「春彦ッ!冬花さん!」
 ドアを殴るように開けて友美は春彦の部屋に駆け込んだ。
「来たか・・・すまんな」
 冬花を寝かせた布団の横で考え込んでいた春彦は顔を上げて頷いてみせる。
「電話じゃよくわからなかったんだけど冬花さんの容態は!?」
「・・・悪い」
 唸るように言った春彦の横に友美は座った。
「倒れたって言ってたけど・・・熱とかあるの?」
「無い・・・というか・・・」
 春彦は首を振って言葉を濁した。
「触ってみろ」
 促されて友美は目を伏せ動かない冬花の額に手を伸ばす。
「つ、冷たっ!」
「脈も正常、呼吸も普通、その他俺にわかる限りのことは調べたが特に異常はない・・・異常はない筈なんだが・・・目を覚まさない」
「体温が低すぎるじゃない!早く暖めないと!」
 春彦は苦い顔で首を振った。
「その必要は無い」
「何でよ!」
 くってかかる冬花に春彦は疲れ切った声で答える。どうやら一晩中寝ずに看病していたようだと、今になって友美は気付いた。
「・・・普通、ここまで体温が低い状態が続いたら死んでいるからな」
「え?」
 友美は理解できないと言うように首を振った。春彦は構わずに話を進める。
「友美に来て貰ったのは交代して貰う為だ。取り敢えず容態は安定しているが、放って置くわけにもいかないからな・・・」
「そ、そうよね。春彦も少しは休まないと」
 友美の言葉に今度は春彦が首を振った。
「いや、俺は出かける」
「は?」


 いつもの公園のでベンチに座って春彦は待っていた。目頭を押さえ、首を振って眠気を覚ます。
「ついに・・・その時が来てしまったようですね」
 春彦は顔を上げた。くすんだ色をした3月の空をバックに、彼の待っていた男が立っている。
 冬花の父だというその男が。
「こうなることを知っていたのか?藤田・・・」
 春彦の問いに、行商人と名乗っていた男は無表情のままで頷く。
「私が見つけたときにはもう手遅れでした。約二ヶ月・・・よく持ったと言うべきでしょうね・・・まあ、記憶がなかったのが不幸中の幸いでしょうか。記憶があったら、どうしたって自覚してしまったでしょうからね」
「・・・何が言いたいんだ」
 唸る春彦を静かに見つめて藤田は首を振る。
「つまり・・・あの子はもう死にます」
「・・・説明、してくれるんだろうな?あいつはなんなんだ?何故・・・倒れたんだ」
 放たれた苦しげな問いに頷きながら藤田は春彦の隣へ座った。
「・・・吸いますか?」
 言いながら差し出された煙草を春彦は首を振って断った。藤田は煙草をくわえ古めかしいジッポーでそれに火をつける。
「そうですね・・・『雪妖』の伝説というのを知っていますか?」
「・・・雪山に住むという雪の化身。おとぎ話で言うところの雪女っていう奴だ。世界各地に『雪山に住む人』の伝説はあるが雪女の伝説は日本特有らしいな」
 藤田は煙を大きく吐き出した。
「ご名答。しかし、おとぎ話の雪女っていうわけじゃあありませんよ。彼らの中には男もいますし伝説だけの存在でもありません。現実にこの世に存在しています」
「・・・あんたもそうなのか?」
 春彦の問いに藤田は煙草の灰を落としながら苦笑した。
「そうだったらこんな事にはならなかったんでしょうけどね・・・逆説的には。しかし私はただの人間ですよ。ですから、あの子もハーフです」
「そうか」
 軽い口調で告げられた言葉を春彦もまたあっさりと受け入れる。
「・・・ずいぶんあっさりと納得するんですね」
「あれで人間だと言われた方が不自然だ。証拠はいくらでもあった・・・」
 春彦は歯ぎしりして呻いた。藤田はふむと頷いてまた喋り出す。
「・・・雪妖というのは低温でしか生活できない種族で・・・まあ大体10度くらいの気温でダウンします。だから普通は雪山にある隠れ里から出てこないものなのですが」
「冬花は暖房の効いた部屋にも居たし風呂にも浸かっていたぞ」
「あの子はハーフですからね。雪妖が持つはずの力はほとんど使えませんが比較的高い温度でも耐えられるんですよ・・・」
 手の中で燃え尽きかけた煙草を藤田は地面に投げ捨てて踏みつける。
「限界は、ありますけどね・・・」
「限界を超えるとどうなるんだ?」
 目を合わせないままに放たれた問いに、藤田は一瞬以上言葉を選んだ。
「・・・雪妖は人と同じような形をして人と同じように生活しますが、その性質はどちらかというと雪そのものに近いんです」
「・・・だから?」
 藤田はゆっくりと春彦に向き直った。
 よどんだ空から振ってくる陽光が二人を照らす。
「雪は、溶けて消えます・・・」
「どうにか・・・どうにかならないのか?」
 藤田は静かに首を振る。
「言ったでしょう?手遅れだったって」
 飄々と言葉を紡ぐ藤田に春彦は刺々しい視線を突き刺した。
「・・・自分の娘が死ぬかもしれないって時によくそんな気軽に言えるな」
 苛立たしげな春彦に藤田は肩をすくめるばかりだ。
「かもしれないではなく・・・確実に死ぬんですよ」
「だから!そんな軽々しく言うんじゃないっ!」
「なら、どうしろというんだっ!」
 これまで聞いたことのない藤田の怒声に春彦は呆然としてたじろいだ。
「山名さん・・・およそ人の親が娘の死に対して平静でいられると思いますか?」
 深とした空気の中で二人の男は黙って睨み合う。
「・・・すまん」
 数分の後、頭を下げたのは春彦の方だった。
「いえ・・・私達は同じ立場ですからね。気持ちはわかります」
「あいつの母親は?」
「あの子を産んですぐに死にました。やはり、人間との・・・私との子を産んだことが原因でしょうね・・・私が表面だけでも落ち着いていられるのは二回目だからなんですよ」
 春彦は瞼を閉じ空に顔を上げる。
「俺はどうすればいい?」
「・・・我々に出来ることは見守ることくらいですよ。もっとも、私はもうあの子の前に顔を出すつもりはありませんけどね」
「何故だ?」
 問われて藤田は溜息と共に首を振る。
「会えば・・・辛くなりますから」
「あいつは喜ぶかもしれないぞ?」
 冷たく、そしていやにしみる風が二人を撫でて消える。2月までが記録的な暖冬だったのを取り返すように3月に入ってからの気温は例年より低い。
「山名さん・・・結局、私の娘は二ヶ月前に死んでるんですよ。今居るのは、あくまでも冬花さんです。顔が似ているだけの別人ですよ」
「・・・別人、か」
 春彦は眉をひそめて呟いた。
「あいつの本名・・・細雪って言うんだろ?」
「・・・記憶が戻ったのですか!?」
 勢い込んで尋ねる藤田に春彦は目を開けないまま首を振った。
「いや。だが・・・」
 口ごもり、つぼみの出来かけた桜の木を見上げる。
「だが、あるいはそうなのかもしれない・・・」
 考え込んだ春彦を眺めて藤田はもう一本煙草をくわえ、ひとつ首を振ってから火をつけないままにそれを投げ捨てた。
「山名さん・・・これを受け取ってくれませんか?」
 言いながら差し出されたジッポーを受け取り春彦は眉を寄せる。
「なにか、いわくの有る物なのか?形見だとか・・・」
「いえ。なんにも」
 半眼で睨む春彦にひらひらと手を振りながら藤田は立ち上がり歩き出す。
「ただ・・・ずっと使っていましたからね。あの子に会う勇気のない私の代理ってところで・・・」
 言いながら藤田の背中は遠ざかっていく。
「今度こそ、禁煙できそうな気がしますよ。雪音さん・・・」
 最後の呟きを聞き終えて、春彦は手の中でジッポーを転がした。
 空も、ジッポーも、春彦の心も・・・くすんだ色のまま。晴れる気配はない。


「あ、おかえり・・・」
 不安げに冬花の手を握っていた友美が振り返り、帰ってきた春彦に声をかけた。
「・・・・・・」
 春彦は無言で冬花の枕元に座り込む。
「春彦?」
 不審気な声をあげる友美を無視して春彦はゆさゆさと冬花を揺り動かす。
「細雪、起きろ・・・!」
「え?春彦?」
「細雪っ!起きろ!」
「ちょ、ちょっと春彦どうしたのよ!」
 友美は慌てて春彦に掴みかかった。突然発狂したかと思ったのだ。
「細雪ッ!おまえの父親に会ったぞ!今おまえが出てきてるのはわかっている!そして・・・冬花と同じように俺はおまえのことも必要として居る!一人ではないんだ・・・だから起きろ細雪ッ!」
「だから誰なのよそれ!?」
 叫び返した友美の声に第三の声が重なった。いつも聞いていた・・・だが友美にとっては初めて聞く声が。
「アタシのことだよ。それ」
「と、冬花さん?」
 冬花は・・・いや、細雪はゆっくりと目を開け、目の前の二人を眺めた。
「なんでアタシだってわかったんだ?」
「・・・記憶喪失だと思っていたのが悪かった。一時は本当に別人なのかとも思ったが、あの『雪になって消える』ってのが雪妖の力だとすれば明らかに君と冬花は同一人物だ。である以上、そんな都合よく記憶が戻ったり消えたりするものじゃない。君たちの関係は多重人格だったってわけだ」
 淡々と語る春彦、それを細雪は小さな微笑みを浮かべて見つめ友美は取り残されて一人首を捻った。
「おそらく、俺と会ったあの時君は既に瀕死の状態だったんだろう。だから何とか回復しようと冷凍倉庫に潜り込んで・・・受けたダメージを誤魔化すために保護人格である冬花を作ったってところか。だから冬花はむやみにかき氷ばかり食べて体温を下げていたし、極端な高温にさらされたときに・・・風邪で熱を出したり温泉に長く浸かって居たときには君自身が出てきた」
 春彦の推理に細雪はパチパチと手を鳴らした。
「ご名答って言って良いと思うよ。別にアタシが意識して多重人格なんぞになったわけじゃないから推測だけどね。付け加えるなら、アタシはハーフだけどそれでも雪妖だ。普通に生活しているだけでもついつい霊力に頼ってしまうからってのもあったんじゃないかな・・・深層心理って奴もなかなか上手くできてるよ」
 春彦は頷いて腕を組む。友美は理解できない会話の連続に指をくわえて二人を交互に見つめる。
「君は・・・今自分がどういう状態なのかわかっているか?」
「ああ。あんたの選んだキーワードのおかげで今のアタシには全ての記憶が揃っているからね・・・ふふ、アタシのことも必要とは嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
 細雪はニッと微笑んで見せた。いつぞやの旅館で出会ったときにも浮かべていた微笑みを。
 春彦は頷いて質問を変えた。
「何故隠れ里とやらから出てきたんだ?」
「・・・外を見たかったんだ。親父に聞いたかもしれないけど雪妖は普通隠れ里から出ない。それも一生ね。でも・・・里の雪妖達は混血のアタシを嫌っていてね。住み心地のいい場所じゃなかったんだよ。実際」
 天井を見つめて細雪は溜息をついた。ついていけない友美は床にひらがなの『の』を書き始める。
「親父はあれで史学者でね・・・あちこちの郷土伝説を調べて回ってるうちに雪妖の里にまでたどり着いたんだ」
 寝っ転がったままに細雪は肩をすくめる。
「雪妖なんて言ったって外見上の差はほとんどないから、しらばっくれてれば正体がばれるはずは無かったんだけど・・・一人だけ、やってきたよそ者を好きになっちまった雪妖が居てね。それで、あー、なんだ?結構手の早い親父に口説かれてヤッちまったんだこれが」
「・・・で、君が生まれたのか」
 下品な手つきで友美を赤面させていた細雪は頷いて話を続けた。
「それが17年前の話だ。アタシが色素異常なのは雪妖と人間の血の混じり方が悪かったかららしいね。母さんもアタシを生むのに霊力を使いすぎて死んじゃったし」
「それからは藤田と二人で暮らしていたのか?」
「いや、さっきも言ったけど雪妖の里は排他的だからね。人間である親父は住ませて貰えなかったんだ、元々一つどころに住んでられる人でもないからそれまでと同じようにあちこちを旅して、時々アタシに会いに来るっていう生活だった。アタシは婆さんに育てられたんだ」
 ひとつ溜息をつく。細雪にとって里での暮らしは『嫌な記憶』という箱にひとまとめに放り込める部類の記憶だ。思い出すのは正直心地良いものではない。
 春彦は細雪を見つめて一人頷いて、それからおもむろに友美を見た。
「・・・はるかとおくのあけぼのの〜みはてぬあかになみだする〜とんですべってすりむいて〜よるになったらまわれみぎ〜・・・」
 視線の先で、友美はいじけながら謎の歌を小声でぶつぶつ歌っていた。
 春彦は溜息をついて友美の肩をポンと叩く。
「わかった。後でちゃんと説明してやるから今は黙って聞いててくれ・・・」
「ホントに?あたし今無茶苦茶混乱してるよ?ちゃんとわかるように説明してくれる?」
 指をくわえて上目遣いに見つめる友美に大きく頷いてから春彦は細雪に向き直った。
「すまん、話を続けてくれ」
「あ、ああ・・・親父って日本どころか世界中をあの調子で回ってるんだよ。その土産話を聞いているうちにアタシも外の世界が見たくなった。いじめられてばっかりの里での生活よりもずっと楽しそうに思えた・・・」
 苦々しく首を振る細雪の髪をかきあげてやりながら春彦は頷いた。
「それで里を飛び出したのか」
「親父には黙ってね。でも甘かったよ・・・金もツテもないガキが一人で生きて行くにはこの世界は厳しすぎる。親父みたいな無銭旅行が誰にでもできるわけじゃない」
 細雪は部屋を見回した。冬花としてここにいた二ヶ月が、いかに大切な時間だったかを噛み締めながら。
「食事も満足にとれず暖冬のせいで体も冷やせない。満足に眠ることもできない・・・霊力も尽きかけてもう里に戻るだけの力もなくなったところで偶然見つけたのがあの冷凍倉庫だったんだ。後はあんたらの知ってるとおりだよ・・・」
 春彦は細雪をじっと見つめた。その顔は冬花と同じ顔であり・・・そして、やっぱり冬花とは違う顔だ。
「尽きかけている霊力とやらを回復する方法はないのか?」
「今まで持ったのだって節約していたからであって回復したからじゃないんだ。もう・・・手遅れだ」
 細雪の顔を憂いが覆う。
「冬・・・いや、細雪・・・」
「ふふ・・・間違えちゃいけないだろ?アタシは細雪だ。あんたの大事な冬花とは別人だよ・・・結局ね」
 春彦は眉をひそめ力無く首を振った。
「しかし、おまえがメインなんだろう?」
「元々は、ね」
 イタズラっぽい微笑みを浮かべて細雪はようやく身を起こした。
「でも、今はあいつの方がよっぽど力があるんだ。結局逃げるばかりだったアタシと違ってあいつはこの『世界』とまっすぐに向き合っているから・・・」
 深呼吸して細雪は春彦を正面から見た。今までにも何度か見た、鋭く活力に溢れた視線がその瞳に甦る。
「だから、アタシは眠ることにする」
「・・・何?」
 細雪は笑みすら浮かべて話し続ける。
「細雪はこれで消える。もう残された時間はわずかだけれど・・・その時間は、冬花とあんた達にあげるよ。ついでだから雪妖の力と記憶も冬花に渡そうかな」
「・・・しかし、君にとってそれは」
「死ぬわけじゃないさ。アタシは冬花の一部になる・・・今までもそうだったようにね。・・・親父以外の誰にも必要とされていなかったアタシが・・・あんないい娘の一部になれるんだ。幸せだよ。アタシは」
 春彦は奥歯をぎりっと噛んだ。
「・・・君にとってそれがベストだと俺には思えない。だが・・・すまない。俺は冬花にもう一度会いたく思ってしまうんだ・・・」
 苦しげな春彦に細雪は微笑みながら首を振った。
「そんな顔すんなよ。冬花はあんたの真っ直ぐ前を見据えた目が好きらしいぞ」
 言ってから細雪は友美に視線を移し、よくわからないながらも神妙な顔をしている彼女にも『にかっ』と笑いかける。
「えっと・・・友美ちゃん・・・・って呼んでいいものかな?まあともかく、あんたにはずいぶんとつらい思いさせちまったな。冬花の代わりに謝っとくよ」
「・・・ううん。あたし、冬花さんのことも大好きだから」
 神妙な台詞に細雪は重々しく頷いた。
「友美ちゃん、アタシも冬花もノーマルだ・・・」
「あたしもノーマルよっ!うーっ、最近言われなくなってたのに・・・あたしは冬花さんに憧れてただけで同性愛には興味ないのっ!」
「うん、知ってる。ただ、おもしろいから言ってるだけ」
 じたばた暴れる友美に細雪はこともなげに言って頷いた。
「うむ。気付かなかったのか?」
 春彦もそう言って肩をすくめる。
「・・・もういいよぅ」
 友美は改めてすねなおして一人で○×ゲームを始めてしまった。細雪はそれを眺めてひとしきり笑った後、ゆっくり春彦に向き直る。
「さて、それじゃあアタシは眠るよ・・・」
 春彦は姿勢を正し深々と頭を下げった。
「細雪・・・これまでいろいろとありがとう。心から・・・感謝する」
「感謝するのはこっちだよ・・・今やっとわかった・・・アタシはあいつみたいに・・・冬花みたいになりたかったんだ。アタシを冬花にしてくれたのは山名春彦・・・あんただよ。初めて会ったのがあんただから、冬花はあんなにいい娘になれた。ホントありがとう・・・あいつのこと・・・最後まで・・・大事に」
 言葉が途切れ、細雪の体がガクンと崩れ落ちた。
 慌てて抱き留めた春彦の腕の中で、赤い瞳の少女はゆっくりと顔を上げて春彦を見つめる。
 柔らかな、包み込むような眼差しで。
「・・・私が側にいること・・・後悔しませんか?」
 ためらいがちに問われた春彦は、ゆっくりと頷いてそれに答えた。
「・・・ありがとうございます」
 言い終わるが早いか冬花は春彦の胸に顔を埋めていた。
 その頭を包み込むように柔らかく春彦は抱きしめる。
「・・・・・・」
 友美はちょっと辛そうに微笑んで立ち上がり、音を立てないように部屋から出た。
 悔しいけれど、今の自分がああやって抱きしめられていても・・・きっと冬花ほどはお似合いだとは思って貰えないだろうから。
「・・・ねえ春彦さん」
「ん?」
 二人だけになった部屋で、冬花は吐息と共に囁いた。
「今週の日曜、暇ですか?」
「暇かと言われれば、それは暇に決まっているが・・・なぜ?」
 冬花は片方だけ眉を上げる春彦にふんわりと微笑む。
「遊園地に行ってみたいんです・・・私と、春彦さんと、友美ちゃんと、景子さんと、孝明ちゃんと・・・みんな一緒に!」
「しかし、おまえの体は・・・」
 口ごもる春彦の口を冬花は人差し指でそっと押さえた。
「細雪さんが霊力の使い方を教えてくれたんです。これから私は眠りについて日曜まで起きませんけれど・・・その代わり、日曜日一日だけは、今まで通りに動けます」
「今まで通り、か?」
「今まで通り、です」
 春彦は友美の瞳を、その奥を見通さんとばかりに見つめた。
 その日一日に力を集中する・・・なら、その後は?
「・・・ここで横になったまま、ただその日が来るのを待つなんて・・・嫌ですから」
 一言一言噛み締めるように呟く冬花を眺めながら春彦はぐっと奥歯を噛み締めて頷いた。
 冬花は真っ直ぐ前を向いた自分が好きなのだと細雪は言った。ならば・・・どんなに辛くとも、どんなに不安でも・・・今は前を向いて進もう。
「わかった。あいつらには俺から話しておく。日曜の朝、そうだな。7時にここに集めておこう・・・それで、どこの遊園地に行きたいんだ?」
「安浦市の、東京デスティニーランドに」
 にっこり微笑む冬花に春彦は頷いて見せてから少し眉をひそめた。
「・・・そこ、電車で行くとひどい目に遭う気がするな。車で行くか・・・佐野の奴が持ってたはずだ」
「そのあたりはお任せします」
 うむと頷いて春彦は冬花を布団に横たえた。
「・・・じゃあ、日曜にな」
「はい」
 静かに笑って冬花は目を閉じた。
「・・・・・・」
 春彦は反射的に冬花を揺り動かしそうになってぎりぎりで自制した。
 日曜には目覚めると約束したのだ。
 だから、今は疑うまい。


 3月12日、日曜日。
 運命の日の空は、抜けるように晴天だった。予報では夜から雪になるとのことだったがそれを感じさせない良い陽気だ。
「春彦、起きてる?」
 友美は春彦の部屋のドアを軽く叩いてから開いた。
「友美か、起きている。さすがに今日は寝坊しないぞ」
 春彦は既にいつもの格好に着替えていた。
「冬花は?」
 居間へと歩きながら問う。
「まだ見てない。起こしに行くのは春彦の役目っしょ?」
 肩をすくめて笑う友美に春彦は軽く頷いて微笑んだ。
「そうだな。では気遣いに感謝しつつ起こしに行くとするか・・・」
「うん。浅野さんとタカはもうすぐこっちに着くってさっき携帯に電話があったよ」
 友美の言葉を背中に受けて春彦は冬花の部屋のふすまを開けた。
「・・・冬花?起きてるか?」
 そっと声をかけるが反応がない。
 春彦は枕元に座って冬花の頬を軽く撫でた。
「もう日曜だぞ。そろそろ起きてくれ」
 ひょっとしたら起きないのではないか。そんな不安を振り払って春彦は冬花を揺さぶる。
「おい・・・冬花?」
 ふすまから顔を出してそれを眺めていた友美はふと気付いて声をかけてみた。
「春彦。眠れるお姫様を起こすには、やっぱキスじゃない?」
「ば、馬鹿を言うな。そんなベタベタな展開・・・」
 言ってちらりと冬花を見た春彦はその目がうっすらと開いてるのに気がついた。
「・・・ばれちゃいました?」
「・・・よせよな。そういうお茶目は・・・」
 春彦は深い溜息と共にぽんぽんと冬花の頭を叩いた。
「冬花さん、シャワー浴びてきなよ。毎日体は拭いてたけど、やっぱり・・・その、デートの前はきっちりお風呂入っとかないとね?」
「友美ちゃん・・・」
 友美は冬花にぐっと親指を立ててから背を向けた。
「朝御飯、気合い入れて作ってるから楽しみにしといてよね。久しぶりっしょ?」
 キッチンに消えた友美を見送って春彦は冬花に向き直った。
「今日は・・・楽しくなりそうだな。そう思わないか?」
「ええ。絶対なりますよ・・・絶対に」
 交わされた微笑みに愁いの影がなかったとは言えないけれど。
 でもそれは、やっぱり幸せな微笑みだった。


 千葉県安浦市。日本ではほぼ唯一と言っていい『成功した』テーマパークである東京デスティニーランドはそこにある。  
「おぉう、やっと着いたぜ。遠かったなあ!」
 浅野は駐車場に降り立ちぐいっと伸びをした。
「・・・センパイ、それが二時間寝通した後の台詞ですか?」
 その二時間をずっと運転した佐野が溜息と共に呟くと、
「気にしない気にしない!美女3人を連れてゆーえんちこれるんだからいいっしょぉ?」
 後から降りてきた友美が佐野の頭をずどぉんとはたいた
 2人には冬花が眠っている間に事情を説明してある。
 突拍子もない話しに2人とも半信半疑だったが、春彦が頭を下げると無条件で今日の遠出に付き合ってくれた。結局の所、2人とも人が良いのである。
「じゃれてないで早く行こうぜ」
 回転して吹き飛ぶ佐野を見もせずに浅野が肩をすくめる隣で、冬花は苦笑しながら傍らの春彦を見上げた。
 冬花は白いブラウスにスラックス。春彦は黒いシャツに黒いジーンズ。その上に羽織ったコートの色は冬花が黒で春彦が白だ。
 そして、2人の頭には同じデザインのニットキャップが・・・あの日、藤田から買ったそれが有る。
「では行くか、冬花」
「はい!」
 差し出された手を元気良く握り、冬花は春彦と共に歩き始めた。
 その隣に友美が、後ろに浅野と佐野が続く。
 
 そして・・・最後の一日が始まった。


・東京デスティニーランド、一般人の楽しみ方。

「ビッグサンダーマOンテン!まずはこれよね!」
 友美はジェットコースタータイプのアトラクションであるビッOサンダーマウンテンに並んで満足そうに頷いた。入ってすぐ走ってきたので待ち時間はわずか15分だ。
「どうでもいいがそういう伏せ字、する意味はあるのだろうか・・・」
 一応版権とかに考慮しているのである。
「なんの話?」
「いや・・・ほら、もう少しで乗り場だぞ」
 春彦はいい加減に答えながら隣の冬花に目を移した。
「冬花。早いのは平気か?」
「そうですねえ・・・」
 冬花は首を捻ってやってきたコースターを眺める。
「細雪時代から思い出しても乗った記憶がないんでわかりませんけど、多分大丈夫です」
「ホラー映画の時にも同じようなことを言ってたと思うが?」
「あんた・・・ホントに自分では気付いてないのね。私達が何を怖がってるか」
 友美が横から呟いて冬花は苦笑した。
「おいお前ら、さっさと乗ろうぜ」
 浅野に促されて一行はいそいそとジェットコースターに乗り込む。
『西部一の暴れん坊!マイン・トレインの出発ですっ!』
 だみ声のアナウンスと共にコースターはゴトゴトと動き出す。
「なんかドキドキしますね!」
「うむ」
 最前列には冬花&春彦。
「捻りも入らないコースターじゃ大して楽しめそーもないな」
「僕は結構苦手なんですけど・・・」
 二番手は浅野&佐野。
「・・・っていうか、あたしはなんで一人?」
 三番手は友美と言う順番でがったんがったん坂を上っていく。
「来るぞ来るぞ来るぞぉっ!(浅野)」
「わぁ、高いですー!(冬花)」
 そして、急降下!
「うひゃぁぁぁぁぁぁぁっ!(佐野)」
「はっはっはっはっはっはぁっ!(春彦)」
「春彦っ!いい加減その早いと馬鹿笑いする癖やめなさいよね!(友美)」
 間欠泉の脇をくぐり抜け、トンネルの中を爆走し化石の脇で急旋回!
「凄いですー!(冬花)」
「はっはっはっっはっは!(春彦)」
「きゅう・・・(佐野)」
 そして減速・・・ゆっくりと乗り場へコースターは帰ってきた。
「あーおもしろかった!冬花さん、どう?」
 友美に話しかけられて冬花は笑顔で振り返った。
「とっても気持ちよかったです!」
「はっはっは。冬花は意外に気合い入ってるからな・・・こいつと違って」
 隣でぐったりしている佐野にぼすっとレバーブローを入れながら浅野は笑う。
「あ、でも・・・」
「どうした?」
 停止したコースターから降りつつ呟いた冬花に春彦は片方の眉を上げた。
「前テレビで見た人みたいに手を上げてみたかったです。忘れてました」
 言われて春彦と友美は顔を見合わせた。そのまま浅野に引きずられている佐野を見る。
「浅野・・・?」
「ああ、だいじょぶだいじょぶ。この状態でももう一回くらい乗せてみせるよ」
 
 一人ぐったりとした佐野を連れて、一行はその後続けて三回ビッグサンダーOウンテンに乗った。

・東京デスティニーランド、ファンの楽しみ方

「そろそろ食事にしよっか?」
 友美がそういってみんなを見回したのは午後1時頃だった。
「うむ。お昼時を避けて食事をするのはデスティニーランドの常識だが、常識であるが故にみんな避けてしまって、最近は逆にお昼時の方が空いてたりするからな」
 長々とうんちくを語りながら春彦が頷いてみせると、
「バイトの数がお昼と夕方は激増してるのも理由の一つですね。それと、ファーストフードを避けるのもコツです。混み方がハンパじゃありません」
 と、佐野がそれを引き継いでビギナーの冬花と浅野に説明する。
「じゃあどこで食うんだ?」
 浅野に問われて佐野はぐっと胸を張った。
「任せて下さい!安浦出身の友達からしっかり情報を入手しときましたよ」

「クOーンオブハートのバンケットホール?」
 浅野は呟きながら童話風の外観をしたその巨大なレストランを見上げた  
「旧スモールワーOドレストランだな。名物はチキンだ」
 佐野と春彦を先頭に一行はぞろぞろと中に入る。
「うわ、混んでんぞ凄く」
「大丈夫ですよ。セルフサービス式な上に店自体が広いんで回転が速いんです」
 言ってるうちに春彦達の並んでいる列はするすると進み名物のオープンキッチンが見えてきた。
「あら、見てる前で料理するんですね!」
「待ち時間の長いディズニーランド特有の演出だな」
 目の前でチキンを切り分ける様を、料理が出来る人間を無条件に尊敬してしまう冬花が目を輝かせて見つめる。
「なんかさ・・・」
 鼻歌など歌いながら体を揺らしている冬花を眺めてふと友美が囁いた。
「ん?」
「冬花さんが例の台詞言い出さないと・・・なんか寂しいね」
 春彦は軽く肩をすくめて囁き返す。
「あれは体温を下げるためだからな・・・もうその必要はないって事だ」
「うん・・・」
 ちょっと沈んだ2人の方にくるっと冬花は向き直った。
「春彦さん!友美ちゃん!大変ですよ!」
「どうした?冬花・・・」
 冬花は緊張した面もちでぴっと人差し指をあげる。
「なんと!ここのメニューにはかき氷がありません!」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 春彦と友美は顔を見合わせた。次第にその顔に笑みが戻る。
「心配するな冬花」
「そうそう、どうせ冬にかき氷食べたがるのは冬花さんだけなんだから」
 笑いながらポンと肩を叩かれて、冬花はきょとんと首を傾げた。


・東京デスティニーランド、マニアの楽しみ方

「あれ?春彦、何ぼーっと突っ立ってるの?」
 トイレから帰ってきた友美は、道の片隅で立ちつくしている冬花と春彦に声をかけた。
「うむ。そろそろ通るはずなのだ」
「何が?・・・パレードならさっき見たでしょ?」
 痴呆をいたわるような声で言われて春彦はかなり嫌な顔をした。
「特殊なカストーディアルが通るのだ」
「カストーディアル?掃除の人の事よね?」
「ああ・・・ほら、あれだ」
 言って春彦が指差した先には白い服を着たカストーディアルが一人、大きな金属製のトラッシュ缶(ゴミ箱)を押して歩いている。
「どこが特殊なの?実は先週出所したばかりの凄腕だとか?」
「見てればわかる・・・というか、なんなんだその凄腕って」
「さあ?」
 首を捻る友美と冬花をよそにその男は道の真ん中でとんっと立ち止まり、おもむろにトラッシュ缶をひっくり返した。見ればいつの間にか同じ服装のカストーディアルが何人か集まってきている。
 そして・・・
「1・2・3・4!」
 真ん中の男が叫びながら缶の底を叩きはじめると同時に、カストーディアルの一団は手に手に取りだした即席の楽器・・・どれも掃除用具だ・・・で演奏をはじめる。
 一瞬前まで静かだったそこは、急転直下ラテンのビートが支配する音楽ゾーンへと変貌した!
「な、成る程・・・確かに特殊だわ」
「ちなみにこのトゥモローランドには彼らを含め三種類の特殊カストーディアルが存在する。ローラーブレードで駆け抜けるカストーディアルと、もう一つはロボットだ」
「ロ、ロボットぉ!?」
「うむ」
 春彦は頷きながら指でひょいっと背後を指した。
「ハァーイ!」
 甲高い合成音声に振り返るとそこに・・・トラッシュ缶があった。
 そう、ゴミ箱である。トゥモローランド内ならどこにでもある、ステンレス製の、なんの変哲もないゴミ箱だ。
 動いて、かつ喋ってなければ。
「な、何あれ・・・」
「だから、ゴミ箱だよ。自走式の。トゥモローランドの技術力の粋を凝らしたっていう設定だそうだ」
「か、可愛い・・・」
 かすれるような呟きに春彦はひょいっと肩をすくめる。
「女性の感性は俺達とは別物だな・・・おもしろいとは思うが可愛いのか?あれが」
 問いかけられて友美はきょとんとした視線を返した。
「え?あたしじゃないよ今の」
「ん?じゃあ冬花か?」
 向けられた2人の視線にふるふると冬花は首を振って自分の隣を指差した。
「・・・おまえか」
 3人分の視線を受けて浅野ははっと我に返った。
「な、なんの話だ!?お、オレは別にああいうのは・・・!」
「好きなんですよね。すっごく・・・この前も警察のぴーぽくんに・・・」
 そこまで言って佐野はぐにっと崩れ落ちた。
「おやあどうしたんだタカ君?物陰で休んだ方がいいな、うん」
 無表情に言いながら佐野を引きずる浅野の手に青く放電するスタンガンが握られているのを、春彦だけは気付いていた。
 合掌。


「しかし友美・・・見境無く暴力を振るうのはどうかと思うぞ?」
 22時43分。龍実町へ帰る車の中で春彦は肩をすくめた。
「あ、あれは春彦が馬鹿な事言うから・・・!」
 慌てて言い返した友美に助手席の浅野がニヤニヤ笑いを向ける。
「それにしたって力余ってミoキーさん殴り倒すか普通?」
「う゛・・・で、でも!ミッOーさんは笑顔で許してくれたし!」
「そりゃあ、いつも笑顔だろあれは・・・」
 呟いた春彦に冬花が笑いながら頷き友美はぷーっと膨れて、それから思い出したように目を輝かせた。
「それにしても花火は凄かったわね!夏場は毎日やってんのかと思うと頭が下がるわ」
「私、花火って初めて見ました。綺麗でしたねえ・・・」
 一行は飽きることなくしゃべり続ける。
 黙ってしまえば、どうしても思い出してしまうから・・・不安になってしまうから。

 <この後、どうなるんだ?>

 だから、しゃべり続ける。楽しい思い出だけを掘り起こして。
 しかし、時は止まらない。
「・・・着きましたね」
 佐野がぽつりと呟いて車を止めた。龍実町の・・・春彦達のマンションの近くだ。
「ああ・・・」
 春彦は呟いてドアを開けて車を降りた。後に続いて冬花と友美ものろのろと降りてくる。
「あ、あの・・・冬花さん」
「は、はい・・・」
 意を決したように口を開いた佐野に冬花はぎくしゃくと向き直った。
 別れの時。わかっていたことでも、信じられなくても・・・それが今だ。
 佐野は軽く息を吸い込み、別れの言葉を・・・

 ごりっ。

 言おうとして、助手席から飛んできたスパナでこめかみを強打されのけぞった。
「なぁにをぐずぐずしてんだよバカアキが」
 浅野は跳ね返ったスパナを片手でキャッチして冬花を振り返る。
「おい冬花」
「は、はいっ!」
 慌てて返事した冬花に浅野はニッと笑いかけた。
「今日は楽しかったぜ・・・じゃあ、またな!」
 言って浅野はシュタッと手を上げる。
「・・・はい、また!」
 微笑んでシュタッと手を上げ返す冬花に一つ頷いて浅野は隣の佐野を軽く肘でこずいた。
「ほれ、行くぞ」
「は、はい・・・それでは冬花さん、三上さん、山名さん・・・また!」
 ぺこっと頭を下げて佐野はアクセルを踏み込んだ。加速する視界の中で、立ちつくす3人の姿はあっという間に小さくなる。
「・・・センパイは、やっぱりかっこいいですね」
 しばらくして佐野はこめかみをさすりながら呟いた。さすがに痛かったらしい。
「ん?なにがだ?」
 浅野はポケットから出した煙草をくわえながら聞き返す。
「さっきの別れ方・・・凄くかっこよかったですよ」
 胸ポケットから黒いジッポーを取りだして浅野は煙草に火をつけた。紫煙を吸い込み、ゆっくり窓の外に吐き出す。
「かっこよくなんかねえよ」
 言ってから少し苦笑した。
「オレも、あいつのことは気に入ってたんだ・・・だから、これで終わりみたいな言い方は出来なかった。それだけだよ。山名の奴がこれで終わりだって言った以上、これで・・・お別れなのにな」
 佐野は微笑みながら横目で浅野を眺めた。
「切ないですね」
「ああ。切ないよなあ・・・」
 呟きと紫煙を残して、2人は龍実町を去っていった。


「・・・さって、行こっか」
 友美の呟きに頷いて3人は歩き出した。
 二ヶ月前。春彦と友美は馴れ合いと焦燥の中にいた。自分たちの思いを確かめる術を持たなかった。
 二ヶ月前。友美と冬花は互いに羨望と危機感を抱いていた。春彦の側という場所にいるお互いに、お互いが居場所を失うのではと思い、同時に相手のようになりたかった。
 二ヶ月前。春彦と冬花は戸惑いと切望の中にいた。お互いの欠けたところを補える相手との出会い。それが余りにも突然だったから、2人はそれをなかなか信じられなかった。
 たったの二ヶ月・・・だが、二ヶ月後の3人は・・・
「離れたくないな・・・あたし」
 他の2人より一歩先を歩きながら友美は呟いた。
「離れたくないよ。冬花さんとも、もちろん春彦とも。あたし達3人、ずっとずっと一緒で・・・ずっとずっと騒々しく暮らしてたいよ。10年でも20年でも、ずっと・・・」
「友美・・・」
 春彦が咎めるように言うと友美は大きく首を振った。
「あたし、そんなに物わかりよくはなれないみたい。だから・・・言いたいことは言うよ。あたし、冬花さんとお別れしたくない!」
「・・・ごめんなさい。友美ちゃん」
 冬花は呟いて少し俯いた。春彦は無言で友美の背中を追う。
「謝っちゃ駄目だよ冬花さん・・・無茶言ってるのはあたしなんだから・・・」
 ちょっと足を早めて友美は2人から離れた。
 十数歩。その距離をおいて友美は振り返る。大きな瞳に涙をためて。
「冬花さん!これでお別れなんて、絶対にやだからね!絶対・・・絶対もう一度会うんだからね!約束よ!」
 冬花は、微笑んで頷いた。微笑んで、生まれて初めて守れない約束をした。
「じゃね!春彦!冬花さん!」
 叫びながら冬花は路地を曲がり、自分の家に・・・春彦達と二ヶ月を過ごしたアパートではなく、誰も待っていない部屋へと走った。
 多分、あたしは一晩中泣くだろう。
 心の中で、そう呟きながら。


「・・・行きましょうか」
 冬花は静かに呟いた。
「・・・そうだな」
 春彦は頷いて左手をそっと差し出す。冬花はその手をそっと握って歩き出した。
「あ・・・」
 不意に冬花が声をあげた。
「ほら、春彦さん。雪ですよ」
「予報通りだな・・・いや、少し遅れたか」
 呟いて春彦も顔を空に向ける。さらさらと降りてくる雪は、深夜の住宅街を無音のままに白く染め上げていく。
「・・・良い雪ですね。これ、積もる雪ですよ」
「ほう、わかるのか?」
「はい。微力ながら、私も雪妖ですから」
 囁きながら2人は歩き続ける。
「・・・公園に、寄りませんか?」
 冬花の声に微妙な違和感を感じて春彦は眉を寄せた。
「冬花・・・大丈夫か?」
「・・・ちょっと疲れちゃいました。はしゃぎすぎたかもしれませんね」
 にっこり笑う冬花を春彦は見つめる。
「そうか、疲れたか」
 言うが早いか春彦は冬花をバッと抱き上げた。足と背中を両手で抱きかかえるいわゆるお姫様だっこである。
「は、春彦さん!恥ずかしいです・・・」
 顔を染める冬花に春彦はニヤリと笑った。
「今更、だろ?それに俺達は人目を気にしないのが良いところだ」
「い、良いところなんでしょうか・・・」
 軽口を叩きながら抱き上げた細い体があまりに軽いことに、春彦はぞっとした。
「さて、公園だったな」
 言いながら既に公園を目指し歩き始めている。何かをしていないと、不安に押しつぶされそうだった。
 
 数分して、春彦達は公園へと足を踏み入れた。
 本降りになった雪が頭に積もるのを、冬花が優しく払ってくれる。
「すいませんけど、このままベンチにお願いします」
「・・・ああ」
 春彦は頷いて冬花をいつものベンチに降ろした。
「おっとっと・・・」
 冬花は少しよろけながらベンチに倒れ込む。
「冬花・・・やっぱりおまえ・・・」
「あはは・・・大丈夫ですよ。まだ少しは持ちますから」
「・・・それは、大丈夫って言わない」   
 春彦は奥歯をぎりっと噛み締めた。
「雪、降りますねー」
 冬花は空を見上げて呟いた。気楽そうな、いつも通りの声だ。
「・・・冬花の言うとおり積もってきたな」
 春彦も冬花にならって空を見上げる。早くも雪をかぶっている樹に切り取られた空から、真っ白な物が・・・目の前の少女と同じように白くはかない雪が降りてくる。
「あの日・・・ここで春彦さんから名前を貰ったんですよね」
「ああ。冬の日に出会った、春の花を望む少女・・・だから、冬花」
 春彦は冬花の傍らに立ち、天を見上げたまま口を動かす。
「・・・ここで泣いてるおまえを見つけたとき、迷子の妖精ってフレーズが頭に浮かんでな・・・あまりにベタな表現なんで恥ずかしかったが・・・まさか本当だとは」
「春彦さん、ロマンチストなんですね」
 冬花はくすくすと笑みをもらす。
「まあ、文系だからな。俺は・・・」
 春彦も苦笑を返す。思ったよりも、自然に笑えた。
「それからたった二ヶ月なんですよね・・・みんなに出会って、いろんな事があって、それで、今の私がここに居る・・・」
 冬花は差しだした手に雪を受け止め、柔らかな視線をそれに向けた。
「奇跡は、有る。私・・・それを確信しました。神様は、私に最高に素敵な人生をくれたって」
 春彦は、耐えきれずに首を振る。
「・・・それならもう一度・・・奇跡は起きないのか?本当におまえは・・・」
 自分らしくない台詞に苦々しく思いながらも言わずにはいられなかった。
 この時になって初めて、冬花が居なくなるということの重みがわかったのだ。
 その喪失感は・・・余りにも深く、暗い。
「・・・春彦さん」
 冬花は微笑んだままでそっと手を春彦に向けた。その手のひらに降りてきた雪は、水になってもう形をとどめていない。
「雪はいつかとけるものですよ・・・」
 耐えきれなくなって春彦は冬花から目をそらし、再び空を見上げた。
「そうですね・・・あえて言うなら、この桜を見れなかったのが、唯一の心残りですね」
 囁くような冬花の声に春彦は唇を噛み締めた。囁いているのではない。もはや冬花には元気に喋るだけの力が残ってないのだ。
「冬花・・・」
 振り絞るように呟いてから春彦はキッと目の前の桜を・・・今はつぼみも付いておらず、ただ雪をかぶっている桜を睨んだ。
 俺は何をしている!?こんな女々しい俺を冬花に見せるのか!?これが山名春彦の見送り方か!?
「冬花、桜の花・・・見たいか?」
「え?・・・ええ。でも・・・」
 春彦は力強い声で冬花の言葉を遮った。
「見せてやる。大丈夫だ・・・少し待ってろ」
 春彦は言い置いて辺りを見回した。
「あれだ・・・」
 呟いて春彦はゴミ箱に歩み寄り捨ててあった新聞の束から比較的濡れていないものを取りだして丸め、それを地面に置いた。
「春彦さん?何を・・・」
「いいから見ていろ」
 言いながら今度は外灯に歩み寄る。
「すまん役所の人」
 足下から大きめの石を拾った春彦はそれを激しく外灯に叩き付けた。
 二度、三度と打ち付けるうちに緩んだ整備用の蓋を引き剥がし、その中のコードを力任せに引きちぎる。
 ぶつん・・・
 大して広くもない公園を照らしていた照明はあっけなく消えた。後に残ったのは、闇に閉ざされた公園とその中に立ちつくす木々だけ。
「見ていろよ冬花・・・力技だが・・・桜を見せてやる」
 春彦はコートを脱いだ。そのポケットからライターを・・・藤田のジッポーを取り出す。
「藤田・・・悪いが使い捨てるぞ」
 呟いて春彦は躊躇無くコートを地面に捨て、新聞紙の塊をその上に置いた。そして・・・
「あっ!」
 冬花の声を無視して春彦は新聞紙の上に火をともしたライターを放り投げた。
「は、春彦さん!燃えちゃいますよ!」
「燃やしてるからな」
 見つめる先で、燃えやすい新聞紙からコートに火が移る。
「冬花・・・上だ」
 春彦はニヤリと笑って天を指した。
 冬花はきょとんとしながら言われるままに空を見上げる。

 見上げた空に、雪があった。
 雪をかぶった樹と、その枝をすり抜けて降ってくる雪・・・
 燃え上がる炎を映して・・・ほの赤く染まった、雪。
 それはあたかも・・・
「桜の、花・・・」
 舞い散る桜のように・・・ゆっくりと舞い降りる。
「偽物だけどな。これはこれで綺麗だろ?」
 冬花の側に戻ってきて春彦は微笑んだ。辛い気持ちも、叫びだしたいほどの焦燥も押し込めて春彦は微笑んだ。
「綺麗です・・・とっても・・・私の為の・・・桜雪・・・」
 冬花は立ち上がった。すぐによろめいて春彦にもたれかかる。
「改めて感じるよ・・・俺は、冬花が好きだ」
 冷たい体を抱きしめて春彦は囁いた。
「私も、あなたを・・・愛しています。たとえ雪の一粒になってもあなたのことを・・・あなただけを、思い続けます・・・」
 冬花は囁いて春彦の顔を見上げた。これまで何度もそうしたように。
 だが。
「あはは・・・駄目ですね・・・もう、眼も見えなくなっちゃいました」
「な、何!?」
 春彦は冬花の瞳を、紅く澄んだ眼差しでいつも微笑んでくれた瞳を見つめた。その瞳は・・・今や光沢の無い、無機質な光をしか浮かべていない。
「耳も・・・もう・・・でも、大丈夫ですよ」
 冬花は抱きしめた春彦の背を、うまく動かない手でぽんぽんと叩いた。
「春彦さんの姿は、眼に頼らなくたって見えますから・・・春彦さんの声は、耳を使わなくたって届きますから・・・私の全てが、春彦さんを感じてますから・・・」
「冬花っ・・・!」
 とぎれとぎれに呟く冬花を春彦は力の限り抱きしめた。
 壊れそうなくらいに・・・愛する人が、まだ自分の腕の中に居ることを確かめるために。
「春彦さん・・・抱きしめていてくれますか?最後までずっと・・・あなたに余計につらい思いをさせちゃいますけど・・・最後にもう一度甘えてもいいですか・・・?」
 答えることが出来ず、春彦はただ冬花を抱きしめた。
 こんな時にまで・・・死の淵でまで人を気遣って尋ねてくる少女の・・・その愚かなほどの優しさが、どうしようもなく痛かった。
「・・・・・・・とう」
「冬花?何と言った?」
 小さな囁きを聞き取れず、引きつる声で春彦は尋ねた。
「ありがとう。春彦さん・・・とても、楽しかったですよー・・・」
「おい!何を言ってんだよ!?そんな言葉・・・!」
「ふふ・・・本当に・・・楽しかったぁ・・・」
 囁き。そして。
 すっ・・・
 固く抱きしめていたはずの腕から感触が消えた。
「あ・・・あ・・・」
 何もないそこを、二度三度とかき抱く。
 春彦はがくっと膝をつき、積もった雪を握りしめた。
 さっき付けた火はもはや燃え尽きて、闇の中で春彦は言葉を紡がない口をふるわせ、頭を垂れる。
「あ・・・ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!」 
 咆吼。
 力の限り叫び、春彦は地面を拳で殴りつけた。
 何度も何度も殴り、雪が飛び散って地面が露出してもそこを殴りつけた。
「畜生ッ!畜生ッ!畜生ッ!畜生ッ!畜生ッ!畜生ッ!」
 手の皮が裂けて、血がにじんでも尚春彦は拳をふるった。
 どれだけ暴れたところで、それを止めてくれる少女はもう居ない。
 それがわかるだけの虚しい行為を、春彦はひたすら繰り返す。
 ただひたすらに、何も考えず。

 暖かすぎた冬の、二ヶ月だけの奇跡はこうして幕を閉じた。

 破けた拳から流れた血で桜色に染まった雪だけを残して。