そこから見下ろすことが、いつしか彼の日課になっていた。
 屋上からは、その古ぼけた建物がよく見える。最近改修されたとはいえ全体に漂う古びた雰囲気までは変わらない。彼の統べる剣道部の練習場とは全く違う。
 稲島貴人は今日もその建物・・・剣術部練習場から賑やかに出てきた男女を眺める。
 勿論、遠く離れたここまで音が届くわけではないが賑やかなのは見ればわかった。
 なにやら小突き会っている恭一郎と美樹。その美樹につっかかっているエレン。その後ろで苦笑している愛里と葵。無表情で、それでいて何故か楽しそうなのがわかるみーさん。
 今ではすっかり1グループとなった6人がそこにいる。
 貴人にとってもそれは望ましい事だった。望ましいはずだった。
 何しろ、葵は賑やかな方が楽しげなのだから。
「だが・・・」
 そっと呟き、傍らに立てかけてあった竹刀を手に取る。
 その葵が、時に憂いを帯びた顔を見せるようになったことに貴人は気付いていた。気付いてしまった。
「このままというわけにも、いかないよね。キョウ・・・」
 言い終わり、目を閉じた刹那、密かににじり寄っていた少年達はそれぞれの獲物を振りかざして貴人に飛びかかった。
「その首貰ったぁっ!」
「剣道部主将、覚悟っ!」
 怒号の五重奏とともに竹刀が、木槍が、皮紐が貴人へと襲いかかる。
 バシン・・・
 音は、一つきり。
「・・・・・・」
 数瞬の静寂の後、どさどさと音を立てて倒れたのは少年達の方だった。
 貴人は物憂げな顔で階下へと続くドアを開け、屋上を後にする。
 今は風だけが吹き抜けるそこに気絶した少年達を残して。

『精算しなくちゃいけない。それ無しでは・・・   稲島貴人』


「しかし今年はよく降るなぁ。雪」
 練習場からの帰り道で、恭一郎はまだ解け残っている雪だるまを眺めて笑顔を浮かべた。
「そーよね。誰よ暖冬とか言った奴。前に出なさい。左端から凄い目に遭わせちゃうから」
「天気予報はあくまでも予想だ。文句言ってもはじまらんぞ側室」
 無茶を言う美樹に冷ややかな視線をぶつけてからエレンは一歩後を歩く葵を振り返った。
「北の方、大丈夫ですか?」
「うん・・・でもやっぱり寒いのは苦手だよ〜」
 葵は苦笑してマフラーの中に顔を埋めた。
 猫は、こたつで丸くなる。
「それは大変」
 無表情に呟いたみーさんは何を思ったのか、いきなり葵を背後から抱きしめた。
「な、なにをやってるの?御伽凪さん・・・」
 一歩後ずさった愛里にみーさんはどことなく焦点のあって無い目を向けて首を傾げる。
「葵を暖める。ぽかぽかさん」
「そ、そう・・・」
 勢いで頷いてしまった愛里を指さしながら美樹は恭一郎をちょいちょいとつっついた。
「あんたも愛里さんにやってあげれば?ぽかぽかさん」
「?」
「ばばばばばっ、馬鹿者!何を言い出すのだ!わ、わたっ、私はだなっ!」
 よくわかってない顔の恭一郎に真っ赤な顔で愛里は手を振り回す。
「む?」
 だから、その会話に参加していなかったエレンがまず彼の接近に気がついた。
「稲島殿。どういたした?」
 エレンの問いに貴人は軽く首を傾げた。
「さんざん頭の中で練習してみても、いざとなると何から切り出したものか迷う物だね」
「はい?」
「なにがだよタカ?」
 恭一郎は木刀で自分の肩をトントンと叩きながら尋ねる。
「キョウ・・・いや、風間恭一郎。君に決闘を申し込む」
「!?」
 声にならない悲鳴を上げたのは葵だった。
「・・・何のために?」
 当の恭一郎は驚きより先に疑問に駆られて問いを口にする。小学校以来の友人が、無駄に剣を振るう趣味がないことは誰よりもよく知っているからだ。
「・・・僕が勝ったら」
 貴人の答えは微妙に問いとはずれた物であった。
「僕が勝ったら、葵ちゃんを貰う」
 今度の衝撃は、その場の全員を襲って荒れ狂う。
「主将!何を言うんですか!」
「あんた頭緩んでるの!?」
 それぞれの罵声を抑えて恭一郎は口を開いた。
「葵は、物じゃねぇ。んなこたぁおまえもわかってる筈だろうが。何を企んでやがる」
「企む、か・・・」
 貴人はうつろな笑みを浮かべて首を振った。
「別に、何も企んじゃいないさ。でも・・・僕は君に勝たなくちゃ一歩も進めない」
「た、貴ちゃん・・・」
 震える声で呼びかける葵に視線を向けず貴人は竹刀を恭一郎に突きつける。
「僕は君に勝つ。絶対にだ」
 貴人と恭一郎の間の数メートルが、一瞬にして煮立ったようだった。迂闊に動けば何もかもが崩れ落ちそうな雰囲気を無視して恭一郎は凶暴な笑みを浮かべる。
「俺に、勝てる気か?」
「勝てるさ。あの日・・・何もかもが変わってしまったあの日から君が剣道に勝てる剣術を求めたように、僕は君に勝つための剣道を求めたんだからね・・・」
 途切れた声を引き続くようにカラカラと音を立てて空き缶が転がってくる。空虚な音を立てるそれが壁にぶつかったカシャンという音。
 その音と共に、貴人の姿が消えた。
「っ!」
 恭一郎はぎりっと歯を食いしばった。その歯の下・・・喉元に突きつけられた竹刀の切っ先を睨みながら。
「・・・もちろん、君達に見えないほど早く僕が動いたわけじゃない。君たちの注意が僅かに揺らいだ瞬間に動いただけだよ」
「・・・無拍子!?」
 引きつった声を上げる愛里に頷いて見せてから貴人はゆっくりと竹刀を引いた。
「キョウ。これが僕の剣道だ。君がいかにトリッキーな技を繰り出そうとセオリーを外そうと・・・どんな豪剣を振るおうとも・・・それが発動する前に僕は君を打てる」
 踵を返した貴人は軽く深呼吸をしてから歩き出す。
「明日の放課後、剣術部練習場で」
「・・・くだらねぇ」
 恭一郎は無表情に呟いてこちらも踵を返した。振り返りもせずに二人の男は正反対の方向へと歩み去る。
「ちょ、ちょっと・・・ええい!」
 美樹は苛立たしげに二人の背中を見比べて、結局貴人を追って走り出した。
「・・・風間恭一郎!」
 それを見て我に返った愛里は慌てて恭一郎の後を追う。
「北の方。私は明日に備え練習場のワックスがけに参ります」
 エレンは静かに一礼してその場を去る。
「あ・・・あ・・・」
 みんな去っていく。私の前から居なくなる。
 そんな思いに捕らわれた葵は声にならない何かを発しながらふらふらと歩きだそうとした。
「駄目」
 しかし、その小柄な体をみーさんの腕が抱きしめる。全てから遮断するように。
「今は駄目。葵がいま追いかけたら、三人、駄目になる」
「で、でも・・・みんな・・・みんな・・・私のせいで・・・」
 葵の瞳からこぼれた涙を自分の胸で受け止めてみーさんはそっと背を撫でてあげた。

『葵・・・大丈夫、今は私、居る。 御伽凪美衣奈』


「風間!・・・かざ・・・恭一郎っ!」
 数度目の呼びかけで、ようやく恭一郎は足を止めた。
「中村か・・・わりぃな。剣道部のメンツとかいろいろあるだろうけどよ・・・俺は負けられねぇんだよ」
 愛里はぶんぶんと首を振る。
「馬鹿者!この、大馬鹿者!超馬鹿者!メンツなど気にするのなら私自身がおまえに挑戦などしないっ!私とおまえの実力差をわかっていずに戦っているとでも思ったか!?」
「・・・?ならなんだ?・・・ああ、俺と試合したいなら明日以降にしてくれ。タカとの一戦を控えてじゃさすがに俺も体力の無駄遣いは・・・」
 恭一郎の言葉を遮って愛里は何もわかっていない男の襟首を掴んだ。
「この極馬鹿者っ!私はおまえと主将に戦って欲しくないんだっ!」
 真剣な視線に恭一郎はふっと目を細める。
「・・・俺を、心配してくれてるのか?」
 暖かな声に愛里は表情を崩しかけた。
「悪いかっ!?私がおまえの心配をしては!」
「いや・・・だが、ちょい意外ではあるけどな」
 頬をかく恭一郎に愛里は恨みがましい視線を向ける。
「・・・この、馬鹿者・・・いや・・・私が馬鹿者か・・・」
 ギュッと掴んでいた襟から手を離して愛里は姿勢を正した。
「恭一郎。主将のあの技は無拍子と言う。その名の通り行動のリズムを無くし、ノーモーションで剣撃を繰り出す技だ。僅かな隙さえ有れば剣がいきなり目前に現れたように見える。さっきのようにな」
 表情の変わらぬ恭一郎は愛里は不安げな顔で言葉を続ける。
「何千、何万とおなじ動きを繰り返してようやくできるようになる・・・私の縮地と同じくなんら特殊なことではなく、それゆえにありとあらゆる攻撃に通ずる技だ。それはつまり・・・」
「俺の技術体系の対極、俺の防御はことごとく無力化されるってか。なにしろあいつは俺の剣を誰よりもよく知ってやがるからなぁ・・・」
 とぼけたような物言いに愛里は再び声を荒げた。
「わかってるのに、何故断らなかった!私は!」
 だが、すぐにその声が弱々しくなる。
「私は・・・恭一郎が負けるところなぞみたくはないぞ・・・」
 恭一郎は一瞬だけキョトンとしたが、やがて小さく微笑んだ。
「何がおかしい!私は!」
「・・・いや、すまねぇ。それと、ありがとよ」
 ぽんっと愛里の肩を叩いてから天を仰ぐ。
「大丈夫。俺は負けねぇよ・・・負けられねえんだよ。俺はな」
 その姿が、言葉と裏腹に空虚なものに見えて。
 愛里は一人身を震わせた。

『恭一郎・・・何故・・・何故、戦うのだ・・・   中村愛里』


「こらまてこの・・・ちょえいっ!」
 足早に去っていく貴人の頭めがけて美樹は履いていたスニーカーを投げつけた。
「え?・・・うわっ!?」
 反射的に振り返ってそれを受け止めた貴人の目に片足ケンケンで爆走してくる美樹の姿が映る。
「こ、怖いなこれは・・・」
 思わず呻いた貴人の顎を伸び上がるアッパーが強打した。
「失礼なことを言うな糸目音楽男っ!」
「・・・いや、確かに僕は糸目で音楽ばかり聴いているけどね・・・」
 よろめきながら悲しげに呟く貴人の手から靴を奪い返して美樹は乱暴にそれを履く。
「・・・どういうつもりよ」
 簡潔な問いに貴人は今言われたばかりの細い目をさらに細めた。
「どういうつもりと言われてもね・・・さっき理由は言ったと思うよ?」
「・・・もう一発喰らいたいの?次はバットが出るかも。どこからともなく」
 そんなわけはないと思いつつも本能的に後ずさってから貴人はため息をつく。
「どうも僕はこの手の人に弱いんだなぁ」
 呟いて僅かに微笑む。
「そうだね。君には、聞く権利があるよ。ついてきて・・・」

『取りあえず、僕の家に招待しよう。    稲島貴人』


「さて、どこから話した物か・・・ってどうしたんだい?天野さん」
 家を見てからずっと口を開かない美樹に貴人はキョトンとした目で尋ねる。
「・・・あんたも金持ちなのね」
「え?・・・ああ、そのことか。そうだね・・・確かに裕福ではあるよ。家がそうというだけで僕とは関係のないことだけどね」
 そう言って貴人は巨大なコンポの電源を入れた。今日の曲は有名なロック歌手が戦争の悲劇を歌ったバラードだ。
「まあ、そのおかげで物的なことでは得をさせて貰っているよ」
「葵ちゃんと幼なじみだって話は聞いてたけどこういう事なわけか・・・」
 呟いた美樹に椅子を勧めて貴人はコーヒーの準備にかかる。
「そうだね。あまり関係がない話ではあるけどキョウのところの四井家とも親交は深いよ」
「・・・!?じゃあ、恭一郎とも・・・」
 エスプレッソマシンから目を離して貴人は首を振った。
「いや、彼とは同じ剣道道場に通っていたんだ。キョウはお母さんに勧められて、僕は家のしきたりでね」
 できあがったコーヒーを自分と美樹の前に置き、静かに椅子へと腰を下ろす。
「キョウと葵ちゃんの出会い・・・というか、葵ちゃんの昔の話しは聞いたことがあるかな?」
「・・・うん。雄大さんから聞いてる」
 頷く美樹に貴人は目を閉じる。
(雄大さんも、僕と同じ事をこの娘に感じたのか・・・)
 目を開き、貴人は静かに語りはじめた。

『転校して数日で葵ちゃんは普通にしゃべれるようになった。クラスの皆ともうまくやれるようにもなってきた・・・キョウと一緒にいるとき限定でだけどね。だから、本来孤独を嫌う葵ちゃんは必然的に彼の後をついて回るようになった』

「きょ、恭ちゃんまってよ〜」
「おせえぞ葵!ほら、根性でダッシュだ!」
「キョウ・・・あまり無茶を言うと・・・」
 不安げな貴人の言葉が終わるよりも早く葵はビタンと音をたてて転んだ。
「あうううう・・・」
 顔を泥まみれにした葵が涙目で呻く。
「大丈夫?葵ちゃん・・・」
 その顔をハンカチで拭う貴人に対して恭一郎は口を結んだまま葵を見下ろしている。
「・・・立たないのか?」
 きつい言葉に葵はびくっとしてから慌てて立ち上がる。
「・・・タカ、手ぇだせ」
 首を傾げながら差し出された貴人の手と不安げにこちらを見上げる葵の手を恭一郎は無理矢理繋がせた。
 そして、もう片方の手をそっぽを向いたままに自分が握る。
「・・・これなら、ころばねぇだろ」
「!・・・うん!」
 ぱっと微笑んだ葵の顔を見ないように・・・いや、むしろ自分の照れた顔を見せないようにそっぽを向いて恭一郎は咳払いなどして見せた。
「よし、じゃあ行くか!」


『小学校が違う僕だったけど、休日はほとんど二人と一緒にいたよ。僕は元々キョウと仲が良かったからいつも遊んでいたしね・・・いや、僕が無理矢理遊んで貰っていたのかもしれないけど』

 大きすぎるグローブとバットを抱えて葵は恭一郎に声をかけた。
「恭ちゃん。私に野球を教えてくれないかなあ」
「は?野球を?」
 恭一郎は貴人とキャッチボールをする手を休めて聞き返す。
「どうしたんだい葵ちゃん。急に・・・」
「うん。恭ちゃんと貴ちゃん、野球好きだから・・・私も一緒にやりたいの」
 そこまで言って、葵は急に自信を無くして俯いた。
「・・・駄目かなあ・・・駄目だよね。私、全然運動駄目だし・・・」
「いや、まかせとけ。俺が最強のリリーフに育て上げてやる!」
 上目遣いの視線の直撃を受けて恭一郎は間髪を入れず頷く自分に気付いた。
「・・・取りあえず葵ちゃん。僕とキャッチボールでもやってみようか」
「う、うん・・・えい!」
 苦笑しながらミットを構えた貴人に葵は緊張した面もちでボールを投げる。
 ことん。
 真下に落ちたボールがころころと背後へと転がっていった。
「・・・取りあえず、前に投げるところからはじめるか・・・」

『いつだって三人は一緒だった。同じ中学校に行ったのは当然の流れだったんだ』


「なにぃ!?マネージャーになるぅ?」
 恭一郎の素っ頓狂な声に葵はうれしげな笑みを返した。
「そうだよ。私、運動神経ぼろぼろだけど・・・マネージャーなら多分できるから」
「にしたってよ、文化系って選択肢もあるし別に帰宅部だって・・・」
 ぶつぶつ言いながら恭一郎は長い吐息を漏らした。
 ここまでうれしそうな葵を止める権利など、有るはずもないかと。
「いいか?苛められたりいやがらせされたりしたらすぐ言えよ?俺がすぐにぶちのめしてやるからな」
「あはは、ありがと。でもぶちのめしちゃうのはまずいと思うよ?」


『僕と恭一郎は勿論、葵ちゃんまで一緒の剣道部。楽しかったよ・・・僕と恭一郎は、たいして強い部じゃなかったこともあってすぐにレギュラー入りをすることができた。入部当時の3年が実力主義だったおかげでも有るんだけどね。でも・・・1年生の僕たちがレギュラー入りすれば当然に2年生の誰かがレギュラー落ちをするんだよね』

「3回戦でおまえと潰しあうとはなぁ、ついてねぇよな」
 控え室で防具を外しながら恭一郎は苦笑した。
「しょうがないよ。前回は二人とも県代表になれたんだしね」
 笑い合う二人にすっとタオルが差し出される。
「お疲れさま、恭ちゃん貴ちゃん。レモンの蜂蜜付けもあるからよかったら食べてね?」
 1年生ながら全国大会の常連に名を連ねる二人の少年と学校有数の頭脳と美貌のマネージャー。
 有名にならないはずがない。
 そして有名になれば、それなりの弊害というのも生まれる物なのだ。
 憎々しげな目で彼らを睨み付ける先輩に三人は全く気付いていなかった。


『・・・あれは、二年に進級してすぐのことだった。僕は次期部長が内定していたこともあり練習スケジュールなどを先輩達と協議する係になっていたんだ。ある日練習スケジュールを尋ねるために、部室にいるはずの先輩達を僕は尋ねた。そして、ドア越しにその会話を聞いてしまったんだ・・・』


 ノックしようとした手が宙に止まった。
「・・・・・・」
 手の代わりに耳がドアにぴったりと寄せられる。
「・・・ったくよぉ、冗談じゃねぇぜ!」
 荒れた声は、剣道部の部長の物だった。
「このままじゃ俺達最後まで市内大会止まりだぜ」
「俺らなんてレギュラーにすらなれねぇじゃん」
「あいつらさえいなけりゃよぉ」
 貴人は内心でため息をつく。よくは思われてないと思っていたがまさかここまであからさまに言われているとは・・・
「稲島の奴はいいんだよ。立場ってもんがわかってるしよ。でも風間・・・あいつは許せねぇ!」
「あ、おまえもかよ!マジむかつくよな!あの態度・・・畜生!」
 貴人は蒼白な顔でドアから耳を離す。
 まずい。これはまずい・・・
「ん?タカ、なにやってんだおまえ?」
「き、キョウ!?」
 当の恭一郎の声に貴人は思わずのけぞった。慌てて静かにするように身振りで示してドアを指さす。
「?」
 恭一郎は首をひねりながらドアの側で聞き耳を立て始めた。
「いやマジでさ、あいついっぺんしめねぇ?」
「そうだよな。あいつ、ちょっと強ぇからっていい気になりすぎだよな!」
 すぐに理解したらしく恭一郎は失笑した。
(そんなことウジウジ言ってやがるから弱いんだよな)
(・・・先輩達は先輩達なりに頑張ってはいるんだよ・・・)
 目と目で語ってから二人はドアから離れようとした。
 だが。
「その程度でいいわけ?」
 それまでとは違う高い声を耳にしてその動きが止まる。
(高砂マネージャー?)
(・・・間違いねぇな。あのキツネ目だ)
 恭一郎が顔をしかめながら自分の目尻を指でつり上げてみせる。
「なんだよ美佐子。ボコにしてやるんじゃ足りねぇってのか?」
「あったりまえじゃない。風間の奴のことだからどんなに怪我したって悔しがったり怖がったりしないんじゃない?」
「・・・確かに」
「あいつ、前に3針縫ったときも涼しい顔してやがったもんな」

『高砂マネージャーは僕たちより一つ年上で、葵ちゃんが入学するまでは剣道部のアイドルだった少女で、葵ちゃんを事有るごとに苛めていた。彼女の陰湿な苛めのいくつかは僕とキョウでなんとかしたし葵ちゃん自身で何とかしたものも多い。こういう言い方はしたくないけど、彼女は苛められなれてたから・・・』


「でもね、あの余裕顔をくしゃくしゃにしてやる方法があるのよ」
 その一言で恭一郎の顔が険しくなった。
 貴人にも・・・そして何より彼自身にもわかっていた弱点。
「神楽坂よ。あの生意気な娘をやれば風間はショックで立ち直れないでしょうね」
「やればっておまえ・・・」
「・・・どうせあんた達もあのチビに触ってみたいって思ってんでしょ?汚してみたいでしょ?」

『純粋培養の悪意という物がかくも汚らしい物かと僕は慄然とした。だが、それと同時に僕には冷静な計算も残っていたんだ。いくら性格が悪いとはいえ、中学生がそんなことを実行に移したりはしないし、高砂マネージャーも本気ではないと』

 だが。
「きょ、キョウ!」
 恭一郎は違った。たとえその話が関係ない人の事だったとしても激怒していただろう彼が、よりにもよって葵を傷つけようという話を聞いたならば?
 音を立てて恭一郎はドアを蹴破った。中にいた十人以上の3年生部員、そして硬直した高砂マネージャーを順に睨み付けて恭一郎は持っていた竹刀を振る。
「糞野郎ども・・・死ねよ・・・」
 声は静かだったのを貴人は覚えている。人間って、限界を通り越した怒りを宿しているとかえって表面は冷たく見えるものだ。
 無論、そのうちは煉獄の炎のごとく燃えさかっていて。
「一人ものこさねぇ・・・」

『呟いて、そして恭一郎は部室の中へ乗り込んでいった。動けない僕を置いて・・・』

 目を閉じた貴人と目を見開いたままの美樹の間に等しく沈黙は訪れる。
「ずっと相棒だったのに・・・葵ちゃんを護る誓いも一緒だったのに・・・僕だって、剣を持っていたのに・・・僕は彼を裏切った。葵ちゃんをも。僕は臆病者で、卑怯者で、そして何よりも・・・裏切り者だ」
 手をつけられないままに冷え切ったコーヒーが最高の豆であった過去を主張するように僅かな香りで二人を撫でた。
「で、でも・・・恭一郎が行ったんなら・・・たかだか10人やそこら・・・」
「恭一郎は負けたよ」
 苦しげな言葉に美樹はポカンと口を開けた。
「・・・そんなの嘘よ・・・恭一郎は・・・だって恭一郎は・・・」
「彼だって神様じゃないんだよ・・・」
 譫言のような言葉を貴人は弱々しい声で否定する。
「今のキョウなら、たとえ剣道部員が20人居ようが勝つさ。でも、当時の彼はいくら強くても剣道家だった。剣道は一対一しかできない技術体系なんだよ。そして・・・それを覆すほどの力は、当時のキョウには無かった・・・」
 脳を掴みだそうとするかのように自らの頭を抱えて貴人は続ける。
「それでも、3年生は8人が病院送りになった・・・でも・・・でも!その代わりにキョウも・・・」
 ギリッと奥歯を噛みしめる音が聞こえたような気がした。
「キョウの右手は粉砕骨折だった。今でも完全には動かないはずだよ」
「な!?・・・だ、だってあいつ・・・そんなそぶりは・・・」
「見せないさ!」
 貴人は思わず叫んでいた。これまでずっと自分一人の中に秘めていた絶望は吐き出しても吐き出しても止まらない。
「見せたら、葵ちゃんが悲しむじゃないか!・・・僕が一緒に飛び込めば勝てたかもしれないんだ!少なくともここまで酷い怪我はしなかった筈だ・・・」
 美樹は言葉も発せずにただひたすら耳を傾ける。
「・・・そしてその一件はただの喧嘩と言うことになった。大事件にしたくなかった学校側の思惑もあって3年達と恭一郎は共に停学一ヶ月となったよ・・・実際には怪我の程度を軽いものとして報告書に書きたかったためだと思うけどね。葵ちゃんには、誰も何故こんなことがおきたのかは言わなかった。僕も言えなかった・・・でも、多分知ってたんじゃないかな。葵ちゃんは・・・そういう人だから」
 貴人は知らず握りしめていた手のひらを思い出したように開いた。爪の食い込んだ痕からジワリと血がにじむ。
「退院してすぐに恭一郎は剣道部を去った。全国レベルの選手を失いたくなかった学校側の思惑は完全にはずれた形になる。そして彼は竹刀を捨てて木刀を取り、剣道を捨てて剣術を身につけた。執念と怒りと、一途な思いを糧にしてね」
「・・・剣術、か」
 呟いたのは美樹で、頷いたのは貴人だ。
「剣道三倍段って知ってるかな。剣道ってのは他の格闘技に比べて間合いの点で優位にある。その剣道に確実に勝てるなら・・・そして大勢を相手にできる技を身につけているなら・・・まず負けはない」
 告白を終えて、貴人は胸が軽くなるのを感じた。裏切り者の自分が救われることは許されてはならないが・・・それでも、明日の一戦を考えれば良い傾向だ。
「それから先は君が知っている恭一郎になる。葵ちゃんを護り、絶対に負けられない宿命を背負い・・・それでもなお多くの人を引きつけ、救う男・・・」
「貴人君・・・なんであんたは恭一郎と・・・?」
 始まりの問いに貴人はうっすらと微笑んだ。
「キョウは・・・いや、風間恭一郎は負けなければならない。彼は神様じゃないんだから負けなくちゃいけない」
「・・・わけわかんないわよ」
 すねるような美樹に微笑んで貴人はもはやその価値を失ったコーヒーを新しいものに入れ替えた。
「恭一郎は、勝ち続けている。葵ちゃんを脅かすもの、葵ちゃんが悲しみそうなこと・・・それらと戦い続けて勝ち続けている。ただ一度の敗北から始まった戦い・・・それを敗けられないものとしてしまったから」
 今度は暖かいままにその濃厚な香りを味わいながら貴人は鋭い視線を美樹に向けた。
「とみに君が現れてからこちら、葵ちゃんと恭一郎の繋がりは強固なものになった。だが同時に君と恭一郎の繋がりが深いこともまた事実なんだよ」
 さりげない言葉と一瞬の惑い。
「は!?」
 そして、驚愕。
「葵ちゃんにとって恭一郎の存在は少々大きくなりすぎた。僕があのとき怯えなければこんな事はする必要なかったのに・・・恭一郎一人に頼り、すがってきた葵ちゃんは今、恭一郎を失うことに怖れを抱いている。彼女の世界は全て風間恭一郎という土台に立脚したものだからね・・・そして、君は恭一郎を葵ちゃんから奪う可能性がある」
「あ、あたしはそんなつもり・・・」
 否定できないことに驚愕する美樹をよそに貴人はコーヒーで唇をしめらす。
「その時に、今のままの葵ちゃんは耐えられないかもしれない。だから、僕は恭一郎に勝たなくちゃいけない。恭一郎が無敵であるという事実を断ち切って、葵ちゃんに自立して貰わなくちゃいけない・・・葵ちゃんと恭一郎が結ばれるにしろ、それは必要な儀式なんだ。頼るばかりで、頼られないなんて・・・伴侶とは言えないだろう?」
 美樹は、目を伏せた。渦巻く言葉の中から手探りで自らの思いを掴み出す。
「あんた、歪んでるわ」
「え?」
 きょとんとした貴人の襟首を美樹は片手でつり上げた。
「あんたはただ過去の後悔を振り払いたいだけじゃない!そんなんで恭一郎に勝とうなんて数億光年早いわよ!」
「・・・光年は、距離の単位だよ」
 苦笑しながら貴人はするりと美樹の手を逃れた。
「む!?おのれ面妖な技を・・・」
「・・・君の言うとおり、ただの私怨かもしれない。でも・・・それでも、僕は恭一郎と戦うよ。葵ちゃんの為になることなんて、他には思いつけないから・・・」
 それから先は、何の言葉も発せられなかった。


『でも、恭一郎は本当に決闘なんかに応じるのかな・・・  天野美樹』


 その晩。
 風間家の押入に頭を突っ込み、恭一郎はそこをごそごそと漁っていた。
「おかしいぞ。ここにあったと思ったんだけどな・・・」
 うなりながら頭を引き抜いた恭一郎の袖がちょいちょいと引っ張られる。
「おにーちゃん、なにやってるの?」
 泊まりに来ていた夏希・・・恭一郎にとって従姉妹に当たる少女に恭一郎は軽い笑みを返す。
「いやなに、ちょいと捜し物をな」
「捜し物?」
 首を傾げる夏希の頭を軽く撫でて恭一郎は捜索を諦めた。
「服が見あたらないんだよ。捨てちまったかな?」
「およーふく?」
 頷いて軽く苦笑する。
「まぁ、みつかってもあんま意味があるもんでもねぇしいいけどな・・・」
 ビュン。
 歩きだそうとした恭一郎の鼻先をかすめてドアが開いた。
「!?母さん、あぶねぇだろうが!俺だからいいが夏希だったらどうする気なんだ!」
「え?夏希っちだったらちゃんと通り過ぎるのを待つけど?」
 食後のミカンを片手にきょとんとしている観月に恭一郎はどっと脱力する。
「わざとかよおい・・・ああ、もういいや。寝よ・・・」
「まちなさいって」
 階段に向かった恭一郎を観月は軽い微笑みと共に呼び止めた。
「あんたが探してるもんならあんたの部屋のタンスの上にビニールかけて置いてあるわよ」
「・・・そっか。おやすみ」
 恭一郎はひらひらと手を振って階段を上る。
「おやすみなさい」
 夏希もぺこりと頭を下げてその後を追う。
「・・・恭一郎、逃げたりしたらギガ折檻だからね」
 それを見送ってリビングに戻ろうとした観月だったが、ふと思いついて二階へと声を張り上げてみた。


『恭一郎!夏希ちゃんと一緒に寝ても手ぇ出しちゃ駄目よ!犯罪だから! 

                             風間観月』


 そして、決戦の夜は明ける。