<水着披露・意外性の爆発・極限の破壊力>
「・・・あー」
降り注ぐ日差しを浴びて乾はなんとなく声を上げていた。
彼は、着替えが早い。どれくらい早いかと言うと某偉大な勇者のパイロット並みに早い。十秒あれば上下共に着替え終了である。
「あちぃ・・・」
ましてや今回は水着だ。5秒で着替え終わって他の男子たちを待っていたが3分で飽きて砂浜に出てきていた。
そして、他の男子たちもちらほらと姿を現し始めた頃。
「あ、隼人さ〜ん。早いですねぇ〜」
「お・・・う?」
聞きなれた声に振り返った乾は思わず絶句した。慌てて平静を取り繕う。
「どうしたです?隼人さん」
「あ、いや、森永・・・おまえ、けっこうでかかったんだな・・・」
愛子はきょとんと首をかしげた。
「151センチですけど?」
「いや、そっちじゃなくて・・・」
乾は言いながら確かな存在感を誇る二つの膨らみを指差し・・・
「この、ド変態っ!」
瞬間。閃光のような踵落としが乾の頭頂部を直撃した。
「まくべっ!?」
「あわわわっ!だ、駄目ですよ雪乃さん!ここで踏んだら死んじゃいますっ」
奇声を上げながら為すすべもなく地面に顔面をめり込ませた乾を見下ろし、雪乃はその凶行を為した左足をぶんっと振って息を荒げる。
「いいんですわよっ!ああ、もう!愛子さんが汚れますわ!」
「ば、馬鹿かおまえは!何がどう汚れるんだコラぁっ!?」
愛子を抱きしめてプルプルと震える雪乃を睨みながら乾はがばっと飛び起きた。
「事実を率直に述べただけだろうが!ははぁん?さてはおまえは貧相な・・・」
叫びかけたところで硬直する。
「何が、どう、貧相なのかしら?」
ふふんと鼻を鳴らしてポーズを取る雪乃もまた、モデル業界に殴り込みをかけられる暴力的なボディーラインを白い水着で包んでいた。
「ちなみに、最近の水着は白くても透けませんわよ。お生憎様」
「んなこたぁ知ってる!」
悔し紛れに叫びながら乾は砂を勢いよく蹴り上げる。
何で知ってるんだ?
「え、えっと・・・」
困ったような笑顔で愛子は自分の身体を見下ろした。どうにもぴんと来ない表情だが、淡いピンク色をしたワンピースの水着に包まれた柔らかそうなそのラインは確かに人目を引くレベルに達している。
腰の細さでは雪乃に劣るが胸の豊かさではむしろ勝っているかもしれない。
「あうっ!ふたりとも凄いよっ!さすがのアミちんもピンチかなっ」
一方で、後から走りこんできた不破亜美子の体型はいたって平均的だ。
「凄いねっ!触ってもいい?」
「駄目に決まってますわ!不破さんはこっちの馬鹿犬のでも触ってなさい!」
「触らせるか!てめぇこそ馬鹿だろコラ!?」
「馬鹿っていうほうが馬鹿なんですわ!うきぃ!」
バタバタと暴れだした雪乃はふと静かになって首から提げていた小さな水筒からストローを伸ばし、ちゅるちゅると中の液体を飲み下した。
「・・・何の話でしたかしら?」
「熱暴走は気をつけよう!かな」
いつの間にか近くに立っていたヒライユミが際どい黒のビキニに包まれた身体を惜しげもなく見せつけながら笑う。
「冷却ドリンク、一定時間ごとにちゃんと飲まないと危ないっすよ?」
賑やかな集団を見つけてやってきた神戸由綺はコンパクトな体型だが臆する様子無く会話に参加してきた。
何しろ去年の夏も爆発的な体型の少女たちを目の当たりにしているので諦めがついている。
「それはそれとして、シュピーゲルさんはまだ来てないっすか?」
「そういえばゆっくりさんですねー?隼人さん、ナインさんはどうなさったんですか?」
乾は「ん?」と呟き肩をすくめる。
「いや、知らねぇな。あいつも俺と同じでわりと着替えるのは早いんだけどな」
「おまたせしました」
その声が消えないうちにもう一つの声が一同の耳に届いた。続いて、砂を蹴立てて走ってくる音も。
「おせえぞナイ・・・」
そして、いち早く振り返った乾の動きが止まった。
「どうしたんで・・・す・・・の・・・?」
「シュピーゲルさ・・・ん・・・?」
「うわっ!すごっ!」
その声に引かれるように声の主を視認した少女たちもまた、彫像のように凍りつく。
「おや?どうしました?」
その空気に気づいた様子もなくナインハルト・シュピーゲルはその水着と共に少女達の視線を一身に受けて立った。
立った。
立ってしまった。
赤い、赤い・・・深紅の布を股間からなびかせて。
漢の象徴・・・日本男児の誇り。
フンドシを締めた姿も堂々と。
「赤フン、カコイイ!」
妙に嬉しそうな顔で親指を立てるヒライ以外は、愛子ですら呆然とその姿を見つめる。金髪、碧眼のその容姿・・・それ故に・・・
「か、勘違いしたアメリカ人富豪って感じだねっ・・・」
「ひ、卑猥ですわっ!淫逸ですわっ!性的倒錯者ですわっ!」
亜美子と雪乃の悲鳴に近い声を聞いてナインは首をかしげた。
「おかしいですね・・・50年位前に一度日本に来た時はみんなこのような格好だったはずですが・・・」
「情報が古すぎんだよ馬鹿っ!いまどきフンドシ履いてる奴がどれだけ居るってんだ!見やがれ!ビーチの視線を嫌な感じに独り占めしてるぞテメェが!」
乾は罵倒しながらバシバシと砂を蹴りたててナインにぶつける。
「ふむ・・・さすがに少々時代錯誤でしたか」
ナインは呟き、ぱぁっと爽やかな笑顔を浮かべた。
「では、これは脱いでしまいましょう」
「んなっ・・・!?」
「馬・・・!」
「カメラ、カメラ・・・」
「きゃあああああああああ!??」
悲鳴(一部例外有り)と共に伸ばされた手が押し留めるよりも早く。
「よっと」
気軽な声と共に、深紅の・・・危険な布が、頭上高く投げ捨てられた。
「変態ぃぃっぃぃぃぃぃぃぃぃぃ・・・・い?」
雪乃は喉も裂けよとばかりに悲鳴を上げながらもしっかりと『その部分』を凝視し・・・そのままきょとんとした顔でがくんと首を前に倒した。
視線の先に・・・青い競泳用水着、ブーメランと呼ばれるものを履いた下半身がある。
「ちなみに、下にはあらかじめ水着を着てたんですが・・・どうしました?皆さん」
ナインはそう言ってにこやかに笑った。
砂浜の端から端までを使ったクラス全員参加、死刑執行鬼ごっこは30分後御伽凪教師が現場を征圧するまで続いたが、ナインはギリギリ最後まで逃げ切った。
<水とアザーズ・きつね、がんばるよ?・帰ってきたアイツ>
「いやあ、準備運動にしてはちょっとハードでしたね」
「どの口でほざきやがるんだてめえがっ!?ああ!?」
無意味に爽やかな笑顔で汗を拭う真似をするナインに乾は吊り目を更に険しくして詰め寄った。
「はっはっは。まさか、あそこまで綺麗に騙されてくれるとは思わなかったもので」
「ん〜、なんていうか、シュピくんにしては珍しく悪趣味なジョークだったねっ」
遠慮や配慮のない亜美子の台詞にナインは苦笑して肩をすくめる。
「夏は少年のいたずら心に火をつけます」
「誰が少年ですか!推定200歳のご老体が!」
今度は雪乃が吠えた。傍らに居た愛子がまぁまぁとそれをなだめる。
「ともかく、ああいうのは気をつけて欲しいッす。一応自分、風紀委員っすから」
「ええ。まあ年に一度か二度あるかないかの気まぐれですのでご心配なく」
ナインは言ってから海に視線を向けて目を細める。
「さて、せっかくの自由時間なわけですし海に入りませんか?」
それを聞いて由綺はぐっと拳を握った。
「そう、それっす!海が・・・海が呼んでるっすよ!」
「海・・・ですか。わたくし・・・泳げないんですのよ」
対照的に雪乃の声からは元気がなくなる。
「大丈夫ですよ雪乃さん。わたしもほとんど泳げませんから」
「それ、慰めになってないですわよ愛子さん・・・」
言いながらも嬉しそうな顔になって雪乃は愛子の手を握った。
「ふむ。では貴殿等も共に練習するか?」
そこにもう一つの声が割り込んできた。黒いワンピース型の水着に身を包んだ関美龍だ。タータンチェックの水着を着た伊成きつねが腰に張り付いている。
「いなりはね、めいろんにおしえてもらうんだよ?」
「えっと、どうしましょうか雪乃さん。ナインさん達と遊びたい気もしますし・・・」
「そうですわね・・・」
雪乃は顎に手を当ててナイン達の方に眼を向ける。
「ああ、そういうことなら午前中は関さん達と泳いできてはどうです?俺達とは午後遊びましょう」
「その間にアミちんがはーくんを取っちゃうけどねっ!」
「べ、別にわ、わたくしに言うことでもないと思いますわよ?勝手になさってはだうです?」
混ぜ返す亜美子の言葉に雪乃は思わず口ごもる。
「安心しろ藤田。不破は抜け駆けをするような奴ではないからな」
「ですからわたくしは別にっ!」
追い討ちの台詞に噛み付いてくる雪乃を無視して美龍はパンッと手を打ち鳴らした。
「よし!それでは藤田と森永は吾が責任を持って泳げるように鍛えてやろう!」
「き、聞きなさいっ!うきぃ!」
結局美龍と泳ぎの練習をすることにした愛子と雪乃を遠目に、ナイン達は水と適当に戯れていた。
「おおっ!はーくん泳ぎうまいねっ!」
「深いところにわざわざ突き落としといてどの口でほざきやがる!」
「この口だよっ。触ってみる?」
思わぬ切り返しに絶句している乾の肩を苦笑まじりにポンッと叩いてナインは二人から離れ、海を出た。
「海に入らないのですか?ヒライさんは」
そこでぼんやりと自分達を眺めているヒライに気がついたからだ。
「ん・・・ヒライってデータ、つまりは電気信号なわけで・・・塩水は、ちょっとこわいかもしれないとか。存在ごとアボーンされちゃうのもね」
「失礼ですが、実体化は封印章で?」
「そうだよ。ほら」
ヒライは頷いて首から提げていたペンダント型のそれを指先で弄ぶ。
「同じ非実体型の幽霊やってる畑中ちゃんは自動人形だからわかりやすいけど、ヒライの媒介ってDVD-RWなのよね。海の中落ちたら・・・簡単にハケーン!ってわけには行かないから。流れるし」
ナインは顎に手をあてて軽く目を細め、ヒライを静かに見下ろした。
「・・・俺達のような根底が不確かなのモノは、経験の量がイコールで存在の量です。生きている、と主張しようとするならば・・・新しい何かをするときには怖れないほうがいいでしょうね」
まあ、年寄りの戯言ですが。と締めくくったナインをヒライはやや上目遣いに観察する。
「出来る限り人と関わらず、人を変えず、自らも変わらず。それがあなたの生き方だと思ってたんだけどね?」
「・・・否定はしませんよ」
肩をすくめてナインは口の端だけで笑う。
「今でも、変わろうとは思いません。ですが、それでも・・・俺達は生きていかなくてはいけませんから。人外が狩殺されることも少なくなりましたからね。老いることのない俺やあなたは、否応なしに生き続けなければいけません。世界と距離をとる方法を学ばなければいけないんですよ」
「・・・この世界は、偽物に、やさしくない?」
ヒライは呟くように尋ねた。
「・・・ええ。少なくとも俺はこの世界に優しくしてもらうつもりもありませんね」
対するナインの声は、あくまで皮肉げである。
しばし、喧騒に耳を澄ました後で。
「ヒライは、まだ少し夢を見ているよ。ただ眺めることしか出来なかったこの世界に出て来れたんだから。自分がリアルになる事、出来るって思ってるよ」
ぽつりと呟いたヒライの言葉は、小さいが迷いはない。
「・・・それは、あなた次第です」
ナインは答え、海を眺める。魔眼の少女が、その先で元気良く水を跳ね上げていた。
「・・・ヒライさん、海・・・入ってみますか?」
「・・・手、引いてくれる?」
心理的に微妙な距離を保ったまま、二人は海へと入っていった。
一方。
「出て来いコラァッ!」
乾隼人は、吠えていた。
周囲の海面に鋭い視線を向け、喉を軽く鳴らす。
そして。
「そこだぁっ!」
残像が残りそうなスピードで海に叩き込まれた右腕が何かを掴んで引き上げた。
「おおっ!捕獲されちった。凄いねっ!」
「凄いねっ!じゃねえぞこら!今度は浮かんでこれねぇようにぶっこむぞ!?」
猫のように首筋を掴まれ吊り上げられている亜美子に乾は今にも噛み付かんばかりの怒号を叩きつける。
「わっ、はーくんってばマジギレだよっ!」
「足つかねぇ所に突き落とされたあげく上からのっかられたら誰だってキレるぞ馬鹿野郎!」
「えーん、はーくんが怖いよっ」
これっぽっちも怖がっている様子がない亜美子に犬歯をむき出して海の底が深くなってるところを探し始めたときだった。
「いやいやいや、本当に突き落としちゃうと犯罪ッすよ。乾さんほど不破さんはタフじゃないっすからね」
神戸由綺が腕をバタバタと振り回しながら割り込んできた。
「俺ならいいのか!?」
「大丈夫っす!乾さんは六合学園認定第一級タフネス所持者っすから!」
マジかよと呟く乾の腕から素早く逃れて亜美子は水着の胸元から防水性のメモを取り出す。
「はーくんは底なしっと・・・」
「書くな!っつーか泳いでるときまで持ってんのかメモをっ!」
「・・・個人的な観察結果を報告させていただければ、不破亜美子嬢は睡眠中、入浴中を含め、24時間メモ帳を手放していません」
不意に浮上してきた24−メイデンは淡々とそれだけ言って再び海底へと沈んでいった。そのままどこかへと去って行く。
「あいつ、何してんだろな・・・」
「ボケをまってるんじゃないかなっ。つっこむためにっ」
「いやいやいや、さすがにそんなことはないとおもうんすけど・・・」
神戸は苦笑と共に呟き、パンッと手を打った。
「ってそんなことを言いに来たわけじゃないっす。そろそろ・・・アレが来ると思うっす。警戒してパトロール中っす」
「アレ・・・が来る?」
「うわっ!はーくん、エッチなこと考えてるよっ!」
「考えてねぇっ!殺すぞ今度こそ!」
口元を押さえて顔を赤くする亜美子にそれ以上に赤い顔で乾は叫び返す。
「話し進めるっす。この海岸には毎年この時期になると必ず奴が訪れるっす。去年は酷い目にあってるっすから、張り切ってるとおもうんすよ」
「奴?海岸荒らしかなんかか?」
あン?と首をかしげる乾に神戸は真顔のまま首を横に振った。
「イカっす。体長5メートルの」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
乾と亜美子は気の毒そうな表情で神戸を見つめる。視線が生暖かい。
「・・・暑いもんな」
「・・・救護室、どこだったかなっ?」
「多分そんなリアクションだと思ったっすけど・・・」
神戸は呟き、バッと首を沖のほうへ向ける。
「って言ってる間に奴っす!奴が・・・奴が遂に!・・・がくっ」
ふらっと倒れて水の中へと沈み込む神戸の首筋を乾は素早く掴みあげる。
「で?モンゴウイカのつかみ取りでもす・・・る・・・」
からかうような声の響きが、即座に消えた。
沖からざぶざぶと波を蹴立てて奴が来る。
「何の冗談だありゃあ・・・」
本来10本ある筈の足は一本が中途から切り落とされている。真っ白い肌をてかてかと光らせて奴が来る。
『キシャアアアアアアアッ!』
「イカっす!漢字で書くと烏賊っす!」
全長5メートル。伸ばした足から足までを測れば優に10メートルという巨大な軟体類が、平和なビーチへと迫り来る!
「ちなみに通称は白い悪魔っす」
「・・・なんかピキーンとか眉間に稲妻が走りそうだな。それ」
呆然と呟いていた乾の顔色がさっと青ざめた。
「やべぇぞ!あのまま進むと藤田と森永ん所にぶつかる!」
「まずいっす!レスキューするっす!」
「はぇ?」
その視線の先で、バタ足の練習をしていた愛子が、きょとんとした顔で振り返る。
目前に、巨大イカ。
『キシャァっ!』
「はぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
悲鳴が交錯するのも一瞬。振り上げられたイカ足に弾かれて愛子は空高く舞い上がった。
「ま、愛子さんっ!」
「こん!?」
近くで潜水練習をしていた雪乃と伊成が眼を見開く中、愛子の身体はキラキラと水滴を輝かせながら放物線を描いて沖の方へと沈む。
それきり、浮かんでこない。
「愛子さんっっっ!」
雪乃は慌てて愛子の方に向かおうとするが、泳げない彼女には足が届かない沖へ向かう術がない。
「乾さんは森永さんを助けてくださいっす!ボクは奴とバトルっす!」
叫びざま神戸は泳ぎ始めた。力強いストロークで宿敵であるイカの足にひしっとしがみつく。
「くっ・・・不破っ!人集めて来い!特に鬼島とかの戦える奴だ!」
「わかったよっ!」
ばしゃばしゃと亜美子が去っていくのを横目に乾は鋭いクロールで愛子が沈んだあたりへ向かう。
「っううううう、よくも愛子さんをぉっ!」
一方で雪乃は目の前に迫ったイカにギリギリと歯軋りをした。
「許しませんわよ!所詮刺身の中でも脇役のくせにっ!」
さりげない差別発言と共に雪乃の髪がさぁっと純白に染まる。
「凍りなさい!」
「・・・止めた方がいい」
冷気を放つ為に振り上げた右腕は、落ち着いた声と共に掴みとめられた。
「何するんですの!?」
「冷却水の残りが少ないはずだ。霊力の放出技など使えば身体が持たなくなるぞ」
言い置いて美龍は背中に背負っていた伊成をそっと降ろす。
「伊成。援護できるか」
「うん、いなり、がんばるよ?」
こくんと頷く伊成の頭を軽く撫でて美龍はバタバタと暴れるイカの足に迫り勢い良く右足を振り上げた。
鋭い蹴りで跳ね上げられたその足に・・・
「こん」
伊成の手から放たれた一抱えもある火球が激突する!
『キシェェァッ!』
イカの悲鳴と共に炙り烏賊の香ばしい匂いが辺りに広がった。問答無用に日本酒が欲しくなる。
「これは・・・狐火ですわね。それもかなり大きな」
雪乃は呟き、イカの注意が美龍に集まっているのを確認してからバッと身を翻した。海岸に置いてある予備の冷却水に向かう。
「待っていてください愛子さん・・・仇は、わたくしが討ちますわっ!」
まだ死んでないが。
「あらあらぁ、これは困ったわねぇ」
亜美子に連れられてやってきた緋文美の一言目がそれだった。
「個人的な意見を言わせていただければ、そんなのんびりしている暇はないかと。一般人もそろそろ集まってきます。あんなのを見られると相当まずいと思われますが?」
冷静につっこむトゥエニィの視線の先では、巨大なツララや火球が同じく巨大なイカに襲い掛かっている。
「そうねぇ。どう思う?みっちゃん」
「・・・即座に周囲を閉鎖。対象を撃退しましょう。彼我の戦力差を見れば、そんなに難しいことでもないはずです」
「閉鎖?こんなだだっ広い海岸を閉鎖ですか?」
眉の間にしわを寄せて南英香が尋ねると緋文美はふふっと笑みを見せる。
「だ〜いじょうぶよん?子猫ちゃん」
「・・・誰が子猫ですか」
むっとした顔で呟く真面目な英香の頭をからかうように撫でて緋文美はぱんっと合掌する。
「ひ〜ふ〜み〜よ〜い〜む〜な〜・・・」
のんびりとした調子で、歌うように緋文美の口が言葉を紡ぐ。
「ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ・・・」
しばし目を閉じてからすっと開いた手と手の間に緑色の線で構成された立方体が現れた。
「結」
結びの一言と共にその立方体が一気に大きくなり、海岸を包み込む。
「はぁい終了〜、わたしが許可しないものは視線ひとつも入れないから、どんだけ暴れたって大丈夫よぉ?」
「個人的な調査結果を報告させていただければ、半径80メートル程の空間が結界と呼ばれる別空間になっております。外部からは何もない空間のように見える筈です」
「ただの変人教師ではなかったのですね・・・」
英香はぼそっと呟いた。『変態』とストレートに言わない辺りに配慮が覗える。
「さて、後はみんなに任せるわよん?」
「氷柱!」
飲み下した冷却水が体温を下げていくのを感じながら雪乃は大きく腕を振り上げた。海水が巨大なツララとなってイカの足を突き上げる。
「くっ・・・ぷにぷにと猪口才なっ!」
思ったように刺さらない現状に雪乃は苛立たしげに呟いた。
「・・・せめて棒の一本もあればな」
美龍もまた、素手で巨大な足と渡り合うことに限界を感じていた。背後の伊成も困った顔で美龍の背を見つめている。
「くそっ!どこに沈んでる!?」
乾もまた焦りをあらわに水をかきわけ、潜水を繰り返す。
「ぶくぶくぶく・・・っす」
神戸は、いち早くダウンして海に浮かんでいる。
誰もが状況の硬直を感じていた。何とかしようにも、イカはあまりにも大きすぎた。
そのとき。
ざばんっ・・・!
『シャァッ!』
イカの叫びに答えるように海が、うねりを増した。激しい波と共に何かが・・・紅く、巨大な何かが海底から姿を現す。
「嘘ぉ・・・?」
呆然と呟いた乾の目の前で。
「ひ、非常識もいいとこですわっ!」
少し怯えの混じった雪乃の視線の先で。
「あれは・・・」
全長、イカよりやや小柄な4メートル。8本の足を鋭く振りたてて。
巨大なタコが、その全貌を明らかにした。
「い、一匹が二匹になったところでたいした事ありませんわっ!」
顔中に焦りの汗を浮かべて叫んだ雪乃の声を聞きながら、美龍はゆっくりと首を振った。
「いや・・・あれは援軍だ。頭の上を見ろ」
「上?・・・ば!?」
不審もあらわに視線を動かした雪乃の口が、限界まで大きく開く。
タコの頭上、人間で言えば額の辺りに、何故か角があった。
それはいい。いまさらその程度で驚くような事態ではない。
だが。
「三倍ですよ!」
謎の叫びをあげながらその角にしがみついていた少女は・・・
「愛子さんっ!?」
「あ!雪乃さ〜ん!お友達が増えましたよ〜」
能天気に叫んで手を振り回しているのは、明らかに森永愛子その人であった。
「お友達って・・・愛子さん、あなた一体・・・」
さすがに呆れた様子の雪乃にぶぃっ!と指を突き出してから愛子は顔を足元の巨大タコに向ける。
「タコさん!お願いします!」
『見せてもらおう・・・足十本の軟体類の、実力という奴を!』
「待てぃ!喋ったぞ!?今、タコ喋ったぞオイっ!?」
乾の突っ込みも意に介さず巨大タコは足をスクリューのように回転させてイカに迫る。そのスピードはかなり速い。
そして、その進路上・・・イカとタコを結ぶ直線には、ぷかぷかと浮かんでいる神戸の身体が。
「畜生!なんでこうどいつもこいつも面倒くせぇことを・・・!」
瞬間。乾の瞳の中で瞳孔が縦に伸びた。全身の筋肉に限界を越えた生体電流が走る。
「どりゃああああっ!」
叫び声と共に乾は強く水をかいた。魚雷のような勢いで突き進む身体を軋ませながらタコに何とか追いつき、その進路上から神戸の身体を引っ張り出す。
「ふにゃ!?」
気の抜けたような声と共に神戸が目を覚ますと同時に、二大軟体類は激しく激突した!
『シャァァァァっ!』
『認めたくないものだな・・・!』
「いや、だから・・・」
ジト目でそれを見ながら呟く乾の腕の中で神戸はきょとんとした顔でまばたきする。
「?・・・乾、さん?」
「おまえ、弱いんだったらわざわざ戦うなよ。面倒くせぇ」
呆れたように言いながら乾は神戸を抱きかかえたままイカとタコの足が届かないところまで後退する。
「で、でもボクは漁師の娘ッすから・・・」
「あれはどう見たって漁師が相手にするジャンルじゃねぇと思うけどなぁ・・・」
「父さんは昔、一対一であのイカを撃退してるっす」
マジかよと呟く乾に神戸は困惑気味の目を向けた。
「そ、それはともかく、そろそろ放して欲しいっす・・・」
「おう、そういやそうだな」
あっさりと言って手を離す乾に、神戸は我知らず恨みがましい目をしてしまう。
「?・・・なんだ?」
「やややややややや、な、なんでもないっす!というより自分でもよくわからないっす!?」
バタバタと手を振り回す神戸に大丈夫か?というような目を向けて乾は再度イカタコのバトルに視線を戻す。
『キシャゥッ!』
「が、頑張ってくださいタコさん!」
『ちぃっ、足十本の軟体類は化け物か!』
正確には一本千切れているので9本足ではあるが、取り敢えず一本多い足とやや勝る体格の差に任せてイカはタコを圧倒しつつある。
「っうか、あのタコは何なんだ?神戸」
「多分、赤い彗星っす。10年前の彗星の晩、イカと戦う為に宇宙(ソラ)からやってきたらしいっす」
「・・・なんか、限りなくうさんくせぇ話だな」
乾は呟き、パンッと右拳を左の掌に打ち付ける。
「ともかく、足の差がまじぃんだ!2本以上俺達が押さえりゃあ勝つ!多分!」
「同感っす!やってみるっす!とりゃあああああっす!」
「待てって」
拳を握って駆け出そうとする神戸に乾は容赦なく足払いをかけた。
「ぷばっふ!?」
踏み出した足を刈り取られて神戸は顔面から海面につっこむ。
「ぶぶぶぶぶぶぶ・・・」
海底の砂に顔をうずめて浮かんでこない少女の首を片手で掴み、乾はよいしょと小柄な身体を持ち上げる。
「だから、真っ直ぐ突っ込んでってどうすんだおまえは。ただでさえ小せぇんだからあんなリーチのある馬鹿と正面切ってやりあえるわけねぇだろうが」
「・・・で、でも、ボクは・・・父さんの娘っすから・・・絶対、海じゃ逃げちゃいけないっす・・・」
神戸はしょぼんとした様子で悔しげに唇を噛む。乾はその意外な姿にちっと舌打ちをして視線をそらした。
「なんか武器とかねぇのか?」
「!・・・あるっす。忘れてたっす!」
忘れるなよ・・・と呟く乾をよそに神戸は海の中に腕を突っ込み、ぶんっと引き上げた。その手がずるずると引き上げたのは一抱え以上もある網の塊だ。
「ボクの武器は、投網っす!」
「・・・どっから出したのかとか、それって武器かよとか色々言いてぇが・・・取り敢えず行くぞ!」
「行くっす!」
二人は波を蹴立ててイカへと駆け寄った。
「行くぞテメェら!足の2〜3本も押さえ込めばこっちの勝ちだ!」
「い、言われるまでもありませんわっ!」
傍らを駆け抜けて行く乾の叫びに口を尖らせて雪乃は再び冷気を練り始めた。
「はーくんっ!みんな来てくれたよ!」
そこに至って、ようやく他の生徒達も追いついてくる。
「む」
既に鬼化している鬼島が鋭い爪の生えた腕で手刀を打ち込んだのを合図に戦闘能力のあるアザーズたちは一斉にイカへと攻撃を始めた。
「水鉄砲っ!」
「同じく水鉄砲っ!」
叫び声と共に水城と川井の腕から打ち出された海水の固まりはイカの頭にぶつかってばしゃりと弾けとんだ。
「もういっちょ水鉄砲!」
「懲りずに水鉄砲!」
「いい加減懲りろ!」
もう一度海水の塊を打ち出そうとした水城と川井の頭を、英香はポカンと小さな拳骨でなぐりつける
「いてぇよ南ぃ・・・」
「相手はイカなのよ?水ぶつけたってしょうがないでしょうが!あなた達の力じゃ水圧で物が切れる程の流れは作れないし」
川井友則は殴られた頭を抑えて口を尖らせる。
「だってよぉ、俺達他に能力ないし・・・」
「馬鹿力があるでしょうが!いつも相撲ばっかしてるのはなんなの!?」
「おお、そういえば」
ぽんっと手を打つ水城修一にため息をつき、英香はびしっとイカを指差す。
「攻撃は他の人たちに任せてあんた達は足の一本も押さえつけなさい!」
「おうっ!その程度俺一人で十分だ!見ててくれよ南っ!」
「あ、くそっ!抜け駆けするのか修一ぃ!」
我先にとイカに飛び掛り、そのままあっさりと殴り倒されて水に浮かぶ二人を遠目に見て英香は一人頭を抱える。
「・・・まったく、もう」
ため息をつき、英香は一人水に入った。海水に両腕を浸すと、肌にざわりと鱗が生える。
「イメージ悪いし、やりたくないのに・・・」
呟き、ばしゃりと腕を持ち上げると直径30センチほどの海水がプルプルと震えながら球状になって持ち上がる。
「たっ!」
そして、鋭い声と共に海水は刃と化して撃ち出された。
ズパンッ・・・!
「なんだぁっ!?」
登場から3秒でダウンした水城&川井を追いかけるように撃ち込まれてきた何かが暴れまわるイカの足のうち一本にざっくりと切り傷を作ったのを見て乾は思わず声を上げていた。
「今のは南さんの水槍っすね!」
神戸は叫びながら水を吸い込んで重くなった投網を振り回す。ひとまとまりになったそれの一撃は鉄槌に等しい。
『キシャアアアアア!』
『足の本数の差が絶対的な戦力差でない事を教えてやる』
イカがひるんだのを見てタコは攻める手を激しくした。槍のように鋭く足を突きだし、イカの目を狙う。
「キシャっ!」
だが、イカもまた残る腕を防御に回してその攻めに対抗する。
「くっ・・・もう少しなのだが・・・!」
美龍はイカの足を両腕で抱えて動きを封じながら呻く。他の者達も傷をつけ、押さえ込むところまでは行くのだが、どうにも決定打が出ない。
「武器は・・・ホテルだしな・・・」
歯噛みし、激しいうねりに弾き飛ばされそうになったときだった。
「またせたな美龍。受け取りな・・・!」
ハスキーな声と共に、何かが空を切る音が美龍の耳に届く。
「む!?」
反射的に美龍はイカの足から手を離してばっと飛びのいた。そのまま音を頼りに手を伸ばし・・・
パシンッ・・・!
軽い音と共に、掌へ伝わる確かな感触。
「これは・・・我が青龍円月刀っ!」
「シュピーゲルに頼まれてひとっ走り取ってきたぜ」
海辺でニヤリと笑っているのは早井翔子だ。車に徒競走で勝てるといわれる快速少女の表情はホテルまで全力疾走で往復したとは思えない。
「恩にきるっ!・・・行くぞ乾っ!」
「おうよっ!」
それを見て乾はイカの足のうち一本に大きく踏み込んだ。
「援護するっす!」
殴り倒そうとする他の足を投網が、水の刃が、鬼の正拳突きが、そして氷の柱が防ぐのを横目に鋭いアッパーカットで目標の足を頭上に打ち上げる。
「よし、行け伊成!」
「こん!」
乾の呼び声に答え、伊成はひときわ大きい狐火を頭上に灯して勢いよくイカに叩き付けた。
『キェェェェェッ!』
甲高い悲鳴と共に足の根元辺りが白く焼け焦げ・・・
「悪く思うなよ・・・!」
硬化したそこを、鈍く光る美龍の刃が一息に両断した!
『キシャゥァアアッ!』
更に悲鳴を上げてイカの全身が硬直した瞬間。それを待っていたタコがすかさずその身体をめった打ちにする。
『戦いとは二手三手先を読んでするものだ!』
勝ち誇った声(?)と共にタコはよろめいたイカの胴体にぐるりと足を巻きつける。
「キゥ、シャアッ!」
必死に暴れるイカを引きずり、タコはずるずると後退を始めた。
『サボテンの花が咲いている・・・』
謎の台詞と共にイカとタコの巨体がゆっくりと海の底へと消えていく。
「・・・勝った・・・のか?」
乾は去って行く二大軟体類を遠い目で見つめ、ふと呟いた。
「・・・森永、そろそろ飛び降りねぇと一緒に海底行きだぞ・・・」
「はやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
<大浴場と少女達・偽者と魔眼・死亡遊戯>
水際での死闘になってしまった午前中とはうって変わって穏やかな水遊びに終始した午後も過ぎ、ホテルに戻ってきた生徒達は、今度は大浴場で騒いでいた。
「はぇぇぇ・・・水を飲みすぎたお腹がまだたぷたぷするです・・・」
「はっはっは。だが、溺れかけた後の泳ぎは見事だったぞ。怪我の功名というものだな」
腹の辺りをさすりながらぼやく愛子に美龍は機嫌よく笑いながらそう言い、自らの腿に座って頭を揺らしている伊成を撫でる。
「大丈夫?森永さん。あんまり辛いようだったら私が水を抜いてあげるけど?」
「あぅ、お心遣い感謝さんです〜」
心配げに覗き込む英香にくたんっと頭を下げてから愛子はふと浴槽の端に視線を向けた。そこに、ぼぅっと天井を眺めるヒライユミが居る。
「どうしましたです?」
「ん?」
浴槽に腰掛け、足だけをお湯に浸していたヒライは隣に座った愛子に微笑みの顔を向ける。
「・・・なんだか、寂しそうに見えるです」
「うーん・・・見えちゃうかな」
ヒライは笑顔のままで首を捻った。表情は、一片の憂いも感じさせない。
「すいません。見えちゃうです」
しかし、愛子はきっぱりと言い切った。風呂場に満ちた喧騒の中で二人の間にだけ静かな空気が流れる。
「ん・・・みんな、リアルに生きてるなぁ、とか思ちゃうからかな」
「リアルに、ですか?」
「うん、愛子ちゃんも含めて自分らしく生きてるね」
ヒライは足元のお湯をぱしゃんとかき混ぜる。
「自嘲っていうのでもないんだけど、ヒライって完全に作り物だからね。自分がなんなのか、ちょっと疑問かな」
「個人的な抗議をさせていただければ、それは我々自動人形をはじめとしたアーティファクト系アザーズへの挑戦ですか?」
割り込んできたのはトゥエニィだった。無表情な中に、やや非難するような表情が覗える。
「ごめんなさい。そういう意味じゃないよ。乙女ちゃんは、乙女ちゃんとして作られてるわけでしょ?ちゃんとオリジナルでリアルだよ」
「・・・個人的に証明させて頂ければ、ヒライ様自身に対してもオリジナルであるという証拠は数多く存在します。それと、乙女ちゃんとは・・・私のことでしょうか?」
ヒライはにこっと微笑みピッと指を立てる。
「メイデンでしょ?そのまま訳すと卑猥だからちょっと捻って乙女ちゃん」
「・・・別に、なんと呼称されようと構いませんが・・・」
言いながらも納得いかない表情で湯につかるトゥエニィにひとしきり笑みを向けてからヒライは愛子に向き直った。
「愛子ちゃんの目に・・・ヒライは本物として映ってるのかな?」
「はいですよ?もちろんさんです」
「・・・そっか」
ヒライは頷いて慎重に湯の中へ身を滑らせる。
「・・・それを、素直に信じられればいいんだけれど」
呟きに愛子は問いを放ちかけ・・・
「あれ?です?」
不思議そうな顔で首をかしげた。
「なんでしょうです?あれあれ?です」
しきりに首を捻りながら雪乃の元に向かう。
「雪乃さん、雪乃さん」
「はいぃ〜・・・なんですの?愛子さん〜」
湯に肩までつかり、冷却水の入った魔法瓶片手に温泉を満喫していた雪乃はほろ酔い加減といった様子で愛子の方に顔を向ける。
「あのですね?向こうの窓・・・擦りガラスなんですけど・・・なんだか、不思議な力が集まってるです。それと、向こう側に誰か居るですよ?」
「誰かって〜、誰ですのぉ?」
「っ!・・・そうか!」
半分とろけてキャラクターの変わっている雪乃の代わりに、美龍が勢い良く立ち上がった。
「伊成!破幻だ!あの窓に使え」
「こん?」
伊成は美龍の太ももから転げ落ち、ぺたんと湯船の中に座った状態のままひょいっと両腕を窓に向けた。
途端。
ぼんッ・・・!
固く閉じられていたはずの窓が、白煙と共に消えうせる。
「わわわっ!窓が壊れたです!?」
「違うっ!窓は最初から開いていたのだ!我々が窓だと思っていたのは術で作られた幻覚だ!見ろ!」
びしっと指差された窓の外。今や外が丸見えのそこに・・・硬直している数人の男子が・・・
「き・・・」
最初の一音は誰のものだったのか。
「きゃあああああああああああああああああっ!」
瞬間。大浴場の中に、絹を引き裂くような悲鳴が響き渡った。
「や、やばいっ!逃げるぞ!」
「逃がしませんわよっ!雪嵐っっっ!」
少年達が身を翻すと同時に強烈な・・・昼間タコに使ったのよりも強い凍気が嵐となって襲い掛かる。酔っ払いに自制心はない。
「我々に覗きをかけようなどとは命知らずの奴らめ」
氷の嵐に弾き飛ばされた少年達を美龍は窓から身を乗り出して引っ張り込んだ。
「あの、関さん・・・タオルぐらい巻いたらどう?」
恥らう様子もなく均整の取れた身体をさらしている美龍に一足早く脱衣所に逃げ込んで着替えを済ました英香がバスタオルを差し出す。
「うむ。まあ、そう言うなら」
美龍は手早くバスタオルを身体に巻きつけて覗き男達に視線を向けた。
「ほぅ、田抜・・・さっきの幻術は貴様の技か」
「お、俺は頼まれて術を使っただけなんだ!」
「他は・・・赤井に夜野、そして川井に水城か」
言い訳に耳を貸さず美龍は少年達を睥睨する。
「あ、あれだぞ南!違うんだこれは!修一が覗こうとするのを俺は止めようとしてたんだ!」
「何ぃ!お、おまえが先に言い出したんだろうが!」
「アレは冗談だ!おまえそれでノリノリにな・・・って・・・」
つかみ合いの喧嘩を始めようとした二人は不意に動きを止め、ゆっくり、ゆっくりと英香を見上げた。
「・・・大嫌い」
ぼそりと、呟く声。二人を見下ろす英香の目は汚物を見るそれに等しい。
「南ぃぃぃぃぃっ!許してくれぇええええええええ!」
「大嫌い」
今度はきっぱりと言われて二人の少年はパカッと口を開いて脱力した。何か魂が出てるような気もする。
それを眺めて腕組みしながら美龍はむぅと唸った。
「覗くのは構わん。だが、幻を使って安全に見ようという性根がいかん!」
「覗くだけで十分死に値しますわっ!気持ちよくくつろいでたのが台無しですわっ!」
「でも、勢いはわりと大事ッすから」
どこかずれた会話をよそに早井翔子は男子達に冷たい視線を突き刺す。
「んで?死ぬ前に何か言い残すことはあるのか?あ?」
その目に宿る本気光線に仲間達が硬直する中でインキュバス(淫魔)の夜野はきっぱりと言い切った。
「このメンバーの裸が見れるなら、地獄行きも悪くないかな」
「死刑」
その後、何が行われたのかに関しては誰も話そうとしなかった。
少女達はもちろん何も言わなかったし、少年達は次の朝まで帰ってくることはなかったからである。
「僕ほどになればアレはアレで快感なんだけどね」
翌日の昼前になってようやく姿を現した夜野春人の台詞だけが・・・
<神戸由綺・父の背中・見通す瞳>
翌日。
「なあ神戸・・・昨日のイカ・・・確か毎年この季節になったら来るとか行ってなかったか?」
「そうっすよ。30年間かかさず来てるッす。地元の人達大弱りっす」
あっさりと言われて乾はうげぇと額を押さえる。
「マジかよ・・・今年は俺達が居たからいいけどよ、いつもはどうしてんだ?荒らされるままか?」
「一昨年はうちの委員長がお兄さんと一緒に火力で圧倒したっす。いやあ、あの芸術的な地雷と水雷のコンビネーション、見せたかったっす!」
「銃刀法違反、カコイイ!」
乾達4人にヒライと神戸を加えた6人組は海水浴とは程遠い水中戦の後ホテルで昼食をとり、土産を買うために商店街へやってきていた。
「・・・で?去年は?」
「去年は知り合いの先輩が一対一で追い返したっす。一本欠けてたあの足はそのとき木刀で切り落としたものっすよ」
思わぬ台詞に乾の足が止まる。
「・・・そいつ、アザーズか?」
「いえ、人間っすよ?剣術部主将、風間恭一郎先輩っす」
「聞いたことがありますね。その戦闘能力は六合学園でも最強に近いとか・・・」
ナインの説明に乾は疑わしげに眉をひそめた。
「んなこと言っても人間だろ?アザーズが10人近くで戦ってやっと追い返したっつーのに」
「そうでもないですね。人間の武術家や魔術師は訓練されていないアザーズよりずっと強くなりますよ」
「・・・それって、経験が語ってるの?シュピちゃん」
ヒライの探りにナインは肩をすくめて答える。
「ええ。魔女狩りの頃には、ずいぶんと非道い目にあいましたのでね」
「人間が、なぁ・・・」
なおも信じられないというような顔をしていた乾はしばらくしてまあいいかと肩をすくめた。
「その風間って先輩、まだ六合学園に居るのか?神戸」
「うぃっす。3年生っすよ」
それを聞いてパンッと拳を掌に打ち付ける。
「よし、それならいずれ腕前を見に行きゃあすむ話だ!」
「そうっすね。多分話も合うと思うっすよ?キャラが近いから・・・」
その言葉に乾はふぅんと頷き、ふと首を捻った。
「ちょっと待て。確かおまえの親父もあのイカを一対一で撃退した猛者だって言ってなかったか?ひょっとしてその先輩がおまえの親父か?」
「・・・・・・」
瞬間、雪乃はため息まじりに乾の後頭部をはたき倒す。
「一歳のときの子供だとでもいうんですの?馬鹿犬」
「ってぇな!アザーズってのは親から生まれない方が多いんだよ!俺やてめぇが特殊なんであって、うちのクラスだって半分くらいは親なんてもんは居ねぇんだこの常識無しが!」
痛烈な反撃を喰らって雪乃はうっと後ずさった。
「そ、そうなん・・・ですの・・・?」
「そうっすよ。どっちかというと生き物じゃないアザーズの方が多いッすから」
神戸は頷き、それから苦笑した。
「それはともかく、風間先輩はボクの父さんとは別人っすよ。ボクは海岸に捨てられてたんで実の親ではないっすけど、この町で漁師をしていた父さんが、ちゃんと居たっす」
過去形の説明に雪乃は思わず目を伏せる。
「鬼籍に・・・入られているのですね」
「・・・はいっす。誰よりも強くて、誰よりも真っ直ぐで、誰よりも思い込みの激しい人だったっす・・・」
微妙な述懐に雪乃はつっこみを入れたい衝動に駆られたがぐっと我慢した。
「お父様のこと、大好きでしたのね・・・」
「そうっすね・・・みんなの船を守る為に父さんは捨て身で嵐の海に挑んで・・・そのまま帰ってこなかったっすけど・・・ボクは、父さんを誇りに思うっす」
神戸がそう言って笑った瞬間だった。
「おや、由綺君じゃないか」
背後からかけられた声に。
「っ・・・!」
神戸の顔が、嫌悪に凍りついた。
「神戸?」
今まで見たことのないその表情に戸惑う乾を無視して神戸はゆっくりと振り返る。
「帰ってきていたなら訪ねてくれればいいのに。水臭いじゃないか」
そこに立っていたのは、無闇に高級そうなスーツを着た男だった。人の良さそうな笑顔を顔に貼り付けているが、脇に立っている大柄なサングラス男がその印象を極端にうさんくさくしている。
「・・・あの、この方々はどちらさまですの?」
雪乃は眉をひそめたまま神戸に声をかける。表情には嫌悪感が強い。
「・・・片岡修二。この町の、いわゆる有力者って奴っす」
神戸は吐き捨てるように言って片岡を睨んだ。
「片岡さん、ボクに近づかないでほしいって言ってある筈っす」
「冷たいこと言わないで欲しいな。君の家とは古い付き合いなんだよ」
「知ってるっす。だからこそ、あなたのことは許せないっす」
常に笑顔の、元気のよさと勢いが売りの少女なだけにその言葉に含まれている棘が、酷く痛い。
「・・・私は君と君のお母さんを守ってあげたいと思っている。それは信じて欲しい」
片岡の声が、やや低くなってきた。
「ボクも母さんも、あなたにだけは世話になるつもりはないっす」
あまりにかたくなな台詞に誰も口を挟めないうちに片山と神戸の間の空気は急速に熱を帯びてくる。
「私の援助を受ければ君だってその年で働かなくてすむんだぞ!?」
「ボク達は自分達の力だけでやっていくっす!大きなお世話っす!どんなになったってあなたにだけは、絶対頼らない!」
片山は苛立たしげに煙草を取り出し、火をつけないまま苛立たしげな顔でそれをポケットにねじ込む。
「一体何が気に入らないというのだ!私は・・・」
「何が!?何がって言うッすか!?」
神戸は片山の声を遮って地団駄を踏んだ。
「父さんを見殺しにしたあなたのどこを気に入れって言うっすか!」
風が、動きを止めたように思えた。
まだ昼まで時間のある商店街には人通りがほとんどない。住民も、それぞれの店や家に閉じこもり出てくる様子がない。
呆然とする4人のアザーズと、激しく睨みあっている神戸達、そして表情を決めかねている一人の少女だけが、そこに居る。
「あの日・・・いきなり進路を変えた台風から船を守る為に父さんは港に向かったっす!一人で全ての船を固定するなんて不可能に近かったのに!あなたが一声かけてくれれば、みんな協力してくれたはずだったのに!なんであの時!ボクがかけた電話を無視したっすか!」
「そんな危険なことに人を出せるか!船など壊れれば直せばいいだろうが!」
「そんなお金どこにあるって言うんすか!みんな燃料代だって苦労してるんすよ!?あなたが貸してくれるんすか!?」
片山は答えられず唇の端を引きつらせる。
「いつも口ばかりで・・・!行動できないあんたなんか・・・ボクは大嫌いだ!」
叩きつけるような叫びに反応したのはサングラス男だった。
「この餓鬼!黙ってれば先生に言いたい放題っ!」
「おい!け、怪我はさせるなよ!」
慌てて叫ぶ片岡の声より早く男の腕が神戸の小柄な身体に伸びる。
しかし。
「そうはいかねぇぜ?」
「レディにとる態度じゃないね」
二つの声と共に二つの腕がそれを封じ込めた。伸ばした腕を両側から掴み止める。
「いけないね君達。雇い主の意図を汲めないバウンサーなど二流もいいところ・・・おい、隼人待て!」
肩をすくめて言いかけてナインは慌てて叫び声をあげた。
「うるせぇっ!」
男の暴挙を止めるだけでやめていたナインを無視して乾は自分が腕を掴み止めた男のわき腹へ躊躇なく右の拳を叩き込んだ。
「ぐげっ・・・!」
男は唾液と苦鳴を吐き出してがくっと膝をつく。
「まったく・・・こちらから手を出してどうするんですの?」
やれやれと言った口調を作りながらも頬を緩める雪乃とは対照的に、ついさっきまでの激昂から醒めた神戸はきょとんとした顔のまま硬直した。ポカンとしたまま乾とナインを交互に見つめる。
「な、なんてことをするんだおまえ達は!事情も知らずに!」
「・・・確かに、事情って奴は知らねぇけどな」
乾は怒りで引きつる口元を何とか嘲笑の形に持ち上げ、歯の隙間から言葉を押し出す。
「それでも、俺は神戸を知っている。こいつがどういう奴か知っている。信用できるってことがわかっている。こいつは・・・」
一歩前に踏み出して乾は片山の視線から少女の小柄な体を遮った。そしてきっぱりと告げる。
「こいつは、物凄く馬鹿だ」
風が、ひゅるりらと吹き抜けた。
「・・・酷いッす・・・感動しかけたのに、何もかも台無しっす・・・」
泣きそうなほどがっくりとうなだれる神戸に構わず乾は真っ直ぐ片岡を睨む。
「だから、てめぇ見たいな狡賢い奴の数百倍信じられる。こいつが怒るような相手なら、俺も一緒に怒ってやれる。そういう馬鹿が・・・」
ちらりと神戸に視線をやり、乾はきっぱりと言い切った。
「俺は、好きだ!」
「ぬきゃっ!?」
瞬間、神戸は奇声を上げて大赤面する。
「・・・へー?」
刹那、雪乃が背筋の凍りつくような声で呟く。
「?・・・!?・・・馬鹿!そういうのじゃねぇ!」
数秒の沈黙を経て乾は自分の言葉の意味に気づき慌てて叫んだ。
遅い。致命的に遅い。
少女達の電撃リアクションに対し、そのフォローはあくまで後手に回ってしまう。
「ぼ、ボボボボボク、そ、そういうのはよ、よく、よくわかんないっす!あわわわわわ・・・」
「・・・ほー?」
「だから!違うっつってんだろうがよぉてめぇらは!決め台詞くらいかっこよく言わせろよ!こら、聞いてんのか!?」
一方、ゴロツキはいきなり話の中心から振り落とされて呆然としていたが・・・
「てめぇが聞いてんのか!?あぁ!?」
殴られた腹の痛みが薄れると共に気を取り直したように叫び始めた。
「ふん!い、いいんじゃないですの?不破さんやら神戸さんやらとっかえひっかえすべったりころんだり・・・」
「だぁああっ!なんなんだよさっきから!なんでてめぇがそんなに怒ってんだ!」
「・・・本気で言ってるのかい?隼人・・・」
「まぁ、隼人ちゃんはそこが萌えどころだからね」
だが、それどころではない少年達にきっぱりと無視されてサングラス越しの目がどす黒い怒りで染まる。
彼らにとって怖がらせることは仕事であり、その容姿は芸能人などとは違う意味で商売道具なのだ。それが通用しないことは最大の屈辱である。信用にも関わる。
「この、この餓鬼・・・!」
「うるせぇ!こっちはそれどころじゃねぇんだ!見りゃわかんだろ!?」
その声が、本当に自分達に向けられたのかをゴロツキは一瞬理解できなかった。幹部といわれるような大物ではないにしろ、腕っ節の強さだけでやってきたのだ。
その自分達が、学生ごときに無視されている?殴られたままで?
「殺す・・・!」
「よ、よせ!街中でそこまでの騒ぎを起こすな!」
男の目が凶暴に光るのを見て片山は思わずゴロツキの肩に手をかけた。しかし・・・
「邪魔すんじゃねえ!」
「ぐわっ!」
目を怒りに濁らせているゴロツキに突き飛ばされベタリとしりもちをつく。戸惑いと恐怖の表情が何よりもこの状況の危険さを語っていた。
「死ねコラァあっ!」
男は唾を飛ばしながら懐に手を入れ短刀・・・いわゆるドスを抜き放つ。鈍い光に片山はひぃっ!と悲鳴を上げてずるずると後ずさる。
「おっさん、それ出した以上、覚悟は出来てんだな?」
「ぐ・・・」
刃物を見ても尚、嘲笑と怒りの表情を崩さない乾に男は血管が切れそうなほど紅潮した。
「ぁあああああああああっ!」
そして、残り僅かな理性を全て失い、奇声を上げて乾に飛び掛る。
「へっ・・・手ぇ出すなよ?ナイン」
「わかってますよ。俺は隼人ほど物好きじゃありませんからね」
対する乾は軽く首を鳴らしてから、すっと一歩前に出た。
「死ねや餓鬼がぁっ!」
「はっ!強いか弱いかに関係ねぇだろうが年なんてよぉっ!」
男のナイフが乾の二の腕を軽く裂いて背後へと流れ・・・
「そぅりゃあああっ!」
体重の全てをこめた乾の右拳が、ゴロツキの顔面に食い込んだ。
「ぶっ・・・!」
鼻血を撒き散らしながらゴロツキは大きく吹き飛び、通りに大の字になって倒れる。気絶はしていないようだが、精神的なダメージは彼から立ち上がる気力を根こそぎ奪っていた。
「ふむ・・・まあ、80点くらいですかね」
「あん?どこの国の採点だ?」
軽口を叩き合うナインと乾を、地面にへたりこんだままの片岡は怯えた目で見つめる。
「お、お前達は何者なんだ・・・!」
「きまってんだろうが」
乾はニヤリと笑って肩をすくめた。
「ただの、クラスメートだ」
「わ、わかってるんだろうな!?こんなこと・・・ただではすまさんぞ!?」
片山の震えがちな台詞にナインはにっこりと冷たい微笑みを浮かべる。
「ええ。それがどうしました?」
「仲間助けるのに後先考える程賢くねぇんだよ俺はな」
「ん〜、でも、傷害事件はまずいかな」
そこに、しばらく静かになっていたヒライが口を挟んだ。口元には面白がっているような笑みが、目には遠くを見通すような光が宿っている。
「ねえ片山さん?まさかこのことを広めたりしないよね?」
「な・・・」
何を!?と言う憤慨の声をヒライは素早く遮る。
「しないよね?縦浜地方銀行の口座番号645231894327に毎年2400万円ほど振り込んでもらってる片山さん?」
瞬間、片山の顔色が青白く変色した。
「何故それを・・・!」
「記録って、どこにでも転がってるからね。ちなみに片山さんが昨日の夜ネットサーフィンしてた先は・・・をを、『ロリータ予備校』?幼女愛、カコイイ!」
「わあああああああああああ!言うなあああああああああああああ!」
絶叫でヒライの言葉を肯定してしまった片山はブルブルと震えて黙り込んでしまった。
「あなたの全データはヒライにとっては丸見えだよ?セキュリティはもっとしっかりした方がいいと思うなぁ」
ピッと人差し指を立ててウィンクしたヒライとがっくりとうなだれた片山を見て乾達はそれぞれの表情で笑う。
いまだ固めの表情をしている神戸さえ僅かに笑みを浮かべ、誰もが・・・片山でさえ事態の終結を感じていた。
一人の少女が、ゆっくりと首を振るまでは。
「あのですね?」
森永愛子は見るものを和ませる独特の笑顔で口を開く。その瞳を・・・金の光を宿す瞳を、片山に向けて。
「謝りたい時には、早く謝ってしまったほうがいいですよ?時間がたつとどうしても、素直になれなくなってしまいますですから」
意外な台詞に、その場に居た全員が・・・片岡でさえ疑問の視線を愛子に向ける。
「なにがっすか?森永さん。片山さんが何をどう謝りたがるって言うんすか!?この男は・・・」
「この人は、神戸さんのおとーさんの・・・お友達ですよね?」
「む、昔はそうだったっすよ!?でも・・・!」
もどかしそうに叫ぶ神戸に愛子は微笑み、片山へ再度視線を向ける。
「神戸さんは優しい人です。ちゃんと言えば、許してくれるですよ。怖がらなくても、大丈夫ですから」
「わ、私は別に・・・」
戸惑いの表情を浮かべて地面へ座り込んだまま動けない片山の前に愛子はぺたんと正座する。
「おかーさんが言ってたです。後悔は掛け算で増えてくって。ちくちくする思い出が、どんどん増えてくって。それを誤魔化す為にしたことがまた後悔をふやして、どうしようもなくなるんだって」
真っ直ぐに見つめてくる少女の瞳に、引き込まれるように片山はぱくぱくと口を開け閉じする。
「森永さん!その人には何を言ったって無駄っすよ・・・!」
「神戸さん、ちょっとお待ちなさい。愛子さんがあの目をしているときは、邪魔をしてはいけませんのよ」
叫ぶ神戸を引き止めて雪乃は静かに愛子を見守る。
「片山さん。黙っていては、許してもらえるはずないです。神戸さんとその家族さん達が好きなら、怖がっていては駄目です」
愛子は優しく微笑む。
「大丈夫ですよ。わたしには、ちゃんと見えてるです。あなたの想い・・・」
「っ・・・!」
その一言が、引き金だった。片山はバネ仕掛けのような動きでビタンっと土下座をする。
「すまなかった!由綺君!」
「な・・・今更謝られたって・・・!」
「私は・・・博則・・・君のお父さんが亡くなったとき・・・あの港に居たのだ!」
神戸の動きが止まった。その言葉の意味を理解できず、戸惑う。
「あいつが船を固定しに飛び出していったと聞いて私はその後を追ったのだ・・・皆のことなど考えていなかったのは事実だ。それぞれ勝手に直せばいいと思っていた私は馬鹿なことはよせと言おうとしていた」
歯止めのきかない吐露は続く。
「私がついたとき・・・あいつは既に半分の半分を固定し終えていた・・・嵐の中、一人でだ。私はそれを見てひょっとしたらこのまま上手く行くのではなどと思って・・・だが、ひときわ高い波があいつを攫っていった・・・」
「・・・それで、あなたはそのときどうしたんですか?」
ナインは半ば答えを予想しながら尋ねてみた。
「私は・・・嵐が勢力を増す中、何も出来ず座り込んでいた。ちょうど今のように・・・海に飛び込めば、あいつを助けられたかもしれない。すぐに引き返せば人を出すことも可能だっただろう。だが・・・私はどちらもできなかったのだ!すまない・・・私は・・・君のお父さんのような勇敢な男には・・・なれなかったんだ・・・」
神戸は黙ってそれを聞き終え、やがて・・・
「・・・同じっすよ」
ポツリと呟いて、自らもその場にへたり込んだ。
「ボクも・・・ボクも、父さんが海に行ったのを知ってて何も出来なかったっすから・・・だから今更父さんみたいになろうって・・・」
「君は・・・子供だったじゃないか・・・何も悪くなどない」
目を合わせられないままに言う片岡に、こちらも視線は地面に向けたまま神戸は首を振る。
「ボクは溺れるはずがないっす。それなのに、何もしなかったんすよ。父さんなら大丈夫だって甘えて・・・」
互いに気づいてしまった自己嫌悪があたりに沈黙を満たす。
その、居心地の悪い空間を打ち破ったのは、意外にも乾だった。
「なら、やることは決まってるだろ?」
言いながら、座り込んでいる神戸の腕を取り、無理矢理立たす。
「い、乾さん?何するっすか?」
「あいつは謝ったんだろ?なら、今度はお前がどうするか、だ。許すのか、突き放すのか・・・おまえが決めろよ」
神戸由綺は乾を見、愛子を見、そして片山に視線を見つめ・・・
「・・・もう、いいっす・・・まだ、しばらくは許すなんていえないっすけど・・・」
かすれる声で呟いた。
「声が小せぇぞ!勢いってのがわりと大事なんだろ!?」
乾は即座にその背を叩いた。押しているつもりなのかもしれないが、響いた音は打撃音に近い。
「っぶ!・・・や、ややや、わりと本気で痛かったっす・・・」
「い、いいからもっとでけぇ声で言えって!」
「・・・馬鹿犬」
雪乃の呟きに乾はあさっての方向を向いて黙り込む。こういうとき、下手に喋ると事態が悪化するのをようやく理解してきたのだ。
もっとも、解したからといってどうしようもないのが性格でありキャラクターなのだが。
「・・・・・・」
神戸は愛子の方へ目を向けた。救いを求めるようにこちらを見上げている片山の傍に正座したままの愛子は、顔をこちらにむけにこっと笑って頷く。
だから。
「OKっす!」
神戸は無理矢理な勢いでガッツポーズを取った。
「ゆ、由綺君?」
彼女のキャラクターに触れたことのない片山が戸惑いの表情を浮かべる中、腰に手を当ててから笑いなどしてみる。
「もうこうなった以上ノリで勝負っす!海の男は細かいこと気にしちゃいけないっす!全部海に流すっす!」
外面を装うことで、内面が満たされることもある。今度こそ本当に、笑うことが出来た。
「ゆ、由綺君っ・・・!」
片山はその言葉に感極まったのかがばっと起き上がり神戸に抱きつこうと手を伸ばした。
「調子に乗っちゃ駄目っす!」
しかし、その顎を真下から飛び上がるようにして突き上げられた神戸の拳が強打する。
「あれは!カエル跳びアッパー!」
「ゆ、由綺・・・くん・・・何故に・・・」
伸び上がるように吹き飛び、ゴロツキの隣で動かなくなった男を見下ろして神戸はぐっと拳を突き上げる。
「これで、チャラにするっすよ!」
「・・・片岡さん、気絶してますわよ?」
「鍛えてねぇからだな。今のアッパー、体重が3割くらい逃げてたぞ。あの程度で気絶するたぁ情けない」
神戸は賑やかな友人達に囲まれ、暖かな瞳に見守られ・・・これまでになく気分よい自分に気づいた。
(・・・父さんの言うとおりっすね。自分、初心を忘れてたっす)
「まあ、なんと言っても、勢いが大事ッすから!」
<ヒライユミ・自嘲する偽者達・微笑み>
臨海学校最後の夜。ホテル最上階のバーに一組の男女の姿があった。
「・・・ジントニックを」
「カルーアミルクお願いね」
二人はカウンターに腰掛け、マスターにそれぞれの注文をすます。
「ジントニックとカルーアミルクです」
マスターは手早く注文のカクテルを作ってその男女の前に出した。二人とも相当美形だ。女の方にはどこか見覚えがあるような気がする。
「・・・乾杯」
グラスを合わせた二人はナインとヒライだった。外見年齢は20代のヒライにあわせてナインも大人の身体を使用している。
「結局あれこそが彼女の彼女たる所以なんだね」
ぽつりと呟いたナインの言葉に、両手でグラスを持ったヒライはくいっと首をかしげる。
「例の悪いお金持ちとの一件?」
「ええ。俺や隼人の制圧に対し、彼女の行動は救済を目的としていたはずです。ただ、片山という男はともかく本当に神戸さんは救われているのでしょうかね?」
グラスに口をつけ、ヒライは天井に視線をそらす。
「シュピーゲルちゃんは、現実が見えすぎているね」
「俺が?森永さんではなく?」
意外そうな声にプログラム仕掛けの少女は肯定の頷きを返した。
「ヒライもね、結局神戸ちゃんは失ったモノを取り返してないって思うよ」
喉を通る甘い感触に目を細めてヒライは言葉を続ける。
「でも、神戸ちゃんの中では悲しみとか怒りとか、いろんなものが過去のものとして処理されちゃったのね。だから、それを感じ取った乾ちゃんもあっさり励ます側に回ったでしょ?」
「・・・隼人は理性より直感を重視するタイプですからね」
相槌と共にナインもグラスを傾ける。どれだけ飲んだところで酔うという事はない身体だが、味は嫌いではない。
「そして、ヒライやシュピーゲルちゃんは理詰めで物事を処理していくタイプ。しかもヒライは過去のデータやネットワークの情報と比較して判断するだけなんだけど、シュピーゲルちゃんは自分の経験から演繹処理して先を見ることが出来るから特に引っかかってるんだと思う」
「・・・そんな大層なもんじゃありませんよ」
苦笑し、グラスをカウンターに置く。
「なるほど。だから俺達はこの結末に納得がいかず、当の本人や隼人たちはそれですっきりしてる、と。確かにあの男に反撃しただけで解決とは呼べなかったでしょうし・・・」
「うん。あの片山って男、確かに裏で色々やってるけど・・・神戸ちゃんのお父さんが死んだのとは本来関係ないもんね。どちらかというと、神戸ちゃんの逆恨みって言えるかも」
ヒライは何気なく言ってから顔をしかめた。
「いまの、ヒライ内部でモラル違反の判定が出たよ。神戸ちゃんの『気持ち』ってのを無視した発言。やっぱり・・・この辺がリアルの人たちと違うとこなのかな・・・」
「・・・人間だって人種、年代、地方、職種、ありとあらゆる要素で常識や倫理観の内容は変わります。俺の能力の一つにそれらの擬態があるので、それは確かです。事実今の俺は日本の十代後半の男性として不自然ではないでしょう?」
ナインは軽く笑う。嘲るような表情は、おそらく自分に向けたものだろう。視線は壁に向けられているが、何も見ていない。
「そういう意味では君の形質の方が救いがあるよ。感情表現サンプルさえ更新し続ければそれを関連付けることでリアル側へ移行できる。僕の場合は形質が固まっているからこれ以上の進化は望めないけどまだ君の形質は変化するよ。大丈夫」
「・・・シュピーゲル君の形質は人間のコピーでしょ?解析できなくったってそれはリアルだよ。ヒライにはそっちの方が救いがあると思えるけど・・・」
「う〜ん、っということは、お二人さんともリアルってことですね〜」
「あれ?シュピーゲルちゃんいきなり声が高くなったね・・・って森永ちゃんだよ!?」
両手を真上へと振り上げて驚くヒライにナインは苦笑を漏らす。
「ノリ突っ込み・・・なかなかのものだね。ヒライさん」
「この学園来てからボケ・つっこみ関連のデータは豊富に採集できてるから・・・っと、それより森永ちゃん、なんでここに?」
いつの間に現れたのか、ナインの横に座っていた愛子はふにゃっと笑った。
「はいです。昨日に続いて今日もわたし達の部屋が大宴会場になったので、お二人も一緒にどうかと思って呼びに来たです」
そして、はっと目を見開く。
「あ、ひょ、ひょっとしなくてもお邪魔さんだったですか?言ってくれれば3秒で消えるです!」
「・・・いえ、俺は別に構いませんよ。ヒライさんはどうです?」
「ヒライも問題ないよ・・・あ、すいません。この娘になにか飲み物もらえます?」
マスターが無言で置いていったオレンジ色の飲み物をありがとうございますと言って手に取り、愛子は軽く首をかしげた。
「ところで、どうしたんです?お二人で」
「・・・まあ、愚痴の言い合い、ですかね?」
「森永ちゃんに隠し事しても多分無駄だからいっちゃうと、今日の一件でヒライたちの偽物コンプレックスに火がついちゃったってことかな」
ややもすると自虐的な台詞に愛子は『はぁ』とよくわからない顔でまばたきする。
「あの、よくわからないですけど、そうするとナインさんやヒライさんの本物さんがどこかに居るんでしょうか?」
ナインとヒライは思いがけない言葉を聴いて顔を見合わせた。
「・・・俺のキャラクターは全て、これまでに出会った誰かのコピーですよ」
「ヒライは言うまでもなく某デジタルアイドルのあの人ね」
対する愛子は不思議顔のままで『ん〜』と唸る。
「でも、その人たちはその人たちにとっての本物さんです。ナインさんを名乗る人も、ヒライさんを名乗る人も居ないですよ?」
「・・・それは、そうなんだけど」
ヒライの戸惑いを受け、愛子は大きく頷いた。
「おかーさんも言ってたです。変数Xにはどんな数字も入るけど、結局XはXなんだって。逆にどれだけ変数がいっぱいあっても別の名前なら全て別の変数なんです」
ゆっくりと、嬉しげに言葉を紡ぐ。
「ナインさんを、わたしは呼ぶことが出来るです。ヒライさんに、ヒライさんって言えるです。この世界で、その声に答えてくれるのはお二人だけですよ。どんな存在でも名づけられたらそのときから誰かにとってのオリジナルなんですよ」
ふぅと息をつき、愛子は嬉しそうに頬を緩めた。
「今日はいっぱいおかーさんトークが出来て嬉しいです〜」
そう言ってグラスに口をつけた愛子をナインとヒライはそれぞれの表情で眺める。
「僕・・・いや、俺は、自分を・・・」
やがて、ナインが何かを口に仕掛けたときだった。
「うきゅう?」
奇声と共に、愛子の姿が消えた。
「あれ?」
「あら?」
二人は目を二、三度しばたかせてからその視線を斜め下へとそらした。そこに、グラスを大事そうに抱え、座っていた姿勢のまま床に転がる愛子の姿がある。
「はぇぇぇぇ・・・?」
ため息のような声を漏らしているが、その目はとろんと天井を見上げて何も映していない。
「あ、まさか・・・」
ヒライはやや慌てて愛子の手からグラスを取り上げ、中に少しだけ残っていた液体を舌先で拭う。
「・・・ヒライさん、それ・・・酒ですかね」
「大方の予想通りスクリュードライバーだよ。古典的な・・・」
二人してマスターの方を見るが、平然とグラスを磨いている。
「まぁ、酒場で飲み物と言ったら普通は酒が出てきますけどね」
「あ、ヒライちょっと傷ついた。だって森永ちゃん明らかに子供だし・・・それにシュピーゲルちゃん、止めなかったじゃない」
軽くじゃれあうように言葉を交わし、席を立つ。
「マスター、代金はここに置いときますよ」
カウンターに三人分の酒代を置き、ナインは愛子の身体を背負った。
「はにゅうううううう・・・」
完全に前後不覚に陥っている愛子の頬を軽く撫でてヒライは小さく笑う。
「ありがと、森永ちゃん。愚痴言ってごめんね?」
「・・・素直に言えるあなたは・・・やっぱり俺よりもリアルな存在ですよ」
呟いて廊下へ出たナインの隣を歩きながらヒライは口を尖らした。
「駄目でしょ?シュピーゲルちゃん。少なくとも、愛子ちゃんはヒライたちをオリジナルだって言ってくれてるんだから・・・今くらい、そういうスレッドはsage!」
「・・・そうですね」
ナインは素直に頷き背後の愛子にちらりと視線を投げる。
僕はまだ、あきらめなくて・・・いいみたいだからね・・・