昼下がり。学食からの帰り道。
「なぁ葵。キツネうどんばっか食っててあきないか?」
「ひやしきつねさんも食べてるよ?」
 他愛もない会話を交わしながら4人が渡り廊下を歩いているときに、それは来た。
「あん?」
 ふと気配に見上げた空に、ぽつんと白い点。
 それは、野球のボールであった。それはまっすぐに4人の方へ・・・より正確に言うならば美樹の頭めがけて突っ込んでくる。
「天野!あぶねぇぞ!」
 恭一郎の叫びに反応して美樹はふと顔を上げ。
「ぬわっ!?」
 驚愕の叫びをあげながら目の前に迫ったボールを素手で振り払った。勢いよく跳んできたボールはこれまた勢いよく軌道を変えて体育館の屋根へと消える。
「びびびびびびっくりしたぁ・・・」
 4人が呆然とボールを見送っていると、ボールの来た方からどかどかと足音が迫ってきた。
「今度は何だよ」
 恭一郎が呻きながら振り向くと、あからさまにごつい坊主頭が3人息をきらせて走ってくるところだった。
「おい、なんてことすんだよ!」
 その一人が息を切らせながら叫んでくる。
「それはこっちの台詞よ!あたしだからガードできたけど葵ちゃんだったら直撃よ!?硬球なんて当たりようによっちゃ人殺せるんだからね!」
「・・・ひどいよ美樹さん」
 いじける葵をよそに走ってきた坊主頭達はふんと鼻を鳴らした。
「よければいいだろうが。大事な部活のボールを回収不能にしやがって」
「そもそも部活動なら放課後にやれっつーの」
 険悪なムードの両者に恭一郎は一つため息をついた。
「その辺にしとけよどっちも。怪我はなかったんだしよ」
 面倒くさそうに割ってはいると坊主頭・・・どうやら野球部らしい・・・の一人がざざっと後ずさった。
「ぶ、部長!こいつ、噂の”木刀たこ殴り”ですよ!たしか、名前は風間とかなんとか」
「・・・そのあだ名、どこまで広がってんだ」
 恭一郎はものすごく嫌な顔をした。
「ふん、剣術部の風間か。噂は聞いてるぞ。練習は適当に済ませているくせに大義名分があるのをいいことに木刀を持ち歩いている不良学生め」
 ひときわ態度のでかい男がそう言って憎々しげな笑みを浮かべた。
「マイナー系の部活はいいな。何の期待もなくだらだらすごしてればいい」
「理解してもらおうなんて思っちゃいねぇから何とでも言え」
 恭一郎は再び肩をすくめて踵を返した。
「ほれ、さっさといかねぇと5時間目が始まんぞ」
「あ、恭ちゃん待って・・・」
「殿!」
 慌てて後を追う葵とエレンに対して美樹は少し躊躇した。そして・・・
「野球部って誰かに期待されてたんだ。去年の成績を思いだしてから言えば?」
 一言だけ言って恭一郎の後を追おうとする。
 だが。
「貴様!言わせておけば!」
 野球部部長はプライドを激しく傷つけられて美樹に掴みかかった。
「なによ!事実を言われて逆上するなんて男らしくないわよ!」
 美樹は後ずさりながらも叫ぶ。まさに一触即発の瞬間、
 ひゅんっ!
 風を斬って『何か』が部長の喉元に突きつけられた。
「・・・別に剣術部がどうこうってのはいいけどよ」
 その何か・・・木刀の切っ先を美樹の肩越しに突き出したまま恭一郎は呟く。
「武道の心得もねぇ女に襲いかかるのがてめぇらのやり方か?スポーツマン」
「ふん、気に入らないことはすぐ暴力か。努力もなく楽な道を選ぶ貴様等らしい」
 動けないままに部長も唸り返す。
「あ、あのー。あたし、これ以上事を大きくするつもりもないんですけど・・・」
 挟まれて動けない美樹を、二人はきっぱりと無視した。
「努力努力うるせぇな。他に言うことはねぇのかよ」
「我々は汚名をそそぐため誰よりも努力している!楽しむ野球なぞというふざけた標語を掲げたベースボール部に真の野球のなんたるかを教えるために!貴様のように何の努力もなく日々を怠惰に過ごしている輩とは、格が違う!」
 恭一郎は片眉を上げて「へぇ?」と呟き、口の端をあげて笑った。
「あんたらその調子じゃいつまで立ってもベスボ部には勝てねぇな。それどころか、俺達とやったって勝てねぇよ。試してみるか?」
「!・・・何だと?」
 今にも額の血管を千切りそうな部長に恭一郎は笑みを深くする。
「もちろん野球でだ。このまま連敗街道を突っ走りたいんだったら逃げろよ」
「貴様・・・後悔するぞ・・・」
 部長が憤怒に震える声で呟くのを聞いて恭一郎は木刀を納めた。
「よし。俺は風間恭一郎。あんたは?」
「・・・野球部部長、武田卓だ」
 怒りのあまり赤を通り越し青白くなっている武田の顔を眺めて恭一郎は頷きニヤニヤと笑う。
「試合の日時は、そうだな。5日後、今週の日曜でどうだ?」
「・・・よかろう。特別にグラウンドをあけておいてやる」
 仁王像のように顔を歪ませる部長に恭一郎はふと思いつき指を突きつけた。
「俺達が勝ったら、天野に土下座して謝った上でうちの練習場の床を顔が映るまで磨いて貰おうか。ワックスがけの手が足りなかったからな」
 勝ちを微塵も疑っていない恭一郎に武田はぷるぷると震える指を逆に突きつける。
「ならば、我々が勝ったときには、ホームベースを掃除して貰おう。貴様のその舌でな!」
「おっけ。じゃあ、日曜にな」
 恭一郎は肩をすくめて踵を返した。そのまま歩き去る恭一郎を慌てて残りの3人が追う。
 渡り廊下から校舎へと入り、怒りに震える武田部長が見えなくなってから美樹は恭一郎に話しかけた。
「ねぇ恭一郎。あんたそんなに野球上手かったの?」
 恭一郎はその問いにぴたっと足を止めた。
「・・・場外ホームランを打ったことがある」
 しばらく考えてから、それだけ答える。
「・・・恭ちゃん、当たったときは飛ぶんだけど・・・現在までの生涯打率は0割0分3厘・・・」
 葵が、引きつった笑みのままそう答えると、美樹の顔がさっと青ざめた。
「恭一郎・・・あんたまさかさっきのはその場のノリで・・・」
 しばしの沈黙の後、恭一郎は遙か遠くを眺めながら儚げに微笑んだ。
「何とか、なるだろう・・・」
 呟いて頷く後頭部を、美樹は勢い良くはたき倒した。

『なるか!っつーかそもそも部員が9人居ないっ!    天野美樹』


「つまりだ。なんとか9人以上集めればいいんだ」
 放課後、恭一郎は腕組みをしながら一人頷いた。
「おまえら、野球はできるのか?」
 机に座り足をぶらぶらさせながら美樹とエレンに尋ねる。
「はい、殿。一応本場で生まれていますので。肩には自信があります」
「よし。お前センターな」
 頷いて恭一郎は美樹に視線を向けた。
「おまえはどーなんだ?」
「ふっふっふ・・・」
 美樹は含み笑いと共に『くわっ!』と眼を見開く。
「よくぞ聞いてくれましたっ!助っ人美樹ちゃんこと天野美樹に出来ない球技はない!鉄の左腕の生み出すマックス140kmの速球と縦に割れるカーブでへなちょこ野球部なんぞポイよポイっ!」
「そ、そうか・・・」
 あまりの勢いに少し引いてしまった自分に赤くなりながら恭一郎は咳払いをした。
「ともかくこれでセンターとピッチャーが埋まったな。オレはキャッチャーが出来るから、あと最低6人か・・・」
 口を閉じて考え込んだ恭一郎の袖が、おずおずと引っ張られる。
「あの・・・恭ちゃん、私は?」
 恭一郎は、考え込んだ。
「・・・葵、お前は秘密兵器だ。俺達がピンチに陥ったその時までベンチで待機しているのがお前の役目だ・・・」
「・・・しゅん」
 肩を落とした葵の頭をぽんっと叩いて恭一郎は机から降りた。
「よし。とにかく面子を集めるぞ!各自心当たりを当たってくれ!」

『おーっ!   剣術部一同』


「ま、手っ取り早くメンバーを漁るならここだろ」
 恭一郎は巨大な剣道場を見上げて呟いてから、ふと耳を澄ました。
「・・・はぁ」
 剣道場の角から、僅かな声が聞こえる。
「何で私は・・・あんな奴を・・・」
 首を捻りながら恭一郎はつかつかとそちらに歩み寄り、角からひょいっと首を出した。
 そこに居たのは中村愛里だった。壁にもたれて座り込み、何やらため息をついている。
「はぁ・・・風間、恭一郎・・・」
「なんだ?」
 懊悩を込めた呟きに返事されて愛里は勢い良く反り返った。剣道場の壁に頭をぶつけてのたうち回る。
「おまえ、おもしろいな」
「かかかかかかかかっ風間!?は?え?」
 人の悪い笑みを浮かべている恭一郎を指差して愛里は口をぱくぱくと開け閉めした。
「ま、まさか・・・まさか・・・い、今のを聞いていたのか!?」
 素振りでもしていて小休止中だったのだろう。剣道着姿でタオルを首にかけている。
「何で私は・・・あたりから聞いてたぞ。察するに、おまえ・・・」
 恭一郎の笑みが深くなる。愛里の顔色がさっと赤から青に変わった。
「俺のことを・・・」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!」
 愛里はバネ仕掛けのように飛び上がり、側に立てかけてあった竹刀で恭一郎に殴りかかった。
「よっと」
 恭一郎は素早くサイドステップしてそれを避け、袋に入ったままの木刀で愛里の竹刀をあっけなく弾き飛ばす。
「おまえ、俺のことを越えられないって悩んでいるんだろう。型通りの綺麗な剣道も良いが、もうちょとセオリーに頼るのをやめねえといつまで経っても俺には勝てねぇぞ」
 とことん鈍い、恭一郎であった。
 愛里の春は、まだまだ遠い。


「と、いうわけでだ。野球部と勝負することになった」
 燃え尽きて真っ白になった愛里を引きずって恭一郎は剣道場の部長室にやってきた。窓際のCDラジカセから穏やかなクラッシックが聞こえてくる。
「そうなんだ」
 剣道部部長、稲島貴人は大きく頷き細い目をなお細めて笑った。
「うん、剣道部の運営の方の仕事はないから遠慮なくいってきていいよ中村君」
「・・・・・・」
 魂の抜けている愛里の首を強引に揺り動かして恭一郎はにんまりと笑う。
「よし、これで4人目ゲットだぜ。そーだな、こいつはファーストをやってもらおう」
 一人頷いてから、貴人に視線を向けた。
「で、お前はどのポジションがやりたい?」
「え?」
 貴人はきょとんと目を丸くする。
「なんだよ。おまえ、野球好きだろ?」
「・・・僕も、いいのかい?君たちと一緒に・・・」
 口ごもる貴人に恭一郎は『はぁ?』と首をを傾げた。
「よーわからんが、人数が足りねぇんだよ。暇なんだろ?」
「・・・うん。じゃあ是非、参加させて貰うよ」

『ライト、ゲットだぜ!        風間恭一郎』


 ぼんやりとした表情で少女が歩く。
 ウェーブのかかった髪、爆発的なボディーライン。それは美樹であった。どこを見ているのかわからないうつろな表情でふらふらと歩いている。
「・・・あ、あれ?」
 美樹はふと我に返って立ち止まった。
「あたし、何やってたんだろ?」
 恭一郎達と分かれてからの記憶が混乱しているのに気付いて不安げにあたりを見渡す。
「部室長屋?何でこんな所に・・・」
 呟いた言葉が凍り付く。目の前のドアに張ってあるネームプレートに気付いたのだ。
 金属製のそれには、素っ気ない字体で『電波ダウジング部』と書いてあった。
「ひっ!?」
 一歩後ずさった瞬間、不気味なきしみ音を発してドアがひとりでに開く。
「うふふ・・・そんなとこに立ってないで入って・・・」
 中から聞こえる静かな声に美樹はびくっと身を震わせてから恐る恐るその部室へと足を踏み入れた。
「こ、こんにちは・・・」
 美樹の引きつった挨拶に水無月萌は小さな笑みを浮かべる。
「こんにちは美樹ちゃん・・・ふふ、そんなに怖がらなくていいのよ・・・ちっとも痛くなかったでしょ?」
「!?・・・ま、まさかあたしがここにいるのって・・・!」
 萌は笑って答えない。
「電波がね、教えてくれたの・・・風間さん達、野球をやる仲間を捜してるのね・・・」
「ひっ・・・!?え、えっと。水無月さんは文系の部活だから、野球とか嫌い・・・ですよね?」
 恐る恐る尋ねた美樹の言葉に萌はきゅぴーんと瞳を輝かした。
「うふふ・・・こうみえて、運動は得意なの・・・萌も、協力するわ・・・」
「え・・・わ、わかりました・・・ご協力、有り難うございます・・・」
 泣きそうな美樹に、萌はいっそう笑みを深くするのだった。

『ああ・・・美樹ちゃんの電波、なんて心地良い・・・ 水無月萌』


「ふむ、殿から預かってきた”こういう奴を取ってこいメモ”によればだ」
 エレンは一人呟きながらメモを読む。
「運動能力よりも意外性、そこそこ動けて、何か一芸に秀でた奴を誘うべし」
 そこまで言ってエレンはぴたりと足を止めた。
「うーむ、こ奴くらいしか思いつかない・・・」
 見上げたのは、美樹が居るのとは別の部室長屋である。
 カンカンと階段を登った一番端、ひときわ異彩を放つ薔薇の彫刻が施されたネームプレートを眺めてため息をつく。
「・・・やむなし!」
 意を決し、エレンはその部屋のドアを・・・六合学園エレガント部のドアを叩いた。
「どうぞ」
 間髪入れずに帰ってきた返事を聞いて一気にそのドアを開く。
「失礼する・・・うっ!?」
 エレンは軽く頭を下げてエレガント部室に足を踏み入れて、そのまま絶句した。
 そこは、王宮だった。
 壁紙も、天井から下がったシャンデリアも、レースのカーテンも、薔薇の刻まれたテーブルと椅子、そこに座って優雅にティーカップを掲げる男女の服も・・・
 何もかもが貴族趣味な、きらびやかなもので統一されている。
「おや、君は確かエレン君だったね。あの野獣の部活にいるのが耐えられなくなったのかい?」
 微笑みながら綾小路薫は立ちすくむエレンに問いかけた。優雅な仕草で紅茶を口に運ぶ。
「ああ、部長!今日も最高にエレガントですっ!」
「ええ、そりゃもうバリバリエレガントですっ!」
 その両脇に座った女子生徒達が貧血のようによろめくのを引きつった顔で眺めながらエレンは何とか自分を取り戻して口を開いた。
「そ、それがだな・・・うちの部員の天野美樹が野球部の連中と揉めたのだ。殿が有り難くも仲裁をして下さったのだが、奴らは恥知らずにも我々と野球で勝負することにしおった。そこで、人数が足らない我々に助太刀してくれる方を探しているのだが・・・」
 大分主観の入った説明を聞き終えて綾小路はぱさっと髪を掻き上げた。
「成る程・・・事情はわかったよ。あの野獣と一緒にと言うところは気にくわないが・・・」
 そこで言葉を切り、バッと立ち上がる。
「この僕は、この綾小路薫はっ!全世界のエレガントな女性の味方だ!無粋なる野球部の諸君にエレガントのなんたるかを教えてあげるとしよう!」
 マントを跳ね上げて叫ぶ綾小路の周りに薔薇の花びらが舞う。部員達がテーブルの下から取りだしたザルに入っていたそれをぱっとばらまいたのだ。

『は、はぁ・・・ご協力、感謝する・・・   エレン・ミラ・マクライト』


 葵は、とてとてと廊下を歩いていた。階段を登り、屋上の鉄扉をよいしょと開く。
「わぁ、綺麗な夕日・・・」
 屋上からの絶景にひとしきり歓声を上げてからごそごそとポケットを探る。
「あった」
 呟いて葵は取りだしたそれをしげしげと眺める。
 銀色の、筒状をした小さな笛。
「すぅぅぅぅ・・・」
 小さな胸を反らして葵は息を吸い込んだ。そして、思いっきりその笛を吹き鳴らす。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・

 無音。確かに送り込まれているはずの息はぴぃともすぅともいわず拡散していく。だが、鼓膜がちりちりと痒くなる。
 人間の可聴域を越えた高音を出す犬笛なのだ。
 くいっ。
 吹きすぎて酸欠になりちょっとよろけた葵の袖がくいっと引っ張られる。
「・・・来た」
 振り向いた葵をちょっと焦点のずれた目でぼんやりと見下ろしているのは、風紀委員の腕章をつけた少女、みーさんだった。
「わ、これを吹いただけでほんとに来てくれるんだね」
 目を丸くして犬笛を眺めながら葵は呟く。
「耳、いいから」
 そういう問題でもあるまい。
「えっとね、みーさん。実は・・・」
「大丈夫。知ってる・・・野球部との試合。私も出る」
 ぐっと力こぶを作ってみせるみーさんに葵は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうみーさん。やっぱり頼りになるね」
 邪心のない笑みを眺めるみーさんの顔が少しだけ緩む。照れているのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・みーさん先輩っ!急に走り出さないで下さいっす」
 二人してほんわかしているところに声をかけられてみーさんはちょっと悔しそうに振り向いた。
 屋上の入り口、その鉄扉を開けて同じ風紀委員の神戸由綺がばてている。
「巡回中にいきなり消えるからびっくりしたっすよ・・・おや、神楽坂先輩。ちゅーっす」
 ひとしきりまくしたててから神戸は葵に気づきしゅたっと手を上げた。
「こんにちは神戸さん。この前は大変だったね」
「にゃはは・・・あんときはすいませんっす」
 笑いながら頭を下げる神戸を見てみーさんはぽんっと手を打った。
「由綺も、やる?」
「やるっす!」
「はわわ・・・神戸さん、野球部と野球で試合をするための助っ人だよ?」
 取り敢えず勢いだけで頷く神戸に葵は慌てて口を挟む。
「野球部と試合っすか?剛毅ッすね!いいっす!先輩方にはお世話になっってるっすからこの神戸、腕がもげるまで打つッすよぉ!」
 勢い良く拳を天に突き上げる神戸とそれを真似して何となく拳を突き上げる葵とみーさん。
 平和な、風景であった。

『我が人生に、一片の悔い無しッす!   神戸由綺』
『・・・いきなり死なない      御伽凪観衣奈』


 そして時はあっという間に過ぎて日曜日。
「まずはいい天気で良かったな」
 恭一郎は野球場の中を見渡して呟いた。予想以上に話が広がっていたらしく、客席にはかなりの数の観客が入り放送部の実況までいつのまにか用意されていた。
「そうだね恭ちゃん。野球日和だよ」
 微笑む葵はジャージ姿に大きなファイルを抱え、首からストップウォッチをさげている。由緒正しきマネージャースタイルだと言えるだろう。
「恭、彼らも来たみたいだね」
 貴人の声に恭一郎は敵軍ベンチに姿を現した野球部の面々を見渡した。ジャージ軍団と化している恭一郎達と違い当然ユニフォーム姿だ。
 準備運動を始める野球部員の中から部長の武田が恭一郎に歩み寄ってきた。その瞳には明瞭な怒りの炎が浮かんでいる。
「よぉ。よく逃げねぇで出てきたな」
 恭一郎の先制攻撃に武田はこめかみをぴくりと引きつらせた。
「ふん、寄せ集めで勝てるつもりだとは片腹痛い。今からでも這いつくばって命乞いをしたらどうだ?」
「なんでだ?まさかおまえ、俺達に勝てるとでも思ってんのか?」
 武田部長の精一杯の反撃は、恭一郎の不思議そうな声に粉砕された。
 本気で勝ちを疑っていない恭一郎に武田は顔中に血管を浮き立たせて怒気を放つ。
「・・・試合は9回までのフルゲーム、延長は12時まで。10点差が付けばその時点でコールドだ。いいな?」
 何とかそれだけ言って帰ろうとする武田に今度は美樹が声をかけた。
「何で12時までなわけ?どこまででも白黒つけようじゃないのよ」
「くっ・・・!」
 武田はその言葉に悔しげな歯ぎしりを返して足早に自軍ベンチ前に戻る。
「あのね美樹さん・・・この高校って野球の大手部が二つあるでしょ?それなのに野球場が一つしかないから時間で分けて使ってるの。今日は午後からベースボール部が使うからあと2時間半で空けなくちゃいけないの」
「成る程。場所をとるスポーツは大変ですね」
 エレンが相槌を打つ。
「まぁ、あんまり長々とやるのもなんだからな。これくらいでちょうど良いだろう。よし、みんな聞いてくれ!スターティングオーダーを発表するぞ!」
 全員自分の方を向いたのを確認して恭一郎が頷くと葵がファイルを開き打順を読み上げる。ちなみに、剣術部側の打順は、
 一番 神戸由綺        (レフト) 
 二番 御伽凪観衣奈      (ショート)
 三番 天野美樹        (ピッチャー)
 四番 風間恭一郎       (キャッチャー)
 五番 エレン・ミラ・マクライト(センター)
 六番 中村愛里        (ファースト)
 七番 綾小路薫        (セカンド)
 八番 稲島貴人        (ライト)
 九番 水無月萌        (サード)
である。

「待ちたまえ風間君。このエレガントな僕が七番で何故に君が四番なのかな?」
 綾小路の問いに恭一郎はうるさそうに手を振る。
「そりゃ、俺の部活の試合だからだ。いいから聞けよ。奴らの先発出場選手はだな・・・」

 一番 吉岡浩一        (ショート) 
 二番 高橋賢治        (ライト)
 三番 西村陽平        (サード)
 四番 武田卓         (ピッチャー)
 五番 田中秀二        (ファースト)
 六番 平岡哲朗        (セカンド)
 七番 小谷健太郎       (センター)
 八番 三浦弘         (キャッチャー)
 九番 秋田修三        (レフト)

「一応全員一軍だってよ。まあ、気楽にやろうぜ」
 恭一郎はそう言ってミーティングを終わりにした。

 一方、野球部側ベンチでは。
「・・・いいか、負けは許されない。絶対に勝つ!」
 部長である武田卓が部員達に発破をかけていた。
「ベースボール部の連中でメンバーを固めてくるかとも思ったのですが、予想が外れたようですね部長」
 落ち着いた口調で相手ベンチの様子をうかがっているのはキャッチャーの三浦だ。
「ああ。嘗めやがって」
 歯をぎりぎりと噛み締める武田に部員達は内心で首をすくめた。
「勝つ!勝たなければ何の意味もない!勝ち以外に我々野球部の求めるものはないし我々の努力は全てそこを目指すものだっ!いいな!」
「はい!」
「声が小さいっ!」
「はいっ!!!」
「殴られたいのかぁっ!」
「はぃぃぃぃぃぃぃっっ!!!」
 絶叫する部員達を眺め回して武田はひときわ大きい声でミーティングを締めくくる。
「よし!気合い入れて行ってこいっ!!!」


『さて、いよいよ始まった野球部vs剣術部のプライドを賭けた野球勝負。実況はわたし、”放送部のマシンガンジョー”こと高条なるみ、解説はベースボール部部長平田和宏さんです。よろしく平田さん』
『オォウ、ナイストゥーミーチュー!HAHAHA!』
『な、何なんでしょうこの人・・・ともかく一回の表、野球部の攻撃です』
 
「なんだ?向こうのピッチャーは女かよ」
 呟いてトップバッターの吉岡はぐるぐるとバットを回す。50メートル走で六秒を切る俊足と正確な観察眼が売りの切り込み隊長だ。
「プレイッ!」
 審判のコールと共に美樹はダイナミックなモーションで振りかぶった。ブルペンで投球練習は済ましているので、その動きにぎこちなさはない。
 しゅっ・・・ぱんっっっっ!
 綺麗な音をたててボールが恭一郎の構えたミットに吸い込まれる。
「ストライック!」
 審判の声を聞いてようやく吉岡は自分がボールを見逃したことに気付いた。
「な、なんだありゃ・・・140以上出てるぞ。ほんとに女かよあいつ・・・」
 呆然とした吉岡の呟きに恭一郎はニヤリと笑いながらボールを美樹に投げ返す。
「性格はアレだが一応女だぜ・・・どうだ?痺れる投球だろ?」
「ふん、左の速球派がいるとは正直びっくりしたけどな・・・打てないわけじゃない!」
 言っている間に美樹は再び振りかぶった。
「くっ・・・!」
 吉岡は眼を見開きなんとか球筋を見極めようとする。
(まだワンストライクだ。一球様子を見て・・・)
 ひょい、ぱすっ!
「ストライックトゥー!」
「はぁ?」
 吉岡は素っ頓狂な声をあげた。二球目は一球目とは対照的な超スローボールだったのだ。
「見る気満々の奴にわざわざ全力投球はしねぇだろ普通」
 恭一郎は飄々とした様子でボールを美樹に投げ戻す。
「くっ!」
 悔しげに吉岡が唇を噛んだ所で第三球。
 しゅっ!
「ど真ん中に速球っ!」
 吉岡は叫びながら短く持ったバットを更にコンパクトに振る。美樹の球は確かに速いがど真ん中のコースなら、どんなに早くとも打てないことはない。
 だが。
 くいっ。
 バットが当たる寸前、ボールは吉岡の膝を襲うように曲がった。直球狙いだった吉岡はそれに付いていけずバットは虚しく空を切る。
「スットライクバッターアウッ!」
 審判が高らかにコールすると客席がわっと湧いた。どうやら美樹のファンは予想以上に多いらしい。
「か、カーブだと・・・?しかもあんなに切れる・・・」
「素人だから変化球を投げねぇって決まりがあるわけじゃないんでな」
 恭一郎の声を背に受けてとぼとぼと吉岡はベンチに戻った。
「・・・吉岡。どういうことだ」
 途端に武田の不機嫌そうな声が飛ぶ。
「いや、その・・・相手のピッチャー、結構すごいですよ」
「そんなもの見ればわかる。お前の役目は何だ?何故もっと粘らない!」
 武田は叫びながらベンチを蹴飛ばした。ガツンという鈍い音に選手達が首をすくめる。
「・・・ですが部長。吉岡の言うことも一理あります」
 その雰囲気をもろともせずにキャッチャーの三浦は淡々とスコアブックをつける。残念なことに野球部にはマネージャーが居ない。
「何がだ三浦!」
「あの女性ピッチャーは相当野球慣れしています。ほら・・・」
 顎でバッターボックスを指すと、二番の高橋がストライクゾーンぎりぎりのボールに手が出せず三振したところだった。
「不甲斐ない!」
 武田の怒号を聞きながら三番の西村がバッターボックスに向かう。
「認めましょう、部長。あの女性ピッチャーをうち崩すのは簡単ではないと。見たところ、スタミナは並のレベルとみました。カットを心がけ投球数を増やせば自然に勝ちはつかめます」
 淡々と喋る三浦の視線の先で西村は初球を引っかけてセカンドフライに倒れた。
「・・・ああいうのは、無しです」
「俺はもう、呆れてものも言えん・・・」


『驚きです!1回の表、野球部の攻撃は三者凡退!いやあ平田さん!剣術部のピッチャーである天野選手、素晴らしいピッチングですね!』
『おぅいえ!シーイズソービューティホ!』
『は?』

「なんなんだあの実況は!」
 ロージンバックを乱暴に握って武田は吐き捨てるように呟いた。知らない間に実況が付いていたのも気に入らなければそのゲストが憎きベースボール部の部長だというのがまた気に入らない。
「よろしくおねがいするっすー!」
 剣術部側トップバッターは神戸。陽気に挨拶してヘルメットを被り直す。
「打てるもんなら・・・打ってみろってんだ!」
 叫びながら武田は伸びのある速球をその右腕から繰り出した。
「うわ!?」
 神戸は取り敢えずバットを振り回すがかすりもしない。
「ふむ。あのピッチャー以外はそれほどの能力でもないか・・・」
 呟いて三浦はボールを武田に返しながらバッターを観察した。
(・・・よし)
 頷いてサインを交換する。
 ひゅっ・・・ぱぁん!
 ど真ん中への速球が快音を立てて三浦のミットに収まった。
「ストライッ、ツー!」
 別段神戸が下手なのではない。2回戦止まりとはいえちゃんと野球部で活動している人間とただの運動神経がいい人間ではこんなものである。
「ああっ、やられたっす〜!」
 実際神戸はその後も空振りをし三球で打席を去った。
 続いて、ふわっとした動きでみーさんが打席に入る。
「次から次へと女ばかり!嘗めてんのか!」
 マウンドで武田が叫んでいるのが聞こえる。三浦は内心で不安になった。
 武田は実力のある投手だ。直球の冴えは抜群だしカーブ、シュート、スライダー、フォークまで投げられる。野球の知識も豊富だ。
 だが。
 その反面、思考が硬直であることと敵を甘く見がちだという弱点がある。
「・・・・・・」
 三浦はバッターボックスに立つみーさんを見上げた。
(どうにも・・・つかみ所のない娘だな)
 心の中で呟いて外角低めへのストレートを要求する。油断が見られる武田への注意を込めての慎重な要求が、しかし仇になった。
 しゅっ・・・
 武田の左腕が生み出した速球を、みーさんは目一杯伸ばしたバットの先でかつんと叩いた。妙な回転のかかった打球はファーストの手前の地面でイレギュラーしファールグラウンドへと転がっていく。
「ちっ・・・!」
 舌打ちしてベースカバーに入った武田の前を黒い何かが横切った。
「は?」
 みーさんだった。信じられないほど早く、それで居て無音の駆け足であっさりと一塁を奪う。
「ぶいっ」
 無表情のままVサインをしてくるみーさんを憎々しげに睨んで武田はマウンドに戻った。
「さぁって、ホームランでも打っちゃおっかな〜」
 バッターボックスには三番、天野美樹。
 わざとらしくライトスタンドをバットで指す美樹に武田は奥歯が砕けそうなほどに歯ぎしりをした。
(だが、この選手は危険だ・・・)
 そんな部長を見ながら三浦は冷静に判断し再び外角攻めを武田にサインする。
(ふざけるなっ!ここまで馬鹿にされて逃げれるか!)
 武田は激しく首を振り次のサインを待たずに投球モーションに入った。
「やむを得ないか」
 呟いて三浦は捕球体勢に入る。
 ・・・そして、美樹はその一部始終をしっかりと見ていた。
「打てるもんなら打ってみろぉおっ!」
 咆吼と共に武田の右腕が激しくしなり唸りをあげて白球が繰り出される。
 球速にして140kmを越える、素晴らしい速球だ。だが!
「わかってりゃ打てるのよストレートはっ!」
 カキィィィィィィィィィィンンン・・・
 本日初めての快音は美樹のバットから生まれた。美しいアーチを描くボールを余裕の視線で美樹が見送る。

『うぉぉぉぉぉ!剣術部の天野美樹選手、何という実力!宣言通りのライトへのホームランだぁっ!これはまさに!六合のベーブルースと言うべきでしょう!素晴らしいホームランでしたね平田さん!』
『オォウ、マーベラス!スシ!ゲイシャ!』
『いや、あの、平田さん?』

 右手を突き上げてゆっくりとダイアモンドを回る美樹を横目に三浦はマウンドの武田に歩み寄った。
「・・・すまん」
 自分への怒りに震える武田に三浦は首を振る。
「この回、三点までならば問題はありません。後半で必ず取り返せます。部長は塁にランナーを溜めないことを心がけて下さい」
「ああ。もう一人とて塁は踏ませない!」
 頷いて三浦は踵を返した。
 戻ってきたバッターボックスに立っているのは、四番風間恭一郎。
「あんま怒ると脳の血管切れるぞー」
 いい加減な野次を送る恭一郎に武田は憎々しげな視線を送った。
(気にしてはいけません、部長)
(わかってる!)
 三浦のサインに頷き武田は大きく振りかぶった。
 しゅっ・・・
 唸りをあげる白球を睨み恭一郎は鋭くバットを振る。が、
 ぶんっ。
 外郭へ滑るように変化したボールに激しく空を切ってしまう。
「ちっ・・・直球で来い直球で・・・」
 呟く恭一郎を武田は余裕の視線で、三浦は驚異の視線で見つめる。
(なんだ、こいつは大したことねーじゃないか)
(ですが彼のスイングスピードは異常です。勝負は避けましょう)
 ミットをパンッと叩いて二球目。内角へ抉り込むようなボールを恭一郎は難なく見送る。
(目もいい・・・油断はしない方が無難か)
 三浦は内心で呟きサインを送る。
 武田はゆっくりと振りかぶり右腕をしならせる。
 外角低め、ピッチャーの聖域と呼ばれるそこへのストレートへ無謀にも恭一郎は手を出した。
 カツッ。
 鈍い音を立ててボールはファールグラウンドに跳ねる。
 これでカウントは2−1、ピッチャー有利だ。
「これで、おわりだぁっ!」
 武田は叫び声と共に全身を捻り約19メートル先のミットへと白球を繰り出す。
「!」
 恭一郎はど真ん中への投球に眉をひそめながらも手にしたバットを全力で振った。
(だが、甘いっ!)
 三浦は内心で叫ぶ。はたして、ボールはバッターボックス直前でストンと落ちた。恭一郎のバットが空気を割るような音を立てて空振りする。
「ストライッ、バッターアウっ!」
 審判のコールに恭一郎は舌打ちしてバッターボックスを出た。
「変な回転がかかってると思ったら・・・フォークを高校野球でなげっか普通」
 ぶつぶつ言う恭一郎に代わって打席に入ったのは5番のエレンだ。
「エレン・ミラ・マクライト・・・参るっ!」
 気合いの声をあげるエレンを眺めながら恭一郎はどっかりとベンチに座った。
「ふっ、エレガントさに欠けるんじゃないかな風間君?」
「ぬかせ、どーせおまえも打てねぇよありゃあ」
 髪を掻き上げる綾小路に恭一郎は唸るように答える。
「あ、エレンさん初球から手を出した・・・」
 スコアブックを付けている葵の声にバッターボックスを見るとエレンが高めのストレートに手を出してフライを打ち上げたところだった。
 キャッチャー三浦が難なくそれを取って3アウト。
「ともかく、楽しもうぜ。たまにゃぁこういうのもいいだろ」
 

『大方の予想を裏切って試合は投手戦の様相を呈してきました!野球部の武田投手、剣術部の天野投手は共に好投を見せ、この7回までの得点は初回の2点のみです!』
『Ah、Ha!ナイスピッチングね!HAHAHA!』
『もうこの人どっかへ連れてっちゃってください!ともかく試合はラッキーセブン、野球部の打順は6番の平岡選手からです!』


「・・・よっし、この回もバシッと押さえるわよ!」
 一見元気よくピッチャーマウンドに向かう足取りに疲労を感じとって恭一郎は美樹の肩を叩いた。
「おい、大丈夫か?投球数も100を越えた・・・そろそろやばいんじゃねぇか?」
「何言ってんのよ!この美樹さんの鉄の左腕を信じなさいって!」
 美樹はぐっと親指を立てて歩み去る。恭一郎は内心の不安を押し隠してキャッチャーマスクを被った。
「平岡ぁっ!今度こそ打って見せろ!そんな素人に押さえられて恥ずかしくないのかっ!」
「・・・・そんな事言ったって部長も打ててないじゃないですか」
 ベンチから檄を飛ばす武田に平岡は小さく呟きバットを構える。
(こいつは気にするこたねぇな。直球勝負だ)
(おっけ。まかしときなさいって!)
 サインを交わし恭一郎はミットをバンッと叩いた。
 美樹は大きく振りかぶり左腕をしならせた。
 きんっ・・・
 直後、掠れた金属音と共にボールは真上に飛んだ。落ちてきたボールを危なげない動きで恭一郎がキャッチしこれでワンアウト。
「くそっ、やっぱ打てない」
 悔しげに呟いてベンチに戻る平岡に対して恭一郎の顔は暗い。
(まずい。天野の球威なら今のコースを打たれるはずはない・・・あいつ、やっぱりばててきてやがる!)
 そう、美樹は疲れていた。いくらスポーツ万能とはいえ本職でもない野球での全力投球は容赦なく体力を削り取っていく。
 そして、その事実に野球部の頭脳である三浦も気付いていたのだ。
「ついにスタミナが切れてきましたね」
 呟いて一つ頷き打席に向かう8番の小谷に近づき耳元に指示を与える。

「・・・まじぃな」
 恭一郎は苦々しい顔でバッターボックスの小谷を見上げた。現在、カウントは2−2。小谷は徹底したカット打法でバットの届く範囲の球を全てファールにし始めたのだ。
(美樹が疲れてきてるのを感づきやがったな・・・)
 恭一郎は内心で呟きマウンドの美樹に視線を移す。目に見えるほどではないが、美樹のボールからは徐々に・・・そして確実に球威が失せてきている。
「どうした?早く投げろよ」
 ニヤニヤと笑う小谷を無視して恭一郎は美樹にサインを送る。
(マジ?)
 首を振る美樹に、
(信じろ)
 もう一度同じサインを送ると美樹はニヤッと笑って頷いた。
「事故よね、事故」
 妙な呟きを発する美樹に小谷は眉をひそめた。
「そうだよな、まあ硬球くらいで人は死なないよな」
 それに答えるような恭一郎の声に真っ青になる。
「あ、あのですね?まさか、僕にぶつけようってんじゃ?」
 無意識に敬語になりつつ尋ねる小谷に恭一郎はにっこりと微笑んで見せた。
「ひぃいっ!?」
 悲鳴をあげる小谷を無視して美樹は投球モーションに入った。
「ごめんねっ!」
 声と共に放たれた白球ははたして小谷へ真っ直ぐ向かう。
「うわぁっ!」
 悲鳴と共に目を閉じてのけぞった小谷だが、いつまでたっても激痛は走らなかった。その代わりに、
「ストライッ!バッターアウトッ!」
 審判の声が響く。バッター強襲と思われたボールは直前で大きく曲がり、ストライクゾーンを通過して恭一郎のミットに収まったのだ。
「な!?汚いぞ!」
 思わず抗議する小谷に恭一郎はニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「初歩の囁き戦術じゃねぇか。ノムさんをしらんのか?」
「・・・確かに、君のミスですよ小谷君」
 落ち着いた声に恭一郎は片眉を上げた。8番、キャッチャー三浦がバットを携えてそこに居る。
「さあ、ベンチに戻って」
 せかされて渋々と小谷はベンチに戻る。それを見送って三浦は左打席に入った。
「しかし、これまでのリードといい今の囁きといい、ずいぶんと汚い野球をしますね」
「おうよ、邪道は俺のモットーだ」
 答える恭一郎に一つ頷いて三浦は美樹に視線を向ける。
(奇策は危機の裏返し。確実に、彼女の球威は落ちている。ここは打たせて貰うぞ)
 内心で呟きやや長めにバットを持つ。
 恭一郎はちらりとそんな三浦を伺ってからサインを送る。一つ頷いて美樹は左腕をしならせた。
 ボールは唸りをあげて外角低めに入った。そこはバッターにとって最も打ちづらい、いわゆるピッチャーの聖域である。
「違う」
 しかし三浦はそれをあっさりと見逃す。ギリギリでストライクだが、打ったところでゴロになるだけだ。
「ちっ、よく見てやがる・・・」
 恭一郎は呟いてミットを叩いた。
 続いて二球目、今度は内角を抉るようなストレートを三浦は軽く上体をそらして見送る。これでカウントは1−1。三球目は外に逃げるカーブ、これまたバットは動かずにカウントは1−2。
 バットを握り直しながら三浦の頭の中で野球頭脳が高速回転する。
(・・・そろそろ焦ってくる頃か。球数を減らしたい局面、打ち損じを狙ってくる)
 キリキリと空気が緊張する中で美樹が振りかぶる。その瞬間、三浦は素早く足の位置を変えた。
 ヒュン・・・!
 美樹の左腕がしなり空を切ってボールが迫る。速度はそれなりに出ているがど真ん中だ。
「たぁっ!」
 気合いの声と共にバットを振った瞬間、ボールは外角低めへ逃げるように緩くカーブした。
 しかし!
「それを待っていた!」
 三浦が叫ぶ。三浦は一歩踏みだし、大きく足を広げた姿勢でバットを振っていた。打ち損じを誘う為に変化球を使うことは予測していた。左対左である以上球種は外へ逃げるボール。そして美樹にはスライダーやシンカーはなくカーブが縦に割れること・・・それだけわかっていれば、やるべき事は決まっていた。
 カキィィィィィィィン・・・!
 下からすくい上げるようなアッパースイング。三浦の頭脳の生み出した解は今、現実のアーチとなってレフトスタンドへと突き刺さった。
「やられたな、これは。完全に読まれてた」
 舌打ちして恭一郎は淡々と塁を回る三浦を眺める。
「恭一郎、ごめん・・・」
 手を合わせる美樹に首を振って大きく深呼吸する。
「所詮シングルだ!しまっていこうぜ!」
 大声で叫び恭一郎は再びミットを構えた。次の打席は9番の秋田。ギリギリ一軍という1年生である。
「まだまだ・・・」
 美樹は呟いて大きなモーションで振りかぶった。
「負けてらんないのよぉっ!」
 絶叫と共に放ったボールはこれまで以上のスピードでミットに突き刺さった。パァンという快音にバッターボックスの秋田は首をすくめる。
「つ、疲れてるはずなのに・・・」
 二球目もど真ん中への速球。これも手が出ない。
「ま、まずい・・・これじゃ部長に怒られる・・・」
 呟いて秋田はバットを短く持ち、何とか食らいつこうと美樹を見つめる。
(ここは、外角へ逃げる球で打たせて取ろう)
 恭一郎のサインに美樹は断固として首を振った。
(駄目よ!あいつらの志気をくじくためにもここはストレート一本で勝負しなきゃ!)
 しばし迷ってから恭一郎は頷いてミットを構えた。
 美樹は振りかぶり、ゆっくりですらあるフォームで左腕をしならせた。
 ヒュッ・・・スパァン!
 結局秋田のバットは空を切り、ボールはミットに収まった。
「ストライク!三振バッターアウト!」
 審判のコールと共に美樹は鼻歌混じりにベンチへ戻った。だが・・・その左腕が僅かに痙攣していることを、恭一郎も・・・そして三浦も見逃しては居なかった。


 7回裏、打順は2番のみーさんからだ。
「おい、正直に言え天野。あとどれくらい投げられる?」
 恭一郎はスポーツドリンクを飲んでいる美樹に問いかけた。
「な、何言ってんのよ恭一郎。さっきのボールを見てなかったの?あたしはまだまだバリバリよ」
「無理矢理投げてただろうが。あんな投球を続けると肘が痛むぞ」
 恭一郎が苦々しく呟いているとみーさんが飄々と戻ってきた。
「ごめん、三振・・・」
「おつかれさまみーさん。残念だったね」
 微笑む葵の手をわしっと握りみーさんはぶんぶんと頷く。
「・・・えっと、何だっけか・・・そうそう、ともかくあんまり無理な投げ方すんじゃねえぞ。試合の勝敗よりまず身体を大事にしろ」
「わかってるって」  
 曖昧な声で答えて美樹はバッターボックスに向かった。軽く素振りをしてから打席に入り静かに構える。
 野球部側のピッチャーである武田は初回から今まで殆ど代わらない球威で投げ続けている。むしろ若干スピードアップしているくらいだ。
(もとから、スタミナで勝てるとは思わないけど・・・)
 美樹は疲れがたまり動きが鈍くなった左腕を庇いながらバットを握り直した。
(弱音をはくわけにはいかないじゃない!)
 武田は鋭く振りかぶる。
(あたしが・・・あたしがこの試合をする事になった原因なんだから!)
 空を切って迫る白球に美樹は歯を食いしばってバットを振った。


『さて、7回裏の攻撃も0点に終わった剣術部。1点リードのまま8回を迎えます。7回表にホームランを浴びたとはいえここまで野球部打線をわずか2安打に押さえている天野投手はあと2回を守りきれるんでしょうか?』
『・・・いや、難しいかもしれないな』
『え?それはどういうことですか平田さん・・・って、平田さんが真面目にコメントを言ったぁっ!?』


 この回の野球部は一番の吉岡からと言う好打順だ。
(あたしが、頑張らなくてどーするっ!)
 美樹は渾身の投球で吉岡をカウント2−1まで追い込み、額の汗を拭った。
「おいおい、あんたんとこのピッチャー、もう限界なんじゃないか?」
 バッターボックスから声をかけてくる吉岡に恭一郎は軽く肩をすくめた。
「俺もそう思うが本人が強情でな」
 呟きながら恭一郎は外角低めを要求する。美樹は頷いて振りかぶり・・・
「あっ!?」
 ボールを放った瞬間悔恨の声をあげた。投球の瞬間指がわずかにひっかかり、ど真ん中に投げ込んでしまったのだ。
「よっしゃ!」
 吉岡はそれを難なくひっぱり一塁へ進んだ。
(まずいな・・・精神的に来るぞ今の一撃は・・・)
 恭一郎は内心で呟いた。その言葉通り、いまいちキレを欠く美樹は続く2番高橋、3番西村にもヒットを許し、ノーアウト満塁。迎えるバッターは・・・
「これで決める・・・覚悟しろ」
 呟いて武田はバッターボックスに入った。その全身から気迫が溢れだしているのを見て恭一郎はすかさずタイムを取った。
「・・・おい、あいつはやばい」
 口元をグローブで隠して囁く恭一郎に美樹はキッと鋭い視線を送った。
「なによあんたらしくもない!いつもの強気はどーしたのよ!?」
「いや、私も風間に賛成する。アレは、本物だ。わからないの?」
「うん、そう」
 集まってきた愛里とみーさんに言われて美樹は唇を噛む。
「・・・勝負、してぇのか?」
「風間君、まさかマドモアゼルに勝負させるのではあるまいね?それは無謀というものだ。マドモアゼル天野・・・無茶はエレガントではないな」
 恭一郎の言葉を制す綾小路に美樹は俯いた。
 わかっているのだ、自分の限界は。もはや本職を押さえるだけの力は残っていない・・・でも・・・
「みんな、お願い。勝負させて・・・」
 美樹は僅かに震える声でそう言った。
 それぞれの表情で沈黙する内野勢を見渡して恭一郎はニヤリと笑う。
「よし、いいだろう。やってみろ」
「風間っ!」
 驚愕の声をあげた愛里を制して恭一郎は美樹の肩をぽんっと叩いた。
「俺は自分の意志で戦いを望んだ奴の邪魔はしねぇよ。だが・・・キャッチャーとして言っとくぜ・・・球威が落ちてるのを気にせず、全力で投げ込め。サインはない。全てストレートのど真ん中でいい。変化球やきわどいコースは今のおまえじゃ逆に危険だ・・・いいな?」 
 こっくり頷く美樹に笑いかけて恭一郎は守備位置に戻るように指示した。
 自身も戻りながら、振り返り一言だけ残す。
「自信を持って投げろ。そうすればなんとかなるさ」

(そうよ・・・今回はあたしが原因なんだから)
 美樹は宣言通りサインもなくミットを構える恭一郎へと限界ギリギリの力で左腕をしならせる。
 ヒュッ・・・パァン!
 武田はバットをぴくりと動かしたがそのボールを見逃した。
(いつもいつも、恭一郎に頼ってるわけにゃいかないの・・・よっ!)
 再び大きく振りかぶる。ランナーのことは取り敢えず忘れ、左手で握ったボールだけに意識を集中する。
 ヒュッ・・・パァン!
「ストライッ、トゥー!」
 審判の腕が上がり、今度も武田は動かない。
(何を狙ってるの?あの部長・・・あたしのボールに手が出ない?・・・それとも・・・見極めていた?あたしのボールを)
 内心の不安に押されて美樹はちらりとバッターを見た。
 ニヤリ。
 武田は、そんな美樹に不敵な笑みを見せる。
(!・・・駄目、打たれる!ストレートを3球なんて、危険すぎる!)
 美樹はびっしりとかいた汗を袖で拭い、グラブの中でそっと握りを変えた。
 ゆっくりと振りかぶり、美樹は今三球目を・・・投げた!
 白球は明らかにストレートとは違う軌道を描き武田の胸元を抉るようなカーブへと変化する。だが!
「そんな緩いカーブが、通用するかぁああああっっっっ!」
 吠えるような絶叫が武田の口から漏れ、
 キィィィィィィィィィン・・・
 澄んだ金属音を残してボールはライトスタンドへ・・・更にそこを越えて場外へと消えた。

『なんと、なんと、なんとぉっ!野球部8回にして逆転の満塁ホームランだぁっ!劇的な一打に球場内、大いに湧いております!』
『握力だ。ピッチャーの天野さんは肩より先に握力が落ちていたんだ。いくら上手くとも、彼女は本職のピッチャーではない。変化球の多投は堪えるだろう。ストレート勝負というのは一見無謀なように見えて、それしかない選択だったんだろうな』
『成る程!しかしこれで試合は一気に野球部ペース!ああ、がっくりと膝をつく天野投手にキャッチャーの風間選手が駆け寄ります!』


「おい、天野」
 肩を叩かれて、美樹はゆっくりと顔を上げた。
「・・・ごめん。指示破って、あげく打たれて・・・あの、罰ゲームはあたしが代わりにやるから・・・」
 泣きそうな顔で呟く美樹に少し顔をしかめてから恭一郎は一つ頷いた。
「天野、『イ』って言ってみろ」
「は?・・・『イ』?」
 キョトンとしながらも歯を食いしばった美樹の頭に恭一郎は情け容赦なく脳天唐竹割りを打ち込んだ。
「はぶっ!?・・・何すんのよ恭一郎!」
「あのなぁ、おまえ何を悲壮感漂わしてんだよ」
 あくまで不敵に恭一郎は笑う。
「打たれたのがどうした?まだ8回だ。あと2回で取り返しゃいいだろうが。それにだな、おまえは自分一人で野球やってるつもりか?すこしは打たせて取ることも考えろ」
「だって・・・あたしがあの部長を挑発したのが原因だし・・・あたしが頑張んなきゃ」
 俯きがちな美樹の頭に恭一郎はもう一発唐竹割りを打ち込んだ。
「うきゃっ!?」
「馬鹿者。一人で勝負がしたけりゃ俺の剣みたいに個人で出来るもんにしとけ」
 言って、破顔する。その子供のような笑顔に美樹はキョトンとした。
「だが、いい根性だぜ。流石は俺の相棒だ」
 相棒・・・要するにバッテリーということなのだろうが、美樹の胸はその一言に妙に高鳴った。
「まかせとけよ。打つ方は滅多にあたんねぇが悪巧みは俺のお家芸だ・・・俺達で、この回は押さえる・・・いいな、『美樹』?」
 恭一郎は言って握った右拳を美樹の前に突き出す。
「・・・了解、『恭一郎』!」
 美樹はその拳にポンと自分の拳を当てて笑った。不思議と力が溢れてくる。

『さあ、風間捕手が守備位置に戻って試合再開です!疲労困憊の天野投手、この回を投げきる力が残っているのでしょうか!』
『Oh、Yeah!アマノサーン、ガンバテー!』
『うわっ!?またえせ外人モード!?』

「へへっ、もう一発おっきな花火を上げちゃいますよ?」
 余裕の表情で5番田中はバッターボックスに入る。
「打てるもんならな」
 恭一郎は呟きながら右腕をぐるぐると回し二度ミットを叩いた。
 美樹はコンパクトに振りかぶり、やや外角よりへとボールを投げる。
「甘いコースだ!」
 田中は歓喜の声をあげてそれを打ち返す。ライナー性の当たりがファーストとセカンドの間を綺麗に抜け・・・無かった。
「ふっ・・・君の打ち方、あまりにも無粋!」
 『何故か』その位置に居たセカンドの綾小路がジャンプ一番そのボールを捕球したのだ。
「なっ」
 絶句した田中はあたりを見渡し更に絶句した。
 ファースト、セカンド、ショート、サード・・・4人の内野全員が一塁から二塁までのゾーンに駆け込んで居たのだ。
 それはあたかも、そこに飛ぶのがわかっていたかのように!
「そんな馬鹿なことが出来るか!」
 叫びながら打席に入った6番広岡に恭一郎は掌を上に向けて『さぁね?』のポーズを取ってみせる。
 美樹が振りかぶり、白球がその左腕からくり出される。
「あっ・・・!?」
 投げた途端に美樹が声をあげ、全く勢いのないボールがふらふらと高めに飛来した。
「投げそんじか!」
 広岡は叫びフルスイングでそれを捕らえた。ボールはやや低い弾道ながら一直線にバックスクリーンを目指し。
「お見通しだ虚け者!」
 『何故か』フェンスの上によじ登っていたエレンのダイビングキャッチがそれを捕らえた。高さ2メートルからの着地を華麗にこなしたエレンに客席の『エレン姉さん親衛隊』から声援が上がる。

「あきらかにサインプレイです・・・ですが、我々の打撃の癖を試合中に見抜き守備位置を組み立てられる人材が彼らの中に?」
 ベンチで爪を噛んで唸る三浦の目が、ふとベンチに一人座る少女とあった。
 柔らかく微笑む少女・・・葵に三浦はぐっと拳を握った。
「彼女なら・・・学園でも1、2を争う天才の彼女ならあるいは・・・抜かった!」

「さ、サインプレイにしたって無茶苦茶な・・・」
 半ば怯えるような声で呟きながら7番小谷が打席に入った。前回の打席、囁き戦術で揺さぶられているだけに恭一郎と美樹に対する警戒心は人一倍だ。
 ニヤリと笑った恭一郎のサインに頷き美樹は左腕をしならせる。
 一球目は内角にのけぞらすようなボール、二球目は外角ギリギリへのストライク。三球目は低めへのストレートでこれもストライク。カウントは2−1だ。
「どうした?振らなきゃ打てねぇぜ?」
 囁きながら恭一郎は膝の埃を三度払い落とした。
「!」
 ベンチの三浦の目が鋭く光る。グラウンドを見渡しベンチの葵を見つめる野手達を観察する。
(ファーストとサードが反応、前の打席の揺さぶり・・・同じコースが来たらつい手を出してしまう・・・となれば、ゴロを狙う内角攻めか!振っちゃいけない!)
 素早く判断してバッターボックスの小谷にサインを送る。
 小谷が頷いたところで美樹は大きく振りかぶり、4球目を投げた!
 シュッ・・・!
「甘いんだよ三浦とやらっ!」
 恭一郎は叫びながらミットを構えた。
 ど真ん中に!
 パンッ!
 快音を立てて速球が突き刺さる。前の二人への省エネ投法で貯えた体力を使い切る渾身のストレートだ!
「ストライッ!バッターアウッ!チェンジ!」
 審判のコールと共にニヤリと笑って恭一郎はベンチへ戻る。その途中に相手ベンチへパンッと二の腕を叩いてみせると野球部は憎々しげな視線を返してくる。

「・・・すいません部長」
 そのベンチの中で一人静かな三浦は頭を下げていた。
「・・・反省しろ。後でな・・・今は」
 武田は呟き視界に入った扇風機を八つ当たりパンチで粉砕しながらマウンドへ登った。
「俺が、押さえる!」


『8回裏剣術部の攻撃は天野投手の力投に答えられず三者凡退に終わり、野球部対剣術部のエキシビジョンマッチもいよいよ大詰め、9回表です!』
『I Love HIPHOP!HAHAHA!』
『・・・8回の表は何とか押さえた天野投手ですが9回は・・・おや?野球部側ベンチ、選手が出てきませんね』


「大丈夫・・・もう一回くらい投げれるよ」
 引きつった笑顔の美樹はVサインを出そうとしてやめた。腕が上手く上がらないのだ。
「やめた方がいいよ。これ以上は筋肉に損傷を出す可能性がある」
 貴人の言葉に恭一郎も頷く。
「そうだな。後は肩をアイシングして待ってろよ」
「でも!誰が投げるのよ!ぎりぎり9人しか居ないのよ!?」
 美樹の叫びにベンチの中が暗くなる。
 そんな中で恭一郎だけがいつも通りの人が悪い笑みを浮かべていた。
「なあ美樹、この試合が決まった日に俺が教室で言ったことを覚えてねぇか?」
「え?」
 きょとんとする美樹に恭一郎はニヤリと笑みを深くする。
「今このベンチにいない奴が一人居るんじゃねぇか?」
「え・・・あれ?葵ちゃんが居な・・・って本気!?」
「ま、待ちたまえ風間君。自棄はエレガントとはいえないぞ」
 騒然とした一同に恭一郎は無意味に自信たっぷりな様子で頷いてみせる。
「まぁ、見てろ。くっくっく・・・奴らに赤恥をかかせてやる・・・くっくっく・・・」
 まるっきり、悪人であった。

『おぉぉぉぉぉぉっとぉっ!リリーフです!剣術部、何と控え投手が居ました!あの”ろりぽっぷ”で有名な神楽坂葵さんです!一部の生徒に絶大な人気を誇る彼女ですが運動神経が鈍いのも周知の事実!それとも、野球だけは出来るのか!?』
『Oh!PrettyGirl!モッテカエリタイネ!』
『あ、あんたもろりぃでしたか!ともかく9回表、バッターは8番三浦からです!」


「・・・何のつもりですか?」
 ピッチャーマウンドでぺこりと頭を下げる葵を不審な目で見ながら三浦は尋ねた。
「秘密兵器だ」
 言葉身近に恭一郎は答えグラブをぱんっと叩く。
 いくつかサインを交換してから葵は頷き投球フォームに入った。バッターに背を向ける極端な捻りが入った変則投法・・・その名を、
「と、トルネード!?」
 三浦は目を見開きバットを短く持ち替えた。身体に負担がかかる代わりにトルネード投法は力強い球威をボールに与えてくれる。振り遅れないようにとの作戦だ。
「えいっ!」
 美樹とはうってかわった気合いの抜けた掛け声と共に葵の右手からひょいっとボールが放たれた。
 ひょいっと。
「遅っ!」
 内野の誰かが叫ぶ。球速にして80km出ているだろうか・・・前の回まで見ていた美樹の速球と比べれば止まっているようなスピードである。
「な、なにっ!?」
 だが、バットは急に止まらない。速球のタイミングで繰り出された三浦のバットは先っぽの方でかすめるように葵の球を打ってしまう。
 ぼてぼてのゴロを恭一郎が一塁に送ってワンアウト。
「・・・なるほど。秘密兵器ですか」
 呆然と呟く三浦に恭一郎はニヤリと笑う。
「おうよ。俺と貴以外誰も知らねぇことだけどな、あの運動音痴がホームベースまで球が届くようになるまで3年かかった」
 信じられないというようにベンチに戻る三浦に代わってバッターボックスに入ったのは9番の秋田だ。
(打てる・・・!これなら打てる!)
 美樹の速球に散々痛めつけられた秋田は相手がスローボール主体だと知っていきりたった。
「それはどうかな」
 恭一郎はそんな秋田を眺めながらサインを送る。
「・・・うん」
 葵は真剣な・・・あるいは微笑ましい顔で頷き投球フォームに入った。上体をそらしそこから一気に沈み込むように前へ沈む。地面にこするように腕を振るその独特の投法は・・・
「アンダー!?なんで!?」
 タイミングが合わずバットを振れなかった秋田の横をゆったりとボールが通過する。
「ストライック!」
 審判のコールを聞きながら恭一郎はマスクの下でニヤリと微笑む。
 二球目は外角へのストレート。これまたタイミングを外された秋田のバットが空を切る。
「こ、こんな筈じゃ・・・」
 呟く秋田にピッチャーへとボールを返しながら恭一郎が笑う。
「タイミングの合わないバッターなんてこんなもんだ・・・俺もそうだけど」
 自分で言っといて自分でムッとする恭一郎に秋田は心底怖そうな視線を送った。
 そして三球目。
「よいしょっ」
 気合いの欠片もない掛け声と共に、アンダーから白球が放たれる!
 スピードガンで計ったらエラーと出そうな超スローボール。ファミコンのベースボールで端子をドライバーでこすったような驚異のスローボール。
「なのに、何で打てないんだぁっ!?」
 秋田は泣きそうな顔でバットを振り回した。かすりもしなかったボールがミットに収まりぺちっと音を立てる。
「す・・・ストライッ!バッターアウト!」
 審判のやや呆気にとられたようなコールと共に観客席が一気に湧いた。次から次へと繰り出される謎の技に観客はほぼ全員剣術部の味方となっている。

「おい三浦・・・ありゃあなんだ?」
 不機嫌を通り越してもはや平坦な声に三浦は淡々と答えた。
「トルネードとアンダーを使い分けること、極端なスローボール・・・奇策という奴ですね」
「なんであんな遅いボールがホームベースまで届くんだ畜生。無茶苦茶だ!」
 ベンチを蹴りつける音に選手達は顔を見合わせた。
「強いバックスピンをかけているからでしょうね。ですが、あの投手に速球はありません。変化球はあるかも知れませんがよく見極めれば打てないことはないはずです」

 そんな期待を背負ってバッターボックスに1番の吉岡が入る。野球部で最も選球眼とミート率が良い男だ。
「俺、神楽坂さんのファンクラブに入ってんだけどなぁ」
 呟く吉岡にぴくりと眉を動かし恭一郎はサインを送った。びっくり顔で葵がぶんぶんと首を振る。
「ちっ・・・ぶつけてやろうと思ったのに」
 憎々しげに呟く恭一郎に吉岡は青ざめた。
「しゃあねえ。次善の策だな」
 呟いて恭一郎は・・・

『ぅおおおお!?風間捕手が立った!?これはどう言うこと何でしょう平田さん!』
『カザマが立った!・・・カザマが・・・!』
『うっ・・・』
 何やら鈍い音が連続して響く。
『失礼しました。実況を続けます!立ち上がりバッターボックスから少し離れた位置で剣術部バッテリーは淡々とボールを投げ合います!敬遠です!』

「大人しく塁に出てな」
 ニヤニヤと笑う恭一郎に不気味なものを感じながら吉岡は一塁へ向かう。
「俊足の一番打者を敬遠とは・・・所詮素人だな!」
 呟きながら二番の高橋がバッターボックスに入ると同時にランナーの吉岡は大きくリードを取った。
 だが、走る気満々な吉岡の顔が驚愕に歪んだ。

『なんとぉっ!風間捕手、再び立ち上がった!敬遠です!剣術部、一番二番を連続敬遠!観客席、大いにどよめいております!』

「さぁどんどんいこうか」
 陽気に笑う恭一郎を異次元生物でも見るような視線で見つめて3番の西村が打席に入る。だが、今度は更に早かった。

『・・・さ、三連続敬遠・・・もはや観客席もどよめいてはおりません!満塁です!満塁で、なおかつバッターはこの人!本日満塁ホームランを放っている4番にして部長!武田卓選手!剣術部側、魅せてくれます!借りは返すとばかりに風間捕手、しきりに挑発しております!』
『いや、それだけかな・・・俺には他の意図も感じられる』
『うぉっ!?以外に早く復活した!』

「・・・貴様、どこまで俺達を馬鹿にするつもりだ?」
 もはや無表情な顔に極大の怒気をまとって武田は唸る。
「どこまでも、だな」
 恭一郎は飄々と答えてミットを叩く。
「・・・その憎たらしい顔が崩れるのが楽しみだ」
 顔中をひくひくと引きつらせながら歯ぎしりする武田に恭一郎は喉の奥で笑い声を漏らした。
「まぁ頑張れよスポーツマン。打てるもんなら打ってみろ」
 赤を通り越し真っ白な顔で武田はマウンドの葵を射殺さんとばかりに視線を送る。
 殺人視線をのほほんとした表情で受け流して葵は恭一郎のサインに頷いて、グラブを投げ捨てた。
「何?」
 呟く武田を後目に葵は左手にボールを握り直し投球フォームに入る。
「いくよ恭ちゃん!」
 掛け声と共に相変わらずのスローボールが武田の膝元、内角低めに突き刺さる。呆然としてバットを振れなかった武田と同じく呆然としていた審判が慌てて右腕を上げた。
「す・・・ストライック!」
 唖然としている武田に不敵な笑みを向けながら恭一郎は2バウンドくらいする緩い球を葵に返す。
「あいつはな、スイッチピッチャーだ」
「馬鹿な。そんなことが・・・よほど野球センスに溢れているのかあの女・・・」
 呟きに恭一郎は片眉を上げる。
「まだわかってないか・・・なら、俺達の勝ちだ」
 サインを送り、ミットを構える。
「くっ・・・」
 武田は憎々しげな表情でバットを構えた。
「よいしょ!」
 今度は右のトルネードが迫る。武田はスローボールにタイミングが合わずぶんっと音をたてて空振りをした。
「部長!力みすぎです!バットを短く持ってよく球を見て下さい!よく見ればただのスローボールです!」
「うるさい!わかってる!」
 ベンチから叫ぶ三浦の声を振り払って武田はバットを長く持ったまま構える。
「次は、打つ。絶対に打つ・・・あんな球、打てないはずがない!俺はその為に努力してきたんだ!」
 気迫のこもった声で三浦は自分に喝を入れ、葵の手元を睨む。
「・・・・・・」
 めずらしく無言で恭一郎はサインを交わしてミットを構えた。
「うん、やってみるよ恭ちゃん」
 葵は絶大な信頼感を込めた視線を恭一郎に送り、左手でボールを握った。
「えっと、回転率・・・腕の振る角度・・・」
 何やら口の中で呟きながら左手が柔らかく振りかぶられる。
「えいっ!」
 そして、ボール放たれた!
「タイミングさえ合えば・・・」
 武田は眼を大きく見開きボールを凝視した。ど真ん中へとゆっくり迫る白球。その縫い目の一つ一つまでもが見えるような気がする。
「打てないものはないっ!」
 叫びざま、武田は全力でバットを振った。今度こそタイミングのあったスイングで!
「それが、青いってんだよ」
 恭一郎は静かに呟いた。そして、
 くいっ!
 バッターボックス直前でボールは内角へ抉り込むようにスライドした。
「馬鹿なっ!?」
 バットの根本、グリップギリギリの所で打ってしまった武田の驚愕の声と共にボールはバッターボックス手前に力無く転がる。
「くっ!」
 大きくリードしていた3塁ランナーはキャッチャーの恭一郎がそれを取ろうとしているのを見ながら全力疾走を開始した。
 だが、間に合うはずもなくぽんっと恭一郎にボールを掴んだミットでタッチされてしまう。

『3アウト!3アウトです!野球部、痛恨の無得点!満塁から押さえられた武田部長が今、怒りを隠そうともせずに三浦捕手からピッチャーミットを受け取り守備に入ります!』
『あの満塁策は良かった。神楽坂ちゃ・・・おほん、神楽坂投手の球はありとあらゆる変則手段で誤魔化してはいても結局遅いし軽い。ミートだけを心がけていれば打てないことはない。だが、満塁になり尚かつ前の打席でホームランを打っている武田選手ならどうだ?必ず大振りをしてくるだろう。心理を揺さぶる汚い野球・・・実に汚い。そして、実に爽快だ!』
『成る程!観客席、大いに盛り上がっております!いやぁ、平田さん。実はちゃんと見てるんですねぇ』
『What?ミーがどうかしたネ?』
『あー、えっと?と、ともかく泣いても笑っても9回裏、剣術部の攻撃は8番稲島選手からです!』

「おい貴・・・どうだ?」
 恭一郎の短い言葉に笑顔で頷いて貴人はベンチを出た。
「稲島殿、今日は無安打ですね。打てるとお思いですか殿?」
 エレンの言葉に恭一郎はニヤリと笑う。
「ああ。見てな・・・あいつが出来ると言ったからには必ず出来るんだ」
 ベンチでの会話を知ってか知らずか落ち着いた雰囲気を漂わせた貴人は糸目を更に細めてヘルメットのつばを撫でる。
「さて、とりあえず打とうかな」
 呟く貴人に眉をひそめて三浦はマウンドの武田へサインを送る。
「打とうとして打てるのでしたら誰も苦労はしませんよ」
 三浦の言葉に頷きながら貴人がバットを構え、武田が投球モーションに入る。
「打てるもんなら打ってみろぉっ!」
 9回に入り、ますます球威を増したかのような剛速球。140を越えるそのスピードボールをしかし貴人は軽々と打ち返した。
「な、なにっ!?」
 呆然とする武田の頭上を抜けてボールはセンター前に転がる。一塁でストップした貴人は穏やかな顔で微笑んだ。
「君のリズムは、もう覚えたからね」
 余裕の発言に歯ぎしりする武田をよそにゆらゆらと揺れながらバッターボックスにはいる影があった。9番、水無月萌である。
「うふふ・・・心地良い電波が飛び交ってる・・・うふふふふふふ・・・」
 謎の笑いに気味悪そうな視線を送ってから三浦はサインを送った。
「あら、外角攻め?」
 途端に呟く萌に三浦は危うく倒れそうになった。
「な!?さ、サインが読まれている?」
「うふふふふ・・・」
 ひたすら笑い続ける萌の横顔に本能的な恐怖を覚えながら三浦は改めてサインを交わしミットを構える。
 武田が振りかぶり、その右腕からボールが放たれた。
「内角からストライクゾーンへ変化するスライダ〜」
 萌は呟いてバットを振った。
 カキンッ!
 いい音がした。綺麗に流されたボールはショートとセカンドの間を抜けてライト前に落ちる。
 その間に貴人が3塁へ進み、打った萌は不気味な笑みのまま一塁に立つ。
「な、なんなんだ今のは・・・」
 呆然と呟く三浦の横に小柄な人影が立つ。
「こういうのって、勢いが大事っすよね!」
 打順は一番に戻って神戸由綺である。
「そうですね」
 比較的まともな人間の登場に三浦は落ち着きを取り戻しミットを構えた。
「ですから、その勢いはここで断たせて貰います」
「にゃはは、ボクは簡単に打ち取れるって計算っすね?確かにその通りっす!」
 自慢にもならないことを元気よく宣言して打席を出た。そして左打席に入り直す。
「スイッチ?」
 呟く三浦に笑顔を返して神戸はホームベースに覆い被さるように身を乗り出し背中をピッチャーに向けるような姿勢で構えた。
 通称、”ぶつけるならぶつけろや”スタイルである。
「くっ・・・!」
 ピッチャーの武田は苦しげに呻いてボールを投げる。
 ぼすっ。
 どうせ内角へ投げれば退くだろうと投げたボールは、見事に神戸の脇腹を抉った。
「あいたたた・・・やっぱりきついっすねー」
 顔をしかめながらも嬉しそうに神戸は一塁へ向かう。一塁にいた萌が二塁に移動し、これで満塁である。
「・・・なんて事を。これもあのキャッチャーの指示か?」
 呟く三浦の横にふっと人が現れた。前触れもなく左のバッターボックスに立っているのは、二番のみーさんだ。
「ちがう」
 ぽつりと呟かれた言葉に三浦は不審げにみーさんを見上げる。
「恭一郎、自分の体は張るけどそんなこと人に指示しない」
 ちょっと怒ったような顔で呟いてみーさんは一塁の神戸に視線を向けた。神戸はにゃははと笑って頭をかく。
「無茶。でも、ないす」
 一つ頷いてみーさんは神戸と同じように”ぶつけてみろ”スタイルを取った。
「な、なんなんだ君たちは・・・」
 こわばった顔で三浦はサインを送る。同じような顔で頷いた武田はセットポジションからクイックに投球を開始した。
「二度も三度も同じ手が通用するか!」
 叫びながら放たれたボールは外角低め、ストライクゾーンぎりぎりを襲う!
「うん、痛いのはあまり好きじゃない」
 みーさんの呟きに三浦は顔をこわばらせた。失策に気付いたのだ。
 通常なら最も打ちにくい場所である外角低め。だが、身を乗り出している打者にとっては?
「えい」
 気合いの抜ける声と共にバットが快音を奏でた。
 絶妙の角度で引っ張られたボールはライト側ファールラインを直撃しファールグラウンド側へと転がっていく。
 慌ててライトの高橋がボールを追っている間に稲島と萌がホームベースを踏んでこれで点差は5−4。
「バックホームです!」
 三浦は絶望的な重いで叫んだ。一塁ランナー神戸は素晴らしい加速で三塁を回りホームへ突進してきている。
「だ、駄目だ!間に合わないっ!」
 ようやく帰ってきたボールよりも一瞬早く神戸はホームへと滑り込んだ。審判の手が大きく横に広がる。

『なんと、なんと、なんとぉっ!走者一掃のスリーベースヒット!剣術部、野球部に5−5と並びました!』
『What Some Beat?(訳:ぴりっときたかい?)』
『・・・平田さんは放っておいて、打順は3番。9回表をピタリと押さえた神楽坂選手です!』

「葵ちゃーん!ふぁいとぉ!」
 肩から肘までを氷袋で冷やしながら美樹が叫んだ。バッターボックスの小さな背中が頼りなくバットを構える。
「・・・恭、あれから葵ちゃんは上達したの?」
「・・・俺が教えたんだぞ?」
 貴人と恭一郎の会話をよそにグラウンドでは武田がボールを投げる。
「わ、わわっ!?」
 葵は、なかばバットに振り回されるような形で空振りをした。そのまま勢い余って尻餅をつく。
「バットに当たらないことで有名な俺に教わって打てるわけがないだろ?」
「自慢すなっ!」
 美樹はアイシングしていない右手で恭一郎につっこみを入れた。
「うふふ〜、悪い電波〜良くない結果ね〜」
 小型のアンテナを片手に不気味な笑みを浮かべる萌にちょっと後ずさってから恭一郎は愛里を手招きした。
「おい、ちょっと来い」
「な、なんだ?そ、その・・・いかがわしい事じゃないだろうな・・・」
 不意のご指名に顔を赤くして愛里は恭一郎に近づく。
「ちょっと耳かせ」
 恭一郎は寄ってきた愛里の可愛らしい耳をつまみ自分の顔に近づけた。
「わ!?なななな何をするのだ!」
「いいから聞けって」
 急接近にしどろもどろの愛里に不審そうな目を向けて恭一郎はその耳になにやら囁く。
「・・・なるほど。頼まれよう」
 囁きを聞いて真顔に戻った愛里は一瞬を置いてまた赤くなった。
「あ、あれだぞ?べ、別にお前の頼みだから従うのではなくて。い、一応協力する契約だからであって、その・・・」
「わかってるって。今度なんか奢るから」
 苦笑する恭一郎の言葉に愛里の脳裏が妄想世界に浸食される。
「あ、葵ちゃん引っかけた」
 そんなやり取りをよそに打席を見ていた美樹の声に恭一郎は片眉を上げた。
「うわ、ゲッツーだ・・・」
 ぼてぼての打球は三塁から飛び出しかけていたみーさんの脇を抜け、サードがそれを捕球と同時に一塁へ送球。足の遅い葵もアウトになってしまった。

『剣術部!痛恨のゲッツー!2アウトランナー無しの状況でバッターは剣術部部長、4番風間恭一郎です!本日無安打、全て空振り三振の風間選手、ここで男を見せられるでしょうか!?』
『Oh!オトコを見たいのデスカ?見せてあげマース!』
『きゃぁぁぁぁっっっっっ!』
 鈍い音、何か重いものが地面に叩きつけられる音がしばらく続く。
『その馬鹿を相模湾に捨ててきなさい!・・・失礼しました。実況を続けます!』

「男ねぇ。ま、見せてやらんこともねぇけどな」
 恭一郎はヘルメットを被りながら一人ごちる。入った打席はそれまでの右ではなく左だ。
「・・・またスイッチバッターのまねごとですか。流石にワンパターンだと思いますがね?」
 呆れたような三浦の声に恭一郎は機嫌良くバットを回した。
「うちのチームでスイッチできるのは御伽凪の奴だけだぜ。神戸の奴は最初から打つ気がなかったんだ」
「・・・では、あなたは何をする気ですか?」
 恭一郎はニヤリと笑った。そのままバットを右手一本で持ち左腰に当てる。刀を納めたような・・・いや、刀を納めるそのままの動きで恭一郎は姿勢を落とした。

『い、居合です!風間選手バッターボックスで居合抜きの構えを取っております!観客席騒然としております!剣術部部長の技が炸裂するのでしょうか!』

「ふざけやがって・・・ふざけやがって・・・」
 何かに取り憑かれたかのように同じ言葉を繰り返す武田と対照的に三浦は無言のままに恭一郎を見上げた。
(無理だ・・・そんな打ち方で打てるはずがない。外角はあるいは当てられるかもしれないがその姿勢からでは内角に対応できない)
 一抹の不安感を感じながら三浦は内角低めのサインを送りミットを構えた。
「ふざけるなぁああっ!」
 絶叫と共に渾身のストレートが内角を抉る。
「破ッ!」
 恭一郎は鋭い呼吸と共にバットを振った。
 すぱんっ。
 バットはあっけなく空を切りボールは三浦のミットに収まった。
(そうだ。打てるはずがない。打てるはずがないんだ・・・)
 内心で呟きながらボールを返す三浦に恭一郎はニヤリと笑う。
「打てないと、思うのか?」
 心の中を読んだかのような恭一郎の台詞に三浦の身体がこわばる。
 武田が、大きく振りかぶり第二球。
(打てるはずがないんだ!)
 三浦はミットを構え心の中で叫ぶ。
「覇ッ!」
 更に鋭い気合いの声と共に恭一郎は恐ろしいスピードでバットを抜刀した。
 チッ・・・
 バットとボールのこすれる微かな音とともに打球は背後へとすっ飛び観客席へと姿を消した。
「少しタイミングが合わなかったか」
 事も無げに言い放つ恭一郎に三浦は、そして武田も内心の不安を隠せなかった。
(ま、まさか・・・打てるのでしょうか・・・)
(そんなわけは・・・ないっ!)
 サインを交換しながら不安な思いが渦を巻く。
「打つぜぇ・・・次は打っちまうぞぉ」
 鼻歌混じりに呟く恭一郎を憎々しげに睨んで武田は帽子のつばを人差し指でこすってサインを出した。
(もう一度内角に行く!今度こそ打たせない!)
(・・・そうですね・・・お願いします)
 三浦は軽く頷き捕球体勢に入る。
 きりきりと空気が引き締まる。武田が大きな動きで振りかぶり、恭一郎がバットに添えた左手の手首を僅かに動かし。
 そして運命の一球が放たれた!
 三度内角を抉るように迫った白球に恭一郎は目を輝かす。
「かかったな!」
 叫びと共に恭一郎はバットの先を左手で握り、真横にしたバットでボールを叩き落とした。
「ば、バント!?」
 誰かの叫びに我に返った三浦はホームと三塁の真ん中あたりに埋まるように動きを止めているボールを慌てて拾い一塁に送球した。
「セーフ!」
 だが、塁審の腕は横に開いた。2アウトながら、逆転のランナーが塁に出たのだ!
「あのなぁ、いくら俺でも居合抜きで内角の球をジャストミート出来るかっつーの」
 一塁のベースの上から恭一郎が肩をすくめる。
「くっ・・・あいつめ・・・」
 悔しげに呟く武田をよそに打席には5番であるエレンが入る。
「殿を、なんとしても次の塁に進めねば!」
 盛り上がるエレンに対し野球部の面々の顔は一様に暗い。
「無茶苦茶だよこいつら・・・」
「勝てるわけねぇよ・・・」
 あちこちから聞こえる呟きを武田は充血した目で睨み回して黙らせて投球モーションに入った。
「俺が・・・こんなに努力している俺が負けるはずがないんだ!」
 渾身の投球をエレンはギリギリでカットした。ファールグラウンドに転々とボールが転がる。
「負けない・・・負けるはずがない!」
 叫びとともに放たれるボールの数々をエレンは正確無比なバッティングで一つ一つファールにしていく。
「・・・これで、12球」
 三浦は苦しげに呟いた。別に同じ所に投げても良いのだが、キャッチャー心理として同じ所に投げ込めば打たれるような気がするものなのだ。
「士魂尽きぬ限り、我等に敗北はない」
 涼しい顔で言い放つエレンに疲れた視線を送り三浦はミットを構えた。
「だぁあっ!」
 もはや野獣のような声で武田は右腕をしならせる。
「!」
 その僅かに衰えた球威をエレンは見逃さなかった。
「一撃、必殺!」
 謎の叫びと共にエレンのバットがついに武田の球を捕らえた。勢いが中途半端に良い打球はフェンスを直撃し、センターがそれを返球する間に恭一郎は楽々と二塁に進んでいる。
 そして、バッターは6番の中村愛里。
「よし。頑張るぞ」
 無茶苦茶気合いの入った表情で愛里はバッターボックスに入る。
(何でこいつらはこんなに元気なんだ・・・)
 武田はロージンバックを弄びながら球場全体を見渡した。
 盛り上がる満員の観客席。うるさいくらいに叫び立てる実況、メガホン片手に身を乗り出す剣術部側ベンチ。
 背後では恭一郎が大きくリードを取って挑発し一塁ではエレンが腕組みしてふんぞり返っている。バッターボックスには妙に生き生きとした愛里。
 そんな中で自分たちだけが沈んでいる。
(当たり前だ!こいつらがおかしいんだ!勝利を掴むためには真剣であることが必要なのだ!それをへらへらと・・・馬鹿かおまえらは!)
 三浦のサインに頷いて武田は大きく振りかぶった。
(なのに・・・なんで俺達の方が負けそうなんだ!)
 瞬間、愛里がバントの構えを取った。
「な!?」
 慌ててファーストとサードが前に出る。
(畜生ぉっ!)
 武田は構わず全力でボールを投げた。
「なんてね!」
 愛里は内野が前進しようとするのを見てバットを引いた。
「バスター!?」
 三浦が呻く。バスターとはバントのふりをしてそこから普通の打撃に切り替える奇襲技である。
「くっ!」
 慌てて定位置に戻る内野手達に人の悪い・・・まるで恭一郎のような笑みを浮かべて愛里はバットを再び寝かせた。
 コンッ・・・
 軽い音が響く。ボールはファールラインの上をゆっくりと一塁に向けて転がる。
 バントと見せかけてバスター、バスターと見せかけてバント・・・剣道で鍛え抜いた強靱かつ俊敏な手首を持つ愛里だからこそ出来た荒技である。
「くっ!」
 捕球に行ったファーストの代わりに一塁のカバーに入った武田の視界に何かが映る。
 三塁を蹴り、素晴らしい速度で疾走するそれは・・・
「田中!ホームだ!奴が・・・風間がホームを狙っている!」
「遅せえよっ!」
 叫ぶ恭一郎に歯を食いしばり三浦はブロックに入った。ギリギリのタイミングで返ってくる田中からのバックホームを受け取り今まさに突っ込んできた恭一郎を押し返そうとする。
「させませんっ!」
「あめぇんだよ!」
 咆吼とボールが交差するクロスプレイ!

『静まり返っております!いつの間にか外野席まで埋まっている観客席が、耳が痛くなるような静寂に包まれております。ホームに突入した風間選手、それを阻まんと押さえ込んだ三浦捕手!軍配はどちらに上がるのか!今、主審の手がゆっくりと・・・!』


「セーフ!」
 両手を開いた審判のコールが静かなグラウンド中に響く。
 恭一郎の手は、ほんの僅かに早く三浦の股下を抜けホームについていた。伸ばした左腕が、ぐっと握られる。
「いぃぃぃよっしゃぁあっ!」 
 某レスラーのような顔で拳を突き上げると同時に観客席が割れるような歓声に包まれた。
「馬鹿な・・・」
 マウンドで武田ががっくりと崩れ落ちる。
「・・・負け、ですか」
 悟ったような顔で三浦が立ち上がる。

『奇跡の逆転勝利を飾った剣術部のメンバーが風間選手に駆け寄ります!ああ、殴ってます!ボコボコです!手荒い祝福を受けてふらふらの風間選手が今度はバットを握り反撃に回りました!いいんでしょうかこんなんで!ともあれ、試合は6−5、剣術部の逆転勝利です!解説は”放送部のマシンガンジョー”こと高城なるみ、解説は今頃コンクリ詰めになってるはずの平田和宏さんでお送りしました。では、さようならっ!』


 そして、観客達が帰ったグラウンドで野球部の一同と恭一郎達は向かい合っていた。
「俺達の勝ちだ・・・言いたいことはあるか?」
 片方の眉を上げてとぼけたような恭一郎に体中から悔しさを振りまいている武田が呻く。
「くっ・・・何故・・・何故俺達が負ける。努力は才能に勝てないのか?こんな奴らに・・・こんなふざけた奴らに・・・情けないっ!」
 吐き捨てるような言葉に野球部の面々はびくっと肩を振るわせた。
「はぁ・・・おまえ、まだわかってないのか?」
 対照的に呆れたような顔で恭一郎はため息をつく。
「何がわかっていないと言うんだ!これ以上俺達の何を愚弄するって言うんだ!」
「おまえ達、じゃない。おまえを、だよ」
 恭一郎は木刀で自分の肩をトントンと叩いた。
「何が努力は才能に勝てないだよ。当たり前だろうが。努力が全て報われるなら苦労しねぇよ。だがなぁ、努力のない才能にも意味はねぇんだぜ?」
「は?」
 思いがけない言葉に武田は眉をひそめる。
「見ろ」
 恭一郎は言って両手を開いた。両の掌に、びっしりとまめが出来皮のむけた、固い掌を。
「俺は剣の道を歩む者だ。一日に500の素振りを欠かしたことはない。毎朝の走り込みもここ数年は一日たりともかかしちゃあいねぇ。ああ、俺には素質があるさ。それに気付いたからこそ俺は剣を振っている・・・今回俺と一緒に戦った奴らも同じだ」
 静かな言葉に込められた力強い意志に美樹は小さく微笑んだ。
「それとおまえ、葵の野球センスが云々って言ったよな?そんなもんあるわけねぇだろ。葵が運動音痴なのは致命的、かつ決定的だ」
「・・・そんなはっきり言わなくても」
 いじける葵の頭をみーさんがぎゅっと引き寄せる。
「だが、あいつは”努力”した。何とかボールがバッターまで届くようになるまで3年、ストライクがとれるようになるまで更に2年かけてな」
「恭ちゃんと野球がしたかったからね」
 そう言って笑う葵に頷き、恭一郎は再び武田へと鋭い視線を送る。
「それでもそこらの奴より葵の球は弱い・・・だからこいつは頭を使ったんだ。投球方法を変えて、左右を使い分けて、徹底的に相手を揺さぶるスタイル・・・あいつのアイデアを俺がまとめた結果だ」

「・・・何が言いたい」
 奥歯を噛み砕かんばかりに歯を食いしばった武田に恭一郎は叫んだ。
「努力など、上を目指す者ならば誰だってしている!『ただ努力をしている』程度のことを偉そうにひけびらかすな!大事なのはそんな事じゃない!何で努力してんだおまえは!」
「か、勝つためだ!ベースボール部に真の野球を・・・」
 言葉の途中で恭一郎は木刀をビシッと突きつける。
「なら、なんでお前は野球をやってんだ?」
「・・・・・・」
 シンプルな問いに、武田は答えられなかった。
「好きだからじゃねぇのか?」
 その問いにも、答えられない。
「おまえ、目的と手段が逆転してねぇか?確かにベースボール部の野球も、俺達が今日見せたような野球も邪道だろうよ。勝つための野球ではないかもしれない。だが俺達は今日、野球を楽しんでたぜ」
 木刀を肩に担ぎ直し、熱くなった自分に照れたように恭一郎は笑う。
「ただ辛いだけの努力なんて何の役にもたたねぇよ。ただ、疲れるだけだ」
 言って恭一郎は野球部の面々に背を向けた。
「あ、待ってよ恭ちゃん!」
 その背を葵とその袖を握ったみーさんが続く。
 次々と去っていく一同に取り残されて、野球部の面々は何となく黙り込んだ。
「・・・部長」
 その空気を突き破って、三浦が笑う。
「やり直しましょう。考えようによっては、あんな超弩級の連中と一点差だったのです。我々も捨てたもんではないでしょう」
「・・・次は」
 武田は呟いた。悔しげではあるが、完敗のせいかどこか晴れ晴れとしている。
「次は、勝つっ!」
 叫んで武田は部員達を見渡した。
「確かに、俺の方針は少し間違っていたかもしれない・・・」
「部長・・・」
「武田・・・」
 これからは地獄のしごきを受けなくてすみそうな予感に野球部員達が目を輝かせる。
「これからは!更にビシバシしごくぞ!」
「はぁっ!?」
 一斉に転ぶ部員達に武田は拳を天に突き上げて見せた。
「おまえら野球が好きじゃないのか!?俺は好きだっ!だから努力するんだ!」


『・・・やれやれ、薬が妙な方向に効いたようですね。  三浦弘』


 そして数日後。
「よぉ。頑張ってっか?」
 野球部の部室にふらりと恭一郎が現れた。
「むっ!風間恭一郎!」
 中で筋トレをしていた部員達の中から武田が唸る。
「なんの用だ?また試合でもする気か?」
 敵意は持っていても憎しみは感じられない声に三浦は軽く微笑む。
「いやいや、あの面子は出来うる限り集めたくはねぇよ。疲れるし。そーじゃなくて、持ってきたもんがあるんだわ」
 恭一郎はニヤリと笑い、外に置いてあった一抱えもある缶をドスンと部室に運び込んだ。
「・・・何です?それは」
 三浦の問いに恭一郎は大きく頷く。
「これはな、ワックスだ」
「・・・は?」
 恭一郎はぽかんとした武田に向けてちっちと指を振った。
「忘れたのか?罰ゲームだ。顔うつるようになるまでうちの練習場の床みがいとけよ?どーせ今日はベスボ部が野球場使ってるから練習できねぇんだろ?」
 それだけ言い残してさっさと出ていってしまう。
「・・・三浦」
 しばし呆然としてから武田は呟いた。
「・・・なんでしょう、部長」
 武田はひくひくとこめかみを引きつらせて近くにあったヤカンを蹴飛ばした。
「あの野郎だけは、絶対に好きになれん!いつか再戦し完膚無きまでに叩きのめしてやる!」


『くそぉぉっ!おぼえてやがれぇぇぇぇっっっっ!   武田卓』