宮士郎。どうしたのだこんな所で」
「ん、鍛錬しに土蔵へ行こうかと・・・ってうわぁっ!?なんで顔だけ出して埋まってるんだ綺礼!?」
 のけぞって飛びのく士郎に綺礼はふっ・・・と笑った。首から下を土に埋めて。
「凛に埋葬されたのだ。拘束していた鎖は千切ったのだが腹に載せられた岩がさりげなく『強化』されていてな、押さえつける力が上がっていて抜け出せん。上半身だけ起こしたところでこうやって空を見ている」
「・・・ほんと、よく生きてるなあおまえ」
「それをその身で言うのか?衛宮士郎」
 ほぼ毎日致命傷を喰らう少年はさりげなく視線を外して空を見上げた。今日とて蛇のように唸るフリッカージャブと鉄槌を振り下ろすようなチョッピングライトで妙な温泉に送り込まれて父と語らっていることだし。
「ふむ、しかしここに居るのもいささか飽きた。どれ・・・」
 言いながら綺礼はずぼっと土の中から腕を突き出した。鋭い動きで士郎の足首を掴む。
「うわっ!?」
「ふむ。さすがだなバゼット。魔術に怨念じみたものを感じる。強化から呪いにまで昇華されている。だが、我が身に呪法は効果が薄いのは知らぬとみえる」
「やめろ!足掴むな太ももはよせ変なところ掴むないや鷲掴みは勘弁してくださいyめて揉まないでみぎゃー!?」
 未知の感覚に士郎が絶叫を上げる中。
「ふむ、抜けたようだ」
 言峰綺礼は悠然と大地に立った。全身土まみれ、埋められた当時のまま当然に全裸で。
「あわ、あわわわ・・・」
 あたし、汚されちゃった―――そんなフレーズを思い浮かべつつ、何故だか道場で吼える藤ねえ、そしてブルマ姿の見知らぬ少女を垣間見て士郎はガタガタブルブルとその場に尻餅をついた。
「どうした衛宮士郎。何を怯えている?」
 くくく・・・と笑みすら浮かべて綺礼は迫る。仁王立ち、長身の彼のソレがぶらりぶらりと士郎の目の前に―――
 ぺとり。
「ぴぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

「ん・・・?」
 紅茶を入れて居間へ戻ってきた凛は聞きなれた悲鳴が聞こえたような気がして首をかしげた。食卓で書類をめくっているバゼットに二つもってきたカップの片方を差し出して自分も座る。
「今、何か聞こえました?」
「ん・・・いや、少々集中していたのでね」
 そう言ってバゼットは眼鏡を外してテーブルに置いた。
「じゃあ気のせいかもしれませんね」
 凛は頷いて食卓の上の書類に目を向ける。
「例の結界についての報告書、ですか?」
「ああ。これが難物でね・・・クラインのツボの如く内側と外側が繋がっていて外に出ようとしても内側に戻されているのではないかと思うのだが」
 紅茶を口に運んだバゼットはうむと満足げに頷いた。
「エクセレンッ。この家に居れば少なくとも食の分野について不満を持つことはなさそうだ」
「ありがとうございます」
 嬉しげな表情に苦笑して凛は書類に目を通し、ん?と首を傾げる。
「これ・・・解呪は成功したって書いてありますけど・・・?」
「ああ。中と外が裏返っているなら外側から潰せば内に届くと思ってね。綺礼に切開させてから解呪をしてみた。結果はその数値の通り成功。ただし我々が観測するよりも速く復元してしまったがね」
「そんな!魔力はどこから供給されてるんですか?これでは・・・」
 信じられないと首を振った凛にバゼットは静かに頷いた。
「そう、術者が維持し続けているのか結界そのものが吸収しているのか、どちらにせよ無尽蔵に魔力がなければ出来ない芸当だ。規模といい速度といい」
「・・・聖杯?」
「その可能性は高いな。だが綺礼によれば聖杯はいまだ出現していないとのことだ。あいつが言うのだから、その点に間違いは無いだろう」
 断定するバゼットに凛は顔をしかめる。
「随分と・・・あいつを信用しているんですね」
「ふふ、それは君も同じだろう?人間としては最悪だが能力には不足の無い男だよアレは。その行動方針さえ理解できれば裏切られる事もないしね」
 ふふ、と笑い紅茶のカップを持つ左手にはそっけない金属製のリングがあった。
「・・・前から思っていたんですけど、よく綺礼と結婚する気になりましたね。アイツ、どんな言葉でバゼットさんにプロポーズしたんですか?」
 その言葉にバゼットは『ん?』と首をかしげる。
「誤解があるようだな。プロポーズしたのは私だ。断られかけたがなんとか了承してもらったのだ」
「ぶーーーーーーーーっ!?」
 凛は、口に含みかけた紅茶を盛大に噴出した。初速300キロメートルにも達したと思われるソレは食卓に置かれたミカンに直径数センチの穴を穿って飛び散った。
「・・・少々はしたないのではないかな?凛ちゃん」
 バゼットは神速で書類を回収して台拭きで紅茶をふき取った。
「す、すいません・・・でも、え?あれ?」
 凛は混乱のきわみで曖昧な笑みを浮かべた。
「あ、イングリッシュジョーク・・・?」
「いや、大真面目な話だ。逃げられないよう結婚式はその場で行ったよ」
 淡々と言いながらバゼットは眼鏡についた紅茶の染みを眼鏡拭きできゅきゅっと拭う。
「バゼットさん。わたし、いい弁護士を知っています。いまどきバツ1なんてたいした問題じゃありません。騙されてることに気づいたのならさっさと離婚しましょう。必要なのはちょっとの度胸と忍耐力、それと相手を人間とは思わない割りきりです」
「いやあ、私にしてもあれは人間ではないかなあとは思うけどね」

 

「・・・もはやあんたを人間とは思わない」
 士郎は憮然として呟いた。その表情には憔悴の色が濃い。
「ふむ、人でなしという意味でならば言われなれた台詞だな。私自身そう思うが」
 綺礼はそんなことを言いつつ池の水で体の泥を落としている。冬まっさなかには大層寒々しい景色ではあるが、この男なら別にどうでもいいやと士郎はわりきる。
「今度こそ本当に死ぬかとおもったぞあの感触・・・まったく、こんな奴が妻帯者だってのがまず信じられない」
「ふむ、それならば少々昔話をしてみよう」
 綺礼は呟きながらバサッといつもの神父服を身にまとい士郎の傍へと歩み寄る。
「彼女とは私が代行者をしていた十数年前からの付き合いでな。始めてあったときはまだお互いに新前だったのだよ」


「初対面の印象は最悪だったよ。私は魔術師だから現実主義者だ。あいつの理想論にはいつも反発していた」
「理想論って・・・理想を語る綺礼なんて想像もつかないわ」
 凛の呟きにバゼットは苦笑をもらした。お茶請けのビスケットを取り出して齧りながら話を続ける。
「彼は神の愛を語る人格者だったよ。そしてその行動は理想的な善人のそれであり、誰もが彼は正しいと認めた。ただ一人、言峰綺礼本人以外はね」
 そこまで言ってバゼットはシャツの胸ポケットからよれよれになったマルボロを取り出した。
「この家は禁煙だったかな?」
「いえ、士郎のお父様は喫煙家だったそうですから・・・はい、灰皿です」


 綺礼は夜空の月に視線を向けながら訥々と語り続ける。
「私は生まれながらにしてその在り方を誤った存在だ。『普通』と称される人々が良しと思うものが私にとっては悪しであり、快であるものが須く不快であった」
「な・・・なんだよそれ・・・」
 呻く士郎に綺礼は笑った。
「バゼットの言葉を引用すれば『嫌がらせの大好きな陰険野郎』とのことだ」
「なるほどよくわかる」
 綺礼は背筋を伸ばし、悠然と立って続ける。
「しかし、私は宗教家の家に生まれた事もあり常識というものを知っていた。他の者達がその常識というものを信じている以上それが正しいのだろうと思った私は自らの欲するところを抑えその常識に従って生き、結果私は信仰篤く優秀な代行者と呼ばれるようになっていた」
 無駄をせず、欲望も無く、ただ黙々と死徒を狩っていく姿は確かに聖者に見えたであろう。
 ・・・彼自身が、それに何の価値も見出してはいなかったとしても。


「まあそれでね、死徒にも魔術師上がりの者が居たり単純に戦力的に期待されたりと色々あってね。机で研究するよりも戦うほうに適正があった私は教会とも共同戦線を張ることが多かったんだよ。担当地域が重なっていたんで綺礼とは何度も同じ戦場に立ってね。随分とぶつかったものだ」
 バゼットは紫煙を吸い込み、苦笑した。
「とはいえ、実際には私が文句を言ってあいつが無視するっていう繰り返しだったんだけどね。なにしろ彼は人の言うことを聞かない男だったから。ああ、その辺りは今も変わっていないか」
 肩をすくめて煙草をもうひとふかし。
「後はまあ、お決まりのパターンだね。男と女が命を救ったり救われたりしていれば友情やら何やらも目覚めるというものさ。君がおこなったという吊橋効果の実験、案外馬鹿にしたものではないぞ?」


 綺礼は胸元の十字架をまさぐり、うむと頷いた。
「とはいえ、それはそこまでの関係でしかなかった。私にとって大事なのはいかにして世界と自分に生じた齟齬を埋めるかであり、その為の実験に時を費やすばかりでな。実はその当時の彼女など覚えてもいないのだよ」
「うわ・・・ひでぇ」
 士郎は思わず呟いて顔をしかめた。あんまりと言えばあんまりの話だ。
「そして十年と少し前。私は最後の実験を行った」
「実験って・・・さっき言ってたズレを治すって奴か?」
「そう。己が欠損を埋めることは叶うのか?その命題の元に行った最後の実験だ。すなわち、生物が生物である以上繁栄のため必ず持っている本能・・・愛についてだ。異性を、子を愛する気持ちというものは一つの聖域ではないかと考えたが故に」
 目を閉じる。思い出すのは彼女の言葉。
 ―――いいえ、貴方はわたしを愛しています
「そ、それでバゼットさんと?」
「いや、言ったことは無かったか?バゼットとは再婚だ。その時私が選んだのは未来の無い女だった。死病に冒され、余命は残り数年といった状態だったな。彼女との生活は2年ほど続き、私は彼女を愛そうとあらゆる努力を行い、彼女もそれに答え子も為した」


「・・・個人的に最も気になる点なので聞きますけど・・・その、一人目の女性の苗字はなんと言いますか?」
 凛が顔をこわばらせて尋ねた質問にバゼットは遠い目をした。紫煙を輪っか状にして吹きだし、気怠るく笑う。
「それは私の口からは言い難いな・・・私に言えることは一つ。君は父親によく似ているよ・・・」
「いや、だからそこんところ、はっきりさせたいんですけど!?」


 綺礼は今でも思い出す。空虚で、そして必死になっていたあの頃。石造りの質素な家で繰り広げた実を結ばぬ家族遊戯。
彼女は聖女じみた女で、信心深さにおいても男への理解、献身において比類するものは無かった。綺礼自身も父と神の教えを忠実に守り、教会の人間としては理想といってもいい生活を送っていた。子も人並みはずれ利発であり、その小さな家庭は確かに『完全な世界(パーフェクトワールド)』であった。
 だが。
 それでも
「・・・私の在り方は何一つ変わりはしなかった。妻に思うことはどのようにして殺すかであり子に対しても如何にして苦しめるかということしか思い浮かばなかった。事ここにいたり私は自らに対し審判を下した。この完璧な世界に身を置いて尚、この胸の欠損を埋めることが叶わぬなら、それはつまり生きていることそのものに問題があったのだろう。ならば世界の為、死を選ぶが『正しい』道なのであろうと考えたのだ」
 石造りの家。彼と彼女、そして二人の子の為の小さな世界。もはや立ち上がる事もできず寝台に横たわる『妻』に・・・その役割を二年にわたって演じてくれた女に綺礼は告げた。
ただの一言、
『私にはおまえを愛せなかった』
 と。だが・・・それを聞いて尚、彼女は微笑んだ。恨む事も疑問を持つ事もなく、
『―――いいえ、貴方はわたしを愛しています』
 そんなことを口にしたのだ。そして彼女は静かに十字を切り。
『だって貴方は泣いているではないですか』
 それを最後の言葉にし、自ら命を絶った。
それを見守り、綺礼は静かに死後が安らかであることを祈った。指摘されたような涙など流れてはおらず、祈りとは全く違うことを―――『私の手で殺したかった』という思いを抱えながら。

それが快楽を得たかったからなのか、それとも―――愛したものだからこそ自らの手で終わりにしたかったのか。それは今もわからない。

「私は死ぬのをやめた。彼女は正しかった筈だ。誰よりも正しかった彼女が肯定したこの私は、安易に死ぬことは出来ない。私は知りたくなったのだよ。間違っているのはやはり私なのか、それとも・・・あるいは世界そのものが間違っているのではないかという問いの答えを」
 そして綺礼は聖杯戦争に参戦することを決め、『正義の味方』である衛宮切嗣に敗北した。
「聖杯戦争に敗れた私は父に代わり監督役の地位につき、次の機会を待つことにした。中途半端で終わった第四回のことを考えればそう長くはない筈のその時間を私は凛に魔術を教えたりしながら過ごし、此度の聖杯戦争に参加するマスターの誰かから令呪を奪って代わりに参戦しようと計画した。切り札としてギルガメッシュを伏せておきながら」
 士郎は何も言えず、神父の背中を眺める。彼の父が命を奪いかけたというその男の背を。
「だがその計画はその第一歩において中断することとなった。この教会へと住まいを移して数日という時に・・・バゼットがここを訪れたことによってな」


「バゼットさんは10年前にもここに・・・?」
「ああ。それは偶然だった。信じられないレベルのね」
 短くなった煙草を灰皿で揉み消して紅茶を喉に滑らせる。どこかから聞こえてくる喧騒はあんりかまゆ辺りが騒いでいるのだろうか?
「その当時私が抱えていた二つの仕事、一つは時計塔から呪文書を盗み出した魔術師の処罰と本の回収任務、もう一つは極東・・・日本に潜んでいるという封印指定魔術師の調査だった。君も知っているだろうが協会にとって日本はやっかいな土地でね。私も関わりたくはなかったし緊急性もなかった事もあってアジアの魔術師・・・事によってはそれは遠坂、君の家だったかもしれないのだが・・誰かに押し付けてもう片方の仕事のみ引き受けようとしていたんだよ。だが・・・」
 空になったカップにティーポットからおかわりを注ぐ。もうすっかり冷めてしまったがそれでも上物、バゼットにしてみれば満足できる味だ。
「だが、追跡しようとしていたその魔術師がよりによって時計塔の真ん前に死体になって放り出されていてね・・・あまりに不審ではあったのだがそこから先は私の役割ではない。否応なく私は日本へ行くことになり、そこで知ったのだ。任地のすぐそばにある地方都市に、かつての戦友であり・・・私から見れば友人であった言峰綺礼が居ると」
 思い出す。少なからず胸が高鳴る自分に戸惑いながら訪れた教会、そこに佇んでいた見知らぬ男を。
「そこに居たのは言峰綺礼だった。だが、それは断じて私の知っている男ではなかった。どのような窮地においても決してその信念を曲げず、神の愛と人の摂理を信じて多くの人々を救ってきた戦士はそこにはもう居らず、全てを諦め抜け殻になった狂人が一人、居るのみだったよ」
 堕落したのだと彼女は思った。全てを諦めたのだと彼女は感じた。そして、彼はそれを一切否定しなかった。
「私は詰問した。会わなかった3年の間に何が起きたのか。第一線を退いてから一体何をしていたのか。そして・・・これから何をしようとしているのかを。綺礼は答えたよ。全てを。彼の行った実験とその顛末、聖杯戦争に参加したこと。そして次の聖杯戦争に備えた残酷な計画にいたるまで全てをね」


「そ、それでどうなったんだよ」
「しこたま殴られた」
 何故か誇らしげに綺礼は言った。うっすらと笑みさえ浮かんでいる。
「私が間違っていると叫びながら、ひょっとしたら殺そうとしてるのではないかと思うほど延々と殴られたのだ。衛宮士郎」
「いや、何故にそんな嬉しそうに」
 綺礼は笑い、首を振る。
「彼女はこう言ったのだ。わからないなら私が教えてあげると。間違った時には殴ってあげる。悲しいときには泣いてあげる。嬉しいときには笑ってあげると」


「私はね、悔しかったんだよ。言峰綺礼は誰よりも必死に生きた。否応なく与えられた不遇極まりない自己を哀れむことなく、それを埋めようと、覆そうと走り続けた彼が全く救われないというその事実が。そしてついに彼がその現実に敗北したことが」
 再度煙草に火をつけてバゼットは懐かしそうに窓の外の闇を眺める。
「それで気づいたのだよ。私が、彼のことを自分で考えていたよりもずっと大事に思っていたのだと。自己を律することに必死になって楽しむということを知らないこの男に、人生を楽しむということを教えてやりたいと思っていたということを」
 その言葉に凛は息を飲んだ。
 それは、遠坂凛の言葉だ。彼女の傍に居る、多くの死を背負うあまり自己という概念を失った少年に対して感じていた想いである。
「頭に来た私は協会にゴリ押しをして日本駐在の任務・・・この国に居ると噂される封印指定の人形師の継続調査をもぎ取った私は綺礼の教会に転がり込み、彼の世話を焼きながらの生活を始めた。まあ、それで色々と綺礼に対していた幻想が崩れたりもしたのだが・・・」
 この世の全ての悪行を善と感じてしまう彼の心に恐怖を覚えたり怒りを覚えたりし、命のやり取りすら幾度となく繰り返した果てに。
「ふと気づけば、私は彼と一緒に居るのが当然になっていた。少し目を離すと何をしでかすかわからない綺礼の行動を文字通り叩き直す生活を・・・私自身が楽しみだしていたのだ。まあ、ありていに言えば恋をしたのだろうな。歪んだ相手にふさわしい奇妙な恋愛だがね」
 ふふと笑い、バゼットは凛に優しく語りかけた。
「それでも、私は綺礼が好きだよ。彼の純粋さが好きだ。その性質が悪だなんてことは大した事じゃないさ。私が、この手で叩き直してやればいいんだからね。だから私は、彼に告げたんだ。どちらかが死ぬまでは一緒に居たいってね」


「バゼットは強い。そして多くの場合間違っている。神の教えにも、一般常識にも反していることが多い。暴力的ではあるし力技を好むし人を苛める事もあれでかなり好きだ」
「・・・なんか、どっかで聞いたような属性だ」
 士郎は思わず思い出した赤いあの子の姿に苦笑する。
「彼女とは違う。聖女などという存在に辿り付く事のない女だ。だが、だからこそバゼットは人間だ。この上ないほどに人間だった。その彼女に行動規範を叩き直され、時々神の御許に送られかけて数年が経った頃。私はふと気づいたのだよ。あの『完全な世界』では得られなかったものが何なのかを」
 言峰綺礼は振り返った。その目は、確かに楽しげな光を浮かべている―――
「完全なもの、同一なもの、それによって構成されたものはどこか歪だ。私は純粋に悪であり、彼女は純粋に善だった。故に私達の世界は完全であり、しかし完全なだけであった。思えば当然だ。そこには余分なものがない。完結した世界は変質しない」
 彼女が善で彼が悪。その前提を崩しては『完全な世界』ではないのだから。
「バゼットは私に善を示し、しかし時に悪でもあった。そうであるが故に彼女は私という純粋悪に中途半端な悪という新たな概念を与えたのだよ」
 かつて幼き頃に、世界は純粋な善で出来ているように思えた。自らの悪に対応する、正逆のものだと思っていた。だがそれは彼の周囲の小さな世界、信仰で構成された世界がそうであっただけのこと。結局綺礼は己の揺り籠の中から出ていなかったのだ。
「私は今も狂ったままであろう。どれだけの時が経とうともこの胸の欠損を完全に埋め、ただの人として生きることはできないのだろう」
 十字を切る。その意義を見出せずとも。
「それでも、彼女が私の代わりに善悪を現してくれるのならば。私が純粋悪になるのを防いでくれるのなら、そして彼女が正しいと思ったことを為すのに私が力となるのならば・・・単純に彼女が傍に居てくれるのならば」
 綺礼は静かに微笑んだ。
「存外、私の人生は恵まれたものなのではないかと思ってな」
 中途半端で、歪で、混ぜこぜの世界。それはなんと『素晴らしき世界』であることだろうか?


「・・・そう、ですか」
 凛はため息をついた。兄弟子の人生を、自分はこれっぽっちも理解していなかった。
 果たして、自分はあの不器用な正義の味方を理解できているのだろうか?
「ふふ、心配することはないよ。凛ちゃん」
 バゼットはその表情にくすりと微笑んだ。
「君が士郎君の中に見たものが何かはわからないが、それが君に眩しいように彼にとって君は眩しいものなのだからね。後は意地を張らずに彼を変え、己を変えていけばいい。折れない信念は大事だ。だがそれ以外までガチガチに固めていては無駄に過ぎるだろう?」
「ふふ、心の贅肉ってわけですね?」
「ほう、それは良い言い回しだね」
 バゼットは感心したようにそう言って煙草をふかした。
「ともかく、私達が一緒に居るのはそういうわけだ。わけなんだが・・・」
「?」
 急に途切れた言葉に凛は首をかしげた。バゼットはゆっくり、ゆっくりと目を開け・・・
「それにしたってだ!奴のあの奇行、最近は特に酷いぞ!」
 がぁぁっと叫び声をあげた。
「は、はぁ」
「そもそもだ、何故に脱ぐ?すぐに脱ぐ?そんなに見せるのが好きか!私以外に見せるのが好きか!握りつぶすぞ!?」
 噛み千切られた煙草が口から落ち、凛は慌ててそれを空中でキャッチした。
「そうさ、確かに私は人間らしく生きることを推奨したさ。真面目ぶった生き方などやめろって言ったし適度に嫌がらせするのも認めたさ。だが限度ってもんがあるぞあの筋肉馬鹿め!差し込むぞ!?」
「な、何をですか?・・・いえ、やっぱり聞きたくないです・・・」
 聞いた途端人差し指をくいくいと曲げたバゼットに凛は思わず正座した。彼女の生涯においてこれほど恐怖を感じた時間はない。毒入り危険。触れたら死ぬで。
「そもそも不死身なのがいけない。私が殴ろうが抉ろうが刺そうが燃やそうが撃とうが斬ろうが呪おうがピンピンしているのは何故だ!」
「いや、そんなこと言われましても・・・そもそも、そういう不満があるなら本人に言ったらどうですか?」
 凛の言葉にバゼットはうっ・・・とのけ反った。慌てて煙草をくわえ、火もつけないまま窓の外に視線を投げる。
「言ったさ。いや、正確に言えば毎晩言おうとはしているのだが・・・」
「・・・毎晩?」


「毎晩?」
 士郎に聞き返され、綺礼は鷹揚に頷いた。
「うむ。毎晩何かしら注文をつけようとしてくるのだが、実力でもって黙らせている」
「・・・実力って・・・そんな物騒な」
 顔をしかめた士郎に静かな笑みと共に首を振る。
「物騒でもなかろう。寝所における男女の戦いだ。むしろ平和的と称するのではないのか?」
「男女のたたか・・・ってぅおぁ!?」
 真っ赤になった士郎に綺礼の笑みが深くなった。言うまでもないが、他者の苦しみこそが言峰綺礼の最大の娯楽だ―――
「そうだ。目下私の連勝記録が続いている。床に就くまでの彼女は強気なのだが何年たっても局部を覗き込まれることに慣れないらしくてな。私は全裸で行脚すら可能な性質だ。その時点で既にアドバンテージを得ている。更に彼女は耳の裏とヘソが弱い。私は特に弱い点がないので彼女の必死の攻めにも余裕を持って対処できる上に彼女の弱点は同時攻撃が可能な配置だ」
 具体的な話にシフトするに従って士郎の表情が余裕のないものになっていく。経験無し、その手の話題で盛り上がることも少ない純情少年なのだ。仕方ないといえよう。
「確かに彼女は攻めにおいて中々の技能を有している。後ろに指を■■ながら■■■をし■■■れると私とて果てそうにはなる。だが、彼女もまた■ろが弱い。指で軽く揉みほぐすだけで全身の力が抜けるほどに。そうなってしまえば・・・」
 際限なくディティールの細かくなってゆく話に士郎の鼻の奥が熱くなったその時・・・
「更にだ、指を曲げて内壁・・・」
 ボキリ、と。
 流石にそれは死んだだろうという音を立てて綺礼の首に大理石製の灰皿が突き刺さった。
「ひっ・・・!?」
「大丈夫だよ。君に危害は加えない」
 ゆっくり、ゆっくりと倒れていく綺礼を見ながら悲鳴をあげた士郎にそう言ったのは言うまでもなくバゼットだ。爽やかな笑顔で言峰に近づき、彼があげかけた顔を後頭部に踵を叩き込むことでもう一度土へ押し付ける。
「君は何も聞いていない。いいね?」
「は、ハヒ・・・」
 凍りついたような表情でガクガク頷く士郎にバゼットは一つ頷き、どこからともなく麻袋を取り出した。あきらかに小さいそれに無理やり綺礼を押し込み、口を麻紐で縛る。
「長居してしまったからね。そろそろ帰るよ。ふふふふふ・・・」
 袋をゴリゴリと踏みしだきながらそう言ったバゼットに頷くと、彼女は麻袋を引きずりながら歩き出した。
ぐちょ、ぱきょとなにか柔らかい音をさせながら帰ってゆく姿に士郎はその場に崩れ落ちた。気づけば冷や汗で全身が濡れそぼっている。
「・・・綺礼とはもう会うことは無いかもな」
 呟き、士郎は風呂場へと向かった。全身の嫌な汗を流すため、やや注意力に欠けた状態のままで。
 同じ理由で一足速く風呂場に入った凛の存在に気づかずに。

 あと3メートル、2メートル、1メートル。

 そして天国への扉、もしくは地獄への門が開く。
 素晴らしい世界が見え・・・