美樹は待っていた。
ひょっとしたら姿を見せないんじゃないかと思いながらも、じっと。
「き、北の方・・・おはようございます・・・」
エレンはいつもの公園のいつものベンチに葵の姿を見つけて戸惑いの声を上げた。
昨日、抜け殻のような状態でみーさんに連れて行かれたときには少なくとも数日は学校に現れないだろうと思っていたのだが。
「エレンさん、おはよう。でも・・・もう、北の方っていうのは正しくないと思うよ?」
いつもの笑顔のまま、しかし放たれた言葉は拒否。
だがエレンは内心で安堵していた。彼の崇拝する主君とその奥方の絆は、何の傷も残さず消え去ったというわけではないようだ。
傷は、いつか癒さねばならない。ならば元通りの関係になることで治る傷もあるだろう。
「・・・いいお天気ですね」
何の意味もない言葉を放ちながら、エレンは空を見上げた。
彼女の主君がどんな顔でやってくるかを考えながら。
「おう、今日は早ぇえな」
「あ・・・」
門柱に寄りかかっていた美樹は跳ね上がって振り返った。いつものしぐさ、いつもの表情で風間恭一郎は片手をあげる。
「なあに変な顔してんだおまえは?顔の肉が緩むぞ?」
「緩むか!・・・って、そうじゃなくて、その・・・」
言いよどんだ美樹に眉をひそめて恭一郎はさっさと歩き出した。
「追いてくぞ〜?遅刻すっと後が面倒なんだからよ」
「ちょ、まちなさいって!」
美樹は小走りで恭一郎に追いつきその横顔を盗み見る。
「なんだ?」
「・・・別に」
普段通りに見える。見えるが・・・
「よぉ、おはよう」
公園に足を踏み入れて恭一郎はひょいっと手を挙げる。
「おはようございます、殿」
「おうよ」
律儀なお辞儀を見せるエレンに頷いて恭一郎は葵の前に立った。
「・・・・・・」
穏やかな顔で立ち上がった葵と目を合わせたまま軽く頷きあい。
「おはよう、神楽坂」
「おはようございます。風間君」
挨拶を交わし、そのまま歩き出す。
「・・・え?」
あまりにも自然な動作に、美樹もエレンも言葉の不自然を言い咎める隙を見失ってしまっていた。
「ちょっと!あんたら今の!」
「何やってんだよ。さっきもいったろ?遅刻すんぞ?」
もう公園から足を踏み出し始めている二人を美樹は苛立たしげな顔で追いかける。
「待ちなさいって!・・・って、あれ?あんた・・・」
その美樹の足が止まった。公園の入り口に所在なさげに立っていた少年と目があったからだ。
「ほら、美樹も貴人もさっさと行こうぜ」
恭一郎のせかす声に、しかし二人は動かない。ただエレンのみが先行する二人を追って歩みを進める。
「・・・どういうこと?」
遠ざかる背中を眺めて呟かれた言葉に貴人は首を振った。
「昨晩キョウから電話があったんだ・・・ここに来いって。今日から一緒に登校しろって」
「・・・で?言われるままにここに来たわけ?」
遠慮呵責無く棘を放つ美樹に貴人は目を伏せる。
「わかってるんだよ・・・僕にそんな資格が無いのは。でも・・・」
「ううん、ゴメン。言い過ぎた。あんたは悪くない。稲島君の立場だったら当然だよ。誰もそれを責められない」
貴人の反応で頭が冷えた美樹は一つ深呼吸をして歩き始める。
「で?あの二人を長い間見てきたあんたとしては・・・どうおもう?今の一幕」
「・・・反動だね」
美樹に合わせて歩き出した貴人の簡潔すぎる台詞に美樹は眉をひそめた。
「反動って?」
「葵ちゃんは、恭一郎を裏切ったと思って落ち込んだあげく恭一郎の側にいないことで償おうとしている。逆にキョウは葵ちゃんにとって必要な人間じゃなくなったと思いこんで側に居ちゃいけないと思っている」
美樹は遠く離れてしまった二つの背中を暗澹たる気分で眺める。
「馬鹿みたい!あいつら、お互いのことが大好きなのに・・・!」
「この場合、それだからこそ深刻だよ。ただでさえ障害が多いからね。相手のためにという気持ちが・・・この際は厄介だよ。特に葵ちゃんは君のように突き進めるアッパー系の人じゃないし」
「・・・へえ?そんな生意気な台詞をだすのはその喉?」
美樹は呟きながら貴人の喉元を睨め付けて指をわきわきとうごめかす。
「・・・す、すいません。以後口には気をつけます・・・」
「わかればよろしい。なんてね。まあ否定はしないわよ」
遠い背中に追いつく気にもなれずゆっくりと美樹は歩き続けた。
「二人とも、ほんと馬鹿みたい・・・」
自らの呟いた言葉に、力無い笑みを浮かべる。
「あたしも、か」
そして、恭一郎と葵の様子がおかしいことは、局地的にだがそれ以上の噂となって教室を駆けめぐっている。
「あの・・・姉御」
「む?」
おそるおそるといった様子で話しかけてきた親衛隊の少年にエレンは考え込むのをやめて視線を向けた。
「風間の奴と神楽坂さんはどうしちゃったんすか?」
「・・・気になるのか?おまえ達は殿が嫌いだと思っていたが」
軽い笑みを浮かべるエレンに少年は心外そうに首を振る。
「本気であいつが嫌いな奴なんて居ませんよ。そりゃあ態度でかいし女に節操ないけど・・・いろいろあるけど、いい奴ですから」
エレンは複雑な表情で少年から視線を外した。当の恭一郎は窓の外を眺めたまま動かない。葵もまた、鞄から取り出した本に目を落とし動かない。
「試練の時・・・そうとしか言いようがないな。おまえ達も静かに見守ってやってくれ」
少年は頷き、エレンと共に二人を眺める。
「それしか俺らにゃできませんからね・・・」
隣り合った席に座った二人。
だが、その僅か30cmが・・・果てしない距離のようにエレン達には見えた。
「このようにして、産業的なムーブメントというものは生まれる。私自身はベータ方式に限りなく哀愁を感じるわけでして、トラッキングの微妙さもまた・・・」
教師は鳴り響いたチャイムに首を傾けた。
「では、これまで」
そう言い終わるよりも早く走り出した生徒を見送り、教師もまた教室を出ていく。
「・・・なのに何であんたらは動かないかなー」
美樹は憮然とした顔でのんびりと立ち上がる恭一郎と葵を睨む。
「ああ、すまねぇ」
「ごめんね、美樹さん」
立ち上がった二人の微妙な距離を眺めて、美樹は顔をしかめながら器用にため息をついて見せた。
「まあ、席自体は愛里さんかみーさんがとっといてくれるだろうからいいけどさ・・・」
「だろ?ほれ、早く行こうぜ神楽坂」
「そうだね風間君。エレンさん、行こうか?」
言うだけ行ってさっさと歩き出す二人を美樹とエレンはそれぞれの不安顔で見送る。
「不自然よね」
「不自然だな」
「さてと、今日は・・・うん、牛タン丼にしよっと。葵ちゃんは?って聞くまでもないか。キツネうどんでしょ?」
券売機のボタンを押し掛けた美樹の手を葵はやんわりと止めた。
「ううん。私は、ナメコ蕎麦にするよ」
「え・・・」
目を丸くした美樹の手をすり抜けて葵は券売機のボタンを押し込む。
「ほら美樹さん、次の人のじゃまだよ?」
手を引かれて食券を買う人並みから抜け出てからやっと美樹は口を開くことに成功した。
「ちょ、ちょっと葵ちゃん・・・葵ちゃんがキツネ以外を食べるの、初めてみたわよ」
「そうかな?そんなつもりはないけど」
葵は笑顔のまま首を傾げ、くるりと美樹に背を向ける。
「・・・でも、そうだとしたら・・・変わらなきゃいけないからだよ。きっと」
受け取り口の人混みへと姿を消した葵の背中を眺めて美樹は視線をきつくした。
「・・・変わる事って・・・そんなに大事?」
呟かれた言葉は、喧噪に紛れて届かない。
それが不愉快で美樹はいつもよりも乱暴にその人込みに切り込んでいった。
「む?」
放課後、噂を聞きつけてやって来た愛里が見たものは堅くその扉を閉じた剣術部練習場と、その前にぼーっとした顔で立っているみーさんの姿だった。
「御伽凪さん・・・きょ、ではなくて風間達はまだ来ていないのか?」
「恭一郎達、今日は練習休み。私は中村を待っていた」
思いがけない言葉に愛里は目を丸くする。
「私を?何のために?」
「私たちの失恋のため」
放たれた言葉は更に不可解で。
「何を言っているのだ?私には、あなたの話が見えてこないが・・・」
呟く愛里に歩み寄りみーさんはその手を取った。ひんやりとした感触が伝わる。
「中村、ついてくる。大事話し。ある」
「おい、引っ張るな!そんなに引っ張らずとも話は聞くから!」
学校を出て数分歩いたところにその車は止まっていた。
ここ数年のアウトドアブームによりさほど珍しくもなくなったとはいえ、それなりに目を引く大きなキャンピングカー。その住居部分のドアを開けてみーさんは愛里を手招く。
「入る。わりと遠慮なく」
「お、おじゃまします・・・」
おそるおそる足を踏み入れた車内を見渡して愛里は思わず絶句した。
「・・・御伽凪さん、少し聞いてもいいだろうか?」
「何でも聞く」
ぽんっと胸を叩いたみーさんに口元を引きつらせて愛里は近くにあった黒光りする物体を指さした。
「これは、なんだろうか?」
「M16A突撃ライフル。信頼性がいい感じ」
カチャリと構えて見せるみーさんに愛里はじっとりと汗をかきながら違う物体を指さす。
「こ、こっちはなんだ・・・?」
「クレイモア指向性対人地雷。無線起爆信管も近接信管も使えてベリグー」
愛里は何か大事な物をちょっとずつ削り取られていくような気分で天井からぶら下げてある筒を指さしてみた。
「これはひょっとして・・・」
「無反動砲。後方にウッドチップを同時発射する事で反動を打ち消す携行用対戦車砲。バズーカーと言った方が通り良い。ちなみに、構造上単発」
よどみなく答えるみーさんの態度に、愛里は残る数十の武器についての詳しい説明を聞くのを諦めて核心をつくことに決めた。
「・・・もちろん、本物じゃあるまいな?」
「?・・・もちろん」
みーさんは焦点のあって無い目をきょとんと見開いて首を傾げる。
「もちろん。全部本物」
「ねぇ!銃刀法って知ってる!?」
「うむ、その通りだな。副将殿」
思わず叫んだ言葉に背後から返事をされ、思わず愛里は背負っていた竹刀に手を伸ばしかけた。
「・・・マクライトさん?いつからそこに・・・」
呟く愛里に部屋の片隅に座っていたエレンは苦笑する。
「最初から居ましたよ。気付かなかっただけで・・・それにしても、けしからん」
「そ、そうだな。こんなに大量に・・・」
あたりを見渡して言う愛里にエレンは大きく頷いた。
「うむ。銃ばかりというのが実に不愉快だ。何故日本刀が無いのだ。銃剣すらない」
愛里は常識人を捜す旅に出ようかなどとなかば本気で考えてから何とか気を取り直した。
「・・・で?私を連れてきたのはこれを見せるためというわけでもないだろう?」
「もちろん。葵と恭一郎のこと」
みーさんは音もなくソファーに腰を下ろした。愛里とエレンもそれぞれ適当な椅子に腰を下ろす。
「このままだと。葵、恭一郎、ずっとこのまま」
「・・・殿も葵様も惹かれあっておられる。その気持ちを誤魔化すことなど長くは出来ぬ」
エレンの言葉にみーさんは首を振った。
「二人とも、強い弱い。好き無くす程弱くないけど全て失うことを覚悟できるほど強くない。多分、中途半端なままずっと居る」
「そうか・・・」
愛里は微妙な笑顔で頷いた。先ほど聞いた言葉がようやく理解できたのだ。
「つまり、私も振られないままという訳か・・・虚しいな。それは・・・」
「・・・副主将殿はともかく、みー殿も恭一郎様が?」
エレンの疑問にみーさんは軽く首を傾けた。
「私は、葵の方」
「!?」
「!?」
おののいて遠ざかろうとする二人に、無表情なままでみーさんはパタパタと手を振ってみせる。
「なんていうか、わりと嘘?」
「・・・まともにしゃべれないのかあなたは」
頭を抱える愛里にみーさんはかすかな笑みを浮かべた。
「日本語、難しい。まだ完全には」
「そうじゃなくて・・・ってあなた日本人じゃないのか?」
「人種は、日本人だと思う。違うは、生まれた場所」
みーさんはあっけらかんと頷いて窓の外を見る。
「いろんな国回った。でも、恭一郎は一番いい男。葵は一番かわいい女の子」
「・・・どちらにせよ葵様は外さないのだな・・・」
エレンの呟きを無視してみーさんは言葉を続ける。
「葵は、きっと美樹が何とかする。親友。だから、恭一郎の問題」
「殿は偉大な方だ。我々ごときが手を貸す必要はないのではないか?」
エレンの言葉に愛里は竹刀を所在なくいじりながら目を伏せた。
「我々よりは強いだろうが・・・それでも、一人で何もかも解決できるというわけではない。問題はむしろ、彼が頼る相手が我々でいいのかということだろう。恭一郎なら悩みをぶつける相手くらい居るのではないか?」
俯いたまま放たれた言葉にみーさんはパチリと手を打つ。
「鋭い。確かに、居る。だから私たち、決める必要。きっちり恭一郎に振られなくちゃ気が済まないほどに、どうしようもないほどに恭一郎が好きな人だけ、恭一郎の背中を押す、いい」
みーさんはゆっくりと二人の顔を見渡し、それから最後の台詞を口に出した。
「私たち、その自信ある、いるか?」
夜。
「うーっ・・・」
美樹はベッドの上でのたうち回っていた。風呂上がりにドライヤーをかけただけの髪が顔中にまとわりつくのをうっとおしげに振り払って仰向けに寝ころぶ。
「あー、駄目だ。あたしゃ悩むように出来てない」
呟いて、美樹は視線を窓へと向けた。
その先に風間恭一郎はいるはずだ。おそらくは、葵のことを考えて。
「少なくともあたしのことを考えちゃあいないでしょうね」
その台詞が自虐的な事に美樹は苦笑した。
「あーあ。ほんと、まいったな・・・」
葵は、恭一郎のことが好きなはずだ。それは間違いない。だがそれはどういう好きなのだろうか?
「私・・・恭ちゃんのこと、どう思ってるんだろう・・・」
葵は枕と蒲団に埋もれるようにしてベッドに横たわっていた。
既に明かりは消し、お休みモードに入っているのだが全くの事眠気がやってこない。昨日みーさんに薬で無理矢理寝かされたのが響いているのかもしれない。
「恭ちゃん・・・恭ちゃん・・・恭ちゃん・・・」
呟くほどに、呼ぶごとに、求めるごとに葵の目に涙が溢れる。
「泣かないって決めたのに・・・恭ちゃんに迷惑かけないって・・・」
葵は瞳を強く閉じて嗚咽をこらえようとした。だが、閉じた瞼に浮かぶのはどれもこれも恭一郎で・・・
「私、恭ちゃんのこと好きだよ・・・でも・・・恭ちゃんには、私なんかじゃ・・・」
「俺じゃあ、葵にはつりあわねぇよなぁ」
恭一郎はいつものようにブリーフ一丁でウォーターベッドに身を投げ出して呟いていた。
「四井になりゃあいいのか?格で釣り合ってりゃいいのか?」
激しく首を振る。
「違う。必要なのはそんなんじゃねぇ。だが・・・畜生」
考えるほどに答えは指の隙間を抜けるようにぽろぽろと消えていく。
「どうすれば俺はあいつを助けられるんだよ・・・」
「どうすれば、あたしはあの二人を助けられるんだろ?」
美樹は電気を消しながら呟く。
「あたしは、恭一郎に十分助けて貰ったよ。恩返しくらいは、したいよ」
たとえ、自分の恋心に・・・芽生えたばかりの想いに微塵も気付かれていないとしても。
ベッドに倒れ込み、美樹は手の甲を額に当てる。
「・・・そうか」
美樹は不意に浮かんできた言葉に大きく頷いた。思えば、その言葉は自分が言ったのではなかったか?
「あたしは恭一郎と同じだもんね?無茶をやるのが天野美樹よ!うん!」
空元気でも、無いよりはいい。美樹はぐっと拳を天井に向けて笑ってみる。
ぎこちなくても、笑うことは出来た。
「明日・・・学校は休みだし、恭一郎に直談判してみよう!」
一つ呟いて美樹は眠りの闇へと落ちていった。
そして夜は明けて。
「あれ?」
ベランダから風間邸を見下ろした美樹は思わず呟いた。美樹の知る限り休日は毎朝この時間に素振りをしていたはずの男の姿が、今日に限ってない。
「寝坊?ちがうか。部屋のカーテンあいてたし・・・」
呟いてのぞき込んでいた庭にひょいっと人影が現れた。
「やっほー美樹ちゃん。ぷりてぃ観月ちゃんよ〜ん」
「・・・おはようございます」
脳天気な声に頭を抱えながら取りあえず美樹は挨拶だけする。
「あの、恭一郎居ます?」
おそるおそる問いかけると観月は『うにゅ〜』などと呟きながら頬に手をやる。
「それがね〜なんか朝御飯の用意だけしてどっかに飛び出してっちゃったのよね」
「・・・そうですか」
気落ちした様子の美樹に観月は暖かく、それでいて全てを見透かすような目を向けた。
「天野美樹さん?」
「え?は、はい・・・」
何気ない筈の台詞に抗いがたい力強さを感じて美樹は思わず姿勢を正す。
「うちの息子のこと、好きかなぁ?」
「な、なんですとっ!?」
動転してベランダから落ちかけた美樹を無視して観月は淡々と言葉を紡ぐ。
「ん〜、私はね?高校生んときに担任だった四井民夫っつー男が好きになって、そのままあの子をしこんじゃったのよね」
「は、はぁ・・・」
唐突かつストレートな回想台詞に美樹は赤くなることも出来ず困った顔で呟いた。
「四井が名門の出で、教師やってたのも社会勉強の一端だったってわかったのはその後でねぇ・・・あいつんちから使者とかいう奴がやってきてさ、手術代も慰謝料も言うだけ払うから堕ろせって。ふざけんなって感じよね〜?」
「・・・・・・」
観月の口調は軽い。
「そーいうわけでさ、私はそのお使い野郎をボコボコにして民夫んとこに押し掛けた訳よ。でもあいつは根性無しだったからねぇ・・・家には逆らえないとか何とか。結局あたしは学校を辞めて実家の風間家であの子を産んだの」
だが、その内容は極めて重い。美樹には何故観月がそんなことを話しているのか全くのこと理解できなかった。
「観月さん・・・何でそれをあたしに?」
「ん〜なんでだろね?美樹ちゃんがいい子だからかなぁ?ずるいよね。私」
冗談めかして笑って見せてから観月は美樹よりも更に上を・・・青く晴れ渡った空を見上げる。
「ほとんど意地みたいな感じで産んじゃったけどさ、あいつは本当にいい男に育ったよ。自分の子供じゃなかったら惚れちゃうね、私が真っ先に」
美樹は口を開いたが、言葉が見つからずまた閉じてしまう。
「ま、そう言う事情があったからさ、あの子が好きになったのが神楽坂のお嬢さんだって聞いたときにはらしくもなく心配になっちゃってね・・・私のときみたいにうまくいかないんじゃないかって」
「・・・いきますよ。絶対」
美樹は観月の視線を追うように冬の高い空を見上げた。
「・・・そうだとして、いいの?美樹ちゃんはそれで」
天に風。だけど蒼天の風は常に青くて・・・
「あたしは・・・好きだから」
美樹は大きく手を広げてみた。届かない空を抱きしめるように。
「うん、あたしはみんな大好きだからこのままほっとくわけにゃいかないのよ」
「・・・私も・・・大概残酷よね」
観月の言葉に美樹はにぃっと笑って見せた。指を二本ぴっと伸ばし胸を反らす。
「OK!謝ることないって!なにせあたしは天野美樹なんだから!」
「もしもし・・・え?美樹さん?」
いつもの公園の片隅で恭一郎は木刀を構えていた。
「覇っ!」
力強い気合いと共に二度、三度と宙を薙ぐ。
上から下へ。右から左へ。X字に。L字に。縦横無尽に剣閃がひらめく。
「絶技!月読ノ剣っ!」
最後に円を描くような動きで木刀を疾らせてから恭一郎はぴたっとその動きを止めた。
「・・・中村だろ?出て来いよ」
その剣舞を背後の木陰から覗いていた愛里は不意にかけられたその声にびくっと飛び上がり、少し顔を赤らめながら姿を現した。
「何故私が居るとわかったのだ?」
「なんでだろな・・・まあ、おまえとも散々やりあってるからな」
返事になってるようななってないような答えに愛里は頷き、持参してきた竹刀を袋から取り出す。
「恭一郎・・・一つ手合わせしてはくれないか?」
「・・・いいぜ?」
片眉を上げて恭一郎は頷いた。だらりと自然体になり、悠然と愛里に視線を向ける。
「では・・・行くぞ!」
呼吸を落ち着かせ、愛里は恭一郎に打ちかかった。
「倒っ!」
その一撃を受け流して恭一郎は軽く眉をひそめる。
「ん?なんだ?その小手?」
相変わらず教科書通りの綺麗な剣閃を描く愛里の左腕にオープンフィンガーグローブに木片を縫いつけた略式の小手がはめられているのを見つけたのだ。
「これか?まあ見ていればわかる」
愛里は妙に楽しげな顔で恭一郎と剣を合わす。
「おうよ、じゃあ、見せて貰うか・・・打っ!」
恭一郎は素早く一歩引き、愛里が前に出るのを見計らい額へと一打を放った。
「ここだ!締ッ!」
愛里は鋭い気合いを放ち逆胴へと横凪の剣閃を描く。
右手一本で。
チチッ!
木と木がこすれるかすれた音。
そして振り上げられた左手、そこにはめられた小手に縫い込まれた木板が恭一郎の木刀を横へと受け流した!
「成る程!」
恭一郎は自分の左脇腹を抉るべく迫る竹刀を横目で確認しニヤリと笑った。
「だが!」
回避を捨て、受け流された木刀をそれまで以上の力でもって愛里の左手に押しつける。
「きゃっ!?」
強烈な圧力に姿勢が乱れ、本人にも予想外の可愛らしい声と共に直撃コースだった竹刀が地面を打つ。
「いいぞいいぞ!こいよ中村!今日こそ一本くらいは取れるかもしれねぇぜ!」
恭一郎は満面の笑みと共に愛里に手招きをして構えを取った。
「・・・無論だ!」
愛里もまた青眼に竹刀を構え、笑みを浮かべる。
冬の高い空に、幾重にも剣戟が吸い込まれていった。
「ほい。俺の独断で冷茶だけどいいよな?」
「ああ。問題ない」
恭一郎の投げてよこした缶を受け取って愛里は汗を拭った。
「・・・初めて、恭一郎に竹刀が当たった・・・」
感慨深げに呟く愛里に恭一郎は苦笑して自分の缶を開ける。
「いい感じだぜ。受け流す左手をもっと鍛えねぇと戦略としては完成しないが流れとしてはいいんじゃねぇか?」
散々剣を振って火照った体に冷たいお茶が気持ちいい。この公園のよいところは冬でも冷たい飲み物が自販機にあることだと恭一郎は思う。
「無論、もっと鍛えるぞ。私の取り柄はまめなこと位だからな」
機嫌よさげに缶を傾ける愛里を見て恭一郎はちょっと嗜虐心をそそられた。
「でもよ。おまえの剣、だんだん俺に似てきてるぞ?おまえもようやく俺様の魅力っつーもんが理解できたようだな。俺色に染まったって感じか?」
ムキになって反論してくる愛里を予想して恭一郎は内心で意地悪く笑う。
だが。
「うむ。その通りだな。そして、それを後悔してもいないぞ」
「はっはっは、そんなこと言ったって俺にはわかってる・・・は?」
用意していた台詞を思いっきり空振りして恭一郎はポカンとする。
「主将の剣は堅実で、真っ直ぐで、強い。妥協を許さぬ、排他的な剣。怖いほどに、勝ちを求める剣だ。私も元々はそういう剣を目指していたのだが・・・」
そんな恭一郎に構わず愛里は空を仰いだ。
「だが・・・今の私には、おまえの剣の方が良い。おまえの剣は無茶苦茶だし、武道とは言えん面もある。だが・・・それでも」
ポカンとしている恭一郎に愛里は顔を向けた。知らず、笑みがこぼれる。
「それでも、おまえの方が良い。私には、おまえが良い。おまえの楽しい剣の方が私は好きだ」
「・・・そ、そうか」
何とかそれだけ言って、恭一郎は誤魔化しがてらにお茶を一口飲んだ。
「・・・なんか、今の笑顔・・・」
「ん?」
そっぽを向いて放たれた言葉に今度は愛里が首を傾げる。
「今の笑顔、無茶苦茶可愛かったぞ」
「ばっ!?」
馬鹿者と叫ぼうとして愛里は何とか踏みとどまった。ここに来た理由。昨日みーさん達と話し合った事を思い出したのだ。
「そ、それは、だな」
深呼吸。赤くなった顔を何度も叩いて気を引き締める。
「も、もし私の、その、笑い顔がか、かわ、可愛く見えたのならばだ・・・」
「?」
恭一郎はキョトンと首を傾げて動かない。
「そ、それは、おまえのせいだぞ風間恭一郎・・・」
「・・・は?」
まったく、全然、これっぽっちも理解できていない様子に愛里は頭を抱えた。
「ああ、もう!何故気付かぬのだ貴様はっ!私に出来る限りアプローチしてるのだぞ!?とっとと気付かんと話が進まぬだろうが!」
「な、何だよいきなり!落ち着け!取りあえず落ち着け!」
両手でどうどうとなだめてくる恭一郎に愛里は立ち上がり地団駄を踏む。
「落ち着けるか!逆上でもせぬと恥ずかしくてこんな事は言えん!恭一郎!」
「お、おう」
ちょっと引き気味にこちらを見上げてくる恭一郎に愛里は真っ赤に染まった顔で大きく息を吸い込んだ。
「わ、私は!おまえの事を好いているのだ!ずいぶん前からおまえのことを・・・その、愛していたのだ!なのにおまえは何故にそう何も考えずに私を喜ばす!責任くらい取れ!」
「え・・・は!?」
恭一郎は数十秒かけてようやくその言葉を咀嚼し終えた。
「・・・ギャグ?」
「違うッ!わ、私がこんな事冗談で言えるか!」
愛里は力一杯叫び、ぐんにゃりと脱力してベンチに沈んだ。
「冗談などでは・・・ない・・・」
呟きに、恭一郎は表情を消して空を見上げる。
「・・・すまん」
「いや、いい。恭一郎は神楽坂さんのことで精一杯であっただろうからな」
愛里は微笑み、勇気を振り絞って恭一郎の肩に頭をのせてみた。
「・・・うむ、心地よい」
口の中で呟き愛里は目を閉じる。
「恭一郎。覚えているか?文化祭のしばらく後、映画を見に行ったことがあっただろう?」
「ああ。美樹がドタキャンして代わりにおまえが・・・」
そこまで言って恭一郎ははたと気がついた。
「おまえら、仕組んでやがったな?」
「天野さんの発案だ。私では、とてもそこまで思い切れなかった」
限られた時間、最後のチャンスであることがわかっているからこそ、愛里は早鐘のように高鳴る鼓動を押さえもせず恭一郎に身を寄せ続ける。
「・・・中途半端だが、楽しかった。短かったが、私は確かに女になれた。いや、女であることに気がつくことが出来た」
恭一郎は動けず、代わりに愛里の肩を軽く抱き寄せた。葵と愛里、二人に対する裏切りだとはわかっていたが・・・それが必要な気がしたのだ。
「たしか、『男のような言葉遣いも剣の腕が立つことも含めて君の魅力だ』だったか?・・・劇の台詞とはいえ、あれは嬉しかったぞ・・・私は男のようでも、やはり女だと、あれでようやく思うことが出来た・・・だから・・・」
愛里は目を開いた。そして、間近にある恭一郎の顔を見上げる。
「恭一郎。不義だが、すまん」
「?」
首を傾げた恭一郎の顔に愛里は素早く迫った。その意味に気付かれるよりも早く、唇を重ねる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
1分以上に渡る長いキスを終えて、ようやく愛里は恭一郎から離れた。
「・・・歯が、当たったな」
「・・・ああ」
二人して口を押さえて気まずく微笑む。
「まあ、そのくらいの方が私らしいかもしれん。だが、私の初めての口づけだ。高いぞ」
「そういう事言うかよ。自分からしてきたんだろーが」
苦笑する恭一郎に笑顔を向けて愛里は一つ頷く。
「これで、気持ちの整理はついた。恭一郎・・・行くがいい」
「は?」
唐突な展開に恭一郎は呆然と呟く。
「ここまでしといて言うのもなんだが、今の躊躇いがちのキスで、よくわかった。おまえは、神楽坂さんが・・・葵が好きなのだよ。やはり、葵でなくては駄目なのだ。そうだろう?」
恭一郎は僅かに視線を落とした。だが、それも一瞬ですぐに愛里に真っ直ぐ視線を向ける。
愛里の好きな、力強く輝く瞳で。
「ああ。俺は、葵が好きだ」
「うむ。それがいい。恭一郎には、葵がよい・・・それが似合っている」
微笑んで愛里は恭一郎の手を取った。
「恭一郎。後ずさりなど、らしくもないぞ。恐れず葵に告白するがよい。大丈夫だ。もしも・・・万が一駄目だったとしても、私がいる。私が恭一郎を愛している。だから心配せず葵に打ち明けるがよい」
自分を立ち上がらせて頷く愛里に恭一郎は少し躊躇いを見せる。
「そんなんじゃ、おまえが報われねぇじゃねえか」
「よいのだ。無私の愛も、これはこれでよいぞ?それに・・・」
少し言葉を止め、愛里は恭一郎の真似をニッと笑って恭一郎に左手の小手を見せた。
「私は、おまえを好きになったことで変われたのだ。それは、一生続く。十分だ」
「そうか・・・」
恭一郎は呟いた。これ以上迷うわけにはいかないことに気がついたのだ。
進む道があって、背後から抱きしめてくれる少女が居る。
それは同時に、逃げ道を通せんぼする少女でもあるのだから。
「俺は、行く。葵を待つためにな。あいつは必ず来る・・・それはわかってるんだ」
「うむ、それがよい。おまえは、風間恭一郎なのだからな」
愛里は頷いて恭一郎の手を離した。そして。
「ん・・・」
もう一度素早く唇を重ねる。今度はうまくいった。
「さよならだ。風間恭一郎!」
とんっ・・・と胸を突き飛ばされて恭一郎は軽く後ずさった。そのままの勢いで踵を返し、勢いよく走り出す。
「・・・さよならだ」
その後ろ姿を眺めて愛里は再度呟いてみる。
何も言わず去っていった恭一郎。だが、それで良かったと愛里は頷く。
「もし・・・何か一言でも言われたら・・・我慢できなかったかもしれないからな・・・」
無人になった公園で一人呟く愛里の頬をようやく束縛を離れた涙が伝った。
「わ、私の・・・根性も・・・すてたもんじゃ・・・ないな・・・」
一度我慢するのをやめてしまえばもう涙は止まらない。
「・・・きょういちろう・・・わ、私は・・・」
諦めた愛里は子供のようにただただ泣き続けた。
悲しいだけじゃなく・・・好きな男の役に立てたうれし涙だという事に、せめてもの感謝をしながら。
葵は呟いてからあちこちがへこんだ自転車を近くの木に立てかける。もともとは結構高い自転車なのだが、いまや鍵をかけなくとも誰も持っていこうとはしない。
「み、美樹・・・さん?」
おそるおそるその扉に・・・剣術部練習場の扉に手をかけ、葵はゆっくりとそれを開いた。
「・・・悪いわね。わざわざ呼び出して」
美樹は制服を着ていた。その上着を脱ぎ、リボンを外す。
「え?・・・美樹さん、何を・・・」
「受け取りなさい」
美樹は近づいてきた葵に用意していた物の片方を放った。
「きゃっ!」
葵は短い悲鳴を上げてそれを、竹刀を受け止める。
「え?これって・・・?」
「構えて」
戸惑う葵に構わず美樹は恭一郎のやるように脇構えで竹刀を構える。
「ちょ、美樹さん!?」
「たぁっ!」
あたふたとする葵に美樹は容赦なく竹刀を叩き付けた。
パシィン!
澄んだ音を立てて葵の腕を衝撃が走る。
「構えなさい。じゃないと、もっと痛いわよ」
「み、美樹さん!やめてよ!」
涙ぐんで後ずさる葵に美樹は視線をきつくした。
「あんたも剣術部でしょ!?恭一郎の戦いをずっと見てきたんでしょ!?なんで剣の一つも振れないのよ!」
「だ、だって・・・私は運動神経鈍いし・・・恭ちゃんみたいには・・・」
「ふぅん・・・取りあえず、あの薄気味悪い『風間君』は抜けたわね」
美樹の言葉に葵は思わず口を押さえた。竹刀がカタンと音を立てて床で跳ねる。
「あんたは恭一郎から離れられない。そして恭一郎も同じ。なのに・・・あんたは恭一郎との距離を埋めようともしない!」
美樹の弾劾の激しさと鋭さに葵は思わず首を竦めた。
「だ、だって!恭ちゃんには私よりもお似合いな人がいっぱい居るから・・・」
「ふざけんじゃないわよ!」
言葉と共に美樹は床を竹刀で打ち鳴らした。剣身が折れんばかりの激音に葵はぺたんとその場に崩れ落ちる。
「あんたいい加減にしときなさいよ!?あんたはいつもそうやって怯えて恭一郎の助けを待つだけ!恭一郎に負担ばっかかけてぐちゃぐちゃ悩むだけ!」
「ぁ・・・ぅ・・・」
葵の声から言葉がぽろぽろとこぼれ落ちる。
美樹はともすれば萎えそうな心を無理矢理燃えたぎらせて再び口を開いた。
「戦えないなら恭一郎の前から消えなさいっ!中途半端に側にいないでよ!恭一郎の事が好きな人はいくらでもいるのよ!?例えば・・・!」
例えば。
ここで、自分の名を言えば、目の前で震える少女は本当に恭一郎の側から居なくなるだろう。間違いなく。
人がよすぎる、美樹の大好きな少女はそういう人だ。
でも・・・
(あたしも、人が良いんだか悪いんだか・・・)
美樹は表情に出さず苦笑した。
「愛里さんとかエレンとかいっぱいね!」
そして再び竹刀を振り上げる。
「立ちなさい!そして戦いなさい!あんたは、恭一郎のことを好きな全ての女の子を踏み台にしなきゃいけないんだから!あんたが恭一郎が好きだって事は、他の女の子全てに勝つって事なんだから!」
葵は弱々しい仕草であったが、確かに竹刀を求めて手を伸ばした。
「立ってよ!あんたは恭一郎と一緒にいたんでしょ!?ずっとずっと一緒にいたんでしょ!?あたしなんかより、ずっと前からずっと側にいたんでしょ!?」
泣いちゃいけない。美樹は自分に言い聞かせながら声を振り絞った。
「あんたは恭一郎のことを、何も見てなかったっていうの!?」
「違うよぉっ!」
葵は立ち上がった。おぼつかない手つきで竹刀を青眼に構える。
「・・・そう、それでいいのよ」
美樹は静かに竹刀を構えた。大上段に、後はただ振り下ろすだけの体勢で。
二人の少女は沈黙し、互いの竹刀を堅く握りしめた。
そして。
「ああああああああっっっっ!」
美樹は振りかぶっていた竹刀を落雷のように一直線に葵へと振り下ろした。
「!」
葵はびくっと一瞬だけ震えて。
「か、神楽坂・・・無双流絶技っ!」
自分の中の勇気の象徴を、ずっと側で見てきた恭一郎の剣をなぞるように、握りしめた竹刀を力の限り振り上げる!
そして。
「そう。それでOKよ。葵ちゃん」
美樹は竹刀を跳ね飛ばされて自由になった両手で葵を抱きしめた。
「あ・・・あ・・・」
葵はそのままの体勢で呆然と呟く。
「大丈夫。恭一郎は葵ちゃんと共に居るよ・・・絶対大丈夫だよ。葵ちゃんの好きは、他の誰よりも強くて純粋だから・・・きっと大丈夫」
「え・・・あ・・・美樹さ・・・ん?・・・み、美樹、さぁん・・・!」
葵の顔が涙で歪んだ。しがみつくように自分よりずっと大柄な体に顔を埋める。
「ほんのちょっと勇気を出せば、すぐに手が届くんだよ。葵ちゃんなら簡単だよね?誰よりも勇気有るあいつが、葵ちゃんの中に居るんだから・・・」
美樹は微笑んだ。
「葵ちゃん。変わらないことは、悪い事じゃないよ。変わらなくちゃいけない物があって、否応なく変わっちゃう物があって・・・その中で、かけがえの無い物を守るために時の流れと戦うのは、悪い事じゃないよ。あいつが好きなことを捨てる必要なんてどこにもないんだよ・・・」
「いいのかな・・・私なんかが恭ちゃんを好きでいいのかな・・・」
ようやく顔を上げた葵の涙を拭って美樹はニッと笑ってみせる。
「あたりまえよ。迷い無く剣を振れたんでしょ?・・・だから葵ちゃん。葵ちゃんはいかなくっちゃ。恭一郎のところにいかなくっちゃ。ね?」
「・・・うん」
力強く頷いた葵をもう一度抱きしめて美樹はその背をぽんっと叩いた。
「OK!なら、行ってらっしゃい!」
叩いたその手を離さず、美樹は押し出すようにして葵を出口へと導く。
葵は練習場を飛び出した。振り返らず、真っ直ぐに走っていく。
「頑張ってね。絶対大丈夫だから・・・」
美樹は急に静かになった練習場の真ん中で一人呟き首を振る。
「・・・ほんと、人がいいわ。私も」
そう言って苦笑する美樹の視界に、ふっと少年が一人現れた。
「・・・いいのかい?あれで」
練習場の入り口に立ち、貴人は痛ましげな目で美樹を眺める。
「いいのよ。あんたこそいいの?葵ちゃん取られちゃうわよ?」
「・・・僕はずっと前に振られてるからね」
貴人の記憶の中、いまよりもずっと小さな葵の口から発せられた一言。
『わたし、恭ちゃんのお嫁さんになっちゃった』
小学生の頃の、あどけない笑顔。
「そっか。まあ無理矢理にでも笑うことね。そのうち顔に気分がついてくるわよ。人間、いつまでも落ち込んでられるほど強くないって。これ、プロからのアドバイスね」
その言葉通りにニカッと笑ってみせる美樹に貴人は首を傾げた。
「プロって・・・何のプロなんだい?」
「ん?・・・あたしはね・・・」
美樹は貴人の横をぬけて空を仰いだ。
「あたしは、失恋のプロだから」
笑っていれば。空を仰いでいれば。
涙も、気付かれないですむのだから。
葵は走っていた。
いつものように何度と無く転び、何度と無く起きあがって。
(恭ちゃん!)
絶対に手を貸してはくれなかったけど、立ち上がればいつもそこにいてくれた人が、今は居ない。
そうしてしまったのは自分だ。
でも。
だから。
「恭ちゃん!」
葵はたった一人でも、ひたすら疾走を続ける。
ぼんやりと窓の外を眺めていた恭一郎は人の気配を感じてふと振り返った。
「・・・よお、葵」
ほとんど倒れんばかりに疲労困憊した葵はあがった息を納めようとあえぎながら恭一郎へよろよろと近づく。
「・・・恭ちゃん、ここ、わかりづらいよ・・・」
何とか絞り出された葵の言葉に恭一郎は思いだしたようにあたりを見渡した。
現在恭一郎が使っている物より数回り小さな机、これは今のと同じ大きさの黒板。窓際に置かれたメダカの水槽。
もう10年近く前、葵とはじめて出会った場所に・・・小学校の教室に彼はたたずんでいたのだ。
「あの公園ってのも考えたんだけどよ。ネタがかぶっちまうからな」
「?・・・かぶるって?」
恭一郎は静かに首を振る。
「・・・気にすんな。それにしても・・・改めて見るとちいせえもんだな。小学校の机と椅子ってのはよ」
「そうだね。あのころは大きく見えたんだけどね」
葵は懐かしげな表情で当時自分が使っていた位置の机に座ってみた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
サイズ、ぴったり。
「・・・あれから9年もたっちまったんだなぁ」
何気ない素振りで恭一郎は視線を逸らした。
「そ、そうだね・・・」
ちょっとしょぼんとしながら葵は立ち上がり恭一郎の隣に立つ。
「・・・葵、屋上に行こう」
「え?」
聞き返した葵の手を恭一郎は有無を言わさず握りしめた。
「あっ・・・」
屋上から見た夕日は、ちょうど山並みへかかり始めた最高の光を惜しみなく振りまいている。
「うわぁ・・・綺麗だね〜」
猫耳をピンと伸ばして喜ぶ葵を眺めて恭一郎はパチリと指を鳴らした。
「やっぱさ、高いとこから見ると綺麗だとおもわねぇか?」
「うん。最高だね」
無邪気に頷く葵に恭一郎は人の悪い笑みを浮かべる。
「本当にそう思ってるか?」
「え?もちろん」
首を傾げる葵に恭一郎は笑みのまま次の問いを放った。
「YES・NOで言うと?」
「YESだけど」
言ってから始めて思い出した。そう言えば、ずっと昔・・・こんな流れからとんでもないことになったような・・・
「よし、本人の了承も取れたしな」
「あ、あの〜・・・恭ちゃん?」
思わず後ずさった葵の肩を恭一郎はガシッと掴んだ。
「まあ、いいからいいから」
そして、横抱きにその小柄な体を肩の上に担ぎ上げる。
「あわわわわわ!?」
ジタバタする葵に構わず恭一郎は歩き出した。鼻歌混じりに。
「ど、どこ行くの恭ちゃん!」
「ん?あれだ」
指さす先に、給水塔がある。数メートルの高さを持つタンクと、その頂上に続くメンテ用の梯子が誘うようにそびえ立っていて・・・
「えっと・・・ひょっとしてだけど・・・登るの?」
「登るの☆」
葵はぐったりと恭一郎の肩にもたれかかった。ここまでうれしそうな恭一郎は、止める術がないのはわかっている。
「よっと」
恭一郎は肩に葵を担いだまま器用に給水塔のはしごを登りきった。
「ほい、到着〜」
恭一郎は呟いて肩から葵をおろす。
「はう〜」
直径わずか3メートルの足場にくらくらしながらも葵はあたりを見渡した。
「うむ、高いと気持ちいいな」
「うん!」
真っ赤な光が遮る物無く二人を包む。某豪華客船沈没映画ではないが、宙に浮いているような錯覚さえ覚える。
「・・・なぁ」
しばらく夕日を眺めてから恭一郎は葵を見つめた。
「・・・なに?」
見上げてくる葵に、必要以上に胸が高鳴る。
「ずいぶんと遠回りしちまったって感じだな」
「・・・うん」
見下ろす恭一郎に、いつもよりずっと頬が熱くなる。
「単純なことなんだよな」
呟いて恭一郎は給水塔の縁に立った。
「わ、恭ちゃん危ないよ?」
慌てて腕を掴んでくる葵に構わず恭一郎は大きく息を吸い込んだ。
「恭ちゃん?」
そして。
「雄おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっっっっっっ!」
「きゃ!?」
腹の底からの絶叫に葵は思わずのけぞった。
「葵ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!」
「は、はい!」
思わず直立不動になった葵の見守る中、恭一郎は僅かな息継ぎだけ挟んで空へと両の拳を突き上げた。
「好きだぁああああああああああああっっっ!」
「!?」
葵は目を丸くして恭一郎を見つめる。
「他は何も関係ねぇっ!俺はおまえが好きだああああああああっっっ!」
酸欠寸前まで叫び、噛みきるように叫びを止める。
轟音が去ると、耳が痛いほどの沈黙が二人を包みこんだ。
「えっと」
葵は赤い顔で呟いてその沈黙を打ち破るべく大きく息を吸い込む。
「恭ちゃぁあああああああああああああん!」
肺活量の許す限り叫んで息継ぎを・・・
「はぅぅ?」
しようとして、葵はめまいを起こしてつんのめった。
「あれ?」
思わず踏み出した足の先に、床がない。ついでに言えば柵もない、あるのは空気と数十メートル下の地面だけ。
「何やってんだ葵・・・む!?」
慌てて恭一郎は葵を抱きかかえた。が、彼は忘れていたのだ。自分もまた、数秒前に酸欠寸前まで叫んでいたことを。
「ぬおっ!?」
めまいを起こした恭一郎も一緒にバランスを崩して宙に身を投げ出す。気持ちの良い浮遊感。そして。
「きゃあああああああ!」
「恭一郎!」
「殿!」
「あー」
何故か、悲鳴は多数あがった。
「ぬぅっ!」
恭一郎は呻きながら素早く片手を伸ばす。
ギリギリのところではじっこに手が届いた。恭一郎は左手で葵を抱いたまま右手一本でぶら下がり一息つく。
「いやあ、スリル満点だな・・・」
「あう〜、ごめんね恭ちゃん」
猫耳をペタンと倒して葵はすまなさそうな顔をした。
「あそこに登ったのは俺だぜ?気にすんなよ・・・それより、だ」
恭一郎は半眼に細めた目を真下、地上へと向けた。
「・・・あそこで、こっちを見上げてる連中はいったいなんなんだ」
「ふぇ?」
呟いて葵は自分も下へと視線を向けた。
「あ・・・」
真下の校庭からこっちを見上げている美樹達へと。
「・・・葵・・・おまえ、尾行されてたみてぇだな・・・多分みーの奴あたりに」
「それはそれでまずいけどそうじゃないだろう!?今慌てるべきなのは!」
のんきに呟く美樹の首を愛里が締め上げる。
「大丈夫だ副主将殿。殿は偉大なお方だ。きっと空くらいは飛べるはず!」
「うん、わりとびゅーんって」
みーさんはカクカクと頷き、思い出したように持っていた集音機をかたずけた。こっそりと聞いている必要も、無いようだし。
「あー、気にしないで〜!どうぞ続きを〜!」
怒声に返ってきた美樹の言葉に恭一郎はため息をついた。頭の一つも抱えたいが、あいにくと両腕はふさがっている。
「うん、ちょうどいいかも」
「ん?何がだ?」
一人うんうんと頷いている葵に恭一郎は首を傾げた。
「あのねーーーーーー!」
「うぉ!?」
返事は、いきなりの大声。
「私ぃっ!神楽坂葵はぁっ!」
息を吸い直し、小さな胸に詰まった少しの空気とその数万倍の想いを全力で宙に解き放つ。
「恭ちゃんが、大好きですっっっっっっっっっっっっ!」
そして。
「だからっ!いつでも挑戦受け付けますっっっっ!私より恭ちゃんが好きだと思ってる人はいつでも言ってきてくださいぃぃぃぃぃっ!私、絶対にっまけませんからぁっ!」
「・・・は?」
エコーが、校舎をはね回る。
やがてそれも消え地上にも、ぶら下がっている二人にも沈黙が訪れた。
ポカンとこちらを見上げている少女達にも。
「・・・おい」
恭一郎は手短に突っ込んでから遠い目になった。夕日が赤い。
「えへへ・・・言っちゃった・・・」
身をよじって照れる葵は可愛いのだが・・・
「美樹じゃねぇんだから・・・そんな漢らしい・・・」
「ふふ・・・このままじゃフェアじゃないから」
微笑んだ葵の顔には全く邪気が無く、いつものように恭一郎はまあいいかという気分にみまわれる。
何がどうあれ、葵が笑っていさえくれれば恭一郎は幸せなのだから。
「はぁ、天国なのか地獄なのか・・・」
ぶつぶつ言っている恭一郎の胸に頬を寄せて葵はふと思い出した言葉を口にした。
「えっと・・・ウィス・ダルファム・ディ・アモン・・・だったかなぁ」
「!?」
言葉の不意打ちに恭一郎の手がつるっと滑る。
「あ」
「え?」
無慈悲なことに、重力は依然として存在していた。
「きゃぁああああああああ!?」
「うぉおおおおおおおおお!?」
落下の浮遊感に二人は堅く抱き合い、ただひたすらに落下する。
何か柔らかい物にその身を包まれたようだ。
「・・・こんなことあるおもって、携帯エアクッション?」
みーさんはとっさに広げた巨大なクッションとそこに埋まって硬直している二人へと、ぶいっと指をつきだしてみせる。
「ま、取りあえず怪我もなさそうね。じゃ、そろそろ帰ろっか」
「うむ、流石は殿だ」
パンッと手を打ち鳴らしていち早く歩き出した美樹の後をエレンが追う。
「恭一郎、エアクッション。自然に溶ける。心配しない」
「・・・だから、何でそんな物を携帯してるのだ?」
パタパタと手を振って去っていくみーさんと共に愛里も歩いていく。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
そして、憮然とした表情でエアクッションに沈む恭一郎とポカンとした顔のままでその恭一郎に身を任す葵だけがそこに残された。
吹き抜ける風が、寒い。
「え、えっと・・・どうしたの?恭ちゃん」
ようやく驚きが冷めた葵がおそるおそる尋ねると、恭一郎は葵を抱きしめたまま自由な右手で頭をかいてみせた。
「葵・・・おまえ、さっきの台詞の意味知ってんのか?」
「え?痛みを二人で分かち合うっていう誓いの言葉でしょ?恭ちゃんも知ってるの?」
きょとんとした葵の言葉に恭一郎は顔をしかめる。
「・・・まあ、大筋では間違ってねぇけど」
「?」
全く分かっていない様子の葵に恭一郎は苦笑した。
「みーの奴に聞いたんだろ?それ。正確に訳すとだな、”私の初めての血をあなたに捧げます”って意味なんだよ。男側はそれを聞いて一生面倒見るぞと答えるっていう・・・」
「初めての血?」
首を傾げる葵の耳元に恭一郎は口を寄せた。
「つまりだな・・・」
「え?・・・え!?・・・えええっ!?」
見る見るうちに葵の顔が赤くなる。
「いやあ、大胆だな葵・・・」
「いや、あの、その、私知らなくって、あ、でも恭ちゃんならいいかなってそうじゃなくって・・・あのその、ええと・・・」
大混乱状態の葵の頭を恭一郎はぽんっと叩いた。
「・・・一生面倒見るぞ。葵・・・俺のサポートは任せるからな」
言葉と共に恭一郎はかすめるように葵の唇に触れて立ち上がる。
「あ・・・」
恭一郎の唇の感触に脱力した葵はエアマットに沈んだまま動けない。
「ほら、行くぞ葵!」
いいながら歩き出した恭一郎はむしろ葵よりも照れてるかもしれなくて。
「待ってよ恭ちゃん!」
思わず笑みを浮かべて葵は早足で歩いていく恭一郎に追いつくべく小走りにその背中を追いかける。
相変わらずの光景、相変わらずの関係。
ずっと前から約束されていた安息の場所へと葵は走る。
「そうだよね」
葵はようやく追いついた恭一郎の背中を見つめて微笑んだ。
「私、ずっと前から・・・恭ちゃんのお嫁さんだもんね!」
そして、葵は恭一郎と手を繋ぐべく最後の一歩を大きく踏み出し・・・
Dive to Heaven
END・・・・・・ or START?