「・・・やるか」
 高校の制服からTシャツに着替えた風間恭一郎は呟きながら庭に出た。右手には汗を拭くためのタオル、左手には木刀が握られている。
「ん・・・」
 見上げた空にぽっかりと太陽が浮かぶ。昼も大分過ぎ、少し傾いてきた日差しが心地良い。
 恭一郎はタオルを木の枝に引っかけて木刀を両手で握った。目の前を大通りから舞い込んだらしい桜の花びらが通り過ぎるのをしばらく眺めて満足げに笑う。
「よっしゃいくか・・・早素振り100回、スタート!」
 一声叫ぶと同時に木刀を振り上げ振り下ろす。ぶんっ・・・と鈍い音を立てて頑丈な木で出来た刀身が空気を切り裂いた。
「1、2、3、4、5・・・」
 口に出して数えながら恭一郎は休むことなく木刀を振る。かなりペースが速い。
「32、33、34、35、ん・・・?」
 素振りを続ける恭一郎の目がふと斜め上に向けられた。
(人・・・?)
 隣の家の二階、ベランダに面したガラス戸がからからと開いたのだ。
(隣って空き家だったはずだけどな・・・)


「あー、いい天気!」
 天野美樹は上機嫌に呟きながらガラス戸を開けてベランダに出た。
「しっかし引っ越しの次の日にこの量の洗濯物を干してるってのもなんなんだか」
 呟いてよいしょと洗濯物が山盛りに入ったかごをベランダに出す。
 別に半日でこれだけの服を着回したわけではない。漫画家をやっている母が缶詰にされている間に溜まった洗濯物をまとめて美樹に押しつけただけだ。
 ちなみにその母は荷物が全て紐解かれた頃に帰ってきて部屋で爆睡中だ。締め切りの後は大概こんな状態なので天野家の家事は『主夫』である父親と美樹の分業制となっている。
「ふふん、ふんふ〜ん・・・」
 妙な鼻歌を歌いながら美樹はてきぱきと洗濯物を干し続ける。
 少し派手目だが目鼻立ちがはっきりして綺麗な顔に軽くウェーブした茶髪、170センチを越える長身に成熟しきった魅惑のボディーラインというモデルばりの容姿だが、なにげに家事は得意だ。
「・・・ん?」
 鼻歌が止まりその大きな目が斜め下を向いた。視線の先になにやら木刀を振っている男が一人。
(隣の家・・・男の子が居るんだ・・・あたしと同い年くらいかな?)
 心の中で呟きながら美樹は次の洗濯物を掴み出した。
「う・・・」
 そのまま絶句して動きが止まる。手にしっかりと握られているのは純白のパンティーだ。それも自分の、お気に入りの。
(か、母さんってばまた人のお気に入りを勝手に・・・つーか、これを今干すの?見られるかな?見られるよなぁ・・・うーむ、どうしたもんかしらね?なんか一生懸命やってるみたいだしこっちなんか見ないか?見てないか?だいじょぶか?)
 美樹は葛藤しながらも白くて小さな下着を恐る恐る洗濯挟みに近づけた。
 瞬間。
 ひゅ〜っ・・・
 何の予兆もなく強い風が・・・俗に言う『春一番』がベランダを駆け抜けた。かたかたとハンガーが揺れ、美樹の髪をぶわっと吹き上げる。
「はぷっ!?」
 髪が大量に口に入った美樹は両手でその髪を押さえて風が止むのを待った。
「はい?・・・両手?」
 思わず呟く。
 そう、両手でだ。
「うっきゃぁぁぁぁぁ!」
 当然その手に握られて居た大事な物は風に舞ってそのままベランダを飛び出していた。それも、わざわざ目の前の、少年が素振りをしている方にだ。
(だ、駄目!それ無し!徹底抗戦!死して屍拾う者無し!)
 心の中で意味不明の叫び声をあげて美樹はパニクったまま宙を舞うパンティーに飛びついた。
 すかっ・・・
 だが、無情にも白い悪魔は美樹の手をすり抜ける。勢いよく飛び出した美樹はひらひらと舞う下着をあっけなく追い越した。
 ベランダを越えて、空へと。
「・・・あれ?」
 一瞬の浮遊感。限りなく気持ちいいその瞬間はアドレナリンの影響でやけに長く感じられた。だからといって、事実には何の変わりもない。
 それはあたかも水泳の飛び込みのごとく・・・

『地球はやっぱり、青かった   天野美樹 談』

「うっきゃぁぁぁぁぁ!」
 ちらっと見たきり興味を無くしていた隣の家から甲高い悲鳴が聞こえて恭一郎は視線を上げた。
「ぶっ・・・!」
 思わず目を見張る。少女が・・・かなり美人な少女が背筋をピンと伸ばして空を飛んでいたのだ。少女は目を丸くしたまま軽い放物線を描いて滑空し、頂点を越える。後は重力の命じるままに・・・
「何やってんだあいつ!」
 恭一郎は叫びながら猛ダッシュを始めた。指先を伸ばしたスプリンターな走法で落下地点へと限界速度で駆け込む。
「間に合った!」
 踵に力を込めて急ブレーキをかける。ゴム製の靴底を芝生にめり込ませるようにして恭一郎の体は停止した。
「はぅああああああああああああ!」
 ギリギリのタイミングでそこへ悲鳴を上げながら少女の体が落ちてくる。
「ふぅうりゃぁあ!」
 ずしんとくる重みを恭一郎は全力で支えた。かなり鍛えてある両腕でも長身の少女の落下という事態はオーバーワーク気味だ。
「あ・・・助かっ・・・ああああぁぁぁぁ!」
 受け止められて一度は止まった少女の悲鳴が一テンポ置いて復活する。大きく見開かれた瞳を追うと、何やら白い物が・・・ハンカチだろうか?・・・ひらひらと落ちてくるところだった。どうやらこの白い物を落とすまいと少女は離陸したようだ。
「うりゃっ!」
 恭一郎は吠えながら唯一自由に動かせる首を伸ばし、大きく開けた口で落ちてきた白い物を空中でくわえ取る。
「はわっ!」
 少女は、何故か目を剥いて硬直した。


(おひさま、ぴっかり。くも、ふわりん)
 真っ白になった美樹の頭の中を意味のない単語がいくつか駆け抜けていった。
 目の前に、少年の胸と顔がある。ちょっと目つきが悪いが野性的な容貌は悪くないレベルで、はだけたシャツの間から見える胸も美樹をしっかりと抱き留める腕も筋肉質で引き締まっている。
 要するに、少年は美樹の目から見ても結構ワイルドでかっこいいのだ。
 ただ一点、美樹のお気に入りパンティーをくわえていなければだが。
「な・・・」
「ふぁ?(訳:な?)」
 喉の奥から溢れた言葉に少年は首を傾げる。瞬間、美樹の中で何かが千切れ飛んだ。
「ななななななな何すんのよ変態ッ!」
「ふぁへふぁふぇんふぁいふぁ!(訳:誰が変態だ!)」
 絶叫する美樹に少年は下着をくわえたままの壮絶な状態で叫び返す。
「あんたよあんたッ!人のパンティーいつまでもくわえてるんじゃないッ!」
 美樹は飛び跳ねるように少年の腕の中から抜け出し彼の口から悲劇の元凶である白い布をもぎ取った。
「パ・・・!?」
 少年はさっと青ざめ美樹の手に握られたそれを見つめる。
「あ・・・いや・・・これはだな・・・」
「痴漢!変質者!宇宙人(3m)!馬鹿!屑!肉欲魔人!」
 次々と飛び出す凶悪なフレーズに少年の顔色が青から赤に変わった。
「んだとぉっ!?てめえ黙ってりゃ調子にのりやがってペラペラと!それが人に命を助けて貰った奴の言うことか!?神風飛行馬鹿女が!」
「そんなものあんたの変質行為でプラマイ0どころかマイナスよむっつり性犯罪者ッ!」
 言い返された美樹は柳眉を吊り上げて少年に中指を突き立てる。
「事故だ事故っ!あんな短時間にそれが何かまでわかるかっつーのタイフーン級恩知らず!」
 少年は少年で親指で首を掻き切る仕草をしその親指をぐっと下に向ける。 
「はっ!どーかしらね!?あんたそういうの目敏そうな顔してるわよ!」
「ふん!おまえこそ無謀が服着て歩いてるみたいだぜ!」
 ばちばちと二人の間に火花が飛ぶ。
 もはや血を見ないとその場は収まらないかと思われたその時。
「はい、そこまでぇ!」
 妙に楽しげな声と共に二人の間に紅白二本の旗が突き出された。
「え?」
「何?」
 二人同時に視線を動かすと、その二本の旗を持っている女性が視界に入った。ショートカットのよく似合う快活な顔にニヤニヤとした笑いを浮かべている。
「か、母さん・・・」
「なんですとぉ!?」
 美樹は少年の言葉に思わず目を剥く。女性はいいとこ20代の後半だ。目の前の少年の実母だとしたら異常に若々しい。
「風間恭一郎の母、風間観月よ。よろしくぅ!では、判定します」
 観月は一方的にまくし立てた後に目を閉じ、眉をきゅっと寄せて俯いた。
 一瞬の沈思黙考、そして。
「勝者!隣に引っ越してきた女の子!」
 一声叫んで紅い旗を高々と掲げる。
「と、いうわけで罰ゲームよん」
 言いながら観月はむんずと恭一郎の後ろ襟を掴んだ。
「ぬわっ・・・!」
「さっさと来るぅ!」
 悲鳴には構わず観月はずるずると恭一郎を引きずって家へと戻っていく。
「痛てっ!痛てっ!ちょ、母さん!痛いぞ!」
「はっはっはー!だって母さんは痛くないんだもん」
 賑やかな声を残して二人は家の中へ消えた。
「な・・・何なの一体?」
 後に残されたのは、一人下着を握りしめる美樹のみ。
 
 二人の出会いは、そんな最悪な物だった。


 翌朝、いつにもまして不機嫌な顔で恭一郎は歩いていた。
 ブレザータイプの学生服を軽く着崩している。ネクタイもぶらんとぶら下がっているだけというワイルドな雰囲気だ。
「あ、恭ちゃんおはよう!」
 公園に足を踏み入れた恭一郎をベンチに座っていた女の子の声が迎える。
 少したれ目がちな目が可愛い。背が低いがどことなく見る者に安心感を与える風貌をしていて『小さなお姉さん』と言った感じだ。腰まである透けるように綺麗な黒髪を大きなリボンでまとめている。
「・・・葵、いつも元気だなおまえは」
 不機嫌そうにぼやく恭一郎に女の子・・・神楽坂葵は首を傾げた。
「どうしたの恭ちゃん?機嫌、良くないみたいだね」
「ああ・・・まあ歩きながら話すか・・・」
 葵は頷いて立ち上がり恭一郎の半歩後ろを追いかける。
「さっきから首押さえてるけど、寝違えたとか?」
「いや、母さんの折檻を喰らっただけだ」
 ぼそっと答える恭一郎の言葉に葵は少し引きつった笑みを浮かべた。
「えっと・・・レベルは?」
「メガ折檻」
 葵は気の毒そうに恭一郎の肩をぽんぽん叩く。
「大変だったんだね・・・でも何で?」
「ああ。昨日・・・いや、一昨日か?隣・・・ほれ、うちの庭と面してる空き家に誰か引っ越してきたらしい。で、そこの娘と少しもめちまったんだがいきなり母さんが出てきて『観月ちゃん判定の結果、あんたが悪いのに決定!』だとよ」
 話しているうちに六合学園が見えてくる。二人の通うこの高校は住んでいる龍実市からは少し離れているが十分歩いて通える圏内である。基本的に自転車やバイクで通学している生徒が多いが少し高台になっているため自転車組は校門までの数十メートルが辛い。
「そうなんだ。あ、恭ちゃん。その『隣の娘』って・・・いくつくらい?」
 えっちらおっちら坂を上りながら発せられた問いに恭一郎は少し首を傾げた。
「うーむ。俺と同じか少し下くらいじゃねえか?ともかく生意気そうで無謀そうで乱暴そうで・・・例えるならば、どんぶり一杯のニトログリセリン」
「えっと、わかるようなわからないような」
 ようやく坂を上りきって二人は校門をくぐった。学校のお約束、桜並木が登校する生徒達の上に華やかなエールを送る。
 創立者の趣味で植えられたという常識はずれにたくさん植えてある桜は、始業式から数日たった今頃が一番の見頃なのだ。 
「でも恭ちゃん。私達と同い年位って事は、うちに転校して来るんじゃない?」
「む。確かに・・・まあ、だとしても俺には関係ない。顔を合わせなきゃすむことだからな。さようならフォーエバー」
 恭一郎は唸りながら校舎に入り下駄箱を開ける。
「ふふふ・・・私達のクラスに転校してきたりして」
 上履きに履き替えながら葵はくすくすと笑った。
「馬ぁ鹿、そんな偶然あるわけねえだろうが。『偶然』俺の家の隣に越してきた奴が『偶然』うちの学校に転校してきたあげくに『偶然』同い年で『偶然』同じクラスになるってのか?さすがに無茶だろそれは」
「うん、それもそうだね」
 階段を登る。六合学園は三階建ての校舎に学年の高い順に上から教室が割り振られている。二年生の恭一郎達の教室は当然二階だ。
「ともかくあの女は気にくわない。もし次に会うようなことがあったら・・・セメント(真剣勝負)開始だな。多分」
 うんうんと一人頷きながら教室のドアを開け恭一郎は教室に足を踏み入れた。
「そんな物騒な・・・はぷっ!」
 続いて教室に入った葵は不意に立ち止まった恭一郎の背中にぶつかって尻餅をつく。
「いったぁい・・・どうしたの恭ちゃん?」
 お尻をさすりながら立ち上がった葵を無視して恭一郎は自分の席に歩み寄った。
 恭一郎の席は窓際の列の一番後ろに合ったはずだ。そこは、クラスの人数が奇数な為他の列の最後尾より一つ前に位置している。
 いや、いたはずだ。少なくとも昨日までは。
「あれ、これ・・・」
 近づいてきた葵が自分の席・・・恭一郎の隣だ・・・に荷物を置いて呟く。
「・・・机が、増えてるな」
 恭一郎は無表情に呟いた。恭一郎の後ろに、昨日まではなかった机が一つ置いてある。それは、つまり・・・
ぐっうぜんが、いーくつもー、かさーなーりあーあってぇ〜・・・」 
「歌うなっ!」
 某ゲームの主題歌を思わず口ずさんだ葵の脳天を恭一郎はぽこんと叩く。
 きーんこーん、きーんこーん・・・
 その時チャイムが鳴った。同時にがらがらと教室のドアが開く。
 恭一郎と葵がゆっくりと振り向くと、気楽そうな顔をした眼鏡の女性が入ってくるところだった。
「みんなー、ホームルームを始めるでー」
 眼鏡の女性・・・つまり担任の一声にみんながやがやと自分の席へ移動する。二人も何となく無言になってそれぞれの席に座った。
「みんなそろっとるな?今日は重要ないんふぉめーしょんがあるさかい、ちゃんと聞いとりや〜?」
 担任はそう言い置いてドアの向こうに手招きする。
「ほれ、入ってき」
「はい」
 廊下から聞こえてきた声に教室の中は一気にヒートアップした。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっ!女の子の転校生!?」
「エデンだ・・・エデンがここに・・・」
「美人か!?美人なのか!?」
「ちょっと男子!うるさいわよ!・・・でも美人だったら・・・くふふふふ」
「やーん、久美子ってば鬼畜ぅ〜」
 口々に叫ぶ声の中、恭一郎の頬がぴくぴくと引きつる。
「えっと・・・恭ちゃん・・・やっぱりそうなの?」
 恭一郎は無言で頷き、担任に手招きされて入ってきた少女をジト目で睨み付けた。
「みんな、もうわかっとると思うけど転校生や。さ、自己紹介し」
「はじめまして。天野美樹です。よろ・・・」
 よろしくと言いかけた美樹の動きがはたと止まる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 冷え冷えとした視線を絡め合って恭一郎も美樹も動かない。

『睨み合う二人の後ろに、私は確かに龍と虎を見ました。
                             神楽坂葵 談』

「何であんたがここにいんのよ筋肉変質者ッ!」
「俺が知るか!何でわざわざ人のクラスに来やがるんだ爆裂暴走女ッ!」
 指を突きつけて怒鳴る美樹に対し恭一郎はバンッと机を叩いて叫び返す。
「きょ、恭ちゃん!駄目だってばぁ!」
 一生懸命袖を引っ張る葵を振り切って恭一郎はガッと立ち上がる。
「また性懲りもなく紐無しバンジーに興じるつもりか?ほれ、窓はそこだぞ!?」
「あーらご親切にッ!今度はあんたに味あわせてあげましょうか!?」
 どちらからともなく歩み寄った二人は至近距離でにらみ合いを続ける。
「ふ、ふふふふふ・・・」
「へへ、へへへへ・・・」
 不気味な笑い声を上げる二人、おろおろとそれを見つめる葵、おもしろそうなイベントに興味津々なクラスメート。それらの全てを見回して担任はひょいっと肩を竦めた。
「ほれほれ、仲がえーのはわかったさかいさっさと席座り」
「仲がいい!?」
「どこをどう見たらそういう結論に!?」
 怒鳴る二人に構わず担任は出席簿に『全員出席』と書き込みさっさとそれを小脇に抱える。
「はい、ホームルーム終わり。みんな、今日も一日頑張りや〜」
 そのままひらひらと手を振って担任は出ていってしまう。残された二人は毒気を抜かれて呆然と立ちつくした。
「い、いい加減な人なのね。担任の人・・・」
「ああ。3秒ホームルームの伝説は伊達じゃない・・・」
 呟いたまま何となくぼーっとしていた二人の周りにはザッと音を立てて人の壁が現れた。
「うおっ!?」
 恭一郎はハッと我に返り慌ててその場を離脱したが美樹は急な展開にぽけっとしたままクラスの人間に取り囲まれてしまった。
「天野さん天野さん!転校するまでどこにいたの?」
「破壊神グラネリッサ様を信じますか?」
「彼氏とか居るの?」
 いきなりの質問責めに目を白黒させる美樹へクラス中から質問が浴びせられる。
「バスケ部に入らない!?今ならティッシュ3箱付けちゃうわよ!」
「向こうではなんて呼ばれてたの?」
「血液型は?あと星座教えて!」
キハ系列とか、すきですか・・・
「え?あ、あのね、そんな一度に聞かれても・・・」
 しどろもどろの美樹を横目で見ながら恭一郎は肩をすくめた。
「しかしまぁ珍獣扱いだなあいつ。あながち間違いじゃねえけど」
「た、助けてあげなくていいのかな恭ちゃん?」
 クラス中の女子に詰めかけられてもみくちゃになっている美樹を見ながらおろおろする葵に恭一郎はカラカラと笑ってみせる。
「気にすんなよ。アレはアレで歓迎の表現なんだろうし・・・ん?」
 周囲に漂う剣呑な気配に恭一郎はそろそろと振り返ってみた。
「かぁざぁまぁぁぁぁぁっ!!」
「ぬわっ!?」
 いつ現れたのかクラスの男達が暗黒のオーラを充満させつつそこに集まっていた。
「またか!?また抜け駆けか!?」
「葵ちゃんのみならず転校生まで・・・死ね!死んで男子全員にお詫びをしろ!」
「じゃかしいわ!好きで知り合ったわけじゃねえ!」
 怒鳴り返すと恭一郎を取り囲んだ男子達の目が闇を照り返して妖しく輝く。
「なるほど、『俺ほどのいい男になれば女は向こうからやってくる』というわけだな?」
「んなこと言ってねえだろうがっ!・・・まぁ、いい男だけどな」
「ぬあぁぁぁっ!ぬけぬけと!?このこのこのっ!」
「ぐわ!?ぬわっ!?ぉわっ!?」
 首をわしづかみで振り回されて恭一郎の頭がぐるんぐるんと回る。
「だぁぁぁっ!うっとおしい!」
 恭一郎は一声叫んで首を振り回すクラスメートを突き飛ばした。
「いい加減にしやがれ!葵っ俺の木刀!」
 バッと背後に手を伸ばした恭一郎に取り囲んでいた男達が一歩後退する。
 が。
「ふぅえええ・・・恭ちゃぁん・・・」
 肝心の葵は、恭一郎の木刀を抱えたまま男子の輪の外で目を潤ませていた。どうやら男達が詰め寄せたときに押し出されていたらしい。
「・・・・・・」
 恭一郎は手をつきだしたまま虚ろな目で辺りを見回す。
「丸腰の風間なんて怖くねえ!やっちまえ!」
「おう!」
 ライトリンチは、一時間目が始まるまで延々と続いた。


「くっそ、あいつら・・・月夜の晩だけだと思うなよ」
 恭一郎はぽかぽかと殴られて痛む頭をさすりながら呟いた。既に授業は始まっていてノートも教科書も広げてあるがそれに目をやる様子はない。
「ごめんね恭ちゃん」
 葵はすまなそうに小声で詫びる。恭一郎と違いよそ見しながらも何色ものペンを使い分けノートをとる手は止まらない。ひょっとしたら自動書記なのかも知れない。
「すまないとおもってるか?」
「うん」
 頷いた葵の手元にぽんっと折り畳んだ紙が投げ渡される。
「?」
 葵は首を傾げながら右手だけで器用にその紙・・・ノートの切れ端を開ける。左手は依然としてノートを取る手を休めない。
「わかったよ恭ちゃん」
 嬉しそうに頷く葵から目をそらして恭一郎は窓の外をぼんやりと眺めた。

 時は足早に過ぎ4時間目も終了間際・・・
「というようにだな。左足ブレーキというのはFF使いにとっては高レベルな・・・」
 脱線の止まらない授業を聞き流していた美樹はふと辺りを見回した。
「・・・・・・」
 何故かクラス中にぴりぴりとした空気が充満しているのだ。
(なんというか、こう決闘の前のような・・・?)
 誰かに聞いてみようかと思って躊躇する。横は知らない男の子だし目の前の変態男には死んでも聞きたくない。斜め前の女の子はクラスで一人だけのんびりしたムードのままだけど変態男の彼女か何かみたいだし。
(むー、どーしよ)
 悩んでいる間に、
 きーんこーん、きーんこーん・・・
(あ、授業終わった)
「では、今日はここまで」
 教師がそう言い終わったのを何人が聞いていただろうか?
「ぬぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
「急げ三島っ!フォーメーションBだ!」
「やだ!出遅れちゃった!」
 チャイムが鳴り終わるやいなやクラス中の人間が一斉に立ち上がり廊下へと殺到する。隣のクラスからも同じような怒号や歓声が聞こえてくるところを見るとどこも同じような状況らしい。
「そう、スタートダッシュは走り屋にとって大事な要素だ」
 教師も満足げに呟いて去っていく。がらんとした教室に残されたのは呆然と立ちすくむ美樹と・・・
「びっくりした?天野さん」
 苦笑しながらその傍らに立った葵だけ。
「な、なんなの?これ・・・」
「えっと、お昼ご飯レース、かな?」
 言ってから葵はぺこんと頭を下げた。
「まだ自己紹介してなかったよね。私、神楽坂葵。よろしくね天野さん」
「美樹でいいよ。その代わりあたしも葵ちゃんって呼ぶから」
 美樹はこっちもちょっと頭を下げてにっこり笑う。
(ふーん、あの馬鹿の彼女にはもったいないいい娘ね〜)
「えっと、美樹さんお昼はお弁当?」
「学食があるって聞いてたからそこで食べるつもりだったんだけど?」
 葵は『ぱん』と胸の前で手を打ち合わせてにっこり笑った。
「じゃあ案内するよ。一緒にいこ?」
「そーね、お願いしよっかな」
 頷いて美樹は葵と一緒に歩き始める。
「この学校ってちょっと変わってるからびっくりしたでしょ?」
「ホームルームの後のアレには参ったわ・・・あのまま続いてたら世界で初めて質問の海で溺れ死んだ女になるところだったわよ」
 軽い会話を交わしながら階段を下りて学食へ向かう。
「みんないい人なんだけどイベントがあると盛り上がり過ぎちゃう傾向があって・・・うちのクラスは特に濃いってよく言われるの」
「ふーん・・・ところで」
 美樹は学食への渡り廊下に入る前に思い切って聞いてみた。
「あれよね?あたしを学食まで案内してやれって・・・あの馬、じゃなかった風間が言い出したんでしょ?」
「ふぇ!?何でそれ・・・えっと、ち、違うよ?うん、それはもうチョコレートとひよこレートくらい違う・・・」
「確かに全然違うわね。それ」
 それ以前にひよこレートとは何だ?
 思いっきりしどろもどろになる葵に美樹は苦笑してぱたぱた手を振る。
「いや、なんかそんな気がしたから言ってみただけなんだけど・・・そなの?」
「あうう・・・任務失敗だよ恭ちゃん・・・」
 葵はしょぼんと肩を落とした。
「しっかしあの極悪人がどう言う風の吹き回しかしらね」
 呟く美樹に葵は困ったような微笑みを返した。
「恭ちゃんって、多分美樹さんが思ってるよりもいい人だよ。何があったのかは聞いてないけど出来れば恭ちゃんとは仲直りして欲しいなあ・・・」
「ま、善処はするわ。しかしあんなのを彼氏に持つと色々大変そうね」
 何気なく美樹が言うと葵は苦笑しながら首を振った。
「ううん、よく間違えられるけどそういうのじゃないの。恭ちゃんは私の恩人だよ」
「恩人?」
 眉をひそめる美樹に葵はにっこり笑って頷いてみせる。
「そう・・・あ、学食に入るよ美樹さん。気を引き締めてね?」
「気を?」
 眉をひそめて学食のドアをくぐった美樹は葵の言うとおり気を引き締めていなかったことを激しく後悔した。
「B定だっ!B定だって言ってんだろうが!」
「あたしのハンバーグセットが先ぃ!」
「き、きのこ・・・はうっ!?」
 食堂はただひたすらに広い。だが、それ以上に生徒が多すぎる。
「食券は結構すんなり買えるんだけどね、いざご飯を手にするのが大変なんだよ。特に定食類はおいしいし安いしボリュームあるしで走ってこないとこんな風に押し合いになっちゃうの」
「・・・にしたって何だってこんなにみんな気合いたっぷりなわけ?」
 ほとんど殺気すら放っている定食コーナーに気圧された美樹は少し後ずさりながら尋ねた。
「うん、それは・・・にゃぁぁぁぁぁ!?」
 頷いて答えようとした葵の姿が消えた。空いた席に群がる人波に飲まれたのだ。
「あ、葵ちゃん!?」
 そのままどこへともなく流されそうになった葵の手をはっしと掴む。
「ふ、ふにぃぃぃ・・・」
 へろへろになりながらも葵はなんとか美樹の側に戻ってきた。
「だ、大丈夫?」
「も、もちろん!慣れてるし・・・」
 美樹は曖昧な笑顔を浮かべて『慣れてどないすんねん!』と言うつっこみを心の中にしまっておいた。
「これはもうこういう風習なんだって割り切るしかないみたい。お弁当の人も大体食堂で食べてるしね。お茶と水はただで飲み放題だからってのもあるんじゃないかな」
 葵は乱れた髪を手早く直しながら説明を終えた。
「さ、遅くならないうちに食券を買っちゃお?定食類だとちょっと大変だけど麺類なら比較的早いよ」
「葵ちゃんは何にするの?」
 尋ねられた葵は心底嬉しそうににこっと笑う。
「きつねうどん!」
「そ、そう・・・好きなの?」
「うん!それはもう!」
 力強い宣言に思わず聞いてみるとそれ以上に力強い頷きが返ってきた。
「そ、そうなんだ・・・」
 何となく気圧されて美樹は食券用券売機を眺めた。カレーや麺類の定番から何じゃこりゃと言いたくなるようなものまでメニューは豊富だ。
「きっつねうっどん」
 歌うように呟きながら葵が食券を買うのを見て、ちらりと定食コーナーの混雑を眺めて美樹は大きく頷いた。
「ジャンボチキン定食っ!」
 無意味に叫びながら券売機のボタンを腰を落とした正拳で力強く叩く。
「わ!ぱわふる・・・定食にしたの?」
「なんとなく、ここで麺類とかにしたら負けって気がして。なんか後退とか敗北とかが辞書に有っちゃいけないって誰かが言ってた気がするし」
 腕まくりをしながら美樹は大混雑を続ける定食コーナーへ歩み寄った。
「だ、大丈夫?一緒に並んだ方がいい?」
「さんきゅ。でも大丈夫。まあ見ててよ」
 美樹は不敵な笑みを浮かべた。そして。
「とぅりゃあああ!」
 女の子?と首を傾げたくなる叫び声を上げて人混みに突入する。
「わ。ぱわふる」
 葵は目を丸くしてそれを見送ってから我に返った。
「きつねうどん、早く受けとらないと。なんか美樹さんの方が早く帰ってきそうな気がするよ・・・」
 事実、そうだった。


「恭ちゃ〜ん」
 周囲の恨みがましい視線を素知らぬ顔ではじき返しながらテーブルを一人で占拠していた恭一郎は聞き慣れた声に視線を上げた。
「おう、葵・・・と、カタパルト女」
「・・・性的逸脱者に言われたくはないわね」
 恭一郎のジャブにカウンターを打ち込みながら美樹は葵と共に恭一郎の向かい側に座る。
「ちょっと待て葵。何でさも当たり前のような顔でこのアポロ女も座ってんだよ」
 打ち合わせ通りの恭一郎の台詞に葵は引きつった笑いで答えた。
「えっと、それが・・・きょ、恭ちゃん少佐!任務失敗であります!」
 何となく敬礼などする葵に恭一郎はがくっと首をのけぞらした。
「・・・神楽坂伍長。君にはしばらく営倉へ行って貰おうか」
「あうう・・・冷たいご飯はやだよう・・・」
 恭一郎はニヤリと笑って葵を見下ろす。
「ふっ、民間人などを庇うからそうなるのだ」
「しかし少佐っ!軍人の本分は国民を護ることでありますっ!」
 謎の会話を繰り広げる二人の独特な世界に美樹はちょっとひき気味になる。
バカップル・・・
「誰がやねん!」
 思わず漏れた美樹の呟きに恭一郎はスナップの効いた裏拳でつっこみを入れる。
「む、敵ながらナイスつっこみ・・・」
「場数を踏んでるからな」
 恭一郎はそう言って箸を持った。目の前に置かれているのは冷しゃぶ定食320円。安い。
「まあいい。食うか」
「そうだね」
 言っていそいそと箸を持つ二人。美樹も肩をすくめて箸をとる。
「いただきます、と」
 呟いて美樹は全長30センチはあるかという巨大なチキンカツの一切れに箸をのばした。
 瞬間。
 カツン。
 のばした箸が虚しい音を立てる。掴んだ筈のチキンカツがない。
「やっぱここの定食はうまい」
 恭一郎は口に物が入ったまま満足げに呟く。
「あああああああんた!人のご飯取っといて言うセリフがそれ!?」
「ん?何の話だ。幻覚でも見たんじゃないか?クスリはひかえめにな」
 ニヤニヤ笑いと共に紡がれた言葉に美樹は野生が香る危険な笑みを浮かべた。
「へぇ、そっか・・・シャァッ!」
 奇声と共に美樹の腕が唸りをあげて伸び恭一郎の冷しゃぶを一掴み奪い去る。
「あ、あの技は伝説の『蛇使い』!」
「てめえ人の牛肉をっ!」
 怒気もあらわに睨み付けてくる恭一郎に美樹はニヤニヤ笑いを返す。
「何の話?幻覚でも見たんじゃないの?クスリは控えめが吉よ」
「ほほう」
 恭一郎は青筋を立てながら無理矢理微笑んだ。葵はずるずるとうどんをすする。
 二人は箸を静かに互いへ向けた。そして。
「セメントだこらぁっ!」
「上等よぉおっ!」
 咆吼と共にお互いの皿へと箸が伸びる。
「させるかっ!」
「こぅのアマチュアがぁあっ!」
 二人の勝負はたっぷり十三分、お互いの皿が空になるまで続いた。

『恭ちゃん達、ご飯の取り替えっこ?   神楽坂葵』


「連絡事項はあらへん。みんな気ぃつけて帰り」
 滞り無く授業は消化されて放課後。
「天野ちゃあああん!」
 押し掛けてきた女の子の集団に天野はのけぞった。
「一緒に帰りましょ!?いいところ案内するからぁ!」
「わぁ、久美子大胆!」
「おいしいお店軒並み紹介するわよ」
「破壊神グラネリッサ様の礼拝につきあいませんか」
 口々にまくし立てる女の子に美樹は冷や汗を掻きながらぱたぱたと手を振る。
「ごめん、今日はまだ荷物の整理残ってるから明日ね」
「しょぼぉぉぉん」
 女の子達は大げさに肩を落として燦々囂々散っていった。
「ほぉえぇ・・・有り難いやら困るやら・・・」
 呟く美樹の前に座っていた恭一郎が荷物をまとめ終わって立ち上がる。
「葵、行くぞ」
「うん、準備できたよ恭ちゃん」
 葵は恭一郎に頷いて見せてからくるっと美樹に向き直った。
「それじゃあ美樹さん、私達部活なのでこれで」
「うん、じゃまた明日」
 ひらひらと手を振ると葵はぺこっと頭を下げる。恭一郎はそんな二人を見ながら人の悪い笑みを浮かべる。
「町の中で遭難しないようせいぜい気を付けるんだな」
「するか!」
 叫び返す美樹を無視して恭一郎はさっさと教室を出ていった。葵もとてとてと後を追おう。
「むう、なんか微笑ましい動き方」
 呟いて美樹も教室を出た。


「そだ。手紙」
 一人家路をたどりながら美樹はふと思い出して鞄を探った。
「発見」
 可愛らしい便せんに入った手紙を取りだしてじっと眺める。
「やっぱ、今日中に出しとこっかな」
 一つ頷いて首を傾げる。
「ポストどこだっけ・・・なんか駅にあったような無かったような」
 いい加減な記憶を頼りに歩き出す。

 案の定迷った。

「・・・美樹ちゃん、ぴーんち」
 引きつった笑いを浮かべて美樹は呟いた。
 既に2時間以上歩き回っているが駅どころか自分の居る位置すらわからない。
「おっかしいなあ・・・昨日はちゃんと行けたんだけどなあ・・・父さんの車で」
 言ってから虚空に向かってびしっと裏拳を突き出す。
「ってそれ、だめやん!」
 ひとしきりつっこみの余韻に浸ってから周りの視線が気になってそそくさと突き出していた手を引っ込める。
「・・・おまえ、やはり頭の方に問題が」
「ふぇっ!?」
 呆れたような声に美樹は引きつった顔で振り返った。
「どうするべきか・・・やはり黄色い救急車か?」
 そこには木刀の入った袋と平べったい学生鞄を持ったガラの悪い高校生が一人立っている。言うまでもなく恭一郎だ。
「な、何であんたがここに!」
「何でも何も・・・帰り道だからな」
 そう言った恭一郎の顔がニヤリと笑み崩れる。
「そういえば天野美樹さんはここで何をしてるのかなぁ?ずいぶんゆっくりとご帰宅なさってるのですねぇ?」
「くっ・・・そ、そうよ!のんびりと帰宅中よ!悪い!?」
 焦って叫びながらも美樹の頭の中で激しい葛藤が繰り広げられる。
(ど、どうしよ!?こいつに聞けばポストの位置くらいわかるかな・・・でも何言われるかわかんないし。っていうか負けよね、それって。うぅ、駄目よ美樹!人間誇りを捨てたら終わりってお爺ちゃんも言ってたし)
「で?どこに行きたかったんだ?」
「え?」
 予想外に穏やかな口調に美樹はきょとんとした。
「案内くらいはしてやる。言ってみろ」
 ぶっきらぼうなセリフだが予想していたような悪意もからかうような響きもない。
「・・・手紙出したいから、ポスト」
「近くじゃねえか。行くぞ」
 言うが早いか恭一郎はさっさと歩き出す。
「あ、待ってよ」
 予想外の展開にまごまごしながら後を追う。
「ったく、だから遭難するなって言っただろうが」
「・・・油断したのよ」
 言い返しながらも美樹はそっと恭一郎の顔を見上げる。面倒くさそうな顔だが、嫌そうではない気がする。
「葵ちゃんは?」
「あいつの家は龍実町内じゃねえんだ。途中で別れた」
 言っているうちに真っ赤なポストが見えてきた。
「ま、丸い・・・」
 思わず美樹は呟いてしまう。そのポストは今時珍しい円柱型だった。
「見た目はアレだがちゃんと届く。龍実町では緑色の奴もまだ現役だからな。これはましな方だぜ」
「なんか、いろんな意味で凄い街ね・・・ここって」
 溜息をつきながら宛名と切手を確認して手紙を投函する。
「・・・むっちゃ少女趣味な封筒」
「ほ、ほっといてよ!人の勝手でしょうがっ!」
 赤くなった美樹に恭一郎は苦笑しながら首を振る。
「いや、葵の奴も同じようなのいっぱい持ってたからついな」
「・・・ふん」
 美樹はぷいっとそっぽを向いた。遠い山並みに沈みかけた夕日が眩しい。
 赤く、そして大きな空を眺めながら美樹はぽつっと呟いた。
「昨日、ごめん」
「は?」
 苦笑しながら自分の肩をとんとんと叩いていた恭一郎は予想もしてなかったセリフに顔面の筋肉を全部弛緩させて声を漏らす。
「助けて貰ったのに、言い過ぎてごめん」
「い、いや・・・まあ、どっちかっていやぁ悪りぃのは俺だし・・・」
 もごもごと答える恭一郎を見ながら美樹は『たはは』・・・と笑みをもらした。
「じゃ、これでチャラにしよっか」
 言いながら右手をすっと差し出す。
「・・・そだな」
 恭一郎も左手で頬をかきながらその手を握り返す。
 次の瞬間。
「とうりゃぁあっ!」
 がら空きの右頬めがけて美樹の平手が唸りをあげた。
「ぬわっ!?」
 恭一郎は悲鳴を上げながら握手した手を振り払いのけぞってビンタをかわす。
「何避けてんのよ」
「チャラにすんじゃなかったのか!?」
 犬歯をむき出して叫ぶ恭一郎に美樹は、
「だから、これでチャラ」
 言いながらさも当然というように目の前でびゅんっと平手を振る。
「殴られ損だろうが俺がっ!」
「ちっ・・・」
「ちっじゃない!」
「ちぇ・・・」
「ちぇじゃない!」
「キシャー」
「何者だおまえは!」
 一通りボケ倒してから二人は荒い息を整える。
「・・・帰るか」
「・・・そうね。暗くなってきたし」
 恭一郎が歩き始めると美樹も大人しくついてきた。
「さっきの手紙、前居たところにか?」
 しばらくして恭一郎は何気なく聞いてみる。
「え!?・・・そ、そう。別にあれよ?大した手紙じゃないのよ?近況報告って言うかなんて言うか無事つきましたっていうか会えなくて寂しいですって言うか・・・」
「・・・ラブレターか」
 恭一郎がそう言ったのはなかば冗談だった。だが。
「ななななななななんでわかったの!?超能力!?超能力なの!?009なの!?」
「いや、言ってみただけだったんだが・・・」
 美樹は、あちゃらかに混乱した頭でしばらくの間手を振り回したり回転したりしていたが観念してこっくり頷いた。
「そーよ。遠距離恋愛よ。母さんの仕事の都合で彼氏置き去りで引っ越しよ!?文句ある!?」
「別に文句は言っとらん」
 それきり無言になって二人は歩き続ける。
「やっぱ、遠距離恋愛なんてはやんないよね。今頃」
 しばらくしてぽつりと呟いた言葉に恭一郎は首を振った。
「いいじゃねえか。時代錯誤でも・・・俺も大して変わんねえよ。こう見えても片思い驀進中だ」
「え、なんで?葵ちゃんと付き合ってんでしょ?」
 恭一郎は苦々しく首を振って空を見上げた。
「好かれてはいる。俺もあいつのことは好きだ。だがあいつにとって俺は兄貴みたいなもんでな・・・恋愛対象じゃねえんだよ」
「そうなの?」
 ばつが悪そうに尋ねると苦笑しながら恭一郎は頷いた。
「小学3年の時に初めて会ったんだからもう8年くらい一緒に居るな・・・だが、あいつと俺の関係はその当時から変わんねえ。まあ、今の状態でも満足だがな」
「いいの?それで・・・」
 イメージに合わない発言に美樹は不満そうな言葉をもらす。
「別に見返りを求めて好きになるわけじゃないからな。現状で十分だ。俺はあいつのことが好きなんだからな」
「そっか・・・そうだよね。好きなんだから、それでいいよね」
 美樹も大きく頷く。
 何となく喋りづらくなって黙々と足を進めた二人の上で空は夜の色に染まる。
「ついたぞ」
 家の前について恭一郎は呟いた。
「さんきゅ。助かったわ」
「感謝してんならさっきの話は誰にも言うなよ?言いやがったらおまえの方の話もあること無いこと30倍くらいに膨らまして町中にばらまいてやるからな」
 美樹はぷうっと頬を膨らませる。
「言わないわよ。あんたと違ってあたしは常識をわきまえてるから」
「よく言うぜ。町内アムンゼン隊」
 軽口をたたき合うがそこに悪意はない。
「指切りでもしよっか。お互いの秘密を口に出さない約束」
「が、ガキじゃあるまいし・・・」
 顔を赤くする恭一郎の手を強引に取って美樹はその小指を自分のそれと絡ませる。
「ほら、いくよ」
「ちっ・・・しゃーねぇなぁ・・・」

『指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます!  
                      天野美樹・風間恭一郎』


 翌朝。
「じゃ、いってきまーす」
「はい、今日は美樹さんが食事当番ですからね。買い物は頼みましたよ」
 玄関から見送る父に手を振って答えて美樹は家を出た。
「あ・・・お、おはよう」
「・・・よう」
 同じく家から出てきた恭一郎と鉢合わせして二人はちょっと気まずい挨拶を交わした。そんな二人に楽しげな声が振ってきた。
「ん〜!?なんか妙な雰囲気〜!怪しいぞぉ〜」
「うるせえぞ母さん!いってくる!」
 恭一郎は二階からからかう母に叫び返して足早に行ってしまう。
「おーい、隣の娘ぉ〜」
「は、はい?」
 自分も歩きだそうとしたところに声をかけられて美樹はつんのめりながら振り返った。
「ま、ああいう子だし色々あると思うけどさ。仲良くしてやってよ。ああ見えていい子だからさ。きっと楽しいよ」
「・・・はい!」
 ぐっと親指を突き出した美樹は確かな確信と共に頷いて恭一郎の後を追った。

 きっと、こっちでの生活も楽しいものになるよ。