常緑樹に彩られたその庭は今日もひたすらにだだっ広い。
「下手に足を踏み入れたら迷いそうね・・・」
少々貧乏性の気がある美樹にとっては圧倒されるところの多い庭を眺め回しながら歩を進める。
「ん?」
その足がはたと止まった。
「何の音だろ」
ひゅん・・・ひゅん・・・ひゅん・・・
木立の間から断続的に聞こえてくるその音は美樹にとっては聞き慣れた音だ。
「素振り・・・恭一郎?」
そんなわけないと思いながらも美樹の足は独りでに木々の間に踏みいってしまう。
あたりを見渡しながら歩いていると、踏み出した足の下で何か堅い物が沈み込んだ。
「はい?」
呟いた途端。
ビーッ!ビーッ!
と甲高い音がだだっ広い林全体に鳴り響く。
「え!?は?何!?」
ふと気付けば、おろおろとしている美樹をどこからともなく現れたスーツの男達が取り囲んでいた。
一様に、懐に手を突っ込んで。
「あー、いや、その・・・」
美樹は取りあえず両手を頭上に挙げて口元を引きつらせた。
どうやって説明しようかと悩んでいる間にも、男達は包囲の輪を縮める。
だが、
「おい、やめろおめぇら」
面倒そうな声と共に男達はぴたっと足を止めた。
「恭一郎?」
木立の間から現れた見覚えのあるシルエットに思わず呟いてしまってから気がついた。
「・・・葵ちゃんのお父さん」
面倒そうに男達を追い払っているその男は恭一郎よりも一回り大きいしぶら下げているのも木刀ではなく真剣だ。それでも・・・
「恭一郎そっくり」
美樹の呟きに神楽坂当主、雄大は『ん?』とこちらに向き直った。
「確か美樹君とか言ったな・・・次からはちゃんと道を歩くことだ。いらねぇと言っても会社の奴らがボディーガードやら防犯センサーやらをこの庭にばらまいていきやがるからな。まぁ、あの馬鹿避けにはなるから無理矢理撤去はしてねぇけどな」
「馬鹿・・・つまり恭一郎・・・ですか?」
美樹のかしこまった声に雄大は苦笑した。
「普通にしゃべれよ。葵の友人ならば俺にとっても友人だ。家とか会社とかはこの際関係ねぇだろ?」
「・・・そうですね。っていうか、雄大さんはやっぱり恭一郎に似てますね・・・雄大さんには不愉快な話かもしれませんけど」
笑みを返す美樹に雄大はいっそう笑みを深くした。
「やっぱ似てるか?」
「説教臭いところとかそっくりです」
雄大は一つ頷いてから肩をすくめる。
「似てやがるか・・・まあ、それが気にくわないんだが・・・おっと、そうそう。美樹君は葵のとこに遊びに来たんだろう?」
「え?ええ・・・」
頷く美樹に雄大は肩を竦めた。
「残念だったな。葵はついさっき茶菓子が切れてるのに気付いて飛び出してったぞ。途中3転び2おせっかい、帰ってくるまでに20分ってとこか」
具体的な予想に美樹はクスリと笑みを浮かべる。
「やっぱり恭一郎そっくりです」
「そうか?」
雄大は静かな笑みと共に美樹の肩をぽんっと叩く。
「まあ、あの馬鹿のことはともかくとして・・・来たまえ。ここで立ち話も何だからな」
「あの・・・」
そう言って歩き出した雄大の背中に美樹はふと思いついて問いを投げてみた。
「雄大さんはなんで恭一郎が嫌いなんですか?」
足が止まった。怒らせたかと顔をこわばらせた美樹に雄大は苦笑混じりの声を返す。
「・・・秘密厳守で頼むぜ?」
「・・・絶対に」
力強く頷いた美樹と共に雄大は再び歩き出した。
『一歩目を間違えてしまうと・・・後から修正するのは大変ですよ』
「転校生を紹介します。みんな仲良くしてあげてくださいねー」
担任の脳天気な声にわき上がるクラスの中で、恭一郎は一人だけ机に突っ伏して窓の外を眺めていた。
永岡第二小学校の校庭は遅咲きの桜でそれなりの見栄えがしている。クラス替え以来どうも馴染めない連中よりは見ていて楽しい。
そんなことを考えている彼の耳にカラカラと弱々しい音が届く。ドアを開けた音。それもおそるおそると言った感じで。
「ん?」
その情けない音に恭一郎はようやく興味をそそられて身を起こした。
「はい、挨拶して」
「あ、あの、その、か、か・・・神楽坂・・・葵です。よ・・・くおねがいします・・・」
最後の方がだいぶ聞き取りにくい挨拶に無遠慮な笑いが巻きおこる。
悲しそうな顔で俯く少女、爆笑する35人、よくわからない顔でニコニコしている担任。
そのどれにも参加せず恭一郎は呆然と少女を見つめていた。
二人がともに9歳だった頃のことである。
『本当に必要な出会いなら、きっとうまくいくよ』
「・・・どうだ葵。新しい学校は」
夕食後、いつものごとく自分の部屋に引きこもろうとしている葵に雄大は声をかけた。
「はいお父様・・・ご迷惑をおかけして申し訳ございません・・・」
ぼそぼそと呟いて葵は深々と頭を下げる。
「うむ・・・」
雄大が曖昧に頷くと葵はそのまま部屋を出ていってしまった。
「・・・あの分だとあまり効果はないようですね」
「・・・一日で結果を予測すんのも早計だろ」
傍らの少年の呟きに雄大は首を振る。
「しかし・・・僕がもっと早く気付けば良かったんですが・・・」
「あんな野郎を雇っちまったのは俺のミスだ。糞ッまた腹が立ってきやがった。忙しさにかまけて娘の世話役にあんなのを選ぶとは・・・」
呻いて手元のグラスを握りつぶしてから雄大はばつが悪そうにガラスの破片をゴミ箱に捨てた。
どこからともなく現れたメイド達が絨毯に散らばったガラス片を巧みの技で掃き取っていく。
「今は松坂さんが世話役なんでしたっけ?」
「ああ。おかげでおまえの世話役が空席だがな。翔」
カケルと呼ばれた少年は暖かい笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ。僕はもう高校生ですし・・・大学はどちらにせよアメリカ留学のつもりでしたから。妻子ある松坂さんを連れてくわけには行かないでしょう?」
「そうだな・・・おまえはいい男に育ったよ。松坂には感謝している。っつーか、おまえは沙夜花に似すぎだ。俺にも少しは似ろよ」
「ははは・・・僕は男だから母親似は当然ですよ。だからと言って葵が父さんに似ているわけでもありませんけど」
豪奢なソファーに座った翔の顔がふと曇った。
「僕は松坂さんに温かく見守られて育ちました。無論父さんや母さんにも。ですが・・・葵は・・・僕たちが気付くまで3年間も・・・それも3歳から5歳までの人格形成期に虐待を受けた。その傷跡は深いですよ・・・一歩目を間違えてしまうと・・・後は道を外れるばかり。後から修正するのは大変ですよ」
その隣にどっかりと身を投げ出して雄大は高い天井を仰ぐ。
「ああ・・・まったく、なさけねぇかぎりだ。一度間違えちまうとな・・・」
「・・・グループの数万にのぼる社員の為に奔走していたんです。遠くを見渡せば自然足下に目は届きませんよ。仕方がなかったんです」
慰めにはならないことを承知で翔は父にそう声をかけた。
「とにかく、私立のお嬢様校よりは公立の学校の方がいろんな人間が居る。そこに賭けてみるしかねぇんだよな・・・俺には・・・」
『みんながみんな、一人で道を選べる訳じゃないよ』
葵はため息をついた。
授業中は安心できる。指されない限り誰とも喋らないでいいし、前の学校ではやることがないのでひたすら勉強だけしていた結果ほとんどの問題を苦もなく答えられる。
二つ目のため息。
時々無性に泣きたくなる。わかってはいるのだ。自分の抱いている不安感が意味のないものだと言うことは。
人間が怖い。周囲の人が皆自分を苛めるために近寄ってきているように見える。
そんなはず無いのに・・・葵は三つ目のため息をついた。
やがて、授業が終わり放課後。
クラスメートは気の合う仲間と散っていく。転校初日の昨日はみんなが押し寄せてきたが満足に喋ることもできない葵と苦労してコミニュケーションを取ろうと言う生徒はどうやら居ないらしい。
「当たり前だよね・・・」
小さな声で呟いて葵はランドセルを背負った。そのままトボトボと教室を出ようとする葵を誰かが遮った。
「え?」
視線をあげると、なにやら怖そうな顔をした少年がしげしげと葵を見つめている。
「あ、ぁう・・・」
口をパクパクさせるが声が出ない。何か変なことを言って叩かれるんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないか、蔑まれるんじゃないか・・・そう思うと、どうしても声が出ない。
「なぁ、髪触ってもいいか?」
少年はそう言いながら返事を待たずに葵の頭に手を伸ばした。
「・・・!」
思わず身をすくませる葵にかまわず少年は葵の頭・・・猫耳状になっている髪の毛を手のひらでくいくいと撫でる。
「むぅ・・・本当に髪の毛だ・・・しかも押しても崩れねぇ。どーなってんだこれ」
心底不思議そうに呟く少年の顔を葵は上目遣いに盗み見た。
目つきが怖い。色黒で、いかにも運動命と言った風貌だ。だが、首を傾げているその表情に悪意や害意を感じない。過敏な葵にすら、それを感じ取れない。
「あ、あの・・・」
葵はすんなりと言葉が出たことに自分でびっくりした。
「あん?何だ?」
少年は『ん?』と葵に目を向ける。正面から見た彼の瞳は、思ったよりも優しげなものだった。
「・・・風、間・・・君・・・?」
「おうよ。風間恭一郎だ」
会話が続かない。言葉が出ない。
「?・・・どうした?」
首を傾げる恭一郎の姿が歪む。それを見つめる葵の瞳の涙で。
「お、おいどーした?俺、なんかしたか?」
あわてふためく恭一郎と泣きながら首を振る葵。それを、まだ教室に残っていたクラスメート達は見つけた。
そして、小学生がそれをほっとくわけもない。
「あ、イチローが転校生泣かせたぁ」
「やーい女泣かせー!」
「ジゴロー!ハルヒコー!」
クラスメートのはやし立てる声に恭一郎は一瞬で切れた。
「うっせえぞてめぇら!っつーか何だそのハルヒコっつーのは!」
「!」
葵はその怒声に一歩後ずさった。
「ん?」
恭一郎が振り向く。だが、その表情を葵は見ずに走り出した。半ば衝動的に。
びたん。
だが、数歩走ったところで葵は思いっきり転んだ。強打した額が痛い。
「おい、大丈夫かよ・・・なんかすげーベタベタな転び方だったな」
からかうような声と共に抱き起こされた。目の前に恭一郎の顔がある。
「!?」
葵は反射的に恭一郎の手を振り払ってしまった。幼い頃教育と称してこのような体勢から何度も平手打ちを受けたのを体が覚えていたのだ。
「お、おい・・・」
怪訝そうな恭一郎を残して葵は再び走りはじめた。何度と無く転び、転がり、それでも走る。
簡単に追いつけそうなその背中を、恭一郎はため息と共に見送った。
どうやら、ファーストコンタクトは失敗に終わったようだ。
『その傷跡は、深いですよ』
執事であり今は葵の教育係でもある松坂に先導されて少年は大きなドアの前にたどり着いた。
「葵ちゃん」
声をかけながらノックすると、中から弱々しい返事が返る。
松坂に軽く頭を下げて少年は部屋の中に入った。
「・・・タカちゃん」
だだっ広い部屋の真ん中にぺたんと座って葵は泣いていた。家具はほとんどなく、部屋の周りにはいくつもの水槽がその中の熱帯魚と共に少女を見つめている。
「また苛められたの?」
少年の・・・稲島貴人の問いに葵はぶんぶんと首を振った。
「・・・話しかけてくれたの・・・」
しゃくり上げながら一生懸命言葉を紡ぐ葵を貴人は辛抱強く見守る。
「怖そうで、でも優しいかもしれなくて・・・不思議で・・・人。なのに・・・逃げちゃって・・・」
こみ上げる涙を手のひらで拭っても、すぐに新しい涙が頬を濡らす。
「・・・きっと変な子だって思われた・・・」
「そんなことないよ。きっと」
貴人の言葉に葵はいっそう激しく首を振る。
「だって!・・・だって、私はホントに変な子だもん・・・」
「変じゃないよ。葵ちゃんはどこも変じゃない」
これまでに幾度も交わされた会話を繰り返しながら貴人は心の中でため息をついた。
何故僕の言葉には力がないのだろう。
傷ついた幼なじみの心を癒す事すらできない。何一つ、変えることができない。
それでも貴人は口を開いた。
「大丈夫・・・本当に必要な出会いなら、きっとうまくいくよ。絶対に」
結局、葵が泣きやむことはなかった。
『斬り開かなくちゃ・・・一歩も動けないことだってある』
恭一郎はいつものように庭で竹刀を振っていた。何故剣道をはじめたのかは思い出せない。母の観月が学生時代・・・といっても高校を中退するまでなのだが・・・やっていたからかもしれないし、時代劇を見て真似したくなったのかもしれない。
ともあれ、恭一郎は剣道にこの上なくどっぷりとはまっていた。思い出せる限り旅行時や怪我をしている時を覗けば素振りを怠った日はないくらいに。
「ん?」
その素振りを中断して恭一郎はふと振り返った。視線の先、庭に面した道路に自転車を止めている少年が写る。
同じ剣道道場に通う仲間であるその少年に向かって恭一郎は勢いよく手を振った。
「よう、タカじゃねぇか」
「やあ、こんにちはキョウ・・・」
屈託のない笑顔を眺めて貴人はそれよりも少しかげりのある笑みを浮かべる。
「どうした?めずらしいなおまえが俺んちに来るなんてよ」
「うん・・・ちょっといいかな」
尋ねる貴人に頷いて恭一郎は家の中に招き入れる。
「で、どーしたんだ?」
お茶を入れながら尋ねる恭一郎に貴人はいくつか言葉を選んでから口を開いた。
「神楽坂葵ってだれだかわかる?」
「カグラザカ・・・あの神楽坂か?おまえんとこと同じくらい・・・いや、むしろでかいくらいの名家じゃねぇか」
恭一郎はそう言った話に詳しい。自分の少々複雑な生まれを説明するために母の観月が徹底的に教え込んだからだ。
ついでに、そういった家柄への嫌悪感もそれで身に付いた。
「うん・・・そこの二子である女の子が、葵ちゃん・・・君が昨日話しかけた女の子だよ」
「!?」
恭一郎はピクンと片眉を上げた。
「そういえば・・・今日は学校に来なかったぞあいつ」
「知ってるよ。僕は幼なじみだから、今日も彼女の家に様子を見に行ったんだ」
貴人は静かに緑茶をすする。安物の茶葉でもこれだけの味が出ると言う見本のようなお茶だ。
「・・・そうなのか」
呟く恭一郎に首を傾げながら貴人は本題を切り出した。
「ねぇキョウ・・・葵ちゃんをどう思った?」
「あん?そーだな・・・変な奴だ」
断言されて貴人はガックリと肩を落とした。
「それ、葵ちゃんの前では言わないでね。本人それで落ち込んでるんだから・・・」
「まあ、気はつける。にしてもよ、それくらいで学校休むか普通?」
恭一郎の言葉に貴人は口を尖らせた。
「事情があるんだよ!いろいろと・・・」
「事情は俺にもある。おまえにもあるだろう?理由にはならねぇだろうが。あいつの事情を考えて腫れ物に触るような態度取ってたらそりゃあ何もかわらねぇよ」
辛辣な言葉に貴人は目を伏せる。
「みんながみんな一人で道を選べるわけじゃないよ」
呟き、そっと息をつく。
知り合ってから数年、嫌と言うほど思いしってはいるが、改めて感じたのだ。
「キョウ・・・君はなんでそんなに力があるんだろうね・・・」
「あ?・・・そりゃあ腕立て、腹筋、スクワット、懸垂・・・」
「そうじゃなくて!」
叫んでから貴人は馬鹿馬鹿しくなって笑みを浮かべた。
「ともかく、仲良くしてほしいんだ。君と葵ちゃんには。葵ちゃん、前の学校ではずいぶんと苛められて・・・それが理由で君のところに転校したんだよ」
「ふむ・・・あのままだと同じ事が繰り返すかもしれない・・・か」
呟く恭一郎を見つめて貴人は頷く。
「だから、君が葵ちゃんのこと嫌いじゃなければ・・・」
「嫌いなわけねぇだろうが!」
思いの外激しい声に貴人はキョトンとした。当の恭一郎は慌てた様子でバタバタと手を振りまわしている。
「あ、いや、その、なんだ、あれだ・・・わかんだろうが!つーかむしろわかれっ!」
「あ、ああ・・・わかったよ・・・」
迫力に押されて頷いた貴人に恭一郎は赤い顔で咳払いをして見せた。
「ともかく、できるだけ話はしてみる。それ以上は知らんがな」
「うん、それで十分だよ。ぼくはちゃんと学校に行くように説得するから・・・」
そう言って立ち上がった貴人に恭一郎はふと声をかけた。
「タカ・・・」
「ん?」
静かな瞳で恭一郎は親友を見つめる。
「切り開かなくちゃ、一歩も進めないときもある・・・俺はそうやって生きてきた」
貴人は、何も答えられなかった。
『願わくば・・・』
翌日の放課後。
恭一郎は俯いて帰り支度をしている葵に歩み寄った。
「おい、葵」
いきなりの呼び捨てに葵はびくっと飛び上がり慌てて振り返る。
「ぁ・・・ぅ・・・」
目の前に立つ恭一郎を前にして、またしても言葉がでない。
「問いその1。帰り支度はそれでいいのか?首を振って答えろ」
おそるおそる首を縦に振った葵に恭一郎は満足げに笑う。
「問いその2。おまえ、この後忙しいのか?」
思いがけない質問に葵が呆然としているとその額にぴしっと恭一郎のデコピン(極弱)が命中した。
「あぅぅぅ・・・」
「首を振る。YES?NO?」
ちょっと涙目になった葵に恭一郎は素早く次の言葉をぶつけた。反射的に葵が頷くと、恭一郎はうれしそうに葵の頭を撫でた。
「よしよし。ちゃんと意志疎通できてんじゃねえか。やっぱ俺って凄いよな」
ぽかんとしている葵に恭一郎は再びデコピンを向ける。
「凄いだろ?YES・NO?」
葵は慌てて首を縦に振る。実際、身内以外とこれだけ長い間向き合ってられた事はない。こんな自分と話してくれるなんて、凄い人だと思う。
「よしよし。つーわけで凄い俺がおまえを誘拐するんでよろしく。YES・NO?」
葵はパブロフの犬のごとく反射的な動きで首を縦に振った。
そして、キョトンと目を見開く。
「あそこの塀際に止めてあるでけぇ車、おまえんちのだろ。神楽坂邸っつーたら結構遠いからな。おまえのビタンビタンこけながらの足じゃ、どんだけかかるかわかんねぇし。そもそも箱入りっぽいし」
知られた!知られている!
葵は真っ青な顔で後ずさった。前の学校では、それを知られてからじきにいじめが始まった。プライドの高いお嬢様達は、自分よりも遙かに家柄のいい葵の存在が目障りでならなかったのだ。
「つーわけで、おまえと遊びたい俺はおまえをさらってくしかねぇわけだ。幸い本人の了解は取ったしな」
言うが早いか恭一郎は葵をばっと抱き上げた。
「!?」
あまりの驚愕に悲鳴すら出ない。
「うわ!なにやってんだよ風間!」
「カケオチだ!カケオチー!」
はやし立てるクラスメイトをうるさげに見渡して恭一郎は横抱きに抱き上げた葵をちらりと眺めた。
「耳、ちょっと塞いでろ。うるさいぞ」
言われるままに小さな手で耳を塞いだ葵に頷いて恭一郎は息を吸い込んだ。
「やーいやーい!性犯罪者ー!」
「ぱぶりっくえねみ〜!」
「黙れ!」
やけに高度な囃したてに恭一郎は鋭い一喝を返した。
「ああ、駆け落ちだよわりぃか!俺はこいつを嫁に貰うぞ!今決めた!」
「!?」
恭一郎の腕の中で目を白黒させる葵にクラスの女子から同情の視線が向けられた。
「かわいそうに神楽坂さん・・・」
「あんなのに目を付けられちゃって」
「私たちが気をつけなかったから・・・」
ハンカチで目頭をおさえながら呟く女子一同に恭一郎は唸り声をあげながら凶暴な視線を送った。
「神楽坂ちゃん!明日からはちゃんと私たちが護ってあげるからね!」
「今日一日は犬に噛まれたと思って我慢するのよ〜」
「うう、取り返しのつかないことにならなきゃいいけど・・・」
葵はぽかんとしていた。頭がうまく働かない。
「てめぇら俺をなんだとおもってんだ!ちっ・・・行くぞ葵!」
恭一郎は叫びながら葵のランドセルを掴み走り出した。
『不思議で、そして安心できる人』
恭一郎は前屈みになって大きく息を吸い、ゆっくり吐き出す。何度かそれを繰り返すが激しい鼓動も荒い呼吸も収まらない。
まあ小学生が同い年の女の子を抱えたまま自動車の追跡を振り切れば、大概こんなものだ。
「・・・はぁ、はぁ・・・つ、疲れた・・・」
激しく上下動する背中に葵はおそるおそる触れた。ゆっくりと撫でる。
「ん?・・・さんきゅ・・・」
笑顔を見せる恭一郎に葵はごく自然に笑みを返した。
「!?」
そして、そんな自分にこの上なく驚愕する。
「へへ・・・やっとおさまったぜ。さて、遊ぼう」
恭一郎はそう言って葵の手を握った。
「・・・・・・」
葵は俯き加減のままで、それでも確かに頷いた。握られた手を、おそるおそる握り返す。
「とはいったものの何しよっかな・・・取りあえず腹減ったしなんか食おう。いいか?」
問われた葵はうんうんと首を振る。
「よっしゃ。行こうぜ!」
勢いよく走り出した恭一郎に手を引かれて葵は走り出し・・・
びたん。
そのまま、勢いよく転んだ。
『僕たちが気付くまで3年間も・・・』
葵はおそるおそる唇を寄せた。
ピンク色の舌がちろりとそれを嘗めあげる。
「うまいか?」
恭一郎の問いに葵は真っ赤になって頷いた。
「しかし、はじめてとはなぁ・・・」
感心したような、呆れたような声にさらに赤くなる。
「あ、ほら・・・汁がたれるぞ。嘗めとっとけよ」
促されて葵は慌ててそれを・・・ソフトクリームを嘗める。
「マジで箱入りだなぁ。アイスくらい食わせてもらえよ」
恭一郎の言葉に葵は困った顔になった。それでもアイスをなめる口は止まらない。
「ま、いっか・・・」
一生懸命な葵の姿に恭一郎は思わず笑みをこぼした。自分のソフトクリームにかじりつきながらベンチに腰を下ろす。
「ほれ、すわれよ」
「・・・・・・」
葵は頷いて恭一郎の隣にちょこんと座った。二人はしばし無言でソフトクリームを食べ続ける。
「おまえ、しゃべれねぇわけじゃないんだろ?」
葵が食べ終わったのを見計らって恭一郎は呟いた。
「ぁ・・・ぅ・・・」
それに答えて葵は返事をしようとするが、喉元にまであがってきた言葉が手のひらですくい上げた水のようにこぼれ落ちていく。
「・・・俺は、風間恭一郎だ」
「?」
いきなり名乗り直す恭一郎に葵はキョトンとした。
「さあ、俺の名を言ってみろ」
指を銃のようにして突きつけてくる恭一郎を眺めて葵は困惑の色を濃くする。
「・・・いや、しらねぇならいいんだけどよ・・・そうじゃなくて、俺の名前。はじめて喋ったとき言えただろ?もう一回呼んでみてくれ」
「・・・風間君」
知らず紡がれた言葉に葵は驚いた。
「よしよし。できれば下の名前で呼んでくれ」
「・・・・・・」
葵はちょっと迷ってから口を開く。
「恭ちゃん」
「名前になったらいきなりちゃん付けかよおい・・・いいけど・・・」
複雑な表情で黙ってしまった恭一郎を眺めて葵はすまない気持ちでいっぱいになった。
こんな自分を見捨てないできちんと喋ってくれる。そんな恭一郎に、自分は何ができるだろうか。
「ぁ・・・ぃ・・・」
葵は口を動かした。伝えたかったのだ。ただ一言。
「ご・・・ぁぃ・・・」
恭一郎はコキンと首を傾げた。
「ごめんなさい?」
葵はぶんぶんと頷く。
「ごめんって言われてもな。べつに謝れるような覚えはねぇぞ?変な奴だな」
「!?」
葵はビクッと体を引きつらせた。歯がカチカチと鳴る。
「何怯えてんだよおまえは」
恭一郎は微笑みを浮かべて葵の額を指でつついた。
「おまえは変な奴だ。すっげぇ変な奴だしめっちゃ変な奴だぞ」
そして親指で自分の胸を指し示す。
「俺と同じでな」
葵は怯えた目のまま恭一郎を見上げた。
「他人と違う部分とは、つまり個性だ。おまえがおまえであるための武器だ。ただ・・・武器の常としてそれは自分を傷つけることもあり得る」
「?」
よくわからない顔の葵の今度はほっぺたを恭一郎はつついた。ぷにっと柔らかい感触が返る。
「まあ、この辺は母さんからの受け売りだけどな。個性が強い奴は個性が弱い奴に影響を与える。同じく個性が強い奴とぶつかることもある。それは時に、痛くてしょうがない。でもな・・・だからこそ、いろんな奴が居るんだろ?自分を変えて、人を変えて、少しでも強くなるために・・・」
恭一郎は一つ頷いた。
「おまえは人と違う自分を認めたがらない。だから、集団に埋没することで身を守ろうとした。うまくいってねぇけどな・・・」
葵は恭一郎をじっと見つめる。涙は、出ない。
「俺にはわかる!おまえはいい奴だ。ちょっとだけ勇気を出してみんなと話せばすぐに人気者になれる。なぜならば!」
恭一郎はくわっと目を見開き拳を天に突き上げた。
「猫好きに!悪い奴は居ないっっっっ!」
ない・・・ない・・・ない・・・とエコーが残る。
ポカンとした葵の頭の上で、猫耳ヘアーがひょこんと揺れた。
「・・・ぁは・・・」
「ん?」
恭一郎は天を睨むのをやめて葵に向き直った。
「ぁは、は・・・あははは・・・」
葵は笑っていた。猫耳を揺らし、うっすらと涙を浮かべて。
「・・・いや、そんな笑われるようなことを言ったつもりはねぇんだけどな・・・」
恭一郎は頬をかきながら自分も笑い出した。
二人分の笑いが春風にとける。柔らかい日差しが二人を包み込んでいた。
「・・・ありがとう。恭ちゃん」
「おうよ・・・何ぃ!?」
恭一郎は何気なく返事をしてからばっと葵に向き直った。
「ありがと・・・恭ちゃん・・・頑張るから・・・もぅ少しだけ・・・頑張ってみるから」
「・・・そうか」
恭一郎はニヤリと笑ってから伸びをする。
「いいか?つらかったり困ったりしたら、まず耐えろ。そして、それを一人で解決できないと見極めたら迷わず誰かの助けを借りるんだ。おまえなら、誰だって喜んで手を貸してくれるさ」
「でも・・・わたし、その、神楽坂だから、みんな・・・」
「そうだな。おまえはお嬢様だ。世間知らずだしボケにもつっこめねぇ。走るのおせぇしすぐに転ぶ」
いいながら恭一郎は葵の頭をぐいぐいと撫でた。
「でも、おまえはおまえだ。他の誰かにはなれねぇし誰かがおまえのかわりになることもできねぇ。でもな、誰かがおまえを苛めようとしたら俺が追い払ってやる。俺が手伝えることは何だって助けてやる。そのかわりおまえは俺を助けるんだ。つまり、それが一緒にいる意味だし生きてるって事だろ?」
葵はそっと恭一郎にもたれかかった。
「お、おい・・・」
「恭ちゃん・・・」
顔を赤くする恭一郎に気付かず葵は囁く。
「なんで、恭ちゃんは助けてくれるの?」
恭一郎はその場を何とかごまかし、その一言をいまだ伝えてないと言う。
『ただ、好きだからだ』
雄大の書斎で話を聞き終えた美樹は目をパチパチとしばたかせた。
「あの葵ちゃんにそんな時代があったとは・・・」
「その後葵はどんどん明るくなり、それにつれてアニメやらゲームにはまっていきあいつの寝室はあの状態になったのだ」
雄大は話を締めくくりため息をつく。
「4日だぞ?たった4日・・・俺達が数年かけても心を開かなかった葵の心にたった4日で入り込みやがったんだ奴は!そりゃあ気にもくわねぇよ」
「はぁ・・・」
曖昧に返事をして美樹は表情を曇らせた。
「そっか・・・葵ちゃん・・・」
「もっとも・・・」
雄大はそれを眺めて首を振った。
「奴がどうするのかはまだわからんな。葵と奴の関係はまだ牽制しあってる状態だからな。美樹君がわりこむ余裕はいくらでもあるぞ」
「ふぇ!?あ、あたしは別に・・・彼氏も・・・あ、いない・・・けど・・・」
カクンと首を落とす美樹に雄大は豪快な笑い声をあげた。
「はっはっは!無理はすんなよ。顔を見ればわかる!」
「・・・雄大さんはどう思ってるんですか?葵さんと恭一郎のこと」
切り替えされて雄大は顔をしかめた。
「そりゃあ、俺は・・・葵には好きな男と一緒になってほしいと思ってる。だが、同時に俺は神楽坂当主だ。古い慣習というのはやっかいなものでな・・・それを打ち破るだけの力を持たない奴に娘はやれない」
「・・・恭一郎は、強いです」
むっとした表情の美樹に雄大は苦笑した。
「まだまだ、だな。後一歩なんだが、物事は仕上げが一番難しい。ひょっとしたら最後の一歩で全てが台無しになるかもしれん・・・」
そこまで言ったところで、雄大の座っていたテーブルに据え付けられた内線が鋭い音を立てた。
「む?・・・ああ、ここに居る。すぐに向かわせる」
雄大は内線を切り、美樹に向き直った。
「葵が帰ってきたぞ。自室にいるから行ってやってくれ」
「あ、はい・・・あの、お話・・・どうもありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて駆け出した美樹を眺めて雄大はひらひらと手を振る。
「元気がいい娘だ・・・」
呟いて、窓の外を眺める。
「あそこまで話す気はなかったんだがなぁ」
雄大は苦笑しながらカリカリと頭をかいた。
「不思議な力があるなあの娘には・・・物事を加速させる才能とでも言うべきか・・・だからなのか?おまえがまた動き出したのは・・・恭一郎・・・こんどは、葵をどんな風にかえちまうんだ?」
雄大がぼんやりと空を眺める。
冬の空は高く、どこまでも澄んでいる。雄大は何気なく瞳を閉じ、空とそこに吹く風に祈りはじめた。
願わくば、あの子が悲しみを抱えないでもすむように・・・