「完成っと」
 美樹は焼き上がったあじの干物を皿に移して満足げに呟いた。傍らの鍋には豆腐とネギの味噌汁が湯気をたてているし、炊飯器の中では日本の心であるほかかごはんが出陣の時を今か今かと待っている。
 その数、父が早朝から外出しているにもかかわらず5人分。自分、母、締め切り前で徹夜作業をしていたアシスタント3名という大所帯だ。
「さって、呼んできますか」
 食卓に鍋や皿を配置した美樹は鼻歌混じりにキッチンを出た。
「うわ、熱・・・」
 途端に押し寄せるむせ返るような熱さに顔をしかめて窓の外の空を見上げる。まだ昼までには時間があるが、すでに日差しはかなり強い。
 夏休みに入ってからこっち良い天気続きな龍実町は、記録的な猛暑に見まわれているのだ。暑さに弱い人はさぞ困っているだろう
「おーい、朝ご飯だよーっ」
「ぅぉ、おおおお・・・」
 仕事部屋のドアを開けて美樹が叫ぶと憔悴しきった目が4組ふらふらとこっちを向いた。
「うわ、ここ特に暑っ・・・母さんちゃんとクーラーつけてる?」
「つけてるわよぉ・・・ね、梓ちゃん」
「はいせんせぇぇぇ・・・でもコピーとパソコンとトレース台の暖気でそんな物とっくに相殺されてますぅぅぅぅ」
 ベタを塗っていたアシスタントが掠れた声で答える。
「ま、ともかくご飯よ。居間の方がずっと涼しいから早く来てよみんな」
「おっけおっけ・・・じゃあ光久君、空港カットをコピっといてねぇぇぇ」
「了解death」
 アシスタントの一人が背景のストック箱から空港のカットを取りだしてコピー機に歩み寄る。
「梓ちゃんドライヤーね。あとはこれ保存して・・・」
 美樹の母はカラー扉ページに彩色をしていたパソコンに向き直り上書き保存ボタンをクリックしようとマウスを・・・

 ぶつん。

 操ろうとした瞬間、パソコンの電源が落ちた。ついでにクーラーと、乾燥用ドライヤーと、コピーの電源も。
 要するに、ブレーカーが落ちた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 美樹も、母も、梓も・・・その場の全ての人間が硬直した。唯一熱気に抵抗していたクーラーが停止したことにより室内に陽炎が立ちのぼる。
「これは、Dieピンチですねぇ」
 光久が呟いた瞬間。
 漫画家とそのアシスタント達はまとめてその場に倒れ伏した。


『原稿・・・げんこぉぉぉぉぉぉぉ・・・あちぃぃぃぃぃぃ 一同 』


 ぴんぽーん、ぴんぽーん・・・
 何度呼び鈴を押しても反応のない天野家を見上げて恭一郎と葵は首を傾げた。
「留守なのかな?」
「いや、さっきまでなんか中で騒いでたぞ?」
 恭一郎はそう言ってドアノブに手を伸ばした。
「・・・開いてる」
 呟いてドアを開けた恭一郎の袖を葵は不安顔で引っ張った。
「きょ、恭ちゃん・・・勝手に入っちゃまずいよ・・・」
「大丈夫。ジャイアニズムをしらんのか?おまえのものはってやつ」
 一人頷いて恭一郎は足を進めた。玄関でさっさと靴を脱ぎ家の中へ入る。
「お邪魔するぜ・・・って熱っ!?」
 そこは、砂漠だった。
 おそらくは廊下だったのであろう場所にもゆらゆらと陽炎が立ちのぼり、40度を超える気温の中にはぐったりと人が倒れて・・・
「って人!?」
 恭一郎と葵は慌てて倒れているその人に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
 葵が抱き起こすと、その女性はゆっくりと目を開ける。
「嗚呼、天使が見えるっすよせんせぇ・・・」
 恭一郎はうつろな表情でブツブツと呟いている女性の耳元に口を寄せた。
「・・・このページリテイク。ベタ全部塗り直しね」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっっっっっ!って、あれ?」
 女性はびくんっとのけぞり、ふと我に返ったのかきょろきょろと首を動かした。
「気が付いたか?確かあんた美樹の母さんとこのアシだよな」
「え・・・あ、隣の剣道少年くん。わ、私・・・生きてるの?」
「はい。生きてますよ。でも、何があったんですか?」
 葵の問いにアシの女性・・・梓は恐ろしげに首を振る。
「それは・・・自分の目で確かめて。そこの居間よ・・・」
「?」
 恭一郎が立ち上がり居間へと続くドアを大きく開け放つと・・・


「ばーにんばーにんホォォォォォォォォォォォウウウウウ!」
「うふふふふ・・・炎の神さまぁああ御こうりんあぶぶぶぶぶぶぶぶ」
 怪しげな宗教が、そこにあった。
 はちまきに蝋燭(火は付いていない)を刺しくねくねと踊る美樹。
 ガスコンロに向かって礼拝を繰り返す美樹母。
 その周りをぐるぐると踊るアシスタント。
「・・・・・・」
 ばたん。
 恭一郎は黙ってドアを閉めた。
「目をそらしてはいけないんdeathねぇ」
「あんなもん直視したくは・・・って誰だおまえ!?」
 いつの間にか隣に立っていた男に恭一郎はのけぞりながら木刀を向けた。
「いやいや。私も又先生のアシなんですYO」
 この暑さの中汗一つかかないまま飄々と告げて男はドアを指差した。
「ブレーカーがとんだんdeath。それだけかと思ったら配電盤ごとお亡くなりになられていることが判明したもので、Dieピンチなのです」
「み、光久君・・・何であんたそんなに平気なわけ?」
 梓はふらふらと立ち上がって光久に掴みかかる。
「心頭滅却death。コソボはもっと暑かったですYO?」
「いや、何でコソボ?」
 恭一郎の呟きに答えず光久はポケットから小さなリモコンを取り出す。
「取り敢えず、この閉塞した状況を何とかするdeathね」
「え?このパターンって・・・」
 葵が目を丸くした。
 恭一郎が慌ててリモコンをひったくろうとした。
 押しのけられた梓が壁にごっちんと頭をぶつけた。
「ぽちっと」
 だがそれよりも早く、光久はリモコンのボタンを押し込む。

 ボシュウッ!

 謎の音が居間から響いた。同時に悲鳴も。
「あんたはどこぞの風紀委員か!」
「そう言えば妹が世話になってるようdeathね」
 光久は妙に嬉しそうに頷いて居間のドアを開ける。
「は?」
 恭一郎は居間から吹き付けてきた『冷気』に呆然と呟いた。
「冷凍弾death」
 自慢げに解説する光久の鳩尾に木刀の柄を叩き込んでから恭一郎は恐る恐る凍り付けになっている居間に足を踏み入れた。
 薄い氷に覆われてしゃりしゃりと音を立てる床を蹴立てて奥に進む足がコツンと何かに当たった。
「・・・・・・」
 それが『なに』かわかっていたが、それでも引きつった顔になって恭一郎は視線を足下に降ろす。
「わ、美樹さんが凍りづけ・・・」
「のんびり言うな!解凍するぞ!外へ出せ!」
 危機感のない葵に取り敢えずつっこんでから恭一郎はあわただしく動き始めた。

『あ、でも涼しくて良いかも〜  平井 梓 』


「いやー、びっくりしたねぇ美樹ちゃん」
「そんなのんびり言わないでよ母さん・・・」
 黒い紙が有ったらそのまま燃えそうな日差しで身体に張り付いた氷を溶かしながら美樹は特大のため息を付いた。
「つーか致命的なのはそこの変態だろ」
「変態ではないですYO。その言い方は酷いdeath」
 恭一郎が唸ると光久は大げさによろめいてみせる。
「・・・そんなことよりも原稿はどうするんですか先生。僕の計算だとここでのんびりしている時間は無いと思いますが」
 真面目そうなアシスタントに言われて美樹の母はくいっと首を傾げた。
「しゃーないね。ホテルとってそっちでやろ。すぐには修理もこないだろーし」
「また缶詰ですか?」
 ぐったりしている梓にパタパタと手を振って美樹母は美樹に向き直った。
「というわけで私はホテルで原稿書いてるよ。美樹ちゃんはどーする?」
「どーしよ。あたしもいこっかな」
 悩む美樹の頭を恭一郎は呆れ顔でぱんっとはたいた。
「おまえな。俺と葵がなんでここに居るとおもってんだ」
 恭一郎の言葉を葵が引き継ぐ。
「今日は海に行こうって約束してたんだよ」
「お?おおおおお、そーだった」
 美樹はぽんっと手を打って笑った。
「・・・忘れてやがったな」
「いや、その、この騒ぎでさっぱり、もっさり」
 ひたすら笑って誤魔化している美樹に恭一郎は深くため息を付いた。
「さっさと荷物取ってこい・・・駅でエレンが待ってるぞ」


『海・・・いいdeathね。知らせておきまshow  光久 』

 龍実町から電車を乗り継いで50分。恭一郎達は湘南の海岸へとやってきた。
「・・・案外すいてんな」
 恭一郎は呟いて荷物を担ぎ直した。
「そぉね。ま、平日だし」
 美樹はサングラスをかけながらそう言って、ふと苦笑する。
「つーか、こういうとこにまで木刀を持ってくる?普通・・・」
「さすがに海には持ってはいらねぇよ。痛むし」
 恭一郎はちょっとムッとしたように言ってからその木刀で海の側にある建物を指した。
「あそこで着替えるぞ。もう昼前だしさっさと行こうぜ」
「おっけ」
 頷いて歩き出そうとした美樹の足が止まる。
「一応言っとくけどね・・・」
「俺の着替えを覗くなよ」
「そうそう、あんたの着替えをこう隙間から・・・覗くかっ!」
 髪を振り乱して叫ぶ美樹にエレンはぽんっと手を打った。
「おお、それが噂の『のりつっこみ』か。人には取り柄があるものだな側室」
「なんだとぉ!?」

『えっと、行かないの?  神楽坂葵 』


 恭一郎は他の面子を待ちながら一人ストレッチをしていた。
「おまたせー」
 声に振り向くと美樹がこちらへと歩いてくるところだった。色鮮やかなビキニにバレオをあわせている。
「葵とエレンはどうした?」
「あー、中が結構混んでてさ。みんなバラバラだったのよ」
 言っている間に今度は葵が歩いてきた。
「おまたせ恭ちゃん」
「おう」
 恭一郎は軽く手を上げて答えながら葵を観察した。シンプルな白いワンピースタイプの水着。片手に抱えた大きな浮き輪。
「おまえ・・・まだ泳げなかったのか・・・」
「う・・・」
 ため息と共に言われて葵はちょっとへこんだ。
「いーじゃないのよ。葵ちゃんは泳げない方が葵ちゃんらしいじゃない」
「美樹さん・・・それはフォローじゃないと思う・・・」
 葵はかなり激しくへこんだ。
「えっとほら・・・え、エレンはまだかしらね?」
 美樹はごまかし笑いを浮かべながら辺りを見回した。
「あ、居た居た。エレ・・・」
 振りかけた手が中途半端に止まる。
「どうしたの美樹・・・さ・・・」
 きょとんとしてその視線を追った葵も絶句した。
「殿!お待たせしました!」
 エレンは息を弾ませながら3人の前に立った。
「?どうしたのですか?」
 三者三様におののいている恭一郎達にエレンは不思議そうな顔で尋ねる。
「いや、その水着がだな・・・」
 恭一郎は額を押さえながらエレンの胸元を指差した。
 エレンの水着。それは深い紺色をしていた。全般的に頑丈そうな作りで尚かつ恭一郎の指差した胸元には『2−B えれん』と書かれた白い布が縫いつけてある。
 要するに、それは、スクール水着だった。
「日本ならではの水着です」
「・・・まあ、確かに」
「納得すなっ!」
 ふむと頷いた恭一郎の後頭部を美樹は遠心力の付いた平手ではたき倒した。
「エレン!あんた何考えとんねん!あかんやろそれ!?見てみぃ!むっちゃ注目受けてるやん!」
「うむ。軟弱な男ばかりで嘆かわしいな」
「あんたの格好が凄すぎるんやぁっ!」
 やれやれと首を振るエレンに美樹は天を仰いで吠えまくる。
「なんでやねん!何でスク水やねん!マニア受けでも狙っとるのん!?」
「あー、そのボリュームでスク水だとなんかイメクラみたいだもんな」
 恭一郎にうんうんと頷かれてエレンは首を傾げた。
「・・・殿、この水着はそんなにおかしいのでしょうか?『学生が着る水着』で尚かつ『日本独自の水着』と母上に聞いたのですが」
「そのおかんが元凶か・・・」
 美樹が呟くのを無視して恭一郎は苦笑した。
「間違ってはいねぇよな。まあ、特定の人々に好まれ過ぎる水着だし上からTシャツでも着とけ」
 エレンが首を捻りながらTシャツを着ている間に少し落ち着きを取り戻した美樹が深呼吸しながら葵と恭一郎に向き直る。
「はぁ・・・で、とりあえずどーしよっか」
「遠泳」
「却下」
 美樹は恭一郎の言葉を一秒に満たないスピードで否定した。
「ともかく、海なんだからまずは水に入りたいんだ俺は」
 二人のやりとりを聞いた葵は嬉しそうにパンッと手を打った。
「じゃあ、波打ち際であそぼ?」


「うふふふ・・・」
 美樹は笑いながら波を蹴立てて走っていた。
「あはは・・・」
 その後ろを恭一郎も笑顔で走る。スローモーションの風景にキラキラと謎の演出が輝く。
「ははは、まてまてぇ・・・」
「うふふ、おいついてみなさ〜い・・・」
 きらきらきらきらきら・・・
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 不意に二人は足を止めた。数秒の沈黙。
「きもちわるいっちゅーんじゃぁあっ!」
 振り向きざまに同時に叫んでくる二人に葵はにっこり笑った。
「おもしろい」
「おもしろくないっ!むしろ不気味っ!」
 恭一郎は叫んで何度も波を踏みつける。ざぶざぶと海水が弾けては消えた。
「成る程・・・これが日本の『青春』ですね殿!」
 感極まったように拳を握るエレンに恭一郎は曖昧な笑顔を向けて答えない。
「・・・取り敢えず、無難にビーチバレーでもやろっか。あっちでボール貸してるし・・・」
 美樹の提案に、恭一郎は渋々と言った感じで頷いた。


「えいっ!」
 葵の下打ちサーブがへろへろとビニールボールを美樹のもとに運ぶ。
「エレン、ゴー!」
 美樹はそのボールを綺麗に打ち上げてエレンに檄を飛ばす。
「言われるまでも無いっ!」
 軽く助走をつけてエレンは高く跳び、トスの頂点を叩く理想的なアタックを相手コートに叩き込んだ。
「ぬぉっ!」
 恭一郎は何とかそのアタックを受けるが力余って明後日の方向にレシーブをすっ飛ばしてしまう。
「あうー、これで12対3だよ・・・」
 悲しげな葵に美樹は苦笑した。
「うーん、恭一郎がこんな下手だとは思わなかったからなぁ。チーム編成間違えたかな」
「くっ・・・」
 恭一郎はボールを拾いながら背中を振るわす。
「何が悲しくてこんなボールをちまちま打ち返さなくちゃなんねぇんだ畜生!」
「ちょっとくらい力加減ってもん覚えたら?」
 恭一郎の怒声に美樹は肩をすくめてニヤリと笑う。
「くっそ無茶苦茶むかつく・・・」
「あの、殿・・・やめますか?」
 憤怒の表情を浮かべている恭一郎にエレンはすまなそうな顔で問いかけた。
「勝ち逃げなどさせるか!風間恭一郎が負けるときは常に力尽きたときだっ!」
「殿!漢らしいです!」
 感動したらしいエレンに少し気をよくして恭一郎は美樹にビシッと人差し指を向ける。
「さあ、どっからでもかかってきやがれ!」
「・・・取り敢えずサーブはこっちよ」
 恭一郎はしばらくそのままのポーズを取ってから無言でボールを美樹の方に転がす。
「ま、頑張るだけ頑張ってみれば?そーれっ!」
 美樹はボールを軽く放り投げ綺麗なフォームでジャンピングサーブを放った。
「わ、わわ!恭ちゃん、こっち来たよ!?」
 葵があたふたとよろめきながら何とかボールに向かう。
「大丈夫だ葵!おまえは動体視力だけはあるんだ!よく球を見ろ!」
「う、うん!やってみるよ!」
 葵はきりっと顔を引き締めて飛来する色鮮やかなビニールボールを見つめた。高性能な大きな瞳と素早く回転する頭脳がその予想落下地点を予測する。
「!」
 くわっと葵の目が大きく見開かれ、眉間の当たりにピキーンと電光が走った・・・ような気がした。
「見えるっ!」
 ばちんっ・・・
 葵の声と同時にボールは顔面にクリーンヒットした。
 見えていた。葵に、そのボールの動きはこの上なく見えていた。
 ただ、身体がついていかなかったのだ。
 そのままゆっくりとひっくり返る葵の顔面レシーブでボールはふらふらと宙を舞った。
「葵・・・おまえの遺産、無駄にはしないっ!」
「しんでないよー・・・」
 葵の声を無視して恭一郎はダッシュをかけ力強くジャンプした。
「日輪の力を借りて!今、必殺の・・・」
 大きくしなった腕が唸りをあげてボールを殴りつける。
サン・アタァァァック!」
「アタックつながり!?」
 美樹は取り敢えずつっこみを入れながらとんでもないスピードで迫るボールに備え捕球体勢に入った。
 が。
「あれ?」
 空気を切り裂くように飛来したボールは、美樹の頭上を越えて背後へとすっ飛んでいく。
「・・・・・・」
 美樹は無言で振り返りボールの行方を追った。
 ビニールボールであることを忘れたかのようにちょっとひしゃげた状態でボールはかっ飛んでいき、海へと・・・そこに立っている少女へと不気味な安定性で吸い込まれていく。
「あー・・・」
 恭一郎が引きつった顔で声をあげた瞬間。
 ぼこんっ。
 鈍い音を立てて、少女の後頭部にボールは激突した。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 しばし無言の瞬間が続く。
 ぶくぶくぶく・・・
 大の字になって水中に倒れ伏した少女の周りに泡が浮かび、
 ぶく・・・
 やがてその泡が絶えた。
 沈黙。そして青ざめた空気。
「と、殿・・・ぴくりとも動かないんですが・・・」
 更に沈黙。

『や、やべぇえええええええええ!  風間恭一郎』

「だ、大丈夫か?おい!」
 慌てて駆け寄った恭一郎が抱き起こすと少女は案外あっさりと目を開けた。ぴゅっと水を吹き出してからぴょこんと立ち上がる。
 ショートカットの、体中が何というかコンパクトにまとめられた少女だ。
「いやー、なんか綺麗な花畑が見えたっすよぉ」
「!?そ、それは・・・よかったわね。身体とか大丈夫なの・・・?」
 引きつった笑顔で尋ねる美樹に少女は『はっはっは』と笑ってみせた。
「いや、それがもう死んだお爺ちゃんに再会できて快調、快感、大満足っすよぉ!」
「わー、それはいいですね」
 嬉しそうにぽんと手を合わせる葵にちょっと引いてから恭一郎は傍らに落ちていたビニールボールを拾い上げた。
「ともかくすまない。俺が打ったボールが思わぬ方向に飛びやがったんだ」
「つーか、強く打ちすぎなのよあんたは・・・」
「やややややや、勢いってわりと大事っす。あはは〜!」
 恭一郎より先に少女に答えられて美樹は『はぁ』と曖昧に相槌を打つ。それを眺めていた葵は、ふと気付いて口を開いた。
「あれ、あなたは確かうちの学校の風紀委員の人?確か1年の・・・」
「およ?そーいえばあなたはみーさん先輩のお友達の”ろりぽっぷ”神楽坂先輩」
「・・・ろりぽっぷ?」
 ジト目で呟く恭一郎の顔を見て少女は驚いた顔をした。
「あ、よく見れば”木刀たこ殴り”の風間先輩に天野先輩あーんどマクライト先輩。ちゅーっす」
「何で俺と葵にだけ変な二つ名が付いてんだ・・・」
「それだけ有名って事じゃない?悪名が」
 唸るように呟く恭一郎の肩をぽんぽんと叩いて美樹は笑う。
「改めて自己紹介っす。ボクは1年F組、風紀委員の神戸由綺です。よろしく!」
「よろしくね、神戸さん。一人?」
 葵に尋ねられて神戸は勢いよく頷いた。勢い余って一度倒れてから立ち上がる。
「ういっす。家が近くなんでわりと一人です。今日はイカを狩りにきたっす」
「・・・イカ?」
 何かの聞き間違いかと美樹が尋ね直すと神戸はぶんぶんと頷いてみせた。
「そーっす。この海岸には毎年お化けイカが出るっす。体長5メートルの」
「5メートルぅ!?」
 恭一郎と美樹は異口同音に叫んで顔を見合わせる。
「はいな。でもそれは取り敢えずいいっす。ここで会ったのも何かの縁、一緒に遊ばないっすか?」
「うん・・・どうかな恭ちゃん?」
 見上げてくる葵の頭を恭一郎はぽんっと叩いた。
「そうだな。大勢の方が楽しいだろう」
「殿がよろしいなら私は問題有りません」
「もち、おっけ」
 即答する三人にちょっとびっくりした顔をみせた神戸だったが、すぐに快活な笑顔を浮かべて深々と頭を下げた。
「噂通りの人達っすね・・・では、お近づきの印にプレゼントっす」
 波打ち際に置いてあった大きなバックの中から緑色の球体を取り出す。黒いストライブの入ったそれは・・・
「スイカっす。海はやっぱりスイカ割りっすよ!」
「・・・それ、あたし達と会わなかったらどうするつもりだったの?」
 美樹の問いに神戸は天を指差した。
「なんつーか勢いで持ってきたのでボクにはそれは答えられないっす」
「・・・はぁ」
 呆れたように美樹は呟く。
「”タコ殴り”先輩、木刀は持ってきてないっすか?」
「・・・その変な呼び方をどうにかしたら持ってきてやる」
 唸る恭一郎に「にゃはは」と笑って神戸はバックの中を漁り目隠し用のはちまきを取り出す。
「ではカザマー曹長、武器を取ってきてほしいっす」
「・・・まあ、伍長とかじゃないだけ良いか・・・」
 ちょっとピントのずれた妥協をしつつ恭一郎は海の家へと歩き出した。

「ういっすカザマー曹長、準備おっけーっすよ」
 数分後風間は目隠しをして回されていた。
「おいてめぇら・・・少し回しすぎ・・・うぷっ・・・」
 唸りをあげて回転した風間はそのままうずくまる。
「気にしない気にしない!ほら、スイカは右のほうよ」
 全力で回した張本人が楽しげにはやしたてるのを目隠しされた目で睨み付けてから風間はすり足で砂を踏みしめた。
「恭ちゃん、そのまま!」
「殿!心眼です!」
 指示やら声援やらを聞きながら恭一郎はゆっくりと足を動かす。
「お、意外と的確な動きっす。もっとがーっと行ってほしいっす」
「そーよね。せっかくミスディレクション(誤誘導)してんのに全然ひっかかんないんだもん」
 神戸と美樹の会話に恭一郎はにんまりと笑う。
「ばかたれ。嘘が一切つけない葵が居る時点で俺に負けはない」
「つーか、勝ち負けなのこれ?」
 言っている間に恭一郎はスイカの真っ正面に辿り着いていた。
「こっちこっち・・・うん、そこだよ恭ちゃん!」
「よっしゃ。往生せいやぁっ!」
 恭一郎はゆっくりと愛用の木刀を振り上げた。頭上高く掲げた刀身が一瞬だけ太陽を遮り、そして・・・
 ずどんっ・・・!
 木刀が振り下ろされようとしたその瞬間、スイカは粉々に吹き飛んだ。
「ぬばっ!?」
 スイカの雨を横殴りに浴びて恭一郎が悲鳴を上げる。
「あー、このパターンは」
 美樹が呟いて振り向くと、はたしてそこにはいつも通り無表情にみーさんが突っ立っていた。黒いワンピースの水着の大胆な切り込み具合が目を引く。
「・・・命中」
 みーさんは呟きながらまだ煙を上げている無反動砲・・・ようするにバズーカーを肩から降ろした。
「いやぁ、粉々っすね先輩。ちゅーっす!」
 嬉しそうに頭を下げる神戸に手を上げて答えながらみーさんは僅かに嬉しげな表情を浮かべた。
「我ながら、上手く割れたと思う・・・」
「割れたじゃねぇっ!アレは砕けたっつーんだ!」
 恭一郎は足下に目隠しを叩き付けながら叫んだ。頭からずるりとスイカの皮が落ちる。
「え、えっと・・・みーさん、どうしてここに?」
「ふん、今更その女がどこにいても俺はおどろかねーよ。砂の中にでも埋まってたんじゃねぇのか?掘ったらいっぱい出てくるかもしれねぇぞ」
 なんとかとりなそうと口を開いた葵の言葉に、恭一郎はそっぽを向いたままちゃちゃを入れる。
「・・・恭一郎、いじわる。葵、かわいい」
 みーさんはぼそぼそと呟きながら葵の頭をぎゅっと抱き寄せる。 
「わわわっ・・・」
 硬直する葵の頭に頬ずりしながらみーさんは思い出したように口を開いた。
「兄からみんなこっちに来てるって聞いた・・・危ない」
「は?」
 断片的な台詞に首を傾げる一同をよそに神戸はいきなりその場に倒れ込んだ。
「ど、どうしたのだ神戸とやら」
 あわててエレンが抱き起こすと神戸はふらふらと腕を上げて海を指差す。
「や、奴が・・・奴が来る・・・ついに・・・ガクッ」
 自分の口で効果音までつけながらエレンの腕に沈んだ神戸の頭をみーさんはぺちんと叩いた。
「遊ばない。起きる」
「ういっす」
 神戸はぴょこんと立ち上がってから沖の方へと視線を投げた。
「実は去年撃退したときも、みーさん先輩に手伝ってもらったっすよ」
「うん。ぶいっ」
 無表情にVサインをするみーさんの横で神戸はにゃははと笑う。
「いやぁ、あの水雷がなかったらどうなってた事か」
「・・・あのさ」
 美樹は眉をひそめて問いかけた。
「ひょっとして、大イカのこと?」
「馬鹿おまえそんなもの居るはず・・・」
 言いかけた恭一郎の動きが止まる。ついでに思考も。
「あ、来たっすねぇ」
 気楽そうな神戸の声にいくつもの悲鳴が重なる。
「いいいいいいいいいいイカぁっ!?」
 そう。イカであった。
 白く、ぬるぬるしていて、足が十本あるアレだ。刺身にするとうまい。あぶってもいい。
「でかいぞおい!」
「だから、体長5メートルの大イカっす。計ったわけじゃないから正確にはわかんないっすけど」
 神戸は言いながら傍らに置いてあったバックから分解式の銛を取りだしてパチパチと組み立てていく。
「わわわっ!神戸さんアレと戦うの!?」
「はいっす。これでも漁師の娘っす」
「そーいう範疇の相手じゃないと思うわよあたしは・・・」
 やる気満々の神戸に引きつった顔で美樹がつっこみを入れる。その間にも大イカは海岸へと迫る。
 あたりにまばらながらも居た海水浴客が悲鳴と共に逃げていくのを見ながら神戸は隣のみーさんを見上げた。
「と言うわけで行きましょう先輩!援護お願いします!」
「うん」
 瞳に炎を燃え上がらせている神戸と焦点が微妙に合っていない目をしたみーさんが頷きあっている間に、大イカはついに海岸へと上陸した。
「おい、なんかイカこっちへ来るぞ!」
「はいな。去年思いっきり銛を突き刺してやったんで恨まれてるみたいっす」
 大イカはずるずると巨体を振るわせて砂浜を這ってくる。
「おっけー。そこ」
 みーさんは呟きながらいつの間にか手にしていたリモコンのボタンをぽちっと押し込んだ。
 どんっ!どんっ!どんっ!
 途端、断続的な爆発がイカの身体を下から突き上げる。
「キシャーーーーーッ!」
「・・・今年は確実に仕留められるように無線式クレイモア地雷」
「っていうかイカが叫んでるぞおい・・・」
 少しひいている恭一郎に対しエレンはキラキラと瞳を輝かす。
「さすがは怪獣が絶え間なく襲ってくることで有名な日本!」
「いや、なんか違うっしょそれ・・・」
 美樹の声を無視して神戸はぶんっと銛を振った。
「トドメ行くっす!」
 一声叫んでのたうち回っているイカへと走り出す。
「たぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」
 そして、砂浜を力強く蹴って神戸はイカへと身体ごと飛び込んだ!
 ぶんっ!
「キシャ」
 ぺち。
 イカは、あっけなく神戸を足で叩き落とした。
「・・・・・・」
 恭一郎達は唖然としてイカと神戸を見つめる。
「うぅ・・・後は、任せたっすガクっ」
「弱ッ!つーか弱ッ!無茶苦茶弱っ!激弱っ!」
 美樹が叫んでいる隣でみーさんはほんの少し困った顔をした。
「・・・去年は兄と火力で圧倒した」
「その兄上というのは?」
 エレンの問いにため息をついて恭一郎は首を振った。
「駄目だ。いまごろトーンでも張ってんじゃねぇか?」
 イカは伸びてしまった神戸には興味を無くしたのかズルズルとその巨体を引きずって恭一郎達へと近づいてくる。
「おい、こっち来るぞ。どーすんだよ」
「・・・後はもう接近戦しか」
 みーさんは言いながら恭一郎を見た。
「・・・そーね。非常識な物体には非常識を当てるべきよね」
 美樹は頷いて恭一郎を眺める。
「・・・殿、御武運を」
 エレンはワクワクしながら恭一郎に笑顔を向けた。
「大丈夫、恭ちゃんなら出来るよ」
 葵は邪心のない顔で恭一郎の手を握る。
「待て!いくら何でも相手はイカだぞ!?」
「・・・足の一、二本も叩き切れば帰る・・・はず」
 迫り来る大イカを指差して叫ぶ恭一郎にみーさんは事も無げにそう言った。
「ふぁいと。恭一郎」
「いいなあおまえはいつも気楽で」
 恭一郎はぼやきながらすぐ近くにまで迫った大イカに木刀を向ける。
「せめて真剣だったらなぁ」
「ぶつぶつ言わない!大丈夫よあんたも半分バケモンだし!」
 美樹の声に顔をしかめながら恭一郎は大イカに飛びかかった。
「どうりゃあっ!」
「キシャー!」
 叫びが交錯する。振り下ろされた足を身をよじって回避した恭一郎はそのままの勢いで大イカを思いっきり木刀で殴りつけた。
 ぶにっ。
「くっ!」
 柔らかい手応えに恭一郎は舌打ちしてバックステップする。
「キシャァッ!」
 瞬間、別の足が恭一郎を激しく打ち付けた。為す術もなく吹っ飛んだ風間は砂浜に受け身を取って衝撃を殺す。
「馬鹿風間!イカの足は10本あるのよ!」
「わかっとるわそんなもん!くそっ!お前ら取り敢えず逃げろ!」
 恭一郎は立ち上がって叫んだ。
「で、でも恭ちゃん」
「おまえが一番あぶねぇんだよ!とっとと逃げやがれ!」
 おろおろする葵の周りにぐにっと大イカの足が迫る。
「わわわっ!」
「葵ちゃん!」
 葵はイカの足に掴みあげられ悲鳴を上げた。イカは残る足をうねうねと動かして海へ戻り始める。
「生臭いよぉ」
 悲鳴らしき物をあげる葵を見上げてみーさんはどこからか取りだした厚手のサバイバルナイフを一気に引き抜く。
「・・・?」
 何とか葵を奪還しようとみーさんが走り出したその時、一陣の風が吹いた。
「風間!?」
 美樹の声に振り向きもせず恭一郎は疾風と化して砂浜を駆け、大きく跳躍する。
「あああああっっっ!」
 絶叫と共に、木刀が閃いた。
 どすっ・・・
「キシャァァァァァアッァア!」
 イカが悲鳴を上げる。
「わわわわわわ!?」
 葵も悲鳴を上げた。恭一郎の木刀は、葵を地上2メートル近くまで掴みあげていた足を木の摩擦力だけで綺麗に切り落として見せたのだ。慣性に引かれて落下する葵を一足早く着地していた恭一郎ががっしりと抱きとめる。
「キシャァッ!」
 足を一本失い怒りの声をあげる大イカに、恭一郎は葵を地面に降ろして冷たい視線を向けた。
「てめぇ、葵に何しやがんだイカ野郎・・・」
「いや、野郎も何もそいつはイカ・・・」
 美樹のつっこみも耳に入らない様子で恭一郎は木刀を強く握りしめる。
「キシャァッ!」
「死ねやこらぁああああっ!」
 連続した鈍い打撃音。甲高い悲鳴。そして静寂。
 イカが命からがら逃亡するまで、5分かからなかったと言う。


『・・・えぐい。    天野美樹』
 

「イカの脅威は去ったっす・・・ですが、ボクにはあのイカが最後のイカだとは思えない。いつ第二第三のイカが現れるかわからないっす」
 夕日を遠く眺めながら神戸は渋く呟いた。
「知るか畜生。疲れた・・・」
 砂浜に大の字になって倒れたまま恭一郎は唸るように呟く。
「えっと、ごめんね恭ちゃん」
 その恭一郎の頭を膝枕で支えながら葵はしょぼんとして頭を下げた。
「葵のせいじゃねぇから謝るな」
「そう。謝る必要ないっす」
「おまえは少し謝れ」
 意味もなくそっくりかえっている神戸に砂を投げつけている恭一郎を見ながら美樹はやれやれと首を振った。
「・・・それにしても風間ってば葵ちゃんのことになると無敵なのね」
 本人に聞こえないように呟いた言葉に隣に立っていたみーさんはわずかに眼を開き驚いた表情をして見せる。
「違う。恭一郎、いじわるだけど優しい。誰でも同じ」
 美樹はきょとんとしてみーさんを見つめ、それから恭一郎の方を向いて破顔した。
「うん。そーだね。それが風間だよね・・・」


『だからっ!イカ殺しなんつー称号はいらねぇっつてんだろうが神戸!
                                風間恭一郎』

 余談ではあるが。
「やっほー、原稿進んでる?母さん」
 美樹は母が泊まっているホテルの部屋のドアを開けて中に呼びかけた。
「あー、美樹ちゃん。ぼちぼちよん」
 快活に笑う母の周りでアシスタント達が忙しく手を動かす。
「お、みんなやってるね。そこで美樹ちゃんから差し入れだよん」
 美樹は悪戯っぽく笑ってから廊下に置いてあったそれを抱え上げた。
「うわっ!?何そのぶっといイカの足!」
 アシスタントの梓の声に美樹は笑みを深くしてどさっとそれを床に降ろした。

『ま、夏の思い出ってやつかな。   天野美樹 』

 なかなかに、美味だったらしい。