その一言で、剣術部練習場は大きく揺れた。
「か、かかかかか、かっ!?」
 しばらくの間口をパクパクさせてあえいでいた美樹はごくりと唾を飲み下してもう一度口を開く。
「帰る!?アメリカに!?」
「だから、そう言ったであろうが」
 それに対するエレンの言葉はわざとらしい素っ気なさで飾られていた。
「・・・いつだ?」
 恭一郎の短い問いにエレンはぴくりと震える。
「・・・今週の、土曜です」
「土曜!?あ、あと5日しかないじゃない!」
 あわてふためく美樹とおろおろする葵をちらりと眺めてから恭一郎は立ち上がった。
「そうか」
 呟き、そのまま歩き出す。
「あ、ちょ!恭一郎!どこ行くのよ!」
「散歩だ」
 そう言って練習場を出る恭一郎を葵は少し迷ってから追いかけた。
「恭ちゃん!」
 練習場にほど近い自動販売機で缶コーヒーを買っている恭一郎に追いついて、葵はしばらくの間なんと言葉をかけるべきか迷う。
「・・・どうした?」
「あの、エレンさん・・・引き留めないでいいの?」
 恭一郎は熱い缶を手の中で転がしながら葵を見つめる。
「引き留めて、それでどうなるわけでもねぇだろ?あいつの家の問題に口を出す権利はねぇんじゃねえか?」
「う、うん・・・」
 うつむいた葵の頭を恭一郎は半ば無意識に撫でていた。
「俺だってあいつのことは好きだぞ。できればこれからも楽しくやっていきてぇが・・・」
 恭一郎は軽く首を振り、うなるように呟く。
「いきてぇけどよ・・・」
「うん。ごめんね恭ちゃん・・・」

『ごめんね・・・   神楽坂葵』


「珍しいね。葵ちゃんが僕の家に来るなんて」
 不意の来客に稲島貴人は目を丸くした。
「うん・・・ちょっと・・・相談に乗ってほしくて・・・」
 葵は軽く頭を下げて呟く。
「まあ座ってよ・・・キョウの事かな?」
 葵に椅子を勧めながら貴人は自らもテーブルにつく。彼の自室は全体に木製の家具が多い。その中には不釣り合いなほど豪華なコンポから今は緩やかなクラッシックが流れてきている。
「ううん・・・エレンさんが、アメリカに帰っちゃうんだって・・・」
「そうなんだ・・・それは寂しくなるね・・・」
 葵は軽く頷いた。
「恭ちゃんもエレンさんとは離れたくないって思ってるんだよ。勿論私も美樹さんも・・・でも、どうにもならないし・・・恭ちゃんにもエレンさんの家の事情に口を挟む権利はないって言われちゃったし・・・」
 貴人は表情を隠すために立ち上がってコーヒーを入れはじめた。褐色の液体に自らの顔を映して葵の声に耳を傾ける。
「やっぱり、笑顔で見送らなくちゃいけないよね・・・つらくても、嫌な気持ちで別れちゃ駄目だよね」
「・・・そうだね」
 短い言葉を返して貴人は視線を落とす。
(恭一郎・・・君の言葉を葵ちゃんは神の託宣のごとく受け取っているよ・・・君の言葉を疑うことも、逆らうこともできなくなってきているんじゃないか?それは、良くない傾向だよ。もっと葵ちゃんと向き合わなくちゃいけないんじゃないのかい?そうじゃないと・・・)
「?・・・貴ちゃん?」
「・・・なんでもないよ。はい、コーヒー」


『そうじゃないと・・・     稲島貴人』

 ひゅんひゅんと風を切る音を美樹は数えていた。
「納得いかないなぁ」
 不満げな呟きに恭一郎は素振りの手を休めずに眉をひそめる。
「何がだよ」
「きまってんでしょ?エレンの事よ」
 美樹は日が落ちて冷えてきた体を温めようと持ってきたバットを構えた。風間家の庭に二種類の風切り音が響く。
「・・・あいつんちの事情に口出しするわけにゃいかねぇだろ?」
「それよ。恭一郎だってできればエレンにはこの国に残って欲しいんしょ?」
 美樹の問いに恭一郎は顔をしかめた。
「あたりめぇだろうが」
「だったらエレンにそう言いなさいよ。あんたに良識とか遠慮とかは似合わないんだから」
 ひゅんひゅんぶんぶんと風が揺れる。
「思うんだけどさ、恭一郎はそれでこその恭一郎なんだよ。誰よりも熱くて、誰よりも真っ直ぐ突き進んでるのがあんたでしょ?」
 恭一郎は答えず、ただ剣を振る。
「後のこととか人の事情とか・・・そういうのは葵ちゃんが考える。あたしはあんたと一緒に無茶をする・・・エレンだって愛里さんだってみーさんだって・・・みんなそういうあんたを助けていきたいのよ。事情を考えて黙ってるあんたなんて」
 美樹は素振りをやめて真っ直ぐ恭一郎の目を見た。
「やだよ。少なくともあたしはそんな恭一郎はやだな」
 恭一郎は腕を止めた。街灯の明かりだけを頼りに二人は黙って視線を交わす。
「・・・ったく、無茶苦茶言いやがって」
 沈黙を破ったのは恭一郎からだった。
「あたしも無茶が取り柄だからね」
「まったくだぜ。だが・・・ありがとよ。おまえの言うとおりだ。俺が考え込んだってろくな事になりゃしねぇもんな。大丈夫、このままにゃしねぇよ」
 言って恭一郎は美樹の頭をくしゃくしゃとなで回す。

『俺は、風間恭一郎だからな     風間恭一郎』


 エレンはいつものように軽く礼をしながら練習場に入り、そのまま首を傾げた。
 静まり返った練習場の中心に、目を閉じ一人正座する恭一郎の姿がある。
「殿?・・・おひとりですか?」
 恭一郎は頷いて音もなく立ち上がった。
「エレン。胴着に着替えろ」
「胴着に・・・ですか?」
 いぶかしげな問いに恭一郎は静かに頷く。
「ああ。久々に本気で揉んでやる。汗かくぞ」
「!?・・・はい!」
 エレンは慌てて頭を下げ更衣室へ飛び込んだ。意図はよくわからないが、尊敬する恭一郎と剣をあわせる機会を逃す手はない。
 なにしろ、日本には後4日しか居られないのだ・・・
「おまたせしました!」
「・・・帯、それじゃほどけるぞ・・・」
 慌てたらしくいいかげんに結んでしまったらしい帯を直すエレンを眺めながら恭一郎は木刀をひと振りする。既に上着を脱ぎ、ネクタイも外してある。
「こ、今度こそ大丈夫です殿!」
「よし。じゃ、いこうか」
 呟いて恭一郎は剣をだらりと垂らしたままエレンを手招きした。いつぞやと同じ展開にエレンは軽く深呼吸をし竹刀を握り直す。
「では、行かせていただきます!」
 叫ぶと共にエレンは跳んだ。一気に間合いを詰めて恭一郎の頭に打ちかかる。
 だが。
「甘いッ!」
 鋭い声と共に振り上げられた恭一郎の木刀がその竹刀を天井近くまではじき飛ばした。呆然とするエレンの耳に竹刀の床にぶつかる音が突き刺さる。
「・・・さっさと竹刀を拾え。まだ終わりじゃねぇぞ」
「は、はいっ!」
 恭一郎の声に慌てて頷きエレンは竹刀を拾い上げた。続きがあることに感謝しつつ今度は慎重に間合いをはかろうとする。
「討ッ!」
 しかし恭一郎はそれを許さず一足飛びに打ちかかってきた。何とか竹刀でそれを受け止めたエレンは驚愕の面もちで鍔競り合いを続ける。
「と、殿?」
「気を抜くなっ!」
 あまりにも激しい勢いに面食らったエレンを一喝し、恭一郎は鍔競り合いを続ける木刀を激しく突きだした。突き倒されて尻餅をついたエレンの頭めがけて唐竹割りが振り下ろされる。
「くっ!」
 何とか横に飛び退いたエレンを今度は横殴りの一撃が襲った。竹刀を縦にしてそれを防いだ腕にビリビリと衝撃が伝わる。
(殿が・・・殿が、本気だ!)
 エレンは油断無く竹刀を構えたまま立ち上がった。
(はじめて戦わせていただいたときよりもずっと強い!でも何故?何故今・・・)
「覇っ!」
 考える間にも恭一郎の突きが喉元に迫る。それを受け流すと間髪を入れずに小手が繰り出される。
「どうした!攻撃しなくては勝てねぇぞ!」
「つっ!」
 エレンは恭一郎の言葉に奥歯を噛みしめ、隙をうかがった。
(面・・・これはフェイント、左袈裟・・・隙がない、逆胴・・・ここだ!)
 強烈な胴打ちをエレンはギリギリで受け流した。
「たああああああっ!」
 そのまま木刀を這うように自らの竹刀を滑らせて間合いの内へ・・・剣の間合いよりも近い距離へと飛び込む。
「チェストォ!」
 気合いの声と共にエレンは肘打ちを恭一郎の胸へと叩き込んだ。
「む!?」
 バックステップでそれを交わした恭一郎が舌打ちする。姿勢の乱れた自分に対し、エレンは肘打ちの体勢から既に竹刀を振り上げている。そして、肝心の間合いは恭一郎自身が開けてしまった為、ちょうど剣の間合い!
「たあっ!」
 渾身の力を込めてエレンは竹刀をうち下ろした。しかし!
「甘いっつてんだろうが!」
 恭一郎は避けなかった。受け止めようともしなかった。
 ただ、エレンに向けて跳んだ。
「!?」
 思わず動きの止まったエレンに勢いのまま恭一郎はぶつかっていく。体当たりの衝撃にエレンは為す術もなく吹き飛んだ。
「きゃあっ!」
「覇っ!」
 床に弾んだエレンの耳元をかすめて木刀の切っ先が床を打つ。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 沈黙したままエレンは同じく黙り込んだ恭一郎を見上げていた。
 汗を流し、床に転がった自分に対し恭一郎は息一つ切らせていない。
 絶望的な、距離。
「私は・・・弱い・・・」
 思わず声が漏れた。
「なんて弱いんだ・・・殿と毎日剣を合わせていただいているのに・・・なんでこんなにも弱いんだ・・・」
 頬が濡れたのに驚いたのはむしろエレン自身だった。恭一郎は木刀をエレンの頭の横に突き立てたまま静かに微笑む。
「なぜ弱い、か。それはな?エレン・・・おまえが迷いを抱えているからだ」
 恭一郎は木刀を引いた。半身を起こしてこちらを見つめるエレンに手をさしのべる。
「前にも言っただろ?剣はすぐに迷いを映す。それは剣が断ち切るための物だからだ。何かを断ち切ろうってのに自分がガタガタ悩んでてもしょうがねぇんじゃねぇか?」
 エレンは恭一郎の顔と差し出された手のひらを涙に濡れた目で見比べた。子供のように何度も何度も。
「サムライってのはよ、迷いがないから強かったんだぜ?主君のためだったり自分の正義のためだったり理由はいろいろだが一度剣を抜いたらそこに迷いを持ち込まなかった。だから、強い。断ち切る意志に曇りがなければ剣はいくらでも強くなる」
 恭一郎はエレンの手を取った。
「エレン。アメリカに帰るんなら胸を張ってそう言えよ。誇りを持って、俺達の仲間としてアメリカに行け。だが・・・」
 そして一気にエレンの体を引っ張り立たせる。
「帰りたくねぇならそう叫べ!俺がなんとかしてやるから!俺達が必ず何とかしてやるから!」
 エレンの顔がくしゃくしゃっと崩れた。後から後からあふれてくる涙を拭いもせずにエレンは右手に竹刀を、左手に恭一郎の手のひらを握りしめる。
「殿・・・ぇぐ・・・恭一郎様・・・あり・・・ありがとうございます・・・ぇぐ」
 恭一郎はやや困った顔でエレンの涙を拭ってやった。
「まぁ、俺自身まだまだ未熟だけどよ・・・それでも俺はおまえの『殿』だからな。何だってやってやるさ」
 エレンは恭一郎の手を放して懐からちり紙を取り出した。チーンと鼻をかみ、そそくさとゴミ箱にそれを捨ててから再び竹刀を構える。
「ぅぐ・・・殿、もう一手お願いします!」
 乱暴に涙を拭って叫ぶエレンに恭一郎はニヤリと笑って見せた。
「おうよ。いくらでも来い」
「では・・・」
 エレンは剣先を僅かに揺らしながら恭一郎の周囲をすり足で回りだした。数瞬の静かな対峙を経て、二本の剣が一気に動く。
「チェストォ!」
「覇っ!」
 踏み込みと共に繰り出された竹刀を鋭い動きで木刀が弾く。だがそれを予期していたエレンは素早く引き戻した剣で即座に二撃目の面打ちを放つ。
「そうだ!おまえの持ち味は鋭い踏み込みと勢いのある攻撃だ!常に連撃を組み立てろ!」
「はいっ!」
 突きも含めた九方からの攻撃を恭一郎は木刀を細かく動かして受け流す。
「さらに、こんな時はどうする!?」
 叫びと共に恭一郎は驚異的な動体視力でもってエレンの竹刀を素手で掴み取った。驚くいとまさえ与えずそれを強く引っ張る。
「くっ!」
 エレンは前のめりによろけた体を引き起こすことなくそのまま床に身を投げ出した。くるりと前転した背後、一瞬前までいた場所を木刀が打つ。
 そして、エレンの横には恭一郎の無防備な背中が!
「たああああっっっ!」
 いち早く体制を整えたエレンは今まさに振り返ろうとする恭一郎に渾身の突きを放った。それも、もっとも得意とするところの三段突きを!
「締ッ!」
 迫る驚速の突きが恭一郎の腹を狙う。一つ目を木刀のつかで、二つ目をバックステップで避けたが三つ目の突きがそれまで以上の速度でもって襲いかかる。
「チェストォオオオオッ!」
 だが。
「それで終わりじゃねぇぞ!」
 恭一郎はその場に尻餅をつくように倒れ込んだ。頭上をかすめる竹刀をそのままの姿勢で跳ね上げる。
 飛び起きた恭一郎の目が驚きで見開かれた。エレンが予想していたのよりも近い位置にいたのだ。
「体当たりか!?」
「そうですっ!」
 言葉と同時に突っ込んできたエレンの体に恭一郎は大きくよろめいた。そのまま本能に突き動かされて木刀を振るう。
 カッ!
 鋭い打撃音が練習場に響きわたった。
「・・・今の流れ、良かったぜ」
「・・・殿の仕込みが良いからですよ」
 お互いの剣同士を激しく噛み合わせたまま二人は言葉を交わす。
「いいぜエレン!土産をとっとけ!」
 叫ぶが早いか恭一郎はくいっと姿勢を落とした。均衡が崩れて僅かにバランスが崩れたエレンは素早く剣を引き戻し防御を固める。
「え?」
 だが、恭一郎が居なかった。
 ただ、エレンの短い髪が風を感じて僅かに揺れるのみ。
「・・・奥技、風牙ノ剣。要するに駆け抜け胴打ちなんだが気の盗み方と走り方にコツが有る」
 声は、背後からやって来た。
「そ、そんな!?」
 慌てて振り向こうとしたエレンの手から竹刀がこぼれる。いや、正確には竹刀の上半分がだ。
「俺のならった剣術は技を『武技』『奥技』『絶技』にランクしてあってな。いまのはその奥技だ。これならおまえにも使えるはず」
 言いながら木刀を納める恭一郎の言葉を聞きながらエレンは折れてしまった愛用の竹刀を呆然と眺め続ける。
「エレン・ミラ・マクライト。もう一度聞くぜ。おまえはアメリカに帰りたいか?それとも残りたいのか?今の剣・・・迷いは確かになくなってたぜ」
 暖かい言葉にエレンは顔を上げた。
「はい」
 そして、すっきりとしたいい笑顔を浮かべる。家族と恭一郎以外には見せない笑顔を。
「私は殿とこの日本が大好きです!でも、いえ・・・だから、アメリカに帰ります!この気持ちが揺るがない限り私は日本を目指します。恭一郎様の居るここを目指しますから・・・だから今は家族とともに帰ります!」
 恭一郎は頷いた。頷いて、笑顔を浮かべた。
「OK!それじゃあ餞別をもうひとつくれてやる」
 そして、持っていた木刀を手の中でくるりと回しそのつかをエレンに差し出す。
「おまえの竹刀を折っちまったからな。代わりに持ってけ」
「え!?だ、だってそれは殿がいつも使ってる・・・」
 慌てふためき手を振り回すエレンに恭一郎は苦笑を浮かべる。
「大丈夫。三本有るんだよそれ・・・俺が剣術を教わった奴のとこから持ち出した三本一組の木刀のうちの一本がそれだ。『天地人』とあるうちのそいつは『人』の剣だな」
 エレンはおそるおそるその木刀を握った。グリップが僅かにくぼんでいる。恭一郎の手のひら通りに。
 何千何万と振られた痕にエレンは感動のような物を覚えて身を震わせた。
「重いんですね・・・」
「最初はな。だが、振ってるうちにその重さが頼もしくなってくる・・・ああ、グリップは削っとけよ?俺の手の跡が残ってると使いづらいからな」
 恭一郎の言葉にエレンは僅かに逡巡した。
「もったいなくはないですか?殿の努力の跡を・・・」
「馬ぁ鹿、次はおまえの手のあとを刻めってんだよ。俺はもう一本の方に俺を刻むからよ」
 確かに頷くエレンに恭一郎は息をつき、大きく頷き返した。
「日本に帰ってくるまでにその木刀を使いこなせるようになっておけ。風牙ノ剣もな」
「はい・・・はいっ!このエレン・ミラ・マクライト、殿の教えを胸に努力を続けることをここに誓いますっ!この剣にかけて!」
 再び涙ぐんだエレンにふと恭一郎は首を傾げた。
「しかし・・・」
「?・・・どうしました?」

『木刀って、税関通るのか?          風間恭一郎』
『ご心配なく。父のところの航空会社ですし。  エレン・ミラ・マクライト』


 相も変わらずやる気なさげな担任が下校前のホームルームを続ける中、恭一郎と美樹はちらりと目を合わせた。
 金曜日・・・つまりエレン帰国を明日に控えてもまだ、本人の希望でクラスの皆にはそのことを伝えていない。
「それとやな、最後に一つ連絡があるんや」
 担任はぼーっとした目で教室の中を見渡した。
 恭一郎の視線が真横の葵と廊下側のエレンに合図を出す。
「エレンちゃん、きょうでみんなとはお別れやねん。アメリカへ帰るんやって。寂しいなぁ。ほな、今日はこれまで」
 ぱたぱたと手を振って担任は教室を出ていった。
 よくわからない空気が流れた14秒。
「なにぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
 そして、教室の中に叫声とも怒号ともつかぬ声があふれかえった。
「行け!」
 それと同時に恭一郎は一声叫んで葵を横抱きに抱える。
 ばんっと音を立ててエレンは廊下に飛び出した。
「あ、姉御っ!」
 やはりというかなんというか、それにまず気付いたのはエレンファンの男子勢だった。「美樹っ!」
 恭一郎は叫びながら全速力で葵を抱えたまま走る。
「あっ、やはりおまえか!」
 男子勢がその恭一郎を詰問しようと詰めかけるがそれを遮るように美樹が立ちふさがった。恭一郎と葵の分の鞄もぶら下げた左手を腰に、あいてる右手の人差し指をびしっとクラスメート達に突きつける。
「・・・?」
 思わずそれを見つめる24の瞳に美樹は肺活量の全てを振り絞った。
「大・雪・山・颪ぃっ!」
「!?」
 奇声に立ちすくんだ隙にひらひらと手を振りながら美樹は廊下に飛び出す。

『いやぁ、あとで恨まれるだろうなぁこれ・・・  天野美樹』


 恭一郎達はいつもの公園で集合した。
「はぁ、はぁ・・・やっぱさ、まずいんじゃない?」
 しんがりだったので一人長距離を走らされた美樹が息を整えながら呟く。
「・・・俺は止めたぞ。一応だけどな」
 恭一郎は苦笑して抱えていた葵をおろした。
「ふにゅぅぅぅ・・・」
 さんざん振り回された葵がふらふらとしているのを片手で支えてエレンに視線を向ける。
「・・・すいません殿。みんな」
 エレンは袋に入れた木刀を軽く握り尚してから頭を下げた。
「だが、どのような顔をして別れればよいかわからなかったのだ・・・」
「うーん、まぁねぇ・・・」
 美樹は感慨深げに頷く。自身、京都から転校してくるときにはずいぶんと困ったものだ。人間生きてれば別れがあり出会いがある。
 忘れなければ、別れは別れじゃない・・・筈だったのだが。
「でもさ、ちゃんとさよならは言った方が良かったかもね」
「ああ。・・・せめてもの罪滅ぼしに手紙くらいは送るとしよう。全員に」
 きまり悪げなエレンに恭一郎は腕組みをした。
「エレン、明日は何時の便に乗るんだ?」
「はい、3時の便で・・・」
「あたしたちは見送りに行くからね。まさかことわりゃあしないわよね?エレン」
 美樹の挑戦的な物言いにエレンはふんと鼻を鳴らす。
「おまえに来て欲しいとはおもわんがな、側室」
「・・・ドナドナってしってる?かわいくない育ち牛さん?」
 ひとしきりにらみ合ってから二人はどちらからともなく表情を崩した。
「ちゃんと戻ってきなさいよ?エレン!」
「あたりまえだ。おまえが恭一郎様の側にいるうちは安心して米国にはおれんわ。美樹!」
 力一杯肩をたたき合う美樹とエレンを眺めながら恭一郎は葵の耳元にさりげなく顔を近づけた。
「まかせたぞ」
 短い一言に葵はぱっと顔を輝かせる。

『・・・うん!     神楽坂葵』


 スーツケースを下げ、エレンは懐中時計を眺めた。搭乗時刻まであと20分。
「・・・あと20分か」
 恭一郎の呟きに美樹と葵が顔を曇らせる。それを見て口を開いたエレンはふと背後を振り返った。
「父上?」
 その声に一同が視線を向けると、ナイスミドルが服を着てこちらに歩み寄るところだった。
「エレンの親父・・・?」
 恭一郎の言葉にエレンの父は大げさな身振りで両手を広げる。
「オゥ、ワターシがエレンのダディ、ジョージデース。HAHAHAHAHA!」
「な、ないすとぅみーとぅ・・・」
 度肝を抜かれた恭一郎の手を掴んでジョージはぶんぶんと振り回す。
「YOUがウワサのサムライボーイ!ワンダフォウ!マーベラス!」
 美樹は半眼になってエレンの袖を引っ張った。
「エレン・・・なんであんたは日本語ペラペラなのに父さんはこんなキャラなのよ・・・」
 エレンが答えるより早くジョージが振り返る。
「いやいや、この方が外人ぽくっておもしろいだろう?」
「・・・・・・」
 恭一郎は無言で木刀を抜きかけてギリギリで自制した。
「冗談はこれくらいにして・・・ふむ、風間恭一郎君だったな」
「・・・ああ。俺が風間恭一郎だ」
 横柄な物言いにジョージはすっと相好を崩す。
「噂通り良い目をしている。神楽坂氏と同じ目だな」
 恭一郎は、嫌な顔をした。
「・・・よく言われる」
「ふむ・・・成る程。娘が主君と仰ぐだけのことはある。大した器だ」
 満足げに笑うジョージを眺めて美樹はつっこみスピリットを必死になってなだめる。
「娘の主君っていうフレーズ、なんなんだか・・・」
「はっはっは。我が家はみなこんなもんだよ」
 ジョージは快活に笑ってからエレンの肩を叩いた。
「・・・名残惜しいだろうがエレン、もう居かねばならん」
「はい、父上・・・」
 エレンは一瞬表情を崩しかけ、きっと口を結び直した。
「殿!」
 そして片膝を突き頭を垂れる。
「エレン・ミラ・マクライト、一時のお別れにございます。近き再見の時までどうかご壮健であられること、お祈り申しております!」
「ああ。行って来い。そして、いつか帰ってこい」
 力強い声に深く頭を下げエレンは立ち上がった。
「北の方・・・それで入ってまいります。心配するまでもないかもしれませぬが恭一郎様と仲良う・・・」
「・・・うん。又会おうね・・・・エレンさん・・・」
 涙ぐんだ笑顔に頭を下げ、今度は美樹に向き直る。
「側室。分はわきまえとけ」
「・・・あんた、最後まであたしには突っかかるわねヒラ侍」
 美樹は苦笑しながら拳を突き出した。エレンは自分の拳をコツンとぶつけて笑う。
「また会おう、美樹・・・」
「・・・元気でね」
 その一言に頷きエレンは三人に背を向けた。金色の髪がゆっくりと遠ざかる。
 その時。
「姉御ぉおおおおおおおお!」
 ロビー全体を振るわすような大音声がエレンを打った。
「な、なんだ?」
 慌てて振り向いたエレンの目が大きく見開かれた。
「つめたいじゃないっすかぁああああああ!」
 エレン姉御親衛隊全23名、クラスメート、剣道部の面々・・・総勢60人にもなろうかという大集団が必死の形相で走って来るではないか。
「お、おまえ達・・・」
「あ、姉御っ!一言も声かけずにいっちまうなんてそんな殺生な!」
「お姉さま!私、私ぃ・・・!」
「マクライトさん、今度またいっしょに練習しましょう!」
 転校初日の、あの時のように押し掛け人の波。だが、今度はエレンもそれを振り払おうとはしなかった。
「・・・すまん。何をどういえばいいかわからなかったんだ・・・」
「旅立ちには一言だけでいいんすよ!俺達親衛隊一同、いつまでも姉御の帰還をお待ちしておりやすから!」
 その光景を少し離れて眺めながら美樹はコキンと首をひねった。
「あいつら、なんで出発時刻を知ってたんだろ?」
「おまえが言ったことだぞ?俺やおまえの無茶をサポートすんのはこいつだってな」
 恭一郎はわしっと葵の頭を掴む。
「私は連絡しただけだよ。ここまで連れてきてくれたのは・・・」
「それ、私」
 平坦な声は、美樹の耳元で聞こえた。
「ぬわっ!?」
 振り返ったそこに、みーさんの顔がある。
「トラック2台で」
「・・・まさか荷台に詰め込まれるとは思わなかった」
 みーさんの横で憮然とした顔をしながら愛里は呟いた。
「おう、ご苦労。剣道部の連中にもしっかり声かけてくれたみたいだな」
「・・・マクライトさんはおまえと違ってちゃんとした剣道もたしなむからな」
 そっぽを向いた愛里の顔の火照りを美樹はおもしろそうに眺める。


「エレン。時間がないぞ」
 耳元で囁かれた言葉にエレンは小さく頷いた。
「姉御・・・」
「エレンさん!」
「マクライトさん!」
 口々にかけられる声にエレンは大きく腕を突き上げた。
「みんな!行ってくる!元気でな!」
「姉御ぉおおおおおおお!」
 親衛隊が布を取り出した。3メートルの横断幕。
『イッテラッシャイ』
 最後の『イ』の字が逆になっているという凝りようだ。
 大きく一度手を振ってエレンは歩き始めた。
 ジョージと共に早足でゲートをくぐる。
「姉御の旅立ちを祝って!バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」
 声が徐々に遠ざかる。
 日本が。そして自分の愛する人々も。
「・・・誰も、アメリカへ帰るとは言わないのだな」
 見送る人々が完全に見えなくなってからジョージは口を開いた。
「・・・父上と同じく私もこの日本が大好きですから」
 エレンはそう言って立ち止まった。懐から手ぬぐいを取り出し、頬を乱暴に拭う。
 ジョージは愛娘に優しい視線を送った。
「よい友を持ったようだな・・・」
 

「・・・あれだな」
 空港の屋上から滑走路を眺めていた恭一郎はぽつりと呟いた。
 今まさに離陸したばかりの飛行機が空へと、ここではないどこかへと真っ直ぐに突き進む。
「本当に、いっちゃったか」
 美樹はぼんやりとした顔でその軌跡を見送る。
「現実感、ないもんだね・・・」
 葵はこんどこそこらえもせずにしゃくり上げる。
「死んでない。だから、会える」
 その頭を後ろから抱きかかえるようにしてみーさんはぼんやりと囁いた。
「でもさ、あれなわけよ。なんか考えちゃうわけよ」
 美樹は苦笑混じりに空を見上げる。
「いままで当たり前のようにそこにいてさ・・・それで今日からもう会えないなんて言われると・・・まだそこに居そうな気がしてさ。実は行ってなくて、その辺で出てくるタイミングうかがってそうな、そんな気が・・・」

 ガツン。
  
 美樹の台詞を遮るように、何かが床のコンクリートを打つ音がした。
 何か。例えば荷物のいっぱい入ったスーツケースとか・・・
「!?」
 慌てて振り返った恭一郎達の口があんぐりと開く。
「あ、あはは・・・」
 居た。
 きまり悪そうな顔で、屋上に出る階段に立ちつくすエレンが。
「・・・・・・」
 気まずい。
「・・・質問は一つ。極めてシンプルだ」
 恭一郎は絞り出すようにして呻いた。
「おまえ、あれに乗ったんじゃねぇのか?」
 親指で背後の空をさす恭一郎にエレンは引きつった笑みを浮かべる。
「・・・どうしましょう、殿・・・」
「?」
 眉をひそめた恭一郎にエレンはだっと駆け寄った。
「おおおおおおおおおおお置いてかれちゃいました!私っ!」
「何ぃっ!?」
「ちょ、は!?置いてかれたって・・・だってさっき!」
 目を白黒させる美樹にエレンはもっと混乱した顔を向ける。
「父上がチケットを持ったまま走り去ってしまいましたっ!」
「・・・ああ」
 その混乱の中、一人みーさんは平然とした顔で手を打ち合わせる。
「手紙」
「手紙?」
 恭一郎の問いにみーさんはうんと頷いた。
「みーのゆうびんやさん」
 何故か妙にうれしげなみーさんは懐から取り出した封筒をエレンに差し出した。
「・・・な、なんなのだ?」
 受け取ったエレンの顔色が変わる。
「ち、父上から?っていうかいつ受け取ったのだこれ!」
「葵の家でトラックを借りたときに葵の父経由で」
 説明を聞くのももどかしくエレンは封筒を破って手紙を取り出す。慌ててそれに目を通したエレンの顔が凍り付いた。
「あう・・・」
 その手から便せんが落ちる。
「何が書いてあったの?」
 美樹は言いながら自分でその便せんを拾い上げた。
「どれどれ・・・」
 一同は一斉にその便せんをのぞき込み、一斉に口を開けた。

『父さんは母さんとひさびさにラブラブな生活を送るゆえ、おまえはこっちに残りなさい。エルナも残るから生活面は任せるといいだろう。』
 そして。
『追伸 どうせこれを読んでるであろう皆さん、娘をよろしく』

「・・・・・・」
 恭一郎はカリカリと頭をかいた。
「まぁ、あれだな・・・」
 ぽんっとエレンの肩を叩く。
「とりあえず、覚悟はしといたほうがいいみたいだな。あんだけ盛大に別れたのに明日何食わぬ顔で教室にいたら・・・すげぇ騒ぎになるぞ。転校してきたとき以上の」
「それ以前に転校届け出てるんしょ?大丈夫なの?」
 みーさんはふいふいと首を振った。
「まだ受理されてないらしいってきいた。なんか根回しがあったらしい」
「・・・野郎、しくんでやがったか」
 呟いて恭一郎は腕を組んだ。その顔に笑みが浮かぶ。
「殿・・・」
 エレンはじわじわとこみ上げてくる衝動のままに口を開いた。
「ん?」
「殿おっっっっっ!」
 瞬間、エレンは恭一郎に飛びついていた。
「お、おいっ!」
「殿!わ、私はっ!私はっ!」
 首を絞めようとしてるかのような勢いで抱きついてくるエレンの肩を酸欠気味の恭一郎はやれやれと叩いた。
「ま、ともかく・・・おかえり。エレン」

『・・・ただいま戻りました。殿・・・   エレン・ミラ・マクライト』


「・・・結局おいてきてしまいましたね」
 もう見えなくなった日本に思いを馳せながらシエナ・ルナ・マクライト・・・つまりエレンの母は隣の夫に声をかけた。
「そうだな。まぁ大丈夫だろう。エルナも居るし、何よりも素晴らしい仲間がたくさん居るようだからな」
「最初からこうするおつもりだったのですか?」
 問いにジョージは苦笑した。
「まさか。だが、我々はともかくエレンとエルナは友達という物が一番大事な時期だからな・・・コロコロと居場所を変える生活は、望ましくないとは思っていた。だから念のためにこういう手を打っておいたのだが」
「神楽坂さんにはずいぶんと迷惑をかけてしまいましたわね」
 その単語にジョージはふと首を傾げた。
「そういえば、あそこに居た変わった髪型の少女・・・雄大氏の娘さんだったな」
「あら、確か・・・葵さんでしたか?エレンがよく話をしていましたよ」
 シエナの言葉に少し考え、呟く。

『あの少女・・・ずいぶんと追いつめられた目をしていた・・・ ジョージ・マクライト』

 事態が決定的に動くまで、あと僅か・・・