序:

 少女の姿をしたものが居た。

 世界の意思と繋がる月の姫と神をも殺す少年が邂逅した街で彼女は生まれ、その運命の渦に巻き込まれ命を失った。

 そう。彼女はそこで死んだ。たとえその後も彼女の存在自体は持続しているとしても、人間としての彼女はそこで終わってしまったのだ。それまで大事にしていた全てと共に。

 彼女は自らの変質を知って嘆き、泣き叫び、運命を呪い。そして彼女の知っているうちで最も死に近い人物に助けを求めた。

 救いを。永劫の安息を受け取る為に。

 しかし、それは遅すぎた決断だった。彼女が停止してから決断までに巡った何度かの日夜。長くは無い。だがもう遅かった。

 彼女が少年のもとへ辿り着いた時、既に少年の傍らには金の髪の伴侶が居た。同じ魂を受け止めた助言者も、命を分け合う妹も、幼き頃を共に過ごした従者達も少年には居た。

 彼女の入り込む隙間など、どこにも無かった。無いように見えた。

 たとえそれが彼女の劣等感から来るものであったとしても。むしろそれ故に。

 

 彼女は、絶望した。

 

 

壱:

 その時期、街は死に包まれていた。

 規模で言うならば街ひとつ、しかも数十人単位という小規模なものではあったが無辺の闇に繋がる絶望的な死が渦巻いていた。

 人の世に多く存在する『世界の危機』。転生無限者のもたらしたそれを正すべき守護者、真祖の姫はそれを叩き潰す為に街を訪れ、しかし何も為さぬうちに人の殺害意思の結晶たる少年に殺されてしまった。

その有り得ない偶然は、世界に巨大な危機感を与えるものであった。

 そもそも、『世界を守護するもの』には二種類がある。ガイア論的な『星を存続させるもの』が一つ。そしてもう一つが霊長の守護者。『人を存続させるもの』である。

 本来吸血禍というものはガイアが解決すべき分野の事態ではある。しかし、その防衛機構を人が阻んでしまったのなら問題は別だ。人類の共通無意識はその反作用として、自らの防衛機構をもその街に出現させた。

 訪れたのは赤い衣の男。

 彼を魔術師達は、『英霊』と呼ぶ。

 

 

「ほう、懐かしい」

 彼の第一声は、それであった。

 夜の公園。おそらくは日本。時代は彼の生まれたのとあまり変わらないように見える。

「・・・静かだな」

 彼にとって意外なことに、剣戟も銃声も爆発音も聞こえない。これは珍しい。最低限の知識だけ与えられ放りだされるのはいつものことだが、どうやら今回はやや趣が違うようだ。何かイレギュラーな召還なのかもしれない。

 本来、彼の行き先というのは全て地獄だ。人間自身の手で世界が滅びるその直前に彼は現れそれを処理して消える。

 故に彼が名乗って曰く、ゴミ処理係。報われること無き理想の残骸。

 とりあえず、今回の戦場はまだ決定的な崩壊に瀕してはいないようだと判断し、彼は戦闘姿勢をといた。

「敵は無限に転生していく死徒、そして、世界をも殺す男か・・・」

 そもそも魔術師以外を敵とするのも近年なかなかに珍しい。もっとも彼にとっては時間の流れはあまり意味をなさない。守護者とは、時間の外に座する存在なのだから。

「ん?」

 彼はふと振り向いた。広大な自然公園。200メートルは離れたその入り口からふらふらと入ってくる少女をその魔力で強化された視力が捉えたのだ。

「・・・・・・」

 心の撃鉄を静かに上げる。彼の膨大な経験が告げていた。

 あの少女は、吸血鬼だ。

 

 

「・・・あれ?」

 公園に足を踏み入れた瞬間強烈な違和感に囚われて彼女は足を止めた。

 この数週間のねぐらとして使用しているこの公園はいまや彼女のテリトリーといえる場所だ。霊的なことなら微妙な変化でさえも感じ取れる。

「・・・落ち着かなきゃ」

 イメージはあの日の背中。彼女の知る最も強く真直ぐ生きている少年を真似てなんとか戦う心を創りあげる、

 決して消えない筈のその思い出が驚くほどに劣化していたことに胸が絞り上げられるような感触を味わいながら。

「・・・・・・」

 生きている頃は・・・否、つい最近までは彼を思い出すだけで誰にも負けないという気持ちになれたのに。

 情けなさと恐怖、そして若干の怒りを胸に彼女は歩みを進める。見渡した視界に入る範囲に人は居ない。頻発する殺人事件にいまや夜の街を歩く愚者はいない。もし誰かと出会うならそれは。

「殺人鬼・・・」

「そうでなければ吸血鬼・・・つまりおまえだ」

 瞬間、彼女は跳躍した。頭上、声と何かを投げ下ろしてきた電灯の上の誰かへと一跳びに飛び掛る!

「む・・・」

 はたして、そこには赤い外套を身に纏った長身の男が居た。ギリギリ回避できた投剣が地面に突き立つよりも早く彼女は彼に鋭い爪を叩きつける。

「ほう・・・」

 彼は敵の予想外に鋭い勘と動きに感心しながら後方へと飛びずさった。着地の衝撃を膝で殺し即座にもう一度後方へ跳躍。

「ぁああああああああっ!」

 刹那、一瞬前まで彼の居た地面が数メートルにわたって陥没した。為したのは電灯から飛び降りてきた彼女の拳。力任せの一撃にコンクリートの舗装が敗北したのだ。

「服装からして付近の学生、噛まれて一月と経っていない筈。グールにもならず即座にこれだけの力を発揮するとはな」

 常識では考えられない。少女の形をした目の前の存在は、極めて優秀な霊的素養を持っていたのだろう。吸血鬼に噛まれたりせず適切な修行を受ければ稀代の能力者として名をはせたかもしれない。

 そして思う。彼女もまた、ほんの僅か前までは、誰とも変わらぬ幸せを享受していた筈と。

「あぁあああああああっ!」

 だが。

 それ故に、その彼女が人の血を吸う化物であることが。

 今、彼に向かい振るわれようとしている拳が手袋でもはめているかのように紅く染まっていることが許せない。

 撃鉄は、落ちた。

「投影、開始(トレース・オン)」

 呪文が自らの肉体に秘められた27の魔力回路を回転させる。

「!?」

「危険を察知したか。良い勘だ。だが・・・!」

 瞬間、飛び掛ってきた体を捻り瞬間移動のような速さと唐突さで真横へ離脱しようとした彼女の動きを許さず、彼はそれ以上のスピードで踏み込み右腕を振るった。

どこから現れたものか、そこに握られているのは純銀の装飾短剣!

斬ッと刃が彼女の体を薙ぐ。一瞬置いて、鮮烈な痛みが体を駆け巡った。

「きゃあああっ、う、腕、わたしの、腕が・・・!」

 直撃はしていない。だがそれは彼がそれを狙っていなかったからだ。血や土、その他いろいろなものに汚れた制服の袖ごと切断された左腕がゴトリと地面に転がる。

「聖別済みの儀礼短剣だ。静かにしていなければ二度と付かない」

「ひっ・・・」

 静かに告げると彼女は慌てて自らの落とした腕に飛びつき、大事に大事に抱え込む。

「・・・・・・」

 英霊は、彼にしては珍しく迷いを感じていた。

 今回倒すべき相手の片方は番外とは言え祖扱いの吸血鬼であり、目の前の吸血鬼が無関係とは思えない。力を削ぐ意味も込めて情報を引き出せたら殺すつもりだったのだが。

「ごめんなさいゆるしてもうやめておねがいしますおねがいしますおねがい・・・」

 だが、地に這い力の源たる血を流し、恐怖に震えている目の前のそれは。

 ただ一人の少女。それ以外の何者でもない。それを縊殺することが、胸の奥に朽ち果てた筈の何かに、酷く響く。

「・・・この街に居る、他の吸血鬼のことを知っているか?」

 短剣を突きつけて問うと少女はぶんぶんと勢いよく首を振る。

「わ、わたし・・・!学校から帰る途中で、遠野くんにばいばいって言って、一人になったら、その、よくわからなくなって、気づいたらこうなってて・・・!」

 要領を得ない説明に、しかし彼はそれで十分だと判断した。彼の倒すべき敵が噛んだのは間違いないのであろうがその目的は手駒を作ろうというものではなくただの食事だったのだろう。その相手がたまたま霊的に優秀だっただけのこと。

 仮に自分が代行者なら今後の禍根を断つ意味でも滅ぼして当然ではあるが。

「幸いに俺はそのような細かい仕事だけはしなくてもいい」

 自らの運命をせせら笑い、彼は儀礼短剣を投げ捨てた。地面に突き立ったそれにはもう目を向けず、彼女の瞳を正面から見つめる。

「おまえ、名は?」

「ぇ・・・」

 彼女は怯え、震え、身をすくませながら。

 冷たい左腕を支えのように抱きしめながら。

 もう使う事のないと思っていた名を口にした。

「・・・・・・」

 彼は微笑んだ。自分でもなぜかはわからないままに。

 あるいは、彼女の名にかつて自らが嗜んだ武道の一文字が使われていたからかもしれない。はたまた、今宵も頭上に輝くそれの形が彼女の名の通りだったからか。

 ともあれ、気まぐれのままに、彼は彼女を救うことに決めた。

「・・・痛いとは思うが、我慢しろ」

 彼はそう言って意識を集中させる。回路を経由して放出された魔力は彼の中の丘から一本の短剣を映し出し、実体化した。

「ひっ・・・!」

 間近で光る刃の鋭さに彼女が身を捩じらして逃げようとした瞬間。

「動くな」

 ぞぶり、と。腕を失った左の肩にその短剣が突き立った。

「ぁ!が・・・ぁああああっ!」

 絶叫し暴れる彼女の身体を彼は空いている左腕で抱きしめた。

「痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛いッ!」

 彼女は激痛のままに悶え苦しみ目の前に現れた彼の首筋に反射的な動きで口を開き、

「ぅ・・・ぁ・・・ぁあああっ・・・があああっ!」

 しかし牙をそこに突き立てることなく歯を食いしばった。

「・・・構わんぞ。噛んだ所でこの身は実体というわけでもない。汚染などされん」

 意外な思いで囁くと彼女は髪を振り乱し否定の意を全身で表す。

「・・・・・・」

 もはや彼も問わず、彼女の傷を更に抉る作業を続ける。そして。

「よし。そっちの腕も貸せ」

 切断面を完全に削ぎなおし終わった彼は放心状態の彼女からもぎ取るように左腕を受け取り、そちらも切断面を削り落す。

「先程の短剣は復元呪詛を阻む限定礼装だ。あれで切断された部分はけして治癒しない。だが、通常の刃物でもって断面を作り直せば、それは通常の傷に過ぎない」

 言って彼は彼女の腕をそっともとの位置に戻した、ほどなく傷跡は自ら消え、何もなかったかのような滑らかな肌が蘇る。

「・・・あり・・・がとう・・・」

 消耗したのか、朦朧と呟く彼女に彼は首を振った。

「礼はいらない。ただの気まぐれだ。必要さえあれば今すぐにでも殺しなおす」

「それでも・・・ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げる彼女に、彼は再度微笑んだ。

 今度の意味はよくわかる。

 ただ、目の前の彼女がまだ人間の部分を残していることが嬉しい。それ故にだ。

「・・・・・・」

 そして、彼は立ち上がった。そのまま彼女に背を向け歩き出す。

「あ・・・あの!」

 彼女はその背中に呼びかけた。振り返りこそしないが、赤い外套の英霊はその場に足を止める。

「あの!わ、わたしを・・・殺さないんですか?」

「それは私の役目ではない」

 彼はきっぱりと言い切り、背後を見た。そこに居るのは少女。それまで生きていた全てと、人間と言う枠組みそのものにすらおいていかれた迷子の少女。

 その姿に、胸の中で何かが軋んだ。

 今の自分と彼女の、どこが違う?

 そう、違うのは唯一つ。

「・・・死を求めるものなど、殺してはやらん」

 彼は目を閉じ、息をつく。

「君は先程、俺を噛まなかった。吸血衝動を無くすことは不可能だが、それを意思で抑えることは出来ると聞く。人には戻れなくとも人に近い場所で生きることはできよう」

「人に・・・近い場所・・・」

 呟きに頷き返す。

「殺されても文句の言えない奴らは存在するものだ。私の戦う相手など皆そのような連中だった。やつらを専門に狙えば危険だが人の世界と敵対しないでも済む」

 自らの知識欲や名声欲、純粋な望みや堕落してしまった願いの果て、世界を壊すに至った者達。彼の敵は多い。

「それが一つの生き方、他にも限界がくるまで堪え、狂うことも一つの生き方だ。好き放題に生き、誰かに狩られるのを待つのも一つの生き方。人に戻る方法を求めてさすらうことも出来よう。好きにすればいい」

 それは彼には許されぬこと。もはや命とは呼べずとも、この世界に留まり存在として在り続けている彼女にしか出来ないこと。

「選べるのだ。選んで、望むままに生きればいい」

 喋りすぎたと今度こそ彼は歩き出す。時間はあまりない。ひょっとしたら初めて崩壊前に原因を抑えられるかもしれないのだ。

「あなたの・・・あなたの名前は、何て言うんですか?」

 ようやく立ち上がった彼女の目に意思の光を認め、彼は薄く笑みを浮かべた。

「名など無い。私は無名の英霊、アラヤの使いっ走りにすぎない」

「そう・・・ですか」

 呟き、去ろうとする背中に最後の問いを。

「最後にもう一つだけ・・・なんで、わたしを助けてくれたんですか?」

 当然と言えば当然の質問に彼はふっと力の抜けた笑みで答えた。あの頃のように、なにげなく。冗句など、どれくらいぶりだろうか?

「たいしたことじゃないよ・・・ただ、俺の好きだった人が君と似た髪形だったのでね」

 それきり、足を止めることなく彼は去って行った。

 彼女の心に、確かな記憶を残して。

 

 数十分、彼女は立ち尽くしていた。

 出会ってから別れるまでの短い時間を何度も何度も思い出しながら。

「・・・あ」

 ふと気付く。手に自分と他人の血がこびりつきどす黒くなっている。顔にも足にも土や血や形容しがたいものがおびただしく張り付きなんとも汚らしい。

「や、やだ・・・」

 そう言えば、最後に風呂に入ったのは何時だったろうか?物は食べていないが何度となく血を啜った歯もあれ以来一度も磨いていない。髪だってボサボサだ。

「ぅうう〜」

 あまりの現実に歯噛みしながらとりあえず水道で手を洗う。こんな状態でわたしはあの人と話していたのかと顔が燃え上がりそうに熱くなる。

「もう死んでる筈なのに・・・血の巡りが良くなるなんて・・・」

 呟き、一心に手を洗う。その人間らしい行動に、涙が溢れた。

 失ったものを思ってではない。唐突に思い出してしまったこれまでに、今日も、昨日も、この2週間で犯してきた罪の重さ、奪った血の重さに涙した。

「もう、手遅れだけど・・・」

 彼女は綺麗な肌色を取り戻した両の掌を握る。この手で何人も殺した。罪は幾重にも彼女を縛り付ける。

 それでも。

「あのひと・・・」

 迷い無く去って行った赤い背中を想う。一人去って行ったその姿が瞼に浮かぶ。

「寂しそうだったな・・・」

 呟く頃には、もう決まっていた。やるべきことは、もう選択した。

 一つに、罪を償うこと。そして、もう一つは。

「あの人と、一緒に・・・!」

 彼女は走り出した。ひょっとしたらまだ追いつけるかもしれない。多分・・・いや、間違いなく嫌がられるだろうけど、それでもしつこくついて行こう。

 今度こそ。自分の道を見失わないように。

 

 

参:

 結果として、彼女は間に合わなかった。

 転生を繰り返した蛇はその魂を『殺さ』れ、根源と繋がった少年は真祖の姫君と結ばれることでシステムとして安定した。守護者は必要とされなくなり、すべきことも無く速やかにその座へと帰還してしまったのだ。

 彼女にそれがわかったわけではない。だが、世界そのものが死に絶えたような静けさに包まれた学校の廃墟を見たときに、何かが終わったことは理解できた。

 それでも彼女は笑った。もう、諦め顔で死を待つのはやめた。

「逃がさないからね。絶対」

 呟き、動きだす。ヒントはある。英霊、アラヤの使いっぱしり。魔術師。非現実的な単語の羅列だが、なに、今の自分だってもう現実なんてどこにも無い体だ。

「まずは荷物かな・・・」

 自らの葬式や悲しむ両親が見たくなくて足を向けなかった自宅へと向かう。

服と思い出を持っていこう。昔、こんな少女が居たという証に。これから先も人間であると叫ぶ為に。

 多分、時間はたくさんある。

 奪ったものが返せないなら、その分を他の誰かに返して生きる。けれど誰かの為に生きてるものが、自分の楽しみを持っていていけないなんてことは無い筈だ。

 

 あの赤い人に会えたらどんなことを話そうなんて。

 そんなことを考えながら、生まれたばかりの吸血鬼は駆け出した。

 

 

結:

 それから数年。現代社会の裏にひっそりと息づく闇の世界にいくつかの噂話が広がっていた。

 死徒を狩る吸血姫とその伴侶たる殺人貴。

欧州を賑やかに駆け抜ける二人組の正義の味方。

そして、一般人を巻き込む超越者を狩り倒す魔術師殺しの吸血鬼。

 今宵も、世界の敵の敵を求めて少女は生きている。

 

                               閉幕