「夜が・・・明けちゃった・・・」
 呟いた葵の声に、隣で寝ていたみーさんは軽く頷いた。一人にしない為に昨晩は泊まり込んだのだ。
「葵、怯えちゃ駄目。恭一郎の為なら、怯えちゃ駄目。葵が大丈夫なら、二人とも大丈夫」
 もぞもぞと這ってみーさんは葵を抱きしめる。
「ウィス・ダルファム・ディ・アモン・・・」
 不思議な響きの言葉に葵はキョトンとした顔でみーさんを見上げた。
「前に居たとこ、おまじない。痛み分かち合う誓い」
「痛みを分かち合う・・・」
 呟いた葵の頬に軽く唇を当ててみーさんはベッドを出た。
「覚えておくと、便利」
 何事もなかったかのような無表情で着替えをはじめたみーさんを眺めて葵はぽつりと呟いた。


『みーさんって・・・ノーマル・・・だよね?    神楽坂葵』
『・・・シュイ、キクル。        御伽凪観衣奈』


「ねぇおにーちゃん・・・」
 不意に背後からかけられた声に恭一郎は靴紐を結びながら振り返った。葵はエレンに言って先に行かせてある。少しくらい無駄話をしても大丈夫だろう。
「なんだ?夏希」
 夏希は一度口を開いてから考え込み、ふるふると首を振った。
「・・・ううん、頑張ってね!」
 天使の微笑みに、思わず頬が緩む。
「まかせとけ。俺は風間恭一郎だからな」
 夏希の頭をくしゃくしゃっと撫でてから恭一郎は立ち上がり・・・玄関のドアを細く開けてこちらを睨んでいた美樹を見つけて後ずさった。
「・・・ろりぃ」
「だから!違うってんだろうが!」
 冷めた声に恭一郎は慌てて叫び返す。
「ねぇ夏希ちゃん。昨日の夜恭一郎は何もしなかった?」
 改めて玄関に入ってきた美樹の問いに夏希は首をひねった。
「ううん、別に」
「だから言っただろうが。俺はだな・・・」
 言い終わるより先に夏希は言葉を続けた。
「昨日は一緒に寝てたから間違いないよ?」
「ぬぁ!?」
 硬直した恭一郎。
「・・・・・・」
 穏やかな笑みを浮かべる美樹。ただし、目は笑っていない。
「・・・どうしたの?」
 わかっていない夏希。


『恭一郎・・・バットと硬球、どっちで死にたいかなぁ? 天野美樹』

 剣術部の風間恭一郎と剣道部の稲島貴人が戦う。
 その噂はどこをどう広まったものか一晩で全校に知れわたっていた。高度情報化社会というのは恐ろしいものである。
「号外、ごうがーい!六合新聞、号外だよぅっ!」
 いや・・・意外とアナログかもしれない。
「おい、あれ!風間恭一郎だぜ!」
「うわ、見ろよあの傷!特訓してたのかな?」
 聞こえてきた声に恭一郎は低い唸り声をあげて頬の傷をさする。
「おまえさ、一回カウンセラーに見て貰った方がいいんじゃねぇの?その性格」
「・・・あんたもろりぃを直して貰いなさい!」
 いまだ怒りの火を燃やす声に恭一郎はため息をつく。
「違うって言ってんのに・・・第一、もし俺がロリコンでもおまえには関係ねぇだろうが」
「関係なくはないわよ!」
 激しい剣幕に恭一郎は眉をひそめた。
「・・・どう関係あるんだ?」
「え?・・・それは、その・・・そう!友達が性犯罪者ってのも気分が悪いじゃない!」
 慌てて言いつくろった美樹の言葉を真に受けたのか恭一郎は深くため息をつく。
「ああ、そうかそうか・・・ったく・・・」
 そして、不意に踵を返した。
「どこ行くのよ!」
「・・・気分直し」
 珍しく無表情な恭一郎に美樹の心を罪悪感が浸食していく。
「ちょ、恭一郎!ごめん!あやまるから!」
「別に謝られることじゃねーよ」
 ぶらぶらと手を振りながら恭一郎は振り向くこともなく去っていった。


『どうしたのよ恭一郎・・・     天野美樹』


「・・・おい、側室」
 エレンは顔を引きつらせたまま口を開いた。
「・・・何よ」
 美樹はかけそばをすすりながら答える。味などわかりもしない。
「恭一郎様は、どこへ行ったのだ!」
「知らないわよ!なんであたしがあいつの行く先を知ってんのよ!」
 恭一郎はその後、昼休みになっても姿を現していなかった。
「やめなさい二人とも」
 愛里はため息をつき、隣でうなだれたままの葵に視線を移す。
「・・・・・・」
 朝から一言も口をきかない少女の目の前に置かれたキツネうどんが、箸もつけられないままに冷えていく。
(私たちの繋がりは、こんなにも脆いものか?)
 愛里は冷え冷えとした空気の中、ふと思う。
(恭一郎が居ないだけでこのありさまか・・・我々が彼に頼りきっていたよい証明というわけだ。だが・・・)
 それは、いけないことなのだろうか?
 彼とて、一人で何もかも出来るわけではないだろうに。


『恭一郎・・・どこに行ったんだ・・・   中村愛里』


 結局恭一郎が現れぬままに、放課後はやって来た。
「よし」
 エレンは愛用の剣道着の帯を堅く締め、傍らに立てかけていた木刀を手に取る。
「副主将殿?」
「私も大丈夫。行こうか」
 愛里も又愛用の竹刀を握る。その身を包むのは剣道部指定の道着だ。
「わざわざ着替える必要あんの?」
 退屈そうに着替えを待っていた美樹の言葉にエレンはふんと鼻を鳴らす。
「特別なときには特別な服装をする・・・とある偉人の格言だ」
「まあ、この方が気分が出るっていうだけだ」
 愛里はそう言ってドアを開けた。剣術部練習場はたいして広いわけではないが、幸いにして更衣室だけは設置されていて助かる。
「おまたせ」
 美樹はいつもの場所に硬い表情で座っている葵に声をかけた。
「う、うん・・・」
 かき消えそうな声にため息をついてからあたりを見渡す。よほど噂が広まったらしく室内は既にギャラリーが溢れていた。
「ったく、何でこんなに人が来るかなぁ・・・」
「全くだねマドモアゼル。この喧噪、エレガントじゃないな」
 綾小路薫は造花のバラをもてあそびながら優雅にマントをひるがえす。どうやらエレン達と同じような事を考えたらしく、その下にまとっているのはいつもの制服ではなく豪奢な舞踏服だ。
「しかたあるまい。つまりは、それが六合というところなのだ」
「うん、わりとそんな感じ」
 愛里の言葉にみーさんは無表情に頷いた。右の二の腕にはめた『風紀』の腕章の位置を直し、右目にかかる髪を軽くかき上げる。
「いやいやいやいや無茶苦茶興奮するっすよ!」
 その隣でじたばたと叫ぶ神戸由綺とは対照的に、葵は猫耳をぱたんと倒したまま俯き全く動かない。
「恭ちゃんと貴ちゃん、本当に試合するのかな・・・」
「試合って言うより喧嘩ね」
 葵の弱々しい言葉に美樹は容赦のない答えを返した。
「やるわよ。あの二人は。思うところがあって、理由もあって・・・もう止まらないわよ」
 自分に言い聞かせるような言葉が消えるより早く、ギャラリーから歓声がわき起こる。
「稲島だ!稲島貴人が来たぞ!」
「いよいよか!いよいよなのか!」
 喧噪が聞こえないかのごとく貴人は悠然と礼をして練習場に足を踏み入れる。その身を守るのは、白い剣道着。あちこちが補強され使い込まれた物だ。
「・・・決戦着・・・やはり、主将は本気なのだな・・・」
 愛里の呟きに美樹は眉をひそめた。
「決戦着って?」
「主将がここ一番の大舞台で着ることにしている剣道着だ。普段は部の指定品を使っているのだが・・・」
 そして、それを着ているときに貴人が負けたことはない。
 その事実を愛里は自分の胸だけに封じ込めた。
「後は風間だな!」
「つーか、風間はどこだ?」
 口々に騒ぎ立てる観客に構わず貴人は練習場の奥に正座し目を閉じる。
「そういや風間の奴、今日は朝から居なかったらしいぜ?」
「え?でも登校するところ、私見たわよ?」
 美樹達の顔が曇ったのを、観客達は見逃さなかった。
「おい・・・まさか、風間逃げたのか!?」
「ああ、まぁなぁ・・・相手があの稲島貴人じゃなぁ」
「んなわけないでしょ!?」
 耐えきれなくなった美樹は叫び声と共に燃えたぎる視線を観客達に叩き付けた。
「恭一郎は来る!挑戦されてそれを無視できるほどあいつは人間が出来てないっ!」
「・・・天野さん、それは誉めているのか?馬鹿にしているのか?」
 愛里の冷めた声に冷や汗をかきながら美樹はどっかりとその場に座り込んだ。
「ともかく!おとなしくまってなさい!あんたら勝手に見に来てるだけなんだから文句言うな!それと、うちの備品のお茶を勝手に飲むな!」
 威勢良い言葉とは裏腹に、美樹は内心で不安げに呟く。


『恭一郎・・・何やってんのよあんた・・・   天野美樹』


 20分が過ぎた。
 いまだ姿を見せない恭一郎にざわめきは一向に収まらない。
「・・・側室。殿の家に電話は?」
「何度もしたわよ!でも、誰もいなくて・・・!」
 不安げな美樹達をよそに、貴人だけが平然とした顔で正座している。
「やっぱ逃げたんじゃないか?」
「そうだよな。いくらあの風間恭一郎でもなぁ」
 無責任な声が、もはや収まらない。
「帰るか?」
 やがてどこからか沸き出した声と共に興ざめしたムードが広がり、ぞろぞろと観客達が出口へ向かいはじめる。
「ま、待ちなさいよあんたら!」
 美樹は思わず立ち上がっていた。自分が最後に恭一郎にあったという事実、そして自分の言葉が恭一郎を傷つけたのではないかという不安が押しつぶされそうな重圧を生む。
 恭一郎だって、傷つきもすれば悩みもする。迷いもする。
 そんな単純なことを、当たり前のことを自分は忘れてたのではないか?
 恭一郎はなんでも受け止めてくれると思いこんでいたのではないか?
「えっと・・・宮本武蔵を知らないの!?巌流島でわざと遅刻した武蔵を!」
 何とかひねり出した言葉は観客達にさしたる感銘を与えなかったようだ。
「そんなこと言ったってなぁ」
 白けた顔で言い返す観客達の動きが、しかしピタリと止まった。
「?」
 キョトンとする美樹の前で、モーゼの海渡りのように人の波が割れ元の位置に戻っていく。
「いや、別に武蔵を気取ってるって訳でもねぇんだけどよ」
 人の壁が取り払われたそこに、男は既に立っていた。
「ただ・・・時計、持ってねぇんだよ。俺」
 そう言って笑う顔は、いつもの恭一郎の笑顔で。
「恭一郎っ!遅いじゃないのよ!」
 涙目で叫ぶ美樹に苦笑しながら静かに礼をして、風間恭一郎は剣術部練習場へ足を踏み入れる。
「おい、あれ・・・」
 観客から声が漏れた。
 風間恭一郎が制服のまま辻試合に臨むのは誰でも知っている。だが・・・
「け、決戦着?」
 愛里は呆然と呟きながら恭一郎と貴人を見比べる。
 今恭一郎の身を包んでいるのは墨染めの剣道着。あちこちを作り直され、補強され、それでも力強い偉容を失っていない戦うための服。
 そして、貴人のそれと全く同じ剣道着。
「これはね・・・」
 貴人は呟きと共に立ち上がった。
「その昔、葵ちゃんが縫ったものなんだよ。僕と恭一郎が中学生のときにね。僕のは定期的に仕立屋に出してサイズを直して貰っていたけど・・・」
 竹刀をひと振りして貴人は恭一郎を見つめる。
「キョウのは、葵ちゃんの手によるものだね」
「・・・いつのまにかサイズが直ってやがってな。どうも置いた場所にねぇと思ったら」
 苦笑して恭一郎は木刀を貴人に突きつける。
「こいつを使うが、おまえはその竹刀でいいのか?」
「・・・僕の貰った『地』の刀は・・・少々僕には重すぎる。これで十分だよ」
 呟いて貴人は恭一郎へと竹刀を突きつける。
「た、貴ちゃん!恭ちゃん!」
 何かを言いかけた葵を二人は同時に手で制した。
「ごめん、葵ちゃん・・・昨日は馬鹿なことを言ったけど、これは君のせいじゃないから」
「すまねぇな、葵。男ってのは・・・くだらねぇ勝負が大好きなもんなんだ」
「その通りである!」
 突然響きわたった大音声に練習場が震えた。
「本日も絶・好・調!」
 入り口をその巨躯で塞いで学園長、豪龍院醍醐は笑声をあげる。
「この勝負、決着はそれぞれの判断なれど始まりの合図は必要であろう!その任、ワシが引き受ける!」
「引き受けるっつーか、やりてぇんだろ?」
 恭一郎はぐったりと呟いてから顔を引き締めた。
「なら、早速始めようぜタカ」
「・・・準備は、できてるよキョウ」
 声をかわし、二人は静かに構えを取る。
 青眼に、一分の隙もなく貴人の竹刀が。
 脇構えに、ゆっくりと力強く恭一郎の木刀が。
 そして、
「では・・・はじめぇええええええええええっっっっっっっ!」
 怒号とも言える大声と共に二つの剣はひらめいた。
「覇っ!」
「たっ!」
 軽く噛み合い、離れた剣がそれぞれの軌跡で互いの主を狙う。
「疾ぃっ!」
 恭一郎は防御を考えず出来うる限りのスピードで剣を繰り出した。当てるつもりはない。相手に防御を無効化する無拍子がある以上、牽制が唯一の防御になる。
「でも、それは甘いってものだよ!」
 声と共に、貴人の竹刀が消えた。
「っ!」
 反射的にのけぞった恭一郎の喉元を切っ先が通り過ぎる。
「相変わらず、お手本通りの剣閃だっ!」
 のけぞった動きのまま恭一郎の体がスケートのスピンのように回った。
「火車ノ剣ッ!」
 一回転し強烈な勢いで叩き付けられた木刀を貴人は縦に構えた竹刀で受け止める。ギシッと竹がしなるが何とか折れずにすんだようだ。
「岩槌ノ剣ッ!」
 貴人が引くよりも早く今度は握りの柄が打ち込まれた。身をそらしてその一撃をさける。
「雷突ノ剣ッ!」」
 恭一郎の手の中で木刀がくるりと回った。逆手に持ち替えたその切っ先を体制の崩れた貴人へと叩き付ける。だが!
「無双の奥技・・・そのリズムは覚えているんだよ!」
 カンッ!
 恭一郎の木刀は忽然と現れた竹刀に阻まれ大きく狙いを外す。
「ちっ!やっぱ防御にも無拍子を使いやがるのか!」
「基本技の昇華で有る故に僕の無拍子は常に発動しているんだ!」
 声と共に、再度竹刀が消えた。
「!?」
 とっさに左へと身をひねった恭一郎の左脇腹を竹刀の切っ先が痛烈に突き飛ばす。
「くっ・・・」
 床を転がり恭一郎はそのままの勢いで立ち上がった。その瞳が凶暴な光を放つ。
「きょ、恭一郎!」
「恭ちゃん!」
 美樹と葵の悲鳴に耳を貸さず恭一郎は上段に木刀を構え直した。
「浅いぜ貴人。あんなもんで俺を止められるとでも思うのか?」
「君の防御は抜いた・・・次は、意識を断つ」
 対照的に下段に竹刀を持ち、貴人はゆらりと間合いを取る。
「ふざけんじゃねぇぞ貴人!俺が言ってんのはそうじゃねぇ」
 恭一郎はすり足で動く貴人に激情の目を向けた。
「何故今の一撃は俺の左を狙いやがった!俺の右側から、わざわざ回り込んでだ!」
 恭一郎の叫びに愛里は緊張した面もちで頷く。
「確かに・・・常に堅実を旨とする主将らしくもない・・・」
「左?・・・左!」
 何気なく呟いた美樹の脳裏を昨日聞いたばかりの事実が駆けめぐる。
 左側を狙う理由。右側をさける理由。
 恭一郎の、完治しない右腕!
「稲島君・・・」
「俺の剣を、そこまで嘗めやがるか。てめぇは」
 美樹の呟きを圧するように恭一郎は唸る。
「稲島君・・・でも、それは多分逆効果だよ・・・」
 その言葉をなぞるように恭一郎は凶悪な笑みを浮かべた。
「なら、こんなのはどうだ?」
 言葉と同時に、木刀の柄を自らの左手の甲へ激しく打ち付ける。
 鈍い音がした。
「恭ちゃんっ!」
 みるみるうちに腫れあがる肌に葵は思わず悲鳴をあげた。
「ハンデはこんなもんでいいか?」
 手を軽く振って木刀を握り直す恭一郎の声に貴人はきつく口を結ぶ。
「・・・僕は、いまだ君を理解できてなかったみたいだね」
「・・・坊やだからさ」
 恭一郎の呟きと共に貴人が動いた。
「シィッ!」
 無拍子の見えない剣閃を受け流し恭一郎は間合いを取り直す。
「いい切れ味・・・だっ!」
 疾風の如く切り込んだ恭一郎の一撃を貴人は無言で受け止め鍔迫り合いに持ち込む。
「いいぞ!これなら殿の間合いだ!」
 エレンがガッツポーズを取った瞬間。
「よっ・・・と」
 恭一郎は貴人を押し返してからバックステップで大きく後退した。
「おかしいな・・・」
 ふと呟かれた愛里の言葉に美樹は横目で振り返る。
「何が?」
「きょういちろ・・・オホン、風間の動きだ。いつもならもっと蹴りや体当たりを使うんだが」
 それを聞いたエレンははっとして頷いた。
「確かに!先ほどから剣技ばかり・・・」
「例の変な技を警戒してるんじゃない?」
 美樹の答えに愛里は静かに首を振る。
「無拍子を防ぐつもりならむしろ剣の間合いより内側で格闘戦をした方がいい。そういう柔軟性こそが風間の武器なのだが・・・」
 疑問の視線をいくつも浴びて恭一郎は動き出した。
「討っ!」
 何の工夫もないが、ひたすらに早く重い唐竹割りを貴人は易々とかわしてみせる。
「だから、君のリズムはわかっているんだ!何故体術を出さない!」
 カウンターの一閃をこめかみにかすらせて恭一郎は僅かによろめいた。たれてきた血を舌の先で軽く嘗め取る。
「それじゃあ、俺とてめぇの戦いにふさわしくねぇじゃんかよ」
 恭一郎は呟き、木刀を握り直した。
「俺はおまえに剣技で勝つ。俺に勝つための剣をさらに越えて・・・俺は前に進む!てめぇは一人で過去に埋もれていろ!」
「君のリズムは全て掴んで居るんだ!君に剣での勝ち目は・・・無いッ!」
 貴人が動く。忽然とその竹刀が消え、意識の死角を突いたその切っ先が恭一郎へと迫る!
「ああ、覚えただろ?俺のリズムはな!」
 刹那、恭一郎の体が回転した。ダンスのような優雅さで絡み合った木刀が不慣れなパートナーを誘うように竹刀を引き寄せて貴人の体ごとそれを背後へと受け流す。
「何!?」
 予想もしていなかった捌かれ方に貴人の口から声が漏れた。
「ふっ・・・僕のエレガントな技を野人に盗まれるとは遺憾の極み」
 綾小路はそう言って肩を竦める。
「たっ!」
 気合いの声と共に貴人は振り向きざまに横凪の剣閃を放った。だが、その軌道をすり抜けて、滑るように恭一郎は間合いを離した。
「私の・・・縮地だ・・・」
 愛里は知らず両の手を握りしめている自分に気がついた。何故ともわからず胸が熱くなる。
「馬鹿な・・・リズムが・・・違う!?」
「チェストォオオオオオオ!」
 戸惑う貴人に恭一郎は勢いよく跳んだ。鋭い突きを無拍子の防御で受け流そうとするが、タイミングの外れた竹刀が触れるよりも早く木刀は引き戻され二つ目の突きが迫る。
「くっ!」
 身をよじってそれをかわした貴人は本能の警報に促されて地面に倒れ込んだ。髪の毛の何本かを巻き込んで頭上すれすれを三つ目の突きが通過する。
「三段突き・・・殿!このエレン、感涙で前が・・・前が・・・」
 貴人は磨き上げられた床を転がり、なめらかな動きで立ち上がった。
「明らかに君の動きじゃない・・・」
「貴人。てめぇは俺しか見てなかった。だが俺はてめぇを含めてみんなを見ていた・・・それだけの話だ。わかるか?」
 むしろ静かな恭一郎の声を最後まで聞かず貴人は跳んだ。
「だが!技も品切れだろう!?僕に二度同じ技は効かないっ!」
 振り下ろされる竹刀の軌跡が途中で消える。見えない刃を見つけようとする愚を犯さず恭一郎は静かに敵を見据えた。
「そんなだからっ!・・・おまえは坊やなんだ!」
 言葉は一瞬。竹刀が到達するまでは半瞬。そして、それが床を打つのも半瞬。
 その中で、恭一郎の姿は忽然と消えていた。
「な・・・」
 呟いた貴人の背後で恭一郎は静かに口を開く。
「・・・無拍子」
「あああああああぁぁぁぁぁっっっっっ!」
 始めて、貴人が吠えた。
 恭一郎の熱さに少しでも追いつくために・・・技でもなく、力でもなく、意志そのものをぶつけようと。
 何千、何万と繰り返したように、今また貴人は竹刀を握り直した。振り返る動き、竹刀を振りかぶる動き、振り下ろす動きの全てを一つにして芸術的な早さで恭一郎へと後のない太刀を撃ちつける。
 対する恭一郎の動きはむしろ緩やかだ。腰溜めに木刀を構え、眼前に迫った竹刀を見据える。
 一瞬の静止。ほんの僅かな静寂。そして。 
 ・・・・・・・・
「神楽坂無双流絶技ッ!」
 瞬間、風が渦巻いた。
「天照ノ剣ィッ!」
 床に踏み出した足からの衝撃、限界までひねった筋肉に蓄積された力、遠心力、反発力・・・ありとあらゆる力が一本の木刀の、その美しい軌跡に凶暴な威力を与える。
「はぁあああああああっっっっ!」
「だぁあああああああっっっっ!」
 二つの咆哮が交差し・・・
 バチンッ!
 音を立てて砕け散ったのは、貴人の竹刀の方だった。
「・・・・・・」
 アドレナリンの影響でゆっくりと流れる時の中で、貴人は天井へと吹き上げられる竹刀の欠片を弾き飛ばし、天へと突きつけられた木刀がクルリと軌道を変えるのを見た。
 天から地へ。
 その間にある貴人の額へ。
 ゆっくりと迫る木刀を確認して貴人は瞼を閉じた。握りしめていた竹刀の残骸を手放し、その時を待つ。
「まさか、後悔はしまいっ!」
 その絶叫に愛里が息をのんだ。
 エレンが歯を食いしばった。
 綾小路が眉をひそめた。
 みーさんが口を堅く結んだ。
 観客達がどよめき、そして。
 そして美樹は強い視線で恭一郎を見守る、
 全ての人の視線と思いを受け・・・
 恭一郎は修羅の形相で力の限り木刀を振り下ろした。
「きゃああああああああああああ!!!」
 響きわたる悲鳴を断ち切るように剣閃が舞い降りる。

 バキッ・・・!

 音は、鈍く鋭かった。
 それきり静寂に満ちた練習場の中で、誰も動かない。
「でだ・・・これが、俺自身の得意技の・・・」
 恭一郎の低い声がその静寂をゆるゆると破り。
 ・・・貴人は、ゆっくりと目を開けた。
「得意技の、寸止めって訳だ」
 その眼前、紙一枚ほどのすきまをあけて木刀は静止していた。目をおろせば、床板を踏み抜いた恭一郎の足が見える。
 それほどの制動がなければ、全力で振り下ろした刀を止めることなぞ出来はしない。
「お・・・」
 固まっていた観客の誰かが、喉の奥から声を漏らした。
 そして。
「おおおおおおおおおおっっっっっっ!」
 古びた建物を揺るがすように歓声がわき起こった。
「まあ、今回ばかりはエレガントな結末と認めてもよいかもしれないね」
「殿ぉ!エレンは・・・エレンは殿にお仕えできて幸せですうううう!」
「本当に・・・本当に風間が、勝った!」
 傍らではしゃぐ仲間達をよそに美樹は動かなかった。
 恭一郎の顔は、無表情なままこちらを・・・葵を、見つめている。
「・・・決着は、ついたな」
 やがて恭一郎はぽつりと呟いた。
「そうだね・・・結局、君の方が強かったよ・・・僕が出張る必要などなかったか」
 貴人は静かに微笑んで俯く。  
「何言ってんだよおまえは」
 恭一郎の声が喜んでいないことに、貴人はそこではじめて気がついた。不審げに顔を上げると、そこに悲しげな笑みを浮かべた恭一郎の顔がある。
「おまえの、勝ちだ。貴人・・・」
「え・・・?」
 練習場が静まり返った。
「な、何言ってるんだいキョウ!今のは誰が見たって君の勝ちじゃないか!」
「剣ではな。だが、おまえだって聞いてたんだろ!?」
 恭一郎はギリギリと奥歯を食いしばる。
「聞こえただろう!?葵が、悲鳴を上げたんだ!」
「!」
 美樹は反射的に振り返った。視線の先に、自分の口を押さえて崩れ落ちる葵が居る。
「おまえの、勝ちだよ貴人。最初からな・・・」
 呟いて恭一郎は木刀を胴着の帯にねじ込んだ。そのままゆらりゆらりと力無い歩みで練習場を後にする。
「あ・・・あ・・・」
 呆然と口を開け閉めする葵と恭一郎の小さくなる背中を美樹は何度も見比べた。
「っ・・・みーさん!エレン!葵ちゃんをお願い!」
 そして、走り出す。


『何で!?何がどうなってんのよ!   天野美樹』


「止まれ恭一郎っ!」
 教室の前で美樹はようやく恭一郎を見つけた。
「ん?美樹か・・・なんかあったのか?」
「なんかあったのはあんたよ!なんでさっきのがあんたの負けなのかきっちり説明するまであたしは絶対に納得しないわよ!?」
 恭一郎は苦笑する。力無く。
「それか・・・ちょっと待ってろ。着替えるから」
 言い残して教室の中に消えた恭一郎を、美樹は辛抱強く待った。
「よし、待たせたな・・・帰りながら話をしようか」
「・・・いいわよ」
 頷く美樹を連れて恭一郎は歩き始める。
「人間の体ってのはよ、竹刀ならともかく木刀で殴れば骨くらいは簡単に折れる。俺がその気になれば人を殺すなんてたやすいんだよな」
 10分ほども無言で歩き続けてようやく恭一郎はしゃべり始める。
「だが、俺は手加減が出来る。骨が折れる直前で、肉が裂ける手前で衝撃を押しとどめることが出来る。さっきみてぇに寸止めだって出来る」
「知ってるわよ。あたしだってあんたの戦うとこをたくさん見てきたんだから」
 分かり切ったことを言われて美樹は口を尖らした。
「・・・そう、そしておまえよりも・・・俺のやり方を長い間見てきた奴が居る」
 美樹の足が止まった。そこまで言われてようやく美樹も理解したのだ。
「どんな無茶をしてもあいつはわかっていた。どんなギリギリでも俺は必ず自制するって・・・あの日暴走したことがあいつを傷つけたことを理解してから俺は・・・」
 恭一郎は立ち止まらない。ただ淡々と足を進める。
「終わったんだよ。俺が葵の保護者だった時間は・・・俺を疑うことで、あいつは自分の足場を作り上げた。タカの意図は完成されたな」
 美樹は遠い背中を慌てて追いかけた。
「そんなこと!葵ちゃんの思いを無視して!」
「成長痛は、成長しきっちまえば過去に沈む。俺にとっても、葵にとってもな・・・」
 美樹は思わず拳を握りしめる。
「そんなの!あんたらの予想じゃないの!あんたも稲島もなんで勝手に・・・!」
「なぜならな、美樹」
 たどり着いてしまった自宅の門に手をかけて恭一郎は振り返った。
「俺達が、二人とも大馬鹿だからだ」
 そして、力無い笑みとともに去っていく。
「わかってたはいたんだけどなぁ・・・いつかこうなることは。覚悟もできてた。だが」
 ドアノブに手をかけて、恭一郎はしばらく沈黙した。
「だが・・・いざとなると寂しいもんだよな」
 そして、ドアが無情にも閉まる。


『馬鹿!そんなの!何の解決にも・・・この、馬鹿ぁっ!  天野美樹』