ダンボールにして4つ。生まれと今までの生活を考えれば少なすぎる荷物だと自分でも思う。
 そして、だからこそこれでいいのだとも。
「しっかし、ほんとにこれで生活できるのかよ」
 恭一郎はその4つ目のダンボールを床におろしながら呆れたように首をひねる。
「家具はテーブルとベッドがあれば十分だよ。僕は基本的にコーヒーと音楽があれば生きていける人種だしね」
 稲島貴人はそう言って床に転がったダンボールをぺりぺりと開封していった。
「服のたぐいは制服と部屋着が数着あればそれで事足りるし・・・調理具は中華鍋に包丁、まな板。お茶の道具も持ってきたし十分だよ。これで」
「でも貴ちゃん。よくおじさま達が許してくれたね?」
 葵の問いに貴人は曖昧に笑って答えない。実際には許されたわけではないのだ。荷物が少ないのも、半ば以上家の方からの嫌がらせといえる。
「まあ、いざとなったら恭一郎のトコかあたしんトコにでも泊まりにくればいいわけだしね。問題ないっしょ」
「うん。ありがとう」
 べしべしと背中を叩いてくる美樹に貴人は苦笑を向けた。こういうスキンシップはうれしいのだが、どうにも彼女は力が強くて困る。
「みんなも、ありがとう。無理言って手伝わせちゃってごめん」
「気にすんなよ。何でいきなり引っ越しなんかしたのかは知らねえがおまえのことだ。なんか理由があったんだろ?」
 恭一郎はそういって笑い、腕時計に目を落とした。
「いけね。夕飯作んなきゃなんねーから俺はもう帰るぜ」
「あ、あたしもだ。締め切り近いから人数多いのよ」
 二人に頷き、貴人は葵の方に顔を向けた。
「葵ちゃんも今日はありがとう。助かったよ」
「あはは、私はただ居ただけだよ。荷物は恭ちゃんと美樹さんが持ってたんだし」
 葵はぱたぱたと手を振って恭一郎の後を追い、三人はあわただしく出ていった。途端にあまり広くもないワンルームマンションにシンと静けさが満ちる。
「さて・・・と」
 貴人は荷物の中からCDラジカセを取り出し、コンセントを探して電源を入れた。静かなクラッシックが流れ出すのに一つ頷きダンボールの中身を一つ一つ出していく。
「6時半か。ちょっと早いけど夕飯にしようかな」
 呟き、貴人はいそいそとエプロンを身につけた。妙に似合う。
 冷蔵庫がないことに気がつきしばらく考えてから、貴人は夕食を作り始めた。
 まあ、しばらくは蕎麦だけでも暮らしてはいけるだろう。


 夕食を食べ、使ったドンブリを洗い終えるともうやることがなかった。ベッドに腰掛けて持ってきたCDをぼーっと眺める。
 幼い頃から仕込まれたクラッシック。恭一郎から覚えた洋楽、葵から勧められたジャズ。そして美樹に選んでもらった歌謡曲多数。4つしかないダンボールの1つをまるまる使い切るCDの小山。
 趣味と称すならこれが唯一、稲島貴人の趣味。ただ・・・暇つぶしには、少々適さない趣味でもある。
「キーボードくらいは持ってくればよかったかなぁ」
 とりあえず数枚選んでラジカセの隣に置き、貴人はぐるぐると部屋の中を歩き回った。
 窓・・・向かいのカラオケボックスがうるさいのでカーテンを閉める。
 風呂場・・・湯を張り始めたばかりだからまだ入れない。
 トイレ・・・さっき行ったばかりだ。
 電話線のジャック・・・電話?
「そういえばまだつないでないね」
 呟いてダンボールをあさり、貴人は以前使っていた電話機を取り出した。コードレス、留守録機能付きのそれは愛用の品なのだ。
 電話端子とコードの規格があってるのを確認し、貴人はコードをえいっと差し込む。
 途端。
 ぴりるりるりるりら〜
 呼び出し音が狭い部屋に鳴り響いた。
「おかしいな。電話番号、まだ誰にも教えてないんだけど・・・」
「あ、繋がった!せ、先輩っ!お久しぶりです!」
 呟き受話器を取ると、元気の良さそうな少女の声が貴人の鼓膜をぴりぴりと揺らす。
「・・・はい?」
 聞き覚えのない声におもわず漏らした声に電話の向こうは息をのんだようだ。
「あ、あれ?先輩じゃ・・・ない?」
「多分、違うと思いますよ」
 沈黙が満ちる。
「・・・えっと・・・高橋陽平さんのお宅では・・・」
「いえ、違います」
 きっぱりとした否定にさらに沈黙。
「あ、あははは・・・すいません!間違えたみたいです!」
「いえいえ、気にしないでください」
 電話の少女はもう一度謝ってから電話を切った。ツーツーという音を聞きながら貴人は軽く苦笑する。
「しょっぱなから間違い電話か・・・」
 そう言って受話器を置いた瞬間。
 ぴりるりるりるりら〜
「・・・・・・」
 貴人はくいっと首を傾げて受話器を取った。
「もしもし」
「もしもしっ!先輩ですかっ!?お久しぶりですっ!」
 さっきと変わらぬテンションの高い声に貴人は思わず吹き出してしまった。
「あ、あれ?ち、違うんですか?」
「そうですよ。すいませんがさっきと同じ男です」
 電話の向こうは硬直している。
「えっと、何番にかけました?」
「あ、はい・・・」
 ちょっと慌てた様子で告げられた番号は間違いなく貴人が引っ越してきたこの部屋の番号だ。
「うーん・・・実は僕、今日この部屋に引っ越してきたばっかりなんですよ。あなたがかけた相手は、どうも引っ越したみたいですね」
「え?」
 少女の声がこわばる。
「ですから、その先輩って人は・・・」
「あ、いえ、それは理解できました、できたんですけど、その・・・」
 語尾がもにゅもにゅと濁るのを聞いて貴人もようやくに理解した。
「えっと、連絡し忘れただけかもしれませんよ。後は、その・・・いつも会ってるから教えたものと思ってるとか、いつも携帯で連絡とってるから気づかなかったとか・・・」
 思わずそう言ってから思い出した。彼女の第一声は、
『お久しぶりです!』
 だった。
「ええと・・・その・・・」
 気まずく口ごもりながら貴人は一人落ち込む。
 きっと恭一郎なら、こういう時に無神経なことを言ったりしないだろうに。
「あはは・・・すいません、大丈夫ですよ」
 意外なことにそれを聞いて少女の声は明るさを取り戻した。
「実はですね、私って今入院してるんですよ。ちょぉっと車とぶつかっちゃって・・・怪我自体は大したことないんですけどちょっとゴタゴタしてたんで先輩とも連絡とれなかったんですよ」
「ああ、それで電話番号が変わったってのが連絡できなかった、と」
「多分ですけどね〜」
 少女の楽しげな声に急に興味がわいてきた 貴人は意味もなく電話を持つ手を右から左に変える。
「ところで、その先輩というのは・・・」
「はい!彼氏ですよ。そりゃもう、すっごくかっこいいひとなんだよ?じゃなかった、なんですよ?」
 どうやら、敬語にはあまりなれていないらしい。
「別に敬語じゃなくてもいいですよ。喋りやすいように喋ってください」
「あ、さんきゅ!あたしってどうも丁寧に喋るのって苦手なのよ。君も敬語じゃなくていいよ?声聞いた感じじゃ同い年くらいだろうし」
 そのしゃべり方、その暖かさに貴人は思わず息をのんだ。
「どしたの?あ・・・実は全然同い年ライクじゃなかった?」
「い、いえ・・・僕は17歳です。多分同じ年ぐらいだと思いますよ・・・」
 少女の声の持つ空気は、天野美樹のそれと、よく似ている。
「あ、やっぱり?あたしも17。もうなんていうか、ぴっちぴっちの高校二年生っ!だから、敬語なんてダ〜メダ〜メ!」
「ははは・・・わかりました・・・じゃないね。わかったよ」
「ん。それでOK」
 例えるならば、機嫌の良い猫。そんな笑顔が目に浮かぶ。
「そういやさ、まだ君の名前聞いてなかったね」
「僕?僕は稲島貴人。稲の島に貴族の人」
「あ、かっこいー名前。あたしは山野四季。字はそのまんま山の四季。ふざけた名前でしょ?」
 確かに冗談としか思えない名前だ。だがその語感は貴人にとって特別な意味を持つ。
「いい名前だよ。とてもいい名前だと思う」
「そかな?えへへ・・・そう言われるとちと照れる」
 貴人はうれしそうなその声に笑みを浮かべてから、ふと首を傾げた。
「どしたの?」
「いや、お風呂にお湯を張ってたんだけどどうもあふれてるらしい。止めてくるよ」
 受話器を片手に立ち上がった貴人を四季は制止した。
「あ、じゃあもう切るね。考えてみればこれ、間違い電話なわけだし」
「・・・君のかけた電話番号に繋がったわけだからあながち間違いとも言い切れないけどね」
「あはは、そういえばそだね〜」
 名残惜しさで放った何気ない一言はどうやら彼女の気に入ったらしい。声が踊る。
「うん、あのさ貴人君。君さえよければなんだけど・・・また、電話していいかな?」
「え・・・?」
 貴人はきょとんと聞き返した。
「入院生活って暇なのよ。明日もこの時間・・・あいてるかな?」
「もちろん。歓迎するよ」
 即答した貴人にうれしそうな『またね』を残し電話は切れた。
「山野・・・四季さん、か・・・」
 呟いて貴人は慌てて立ち上がる。
 その日の風呂は、つかるとお湯が大量にこぼれた。


 ぴりるりるりるりら〜
 コーヒーのカップを片手に電話機を眺めていた貴人は着信音を聞いて素早く受話器を取った。
「もしもし?」
「もしもし、先輩ですか!?なんちて〜」
 聞こえてきた元気の良い声に思わず笑みが漏れる。
「山野さん。元気そうでなによりだね」
「あっはっは、体はあんまり元気じゃないんだけどねー」
 まあ、元気ならば入院などしないだろう。
「そういえば、その先輩って言うのは高校の先輩なのかな?」
「ううん、バイトの先輩。大学生だよ。虎ヶ崎産業大学っていうトコに通ってるの」
 龍実大と比べるとだいぶ評判の悪い大学だなとちらりと思ったが、失礼になるので口にするのはよしておいた。
「良かったらどんな人か聞かせてくれないかな?ちょっと興味があるんだ」
「う〜ん、なんか凄くのろけちゃいそうだけどいい?」
 嬉しそうな声は確認と言うよりも枕詞なのだろう。ここでやめさせたらものすごい勢いですねそうな気がする。
「かまわないよ。聞かせてくれる?」
 貴人に促されて四季はうきうきとした声でその男の事を話し始めた。バイト先のコンビニでレジが故障した時に助けてもらったこと。
 それが縁で同じシフトを入れることが多くなったこと。
 初めて一緒に遊びに行ったときのこと。
「ありゃ。もう1時越えてるよ。あたしはともかく貴人君は寝ないと学校が大変ね」
 話が一段落ついたときには既に日付が変わっているほど、四季の話は楽しかった。無論、稲島貴人という人間がこの手ののろけ話を聞き慣れているからと言うのもあるが。
「そうだね。朝練もあるし・・・」
「あれ?貴人君、部活やってるんだ」
 意外そうな声に苦笑する。
「一応剣道をやってるんだよ」
「剣道・・・あれ?貴人君、名字は確か・・」
「稲島だけど?」
 突然の沈黙に貴人は首を傾げた。瞬間。
「うっそぉぉぉぉぉっっ!」
 いきなりの叫び声が貴人の鼓膜を痛烈に張り飛ばす。
「剣道の稲島貴人って、あの全国大会二連覇の!?紫電突きの稲島!?」
「いや、紫電突きってなに?」
「県大会全試合を一分以内に決めたんでしょ!?結構有名だよ!?」
 本人の自覚はないのだが、アンダーグラウンドでしか名の知れていない恭一郎よりも一般的には貴人の方が有名なのだ。
「そうなの?」
 そうなのだ。
「あ、あたし、結構剣道とか柔道とか好きなのよ。月刊剣道で顔写真みたことあるよ?貴人君、目が糸みたいだからよく覚えてるの」
「・・・それは光栄だね」
「あ・・・あはは・・・ごめん、かっこよかったから覚えてたに訂正・・・」
 返事が一瞬遅れたのに気づき、四季は乾いた笑い声をあげる。
「いいよ。それより、明日も・・・」
「うん。貴人君が良かったら電話、させてもらいたいな」
 

 そして翌日。
「中村君」
 朝練の乱取りの途中、貴人は副主将の中村愛里に声をかけた。
「なんでしょう?」
 対峙し、竹刀の先でお互いを牽制しながら愛里が答える。
「僕のあだ名って有名なのかな?」
「あだなと言いますと・・・『紫電突き』とか『飛燕剣』とかの事ですか?」
 言って愛里はすっと間合いを詰めた。同時に小手からのすりあげ面が貴人を襲う。
「そう。恭一郎の『たこ殴り』とか『破壊王』とかは結構有名だと思ってたんだけど」
 貴人は鋭いコンビネーションをすり抜けるようにかわし、空いた胴へと流れるような一撃を放った。
「主将の方が全国区ですよ・・・と、しかしそれがどうしたのですか?」
「いや、ちょっと気になってね」
 平部員なら一撃で打ち倒されかねない剣戟を交わしながら貴人と愛里は涼しい顔で会話を続ける。
「・・・女がらみですね?主将」
「ぶっ!?」
 鋭い一撃より、むしろその一言で貴人はよろめいた。
「たぁあっ!」
 その隙を逃さず愛里は縮地からの突きを繰り出す。貴人はすっと目を細め(元から細いが)その剣閃を見つめた。
「!?」
 愛里の脳裏に警告が走る。それに従い、貴人に当たりかけていた竹刀で引き戻して頭上をガードすると見えない面打ちがギリギリで竹刀に当たって止まる。
 稲島貴人の必殺技、無拍子だ。
「くっ・・・」
 つばぜり合いに映った瞬間、今度は貴人がにっこり微笑む。
「そういえば中村君、キョウに告白したって本当かな?」
「な、なにょ・・・なにを言ってらっしゃるのです!?」
 愛里が思わず力を抜いてしまった瞬間。
 ぱんっ・・・
 きれいな音を立てて貴人の面打ちが愛里に決まっていた。
「うん、間違いなく一本だね」
 さわやかに微笑む貴人に愛里はその場にへたりこみ上目遣いに貴人を睨む。ちなみに、最近の愛里は怒った顔がかわいいとは剣道部内ファンクラブにおけるもっぱらの評判である。
「主将っ!どどどどどこの誰から聞いたんですかっ!」
「ん?適当に言ってみただけだよ?あれ、本当に告白したの?」
 その後数日の間、愛里は口を利いてくれなかった。


 ぴりるりるりるりら〜
 今日も今日とて貴人と四季は電話越しに話し込んでいた。
「そういえば貴人君の家って確かお金持ちだよね?記事に書いてあったんだけど」
「まあ・・・そうだね」
 嘘をついてもしょうがないので正直に答えると、首を傾げたような気配が伝わってくる。
「あたし、先輩の部屋って行ったことがないんだけどたしかごく普通のワンルームマンションだって聞いたよ?」
「ごく普通なんじゃないかな。マンションの向かい側がカラオケ屋でちょっとうるさいけど」
 貴人の答えに四季はうむむと唸る。
「なんでお金持ちの貴人君がそんなところで暮らしてるの?」
「そうだね・・・」
 曖昧にごまかした方がいいと思いつつ、貴人の口は自然と本当のことを語り始めていた。
「好きな人がね、居たんだよ」
「はい?」
 きょとんとした声に苦笑しながら貴人は目を閉じる。
「小さい頃からずっと一緒だった・・・いわゆる幼なじみっていうやつだね。彼女とは家ぐるみのつきあいだったし、ちょっと人見知りをする子だったんで僕以外に親しい友人も居なくてね」
 今となっては想像すらできない、おびえた瞳の少女を思い出す。そう・・・彼女はよく貴人の部屋で泣いていた。
 そして、貴人には一度たりとも彼女を泣きやませることができなかったのだ。
「守ってあげなくちゃとずっと思ってたんだ・・・それがいつの間にか、ね。でも結局彼女を守ってきたのも彼女を癒したのも僕じゃなかった」
「・・・・・・」
 四季は、黙っている。
「彼女は結局、彼女にもっともふさわしい男と結ばれた。今、彼女はとても幸せそうだ」
「・・・その、男の人っていうのは?」
 控えめな声に貴人は笑みを浮かべる。
「僕の、親友だよ。最高の、親友」
 脳裏に浮かぶ背中。木刀を片手に、揺るぎ無く遠くを見つめる少年。
「強い奴なんだ・・・剣もだけど、その生き方が・・・僕がためらうことやできないと思ってしまうことを平気な顔でやってのける」
 決して、完全ではない。でも、それを自覚した上で乗り越えようとする。
「僕も強くなりたいんだ。親元を離れただけで強くなれるとは思えないけど、少しでも変わらなくちゃと・・・思う」
 そして語らぬ、もう一つの思い。
 ひょっとしたら、恭一郎よりも強いかも知れない少女。
 今、貴人の心の多くの部分を占めつつある、少女。
「強くならなくちゃ・・・僕は、いつまでも誰も、好きにはなれない」
「・・・・・・」
 四季の沈黙に、ようやく貴人は我に返った。
「あ・・・えっと・・・ごめん、つまらない話をしちゃって・・・」
「・・・ううん。ちょっと感動しちゃった・・・」
 四季はぽつりぽつりと呟く。
「あたし・・・あたしも、弱いから・・・本当は先輩から連絡がないのが不安で、それを誤魔化すために貴人君と喋ってる・・・それなのに貴人君は真剣に・・・」
 貴人は目を開けた。ちょっと前まで四季の恋人が住んでいたというこの部屋。
「あたし、多分捨てられちゃったんだと思う。そういう噂、ある人だったから・・・そんなこと無いって自分に言い聞かせてたんだけど・・・」
「山野さん・・・大丈夫だよ。そんなことないよきっと」
 まただ。また、自分は口先だけの慰めをしようとしている。
 貴人は強く受話器を握りしめた。
 彼女の推測は・・・おそらく正しいだろう。この話題を突き詰めれば、きっと悲しい話になる。彼女を傷つけるだけの話に。
 でも、このまま曖昧にさせておいてはいけない気がする。
 それは・・・弱さだから。稲島貴人が捨てたいと思っている心の弱さだから。
「そう、大丈夫。僕が・・・聞いてくるよ。連絡先」
「え?」
 四季の声が固まる。
「ちょうど明日は土曜で学校休みだしね。なんとかしてその彼氏・・・高橋さんだっけ?その人を捜し出して、君に連絡するように言ってくる」
「で、でも・・・貴人君・・・」
 貴人はからからになった唇を軽く嘗めて首を振った。
「迷惑ならやめるよ。でも・・・やらせてほしいんだ」
 それに続く沈黙は長かった。
 でも。
「・・・うん。お願い・・・貴人君・・・」
 その声は、はっきりと貴人に届いた。


 翌日の朝、貴人は管理人室のドアを叩いていた。
「すいません」
「はい?」
 初老の管理人は眠そうな顔で小窓から顔を出す。
「402の高橋さん、引っ越したんですか?」
「ちょっと待ってくださいね・・・」
 足下から取り出したファイルをぺらぺらとめくってはいと頷いた。
「2週間前に引っ越してますね」
「やっぱり・・・バイト先にも顔出さなくなったんで心配してたんですよ」
 口先からよどみなく飛び出す嘘に貴人は内心で苦笑する。普段は気にしている線目も、表情を悟らせないと言う目的なら役に立つ。
「すいませんが、どこに引っ越したかわかりますか?」
「・・・失礼ですがね、あなた高橋さんとのご関係は?」
 管理人の疑いのまなざしに貴人はさわやかな笑みを返した。
「友人です。といっても、向こうがそう思ってくれてるかは別ですが。同じコンビニで働いてたんですけどいきなり彼がこなくなっちゃったもので・・・給料のこととかあって店長からも連絡先を聞いてこいって言われてるんです」
 管理人はほうほうと頷く。
「間違っても悪用しようとか思ってませんから・・・どうか教えてもらえないでしょうか?」
「・・・わかりました。くれぐれも変なことには使わないでくださいね」
 貴人はすまなそうな顔で頷いて見せた。
 もちろん、変なことに使うのだから。


 聞きだした住所にたっていたマンションの前で張り込むこと数時間。さすがに馬鹿馬鹿しくなってきた頃にその男、高橋陽平は姿を現した。
「・・・来た」
 呟いてから、貴人はちょっと困り頭をかいた。
 まさかストレートに事情をはなす訳にもいかないし、さてさてどうしたものか。
「とりあえず、尾けてみようかな」
 小さく呟き、自転車置き場の中から姿を現す。はっきり言って怪しいが意識の死角を突くという特技が意外なところで役に立った。
「ん?ファミレスにはいるのかな?」
 高橋は鼻歌混じりにジョニャサンへと入っていく。
「よし・・・」
 貴人は怪しまれないように数分経ってからジョニャサンへと入った。ちょうどよく高橋が座っている席の後ろが開いていたのでそこに座らせてもらうよう頼む。
「見ろよこれ!」
 どうやら高橋は友達とでも待ち合わせをしていたようだ。同年輩らしき大学生数人とニヤニヤ笑いながら話している。
「お、美人じゃん。誰これ?」
「俺の彼女〜」
 しまりのない高橋の声にちょっと苛つきながら貴人は注文したコーヒーを啜った。
(山野さん、美人なのか)
 そんなことを思ったりもする。
「あれ、高橋の彼女って女子高生じゃねぇの?」
(ん?)
 眉をひそめた貴人の耳を、思いがけない言葉が抉った。
「あぁ、四季?あんなんとっくに捨てたぜ?いつの話してんだよ」
「うっそ、山野ちゃん捨てちゃったの?俺あの娘気に入ってたのに〜」
 貴人はゆっくりとコーヒーのカップを降ろす。
「あん?じゃあ持ってけよ。でもよぉ、あいつ女子高生って事以外おいしいとこねぇぜ?ガキだしよ。なんか自転車で事故って入院してるらしいからその間に・・・」
「お?いつもの引っ越し戦法ですか先生?これで何人目だ?」
「おまえは食べたパンの枚数を覚えているのか?なんつってな!」
 下品な笑い声を聞きながら貴人は立ち上がった。
「お客様?」
「すいません。ちょっと騒がしくなりますよ」
 不審気なウェイトレスにそう言って高橋達のテーブルの脇に立つ。
「あん?」
 見上げてくる不愉快な顔に貴人は穏和な笑みを浮かべた。
「すいません、ちょっとお聞きしていいでしょうか?」
「なんだおまえ?」
 笑顔を維持したまま貴人は細い目を少しだけ見開く。
「どうやったらそこまで品性下劣になれるのでしょうか?それと、やっぱり馬鹿は死なないと直らないと思いますか?」
「はぁ?」
 一瞬なにを言われたのか理解できなかったのか眉をひそめてから高橋達の顔が真っ赤になった。
「んだとてめぇ!」
「喧嘩売ってんのか!?」
 貴人は穏和な笑みを崩さぬよう努力しながら声を絞り出す。
「山野四季に謝り、きっちりと別れを告げてもらいに来ました」
「あん・・・そうか、てめぇ四季の新しい男か。へっ、ガキだと思ってたが案外手が早いじゃねぇかあいつも」
 貴人はピクリとふるえた。
「違うんですが・・・まぁ、概ねYESですね。謝ってくれますか?」
「馬ぁ鹿。何で俺が謝んなくちゃいけねぇんだよ。あんな何の取り柄もねぇガキが俺とつきあえたんだぜ?こっちが礼の一つも言ってほしいトコだぜ」
 貴人はふうと一つため息をつく。
「・・・ようやく、恭一郎の気分が理解できた気がしますよ」
「あん?」
 聞き返す高橋に、貴人は大きく目を見開き鋭い視線をたたきつけた。
「何の解決にもならないとしても、僕は貴様達が許せない!男として・・・いや、人間としておまえらは最低だ!馬鹿を通り越してむしろ豚とでも称するべきかな!?いや、比べられた豚の方が可哀想だね!」
「!?」
 怒声に張り飛ばされて一瞬逃げ腰になった高橋は相手が年下らしき男一人だということを思い出して顔を真っ赤にした。無論怒りでだ。
「どうした?顔が赤いよ。ボウフラ並の知性しか持たなくても恥らしきものは感じるのかな?」
「くっ・・・んざけんなこらぁっ!」
 高橋は怒鳴り散らしながら貴人に掴みかかる。
「・・・・・・」
 ひらりとその腕をかわし、貴人は近くの席に立てかけてあった杖をぽんっと空中に蹴り上げた。
「おじいさん、借りますよ!」
 一声かけながら空中でそれを掴み。
「疾ッ!」
 貴人の姿が消えた。
「!?」
 高橋が目を見張った瞬間。
 どんっ!
 鈍い衝撃とともに身長182センチにもなる高橋の体が軽々と飛んだ。
「きゃぁああ!」
 ウェイトレスのものらしき悲鳴を背に、貴人は冷たい目で席に残った三人を見下ろす。
「気絶してるだけで怪我はさせてませんよ。で、君たちはどうします?彼の後でも追ってみますか?」
「・・・!」
 三人組は軽く目配せをした後、一斉に飛びかかってきた。微妙に時間差を付けた6本の腕が貴人の動きを止めようと襲いかかる。
 だが。
「そのリズム・・・単調にすぎるね」
 一本目の手が届くよりも早く貴人の体は消えていた。目を見張った男達の鳩尾に続けざまに打撃が打ち込まれる。
「無拍子改良版・・・君たちにはもったいない技だったね。でも・・・」
 無表情なまま杖をそこに置き、貴人は奥歯を強く強く噛みしめた。
「僕は今、とても怒っている」
 気絶した4人組に吐き捨てるように言ってから大きく深呼吸をする。このままでは、この嫌な気持ちをいつまでも引きずってしまいそうだから。
「おーい、落ち着いた?」
 不意に袖を引っ張られて貴人はびくっとして振り返った。視線の先に小柄なウェイトレスが立っている。さっきのウェイトレストは別の少女だ。
「え・・・え?」
 きょとんとした貴人に『ENDOH』という名札をつけたそのウェイトレスはやれやれと肩をすくめる。
「ほらほら、ぼーっとしてないで早く逃げた方がいいわよ?器物破壊と暴行の現行犯なんだから」
「あ・・・でも・・・」
 昏倒したままの高橋に目を向ける貴人にウェイトレスはにまーっと笑って見せた。
「こいつらはあたしが何とかしとくから大丈夫。実はあたしもこの『センパイ』にはちょっとした借りがあるのよね〜」
 その瞳に燃え上がる怒りの炎に貴人は少し後ずさった。
「そ、そうなんだ・・・じゃあ僕はこれで・・・」
「あ、ちょっと待った」
 そそくさと立ち去ろうとした貴人のシャツをウェイトレスははしっと掴む。
「なんですか?」
 ウェイトレスはスカートの端を掴んでひょいっとお辞儀をして見せた。
「コーヒーが一杯、350円になりまーす」
「・・・ごちそうさまでした」


 貴人は真っ暗な部屋でぼぅっと電話機を眺めていた。
 彼女とは今日も電話で話す約束をしてある。そして、調べた結果を話すとも。
「誤魔化すわけにも・・・いかないよね」
 呟き、一人うなだれる。
 まったくもって、最悪の結果だ。
 四季が捨てられていたのがはっきりしただけならまだしも、その彼氏を殴り倒してきたなどと、言えるわけもない。

 ぴろるりるりら〜

 貴人はびくっとしてから歯を食いしばり、受話器に手を伸ばした。
「・・・もしもし?」
「あ・・・もしもし。山野です・・・」
 元気のない声に、元気のない返事。
「えっと・・・」
 口ごもった貴人に、四季はそっかと小さく呟いた。
「そっか。やっぱり・・・あたし、ふられてたか・・・」
「その、ごめん。高橋さんって人には会ったんだけどどうも話がこじれちゃってそういうことまでは聞き出せなかったんだ・・・」
 何とか捻り出した言葉にほんのわずかな沈黙が流れる。
「貴人君は・・・嘘が下手だね」
 静かな声に貴人は目を伏せた。
「ちょっと違うかな。貴人君はね、優しすぎるんだよ」
「そんなこと・・・ないよ。僕は・・・」
 そこまで言って貴人は喋るのをやめた。四季の声にまじる震えに気がついたからだ。
 それは、嗚咽だった。
「でもいいよ、貴人君・・・あたし、もうあきらめちゃったから・・・もう、私の中で先輩のこと、あきらめになっちゃったから・・・」
「そんな・・・」
 貴人の言葉を遮って四季の声がむなしい元気を演出する。
「だから、ごめんね貴人君!君には嫌な思いばっかさせちゃって。でも、これで終わりだから。だから・・・」
「ちょ・・・山野君!」
 四季の声が、有無を言わさず響く。
「だから・・・さよなら・・・それと、ごめん」
「山野君!?」
 つーつーつーと音が鳴る。
 切れた電話が、二人の間を隔てる。
 貴人はいつまでも呆然とそれを聞いていた。


「・・・・・・」
 一晩中見つめていたその電話の受話器を貴人はゆっくりと持ち上げた。
 自問する。それに意味はあるのか?
 自答する。でも、このままじゃ彼女は哀れすぎる。
 そして、貴人自身が納得できない。
 ゆっくりとプッシュホンを押していく。
「・・・もしもし?」
 数回の呼び出し音の後、低い男の声が応じた。
「・・・兄さんですか?」
「なんだ。貴人か・・・勘当同然に家を出たって聞いたぞ?そのおまえが私に何のようだ?」
 貴人は深呼吸をしてからすっと背筋を伸ばした。
「調べてほしいことがあります」
「・・・身内料金では動かないぞ」
 低い声に冷たさが加わる。既に無理を言って家を出た身に、家族の絆など無いのはわかっている。
「出世払いでお願いします」
 きっぱりと言いきった言葉に兄は呆然としたようだ。
「・・・なんと、言った?」
「ですから、出世払いです。いずれきちんと見返りは提供します。僕という人間を信じていただきたい」
 数秒の沈黙の後、含み笑いが電話からもれ聞こえた。
「兄さん?」
「いや、失礼。おまえも言うようになったではないか」
「・・・恐縮です」
 短い返答にさらに笑い声が答える。
「よし。稲島の名にかけてどんなことでも調べてやろう。何が知りたいんだ?」
「神奈川県内の病院全ての入院患者リストから、ある女の子の居場所を割り出してほしいんですよ」
 そう告げて、貴人は窓の外へ視線を投げた。
 このままでは、終われないと。


 コンコン・・・
「はい?」
 軽くノックをすると、すぐに返事が返ってきた。
「失礼します・・・」
 足を踏み入れた病室にあるのはベッドが一つとその枕元に置かれた椅子。そこに腰掛けた中年の女性が今の返事の主のようだ。
「どなたでしょうか?」
「あ、すいません・・・四季さんの友達で稲島といいます」
 軽く頭を下げると、女性は深く返礼を返してきた。
「四季の母です。わざわざお見舞いに来ていただいて・・・この子も喜んでいると思います」
 そう言って見下ろしたベッドに、一人の少女が横たわっている。
(彼女が・・・山野四季さんか・・・)
 ショートカットが似合う少女だ。美人というわけではないが、彼女に微笑まれれば男女となく笑い返したくなるような、そういう少女。
「眠っているみたいですね」
 何気ない呟きに四季の母は疲れた表情でうつむいてしまった。
「ええ。ほんとに・・・ただ眠っているだけみたい。もう目が覚めないなんて・・・もう2週間もたつのに未だに信じられないのよ」
「そうで・・・え?」
 何気なく相づちを打ちかけて貴人の動きが止まる。
「もう目が・・・覚めない?」
 ふるえを帯びた声に今度は四季の母が驚きの表情を見せた。
「聞いて・・・ないんですか?四季のこと・・・」
「事故にあって入院したと・・・」
 四季の母は目を伏せ、椅子に腰を下ろした。
「体の傷は大したことはないんです・・・でも、頭を強く打って・・・おかしいですよね。ちゃんと呼吸もしていて・・・でも目だけ覚めないなんて」
「・・・馬鹿な!」
 貴人の叫びに四季の母はキッと視線を強くした。
「馬鹿なとは何ですか!私だってそんなこと信じたくないわ!でも・・・」
 言葉を嗚咽でとぎらせた母に何とか頭だけ下げて貴人はよろよろと病室を出る。
「・・・どういう・・・ことだ?」
 2週間?
「僕はつい昨晩まで彼女と喋ってたのに・・・」
 自覚せぬままに呟きを漏らし、貴人はよろよろと病院の廊下を歩く。
「昏睡状態にあったというのなら・・・」
 人気のない廊下にコツコツと足音だけが鳴り響く。
「彼女は・・・一体・・・」
 呟きが消えた、その瞬間。
 ジリリリリリン!・・・ジリリリリリリン!
 電話の呼び出しベルが廊下中に響きわたった。
「!?」
 見開いた視線の先に、公衆電話がある。
 緑色の、カード式の、どこにでもあるような電話。
 鳴るはずのない、
 電話。
「・・・まさ・・・か・・・」
 貴人は震える手でその受話器を取り、ゆっくりとそれを耳にあてる。
「もしもし・・・」
「・・・貴人君」
 そこから聞こえてきた声は、紛れもなくあの少女の声だった。
「山野・・・四季くん・・・なのかい?」
「うん。ばれちゃったね、あたしのこと。びっくりしたでしょ?」
 貴人はつばを飲み込み呼吸を整える。
「どういうことなんだい?君のお母さんは・・・」
「ママの言ってたのは本当だよ。あたし、いまこれっぽっちも動けないの。それなのに考えることだけはできて・・・しばらくしてから、なんでかわからないけど電話はかけられるのがわかったの」
 四季の声は、今にも消えそうにかすれている。
「それで君の先輩のところへ・・・つまりは僕の部屋に電話を?」
「うん。先輩に励ましてもらえれば目が覚めるような気がね、してたんだよ。でも・・・」
 乾いた笑いが受話器の向こうから聞こえた。
「この結果だもんね。あたしって馬鹿だなぁ・・・」
「山野君・・・」
 言葉が出ない。
「もう、もうね?疲れちゃった・・・なんだかどうでもよくなっちゃった・・・」
「駄目だ!山野君!」
 貴人の声とは逆に四季の声は小さくなる。
「もうそろそろ限界なのはわかってたし・・・もう目が覚めても意味無いもん・・・」
「そんな・・・まだ君は・・・!」
 制止の声が聞こえないのか、それとも聞く気がないのか。
「じゃあね、貴人君。ほんとに、迷惑かけて・・・」
 ごめんの言葉すら言い切れず、電話はぷつりと切れた。再び・・・つながりかけた糸が、無惨にも。
「・・・そんなの」
 貴人は受話器を壊しかねない勢いで電話に叩きつける。
「そんなの、認められるもんか!」


 バタンッ!
「四季っ!」
 蹴り破るようにあけた病室のドアの内側は騒然としていた。
「ECUに運ぶぞ!」
「血圧急低下してます!」
「早く点滴を抜け!」
 あわただしく動き回る看護婦と医者を貴人はかき分けるようにベッドへと走り寄る。どうせこの場合医者は無力だ。
「四季っ!僕はこんなの認めないぞ!」
「何なんだ君は!どきなさいっ!」
 押しのけようとする医者の手を振り払い貴人は四季の体をがくがくと揺する。
「疲れただって!?一回だまされたくらいでそんなこと言うなよ!僕なんて昔から好きだった人も新しく好きだった人も同じ奴を好きなんだぞ!?しかも僕とそいつは親友だから憎むこともできやしない!おかしいだろ!?おかしかったら起きて笑ってくれよ!」
 叫ぶうちにも四季の顔は白く、精気無くなっていく。
「生きてる意味がないって言ったね!?意味ならある!僕が君を助けようとしている!君と友達になりたい僕がいる!このまま死ぬなんて絶対に許さないからな!」
「いい加減にしないか!おい、警備員!」
「放せ!僕はまだ四季に言うことがあるんだ!」
 雪崩れ込んできた警備員に掴まれ、引きずられながらも貴人は絶叫をやめようとはしなかった。
「一緒に強くなろう!僕は・・・!」
 バタンっ!
 貴人を放り出した警備員達がドアを閉めると、狭い病室の中は一気に静かになった。
 とても、静かに。


 そして結局、医者達の治療は、何の効果も上げられず。


「・・・・・・」
 翌日。貴人は高校に入ってから初めて部活を休んだ。何も言わず見逃してくれた愛里に感謝しつつ重い体を引きずってマンションの階段を上る。
 無力感と倦怠感に両脇を抱えられながらずるずると歩いていた貴人の足がふと止まった。
「え・・・?」
 ようやく見慣れてきた自分の部屋のドア。
 赤く塗られた鉄製のそれに寄りかかるようにして。
 山野四季はそこに座っていた。
「あ、やっと帰ってきた」
 そう言って四季はぴょこんと立ち上がり、てへへと笑う。
「まぁ、勝手に待ってたんだから文句言う筋合いもないんだけどね」
「あ・・・え・・・?」
 目を開けたり閉じたりするだけの機械と化した貴人に四季は歩み寄り、その腕に自分のそれを絡めて軽く引っ張った。
「ねぇ、ちょっと歩かない?」


「はい。缶だけどコーヒー」
「あ、ありがとう・・・」
 龍実川の河川敷に引っ張ってこられた貴人に四季は買ってきた缶ジュースを手渡して柔らかな芝生に腰掛けた。
「ほら、貴人君も座りなよ」
「うん・・・」
 まだ呆然としている貴人に苦笑して四季は川面を眺める。
「なんかね、死ねなかったんだ」
 呟き、四季はプルトップを立てたコーラを口にはこんだ。
「多分死のうと思えば死ねたんだけど・・・ここで死んじゃったら、あたしの一生ってかっこわるいなとか、貴人君もかっこわるいなとか、いろいろ考えちゃったら・・・なぜかぱちって目が覚めちゃって」
「いや、目が覚めたって・・・」
 貴人の呆れたような声に四季はあははと笑う。
「ほんとにそんな感じだったんだもん。病院の人たちは無茶苦茶びっくりしてたけど。私たちの治療は何だったんだーって」
 そりゃそうだろう。
「でも・・・やっぱり死ななくてよかったよ。ぼーっと川眺めてコーラ飲んでるだけなのに・・・こんなに、幸せだったんだね。生きてるってさ・・・」
 貴人はどこか気恥ずかしくなって四季の顔から視線をはずした。
「・・・そうだね」
 何とかそれだけ言って、コーヒーを口に含む。
「まだ、電話の中に入れたりするのかい?」
 貴人の問いに四季はぷるぷると首を振った。
「駄目みたい。なんていうか、臨死体験真っ盛りだったからできた事みたい。いまはごく普通のじょしこーせーちゃんなのだ」
 そう言ってひとしきり笑ってから四季は貴人の顔を見つめる。
「ねぇ貴人君・・・貴人君が今好きだって人、どんな人なの?」
「ぶっ!?」
 いきなりな問いに貴人はコーヒーを吹き出した。
「汚いなぁ・・・」
「ご、ごめん。でもいきなり変なこと聞くから・・・」
 狼狽する貴人に四季はぷーっと膨れてみせる。
「だって貴人君、人の枕元でそういう刺激的なこと叫ぶんだもん。そりゃー気になるっしょ」
「うう・・・」
 しばし呻いてから貴人はあきらめた。
「・・・元気が良くて、明るくって、落ち込んでるときに悩みとか全部吹き飛ばしてくれるような女の子だよ」
 失恋のプロを称するその少女の姿を思い描いて、貴人は軽く微笑んだ。
「うん、笑顔とか、君に少し似てるかな」
「はぶっ!?」
 今度は四季がコーラを吹き出した。
「汚いよ・・・」
「ご、ごめん・・・つーか、今のは君が悪いっ!」
 きょとんとしている貴人を見て四季は盛大にため息をつく。
「はぁ・・・初恋の相手はあたしを騙していて、セカンドラブは唐変木・・・あたし、結構不幸かも・・・」
「???」
 理解していない顔の貴人の肩を四季はぱぁんとはたいた。
「いーの、独り言!天然ジゴロくん」
「えっと?」
 首を傾げている貴人に苦笑して四季は空を仰ぐ。
「あたしね・・・今ちょっと思ってる。本当に先輩のことが好きだったのかなって」
「どういうこと?」
 問われて四季はうーんと唸る。
「あのころ・・・友達がどんどん彼氏作ってって・・・あたしだけ一人だったからちょっとあせっちゃってたんだよね。それで、先輩って顔は美形だし演技だったわけだけど優しくしてもらえたからこの人ならいいかなって・・・」
 くすりと笑って四季は肩をすくめた。
「弱かったんだね。あたしも・・・貴人君といっしょ」
「・・・うん」
 頷き、暖かな雰囲気の中貴人は川面を眺める。
「僕たちは弱くて・・・でも、だからこそこうやって無事にここに座ってるんじゃないかな・・・」
 首を傾げた四季に貴人は微笑みを向けた。
「だって、弱さを自覚したら・・・後は強くなるしかないじゃないか」
「・・・うん」
 四季は元気よく頷き、そのまま勢いをつけて立ち上がった。
「え?もう行っちゃうのかい?」
「しばらく学校休んでたでしょ?単位がやばいんだなこれが」
 言ってあははと笑い、四季は貴人の頭をぽんぽんと叩く。
「貴人君、がんばれー」
「え?」
 突然の言葉にきょとんとする貴人に四季は笑顔の中に少し寂しさを潜ませて笑う。
「貴人君は、きっとうまくやれるよ。きっと振り向いてもらえるから、だから、がんばれー。あたしも・・・がんばるからさ」
「・・・うん」
 貴人はすっと立ち上がり四季の手を握った。軽い握手の後、どちらからともなく背を向けあう。
「じゃあ、ね」
「うん・・・すぐに強くなれるわけでもないだろうけど・・・」
 そして二人は別々の方向へと歩き出した。
「前を向いて、歩いていこう」
 
 大切なのは、強くなりたいと思う意思。