「なあ遠坂。マイナスドライバーの細いやつがないんだけど知らないか?」
 何も予定のない日曜日。朝食後のひとときを機械弄りに割り振ろうと思い立った士郎は台所で洗い物をしていた凛に声をかけた。
 何気ない呼びかけ、他愛のない話題。
 だが。
「・・・・・・」
 ゆっくりゆっくりと振り返った凛の顔は…
「ひっ!?」
 久々に見る、修羅のそれ…!
「うふふ、面白いことを言うのね? 『衛宮君』?」
 わざとらしく強調しながら凛はエプロンを外し、にっこりと微笑んでから食卓で震える士郎へと近づいていく。
「念の為に聞いてみたいんだけど…衛宮君、わたしのフルネーム、知ってるかしら?」
「は、はい…」
 士郎は知らず正座になってガクブルと頷いた。背筋にだらだらと冷や汗が流れる。
「うん、じゃあ、よかったらなんだけどそれをわたしに教えてくれるかなぁ?」
 その正面にこちらも正座で座り、凛はにこにことそう問い掛ける。
 口調こそ小さな子供をあやすような感じだが、もし子供が今の凛の目を見たら一生赤いものには近づけなくなるだろう。犬猫は一目散に逃げるし鳥はバタバタ墜落するに違いない。
「さぁ…わたしのなまえはなんていうの?」
「凛…」
 士郎は引きつった表情で彼女のフルネームを口にした。
「衛宮、凛です…」


 わたしのおなまえなんてーの? 


「そう。わたしは衛宮凛。え・み・や、凛よね?」
「あ、ああ」
 ごくりと唾を飲み込んで士郎が頷いた、瞬間。
 ピッ…!
 軽い音と共に士郎の前髪が一本千切れとんだ。それを為したのは拳。まさしく閃光のように打ち込まれ寸止めされた渾身の左ジャブであった。
 握られた拳、その薬指には銀に輝く指輪が一つ。
「わかってるなら気をつけなさいよ! わたしは、その…あんたの奥さんになったんだからね!?」
「は、はいっ!」
 思わず立ち上がり、直立不動になって士郎は叫んだ。左の拳を握り、そこにはめられたリングを親指でさする。
 今も鮮明に思い出せるあの聖杯戦争からはや10年。
 留学したり死徒と戦ったり桜がらみでもう一回戦争をやらかしたりといった忙しい日々も一段落し、この冬木の管理者とその補佐という安定した生活環境を得た二人は長い長い躊躇の果てに結婚という結論に至ったていた。
 ちなみにプロポーズの台詞は―――
「変に有名になるもんじゃないわね。学院からも仕事の依頼が『遠坂家当主宛て』でじゃんじゃん送られてくるし」
「ん? じゃあ、いっそのこと衛宮姓になってみるか? ごまかせるかもしれないぞ?」
「そうね。そうするわ」
「…へ?」
「何を『冗談のつもりだったのにー』って感じの顔してるのよ」
「いや、その。今のはじ―――」
「ああ、無いと思うけどそういう悪質な嘘については遠坂家に伝わる三万六千二百十六の拷問秘儀から1日13個を1週間にわたってお見舞いするから覚悟してね。ちなみに10個はランダムで残り3個は士郎が選んでいいわ」
「あ…な…」
「さて、それで?何かいいかけていたようだけど―――?」
「…俺と、結婚してください」
 というやり取りであったという。
「い、いや、だってさ! もう十年も遠坂遠坂って呼びつづけてるんだぞ? まだ結婚して2週間だし、たまには間違えるって」
 ちなみに新婚旅行はイギリス旧跡めぐりだった。
「わたしの方は間違えたことないでしょ!?」
「俺、苗字変わってないじゃん! っていうか前から名前呼びだろうがっ!」
 鋭くつっこまれて凛は思わずたじろいだ。だが即座に態勢を立て直しびしっと士郎の鼻先に指を突きつける。
「そもそも昔からそこが気に食わなかったのよ! なんだって士郎はわたしのこと苗字呼びなの? 会ってすぐならともかく、聖杯戦争終わってからずっとわたし達付き合ってたわけでしょ!?」
 うーっと見上げてくる凛に士郎は苦笑して頭を掻いた。
「苗字で呼んでた理由か…」
 それは、単純な話だ。
「ただ単に…俺に自信がなかったから、なんだけどな」
「自信? どういうことよ」
 眉をひそめる凛に士郎は軽く頷く。
「俺は落ちこぼれの魔術師で、別段目立つこともない一般生徒だったからさ…師匠で尊敬する魔術師で学園のアイドルで…しかも、前からずっと憧れてた女の子と名前で呼び合うなんて恐れ多いって感じでさ。それで、そのままズルズルと」
「な…ば、馬鹿じゃないの!?」
 思いもかけない台詞に凛は顔を真っ赤に染めて叫んでいた。
「む。馬鹿とはなんだよ」
「馬鹿は馬鹿よ馬鹿ッ! それじゃあ何? ずっと名前で呼んでもらいたかったのにまだ駄目かまだ駄目か。もっと親しくならないと駄目なのかって結婚するまで待ってたわたしはなんなのよ!? ギガ馬鹿!?」
「あ、それちょっと韻を踏んでていいな」
「パイルバンカーっ!」
 ずどんっと鈍い音をたてて鳩尾に食い込んだ強烈なアッパーに士郎は正座のまま吹きとびテレビに後頭部をぶつけた。ごぎりという鈍い音が響き渡る。
「さ、さすがに今のは効いたかな…」
「わたしの心も十分痛いわよ」
 凛はふんっとそっぽをむいて唇を尖らせた。あの頃と違いストレートなロングにしている髪がふわりと揺れる。
「まったく…今でもそう思ってるならすぐに改めなさい。最優先事項よ! 士郎は昔から十分かっこいい男の子だったし、実は綾子とか三枝さんとか隠れファンも多かったし…そういうのが無くても、わたしにとっては世界中で誰よりも素敵な人なんだからね!?」
 凛にしては珍しい素直な睦言に士郎は真っ赤になり、穏やかな笑みで頷いた。
「ありがとう。とおさ―――あ」
 笑顔から驚愕、そして戦慄へと秒単位で表情を変えながら士郎はこのまま天変地異でもおきてうやむやにならないかと子供じみたことを願いながら赤いあくまワイフの顔に視線を向け…
「…ふふふふふふ」
「ひっ!?」
 思わず引きつった声を漏らした。ご尊顔、再度鬼神の如く…!
「士郎ッ! あんたねぇ!?」
「ご、ごめん! ラスト! 今のラストにするから!」
 ぺこぺこと頭を下げる夫に凛はだんっと食卓を叩いた。
「もう頭に来たわ。特訓よ!」
「特訓!?」
 士郎の頭の中にクレーンから吊るされた直径1メートルはあろうかという鉄球で滅多打ちにされる自分の姿を思い浮かべて士郎は震えあがった。
「いや、死ぬ! 死ぬって! いくら俺の体は再生するからって無茶だ!」
「そんな事しないわよ!」
 がぁっと一声叫んで凛は士郎を手招きした。正座しなおし、自分の前の畳をちょいちょいと指でつつく。
「?」
 士郎が警戒心バリバリの表情でそこに正座すると凛は厳しい顔で口を開いた。
「凛」
「は?」
 聞き返され、むっとした表情でもう一度繰り返す。
「凛。ほら、士郎も言いなさい」
「あ、ああ…り、りん…」
 ぎこちなくそう言った士郎に凛は顔をしかめた。
「もっと滑らかに!」
 ぱんと士郎のももを軽く叩いて叱責する。
「ほら、凛」
「リン」
「発音が固い!」
「…りん」
「声が小さい!」
「凛」
「愛が足りない!」
「凛っ…! ってなんだよそりゃ!」
 力強く名を呼んだ士郎は顔を赤くして叫ぶ。
「さすがに今のは失礼だと思うぞ!? 足りないってどういうことだよ!」
「うん、ごめん。ほんとは、足りてるけどもっと欲しい、かな」
 ちろっと舌を出して凛は悪戯な表情で笑った。士郎も表情を柔らかくして息をつく。
「まったく…よくばりだなぁ」
「今更言わないでよ…よくばりは、嫌い?」
 囁きあう二人の距離が徐々に縮まっていく。
「いや。何もかもひっくるめて好きだから」
「ん…ありがと」
 そしてその距離がゼロに―――
「シロウ。リン」
 なろうとした瞬間、がらりと居間のふすまが開いた。
「「!?」」
 唇が触れ合う寸前だった二人は閉じていた目を慌てて見開き。
「しゃぁああああっ!」
 凛は鋭い頭突きを士郎の鼻っ柱に叩き込む!
「のばっ!?」
「だっしゃぁああああっ!」
 片腕を天に突き上げた凛はだらだらと冷や汗を流しながら士郎をびしっと指差した。
「いい!? このように超近接戦闘において頭突きというのが重要なファクターなのよ!」
「ほ、ほふはへ(そ、そうだね)…」
 鼻を押さえて士郎は苦笑した。痛いことは痛いがこういう恥ずかしがりな所も好きなのだからどうしようもない。
「…なにをしているのですか?あなた達は」
 その光景を見渡し、居間に入ってきた少女は眉をひそめた。
「ちょ、ちょっと戦闘訓練をしてただけよ! ねえ、士郎」
「…そう。そんな感じ」
 さすがにその言い訳は無理あるだろと思いながら士郎は少女に目を向ける。
「それで、どうしたんだ? セイバー」
 問われ、10年前からずっと彼らに付き従っているサーヴァントであるセイバーははいと頷いた。人間だった頃から不老の彼女だけに、容姿はあの頃と全く変わっていない。
「喉が渇いたので麦茶を所望しに来ただけなのですが…その前に報告しておいた方ほうがよさそうですね」
「報告? なにさ」
 尋ねるとセイバーはスカートのポケットからごそごそと紙を取り出した。
「先程から名前について叫びあっていたようですが…」
「って聞いてたんじゃないのよセイバー!」
 真っ赤になって叫ぶ凛にええと答え、セイバーはさっとその紙を広げる。
「実はこんなものがあるのですが…」
 そこに書いてあるのは、
『世帯主 : 衛宮士郎』
『妻   : 衛宮凛』
 どうやら、戸籍謄本のようだ。
「これがどうしたのよセイバー」
「…って待て凛! おまえの名前の後ろ!」
 そこに。
『長女  : 衛宮セイバー』
 の文字。士郎と凛は、ぱっくりと口を開いてセイバーを見上げる。
「…この度、苗字が変わりました―――」
「って何をそんな誇らしげな表情でいきなりに!?」
 胸に片手を当ててえっへんとセイバーが小さく胸を張り、そして。
「―――先輩ぃ」
 士郎の足首を、誰かがひしっと掴んだ。
「うぉお!?」
 慌てて飛びのくと、さっきまで自分が居た場所に影とそこから突き出した腕一本だけが残っている。
「お、俺の影取れたっ!」
「わたしです。先輩」
 その影の中からずるずると這い出してきたのは予想通りというかそれしかないというか、桜だった。ぱんぱんっとスカートのほこりを払うと、ポケットから紙を一枚取り出して広げてみせる。
「奇遇ですよね。わたしも苗字が変わりました」
『次女 : 衛宮桜』
「いやいやいや! マジでなんでさそれ!?」
「士郎〜私、もう藤村組辞める〜!」
 次いでガラガラと窓が開いて藤ねえがずいっと紙を突き出した。
『三女 : 衛宮藤ねえ』
「って名前も変わってるよ藤ねえ! ああもう、何がなんだかっ!」
 頭を抱えて士郎が叫んだ瞬間、ぴんぽーんと呼び鈴の音がする。
「この忙しい時に誰だよ!」
「おにいちゃーん? ひさしぶりー」
 パタパタと居間に飛び込んできたのは銀髪の少女。にっこりと笑って手にした紙をかかげる―――
『四女 : 衛宮イリヤスフィール』
「ってむしろイリヤ死んでたんじゃないのか!?」
 狂おしくつっこむとイリヤはえへんと大平原の小さな胸を張ってみせる。
「この身体は2号機! リズとかみたいなタイプもあったんだけどお兄ちゃん、こういうのの方が好きでしょ?」
 アインツベルンの科学は世界一ぃぃぃっ!とばかりに笑うイリヤに士郎は思わず頷いてしまった。
「そ、それはまあ…」
「チャランボっ!」
 瞬間、凛は士郎の頭を抱え込んでその腹に膝を叩き込む。
「で、出たー! 姉さんの大木をも折るチャランボだーっ!」
「うるさいっ! ああもう、一体何だってみんなしてムードをぶち壊しに来るわけ!?」
 鳩尾を強打されて悶絶する士郎を床に落として凛は絶叫した。
「ふむ。この戸籍謄本が今朝になって送られてきただけなのですが…」
「送られて!?」

 

「…戸籍変更、衛宮綾子と」
 冬木市役所の窓口で男は呟き、片手を目立たないようにかざした。
「投影開始(トレースオン)」
 呪文と共に手のひらに現れたハンコを握る。中身のない、外見だけの偽物だがこういう時には役に立つ。
「次。衛宮由紀香…ふっ、女を抱えて溺れ死ね。私なんぞ恋人とは死に別れてるわ裏切られるわの人生だったのだからな。少しは苦労するがいい」

 やつあたりかよ。