静粛なるべき病院の廊下を一人の男が走っていた。スピードの割に音のしない奇妙な駆け足で看護婦や病人をすり抜けてひたすらにそこを目指す。
「春彦!おせぇぞ!」
ようやくたどり着いたそこでいらいらと足踏みをしていた黒ずくめの女性が悪態をつく。
「・・・これでも全速力だ。訴訟も一つキャンセルしてきたしな・・・で、いまどうなっている?」
ネクタイをゆるめながら男は・・・春彦は尋ねた。
「まだ生まれてねぇよ。間に合ってよかったな」
相変わらず黒ずくめの浅野景子に言われて春彦は一つ頷いた。
「ご主人ですか?」
「ん?」
不意にかけられた声に春彦は振り向く。そこには一人の看護婦が立っていた。
「今ならまだ間に合いますよ!早くこちらへ!着替えて殺菌して・・・奥様の側についてあげてください!」
「うむ、わかった!」
さすがに少し慌てた様子の春彦の背中を見送って浅野は小さく微笑んだ。常に悠然とかまえている春彦が動揺するのは、いつだって妻の・・・友美のことだ。
もし、それが自分であったなら。
ふとそんなことを考えて浅野は首を振った。
その夢想に浸ってよかったのはあのころの自分だけだ。
冬花の居たあの冬から、既に十年が経っているのだから。
「・・・あ・・・春彦・・・」
苦しげな息の合間を縫うように友美は呟いてニッと笑った。
「すまん。だいぶ遅れた」
春彦は友美の額に浮かんだ汗を軽く拭ってやってからその左手を握った。
「あはは・・・っつぅ・・・しょうがないよ。陣痛、急に来ちゃったんだし・・・」
「友美さん!あんましゃべらないでください!山名さんもあんまり無理をさせないでください!」
医者の注意に友美はにやっと笑った。少し痛みで引きつってはいたが。
「ごめんごめん・・・でも大丈夫だって!根性が違うから・・・それと、あんまじろじろ見たら後で殺すからね、バカアキ」
「・・・見ないでどうしろっていうんですか・・・それといい加減ちゃんと名前で呼んでくださいよ・・・」
さんざん冷やかされながらもなんとか産婦人科医となった佐野孝明はカクンと肩を落として仕事に戻る。
「・・・本当に、無理にしゃべろうとするなよ?」
春彦の真剣な声に友美は軽く頷いた。
「ホントに平気だってば。まかせといて・・・山名友美の辞書には・・・」
そこまで言って春彦と微笑みあう。
『敗北と後退の文字無し!』
「くっ・・・ぅぅぅぅっっっっっ!」
「友美・・・頑張れ・・・」
出産という行為に対して、男という者は極端に無力である。痛みを肩代わりすることも、子供が出てくるのを手伝うこともできない。できるのは、ただただ励ますことだけだ。
「もう少しですよ!」
佐野の声を聞きながら友美はギュッと春彦の手を握った。力強く握り返してくるその大きな手のひらに限りない安心感を感じる。
「つうっっっっ!」
「おぎゃぁああっ!」
ひときわ大きな叫びとそれまでそこに居なかった声が重なった。
「生まれましたよ!・・・え?」
報告する佐野の顔に驚きが走るのを見て友美と春彦は共に青ざめた。
「ど、どうした佐野ッ!何かまずいのか!?」
「い、いえ。元気ですし障害もありません。ただ、何というか・・・」
少し口ごもってから佐野はゴム手袋を外して頬をかいた。
「まあ見てくださいよ山名さん」
春彦は軽く眉をひそめ友美の手をもう一度握りしめてから離した。
「いったい何なんだ?」
呟きながら赤ん坊の体を洗っている看護婦の手元を眺めると、そこには・・・
「む!?・・・成る程。それは、驚く・・・」
「え?何?どーしたのよ春彦?こっちは体固定されてて見えないんだからね!」
出産の疲労を感じさせない友美の声に苦笑しながら春彦は看護婦がタオルに包んだ我が子を受け取った。
「なに、単純なことだ・・・名前が決まったと言うだけでな・・・」
いつものように静かな微笑みを浮かべて春彦は腕の中の赤ん坊を友美に見えるように差し出した。
「え?・・・あ・・・」
友美は口をぽかんと開け、たっぷり一分呆然としてから笑い出した。
「聞かないでも想像はついてるとは思うが、女の子だ」
両親の笑みに包まれて赤ん坊は・・・白い髪と赤い瞳を持った赤ん坊はきょろきょろと辺りを見回している。
「・・・桜、見に行こうね。かき氷、食べようね。海にも行こうね。いろんなとこに行こうね。今度こそずっとずっと一緒に居ようね・・・」
娘であり・・・そして親友でもあるその赤ん坊に語りかける友美の瞳に涙があふれる。
指でそれを拭う春彦の手に頬を寄せて友美は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶ忘れもしないあの少女にそっと呼びかける。
「約束したもんね・・・冬花・・・」
かくして、暖かすぎた冬に始まった奇跡は今も終わらない。
〜CherrySnow・EtarnalFlower ・・・Fin 〜