14年前。遠い日の約束。
 それはまだ、あたしがわたしであった頃の物語・・・


「春彦ちゃん!春彦ちゃん!おきて!」
 わたしはぐっすり眠っている春彦ちゃんを一生懸命揺さぶってみた。
「・・・・・・」
 春彦ちゃんはいっこうに起きてはくれない。
「ねえ、おきてよ。春彦ちゃん!」
「友美ちゃーん?春彦起きたぁ?」
 階段の下から山名美春さん・・・つまり春彦ちゃんのお母さんが聞いてくる。
「ごめんなさい。まだ起きてくれないの!」
 叫び返すとトントントンと軽い足音がする。
「しょーがないわねぇこのねぼすけな若年寄りは・・・」
 美春お母さんは暖かい笑みを浮かべながら春彦ちゃんの部屋に入ってきて私の隣に立った。
「いい?友美ちゃん。春彦を起こすにはね、愛が必要なの」
「あい?」
「そ。さわやかな目覚めをプレゼントしようとする、愛・・・あるいは気合い」
「えと、その二つって・・・ずいぶん違うような・・・」
 ためらいがちに言うけど春彦ちゃんのお母さんは聞いてないようだ。
「さて、それじゃあ起こすとしますか」
 言いながら美春お母さんはすっと腰を落とした。
 そして・・・
「覇ぁっ!」
 鋭い気合いの声と共に春彦ちゃんのお腹を力一杯殴りつける!
「うがぁっ!?」
 春彦ちゃんは目をとれちゃいそうなくらいおっきく開いて悲鳴を上げた。
「春彦おはよっ!爽やかに目が覚めた?」
 にっこりと微笑む美春お母さんを春彦ちゃんは難しい顔をして見つめる。
「・・・母さん・・・いつも言ってるだろ?幼児虐待はよせって・・・」
「え〜?だってぇ、春彦って普通にやっても起きてくれないんだもん。ねぇ〜?」
 いきなり話しかけられてわたしはあたふたと頷いた。
「あの・・・春彦ちゃん痛い?大丈夫?」
 心配になって聞いてみるけど春彦ちゃんは笑って首を振ってくれた。
「大丈夫だ・・・優しいな友美は。この三段式逆噴射暴力母と違って」
「春彦ちゃん・・・」
 わたしは思わず赤くなった。
「さっすが春彦!お父さんの息子よね!色男っ!目指せ千人切り!」
「・・・母さん、小学生の息子に対して言うことか?それって・・・」
「春彦ちゃん、千人切りって何?」
「・・・友美は、しらなくっていいぞ・・・」
 よく解らないけど、春彦ちゃんは溜息と共に今日も起きてきた。


「しかし毎日毎日嬉しそうに登校しているなおまえは・・・」
 学校に行く途中で春彦ちゃんがそう言った。
「うん!お父さんのランドセルと一緒だから!」
 わたしのランドセルは小学校に上がるちょっと前に死んじゃったお父さんが最後に買ってくれた物で、わたしの宝物なんだ。
 ・・・なんだか、お父さんと一緒にいるような気になれるから。
「・・・そうか」
 春彦ちゃんは暖かい笑顔で頷いてくれた。
 それからしばらくして、わたしたちが昨日見たテレビとか今日の授業のこととかを話しながら歩いていると、
「あ、山名くんと三上ちゃん。おはよう」
 一人の女の子がわたしたちに挨拶した。
「やあ葵。おはよう」
 春彦ちゃんが片手をあげて挨拶を返したその子は、春彦ちゃんと同じクラスの後藤あかねさん。可愛くて頭が良くて・・・わたしと正反対の女の子。ちょっと、気後れしちゃう。
「山名くん、今日の体育水泳だけどちゃんと水着持ってきた?」
「ああ、抜かりはない」
「抜かりはないって・・・なんか、お侍さんみたいだね」
「むう・・・」
 春彦ちゃんと後藤さんは楽しそうに話している。
 多分・・・後ろをとぼとぼとついていってる私のことは、忘れちゃってるんだろな。
 そんなことを考えていると、春彦ちゃんが不意に腕時計を見た。たしかあれ、お父さんから貰ったんだよね。
「なにをのんびりしてるんだ友美。そんなに時間があるわけじゃないぞ。急ごう」
「え?え?え?」
 手を引っ張られてわたしは変な声をあげてしまった。
 春彦ちゃんは私の手を引いて早足で歩いていく。その横を後藤さんがやれやれって顔でついてくる。
 どうしてだろう。春彦ちゃんに手を握られるだけで、こんなにどきどきするなんて・・・
 いつからだろう。いつも隣にいた春彦ちゃんが、こんなにも気になるようになったのは・・・
「あ!山名夫婦だー!」
 ぼーっとしていたわたしは、はやし立てる大声で我に返った。
「やーい、山名夫婦ーっ!」
「今日も朝から熱いぞーっ!」
 びくっとして春彦ちゃんの陰に隠れたら、男の子達はもっと大きな声になってしまった。
「あれって2組の吉田よね?」
 後藤さんがあきれたような顔で呟く。
「ああ、友美のクラスの奴らだ」
 春彦ちゃんは呟いて私の手を離した。
「あ・・・」
 思わず声を漏らした私に構わず春彦ちゃんはちょっと怖い顔で吉田君達を睨む。
「いい加減にしろっ!」
「山名が怒ったぞ!にげろーっ!」
 吉田君達は一声叫んでさっさと行ってしまった。
「・・・友美、あいつらにいじめられてたりしてないよな?」
「・・・うん」
 わたしは春彦ちゃんが本気で怒ったわけじゃないことにちょっと安心してから頷いた。
「・・・馬鹿、あんなので泣いてどうするんだよ」
「?」
 春彦ちゃんに言われてはじめてわたしは自分が泣いてるのに気がついた。
「う、うん大丈夫だよ春彦ちゃん・・・」
 大丈夫、手がはなれたとき・・・ちょっと心細くなっちゃっただけだから・・・
「仲、やっぱりいいわね」
 私が泣きやむ間際。
 後藤さんが呟いた言葉は、妙に耳に残って消えなかった。


「・・・それでね、また春彦ちゃんに助けられたの」
 わたしはいつものように学校から帰る途中に春彦ちゃんのお家に寄っていた。
 わたしのママはお父さんが残してくれた中華料理屋さんで一生懸命働いているから、夜ご飯になるまではいつもわたしは春彦ちゃんと一緒に遊んでいるんだ。
 春彦ちゃんのお父さんはお医者さんでお家にくっついている病院で働いてるけど、春彦ちゃんのお母さんはお手伝いをしてないみたいでよくわたしたちと遊んでくれる。
「別に、大したことはしていない」
「まぁた、この子ってば照れちゃってぇ!」  
 春彦ちゃんがそっぽを向いて呟くと同時にお母さんがその頭を思いっきり叩いた。
 あの・・・いま、『ごきっ』て鳴ったような気が・・・
「痛いよ母さん・・・」
 あ、でも春彦ちゃん平気そうだ。すごいなあ・・・
「よしよし、ご褒美に春彦のおやつは三倍にしてあげよう」
 春彦ちゃんのお母さんは言いながら台所に行って、お皿に山盛りのマフィンを持って返ってきた。
「・・・何を基準に三倍なんだ?」
「MS−06Fと比べてかしらね?」
 春彦ちゃんのお母さんは、アニメ好きだ。
「さ、食べてみて。自慢じゃないけど自信作だよ」
「どれどれ・・・」
 春彦ちゃんは呟きながらマフィンを手に取り頬張った。わたしもいただきますと言ってお皿からマフィンを一つとって食べてみる。
「おいしい!」
 思わず声が出た。わたしのママはとってもお料理が上手だけど、春彦ちゃんのお母さんの作るお菓子もとってもおいしい。
 えっと、その、お菓子以外はちょっとアレだけど・・・
「ふふふ・・・いっぱい食べてね。そして春彦は友美ちゃんの食べた数の三倍は食べるように。これノルマね」
「ご褒美なんじゃ・・・」
「いーから食う」
 春彦ちゃんはちょっとぶつぶつ言ったけど、やがて凄い勢いで食べ出した。
「うんうん。春彦にはいくつもいいトコがあるけど、どんな物でも残さず食べるってのも長所の一つよね」
 お母さんが呟いたけど、わたしはちょっと違うと思う。
「美春お母さんのお菓子がおいしいからだと思いますよ。こんなに勢い良く食べるのは」
「さんくす。今度友美ちゃんにも教えてあげるからね。静香さん、お菓子作りは苦手みたいだから」
 静香っていうのは私のママの名前だ。
「ぐっ・・・」
 春彦ちゃんが変な声を出した。どうやら喉に詰まっちゃったらしい。
「はい春彦ちゃん、牛乳」
 わたしがコップを差し出すと春彦ちゃんはそれをぐっと飲み干した。
「すまん」
「どういたしまして」
 わたしが笑いながらいうと春彦ちゃんはまたマフィンの山に突入していった。私もそこから一つとって頬張る。
「以心伝心ね」
「あの、その・・・幼なじみですから」
 美春お母さんはちっちっちと指を振る。
「そんな事でどーすんのよ。うちのバカ息子の面倒、ついでに私と彦太さんの老後の世話も任せるつもりなんだから」
「・・・厚かましい親だなおい」
 春彦ちゃんの呟きを美春お母さんはきっぱりと無視した。
「いい、友美ちゃん?女の子の辞書にはね、敗北と後退の字は無いの。ターゲットを見据えたら、後は正面突破!誰が何と言おうと躊躇っちゃダメなのよ」
「・・・駆け落ち同然に学生結婚した人が言うと重みが違うな」
「まーね。でもうちの家族は応援してくれてるし、半分が味方になってくれるならいーじゃない」
 春彦ちゃんのお父さんの家はおっきな病院で、結婚するとき色々大変だったっていうのはわたしも聞いたことがある。
「と、いうわけで友美ちゃん。これ食べ終わったら美春流豪腕爆砕チョコの作り方を伝授するからよろしく」
「はい!」
「と、いうかそれってチョコの名前なのかホントに・・・」
 頷くわたしの隣で、春彦ちゃんが呟いた。


「そう。美春さんには今度何かお礼をしなくちゃ行けないわね」
 お店が終わって遅い夜ご飯を食べながらママはそう言って笑ってくれた。
「うん。もしそう言ったら『今度お昼ご飯をおごってくれればそれでチャラ』っていっといてって美春お母さんが」
「・・・あそこの親子にはかなわないわ」
 ママは残り物のチンジャオロースウをつまみながら苦笑する。
「それにしても友美、やっぱり春彦君のこと好きなの?」
「え?え?え?」
 うろたえたわたしにママは暖かい笑顔を向けた。
「春彦君はかっこいいし優しいから競争率高いわよ?しっかり捕まえとかないと、そのうちひょいって後から来た娘に取られちゃうかもしれないわよ?」
「そ、そういうのじゃ、ないもん・・・」
 わたしはあたふたしながらそうとだけ言った。
 春彦ちゃんは、大事なお友達。それだけで十分だから・・・
 確かにそのときまでは、そう思って誤魔化していられたのだ。
 次の日に、あんな事が起きるとも知らずに・・・


「ねえ三上ちゃん」
 クラスの違う後藤さんがわたしのクラスに来たのは次の日の放課後だった。
「後藤さん?なあに?」
 ちょっと怖い顔をしている後藤さんに怯えながら聞いてみると後藤さんはわたしの顔を睨むように見つめて口を開いた。
「三上ちゃん、山名君のこと、好きなのよね?」
「え・・・ええっ!?」
 わたしはびっくりして三歩ほど後ずさった。後藤さんは怖い顔のまま間を詰める。
「好きなのよね?」
「え、だって、その、わたしなんかじゃ・・・その・・・」
 ぐるぐる回る頭の中そのままにこぼれ落ちた言葉は、自分でもよくわからない。
「・・・私は、山名君が好きよ」
「え!?」
 大きく口を開けて固まったわたしの腕を後藤さんはぐっと掴んだ。
「三上ちゃん!確かめに行くわよ!」
「た、たしかめって!?」
「山名君の気持ち!」
 思いっきり手を引っ張られてわたしはつんのめりながら走り出した。
「痛いよ後藤さん!離して!」
「ダメよ!来るの!」
 後藤さんはわたしを引きずって5組に・・・春彦ちゃんと後藤さんのクラスに来た。
「山名くん!」
「ん?」
 後藤さんが叫ぶと、ランドセルにノートをしまっていた春彦ちゃんが振り向く。
「・・・何だ?二人して」
「山名くん、三上ちゃんのことが好きよね!?」
「は!?」
 春彦ちゃんはいきなりなセリフに絶句してわたしと後藤さんの顔を見比べる。
「ずっと見てたよ・・・だから、わかってるんだから!山名くんは三上ちゃんが好き!そうなんでしょ!?」
「や、やめてよ後藤さん!」
 なんで!?なんでこんなことするの!?
「お、俺はだな・・・」
 春彦ちゃんはたじろぎながらも口を開いたけど、わたしが思わず上目遣いに見つめてしまったら、困ったような顔で黙り込んでしまう。
「・・・やっぱり、好きなのね」
 後藤さんがぽつりと呟いた。
「べ、別にそう言うわけでは・・・俺達は幼なじみだし・・・」
「え・・・?」
 心底困ったような春彦ちゃんの言葉にわたしは思わず呟いてしまった。
「お、おい!友美!?」
「・・・・・・」
 『なに?』って言ったつもりだった。
 春彦ちゃんは間違ってない。その通りだもん。わたしも、そう思ってるもん。
 でも・・・でも、わたしの喉からは何も声が出なかった。
「おい、違うぞ友美!」
「・・・うん、わかってる。わかってるよ春彦ちゃん・・・」
 声は出た。でも、一緒に涙も出て来ちゃった。ホントに嫌になる。何でわたしって、こんなに泣き虫なんだろう・・・
「ごめんなさい!」
 わたしは叫んで走り出した。
「おい、友美!待て!」
「み、三上ちゃん?」
 二人の声が聞こえるけど、わたしはただひたすらに走った。
 嫌だった。
 春彦ちゃんの顔を見ているのも、後藤さんの声を聞いているのも・・・
 そして何よりも、わたしがそこにいること・・・それが、何よりも、イヤ・・・
 わたしは泣きながら階段を駆け下り廊下を走り抜き、昇降口を飛び出した。
 校舎を出てから、わたしはようやく涙を拭く気になってハンカチを取り出す。
「あれー!?三上が一人で帰ってるぞー?」
 手が止まった。
 おそるおそる振り返ると、吉田君達が校舎から出てくるところだった。
「めっずらしー!」
「夫婦喧嘩かぁー!?」
「ちがうもん!」
 わたしは反射的に大声を出していた。
「ちがうもん!ぜんぜんちがうもん!」
「な、なんだよこいつ・・・」
 吉田君の仲間の、確か上級生の人がびっくりして呟くのが聞こえる。
「な、なにがちがうんだよ!いつもいつもベタベタしてるくせに!このスケベー!」
「ちがうんだもん!」
 わたしは思わず吉田君に駆け寄って手を振り上げた。
「わ、わわ!何だよ、こいつ!」
 吉田君は戸惑った声で掴みかかったわたしを振り払う。
「きゃんっ!」
 わたしは土の上に勢い良く転んでしまった。倒れた背中の下でランドセルが・・・お父さんのランドセルが悲鳴を上げる!
「あぁぁぁっ!」
 地面に座り込んだままランドセルを胸に抱え直して叫ぶわたしを吉田君達が戸惑った目で見つめる。
「どうしたんだこいつ?」
「あ、僕知ってるよ!三上ってなんでか知らないけどランドセルをすっごく大事にしてるんだぜ!」
「やだ・・・やめて・・・」
 わたしは嫌な予感にとらわれて立ち上がることも出来ずに呟いた。
「よぅし、取り上げちまえーっ!」
「やめてぇぇぇっ!」
 わたしは一生懸命ランドセルにしがみついた。駄目!これだけはイヤ!
「よおし、とったぞー!」
 でも、男の子の力にはとうてい勝てなくて、お父さんのランドセルはあっけなく吉田君達に取られてしまった。
「どうしよっかこれ?」
「踏んじゃえ!」
「踏んじゃえ踏んじゃえーっ!」
 ランドセルが・・・お父さんのランドセルが・・・
「やめてぇ・・・やめてよぉ・・・ひぐっ・・・ぐすっ・・・」
 大事なランドセルが、お父さんがくれたランドセルが踏まれて、蹴られて・・・
 何もできない。弱虫で、泣き虫で、どうしようもなく駄目なわたしは、宝物を取られても泣きじゃくる事しかできない・・・

「・・・何を、している?」
 低い声がした。
 その声は、いつも聞いている声で・・・でも、初めて聞く声だった。
「貴様等は、そこで何をしている?」
 その声は・・・わたしが怖くなるくらい、怒ってた。
「や、山名・・・!?」
 春彦ちゃんが、春彦ちゃんが怒ってる!
「な、なんだよ!おまえには関係ないだろ!」
「・・・友美をいじめる奴を、俺が見逃すとでも思うのか?」
「そ、そんな怖い顔したって駄目だぞ!こっちは6人も・・・それにお兄ちゃんだって!」
「生きて帰れると・・・思うなぁッ!」
 吉田君が言い終わる前に、春彦ちゃんは飛びかかっていた。
「わ、わっ!」
 おもわずしゃがみ込んだ吉田君を思いきり蹴り倒しお腹を思いっきり踏みつけ、殴りかかってきた二人目を地面に転がってやり過ごし立ち上がる。
「くっそー!二年のくせに!」
 わめきながら突っ込んできた体の大きな子を受け止めて春彦ちゃんはちょっと苦しそうな顔をした。
 でも。
「こんなもんが・・・効くかぁっ!」
 春彦ちゃんは、そう叫んで男の子の首を抱え込みそのまま後ろに投げ飛ばした!
 たしかあれって、美春お母さんがよくやる『垂直落下式ぶれーんばすたー』って言う技だ。
「・・・三上ちゃん!」
 ぽかんとして春彦ちゃん達の喧嘩を眺めていたわたしは、後ろから聞こえた声に我に返った。
「ご、後藤さん・・・」
 口ごもりながらわたしは呟いた。後藤さんは片手に春彦ちゃんのランドセル、もう片方の手に・・・ぼろぼろになっちゃったわたしのランドセルを持っている。
「ほら!ここにいると危ないよ!もっと下がって!」
「で、でも・・・春彦ちゃんが!」
 後藤さんは、笑っているような泣いてるような微妙な顔をした。
「大丈夫・・・三上ちゃんだってわかってるんでしょ?ずいぶん殴られちゃってるし、ぼろぼろになってるけど・・・山名くんが怒ってるんだから・・・絶対勝つわよ」
 わたしはちょっとびっくりしながら頷いた。
「・・・後藤さん、春彦ちゃんのこと、本当によく見てるんだね」
「・・・三上ちゃんほどじゃないよ」
 後藤さんの手を借りて何とか立ち上がってわたしは春彦ちゃんを見つめた。
 倒れた吉田君を無茶苦茶に踏みつけてる春彦ちゃんは少しふらふらしていて、傷だらけだったけど・・・
 とっても、とってもかっこよかった。


「おぼえてろよーっ!」
「ふぇぇぇん!」
 数分経って、吉田君達は口々に叫びながら走って行ってしまった。
「・・・覚えてろだと?忘れてやるとでも思っているのか?」
 あちこちに痣とか切り傷を作った春彦ちゃんが不機嫌そうに呟く。
「ほら、ぼさっとしない!先生が来ると面倒よ」
「ああ。そうだな」
 春彦ちゃんはしかめっつらしく頷いて後藤さんからランドセルを二つ受け取ってわたしの手を取った。
「は、春彦ちゃん・・・」
「行くぞ」
 わたしの顔を見ないまま、春彦ちゃんはそう言って走り出す。
「後のことは任せといて!」
 引っ張られて走りながら振り向くと、校舎の前に立って手を振る後藤さんが見えた。
 後藤さんの目には、遠くてよくはわからなかったけど・・・涙が光っていた気がした。


「よし・・・休憩しよう・・・」
 学校の近くの公園で、春彦ちゃんは呟いて立ち止まった。遊ぶ道具は何にもなくて、ただただ広く、桜の木がいっぱい植えてある近所の公園だ。
「たたた・・・くそ、今度本格的に母さんから空手をならっとく必要が有るな。あんないい加減な格闘術じゃ身が持たん」
 毒づいてる春彦ちゃんが、とても不思議なモノに見えた。
「春彦ちゃん・・・」
「・・・ん、なんだ?」
 気まずそうにわたしを見つめてる仕草が、苦しいくらい嬉しい。
「春彦ちゃん春彦ちゃん春彦ちゃん・・・」
 今日何度目かになる涙が頬を伝って落ちた。
「お、おいっどうしたんだよ・・・」
「はるひこちゃぁぁぁぁぁぁぁん!!!!」
 優しくて、強くて、意地っ張りで、かっこよくて・・・
 もう、誤魔化す事なんて出来なかった。完全に自覚しちゃったから、目をそらしていた物を、真正面から見てしまったから・・・
 だからわたしは、迷わず春彦ちゃんにしがみついて大声で泣いた。
 それはもう、一生に二度と無いんじゃないかってくらい、大声で泣いた。
「・・・大丈夫だ。何も問題ない」
 春彦ちゃんはそう言ってわたしの背中を撫でてくれたけど、声がちょっと震えているのがわたしにもわかる。やっぱりあちこちが痛いみたいだ。
 無理してる春彦ちゃんがおかしくて、わたしは笑った。笑いながら、ずっと泣き続けた。


「うん、もう大丈夫・・・ありがとう」
 何分もかけて泣きやんだわたしは春彦ちゃんから離れた。
「いや、原因を作ったのは俺の方だし・・・」
「ううん!春彦ちゃんは悪くないよっ!全部わたしがいけないんだもん!」
 春彦ちゃんは困ったような顔でわたしを見つめていたけど、しばらくして大きく頷きながら口を開いた。
「悪いと思ってるか?」
「・・・うん」
 頷くわたしに春彦ちゃんはそっぽを向いて腕組みをする。
「なら、俺の頼みを一つ聞いてくれ」
「え?・・・うん、何でもきくよ。春彦ちゃんのいうことなら・・・」
 春彦ちゃんは少し微笑んで私を見つめた。
「おまえのランドセル、前から欲しかったんだ。俺のと交換してくれ」
「うん・・・えっ!?」
 反射的に頷きかけてからわたしは驚いて目を見開いた。
「だ、だってこれ・・・こんなぼろぼろだし、汚いし・・・」
 わたしは足下に置いてあった潰れて、歪んで、泥だらけになったランドセルを見つめた。一度は止まった涙がまた溢れそうになる。
「大事な物だって事は知ってる。でもそれが欲しいんだ。代わりに俺のランドセルあげるからさ・・・な、頼むよ」
 おどけて拝むような仕草をする春彦ちゃんを見ているうちに、溢れそうだった涙は大きな流れになって頬を濡らし始めた。
「お、おい、泣くなよ・・・」
「うん、ゴメンね・・・でも、今度は悲しくて泣いてるんじゃないから・・・」
 手の甲で涙を拭ってわたしは一生懸命笑った。
「あのね、あのね春彦ちゃん・・・わたし、春彦ちゃんのこと大好きだよ」
「・・・俺も、友美のことが好きだ」
 わたしたちは赤くなって黙ってしまう。
「・・・そうだ。約束しよう」
 しばらくして先に口を開いたのは春彦ちゃんだった。
「約束?」
「ああ。俺は友美が好きだから、どんな奴からでもどんな事からでも友美を守る。ずっとずっと、大人になっても絶対に友美のことを守る!」
 わたしは、胸の奥で何かが変わるのを感じた。このままじゃ駄目。このままじゃ、春彦ちゃんの隣にいる資格なんて無いよ!
「春彦ちゃん・・・わたしも、約束する!」
 だからわたしは叫んでいた。
「春彦ちゃんがピンチの時は、わたしが守る!泣き虫も今日でやめる・・・つよくなるから・・・春彦ちゃんのために、ぜったい、ぜったい強くなるから・・・!春彦ちゃんにただ守られるだけのお姫様じゃなく、春彦ちゃんと一緒に歩いていけるように・・・!」


 こうして、わたしは新しい宝物と、一生を賭けて護る大事な約束を手に入れた。

 そして、13年後・・・あたしの人生は、二回目の転機にさしかかったわけで。

「・・・ん?おまえまだそれもってたのか?」
 あたしのアパートの掃除を手伝わせていた春彦が眉を片方上げて呟いた。冬花さんは家で留守番をしているので、春彦の部屋よりずっと狭いわたしの家にはこいつとあたしの二人きりだ。
「いーじゃない。これはあたしの宝物なんだから」
 言い返して目の前の宝物・・・古くて黒いランドセルの埃を丁寧に拭き取る。昔から大事にしてるおかげでいまだに型くずれ一つしていない。
「宝物、ねえ・・・」
「そーよ?三上友美の勝利に満ちた人生の第一歩、貴重な戦利品第一号なんだから。13年間無敗無敵!まさに後退と敗北の文字無しって感じよね」
 春彦は笑って肩をすくめてモップを動かす。
「泣き虫友美がこうなるとはね」
「・・・だって、あなたの為だもの」
 背中を向けたまま、あたしは呟いた。
 春も間近になった暖かな光がモップと雑巾の音を吸い込んで床に染み込む。
「それにしたって、強くなりすぎなんだよおまえは・・・あのころは可愛かったのに」
「な、なんですってぇ!?」
 わたしは叫びながら振り返り春彦の顔めがけて雑巾を投げつけた。
 軽くスウェーして逃げた春彦の顔に、投げると同時に跳び上がったあたしの両足が突き刺さる。美春お母さん直伝のハイスピード・ドロップキックだ。
「ぐはっ・・・!」
 当たる直前に首を振って衝撃の大半を逃がした春彦は軽く呻いて吹き飛ぶだけですんだようだ。相変わらず見事な防御力・・・
「こぅの、ロリィがぁっ!」
 あたしは叫びながら倒れた春彦を引き起こしスリーパーホールドを極める。
 いろいろあって、いろいろ変わって、でも・・・相変わらずあたしはこの男にベタ惚れのままだ。
 あーあ、きっと一生こいつを好きなまんまなんだろうね。あたしってば。
 冬花さんっていう超強力ライバルも現れちゃったし・・・前途多難だわこりゃ。
 でも。
 それでも、春彦があたしじゃなく冬花さんを選ぶとしても・・・きっと、あたしは春彦のことを好きなままだと思う。
 あたし達の約束は、無制限で無期限。どんなに二人が変わっても、永久に続くんだから。


 ね、春彦ちゃん・・・


 ちなみに。
「友美ッ!チョーク!チョーク!」
 春彦はあたしが物思いに耽っている三分間、完全に極まった状態で耐え続けた。