「葵、ちゃんと鍵はかけたか?」
 恭一郎は靴のつま先をトントンと地面に打ち付けながら振り返った。
「うん。ちゃんとかけたよ恭ちゃん」
 ドアを一度揺らしてみてから葵は大きく頷いた。
「窓も全部閉まってるわよ」
「火の元の確認も済んでいます」
 美樹とエレンの報告に軽く頷き返しながら恭一郎はふと空を見上げる。
「・・・やな空だな」
「ほんと、どんよりだね」
 葵の言葉通り、夕闇の迫る空はいつの間にか厚い雲に覆われていた。そこには夕焼けの赤はなくただただのっぺりとした灰色が広がっている。
「なんか今にも降りそう。早く帰ろうよ」
 美樹がそういった瞬間、まだ空を見上げていたエレンの頬にぽたりと水滴が落ちた。
「殿・・・言ってる側から降ってきたようですよ」
「俺、傘もってねえんだよな・・・」
 忌々しそうに恭一郎が呟くと、
「あたしも持ってないよ」
「私も今日は置いて来ちゃったよ恭ちゃん」
「私も同様です」
 残りの三人からも頼もしい(?)声が返ってきた。
「・・・・・・」
 無言で腕組みをした恭一郎の肩にぽつぽつと雨粒が染みを作る。
「総員!駆け足ッ!」
 次の瞬間、4人は一斉に走り出した。それを待っていたかのように雨が本降りになる。
「うわっ!?すげー降ってきやがった!・・・葵、おまえん家は遠いんだから迎えを呼んだほうがいいんじゃねえのか!?」
「ううん、大丈夫だよ恭ちゃん。あんまりうちの人に迷惑をかけたくもないし」
 話す声もよく聞こえないほどの激しい雨が4人をうつ。
「では殿!それに北の方、ついでに側室!私はこっちですので!」
 しばらく走ったところでエレンは軽く頭を下げて角を曲がった。
「じゃぁな!」
 恭一郎が一声叫び返して三人は走り続ける。実際美樹はともかく体力のない葵はバテて喋る気力がない。
「葵ちゃん、大丈夫?」 
 荒い息の合間に美樹が話しかけても葵はがくがくと首を振るばかりだ。
「お、おい葵、マジで辛そうだぞ!?やばいんなら言えよ?俺ん家までおぶってってやるからいったん体暖めて傘を持ってだな・・・」
「だ・・・だい、じょうぶ、だよ、恭ちゃん・・・」
 葵は少し苦しげながらも笑顔でVサインを作る。そのまま無言で走るうちにいつもの公園へと差し掛かった。
「じゃあ・・・二人とも・・・また、あした・・・」
 葵はへろへろと手を振る。
「おう、返ったらすぐに風呂に入って暖まれよ!」
「転んだりしないようにね!」
 恭一郎と美樹の言葉を背に受けて葵は少しふらつきながら二人の視界から消えた。
「・・・・・・」
 足の止まった恭一郎の背を美樹はぽんっと叩いた。
「ほれ、行こ?気持ちはわかっけどあんま心配してもしょうがないっしょ?」
「・・・ああ、そうだな」
 頷いて恭一郎は再び走り出した。さっきまでより数段早い。
「ぅわ!?あんた女の子と一緒なのに手加減なしで走るわけ!?」
「気遣いがいる相手か?おまえが!?」
 二人は叫びあいながら賑やかに家路を急いだ。

『それにしても、おぶってやるか・・・ふふふ・・・  天野美樹』

 翌日、いつものように公園に着いた二人を待っていたのは困った顔で立ちつくすエレン一人だった。
「えっと・・・葵ちゃんは?」
 無言のまま立ちつくす恭一郎の代わりに美樹が尋ねるとエレンは静かに首を振った。
「いつもなら私より前にここにいらっしゃってるんだが・・・」
 恭一郎は無言のままいつも葵が座っているベンチに近づきどっかりとそこに腰を下ろした。
「風間?」
「・・・俺はここでギリギリまで待つ。おまえらは先行ってろよ」
 無表情にそう言ってきた恭一郎にエレンは慌てて口を開いた。
「殿、それならわた・・・」
「了解!行くわよエレン」
 そのエレンの言葉を遮って美樹は恭一郎に向けてぐっと親指を突き出した。
「お、おい!」
「さって、れっつごー!」
 無暗に元気に叫んでから美樹はエレンの手を掴み引きずるように歩き出す。
 公園を出て恭一郎が見えなくなってから美樹はエレンの手を離した。
「側室!何のつもりだ!?」
「あんたね・・・気遣いとか優しさとかそーいうのはないわけ?時間にうるさい葵ちゃんの事だから遅刻とかじゃないっしょ。本当は責任感じる必要なんて無いんだろーけど、あいつばっちり自己嫌悪状態だし。しばらく一人にしてやるのが筋ってもんよ」
 さっさと学校へ向かう美樹と並んで歩きながらエレンはポカンとした顔で首を振る。
「・・・何よエレン」
「・・・おまえにそんな気配りが出来るとは・・・やはり腐っても大和撫子か」
「腐っとらんわ!」
 脊髄反射だけで叫び返しながらも美樹は別のことを考えたいた。

『・・・葵ちゃん、大事にされてるんだな・・・少し、うらやましい。 天野美樹』


 結局、一時間目が始まってしばらくしてから恭一郎は教室に姿を現した。
「風間くん、早く席に着きなさい」
 授業を中断された地学教師がムッとしたように言ってくるのを肩をすくめて聞き流し恭一郎は自分の席にどさっと腰を下ろす。乱暴なその物腰はいつも通りのように見えるのだが。
「・・・葵ちゃん、やっぱ風邪だってさ。先生が言ってたよ」
「そっか」
 美樹の囁きに気のなさそうな返事を返して恭一郎は窓の外を眺めだした。
「・・・・・・」
 片眉だけ上げてそんな恭一郎を美樹は眺める。
 
 時間は過ぎ、四時間目の終わり。

「要するに先制、中押し、駄目押しってわけだ」
 脱線を続けていた教師がチャイムと共に口を閉じ大きく頷いた。
「うむ、授業はこれで終わる。みんな頑張って食ってこい!」
「応っ!」
 生徒達は右手を天に向けて突き上げるが早いか雪崩のように廊下へと飛び出していく。
「うむ・・・ここの生徒達は反応が早い」
 満足げに教師もゆったりとした足取りで出ていく。教師は別の食堂が用意されているので急ぐ必要がないのである。
 そんな中。
「おーい風間ぁ・・・」
 一人座ったままの恭一郎に美樹は遠慮がちに声をかけた。
「かぁざまくぅん?」
 恭一郎は窓の外をぼんやりと眺めている。
「殿?」
 心配そうなエレンの呼びかけにも反応がない。
「むぅ・・・おいこらっ!恭一郎っ!」
「ぬぉ!?」
 耳元で叫ばれてようやく恭一郎は我に返った。
「うっせえぞ馬鹿野郎!・・・って何時の間に授業終わったんだ?」
「とっくよとっく・・・お昼食べに行かないわけ?」
 美樹に呆れ顔で言われて恭一郎は少し慌てたように立ち上がった。
「そうだな、こうしちゃいられねぇ。行くぞあ・・・」
 『葵』・・・その言葉を飲み込んで恭一郎は数秒間硬直した。
「あ・・・あっちの方を通っていこうかなぁあっと・・・」
 無茶苦茶苦しいフォローをしつつ恭一郎は食堂へ向かう。
 
 その日何を食べたのか、恭一郎は覚えていない。


「ほな、今日はこれでしまいや。もう少しで夏休みやさかい頑張りぃ」
 担任の眠そうな声とともにホームルームが終わると、教室は一気に騒がしくなった。
「命短し恋せよ乙女ぇぇぇぇっっっ!」
「おい、ゲーセンいこーぜゲーセン!噂の銀髪&赤毛ゲーマーが居る店見つけたんだ」
「享楽亭のモンブランおいしーよ。食べに行こっ!」
 口々に予定を叫びながら生徒達は教室を出ていく。そんな中・・・
「おい風間。神楽坂さんの」
「あん!?」
 一人座っていた恭一郎に話しかけた広田は不機嫌そうな声に一歩後ずさった。
「な、名前を出しただけで木刀握るなよ!」
「・・・念のためだ」
 ばつの悪そうな顔で呟く恭一郎に『なんのだよ』とつっこんでから広田は気を取り直して手にした数枚の紙を机の上に置いた。
「はい神楽坂さんの分のプリント。ホントは日直の僕が届けるんだけどな」
「・・・じゃあ届けろよ」
 そっぽを向いた視線を追いかけるように広田は移動して正面から恭一郎を見つめる。
「いいの?行かなくて?」
「ば、バ・・・俺は別にだな・・・のわっ!?」
 口ごもった恭一郎は頭の上に降ってきた暖かく柔らかい何かに机へ押しつけられて悲鳴を上げた。
「おっけおっけ!ちゃんと持っていかすから。サンキュ広田っち」
 恭一郎の頭に上半身を被せるようにして美樹は親指をぐっと突き出す。
「いやいや。気にしないでよ天野っち」
 苦笑気味に答えて広田はプリントを天野に渡して去っていった。それを見送る美樹にエレンはしかめっ面で声をかける。
「・・・いい加減その粗末な胸を殿からどけろ側室」
「誰が粗末よ!あんたみたいなのは牛よ牛っ!でかけりゃいいってもんじゃないっ!人間には人間の節度ってもんがあるのよっ!あたしだって十分でかいんだからね!」
「いいから、どけてくれ・・・」
 恭一郎の呟きに我に返った美樹はそそくさと体を起こした。
「ったく・・・」
 咳払いをしながら悪態を付く恭一郎の顔が赤い。
「ん〜?どーしたのかっざまくぅん?顔が赤いよぉ?」
「バっ!?い、息が出来なかっただけだ!」
 叫び返す恭一郎に美樹は悩ましげなポーズを取ってみせる。
「く・・・この野郎・・・」
「と、殿!あのような貧乳で萌えてはなりません!お望みとあらばこのエレンが・・・!」
「誰が貧乳よ!こう見えたってバストは88っ!」
 力余ってとんでもないことを口走るエレンに対抗して(?)美樹も一気にヒートアップする。
「ふ・・・90を割ってるようでは誇ってはいかんなぁ」
「ふん!牛肉だって米国産なんて量が多いだけじゃない!やっぱり和牛が一番!」
 クラスに残っていた全ての男子の注目を浴びているのも忘れて繰り広げられる舌戦。
「ふん!そこまで言うなら直接対決だ側室!」
「望む所よっ!」
 二人が叫びながら制服のリボンに手をかけた瞬間、
「いい加減にしろっちゅーねぇぇぇんんん!!!!」
 恭一郎の咆吼が窓ガラスをビリビリと振るわせた。
「一体何をやってんだお前らは・・・思わず俺が常識人になっちまったじゃねえか」
「う・・・」
「あう・・・」
 我に返ったエレンと美樹は赤い顔で小さくなった。クラス中の男子から『余計な事しやがって』の視線が恭一郎に突き刺さりクラス中の女子が怒りの鉄拳でその男子勢を追い払う。
「ったく・・・って、なに話してたんだったっけか」
「えっと、あれよ。葵ちゃん家にプリント届けるって話」
 知らぬまに放り捨てていたプリントを拾い上げて美樹はひらひらとそれを振った。
「・・・俺は行かないぞ」
「なに意地をはってんだか・・・あんな朝からそわそわしといて。さっさとお見舞いに行けばいいじゃない。んでもってぎゅーって」
 宙を抱きしめる美樹に恭一郎は赤くなってそっぽを向いた。
「するか馬鹿・・・」
「じゃ、行くことは行くわけね?」
 美樹はにへらっと笑った。
「・・・実はあいつの親父と仲がわりぃんだ」
「関係ないじゃん?」
 美樹はそこまで言ってから恭一郎の耳元に顔を寄せた。
「・・・好きなんでしょ?」
 恭一郎は口をへの字にして考え込んでいたがやがて渋々と言った感じで頷いた。
「わかった・・・なら、お前らも来いよ?」
「もち」
 即答した美樹に対してエレンは困った顔で俯いた。
「申し訳ございません殿・・・本日は両親と共に会食へ出ねばなりませんので・・・」
「そうか。まあそれだったらしょうがねえ」
 頷いて恭一郎は立ち上がった。薄っぺらい鞄を机の横から取りさっさと歩き出す。
「美樹・・・まぁ、血を見るのは覚悟しておけよ」


『・・・血!?     天野美樹 』

 いつもの公園を抜けて恭一郎と美樹はぶらぶらと歩いていた。
「葵ちゃん家ってどの辺にあんの?」
「この公園から10分ほどだ。俺達ならな。葵の奴だと歩幅が小さい分15分くらいかかる」
 ぶっきらぼうに答えて恭一郎は木刀を背負い直した。
「こらこら風間ぁ。ちょっと歩くのはやすぎっぞ」
「・・・普通だ普通」
 振り返りもせずに答えてくる恭一郎の背を美樹は早足で追いかける。
「まったくラブラブで萌え萌えなんだから・・・」
「くっ・・・そういうおまえはどーなんだよ。例の彼氏は元気か?」
 美樹はちょっと照れながら頷いて見せた。
「うん・・・って言っても手紙をやりとりしてるだけだからよくわからないけどね」
 言葉の端に寂しさの欠片を感じて恭一郎は遠い空に視線を投げた。
「・・・もう少しで夏休みだ。そしたらいくらでも会いに行けるだろ・・・っておまえ引っ越すまでどこにいたんだ?」
「言ってなかったっけ?京都だよ」
 恭一郎は、コキンと首を傾げた。
「・・・関東弁じゃねえか」
「うん。ちっちゃい頃は神奈川にいたの。んで、父さんの仕事の都合で京都に引っ越したの。ちなみに父さんは10年ほど前に会社を辞めて主父してるよ」
 何と答えて良いかわからず曖昧に頷きを返す恭一郎に半歩遅れて美樹は淡々と歩く。
 京都にいた日々があまりにも遠い。
 それを感じて何か後ろめたくなる。あんなにも嫌だったのに。あの人と離ればなれになることが嫌だったはずだったのに。仲のいい友達もいっぱい居たのに。
 いいのだろうか。こんなにも、楽しい日々を送っていて良いのだろうか?
「・・・の!天野!おい!」
「ふぇ!?」
 耳元で叫ぶ恭一郎の声で美樹は我に返った。
「な、なに!?」
「なにじゃねえぞ。ここを曲がるって何度言っても直進しやがって・・・新手の嫌がらせか?」
 ジト目で言ってくる恭一郎に美樹は頬を膨らませた。
「新手ってあたしはあんたにいやがらせした事なんて無いわよ!」
「ふん、どーだかな」
 にやっと笑って恭一郎はまた歩き出す。
「ふぅ・・・」
 美樹は大きくため息を付いて気分を入れ替えた。お見舞いに行くのに暗くなっているのもまずいだろう。軽く伸びをして辺りを見回す。
「ん?」
 ふと美樹は呟いた。さっきからずっと同じ塀の脇を歩いている。裕に5分は歩いているだろうか・・・途切れず、変わらず、見渡す限りその高い塀は続いている。
「ねぇ恭一郎。これ何?」
「知らんのか?それは塀というものだ。家と道路を隔てるのに使う」
 美樹は無言で恭一郎の右ボディにミドルキックを叩き込む。恭一郎はギリギリでガードしてから大きく頷いた。
「白と水色のストライプか・・・」
「!」
 慌ててスカートの裾を押さえる美樹ににやっと笑ってから恭一郎は再び歩き出した。
「風間!あんたって奴は!」
「見せたのはおまえだろうが。知らん知らん・・・ほれ、それよりもついたぞ」
 恭一郎は親指でくいっとそこを指差した。さっきからずっと続いている長い塀、そこに取り付けられたこれまた身長を超える高さの門扉の奥に見える文字通りの『豪邸』を。
「え・・・あ・・・?」
 きょとんとして立ちつくす美樹に構わず恭一郎は門柱に取り付けられたブザーを押した。
「はい、どちら様でしょうか?」
「風間恭一郎だ。松坂さんに問い合わせてくれ」
 門に備え付けられているスピーカーから聞こえてきた誰何の声に名乗るとしばらくの沈黙の後に少し柔らかくなった声が返ってきた。
「失礼いたしました。門を開けますので玄関ホールへどうぞ。松坂様が直接お出迎えなさるそうです」
「わかった」
 恭一郎が答えた途端巨大な門扉が音も立てずに開く。全自動である。
「・・・天野?」
 歩きだそうとして恭一郎は不審そうな目を背後に向けた。
「何してんだ?行こうぜ」
「いや、行こうぜって・・・ここ、何?」
 魂の抜けている美樹に恭一郎は『はぁ?』と首を傾げる。
「何って・・・葵ん家だ。何だとおもってんだ?」
「え、葵ちゃんち・・・葵ちゃん・・・」
 呟いて美樹ははっと息をのんだ。
「豪華なアパート!?」
「んなわけあるかっ!」
 正確無比なつっこみを肩口に受けて美樹はムンクのごとく伸び上がった。
「じゃ、マジでこれが・・・これが全部葵ちゃんの家なわけ!?」
「そーだよ。ほれ、行くぞ」
 ちょっと眉をしかめながら恭一郎は頷き門の奥へと足を進める。
「あ、ちょ、ちょっとまってよ!」
 慌てて後を追うと背後で独りでに門が閉まる。
「まあ、昔の財閥と違って名字が会社名になってるわけでもねえから知らなくても無理はねぇけどな。神楽坂家っつーたら金融から情報通信、重工まで幅広い分野で暗躍する名門だぜ」
「暗躍ってあんた・・・」
 不機嫌そうな恭一郎の声に美樹は口ごもった。
 喋る代わりに視線を動かすと見事なまでに整えられた庭が目に入る。
「・・・広いなぁ」
「のどかに見えてセキュリティはがっちりしてやがるぞ。何度か捕まったことがある」
 呟きに答えながら恭一郎はようやく辿り着いた玄関のドアを押し開けた。既に鍵は開いていたらしく重々しい音を立てて樫作りのドアが開く。
「・・・よぅ、松坂さん」
 恭一郎は軽く右手を挙げた。それに答えてだだっ広いホールに控えていた初老の男が深々とお辞儀をする。
「ようこそ恭一郎様、よくぞおいで下さいました」
「ここまで入って来れたって事は『奴』は居ないんだよな?」
 苦笑しながら頷いて松坂はカチンコチンになって恭一郎の後ろに隠れている美樹に温厚そうな笑顔を向けた。
「天野美樹様ですな?葵お嬢様からお話は伺っております。お噂に違わずお美しい」
「・・・外見だけはな」
「なぬ!?」
 恭一郎の言葉に硬直が解けた美樹は唸りながら恭一郎の脇腹を激しくつねり上げた。
「ぐはっ!?そう言うところが外見だけはって言われる理由だろうが!」
「はっはっは、お聞きしているとおり仲がよろしいようで。葵お嬢様とも仲良くしていただいているとか・・・元教育係として、そして執事としてお礼申し上げますぞ」
「いや、その。あたしは別に・・・」
 照れて真っ赤になった美樹に楽しげな視線を向けてから松坂は恭一郎に向き直った。
「では、葵お嬢様のお部屋まで御案内いたします。一応きまりですので」
「おう」
 恭一郎が頷くのを見届けてから松坂は静かに歩き出した。大理石造りの床にもかかわらず足音がしない。
「行くぞ。置いてかれると・・・迷う」
 言い置いてさっさと歩き出した恭一郎の後を慌てて美樹が追う。
「にしても、暖かく迎えれられてんじゃないの」
「はっはっは。私めは恭一郎様びいきですからな」
 何気ない美樹の言葉に松坂は暖かい笑みを浮かべる。恭一郎は仏頂面で首を振った。
「だが、この家で一番偉いのは忌々しいことに『奴』だからな・・・」
「奴?」
 恭一郎は舌打ちしながら頷く。
「葵の親父だ。今はいねぇけどな」
「会食の予定ですので本日は遅くなる筈ですぞ。ご心配なく」
 松坂はそう言って長い廊下の途中で立ち止まった。ひときわ豪華な扉を手で指し示して優雅に会釈する。
「こちらが葵様の寝室でございます」
 言って扉をノックする。
「お嬢様?よろしいでしょうか?」
「・・・はい、起きてますよ〜」
 いつも通りの間延びした声が返ってきて恭一郎は内心で少しホッとした。
「恭一郎様と天野様がおいでですぞ」
「ああ、はい・・・ふぇ!?」
 のんびりした声が途中で裏返る。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
 ドタン、バタン、ガタン・・・びたんっ!
「はぅうう・・・」
 しばらくうめき声だけが聞こえて。
 がたがたがた・・・
「よいしょ・・・ど、どうぞ〜」
 ようやく聞こえた許可の声に恭一郎は呆れ顔でドアを開けた。
「恭ちゃん、天野さん・・・こ、こんにちは」
 葵を一瞥してから恭一郎は無言で部屋の中心にある大きなベッドに歩み寄り、ぐるっと辺りを見渡した。
 基本的に寝るための部屋ではあるが本、ビデオ、テレビ等の娯楽機器も広い部屋の中に多く配置されている。どれもきちんと整理されているように見えて、どこか不自然な配置だ。
「おまえな・・・病人がどたばたすんじゃねぇよ。第一おまえの散らかし方なんぞ俺や天野と比べりゃかわいいもんだ」
 恭一郎はぺちんと葵の額を叩いた。
「あぅぅ・・・」
「・・・ていうか、あたしの部屋のことはほっといて頂戴」
 半眼で呟く美樹に構わず恭一郎はその辺に置いてあった椅子を引っ張ってきて葵の枕元に座る。
「ったく、熱上がったんじゃねぇか?」
 ぶつぶつ言いながら恭一郎が葵の額に手をあてると葵はちょっとびっくりした顔をしてから真っ赤になって大きな枕に沈んだ。
「思った通りあちぃな・・・気をつけろよな」
「う、うん・・・」
「ほほぅ・・・」
 その光景をちょっと離れて眺めながら美樹はV字にした親指と人差し指で顎をさすった。
「天野様」
 ニヤニヤしている美樹に扉の側に立ったままだった松坂は声をかけた。
「天野様は料理が得意とお聞きしています。ひとつお茶の準備を手伝っては頂けませんでしょうか?」
「ま、松坂さん!美樹さんはお客様だよ!?」
「いーからいーから。まかせときなさいって」
 慌てたような葵の声に美樹はひらひらと手を振って笑う。
「では天野様、こちらへ・・・」
「おっけ。行きましょうか」
 二人は恭一郎と葵に見えないように背を向けてから顔を見合わせてにやりと笑い寝室を出ていった。
 後に残された二人は何となく黙り込んでしまう。
「あ、えっとだな・・・」
「あ、あのね・・・」
 二人同時に喋りだし二人同時に口を閉じる。
「なんだ?」
「ううん、恭ちゃんこそどうぞ・・・」
(気まずい・・・しかも展開がベタベタだ)
 恭一郎は心の中で作者思いの呟きを発してからカッと目を見開き拳を振り上げた。
「豆腐っ!」
「だ、大豆!?」
 あんまりといえばあんまりな奇声をあげた恭一郎に葵は反射神経だけでぼけ返す。
 職人芸である。
「よし」
「な、何がよしなの恭ちゃん・・・」
 呆然としている葵に恭一郎はニヤリと微笑んだ。
「いや、なに。妙な空気だったからな・・・いつもの雰囲気に戻してみた」
「はぁ・・・」
 まだ呆然としている葵の頭をぽんぽんと恭一郎は叩く。
「風邪だってな」
「うん・・・やっぱり駄目だね、私って・・・恭ちゃんも美樹さんも大丈夫なのに・・・」
 葵は囁くようにそう言って恭一郎から目をそらした。
「・・・『あのとき』も言ったと思うけどな」
 恭一郎は葵の髪を軽く撫でながら呟く。
「おまえは俺じゃない。俺にはなれない。天野にもなれねぇし他の誰にもなれねぇ。なる必要もねぇ。おまえにしかできないことはたくさんあるし俺にしかできねぇことも多い。人が一緒にいるってのは、要するにそういう事じゃねぇのか?」
 葵は恭一郎の手を感じながら目を細めた。
「うん・・・」
 頷いた葵の額を指の先でピンッと額を弾いて恭一郎はニヤッと笑った。

 結局、妙な空気とやらにどっぷりと浸る二人なのだ。


「お気遣い、有り難うございます」
 厨房の隅でスコーンにつけるジャムを選びながら松坂は美樹に微笑んだ。
「いえいえ。しっかしあいつら・・・」
 語尾が苦笑に紛れた言葉を松坂が引き継いで重々しく頷く。
「ええ、らぶらぶでございます」
「よね。気付いてないのは本人だけよね」
 自宅では使ったことのないような高級な紅茶葉を蒸らしながら美樹は初々しい二人に思いを馳せた。
「・・・天野様から見て、恭一郎様はどんな方ですか?」
「あいつは・・・」
 美樹は呟いた。しばし考えてから再び口を開く。
「乱暴、強引、短気、目つき悪い、木刀、口悪すぎ・・・そんな奴」
 ポットからカップへ紅茶を入れて美樹はうっすらと微笑んだ。
「でも」
 意味もなく天井を見上げる。
「あいつには、何かが出来る力がある。常識とか、外聞とか、あたし達が囚われている物を全部投げ捨てて正しいと思う事が出来る。それは、凄いことだと思う」
 苦笑・・・あるいは自嘲をうかべて美樹は松坂に視線を向けた。
「絶対的な行動力・・・多分、あいつは主人公なんだよ」
「何の主人公なのですか?」
 松坂の疑問に美樹は笑みを深くする。
「自分の人生の。本当は、誰もがそうであるべきなんだけど・・・拘束する物はやっぱり多くて・・・」
 と、不意に美樹は我に返った。
「な、なんてね?あはははははは・・・」
 乾いた笑いを上げる美樹に松坂は暖かい微笑みをかえした。
「・・・冷める前にお茶を運びましょうか。葵お嬢様達も存分に雰囲気に浸った頃でしょうし」
「・・・うん」
 トレイを持って歩きながら美樹は首を振って小さな笑みを浮かべた。
「それにしても、あんだけ傍若無人な奴なのになんで葵ちゃんにたいしてだけは一歩引いてんのかしらね」
 何気ないつもりのその言葉に松坂は顔を曇らせた。
「・・・わかりません。ですが・・・」
 結局、松坂は何も言わなかった。


 一礼して出ていった松坂を横目に恭一郎は放り出してあったバッグをたぐり寄せた。
「忘れるとこだった。葵、これは今日の分授業で配布されたプリントだ」
「うん、ありがと」
 美樹の入れたお茶を片手に葵はプリントを受け取って軽く目を通す。
「・・・この辺があたし達との違いよね。風間なんてそのまま机の奥につっこんだのに」
「・・・いいんだよ。補習さえなきゃ」
 恭一郎は憮然として紅茶のカップを傾ける。
「畜生。うまい」
「あんたホントにひねくれてるわね。素直にほめれないわけ?」
 恭一郎はニヒルに笑った。
「無理だ」
「即答しやがったよこいつ・・・」
 憮然としたような表情をしかえしてから美樹はふと思い出したことを口にした。
「そういえば葵ちゃんって凄いお嬢様だったんだね。びっくりしたよ」
「う、うん・・・」
 途端に沈んだ顔になった葵に美樹は慌てて頭を下げた。
「ご、ごめん・・・気にしてたの?」
「そ、そういうわけじゃないんだけど、その・・・」
 力無く呟く葵の額が不意にぺちっと鳴った。
「はぅ!?」
 小さな悲鳴を上げる葵のほっぺたを額をはたいた右手で突っつきながら恭一郎はやれやれと首を振った。
「何を謝ってるんだ天野。こいつは間違いようもなくお嬢様だぞ。この上なく」
 言ってから肩をすくめる。
「そして、だからといってどうということもない。葵は、葵だ。だろ?」
「うん・・・うん!」
 視線を向けられて葵はちょっとびっくりした顔をしたがすぐに破顔して何度と無く頷いた。

 コンコン・・・

 暖かい空気になった室内に、不意にノックが響く。
「はい?」
「松坂でございます。少々困った事態になりまして・・・」
 葵の声に少し戸惑いの色を滲ませた松坂の言葉が返って来た。
「どうしたの松坂さん?」
「それが・・・お館様がご帰宅なされました・・・」
 その言葉の効果は劇的だった。
「ちっ!」
 恭一郎は瞳に獰猛な肉食獣の光をみなぎらせ傍らに置いてあった木刀を蹴り上げて立ち上がった。
 葵が立ち上がり窓を開けに行こうとしてよろめく。
「ああ、もう!風邪なんだから無理しちゃ駄目でしょ!?」
 よくわからないながらも葵を支えた美樹の脇を一陣の疾風と化した恭一郎が通り過ぎる。
 窓の鍵を乱暴に開けて大きく開け放ちその窓枠に足をかけ・・・
 バンッ!
「野良犬め!逃げる気か!」
 ドアを叩き付けるように開けた男の声に、その足を降ろしゆっくりと振り返った。
「野良犬とは言ってくれるぜカンガルー志望」
「・・・カンガルー?」
 美樹の疑問に恭一郎はニヤリと笑ってその男を睨み付ける。
「そのこころは、自分の子供をポケットにしまっておこうとする」
「ふん。おまえみたいな奴がうろちょろしねぇように選別しているだけだ」
 男はそう言ってふんぞり返る。
 背が高い。いくつもの会社を束ねる身という割にはホワイトカラーらしさが無くがっちりとした体格の野性的な男だ。
「親権が無敵だった時代は終わったんだぜご老体!」
 恭一郎は男から視線を外さないままに木刀を袋から引き抜いた。
「ふん・・・誰が何と言おうと、俺の目が黒いうちは・・・否、白くなろうが青くなろうがおまえは葵の側には近寄らせねぇぞ。神楽坂雄大の名にかけてな!」
 男は・・・葵の父雄大は凶悪な笑みを浮かべて手にしていた刀をシャリッと引き抜いた。刀身が鈍く光る。
「・・・って、また真剣!?」
 美樹の声を無視して恭一郎と雄大はじりじりと間合いを詰める。
「本庄正宗の露と消えるがいい」
「はっ!上等だ・・・」
 その足がぴたりと止まり。
セメントだこらあっ!』
 二人は異口同音にそう叫んで走り出した。葵の部屋を飛び出した二人はお互いの得物で激しく打ち合いながらどこかへ去っていく。
「・・・おっきな恭一郎が居た」
 美樹は呆然として呟いた。
「やっぱりそう思う?似てるよね。お父様と恭ちゃん」
 葵は苦笑しながらベッドに戻り傍らのテーブルに置いてあった紅茶を改めて口にする。
「・・・この機会に聞いとこっかな」
 美樹はちょっと唾を飲み込んでから無暗に緊張している自分に気付いて苦笑した。
「ねえ葵ちゃん。恭一郎のこと、どう思ってるの?」
「ふぇぷ!?」
 飲みかけの紅茶を軽く吹き出しかけて葵は慌てて口の中の液体を飲み込んだ。
「ほれほれ、白状おし〜」
 葵の葵らしい葵な反応に安心した美樹は女王様笑いをあげながらうりうりと葵の頭を抱え込む。
「わわわ・・・大好きだよ?恭ちゃんのことは」
「あ、案外あっさり白状したわね」
 肩すかしのような形で美樹は目を白黒させる。
「うん、大好きなお兄ちゃんって感じ」
「うわ。そう来たか・・・」
 美樹は苦笑しながら葵の頭を放した。外からかきんごきんと何かがぶつかり合う音がする。
「そうじゃなくちゃ、いけないんだよ・・・」
 葵は、美樹には聞こえないように呟いて『ぱふっ』と枕に沈み込んだ。


 翌日。
「・・・よぉ」
「おはよ」
 いつも通りの時間に家の前で鉢合わせた二人は軽く手を上げて挨拶を交わした。そのまま早足で歩き出す恭一郎に歩調を合わしながら美樹はにんまりと微笑む。
「おやおや風間さん。ずいぶんと急いでおりますな?学習意欲旺盛なことで」
「くっ・・・!べ、別に急いでなんか・・・」
 慌てて言い返した恭一郎の鼻先に美樹はピッと指を立てた。
「大丈夫。あんたが葵パパと殴り合ってる間に聞いといたけど今日はちゃんと学校に行くってさ」
「・・・別にそんなことを気にしてるわけじゃねぇぞ」
 そっぽを向いたまま呟く恭一郎に美樹は軽く肩をすくめた。
「そう?あたしは葵ちゃんが居なくて寂しいけどね。いつも一緒にいる人が居なくて寂しいと思うのは隠すこともないんじゃない?」
 恭一郎は答えない。ただ黙々と歩く。
 やがて公園に近づき、恭一郎の歩みがゆっくりとしたものにかわる。
「・・・わかってるさ」
 ふと聞こえた呟きに美樹は首を傾げて恭一郎を見上げた。
「でもな、それを認めるわけにはいかねぇんだよ。今はまだ、ギリギリの所でセーブしとかなくちゃいけねぇんだよ・・・俺の気持ちは」
 完全に足を止め、淡々と続ける。その顔は穏やかで、暖かい。
「だが、そうだな。俺は難しく考えすぎなんだ」
 恭一郎はそう言って美樹に晴れ晴れとした笑顔を向けた。
「ありがとよ」
 ぽんっと美樹の肩を叩き恭一郎は公園の中へと走っていった。
 少し赤らんだ頬をぺちぺちと叩きながらゆっくりとその後を追う。


『・・・お互い様、よ。     天野美樹』