8月も半ばに入り、
「んんん〜ん、ふふ〜ん、ふ、ふふ〜ん・・・」
 美樹は鼻歌を歌いながらシャワーを浴びていた。
「ん〜んん〜ん〜ふふふ〜ん・・・」
 外は夕立が豪雨に変わりものすごい雨音を立てていると思うと気が大きくなって自然鼻歌も大声になる。
「ん〜ん〜、ぎゅおんぎゅおん!」
 想像ギターを無暗にかき鳴らし美樹はお湯を浴びながら右腕を高々と突き上げた。
「Thankyou N.Y.!イヤッハァッ!」
 その瞬間、窓から閃光が走った。
 ピシャッ!ゴロゴロゴロ!
 一瞬遅れて轟音が響く。雷である。しかも近い。
「ひょえぇっ!?」
 思わず悲鳴を上げると、周囲が唐突に闇に包まれた。
「わ!?わわ!?」
 あたふたした美樹はごちんと壁に頭をぶつけてうずくまる。
「あいたたた・・・なんなのよもー」
 眉をしかめながら取り敢えずシャワーのお湯を止めて美樹は風呂場を出た。真っ暗闇の中、手探りでバスタオルを探し手早く体中の水気を取る。
「まだ頭も洗ってないのに〜」
 ぶちぶち言ってこれまた手探りで探したタオルで髪の毛を手早くまとめて美樹は脱衣所のドアから頭を出した。
「うぉ?家中真っ暗・・・」
 呟いて美樹は壁づたいに歩き始めた。無論、バスタオルを身体にまいてである。
「まいったな。母さん達また缶詰なんだよね・・・」
 しんとした家の中に美樹の声が吸い込まれて消える。いつもより切羽詰まった締め切りに父親までアシスタントとして駆り出されたため、二階建て6LDKの家の中に人気はない。
「あ、外・・・外はどーなってるかな」
 真っ暗の中僅かに明るい庭に続く大窓を見つけて美樹はそっと外をのぞき見た。
 ピシャッ!ドォォォォン!
「にゃぁぁぁ!?」
 瞬間、再び雷鳴が鳴り響き美樹はそっくり返るように跳び上がった。
「びびびびびびびっくりしたぁ・・・」
 顔を引きつらせて立ち上がった途端。
 ピシャッ!ドォォォォン!
 三度落ちた雷にしゃがみ込む。
「うぅぅ・・・無茶苦茶雷だよぉ・・・」
 涙目で呟き美樹はそっと外の様子をうかがった。
「・・・あれ?うちだけじゃないわけ?」
 隣・・・つまり風間家も、向かいも、外灯も、見える範囲全ての電気が落ちている。遠くから聞こえる騒ぐ声の他には豪雨のもたらす雨音しか耳に届かない。
「停電か・・・まいったな・・・うひゃぁっ!」
 雷鳴に首をすくめて美樹は辺りを見渡した。
 一人には広すぎる家。まっくら。
「あは、あはは・・・ちょっと、嫌かも・・・」
 乾いた笑いを浮かべてなんとか自分の部屋へと帰ろうとした美樹の足がふと止まった。
「あれ?風間んち、ちょっと明るい・・・」


 その頃、虎ヶ崎市の神楽坂邸では。
「葵お嬢様、お時間でございます」
「あ、はーい」
 ドアの向こうから聞こえてきた執事の声に返事をして葵は窓の外を眺めた。
「凄い雨・・・わ、かみなりさんまで・・・」
 雷鳴にちょっと後ずさってから一人照れ笑いを浮かべる。
「はぁ、こんなとこ見られたらまた恭ちゃんに笑われちゃうね」
 呟いてから気を取り直し、姿見に自分の姿を映す。
「うん、準備よしだね」
 そこに居るのは、いくらするのか想像もつかないような豪奢なドレスに身を包んだ一人の令嬢だった。髪を結い上げ、ピンと背を伸ばした姿はいつものふんわりムードを完全に消し去ってしまっている。
「お待たせしました松坂さん」
 部屋を出た葵はドアの横に控えていた松坂に微笑みかけた。
「いえ。では参りましょう」
 

 ピンポーン。
 不意になったチャイムに恭一郎は不審そうな顔で玄関へとやってきた。
「誰だよこんな時に・・・」
 呟いてドアを開けると、
「や、やっほー風間・・・」
 そこに美樹が居た。タオルを頭にまいたパジャマ姿にサンダルという凄い格好で傘をさして。
「あ、あま・・・何やってんだおまえそんな格好で!?」
 唖然とした恭一郎に美樹は引きつった笑顔を向けた。
「えっと、あれよ、その・・・きゃっ!」
 ピシャッ!ズガァァァン!
 口ごもってる間に再び雷鳴がとどろき美樹はのけぞって悲鳴を上げた。
「お願い風間っ!ちょっとでいーから一緒にいて!」
 涙目で見つめてくる美樹に恭一郎はあんぐりと口を開けたがやがて意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「そうか。おまえもついに三国一の色男であるこの風間恭一郎の魅力に・・・ぐはっ!?」
 妙なポーズと共に囁いた台詞を言い終わることなく、鳩尾に突き刺さった強烈なボディーブローに恭一郎は悶絶した。
「て、てめぇ・・・それがひとにものをたのむたいどか・・・」
 苦しげに見上げる恭一郎に美樹は冷え冷えとした視線を投げ降ろす。
「あーらごめんさい?あまりにも馬鹿なんですもの」
「気持ち悪い声出すな・・・」
 唸るように言ってくる恭一郎に美樹は脳天唐竹割りで突っ込もうとした。だが・・・
「めーっ!」
 その軌道上に現れた小さな影に慌てて手を止める。
「え?え?え?」
「めーっ!」
 混乱して意味もなく呟く美樹にその小さな影は同じ台詞を繰り返した。
「え?は?だ、誰・・・?」
 チョップを繰り出しかけた格好で硬直した美樹によろよろと立ち上がりながら恭一郎が答える。
「従姉妹の小学生だ・・・たまたま、預かってた・・・」
「おにーちゃんをいじめちゃ、だめっ!」
 少女・・・風間夏希は132センチの身長が許す限り大きく手を広げて美樹の前に立ちふさがる。
「いや、あのね?おねーさんはこのおにーさんと、その・・・仲良しなのよホントは。ね、風間?」
 夏希はそうなの?と言う顔で恭一郎を見上げる。
「・・・そーだっけ?」
 恭一郎はここぞとばかりに難しい顔をして見せた。
「めーっ!」
「うわ!風間!この裏切り者!・・・くちっ!」
 叫びかけてくしゃみをした美樹に恭一郎は片眉を上げて夏希の肩を叩いた。
「こいつは俺のダチだ。大丈夫。マジで寒そうだし中ぁ入ろうぜ」


 一方、神楽坂邸。
「凄い雷だね松坂さん」
「はい。龍実町の方では一部停電も起きているとか」
 龍実町という言葉に葵は不安そうに眉を寄せた。
「・・・恭ちゃん、大丈夫かな」
「大丈夫でございましょう。恭一郎様は停電くらいで慌てる方ではありますまい」
 松坂の言葉に頷いて葵は歩き続ける。
 しばらく廊下を歩いていると、いくつもあるドアのうち一つが不意に開きそこから葵の父である雄大が姿を現した。
「よぉ葵・・・うむ。そのドレス、よく似合ってるぜ」
「ありがとうお父様」
 葵は微笑んでお辞儀をするが、雄大はその笑顔が力無いのに気付き少し表情を暗くする。
「・・・すまねぇな葵。ほんとは、こういう場が好きじゃねぇのはわかってんだけどな」
「いいんですお父様。神楽坂の娘として、当然の義務ですから」
 葵は慌てて手を振って答える。雄大は軽く頷いて歩き出した。葵と松坂もそれに従い歩を進める。
「松坂、もう客は揃っているのか?」
「はい・・・ですが、四井家当主、四井民夫さまが・・・」
 その名にぴくっと震えた葵にちらりと目をやって雄大は松坂へ視線を移した。
「四井がどうした?」
「お亡くなりになられました。急性心不全だそうです」
 誰も口を開かぬままに三人は歩き続ける。
 やがて辿り着いた巨大なドアの前で、雄大は一歩後ろに立つ葵を振り返った。
「さっきの話は取り敢えず忘れろ。すまないが・・・」
「いえ、大丈夫です。直接は、関係のない話ですので」
 葵の返事を聞き終えてから雄大はきりっと表情を変えた。数十の会社を束ねる長の顔になって目の前のドアを開く。
「おおっ、ご当主のお出ました!」
 体育館ほどもあろうかという巨大で、それでいて豪奢なホールせましと集まった人々から声と拍手が漏れる。
「ご当主様」
 メイドの一人が指しだしたグラスを取って雄大はそれを大きく掲げた。
「忙しい中をよく集まってくれた。今日は存分に楽しんで欲しい!」
 よく響く声でそう告げてグラスを掲げるとホール中の人々が乾杯を唱和した。


 ぐつぐつと音を立てて、鍋が煮える。
「風間ぁ、野菜入れるよ」
「おう。どんどんいけ」
 卓上コンロの火加減を調節しながら恭一郎は親指をぐっと下に向けた。ちょうど食事前だった恭一郎と夏希に美樹も加わり夕食ということになったのだ。
「おにーちゃん、うどんの下茹でおわったよ」
「ご苦労」
 小さめのコンロで一心にうどんを茹でていた夏希の頭を恭一郎はぐりぐりと撫でる。
「しっかしあんたんちって用意いいわね。三つも四つも卓上コンロがあるなんて」
「母さんがアウトドア好きだからな。便利だぞ」
 恭一郎は言いながら薄切りの牛肉をどかどかと鍋に突っ込んだ。
「うわっ!?豪勢ね・・・」
「冷蔵庫が止まってやがるからな。長引いたらどうせ喰えなくなんだから一気にぶちこんじまおう」
「おにーちゃん、漢らしいね」
 言葉を交わす間にも鍋は煮える。
 頃合いを見て恭一郎は大きく頷いた。
「よし、あちぃから気をつけろよ?」
「うん」
 にっこりと微笑む夏希に取り皿を渡し恭一郎は今度は美樹に顔を向ける。
「天野、男らしくガブッといってみろ」
「・・・あんたって奴は」
 真顔の恭一郎から取り皿をもぎ取って美樹は唸る。
 三人で鍋をつつきながら、ふと美樹は首を傾げた。
「ねえ風間、何であんたが夏希ちゃんをあずかってんの?」
「別に俺が預かったわけじゃねぇよ。預かったのは母さんだ」
 牛肉をはぐはぐと噛みながら恭一郎は肩をすくめる。
「夏希は母さんの兄貴の娘だ。で、叔父さん夫婦が出張で北海道行くっつーんで妹である
母さんに預けてったってわけだ・・・一泊だからって言ってたな」
「ふーん、観月さんのおにーさんの娘さんか。だから名字が風間・・・え?」
 美樹は不意に矛盾に気付いて口を開けたまま硬直した。
「・・・別に驚く事じゃねーよ。うちは母子家庭だ。今はやりのシングルマザーってやつだな」
 気まずい沈黙が鍋を囲む。
「えっと、そ、その観月さんは?」
「ああ、出かけた」
 白菜を噛みながら恭一郎は答えた。
「この凄い雨を突っ切って出てったの?」
「・・・一応、急用だからな。多分、吐き気がするような用事だろうけどな。母さんもキレて暴れでもすりゃあいいんだ」
 呟いてから二人の様子に気が付いて恭一郎は苦笑した。
「まぁ、んなことはどーでもいい。さっさと食おうぜ」
 言って率先して箸を動かす。
「うわっ!それあたしが狙ってたのよ!」
「おにーちゃん、ソーセージ食べる?」
 一瞬沈んだ食卓はすぐに明るさを取り戻した。何本ものロウソクに照らされた恭一郎の顔はいつも通り嫌みなくらい不敵だ。
「にしてもよぉ、お前も停電くらいでがたつくんじゃねぇよ」
「夏希はね、暗くてもへーきだよ。えっへん」
 かわいらしく胸を張る夏希の頭を恭一郎はぐりぐりと撫でる。
「よしよし、偉いぞ夏希」
「・・・ろりぃ」
 そんな二人を見て美樹はぽつりと呟いた。
「誰がロリコンだ!変な目で俺を見るな!」
「そーいえば葵ちゃんもそっち系・・・」
 冷たい眼で恭一郎を眺めながら美樹はうどんをすすった。
「・・・はぁ」
「くっ!その哀れむようなため息をやめろ!」


「ん?」
 葵は誰かから呼ばれたような気がして振り返った。
「どうしました葵さん?」
「あ、いえ。何でもありません」
 話の途中で不意に後ろを向いた葵に首を傾げる青年に上品な笑みを浮かべて謝罪する。
「それにしても、お美しい・・・たしか今年で17になられたのでしたね」
「はい」
 無意味な賛辞や世間話に相槌を打ちながら葵はひたすらに時が過ぎるのを待つ。
 このパーティの主催者の娘であり、輝くような美貌の持ち主であり、そして・・・まだ婚約者のいない神楽坂家の者である葵の周りには人だかりが絶えない。
「確か、ご趣味は乗馬でしたか」
「はい、最近は学業が忙しく遠ざかっておりますが・・・」
「それは残念だ。今度是非うちの別宅へおいで下さい。最高の馬を用意してお待ちしていますよ」
「ええ、機会があれば・・・」
 露骨な誘いの言葉に周囲の男達が無言の怒気を放ち我も我もと様々な誘いを持ちかけてくる。
 オペラ観劇、超高級レストランでの食事、ハリウッドでの映画試写会、野球やサッカーのVIP席を持っている等々・・・
「あ、あの、すいませんがそんないっぺんに」
 困り顔の葵を気にする様子もなく名家の嫡男達は親の期待と本人の欲望を背負って葵の側に押し掛ける。
「えっと、その・・・すいませんが、ちょっと場を外させていただいてよろしいでしょうか?あの、ご不浄・・・」
 仕方なく葵は恥ずかしそうに俯いてそう言った。男達は未練がましい顔で頷いて道をあける。
「す、すいません」
 葵は頭を何度も下げてその場を脱出した。そのまま廊下に出て、閉じたドアに寄り掛かったまま一息つく。
「・・・ご心労、お察しします北の方」
「あはは、だいじょぶだよ。慣れてるから・・・って、え!?」
 いつも通りの声に素に戻って返事した葵は思わず跳び上がった。
「え、エレンさん!?」
 はたして、そこに立っていたのはエレンだった。長いウィッグを結い上げ、その長身に雅な着物を纏っている。
「今日のパーティは、私の父上が専務を務める会社への支援が決定したことの記念なんです。それで、会社側責任者として父上がよばれているのですよ。私は、まぁおまけです」
「そうだったんだ・・・大変だね」
 葵は呟き、ちょっと寂しげな笑みを浮かべた。


 パタパタとトランプをきる音がロウソクに照らされたリビングに響く。
「さてっと、何をやるんだ?」
 恭一郎の問いに美樹は首を捻った。
「そーねぇ。神経衰弱とかは?」
「やめとこう。なんか夏希が鬼のように強そうな気がするからな」
 マニアックに拒否して恭一郎は一人頷く。
「あ、夏希は”でっどまん”っていうのがやってみたいな」
「!?な、夏希ちゃん!?それはやめた方がいいわよ・・・」
「・・・そ、そうだな、夏希。他にどんなのを知ってる?」
 引きつった笑みを浮かべる二人にきょとんとした視線を送って夏希は可愛らしく首を傾げた。
「えっと、ダウトとかスピードとかポーカーが出来るよ」
「スピードは3人じゃできねぇしダウトは夏希相手にやるのはつらいな。ポーカーか」
「そーね。無難じゃない?」
 頷いて美樹はトランプを5枚ずつそれぞれの前に配る。
「チェンジ一回まででいいな?」
「うん」
「おっけ」
 短く答えて三人はそれぞれの手札を睨み山札と交換する。
「よし、もういいな?オープン!」
「夏希、1ペアだよ」
「ふっふっふ・・・あたし、2ペア」
 得意げに豊かな胸を張る美樹に恭一郎は意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふっ、馬鹿め。俺様はフルハウスだ!」
「なんとぉ!?」
 テーブルに叩きつけられるように広がった恭一郎の手札を見て美樹がのけぞる。
「おにーちゃん、つよい」
「ま、まさか恭一郎に負けるとは・・・」
 悔しげに呟く美樹の肩を恭一郎はぽんっと叩いた。
「さて、脱げ」
「は?」
 恭一郎はぽかんとしている美樹にさも当然のように頷いて見せた。
「勝負に負けたら脱ぐ。常識だろ?」
「ゲーセンの麻雀かっつーの!誰が脱ぐか!」
 胸元を隠すように腕を組んで美樹は吠えた。恭一郎は意地の悪い笑みを浮かべて指をちっちっちと振る。
「世界を律する十二の法則により、敗者は即脱ぐべし。さあ脱げ、そら脱げ。俺は気にしないぞ」
「うん、いーよ」
 声は、斜め下から聞こえた。
「な!?夏希ちゃん!?」
「な、夏希!?冗談だぞ。冗談は本気にしちゃあいけないぞ!?」
 ボタンを外し始めた手を慌てて押さえながら諭す恭一郎に今度は美樹がにまーっと笑ってみせる。
「あらあら風間さん。冗談だったんですことの?せっかくわたくしめの身体をご覧頂こうと思っていましたのに、残念ですわぁ〜?」
「くっ、なんか無茶苦茶むかつく・・・」
 恭一郎が呟いた瞬間。
 ぱちっ。
 音を立てて、頭上の電球に光が戻った。
「ん?でOこちゃんが頑張ってくれたようだな」
 恭一郎の言葉に美樹がくいっと首を傾げる。
「Oじこ?」
「ちゃうわっ!やばいだろそのネタは!」
 それ以前に、龍実町は神奈川県内なので東O電力とは関係がない。
「ったく・・・って、もう9時過ぎか。おい夏希。遅くなんねぇうちに風呂入っとけ」
「うん!」
 夏希は嬉しそうに頷いて恭一郎の袖を握った。
「ん?」
「一緒に入ろ?」
 そして無邪気にのたまう。
「!?」
「!?」
 恭一郎と美樹の間に、深紅の稲妻が走った。
「駄目よ夏希ちゃん!それは犯罪よ!」
「なんで?おにーちゃんと一緒に入るー!」
 唇をとがらす十歳児に恭一郎は腕組みをした。
「・・・・・・」
「そこ!考え込まないっ!・・・しょーがないなぁもう・・・」
 美樹は深々とため息をついてからしゃがみこみ、夏希の肩をぽんと叩く。
「ねぇ夏希ちゃん。おねーさんと一緒に入らない?」
「三人でか?」
 恭一郎のボケに閃光のようなアッパーで突っ込んでから美樹は優しい笑顔で夏希に向き直る。
「だめかな?」
「ううん、いーよ。一緒に入ろ」
 案外簡単に頷いた夏希にホッとしながら美樹は立ち上がって恭一郎に肩をすくめた。
「つーわけだからさ、あたしもお風呂貸して貰うわ。考えてみればあたしシャワーの途中で停電に遭遇しちゃったのよね」
「ああ。多分冷めてるだろうから『暖め直し』ボタンを入るときに押しとけ。身体洗ってる間に暖まる」
 自動給湯式なのだ。
「おっけ。じゃあ行こうか夏希ちゃん」
「うん!」
「・・・天野」
 元気よく頷く夏希を連れて歩き始めた美樹を恭一郎はふと呼び止めた。
「襲うなよ?」
「誰が襲うか!」
「?」


「雨、やんだみたいですね」
 エレンの呟きに葵はふと窓の外を見た。
「そうだね・・・ちょっとバルコニーに出てみようか」
 葵は微笑んで歩を進める。
 外に出ると、雲の隙間から真円を描いた月が覗き銀色の光を投げ降ろしていた。
「・・・・・・」
「北の方?」
 それを見上げる葵が誰か知らない少女のように見えて、エレンは思わずうわずった声で話しかけた。
「ん?なーに?」
 それに対して返ってきた笑顔がいつも通りの暖かいものだった事に、意味もなく安堵する。
「いえ、その・・・大変ですね。こういう場は・・・恭一郎様にも助けて貰えませんし」
「・・・こういうときはね、エレンさん。恭ちゃんが居ない方が、助かるんだよ?」
 思いがけない言葉にエレンは葵の顔を見つめた。
 月光のせいか青白く見えるその唇で葵は淡々と言葉を紡ぐ。
「恭ちゃんは、こういうところでもきっと恭ちゃんだから・・・どうしても私は気付いてしまう。自分が神楽坂葵だってこと・・・名家と呼ばれる家に生まれた以上、恭ちゃんとは、絶対に結婚できないってことを。いつか、どこかに嫁がされる身だと言うことを」
「・・・え?」
 エレンは、頭の中でその言葉を何度も反芻した。
「お母さまもそうやって神楽坂家に来たの。だから、私も・・・」
 ドレスのすそをぎゅっと握って葵は続ける。
「恭ちゃんのおかげで私は普通の学生みたいに暮らせるようになったから、それだけで私は幸せ。いつか終わる日々だけど、この思い出だけは、一生終わらない」
「そんな!いまどき政略結婚など!」
 エレンの叫ぶような声に葵は微笑んだ。
「そうだね・・・でも、それが現実だから」
「葵様・・・」
 エレンは流暢に喋れるはずの日本語が、どうしようもなくもどかしく感じられた。想う心の半分も言葉は伝えてくれない。
「現実など・・・そんな言葉に何の意味が・・・」
「・・・そうだね。でも、私には全てを捨て去る勇気がないの」
 葵はもう一度微笑んでエレンに背を向け歩き出す。
「だから、悪いのは私。好きになっちゃいけないのも私・・・ごめんね、つまらない話を聞かせちゃって」
 そして葵は戻っていった。虚飾と妄言の待つ場所へ。
 ひとりそこに残り、エレンは目を伏せる。
 遠ざかる小さな背中に思いをはせ、エレンは聞こえるか聞こえないかという声で囁いた。
「縛鎖・・・」


「ねー天野おねーちゃん」
 湯船に浸かりながら夏希は洗い場の美樹に声をかけた。
「なぁに、夏希ちゃん」
 スポンジで体を洗いながら美樹は答える。
「おにーちゃんのこと、好き?」
「ぶっ!?」
 美樹はスポンジをすっ飛ばした。跳ね返ってきたそれを片手でキャッチしながら引きつった笑みを夏希に向ける。
「夏希はね〜、おにーちゃんのこと大好きだよ」
 タオルを頭にのせてニコニコと微笑む夏希に反論する気をなくして美樹は笑みを返した。
「・・・そっか」
「うん。観月ママに言ったら、この機会にのーさつしちゃえだって」
 美樹はスポンジをべしゃっと握りつぶした。
「あの人は・・・」
「のーさつってなんだろ?」
 夏希のぽややんとした問いに美樹は額を押さえた。
「・・・まだ知らなくていいことよ。どーせそのうちわかるし」
「・・・?そうなの?」
 頷いて美樹はふと恭一郎の顔を思い浮かべた。この少女はともかくとして、葵にエレン、多分中村愛里・・・あの暴走男を好きという人は多い。
「風間、恭一郎か・・・」
「らぶらぶ?」
 何気ない呟きに問い返されて美樹はがくっとつんのめった。無言で体中の泡をシャワーで洗い流し湯船に足を踏み入れる。
「あのね夏希ちゃん。あたしは他にちゃんと好きな人・・・っていうか彼氏が居るの。風間は、その・・・かっこいい奴だけど・・・いい友達!それだけ!」
「そうなんだ・・・おにーちゃん、すごくにぶいし葵おねーちゃんとの仲も進まないし、夏希ちょっと心配・・・」
 そう言って夏希はぶくぶくとお湯に顔をうずめる。
「葵ちゃんのこと知ってるんだ」
「うん。葵おねーちゃんは優しいから大好き。あ、もちろん美樹おねーちゃんも好きだよ?おもしろいから」
 美樹は苦笑して、ふと思いついた問いを口にしてみた。
「ねえ夏希ちゃん。あのふたりってさ、なんかこう・・・ほんとはベタ惚れなのに好きにならないように努力してるみたいな感じしない?」
「・・・うん」
 僅かに躊躇してから夏希は頷いた。なかば本能で美樹が信用できることを判断しぽつりぽつりと話し出す。
「おにーちゃんにはね、おっきな傷があるの。こころの、おっきな傷。夏希には話してくれないけど・・・それが癒える日まで、おにーちゃんはきっと葵おねーちゃんに好きって言わないと思う」
「心の、傷・・・?」
 あの、いつもふてぶてしい恭一郎に?
「それに、おにーちゃんのパパのことも。どっちも、夏希には助けてあげられないことだから・・・」
 恭一郎の父親。それは、美樹の知らない人物だ。
 美樹は唐突に気付いてしまった。自分が風間恭一郎という男のことを、何も知らないことを。
 無知にして、無力。
「そっか」
 美樹は呟いて俯いた。しばし、静かなときが流れる。
「それはそれとして、おねーちゃん」
「ん?」
 顔を上げると、興味津々といった目の夏希が目の前にいた。
「おねーちゃん、胸おっきーね」
「は?」
 きょとんとした美樹に夏希の手が迫る。
「わぁ、柔らかい」
「あ、ちょっと夏希ちゃん、そこ、あっ・・・」


 バルコニーに一人立ち、エレンは月を見上げていた。
「おや、そこの人・・・たしか恭のところの部員じゃないかな?」
 物思いにふけっていた所へ声をかけられ、少しびくっとしながらエレンは振り返った。
「む・・・確か貴殿は・・・」
 そこには一人の少年が立っていた。明らかに仕立てのいい燕尾服を嫌みなく着こなしたその男は、糸のような目をさらに細くして微笑む。
「剣道部の部長をやっている、稲島貴人です。よろしく」
「エレン・ミラ・マクライトだ。剣術部をやっている」
 差し出された手を軽く握り返してエレンは会釈を返した。
「めずらしいところで会うね・・・ああ、そうか。君はマクライト専務の娘さんだったね」
「うむ。貴殿こそ、何故ここに?」
 当然と言えば当然の質問に貴人は軽く肩をすくめて見せた。
「ようするに、僕もまあ葵ちゃんと同じような身の上って事だよ」
 苦笑する貴人の顔をエレンは鋭い視線で見つめる。
「・・・失礼だが、葵様や恭一郎様とどんな関係だかをお聞きしたい」
「そんなに怖い目で見ないでほしいな・・・」
 貴人は呟いてエレンの隣で月を見上げる。
「僕は、あの二人と同じ中学に通い同じ剣道部にいた人間だよ」
 無表情なまま月を眺める貴人の顔に、エレンは隠しようのない感情を見つけて眉をひそめた。
「そして・・・僕は、ただの裏切り者だ」
 それは、『後悔』だった。


「ふぅ、いいお湯だったわ」
 リビングに姿を現した美樹に恭一郎は視線をあげた。
「夏希はどーした?」
「もう寝るって。あ、ビール!」
 テーブルに駆け寄ってくる美樹に苦笑して恭一郎はテーブルの上に置いてある缶のむれを手にした缶で指し示す。
「お前も飲むか?」
「あのねぇ、あたし達は未成年よ?」
 そう言いながらも恭一郎の向かい側に腰掛けた美樹は物欲しそうな視線で缶を見つめる。
「何を言ってるんだね天野君。これは、『泡の出る麦茶』だよ」
「!・・・ほほう、なるほど。『泡の出る麦茶』なら未成年でも大丈夫でげすな!」
 恭一郎の言葉に美樹は『きゅぴーん!』と目を輝かせてその『麦茶』を手に取りプルトップを起こす。
「では、『麦茶』に」
 ニヤリと笑って缶を掲げる恭一郎にこちらもニヤリと笑って美樹も缶を掲げる。
「かんぱーい!」
 缶をガチンとぶつけて二人は一気にその『麦茶』をあおった。
「くーっ!生き返る〜!」
「おっさんくさい歓声をあげるな。しかしまあ、やっぱり『麦茶』には枝豆だよな」
 見る間に一缶あけて二人は次の缶に手を伸ばす。
「いやあ、気持ち良い『麦茶』ね」
「ああ、母さんは日本酒党だから、ビー・・・違った『麦茶』は俺の私物だ。気兼ねせずガンガンいけ」
 枝豆やポテトチップスをつまみながら二人はハイペースで缶を開けていく。
「そーいや、その観月さんはまだ帰ってこないの?」
「あぁ、そろそろ帰ってくるはず・・・」
 恭一郎が答えた瞬間、
 がんがんがん。
「うぃーす!風間観月技術少佐、かえったっすー!」
 なかば自棄のような声をあげながらその観月が庭から窓を叩いてきた。
「・・・母さん、わざわざ庭から入ろうとすんなよ」
 恭一郎はやれやれと言った感じで窓を開ける。
「にんにん」
 観月は窓が開くと同時にしなだれかかるように恭一郎にしがみついた。
「うわっ!なんだ?母さん飲んでんのか?」
 戸惑う恭一郎には構わず観月は靴を放り出すように脱ぎふらふらとリビングに入る。あたりを見回した視線が、テーブルで硬直していた美樹の所で止まった。
「・・・夏希ちゃん、おーきくなったわねぇ・・・私よりおっきいし。胸」
「いや、あの。隣の天野美樹です」
 呆然と訂正する美樹に観月はけたけたと笑い声をあげた。
「わーってるわーってる!いっつ、あめりかんじょーく!」
「どこもアメリカンじゃねぇよ母さん・・・」
 観月はしばし笑っていたが、やがて真顔になって恭一郎に向き直った。
「こら恭一郎。ちょっとそこ座んなさい」
「ったく、何だよいったい・・・」
 恭一郎がぶちぶち言いながらもテーブルにつくと、観月はちょっと迷ってからばんっとテーブルを叩いた。
「四井民夫が死んだわ」
 瞬間、恭一郎の目が細められた。その瞳に込められた怒気・・・むしろ殺気とも言える光に美樹はぞっとした。
「・・・で?」
「妻である四井澄香との間に紀香ちゃんしかつくっていないうちに死んだ・・・ということは、つまり、四井家直系の男は」
 観月は歯をぎりぎりと食いしばってから呟く。
「あんただけよ・・・」
「!?」
 美樹は、眼を見開いて恭一郎と観月を見比べた。よくはわからないながらも、とんでもなく重要なことを聞いてしまっていることはわかる。しかも、この緊迫した状況では逃げることもできない。
「あんたも想像がついてたとはおもうけど、きょう母さんが四井の家に呼ばれたのはあんたを養子として四井の家に入れろっていうお願い・・・いえ、命令を聞かされるためだったの」
「・・・で?なんて返事をしたんだ」
 恭一郎の冷たい声に観月は首を振る。
「本人に聞かなくちゃ返事は出来ないて言ってきたわよ。四井の奴らはずいぶんと怒ってたわね。いい気味だわ」
「すぐに断っとけよそんなもの!俺がこの世で一番嫌いな男が誰かはわかってんだろうが!」
 恭一郎はガンッと机を殴って絶叫した。机の上の空き缶がいくつか転んで乾いた音を立てる。
「でも、四井の家を継げば『家柄』が手にはいるわ」
 観月は呟いた。
「あんたと葵ちゃんが結ばれるのを邪魔している、家柄の壁が越えられるわよ」
 部屋中に、冷気が満ちたようだった。
 何か一つでも物音がすれば全てが崩れ落ちそうな、そんな空気。
 美樹は指先も動かせず、まばたきすら出来ずに俯いた恭一郎を見つめ続けた。
 誰も動かないままに、壁の時計がコチコチと意味のない音を奏でる。
「なぁ母さん」
 その空気を突き破るようにして恭一郎は口を開いた。
「俺は、俺だ」
「・・・・・・」
 片眉を上げたいつもの表情で呟く恭一郎に観月は答えない。
「そして、あんたの息子だ。それじゃ答えにならねぇか?」
「・・・いいの?」
 恭一郎は観月の不安げな問いに唇の端をあげて不敵に微笑む。
「俺は、俺の力で欲しいものを掴む。家柄だの何だの、くだらねぇもんであいつを迎えに行けるほど、恥知らずでもねぇしな・・・だから、今度あの馬鹿どもが口出ししてきたら言ってやれ」
 恭一郎は、そこにあった缶をぐっとあおって力強く宣言した。
「俺は、風間恭一郎だ!・・・ってな!」
「・・・あんたって子は、まったく・・・」
 観月は笑おうとして失敗した。こみ上げた涙を隠すように恭一郎に背を向けて歩き出す。
「どこ行くんだよ母さん」
「・・・部屋で飲むのよ。おやすみ・・・」
 ドアをあけ、廊下に出ながらぽつりと言い残す。
「それと、ありがと」
 そしてドアが閉まった。後には、恭一郎と美樹だけが残される。
「・・・すまん、身内の話だ」
 上目遣いにこちらを伺う美樹にそう言って苦笑し、恭一郎は新しい缶のプルトップを立てた。
「うん」
 美樹も新しい缶を開けて口をつける。
「ねぇ風間・・・」
「あん?」
 ビーフジャーキーを噛みながら答える恭一郎に美樹は尋ねてみた。
「答えたくなければ答えなくてもいいんだけどさ、あんたそこまで言い切れるのに、なんで葵ちゃんに告白なりなんなりしないの?」
 恭一郎は一瞬動きを止め、それからビーフジャーキーを飲み込んだ。
「まだ、足りねぇんだよ。あいつを護れるだけの強さが俺には無い。だから、まだ、駄目だ・・・」
「あんたあんなに強いじゃない。それなのにまだ?」
 美樹の問いに恭一郎は苦笑する。
「剣はな。だが、俺はまだ何も乗り越えちゃいねぇ。あいつを縛るものをぶったぎる力を、何も手にしちゃいねぇ。それだったら、奴にまかせといたほうが・・・」
 左手で右の二の腕をさすりながら恭一郎はぶつぶつと呟く。
「だから、俺は、俺はだな、もっと頑張らにゃあかんのだ」
 喋っているうちに自分でもわかんなくなってきたのか、恭一郎はちょっと肩をすくめてからまたちびちびと飲み始めた。
「そっか」
 美樹は呟いた。
「そっかぁ・・・」
 酔っているせいか、妙に嬉しくなる。
「風間ぁっ!」
「は!?」
 不意に叫びだした美樹に恭一郎は缶を落としそうになった。
「あんたええ奴やなぁ、かっこええなぁ」
 美樹は立ち上がりどかっと恭一郎の隣に座る。
「お、おい」
「飲め!飲め風間!というかむしろ飲ます!」
 最終的に、2ダース24本の『麦茶』をあけるまで美樹の暴走は止まらなかった。

                                     
『大丈夫!あんたは、強いよ!いろいろあるけど・・・お互い頑張ろうよ!ね、”恭一郎”!          天野美樹 談』

 

 


 翌日、美樹は部屋で一人手紙を書いていた。
『やっほーノリ!この前も書いた隣の木刀馬鹿の続報だよ!』
 毎月書かさず書いている手紙に、恭一郎の話題が増えていく。
 そのことに、美樹は今だ気付いてはいなかった。