11-22 前夜_TRUE

 コンコン、とノックをする。返事は短音、数秒と待たずに戸が開き、中からバーサーカーが顔を出した。
「こんばんは、バーサーカー。イリヤは居る?」
「・・・ヨウケンハ」
 問いに答えず、バーサーカーはその長身でもつて凛の視界を塞いだ。いかに日常に溶け込み、いかに平和を感受していたところで、その魂が大英雄の物であることに変わりは無い。僅かに凛が放つ緊張と戦意を読み取ったのだろう。
「・・・ちょっと、話がしたいだけなんだけどね。二人だけで」
「――――――」
 放った台詞に、バーサーカーの身体が一回り大きくなったかのような錯覚を感じて凛はまずいなあと一人ごちる。元よりわかってはいることだが、サーヴァントと自分の間には絶対的な戦力差がある。もし目の前の相手にその気があれば、既にこの身体は肉塊となって地面に叩き込まれていることだろう。
「・・・イリヤに危害を加えるつもりはないわ」
 こっちからはね、と心の中で付け加えて凛はいつでも逃げられるように脚へと魔力を通しながら首を傾げる。
「だから、通してくれない?」
「――――――」
 バーサーカーは動かず、答えもしない。
 だが。
「いいよ、バーサーカー」
 部屋の奥からの楽しげな声がそれに答えた。
「・・・イリヤ」
「大丈夫。リンもそんなに警戒しないでもいいわよ」
 主の声に、バーサーカーは音もなく後退した。凛とイリヤを視界から外さないようにしつつ部屋の隅で静かにたたずむ。
「・・・外で話したいんだけど。二人で」
 いつも通りの声と譲らぬと告げる眼でそう言ってくる凛に、イリヤは軽く目を細めて問い返す。 
「なんでバーサーカーが一緒じゃ駄目なの?」
「・・・わたしはアーチャーを連れていないわ。アインツベルンのマスターともあろうものが丸腰の相手にサーヴァントと一緒じゃないと不安だっていうの?」
「・・・へぇ」
 軽い挑発の混じったその言葉は、少女としての会話ではなく魔術師としての・・・マスターとしての話をしようという意味だ。
「ええ、いいわよリン。マスターだけでお話しね?」
「・・・イリヤ、ブヨウジン」
 簡単に出された了承にバーサーカーが制止の声をかけると、イリヤはぷーっと頬を膨らませた。
「もう、バーサーカー心配しすぎ! 何かあったら令呪で呼ぶからここで待ってる! いい!?」
「・・・■■■」
 これ以上言っても意固地になるだけかとバーサーカーは喉の奥で唸って部屋の奥に引っ込んだ。すみっこの方で体育座りしてこっちを見ている。
「・・・ちょっと、イリヤ。もう少しこう、優しい言い方した方がいいんじゃないの? なんか捨てられた子牛みたいな顔してるわよ?」
「うぅ・・・いいの! ほら、行くわよリン! 中庭でいいでしょ?」
 バツが悪そうにパタパタ歩き出したイリヤの後ろを歩き出そうとした凛は、ふと視線を感じて振り返った。
「――――――」
 バーサーカーは、静かに、厳しい視線で凛を見つめている。
 どれだけの距離が隔てようと、彼女の小さな主を害しようとするならばそれを打ち砕くと無言のままに告げて。
「・・・大丈夫」
 もう一度そう告げて凛はイリヤの後を追った。


「で? こんな夜中に何を話したいっていうのかしら?」
「ええ」
 中庭に掘られた池のほとりまでやって来た凛は水面をなんとなく眺めながら頷いた。
「寒いし、単刀直入に言うけど・・・この世界、この状況について知ってる事、全部吐いてほしいのよ」
「本当に単刀直入ね・・・聞いてどうするの?」
 それは、この状況をどうするのかという事でもある。
「・・・正直、現状に不満は無いわ。でも、わたしは誰かに幸せにして貰うなんて真っ平なのよ。この世界に嘘があるのなら、それをぶち壊して・・・それから改めて幸せになるわ」
「リンはそう思っていても、他の人がそうとは限らないわよ?」
 イリヤの言葉は、おそらくは彼女自身の考えとは異なる。魔術師として語るならば、その理由は己がエゴと誇りのみで足りる。そして、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは魔術の精髄その物なのだから。
 故にこの言葉は覚悟を問うもの。おまえは何と戦うのか、と。
「そうね。だから、場合によっては避けられる戦いを引っ張り出す事になるかもしれない。それでも、わたしは何も知らないまま幸せに沈んでるのは嫌だし・・・あいつだってそうだって信じてる」
 だから、素直に答える。十年かけて身に付けた誇りと、この1ヶ月で知ったものを並べて。
「・・・そう」
 イリヤはふぅと息をつき、白い吐息が広がって消えるのを眺めてから凛を見上げる。
「わかったわ、リン。私は確かにあなたより多くの事を知っているもの。教えられる限りの事は、教えてあげる」
 くるりとその場でステップを踏み、白い少女は優雅に頭を垂れる。
「でも、気をつけなさいトオサカの主。ホムンクルスは全ての知識を持ち、しかし正しい問いにのみそれを答えるものよ?」
 芝居がかった台詞に凛は軽く頷いた。伝承に語られるホムンクルスとアインツベルンの作り出すそれは別のものである筈だ。『試験管の仔』ではない彼女が敢えてそんな事を言い出したということは、つまり本当の事を答えるとは限らないという牽制だろう。
 だが、それならそれで構わない。見抜くことが出来れば嘘ですらも情報だ。
「じゃあ、まずは聞かせてもらえるかしら、リン? 何も想定しないで事を進めようとするあなたじゃないでしょ? この状況をどう分析したの?」 
「―――時間遡行」
 表情を変えずに返されたその答えに、イリヤは呆れ顔になった。
「本気で言ってるの? リン。そんなの魔法の域じゃない」
「そうね。でも、手持ちの情報をつなぎ合わせると、その可能性にたどり着いてしまうのよ―――サーヴァントシステムが稼動している、この街を前提条件として置くと」
 息をつく。
 今彼女が口にしているのは仮定に仮定を重ねた推論であり、確証など全く無い。正直、凛本人としても馬鹿話のジャンルに置いておきたかった話ではある。
 だが、それでもこのタイミングを逃すわけにはいかなかった。
 この少女に・・・あの記憶が本当のものだとすれば、聖杯と誰よりも縁が深い筈の彼女に話し、その反応を観察することには意味がある筈なのだから。
「確認するけど、聖杯戦争で敗れたサーヴァントはその身体を構成する巨大な魔力と共に聖杯の器に宿り、それが7体分になると『向こう側』への穴が開いてサーヴァント達は座へと帰還する。そうよね?」
「うん。そうだけど?」
 それは、この儀式の裏に潜む、始まりの三者にのみ伝えられる真実。本来秘匿されるべきそれを、イリヤは―――今次の聖杯戦争における器は自ら頷いて肯定する。
「・・・そして、開いた『向こう側』には時間や空間は意味を成さない。『いつ』も『どこ』も意味がない」
 時も場所も、所詮は『こちらの世界』に依存するもの。
 未来の英霊が召喚出来てもおかしくはないし、世界の存続を脅かせばそれが何時、何処であろうと抑止力はそこに英霊を出現させる。
 故に。
「因があって果が発生するという理からも、このシステムは開放されている。聖杯が呼び出し、還すのは共に英霊の魂。その召喚前後の差が経験のみであるのならば―――」
「・・・あ」
 言わんとしている事に気付いたのかイリヤが目を見開くのを見つめ、凛は結論を口にした。
「―――術式を改竄して、サーヴァントとして未来の・・・座へと帰る魂を召喚する事も出来る筈でしょう?」
 それは、既に聖杯戦争を終えその体験という情報を持った魂を座ではなく再び現世へと呼び寄せる、時に輪を為す円環召喚。
「でも、それってサーヴァントの経験が増えるだけでしょ? マスターも色々覚えてるって聞いたけど?」
「レイライン経由でサーヴァントとマスターは記憶を共有するわ。偶発的に起きるその現象を魔術処置によって任意に起こせればマスターからサーヴァントへ色々と記憶を送り込むことも、逆に取り込むこともできるでしょうね」
 前世の自分を降霊、憑依させ経験や技術を取得する魔術がある。本来は自己間の同期を取ることで行うものなのだが、レイラインで繋がれた使い魔というものは魔術師にとっては体外にある自己の延長。それは、対象が英霊という魔術師自身を大きく越えた霊格の存在だとしても同じことだ。
(ただ、この説がもし当たってるとすれば何故自分のサーヴァントだけじゃなく全員分を戻してるかがひっかかるんだけどね・・・)
 凛は心中で呟きため息をつく。
 一応、仮説はあるのだ。サーヴァントの送還は7体纏めて器に溜めこまれ一度に放出されて行われる。
 それ故に召還は単体対象にならず、全員まとめて出現という結果になったのではないかと。
 だが、それは本来の術者にとって予想の範囲内のデメリットなのか、それとも想定外の現象だったのか。
「精霊化した人類の幻想を情報を運ぶカプセル扱いなんて・・・ふふ、おもしろいアイデアね。リン」
 くすくす笑うイリヤに肩をすくめる。
「馬鹿な事を言っているのはわかっているわよ」
 自分で採点してもよくて再提出、悪ければその場で八つ裂きの駄目プランだが、現状一番説得力があるのがこれなのだ。
「でも、肉体や魂を伴う時間遡行がそれこそ聖杯クラスのパワーソースと術式の制御が必要なのに対し、この方法なら情報のみでの遡行な分、実現性が高くなる。そして、聖杯戦争という状況下で、情報の価値は限りなく大きいわ」
 遭遇したサーヴァントの特徴、自分達が取ろうとしている戦略の結果、どのように戦い、どのように敗北したのかについて。場合によっては成功した経験がそのまま手に入るかもしれないし、そうでなくとも同じ負け方だけはしないですむ。
 どれだけ怪異な魔術、どれだけ強大な英霊であろうとも付け入るべき隙はある。幾度でも幾度も繰り返せば、たとえ自分のサーヴァントが最弱でもいつかは勝ちパターンを構築できることであろう。・・・時間制限でもあれば別の話だが。
「聖杯戦争中に起きた情報を事前に手に入れようとしている奴が居ると仮定して・・・本来の聖杯戦争に無かった筈のもうひとつのもの―――この街を包む結界とそれを合わせて考えれば、その術者の目的は明確よ」
「・・・ええ。結界はわたしも見てきたけど、あれは間違いなく中に閉じ込めた魔術師を確実にこの地で葬る為のものね」
 イリヤの言葉を受け、凛は軽く頷いた。
「だから、わたしは戦いの準備を怠らなかった。どのチームが敵であっても勝てるように弱点と特性を探し、得た情報を元に礼装を作り、裏切りと偽りに気をつけて行動を観察してきた。実際、『前回の記憶』はわたしのように事前に手段を準備しておくタイプの魔術師には限りなく有効な武器だったわ」
 それは以前、彼女のサーヴァントに言った通り。
「はっきり言ってしまえば、あなたと話しに来たのもその目処が立ったからよ。存在する筈なのに姿を見せなかった最後のマスター。あなたとバーサーカーにも勝つ事ができると確信したからこそ、こうやって情報を提示しているの」
 恫喝ともとれるその言葉に、イリヤはくすりと笑い声を転がす。
「それは嘘ね。確信してるなら、もっと堂々としてみせたほうがいいわよ? リン」
「ええ、嘘よ。でも、バーサーカーを倒し尽くす方法を構築したってのは本当」
 実際には今の凛では手が届かない机上の空論だが、まあ嘘はついていない。
「それを踏まえて、率直に聞くわ、イリヤスフィール」
 さりげなく右腕で左の手首に触れる。袖口に仕込んである、かく乱用の宝石をいつでも取り出せるように。
「―――この状況を作った術者はあなたなの?」
 感情を見せない視線を受け止め、白い少女は楽しそうに喉で笑った。
「何故私だと思うのかしら?」
「あなた個人の強力な魔術も、これまでシステムの隙間を突いた奇策ばかり打ってきたアインツベルンの家柄も疑わしいわ。家柄だけなら間桐だって怪しいけど、正直なところ桜にはそんな大規模な魔術は使えないと思うし」
 ふぅんと頷き、イリヤは肩をすくめる。
「率直に応えるなら『いいえ』、よ。私だってやっと再会したバーサーカーが女の子になっててびっくりした口だもの」
「・・・そう」
 表情を観察し、凛は全てを語ってるわけではないが、『いいえ』という答え自体は本当であろうと判断。
 つまり、イリヤから無理矢理にでも情報を引きずり出せば解決という最短ルートは無しとなったということだ。
(・・・もとより想定の範囲内だけど、シンプルにはいかないものね)
 少し疲れを感じてふぅと息をつき、凛は再度イリヤに目を向ける。
「じゃあ意見を聞かせて。わたしの仮説、どう思う?」
「正直なところ驚いたわ。流石ね、リン。根本的なところで間違えてるけど、推測自体はあちこちが正解よ」
 パチパチ手を叩くイリヤに凛は力を抜きかけていた身体を身がまえる。

 推測に対して採点を出来る立場とは、つまり正解を知っているという事だ。

「どういう―――」
 凛はやや興奮気味なのを自覚しながらイリヤにそれを追求しかけ、
「でもね、リン? さっき私と桜を術者候補にあげたけど」
 間髪入れず続いた言葉に、思わず口を閉ざした。
 こちらを見据える瞳が、冷たい。
 幼さと残酷さを併せ持つその声でイリヤはくすくすと笑い―――
「その術者の候補から、あなた自身を外す理由は何かしら?」
 そう、静かに囁いた。
「それは・・・」
 口ごもる。凛自身、その可能性を考えなかったわけではない。
 自分の記憶にも曖昧だったり矛盾していたりする部分がある以上絶対の信用はおけないし、現状を把握する為には捨てていけない可能性である。
 しかしそれでも候補から自分の名を外していたのは―――
「少なくとも今のわたしにはそういう裏技を使う理由も、サーヴァント召還システムを改造する知識もないからよ」
 元々、聖杯戦争に勝利する事は遠坂家の悲願であって凛自身には別段こだわりはない。
 当主として全力を尽くすのは当然ではあるが、正面から叩き潰すというポリシーを捨ててまでそんな反則をしては本末転倒である。
 そんな優雅でない手法では父に顔向けができない。
「だからわたし・・・正確に言えば、前の周のわたしは術者じゃないと判断できる」
「・・・へぇ」
 慎重に否定した凛に、イリヤはすっと目を細めた。
「それはおかしいんじゃないかしら? リン。手段と目的っていうのなら、あなたこそ一番に候補にあがるのに」
「・・・聞かせてほしいわね。その二つ」
 凛もまた、軽く目を細めてその視線を受け止める。
 互いの思考を探るような見つめあいを経てイリヤはふぅんと呟き、肩をすくめて話し始めた。
「手段の方だけど、サーヴァントシステムを利用って考えるから視点がぼやけるの。ねえ、リン。あなたの家の始祖が使う魔法の一端に触れた事があるでしょう?」
「・・・宝石剣のこと?」
 例の記憶によれば、自分はあれの設計図を見ている。その後どうなったのかが、ぼやけていてわからないが。
 確かその時にこの少女も一緒に居たはずと凛は注意深く耳を傾ける、が。
「ああ、そっちじゃなくて。ほら、例の杖の」
「・・・・・・」
 途端苦々しい表情になった凛にくすりと笑い、イリヤは笑顔のままで告げる。
「平行世界から経験、能力の情報を呼び出して憑依させるその技術を、貴女の一族は持っていて―――さっきの推論、この方法でも達成できるんじゃないかしら?」
「っ!?」
 凛は思わず声をあげた。慌てて首を横に振り反論を試みる。
「あくまでも平行世界からの召還よ!? 時間軸とは―――」
「らしくないわね。誤魔化してるの? 『外』と接続して『中』に召還する以上、『外』がこちらよりも早く歴史を辿っていれば主観的には時間遡行と同じ事でしょ? それ故の逆さ木、それ故の可能性の召還なんだから」
 目を見開き、言葉を失う姿を眺めイリヤはふうと息をついた。
「―――そして、術者が『中』の人間であるとも限らないわよね? たとえば2月15日まで進んだ世界から、なんらかのアクシデントで生命の発生が二週間ほど遅れた世界を観測すればそこはまだ2月2日よ? 自分の情報をそっちの自分に憑依させれば、移動者にとっては時間が遡ったようにみえるんじゃないかしら?」
「・・・2月・・・15日?」
 それは<今>から見て明後日―――いや、明日。その日付の意味は。
「っ・・・」
 断片的な記憶。
 闊歩する闇、蠢く蟲、聖骸布、黒いドレス、黒騎士、大空洞―――
「目的の方も簡単。ねえリン? 私、昨日言ったよね? 『また』シロウをとられちゃうよって」
「ちょっと・・・待ちなさい・・・」

 凛の弱々しい制止を黙殺し―――

「だ、め。簡単なことでしょ? つまりね? リン。あなたはシロウがサクラを愛した別の世界からこっちに来たのよ」

 ―――イリヤは、あっさりと真実を言い放った。

「あ―――」
 途端に、膝から力が抜ける。
 蘇ったいくつかの記憶。並んで料理する自分と桜。そしてそれを居間から眺める士郎。
 その視線が向けられているのは―――
「・・・は、あは、はは・・・」
 凛は失笑をこらえきれず、肩を震わせ俯いた。
「・・・無様な事この上ないわね・・・負けたからって逃げ出して・・・こんな、くだらないやり直し―――」
「やり直し?」
 うずくまり力ない笑い声をたてる凛をイリヤは首をかしげて見下ろし、しばらくしてから肩をすくめる。
「・・・らしくないわね、リン。でもいいわ。わたしはこの件には干渉しないって決めてるし」
 そして、こちらを見ていないのに構わずふわりと優雅にお辞儀を一つ。
「もう用は無いみたいだから寝るわ。おやすみなさい、リン」
 その口には。

「―――少しがっかりしちゃった」

 冷たい笑みが張り付いていた。

 

Intrude12-1  AM6:00

「っ・・・」
 ベッドに寄りかかって座っていた凛はカーテンの隙間から差し込みはじめた朝日の眩しさに顔をしかめた。鬱陶しくなって顔をそむけると、今度はどこからか聞こえる騒ぎ声が徹夜の頭をズキズキと痛めつける。
「・・・・・・」
 凛はふらりと立ち上がった。遠く聞こえる叫び声。走り回る音。もう少ししたら台所で一騒ぎ起きるのだろうし、それが終わったら朝食だ。顔を出さないと誰かが様子を見に来るかもしれない。
「・・・・・・」
 今は、誰とも会いたくない。でも、ここに居る限り一人になる事はない。
 朝抜きくらいならともかく、昼も抜けば確実に様子を見に来てしまう。
 ―――多分、一番会いたくないあいつが、一人になんかさせてくれない。
「・・・・・・」
 ため息と共にコートを手に取り、ゴミ箱に目を向ける。
 その中にあるのは、部屋に戻ってきた時に激情のままゴミ箱へ投げ捨てた赤い箱。
 包装が歪み、リボンの解けた―――大事だった筈の。
「っ・・・」
 ぐっと奥歯を噛む。思考をカット、足を動かせ。
 音を立てないように廊下に出る。施錠の呪文が脳裏をよぎったが魔術を使う気になれぬままドアを閉め、そのまま声がする方を避けて玄関へ。
 カラカラカラと音を立てて戸を開け、外へ出てからようやく凛は息をついた。
 とにかく、ここを離れよう。全てはそこからだ。
「はぁ・・・」
 力ない足取りで離れていくその背中を。

「・・・・・・」

 赤い瞳が、じっと見つめている。

 


Intrude12-2 AM7:00

 足の向くまま歩き続けた凛は、新都へと繋ぐ橋を臨む公園の中でようやく足を止めた。
 目に入ったのは自動販売機。商品の中に缶の紅茶を見つけてコートのポケットをさぐると千円札と小銭が少し出てきた。
 財布をうっかり忘れたときの為の資金である。
「・・・この際、味のことは考えない、と」
 呟いて硬貨を投入し、紅茶の缶を手にベンチへ腰を下ろす。 
「・・・はぁ」
 喉を暖かいものが通り抜ける感触に息をつき、空を見上げる。
 まだ時間が早いせいか、ひどく静かだ。凛は日差しを浴びながら目を閉じた。

 認めよう。
 凛が忘れていた・・・いや、思い出さなかった記憶の中で、衛宮士郎は間桐桜を救う為に戦っていたと。
 彼の理想を、それまでの生涯を、その存在を作り上げる為に縋ってきた者を捨てて・・・ただひとりの少女を救うために戦っていた。

 アンリ・マユ。
 この世全ての悪。

 聖杯の中に潜むというアベンジャーのサーヴァントと契約させられていた妹はその心を捻じ曲げられ、士郎と凛の敵となり。
「・・・確か、途中で現れたセイバー相手に士郎とライダーが戦って・・・わたしは桜と・・・」
 そこから先の記憶が酷く曖昧だ。そのあたりまでは、イリヤに別の世界から移動してきたことを指摘されてからは完全に思い出せるようになっているのに。
「いったいどんなことがあったら他の世界に逃げてくる羽目になるってのよ・・・っていうか、冷静になってみればいずれできるようになる可能性はあっても今のわたしにはそんな事する手段とかないじゃないわよね・・・」
 唯一可能性としてあげられるのはあの時持っていた筈で今はどこにもない宝石剣だが、凛自身とセットで考えれば強力な礼装であるところのアレがあったとしても、他の世界の自分に憑依するなんていう事が可能なのだろうか?
「・・・っていうか、無理よね」
 少なくとも今の彼女の知る限りでは無理だ。師父ならともかく同程度の年齢の筈の平行世界の凛にも、自分の技術でそこまでの術式を組めるとは思えない。
「ってことは、つまり・・・イリヤの言葉、鵜呑みにしないほうがいいってことか」
 ぐっと紅茶をあおり、凛は勢いをつけて立ち上がった。
 自分の記憶も含め、手持ちの情報は全てが疑わしい。
 だが、疑う事ができるということは検証することも出来るということだ。取っ掛かりなく推論を重ねていた時より状況は良くなっている。
「そうよ。なんでテンション落ちてるのよ。うん、何も問題はないわよね」
 うんうんと何度も頷き、凛は早足で歩き始めた。
「さあ忙しくなってきたわよ。余計なこと考えてる暇なんて無いわ。うん、まずは何を確認すべきかしら―――忙しいわね、うん」

 自分が、何故沈んでいたのかという事から目をそらしながら。
 それに余計なことなどとわざわざ名前とつけないとやっていけない事を誤魔化しながら。

 

Intrude12-3 AM9:45

 凛は言峰教会に程近い交差点に立ち、周囲を見渡していた。
「坂のちょっと上のあたりにイリヤとバーサーカーが立ってて―――セイバーが、それを迎え撃った、と。うん、覚えてる。覚えてるけど・・・」
 その記憶の中のバーサーカーは数メートルの巨体を誇っており、何よりも男だった。
 いや、腰垂れをめくって確認したわけではないが、あれで女だったら色々困る。
「しかしおかしいわね・・・なんだって男サーヴァントが女になってて女サーヴァントは男になってないのよ・・・」
 凛の記憶にあるサーヴァントはセイバー、バーサーカー、ハサン、ライダー、そしてアーチャー。その中でセイバーとライダーは記憶の中のままの姿をしており、バーサーカー、ハサン、アーチャーは容姿が大きく異なる。
「偶然・・・ってわけではないわよね。これは」
 セイバーがギルガメッシュ似の男になったりされてもそれはそれで困るが、全員性別反転ならその無差別ぶりからそういう世界なのだと割り切る事も出来る。
 しかし事実として彼女達の性別は女性側に統一されるという偏りを見せており、それが『全員を女性に』なり『男性を女性に』なりのルールがある事を疑わせる。
 ならばこの状況はやはり何者かの意思か都合が反映されたものであり、そのパターンを見抜くことができれば状況を解きほぐす一つの指針となってくれるはず・・・なのだが。
「・・・性転換になんの意味があるっていうのよ実際」
 真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しい議題に、凛の脳内会議もさぼりがちである。
「まあ、はっきりしているのはいきなり全員召喚されて・・・その時にはもう性別が違ったってことだけか」
 凛は意味があるかすらわからない上にあまりに取っ掛かりの無い現状にため息をつき、視線を遠くに向けた。
「・・・召喚、ね」
 ここからは見えない、自分の家の方へと。
 記憶通りならば凛はその地下室でアーチャーを召喚した。
 しかし、それは前の世界とやらでの話である。
 この世界での出会いは、衛宮家での唐突なもの。それはつまり―――
「・・・わたしは、ここでは召喚をしてないわけよね」
 ならばあのアーチャーは何故ここに居て、再契約の儀式もなしに自分とレイラインが繋がっているのだろうか?
「確認の必要あり、か―――」

 


Intrude12-4 AM10:40

 凛は久方ぶりに戻ってきた自宅の前であたりを見渡した。周囲の気配をうかがい、誰もこちらを見ていないことを確認する。
「・・・よし」
 そして、呟きざまポンッと地を蹴り飛び上がった。重力を無視した軽やかで大きな軌道を描いたその細身の体は音ひとつ立てずに遠坂邸の屋根へと着地する。

 ―――あいつ、驚いてたな。

 昨日も凛は重量軽減の魔術を併用した大跳躍で屋根の上に飛び上がった。その時士郎はぱっくりと口を開けてこっちを見て―――

「っ! とととととと!」
 中身を見られた事まで一緒に思い出してバランスを崩した凛は両腕を思いっきり振り回してなんとか踏みとどまった。
「・・・せぇふ」
 大きく両腕を広げたポーズで凛は息をつく。
「・・・お父様、ごめんなさい。どうも最近のわたしは優雅じゃない気がします・・・」
 凛は知らないだけで実際のところ今のポーズはかなり父の決めポーズに近いのだが、まあどうでもいいことだ。
「ごほん・・・さて」
 姿勢と気を取り直して凛は呟いた。
「この辺は廊下だから・・・こっちか」
 屋根の上をカタカタ踏み鳴らしながら少し移動し、そこを見下ろす。
「・・・・・・」
 使用人を雇っていない今の遠坂家は、往時程は清掃が行き届いていない。屋内は家訓の優雅を守るため必死で掃除しているが、魔術による隠蔽効果で視線が向くことの少ない外壁などの掃除は年に一度するかしないかだ。
 故に。凛が今立っているそのあたりも雨や砂埃がうっすら積もり、落ち葉が引っかかっている。当然の事である。
 当然の筈なのだが。
「やっぱり、と言うべきかしらね・・・」
 少し視線をずらした所には、ほとんど汚れのない屋根が一区画分だけ、広がっていた。
 階下、居間の天井に当たる部分だけ―――汚れが、薄い。
 そう。かつてアーチャーが落下し、突き破ったそこだけが。
「どう考えても・・・一度分解して再構築した痕跡よね、これ」
 はっきりと覚えている。彼女の聖杯戦争、その始まりの夜。
 屋根を突き破っての登場と態度の悪さに腹を立てた凛は自分の命に抗わぬよう令呪の戒めを彼に与え、屋根の修理をしておけと命じたのだ。

(―――了解した。地獄に落ちろマスター)

 苦々しげにそう言ったアーチャーは、翌朝完全に補修が終わった居間でくつろいでいて。
「・・・どういうこと?」
 この世界に存在していて凛とレイラインでつながれているアーチャーは少女だし、ここではなく教会にあらわれたと言っていた。証言もある。
 ならば、これは誰がやったというのだ。誰がここに穴を開け、誰がここを直したのか。
 仮にこの穴が本当にアーチャーの落下痕跡であるというのならば・・・アーチャーは二人居る事になる。彼と、彼女が。
「そして、場合によってはわたしも、か」
 経験の憑依による世界移動。
 その言葉が真実だとすればこの世界には元から遠坂凛が居た事になる。士郎や桜が自分の事を遠坂凛だと認識している以上、それは間違いない筈で。
「・・・あの部屋」
 そして、思い出すのは数日前に調べたとある部屋。
 見覚えの無い服と内装があったあそこを誰が用意したのか、誰が使っていたのか。それは今になっても不明のままである。
 だが、憑依した際に上書きされた記憶があるのだとすれば、その問題は解決である。
「んん・・・むぅ・・・」
 軽く唸る。小規模な疑問には妥当な解が出せるが、全体でみるならばどうにも足りていない。
 この世界の凛が呼び出したのが少女アーチャーであるとすれば、屋根に穴を開けるアーチャーは前の世界の存在という事になり目の前の事実と矛盾する。
 この世界の凛が呼び出したのが屋根に穴を開けるアーチャーとすれば、現実に居るアーチャーが少女である事に矛盾する。凛の記憶にあるアーチャーは男なのだ。一緒に移動してきたという仮説は否定できる筈。
「でもそれを言ったら、わたしが世界移動したていう前提自体、極めて疑わしいのよね・・・」
 ため息をつき、凛は屋根から飛び降りた。重量制御をかけて音も無く着地する。
 何しろ、他の面々にまで「前の世界」とやらの記憶がある。凛がイリヤに語った仮説はそこの所に説明をつけられるが、しかし目の前の穴のことも女性化の事についても説明がつかない。
「もうなんかこう、何でもありよね」
 呟き、次の心当たりへと視線を飛ばす。
 何でもありの状況というのならば、それを可能にする物を、凛は知っている。
 ―――柳洞寺地下空洞、その奥底に眠る物。
 それは600年の妄執。
 それは汚れた願望器。
 それは大聖杯。

 それこそは、この世全ての悪が眠る場所。

 


Intrude12-5 PM12:00

「くけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
「?」
 凛は唐突に響いた怪鳥の絶叫のような音に振り返った。なにやら坂の上の方からゴチンとかどすんとかそんな音が響いてくる。
「・・・なに? 今の」
 どこかで聞いたようなそうでもないような物音に首をかしげ、首をぷるぷると振って凛は歩き出した。
「そんなどうでもいいことに首突っ込んでる暇ないのよわたしは」
 無視無視。
 無視無視無視。
 呪文のように「どうでもいい」と「無視」を繰り返して歩き続ける。
 
 それが現実逃避に属する行為だということに、彼女はまだ気付いていない。
 

 

Intrude12-6 PM13:00

「・・・このあたり、よね」
 柳洞寺へ続く石段を登っていた凛は、森の向こうに目を向けて足を止めた。
 ここからはまだ見えないが、視線の先には洞窟がある筈だ。
 ―――あの杯が眠る場所が。
「・・・っ」
 足がふらついた。いい加減疲労が溜まったのか、それとも記憶にでも酔ったのか。
「どちらにしたってこのままぼぅっとしてるわけにもいかない、か」
 魔術師としての部分が、聖杯がどうなっているのかを確認せよと告げる。そもそもここまで来たのはその為だ。
 だが。
「・・・・・・」
 確認して、聖杯を手にして、それでどうなるというのだろうか。
 心の中でだけそう呟く。
 結局の所、昨日から考えていることはそれだけだ。
 遠坂凛は、聖杯などに望むものなど無しと思っていた筈なのに。
 己の力で掴んでこそと思っていた筈なのに。
 もう一度、等と願ってしまったというのか―――
「考えても、答えは出ない、か・・・」
 首を横に振り、凛は森に分け入った。思考は乱れ、一向に定まらない。
 だから記憶を頼りに足を進め、ただひたすらに歩き続ける。そして、十数分の放浪の、その先に。
「え・・・?」
 何も、無かった。
「っ!?」
 あわてて周囲を見渡す。場所は間違ってはいない筈だ。辺りの風景は記憶のままだし、目印にと覚えておいた妙な形の岩なども確かに有る。
 だが、岩壁に偽装されて隠されていた筈のその入り口だけが無い。
 いくら手を伸ばそうとも返ってくるのは岩に触れた感触だけだ。士郎ほどの解析能力の無い凛では断言こそ出来ないが―――。
 可能性はいくつか考えられる。何者かに触覚までも誤魔化すように偽装され直されたとか、逆にこれまでかかっていたのが幻覚系ではなく、本物の岩を透過できるような魔術であってそれが解除されているのか。いっそ復元の魔術の応用で岸壁に掘られていた部分を掘削以前にまで巻き戻したとか。
 それとも。
「・・・この世界には、聖杯が無いという、可能性もある・・・か」
 口に出し、考えてみる。
 宝石剣の設計書。おそらくは間桐慎二と間桐臓硯。ひょっとしたら藤村大河も。
 在るべき所に無い物達。
「・・・・・・」
 あるいは、もうひとつ。
 大きなものが足りないのかもしれないが。
「・・・正直、妄想であって欲しいわ」
 また首を横に振り、気を取り直す。
 とにかく目標のものは見つからなかった。ここに居つづけた所で意味はあるまい。
 重い足取りで凛は来た道を正確に引き返す。体のだるさは今度こそはっきりと精神的、肉体的な疲労を主張している。そろそろ何とかしなくてはならないだろう。
 ようやく戻ってきた石段で凛はため息をついて伸びをし。
「む? 遠坂か?」
 完全に油断をしていた所に声をかけられビキリと固まった。変な方向に伸ばしてしまった脇腹がミシミシと痛む。
「・・・っ・・・ぅ」
 軽く呻きながら顔だけ回して向けた視線の先で。
「・・・何をやっているのだ君は」
 柳洞一成はやや呆然とした顔でそう言ってきた。


Intrude12-7 13:45

「・・・お茶だ」
「・・・ありがとう」
 柳洞寺の離れにある一成の自室。
 普段はあまり訪れる者も無く静かなその部屋は今、ただならぬ緊張感に溢れた暗黒空間と化していた!
「さて・・・あそこで何をしていたのだ? 遠坂」
「あら、このお寺は参拝者を選り好みするのかしら?」
 いつも通りの皮肉が混じった切り替えしに、しかしいつもと違う倦怠を感じ取り一成はむぅと眉をしかめる。
                       レッド・ホット・ローズ
 あの女怪が、衛宮を誑かす諸悪の権現、穂群原の赤い殺人薔薇と謳われた遠坂凛をここまで捨て鉢で雑魚っぽい雰囲気にするような何かがあったとでも言うのか?
 ・・・ありえるとすれば。
「衛宮と何かあったのか?」
「ぬゅ・・・!?」
 一成は唯一思いついた可能性を口にし、猫が仰天したようなリアクションでそれが原因であると確信した。
「ふむ。衛宮もようやく遠坂の本性に気がついたか。善哉善哉」
「・・・士郎は前からわたしの素を知ってるし、今だって何も無いわよ」
 一瞬動揺した凛だったが、すぐに表情を戻し投げやりに言い捨てる。
 見慣れぬその表情に一成は確信を深め、やれやれとため息をついた。
「早くも犬の食わぬなんとやらとは・・・衛宮め。だから遠坂はやめておけと言ったのだ。今ならまだ間に合うとは思うのだが、衛宮も後退のネジを外した男。そう簡単にはいかんか」
「だから! 士郎は関係無いっていうか別にわたしはいつも通りよ!」
 苛立たしげな声に、一成は静かに首を振る。
「遠坂。そも、おまえが俺に声を荒げた事など無い。それだけでも十分に異常と言えんか?」
「っ・・・」
 落ち着いた声に凛は声を詰まらせた。反論などいくらでも出来る。だが、反論すればする程に、考えれば考える程に自分ではそれを理解してしまう。
 今、行き場所を無くしているのは衛宮士郎への想いであり。
 遠坂凛は、魔術師としての敗北よりも女としての敗北にこそ、痛みを感じていると。
「イライラしてるのは認めるわ。でも、それは本当に士郎のせいじゃないのよ。一から十までわたしの中の問題に過ぎないわ」
 一拍置くことで落ち着きを取り戻した凛はそう言って湯のみに手をつけた。檀家から寄進されたものなのか良い茶葉を使っている。
(・・・でも)
 おいしいとは思うが、他の人が淹れたものを思い出してしまい落ち着かない。
「だが、原因は衛宮なのだろう?」
「あなたもしつこいわね。士郎も無関係じゃないけど―――」
 口篭もる。自分らしくない行動にいらつきが増す。
「ないけど、それだけじゃないから」
「ふむ。実は衛宮には隠し妻が居たとか・・・そんな目で俺を睨んだ所で仕方あるまい。冗句だ」
 一成は凛をからかうという新鮮な感覚に充足を覚えながら、士郎の事に考えを向ける。
「・・・実際の所、俺には理解できんが衛宮はおまえが好きなのだろうな」
「・・・博愛、よ。アレは」
 そっぽを向いて言い捨てる凛に一成は深くため息をつく。全くのこと、色恋というものは面倒くさい。
「昔ならば、そうだったかもしれん。だが、今は違う・・・まあ、はっきり言ってしまうならば、だ」
 苦々しげな表情で一成は最後にもう一度告げる。
「衛宮の中で、何かが決定的に変わったのだ。おまえと接している間にな。だから責任を取れと言っている」
「・・・うちには他に12人も女の子が居るのよ? わたしだけの影響なんて証明できないわよ」
「その発言に意味が無いことは、自覚してるのだろうな?」
 凛は、苦々しげに顔をしかめて踵を返した。
「―――お茶、ちそうさま。わたしはこれで失礼するわ」
「・・・うむ」
 あからさまな打ち切りに一成はそれ以上口を出さず、ただ頷いてみせる。
「・・・・・・」
 後ろ手に戸を閉めて出て行った凛の足音が遠ざかるまで待ち、一成はようやく苦笑を漏らした。
「まったくのこと、げに恐ろしきは恋煩い、か」
 あの遠坂凛をしてこの体たらく。たった一度の会話だけで凛の弱みをダース単位で手に入られるなど、2週間前には想像もつかなかった状況だ。
 ―――その弱みを突いたら確実にガードに回りそうな相手が出現して、しかもそれが一成の信頼厚いあの男だということも、だが。
 苦笑を浮かべながら合掌礼拝。あの友人たちに幸多からん事を。

 なにせ、あいつらが不幸だときっと進む先でもっと多くの奴らが不幸になるのだろうから。


Intrude12-8 PM14:15

 凛は新都の中央通りを歩きながら苛々と視線を動かしていた。一応、目的としては記憶の検証の為の散策であり、アーチャーと偵察して回ったときのことを思い出そうとしているのだが。
(あっちに古着屋・・・向こうを曲がってずっと行くとプール・・・こっちはゲームセンター)
 ふと気付くと、この2週間で訪れた場所と思い出を目で追っている自分がいる。
(まったく、今でもどこかに君の姿探してる秒速が5センチメートルかわたしは・・・)
 微妙にわかりづらいたとえで毒づいて凛は顔をしかめる。
 結局のところ、何が問題なのだろうか。
 イリヤなら、昨晩の感触からして『敵』という感じではないので問題は無い。
 何か知ってるのだろうしこちらに偏った情報を与えようとしていることからして『味方』として信じるのは危険だが、何かしてくることはないと見ている。
 他のマスターもサーヴァント連中を士郎が心理的に制圧してしまっている今、危険性は低い。少なくとも多対一になる危険性をおかしてまで誰かにちょっかいをだそうなどという事はあるまい。
 この街から出られない状態というのは気になるが、綺礼とバゼットが今もそれについては調査を続けている筈だ。
 踏んだ場数は圧倒的にあの夫婦の方が上なのだし、その手腕にも期待できる筈。
(・・・っていうか、バゼットって誰よ?)
 最初の自己紹介でショックを受けてたのでスルーしていたが、彼女は凛の記憶には居ない人物だ。少なくとも、前の世界だかなんだかで出会った事はない。
 まあ、そもそも凛は綺礼が独身だと思い込んでいたし、死別した妻だか子だかが居るという話も知らなかったから別居している後妻が居ても不思議ではないのだが。
(異常の調査をしている中に仕掛け人が居てかく乱してるとか、ありがちよね・・・)
 ふむと検討をはじめ、すぐに却下する。
(でもそれだったら綺礼の奴が気付く筈。あの言葉責めキチ○イを欺き続けてるってのはちょっと考えにくいし、綺礼が仕組んだ側だったらこんなのんきな世界にはなりっこないわ)
 息をつき、ふと投げた視線の先には喫茶店。思わず足を止めた自分に舌打ち一つ。
「・・・また思い出してるし」
 仏頂面で凛は呟いた。
 あの店は、一昨日士郎とセイバーがデートした際に立ち寄った場所だ。
「・・・・・・」
 なんとなく唇を尖らせた凛は心の中でとりあえず士郎にチョップを入れてみる。なんでさと不思議そうな顔にもう一発。その後撫でる。
 少し、すっきりした。
「オッケイよ。COOLに行きましょ、凛。COOLに。指とか6本になるくらいCOOLにね」
 何度か繰り返して深呼吸し、凛はもう一度喫茶店に目を向けた。
 どうせ今の凛ではまともに調査もできていないのだ。一度仕切りなおしという意味をこめて、休憩するのも悪くあるまい。

Intrude12-9  PM14:30

 喫茶店に入った凛はクランベリーパイと紅茶をオーダーし、思考の中に埋没する。
(結局、わたしは何がしたいんだろう)
 まずは、そこからだ。
(昨日の晩は・・・その・・・まあ、そういう事に及ぶ前に真面目な用件はすましとこうっていう、ただそれだけだったわけよね)
 登場のタイミングからしても記憶についての言及にしてもイリヤは明らか他と違う状況である事が推測でき・・・士郎と浮かれてる間に何かとんでもない事がおきたらいけないと先手を打とうとしたのだが。
(今ならわかる。そんな事を思い立ったのは・・・2月15日が近づいていたからね。前の記憶が、その日に気をつけろって警告してたから)
 コツコツと机の上を指ではじき、考えをまとめる。
(そして、予定通りバーサーカーを引き離して話を進めて・・・わたしがこの世界とは別の世界出身だって言われた)
 凛はイリヤの声を思い出し、眉をしかめた。
(そういえば、結局のところあの子が断言したのってそれだけよね・・・他の話は可能性があるとかこういうのもありえるとかだけだったのに)
 ただひとつ。
『凛は士郎が桜を愛した世界からこの世界へやって来た』
 その一点だけは、きっぱりと言い放っている。
「・・・だからどうしたってのよ」
「はい?」
 思わず呟いた言葉に、近づいてきたウェイトレスがきょとんと首をかしげる。
 なんでもありませんと手を振って優等生スマイルを浮かべると、テーブルに紅茶とケーキを並べて去っていった。
(認めるわ。イリヤ。今日のわたしは魔術師じゃない)
 士郎と桜が愛し合っていた世界。そこから何故この世界へ凛が移動したのか。
 自分から望んだのか、何者かによって強制的に移動させられたのか。そして他の皆は移動しているのか。

 ―――今、あの家に居る衛宮士郎と間桐桜は、互いへの愛を忘れさせられた被害者ではないのか。

 それがわからないと、凛は進むことも引くこともできない。
(あぁ、もう。情けない・・・遠坂の魔術刻印も湿りがちってものよ)
 よくわからない嘆きと共にフォークをとり、凛はクランベリーパイを平らげにかかった。
 
 悩んでても、とりあえずスイーツ。これぞ少女の心意気。

 

Intrude12-10 PM15:00

「・・・・・・」
 少女は腕組みなどしながら窓の向こうを眺めていた。
 そこに居るのは、黒い髪のツインテールが一人。
「・・・・・・」
 多分、本人は表情を変えずにクールに考え事をしているつもりなのだろうが、ぴくぴくと向きをかえる眉と瞳、コツコツと机を叩く指先を見ればその感情が荒れ模様なのは一目瞭然である。
「イリヤちゃんの事、一度絞めといた方がいいかもしれないわね・・・」
 煩悶とする少女に気遣わしげな視線を送ってふぅと息をつき、窓の外の少女はポケットから携帯電話を取り出した。。
(とりあえず・・・こっち方面はここが正念場。わたしに任せてみよう。ライダーの報告だと、なにか吹っ切れたみたいな事言ってたし)
 ぽちぽちと短縮ダイヤルを押して耳に電話をあてるとしばしの呼び出し音を経て不慣れからか少し警戒した声が耳に届く。
『・・・はい、ライダーです』
「あ、もしもし。わたし」
 ちらりと喫茶店の中をもう一度覗き、ついに外面を捨ててテーブルにつっぷした姉にひとしきり苦笑。
「買い物の途中ごめんなさい。今、わたしと一緒?」
『サクラは八百屋さんと2円引きについて過酷な交渉をしていますが―――ああ、八百屋さんの顔が恐怖でどぶのような色に・・・』
「じゃあちょうどいいかな。姉さんが新都の喫茶店でぐだぐだやってるから、わたしに言って喝を入れさせて頂戴」
 その指示に、電話の向こうで息を呑む音がした。
『それは・・・わたしは、あくまでもサクラの味方のつもりなのですが・・・』
「だからこそ、よ。なし崩しなんてのは、少なくともわたしは嫌だもの。多分、わたしも同じ結論になると思うわよ?」
 電話の向こうからは静かな息遣い。そしてすすり泣きながらお釣りを渡す八百屋の声。
       おち
 あの男―――陥落た!
「・・・あなたがそういうのでしたら、そうなのでしょう」
「どっちかっていうと姉さんの方に近い性格だけど、この点についてだけは自信があるわ。信じてもらっていいから。じゃ、お願いね。店の電話番号は―――」
 店の看板に書いてある電話番号を読み上げ、少女は電話を切った。
 ここから先は、自分の関与していい問題ではないとわかっていても祈らずにはいられない。
 

 とりあえず3Pとかいかがなものか。

 


Intrude12-11 PM15:30

「あの、遠坂凛さま・・・でしょうか?」
「え? 」
 紅茶のおかわりをするかしないかで悩んでいた凛は不意に声をかけられて思考の淵から帰還した。振り向けば、ウェイトレスがコードレスの電話を片手に佇んでいる。
「ええ、そうですが?」
 宇宙刑事の蒸着より早く姿勢を正し、表情はにっこりと理想的なスマイル。
 0円? いや、金は取る。
「間桐という方からこちらの席でクランベリーパイと紅茶を飲んでいる遠坂凛さまという赤い人に取り次いで欲しいとのお電話があったのですが・・・」
「桜・・・?」
 何故ここがわかったのか、何の用なのか、なんで今日の服装を知らない筈なのに赤い人なんていう呼び出し方をするのか。
「あの、お受けになりますか?」
 今時、店への電話の取次ぎなどあまり無いのだろう。自分の対応に自信なさげな表情をするウェイトレスにええと頷き、凛は受話器を受け取った。
「もしもし?」
 さりげなく周囲に目をやって監視してる無闇に髪の長い眼鏡っ娘でもいないか確認しながらそれを耳に当てると。
「おはようフェルプス君。言うまでもなく今日はバレンタインなわけだがそんな大事な日に朝から姿を見せないのが一人。そこで今回の君の使命だが、喫茶店で不気味に唸ってるその人物を先輩の教室まで連れてきて欲しい。例によって、君もしくはメンバーが捕らえられ、あるいは殺されても当局はいっさい関知しないからそのつもりで。なお、この電話は自動的に切れる。成功を祈る」
 あまりに古いネタに呆然としている間に電話はぶっつりと切れてしまった。
 ツー、ツーとむなしく発信音だけを発する受話器を呆然と見つめる凛にウェイトレスはきょとんとした顔で首をかしげる。
「・・・お客様?」
「え? あ、ええ、ありがとうございます。ちょっとした連絡でした」
 礼を言って受話器を返し、店の奥へ引っ込むその背中を見送りながら凛は頭を抱えた。
「最近の人にはおはようハント君じゃないと通じないわよ・・・」
 じゃなくて。
「どういうこと?」
 監視されていたという可能性は否定できない。今日の自分がいかにダメな状態かはこれでもかというくらい自覚してるし、そもそも桜に心理的な支配を受けているハサンあたりを動員されたら魔術師ではどうしようもない。
 しかし、だからと言って凛を桜が呼び出す理由に心当たりは無い。
 バレンタインがどうのという台詞からして士郎がらみなのだろうが、あの子にとって今の状況は悪くない筈―――
「・・・・・・」
 凛は体中が鉄くずで出来ているような心持でぎこちなく立ち上がった。
 何にせよ、行かざるはえない。知ってしまったのだから、気付いてしまったのだから逃げを許せない自分の為にも、ちゃんとしないと。
 桜の話がどんなものであれ、この記憶の事を伝えようと凛は決めた。

 

Intrude12-12 PM16:15

「仕事、早いわね・・・」
 学園に着いた凛は、足を踏み入れた補修途中の廊下を見渡して呟いた。
 先週の大規模な戦闘で半壊とまではいかなくとも一部廊下の床全損を含む大ダメージをこうむった穂村原学園の校舎は、まだ10日と経っていないにも関わらず既に建物そのものは元の状態へと戻っていた。
 はがれたままの壁やガラスのない窓、机が一つもない教室など細かいところを見ればまだまだ元通りとは言えないが、それでも普通に・・・いや、物理的に修復していてはこうはいかないだろう。
(協会か教会の修復魔術が使える隠蔽要員、かしら? 外部と連携が取れないと言っても前回は戦闘機墜落とかあったらしいし今回も事前に冬木で待機してた、ってとこかしら)
 無音の校舎に上履きの足音だけを染み込ませて凛は歩みを進める。
 そう広くもない校舎だ。重い足を引きずってでも、すぐに目的には付いてしまった。
「・・・来たわよ」
 ドアをからからと開け、窓際に立つ少女に声をかける。
 校庭を眺めていた少女―――間桐桜は、ゆっくりと振り返り、夕日の赤を背に不満げな表情で口を開いた。
「・・・丸一日何してたんですか姉さん」
「ちょっと調べ物をしてただけよ」
 西日を避け教室の中央に立つ凛に、桜は眉をしかめて問いを投げかける。
「それにしたって誰にも言わずに居なくなることないじゃないですか。それも、こんな大事な日に。あれですか? 宮本武蔵ばりの焦らしテクですか? 諸葛的な空城の計ですか?」
「別に何も企んでないわよ。そもそも好きだの何だのってイベントは、わたしにはそれほど大事でもないし」
 わざとらしく肩をすくめてみせる姉に、妹は目を細めて首を横に振った。
「先輩が好きだって事以上に大事な事なんてあるんですか?」
「わたしは人である以前に魔術師よ。そんなもの、いくらでもあるわ」
 そして、うんと一つ頷き桜はにたぁっと笑った。その表情は凛のよく浮かべるそれと、やけに似ている。
「ふぅん・・・ということは、とりあえず、さっき言ってた『好きとか何とか』の主語は先輩でよかったんですね?」
「っ! あ、あんたがあいつを好きなのはわかってるから言ってるのよ! こんなところでわたしなんか構ってないでさっさと告白でもなんでもしてきたら!? それこそ丁度いい日じゃない!」
 脳裏に響くのは金色の瞳を笑みに歪めて伝えられた言葉。そして鮮明に覚えている二人寄り添うその姿。
「―――桜なら、絶対あいつはうんっていうんだから」
「ええ、そうなりました」
 そして桜はあっさりと頷いた。
「え?」
「姉さんが留守という大チャンスでしたので・・・さっき先輩に告白して、なし崩し的にうんと言わせてしまいました! この通り!」
 ざしゅっと天井にかかげた左手の薬指にはめられた銀色の輪が夕日を反射して凛の目を穿つ。
「う、嘘ッ・・・!」
「うそです」
 思わず後ずさって首をぶんぶんと横に振る凛に、桜はあっさりと薬指にはめていたものを外した。
「先輩の工房に転がっていたナットです」
「あんた・・・なんていうか、もう何でもありね・・・」
「本気出せばそれこそなんでもありな姉さんに言われたくありません。とにかく、姉さんの嘘はこうしてあっけなくばれちゃったわけですけどまだ何か言い訳するんですか?」
 士郎のナットである点にでも価値を見出してるのか大事にポケットにしまいこむ桜に、凛は顔をしかめたままそっぽを向く。
「別に嘘なんてついてないわよ。まあ付き合い程度になら渡してもいいかなって思ってたけど忙しくなったからチョコも捨てちゃったし」
「まだ言いますか。まったく・・・本当にどうしたんですか姉さん。らしくないのも度を過ぎると不気味ですよ・・・って」
 ため息混じりに呟いて桜はハッと顔をあげた。緊張の面持ちで凛の胸のあたりをジロジロと眺める。
「な、何よ・・・」
「まさか、偽者!? 心なしか本物より胸が大きいような・・・」
「本物よ! パッドも今日は入れる余裕なんてないわよ! いつもどおりの小白々で悪かったわね・・・!」
 反射的に叫んだ凛に、しかし桜は躊躇無く首を横に振った。
「いいえ、あなたは偽者です。そうに決まってます」
「だから―――」
「ですから偽者さん。とりあえず、さっさと姉さんを返してください」
 そして、くだらないネタを引っ張るなと言いかけた言葉を強い声で断ち切る。
「わたしの姉さんは、あなたみたいなへっぽこじゃありません」
 その声は、弾劾の言葉を使っての激励か。
「姉さんは、どんな理由があっても自分の願いを諦めたりしない人です。姉さんは、自分と世界が食い違ったら世界の方をぶちのめしてでも願いをかなえる人です。姉さんは、それなのに誰も不幸にしない凄い人です」
 桜は、少し言葉を切り、笑った。
 その人のことを、素直に言葉に出来る事に微笑んだ。
「わたしが大好きで、憧れている―――自慢のお姉ちゃんは、そういう人です。あと、赤いです」
「・・・なんでこう、誰もかれもわたしの事を話すときは義務みたいに赤いのを付け加えるのよ・・・」
 感動しかけた所にオチを付けられて、凛は半眼で呟く。
「セイバーさんみたいに青だか白だか金だかイメージカラーがわからなくなるよりいいと思いますけど」
「桜はその辺りいいわよね。イメージカラーがはっきりしてるもの」
「だ、誰が黒いんですか!」
「あら? あなたのイメージカラーってすみれ色でしょ? 主従そろって」
「う・・・」
 表情は冴えないながらも何時ものように切り返してきた姉の言葉に桜はちょっと怯み、そのままくすりと笑みをこぼした。
「調子、出てきたみたいじゃないですか」
「・・・・・・」
 凛は、一度視線を伏せてから桜に向き直った。
「・・・この世界が不自然な状態であるのは、あなたもわかってるでしょう?」
「ええ。何がどうおかしいのかはもう理解するのあきらめましたけど・・・」
 元々の視点の差である。間桐桜は魔術を行使する者であるが、しかし彼女は魔術師でありたいわけではない。
「この際、問題なのは記憶よ。この騒動に巻き込まれた者達が共通して持っている、『この2週間ではない2月』の記憶。昨日の晩、ちょっとした事が原因で、わたしはその記憶をかなり鮮明に思い出したの」
 それがどうしたんですかと言わんばかりの視線に凛は細かい説明を放り投げて核心へと話を進める。
「その記憶の中ではね・・・桜、あなたと士郎は愛し合ってたわよ」
「わ、わたしと? 先輩が?」
 きょとんとした顔で繰り返す桜に凛は頷いて見せた。
「そう。だから、この記憶がなんであるのかを確かめないといけないでしょ? 今のままじゃあなた達が―――」
「姉さん、姉さん」
 苦しげな表情で告げる姉に、妹はにっこりと微笑み。
「余計なお世話です」
 きっぱりと、その言葉を打ち砕いた。
「え・・・?」
「だから、余計なお世話です姉さん。それはわたしと先輩の問題であって、姉さんが気にする必要ないじゃないですか。公平な勝負をとか言いたいんですか? それ、ものすごく馬鹿にしてると思います」
 いっそ静かとも言える声音に、しかし凛はよろめくほどの衝撃を受ける。
 簡単な想像。もしも、自分が誰かにそんな情けをかけられたならば。
 それすら思い及ばぬほどに、自分は駄目になっていたのか。
「わたしと先輩が愛し合っていて、その記憶を消されてやり直しをしているのだとしたら」
 桜は、胸に手を当て眼を閉じる。その世界を、自分の記憶に眠っているのかもしれないそれを瞼に描き。
「もしもそうならば―――わたしは絶対に、それを思い出します。先輩も、きっと思い出してくれます」
 断言する。根拠はなく、でも確信と呼べる想いと共に。
「でも、少なくとも今はそんな記憶ありません。わたしにも、先輩にも」
 桜は窓の外に視線を投げた。校門から校舎までを一度見渡し、凛に眼を戻す。
「姉さん。先輩が姉さんのことを好きなんて、もうみんな知ってます」
 もしもそれを確信していない人が居るのだとすれば、それは凛と士郎だけだろう。
「だから、本当は曖昧なままでもよかったんです。このままの毎日が続いていくならそれでも構わないんです」
 それは、きっと桜がずっと望んでいた世界なのだから。
「でも、わたしはちゃんとしたいと思ってます」
 ずっと好きだった。
 そして、一緒に暮らして、色んな事を共にすごして、もっと好きになった。
 
 衛宮士郎を―――
 ―――そして、遠坂凛を。
 
 どちらも、大好きで、憧れた。
 だから、戦おうと思ったのだ。望みがないのは理解した上で、挑もうと決めたのだ。
「だって」
 正面から、その人を見据える。

「わたしはあなたの妹なんですから」

 その鮮やかな紅に自分はなれないけれど。
 それでも桜は、その淡い朱で咲き誇っている。

 言葉を失う姉をそのままに、桜は歩き出した。
「外に、先輩を呼んであるんです」
 教室の扉に手をかけ、大きく深呼吸。
「告白、してきます。そしてそれで駄目でも」
 振り向いて、にやりと笑う。自分は、いつも見ていたように笑えているだろうか?
「その後、誰かに取られたとしても、諦めてなんてあげません。その再挑戦が2度目でも3度目でも―――わたしは好きを、やめたりしませんから」
「あ、桜!」
 凛は言い置いて廊下へ出た桜を追いかけようとし、肩にとんっと乗せられた手に足を止める。
「リン、邪魔は無用に願います」
 いつの間にか背後に立っていたのは長身の従者。ライダーは静かに窓際へ移動して手招きをする。
「・・・・・・」
 意図はわかっている。黙ってそれに従い窓から校庭を伺う。しばし待つと、昇降口から現れた桜が校舎と校門の間あたりで立ち止まり。
「あ―――」
 思わず、声が漏れた。
 視線の先、校門を抜けてこちらへと歩いてくる衛宮士郎の姿に。

 

Intrude12-13 16:35

 士郎はすぐに桜に気付き、彼女と向かい合って立ち止まる。
 桜は携えていたチョコと思われる包みを士郎に渡し、何か言葉を交わして互いに笑みを浮かべる。
 正直、お似合いだと思う。
 脳裏をよぎる、寄り添いあう二人。士郎をからかうと桜がむきになって、イリヤがそれをさらにかき回したりして・・・その二人を、自分は確かに祝福していた筈だ。
 だというのに、あの位置に自分が居ないという事に、現実感が感じられない。
 今、凛の胸を満たすのはすぐにでも駆け寄りたいという事だけだ。
 たった一日顔をあわせなかったというだけで、こんなにも落ち着かない。視線の先に居るというのに声が聞こえないのが、こんなにももどかしい。
 こんなにも―――士郎を独り占めしたいだなんて。
「・・・いよいよですね」
 ライダーがぼそりと呟く。凛は考えるのをやめて眼下の二人に集中する。
 こちらに背を向けた桜の表情は見えないが、士郎の表情が驚きを見せた事で今、どのような言葉が交わされたのかはわかる。
「・・・っ」
 そして、数秒。
 士郎が真面目な顔で何かを言うと共に、桜は・・・ぺこりとお辞儀して小走りにその場を離れた。士郎はその背を見送って頷き、何かを呟いている。
 いたたまれない気持ちで凛は隣に目を向け。
「ライダー?」
 しかし視線はそこを通過した。背の高い桜の味方は既に居なかった。何処へ行ったかは、言うまでもあるまい。
 一人残された凛は落ち着かない視線をもう一度窓の外へ向け。
「あ・・・」
 こちらを見上げた士郎と目が合った。

「――――――」

 士郎の口が動いている。声は届かなくても、言葉は伝わる。
『そんな所に居たのか』、と。
 瞬間。パチリ、と心の中でピースがはまった。
 士郎は、凛を見て笑っていたのだ。
 だから。

「士郎ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 凛は窓を開け放ち、全力で叫んだ。

「今行くから待ってなさぁあああああああああああああいっ!」

 もう、何もかもがどうでもよかった。この先がどうあれ、今の裏に何があったとしても、それがどうした。
 凛を見た士郎は、そこに居たのかと言ったのだ。凛を、欲しがっていたの。
 そして―――遠坂凛は自分が欲しいものを決して諦めない。
 吹っ切れたというよりぶち切れたような勢いで絶叫したついでに気合の張り手を両手で自分お頬に一発!
「おぷっ・・・」
 顎を二連撃で打ち据えた掌底に脳がシェイクされ、ふっと遠のいた意識を慌てて手繰り寄せて凛は首をぶんぶんと振って立ち直る。
 いかんいかん。ここでうっかり気絶など致命的にも程がある。
 殴るような勢いでドアを開けて凛は廊下に飛び出した。そのまま低い姿勢でターン、上履きのゴムを摩擦熱で溶かしながら床を踏みしめて走り出す。
 階段まで数秒、全段まとめて飛び降りて衝撃は魔術で緩和。一階分を一段扱いにして文字通り飛ぶが如くダッシュ、ダッシュ、ダッシュ。
 とにかく急げ。限界まで急いであいつにこのチョコを―――

「ってチョコ捨てちゃったじゃんわたしぃっ!?」

 我ながら抜群な出来栄えだったあのチョコは、箱ごとゴミ箱にNice Garbageだ。中身は無事だろうけど取りに行く時間も術も無い。ああ、焦りでアポートが使えたら・・・!
「こ、こうなったもう、わたしがプレゼントよ作戦しか・・・幸いあげようとしてたチョコも赤い包み紙だったしっ!」
 テンパったまま階段を飛び降り―――
「え?」
 着地しようとした踊り場に見慣れた赤いコートの背中を見つけて凛は空中で目を丸くした。「アーチャー!?」
「・・・忘れ物だ」
 叫ぶ声に答えず、アーチャーは踊り場の窓の外を眺めたままそっけなく何かを放り投げてきた。

 黒いリボンをきっちり巻かれ補修されて、しわ一つ無い真っ赤な包み紙で包装された―――
 凛の想いを込めた、そのチョコレートを。
「っ! ありがと! 相変わらずいい仕事よアーチャー!」
 走り抜けざまそれを受け取め、凛は軽く手を振りながら階下へ去っていく。迷い無く、躊躇い無く。
「・・・ふん」
 いつものように肩をすくめる従者を背に、凛は下駄箱へと、そしてその先へと走り続ける。
 自分の馬鹿さに呆れ返って、桜に励まされたことが嬉しくて、照れくさくて。
 遠坂凛が遠坂凛である事を、望んでいる人が居ると思い出したから。
 こういう自分が、好きなのだから。

 いっちょ気合を入れてお嫁さんにでもなりますか!

 


Long Intrude Out

 

 

 

 


Extra Intrude1

「じゃあ後はごゆっくり! 夕飯までには帰ってきてくださいねー!」
 そう叫ぶのが、精一杯だった。
 あの人に、あの人たちに見えないよう背中を向けるのに懸命だった。
 桜は小走りに校門をくぐり、そのまま全力で走った。
 声が届かぬように。声を届けぬように。
 でもその足は上手く動いてくれない。次第にもつれ、やがて止まってしまう。
 荒い息の中、桜はぼやけた視界を手の甲でごしごしとこすって笑おうとした。
「・・・泣かない・・・! わたしは、遠坂凛の妹なんだから! 間桐桜なんだから!」
 姉さんに言ったのだ。
「もう、泣かないって決めたから! 先輩にもたれかかるのはやめたんだから!」
 先輩に、言ったのだ。
 自分はもう大丈夫なのだと、意地を張って見せたのだから。
 だから、本当にしないと。
 なりたい自分の為に、一人ででも戦わないと。
「―――サクラ」
 声に顔をあげる。
 もう一度ごしごしと瞼をこすり、思い出してスカートのポケットからハンカチを取り出した桜の、まだ少し歪んだ視界の中にライダーが居た。
 心配げな表情の彼女に、桜はハンカチを隠してパタパタと手を振ってみせる。
「だ、大丈夫よライダー。このくらいなんてことないんだから・・・予想通りの結末に落ち着いただけで、なにも・・・ね?」
 そう言って浮かべた『笑顔』にライダーは思わず口を開き。
「サクラ。私はあなたのサーヴァン―――」
 そして、首を振って微笑んだ。
「私は、あなたの、友人です」
 言葉に、少女の笑顔が、笑顔だと思って浮かべていた泣き顔が、こんどこそくしゃりと崩れた。
「だから・・・私の前でまで、強がらないで欲しい」
 自分よりずっと背の高い友人に抱きしめられ、見られたくない顔を隠してもらい。
「ライダー・・・ライダぁ・・・わたし、やっぱりふられちゃったよ・・・」
 声を殺して桜は泣いた。
「立派でしたよ、サクラ・・・」
 よく覚えていないけれど、昔もよく泣いていた気がする。
 いつからか泣かなくなったのは、泣く事に意味が無いと気付いたからだったと思う。
 でも、今は素直に泣けるから。
 今度はもうちょっとましな理由で泣くのをやめられると思う。
 だから、雨は長くは続かない。

 

Extra Intrude2

 一方で。
「・・・覚悟してたこととはいえ」
「・・・少し、少ぅしだけ、ムカつきますね」
 校庭の植え込みの裏から、ぼそりと呟きが漏れた。
「あの、サクラ・・・あの展開のあとこういう覗きというのは・・・」
「しっ、ライダー! 声と身長が大きいわよ!」
「し、身長は関係ないでしょゴモモモモ―――」
 叫びかけた声がくぐもったうめき声に変わる。
「まったく、ライダーのサーヴァントというのは誰も彼も声と体躯が大きすぎて困ります」
「ボクは小柄なほうだけどねっ! なんか昔はちがったような気もするけど!」
「あ、なんか見つめあってるよ! ちゅーするかなちゅー! ごーごー!」
「くすくす・・・そんなはしたないことしないと思うですよ? せいぜい青姦くらいです」
「ゆ、優先順位間違ってるもん・・・!」
 がさごそと茂みがゆれ、声はもう止まらない。
「お、見ろよアーチャー、こんだけ騒いでるのにまったく気付いてねぇぞ?」
「ふん、おまえのようなオープン恋愛しかない時代の野蛮人にはわからんかもしれんがな、あれはBF(Bakapple-Field)と言ってな、外部からの干渉を6次元くらいまで防ぐのだ」
「なんですかその不健全な結界―――羨ましいッ!」
「サクラ、サクラ! ハンカチをそんなに噛んでは・・・ああ、千切れるっ!」
「あ、なんか寄り添ってるですぅ・・・」
 茂みは静かになった。いい雰囲気の二人をずらりと並んだ目がじーっと眺める様は、はっきり言って不気味だ。
「・・・ねえみんな、こんな事もあろうかと記憶がきっちり1日分記憶が無くなる薬を用意しといたんだけど、どうする?」
 やがてぽつりと漏れた言葉に、覗き魔どもは顔を見合わせる。
「・・・くく」
「・・・ふふふふふ」
「・・・くすくすくす」
 そしていくつかの顔が追い詰められた笑みを浮かべ。
「ほい没収」
「ら、ランサー! なにするのよ!」
「こんな薬は地球にでも飲んでもらおうどぼぼぼぼぼ・・・」
「ああ!? 材料費だけでも100万以上かかったのに・・・」
「っうか馬鹿だなおまえら―――薬とか使わないで堂々と寝取るのがいいんじゃねぇか」
「!?」
「!?」
「!?」
「!?」
「!?」
「!?」
「!?」
「!?」
「!?」
「!?」
「??」
「さっすがランサー! わたし達が考え付かない事をさらっと言う! そこに痺れる君に電撃!」
「なんか違ううえに古いな」

 

 

Extra Intrude3

 とある少女達の会話。
「それにしても、結局姉さん、かぁ・・・」
「あら、収まるところに収まったんじゃないかしら?」
「そう? 結局の所、姉さんの好意は言い方は悪いけど『本物の』衛宮士郎に向けられたものじゃないのかしら。それが駄目だったからって容姿と考え方の似た者を代理にして結ばれるっていうのは・・・ちょっと○ナニーっぽくないかしら」
「いや、全然控えてないわよそれ。っていうかもう、レディがはしたない・・・まあいいわ。サクラ、これはね? 叙述トリックなのよ」
「え?」
「私がリンに言った事は事実だけど、あえて伏せてた事があるってこと」
「伏せてた事、ですか?」
「そ。リンはこの世界の外から来た。そして、そこではシロウはサクラのことが好きだった。間違いないわ」
「うん」
「でも、リンがシロウのことを好きだったなんて、私は言ってないわよ?」
「・・・え?」
「今現在のリンがあんな状態だし、しょっぱなからデレ>ツンな感じだったから勘違いしがちだけど、外でのリンの立ち位置はちょっといいな程度。熟成したら結局好きになーるなのかもしれないけど、それどころじゃなかったでしょ?」
「あっちの事はそこまで詳しくないからわかりませんけど・・・そうなんですか?」
「そうだったの。だから―――リンが本格的にシロウを好きになったのって、この世界に放り出された瞬間だったんじゃないかしら」
 この校庭で、士郎を見つめたその瞬間に。
 暖めつづけられた想いは芽吹いたのではないだろうか。
『もし戦いの中で出会わなかったら』
 その仮定のもと、律する必要がなければこうなるという可能性。
「まあ、いいです。姉さんが幸せそうだから」
「うわ、ぶんなげたのねサクラ。ほんとお姉ちゃん至上主義」
「それが存在意義だもの」
「来るかしら」
「多分、明日か明後日くらいには」
「・・・もう少し、なんとかならない?」
「・・・あっちに言ってください。それは」

「姉さん、悲しむかな・・・」
「ぶち切れると思うわ」
「フォローよろしく・・・」
「だが、断る」
「意地悪」
「そうかも」

「・・・ところで、イリヤちゃん?」
「? なにかしら」
「姉さんを苦しめた奴は拷問するってのがわたしのスタンスなんだけど知ってた?」
「!? わ、わたしはただ硬直した情勢に少しだけ油をさしてみただけよ? リンが一人で自爆しただけで」
「ふふ、ねえイリヤちゃん。わたしはねぇ・・・理屈が通用しないの」
「堂々と言っちゃ駄目っ! 幼女の虐待は良くないと思うの!」
「さて、ここに取り出したるノートを読み上げてみましょう―――胡桃探し。いんちき。ディフェンディングチャンピオン」
「!? ま、待ちなさいサクラ! なんでそれを―――」
「あらあらこっちには高貴なるアインツベルンの天蓋付きベッドに描かれた壮大なる世界地図の写真が―――」
「やめてとめてやめてとめてやめぴゅー!」