ふらりと立ち寄ったそこを教えてくれたのは稲島貴人だった。
「あ、ほんとによく見える・・・」
 呟き、美樹は屋上の手すりに頬杖をつく。
「・・・・・・」
 なんとなく目を細め、眼下のそこを・・・剣術部練習場を見下ろす。
 彼女がそこに足を踏み入れてから、もうじき一年が経つ。そのころから今まで、変わらず寄り添っている二人。
「気持ちよさそうに寝てるしぃ」
 練習場脇の木陰で葵が何かの本を読んでいる。そして、膝枕で熟睡している恭一郎。
「なんかさ、日々羞恥心とかそういうものをわすれてってるよねー」
 誰もいない隣に話しかけながら美樹はため息をつく。
 わかってはいるのだ。自分はだいぶ恵まれているほうだということは。
 恭一郎と葵はどこからどうみてもお似合いだし、そのすぐ近くにいる自分にも違和感はない。親友として、この上なくうまくやっていけてると思う。
 でも。
 もしかしたら・・・あの瞬間、葵と恭一郎の間にほんのわずかな隙間ができてしまったあの瞬間に、自分がそこへ滑り込んでいたら?
 本気でそれができたとは思わないのだけれど。
 この上なく心地いい今の瞬間を迎えることはなかったかもしれないのだけれど。
 自分と恭一郎の関係は、ほんの少しだけ違ったものになったのではないだろうか?
「・・・はぁ」
 美樹は再びため息をつく。今度は自分の情けなさにだ。
「あたしって駄目駄目だぁ・・・」
 手すりにガンガンと頭を打ち付けて美樹はちょっと涙ぐんだ。
 痛いからか、情けないからか、それとも・・・悲しいからかはわからない。
「無駄だぞ天野美樹っ!時間は絶対戻らないんだからっ!」
 ぱんっと自分の頬を叩き、美樹は勢いよく踵を返した。
 その真ん前に。
「そうかな?」
 一人の少女がいた。
「!?」
 恭一郎達ほどではないにしろ結構鋭い方の美樹をして気づかないほど自然に、そこにいるのが当然というように少女は微笑んでいる。
「じゃあさ、時間が戻るなら・・・やり直してみたい?」
「え?」
 虚をつかれた美樹の顔を少女は笑顔でのぞき込んだ。人なつっこい、どこかでみたような瞳に押されて美樹は疑問を感じるよりも早く口を開いていた。
「やり直してみたい・・・かも・・・しれない・・・」
「そっか。じゃあ、試してみようよ?」
 少女は微笑み、美樹の胸をとんっ・・・と突いた。
「え・・・わっ・・・」
 軽くよろめいた美樹は手すりを掴もうと背後に手を伸ばす。
 だが、手を伸ばしたそこにはなにもなかった。手すりも、フェンスも、床さえも。
 そして、その先の地面さえも。
「何でぇぇぇぇぇっっっっっ!?」
 そして、美樹は果てしなく落下した。

『いってらっしゃーい    ???』


 どすん。
「っ・・・たぁ・・・」
 しりもちをついて美樹は顔をしかめた。
「あれ?あんま痛くない?」
 呟き立ち上がる。
 あたりを見渡せば、いつもと同じ六合学園の校舎が広がっている。だが・・・
「?・・・なんか、おかしくない?」
 とりあえず歩き出してから微妙な違和感に美樹は首を傾げる。まちがいなくここは6号館と7号館の間だ。ここを歩いていけばいつもどおり古びた練習場に・・・
「古びた・・・」
 美樹は呆然と呟き、その場に座り込んだ。
 確かに練習場はあった。いつもと変わらず、しかしぴかぴかの新品で。
「あ、あはは・・・あはは〜」
 美樹はとりあえず立ち上がり、近くの樹に思いっきり頭突きをしてみる。
 ガツンッ!
 いい音がした。
「っつぅ・・・!無茶苦茶痛い!」
 当然である。
「な、なによこれ!?いつの間に改装したわけ?」
 おそるおそる練習場に近づくと、中からはいつも通りパシンパシンと快音が聞こえる。
 美樹は目を細め、そーっと練習場に近づいてみた。
「脇が甘いっ!」
「はいっ!」
 中では防具を着た数人の少年達が乱取りの真っ最中らしい。あまり広くもない練習場の壁際には順番待ちをしている少年達が真剣な眼差しでその動きを見守っている。
「剣道・・・部?」
 美樹の呟きに入り口のそばにいた部員が振り返った。
「なんだ?見学か?女子剣道部の来年度設立は見送られたぞ?」
「は?」
 美樹はきょとんとして、それから怪訝な顔で訪ね返す。
「つーか何で剣道部がここで練習してんの?」
 今度は少年が怪訝な顔をした。
「なんて言葉遣いの悪い女だ・・・剣道部が剣道場で練習してなにが悪い」
「剣道部の練習場はあっちのでっかいやつでしょーが」
 指さす方を向いて少年は頭をかりかりとかく。
「あっちっていわれてもな。あっちは林しかないぞ?それに剣道部は設立からこっち、ずっとここで練習してるんだぞ」
「設立から・・・?」
 美樹の頬がぴくぴくと引きつる。頭の中でピースがぴたっとくっついたのだ。
「えっと・・・今年って何年だっけとか聞いてみたりして・・・」
「あ?昭和42年だけどそれがどうした?」
 美樹は笑った。笑うほかに、リアクションがなかった。
「あっははっはっは・・・」
 笑いながら去っていく美樹を剣道部員の少年が不気味そうに見送る。
 数十メートル歩いてからようやく美樹の笑いは止まった。
「・・・・・・」
 黙って空を見上げる。
 そして。
「じょぉうだんじゃないわよっ!」
 美樹は雄叫びをあげながら髪をかきむしった。
「戻ってみるってあんたちょっと戻りすぎやん!こんなとこにつれてきてどないせぃっちゅーんや!」
 興奮に任せてひとしきり叫んでから美樹ははぁはぁと息を整える。
「落ち着け・・・落ち着け天野美樹・・・あたしだって六合学園の住人よ。これしきのことでパニクるもんですか」
 ふと思い出し、心の奥底に焼き付いた少年の仕草をまねしてみる。
「なんたって、あたしは天野美樹だからね!」
 うんと頷き、美樹は改めてあたりを見渡してみた。よく見れば確かに有るべきところに建物がなかったり閉鎖されたはずの建物が健在だったりしている。
「うーむ・・・間違いなく昔の六合学園だなぁこりゃ」
 何とはなしに呟き、ふと美樹は耳を澄ました。
「この声・・・?」
 どことなく聞き覚えがある声がする。
「・・・あっ!さっきの娘の声だ!」
 それが屋上で会ったあの少女の物だと気づいた瞬間、美樹は走り出していた。
 多少様子が違うとはいえ勝手知ったる学校の敷地。声のする場所へと美樹はあっという間にたどり着く。
「ちょっと・・・ってあれ?」
 確かに、そこにその少女は居た。だが、こっちに気づく様子もなくしゃがみこんで。
「どうだった?この学校?」
 話している内容が聞こえるようになって初めて美樹は少女が一人ではないことに気が付いた。しゃがんでいるのはその相手と目線をあわせるためだ。
「うん!おもしろかった!」
 相手・・・4〜5歳だろうか?まだ幼い少年は元気のいい声で答える。
「そっか。えへへ・・・ありがとう」
「え?なにが?」
 少年の問いに少女は答えない。
「ねぇ、この学校に通ってみたい?」
 代わりに、少女は暖かな声で問いを放った。
「うん!」
 即答する少年の頭をぐしぐしとなでて少女は立ち上がった。
「じゃあ約束ね?いつかまた、この学校であいましょ?」
「うん!約束!」
 にかっと笑う少年に少女は自分の顎に指をあて、すっと首を傾げる。
「それともう一つ。この学校に来たいなら、いっぱいいっぱい体を鍛えてね?」
「なんで?」
 問いに少女はいたずらっぽく笑う。
「いつかね、お願いしたい事が有るんだよ。駄目かな?」
「ううん!わかったよ。頑張る!」
 それなりに真剣な顔で指切りなど交わし、二人は歩き出した。手をつなぎ歩み去る二人を見送りかけて美樹ははっと我に返る。
「ぼーっと見物してる場合じゃないってば!」
 さっさと行ってしまう少女を追いかけて美樹は全速力で角を曲がり・・・
「ぬわっ!?」
 すいっと差し出された足につまづいて派手にすっころんだ。
「よっ・・・!」
 迫る地面を見据え、美樹は地面にのばした片手を軸に受け身をとる。
「あたた・・・」
 数回転してからようやく勢いが消え、美樹は立ち上がることが出来た。
「誰よ全く、ってあれ?」
 美樹は目をぱちくりとしばたかせた。
 暑い。
 もう2月も中盤にさしかかろうというのに、頭上からさんさんと太陽が降り注いでいる。時刻は6:00を過ぎているのに真上から。
「ひょっとして・・・また、跳んだわけ?」
 ぐったりした顔で呟いてから美樹は気を取り直して辺りを見回した。
「むー。なんか、ちょっと周りが古びたわね。すこし戻ってきたって事かしら?」
 呟きながらグルグル回していた視線がふと止まる。
「あ・・・居た」
 そこに少女が居た。さっきと全く同じ制服姿・・・いや、夏服にはなっているが・・・で、なにやら木の上を見上げている。
「ねー、ホントに大丈夫〜!?」
 美樹はその少女の叫び声に呼びかけようとしていたのも忘れてその視線を追って木の上を見上げた。
 高さ5メートルほどの幹。そこに、一人の少年がよじのぼっている。シャツを内側から盛り上げる見事な筋肉をした、美樹と同い年くらいの少年だ。
「大丈夫!まかせとけって!何しろ俺は今絶好調だぜ!」
 どこかで聞いたことのあるフレーズに美樹が首を傾げる間にも少年はずるずると枝の先へと移動していく。
「でも、猫ちゃん怖がってるよー?」
「何とかなる!」
 はたして、少年が伝っている枝の先に一匹の子猫が居た。どうやって登ったのかすっかりおびえて枝の先にしがみついている。
「あ・・・こりゃまずいわね・・・」
 思わず美樹は呟いていた。高さに加え、見知らぬ人間に接近され子猫はすっかりパニック状態だ。さっきからしきりに下を見ている。
「さぁ、覚悟しろ・・・じゃなかった安心だぞ猫!」
 少年はギラギラと光る目で猫を見据え、ばっとその小さな身体に飛びついた。
「ふにゃーっ!」
 子猫は甲高い声で一声泣き、宙へと身を翻す。
「きゃーっ!」
「なにぃ!?」
 二つの悲鳴が交差し、子猫の身体が・・・そしてその後を追うように少年の大柄な身体が重力の手にがっちりと捉えられ落下を始める。
 少女があたふたと動き出した瞬間!
「とうりゃぁああああああああああっっ!」
 絶叫とともに疾風が吹き抜けた。
 少なくとも、少女にはそう見えた。
「たぁっ!」
 前傾姿勢で数メートルを駆け抜けた美樹は木の幹を足がかりに空へと身を躍らせた。バク宙の要領で身体を回転させ、落下途中の子猫を胸に抱きかかえる。
「着地っ!」
 叫びながら美樹は首をすくめた。何せ腕は猫を抱いている。受け身のとりようがない。
(死んだかも)
 ちょっと顔を引きつらせながら美樹は勢いよく地面に衝突した。さっき転んだ時よりも数段激しい勢いで転がり、数メートル分の七転八倒を経てその動きが止まる。
 どべし。
 一瞬遅れて少年が地面に叩きつけられる音が響く。
「・・・見なかったことにしよう」
 少女は冷や汗をかきながら呟き、静まり返ったその場に背を向け・・・
「するなぁああっ!」
 絶叫に近いつっこみとともに飛んできた運動靴に後頭部を強打されてつんのめった。
「あ、生きてる」
 頭をさすりながら呟く少女に美樹は思いっきり嫌な顔をしてみせる。あちこち強打したが生まれつき頑丈な身体は深刻な怪我を防いでくれたようだ。
「そりゃ生きてるわよ。こんなトコで無意味に死んだりするもんですか・・・って、そっちのひとは大丈夫?なんかピクリとも動かないんだけど・・・」
 安心したのかしきりに身をすり寄せてくる子猫の頭を撫でてやりながら美樹は樹の下に倒れ伏す少年を指さした。
「ああ、大丈夫。ダイちゃん、頑丈だから」
「・・・ダイちゃん?」
 その名前を吟味するより前に少年が勢いよく跳ね起きる。
「猫はっ!?」
「大丈夫。通りすがりのひとが助けてくれたから」
 指さされ、美樹はしゅたっと手をあげた。
「ども、通りすがりです。それにしても大丈夫?5メートルは落ちたよ?」
「ああ、ピンピンしてるぜ?なんせ、俺は今絶好調だからな!」
「何言ってんの。いつも絶好調って言ってるじゃないの」
 少女とじゃれあう少年に美樹は何とも言えない目を向ける。
 絶好調。
 そのフレーズがどうも気になる。
「あのさぁ」
 美樹はおそるおそる二人に近づき、とりあえず猫を下に降ろした。
「君・・・名前なんて言うの?」
 少年は『ん?』と首を傾げてからばっと胸を張る。
「俺こそは六合学園で今もっとも絶好調な男!いやむしろ漢!豪龍院醍醐だ!」
「もっとも絶好調って言葉は文法が間違ってるけどね」
 少女のつっこみを少年・・・いや、豪龍院醍醐は豪快に笑って無視する。
「まぢですかー」
 美樹は引きつった笑みを顔に張り付けて呟いた。だが、目の前の高校生は確かに・・・
「まぁいいや。ダイちゃん、この猫少し怪我してるし保健室につれてったあげて。日浦先生、獣医の資格も持ってるって自慢してたし」
「おうよ。って六道はどーすんだ?」
 六道とは少女の名字のようだ。
「あたしはこの通りすがりの人に話あるから。ちょっち先行ってて」
 醍醐は一瞬だけ腑に落ちないような顔をしたが、
「わかった。先行ってるぜ!」
 一声叫んで足下の猫を抱き上げ、ずだだだだっと駆け去った。
 後に、美樹と少女だけが残される。
「さて・・・説明してもらいましょーか」
 口をへの字にした美樹の問いに少女はあははと笑う。
「ごめんごめんでもこれはこれで、重要なんだよ?」
「何が重要なのよ。つーか、あたしが説明して欲しいのは!」
 美樹の問いに少女はちっちっちと指を揺らした。
「ちょっと遠回りしてもらってるだけ。終着点はちゃんとあなたとの約束通りの時間だから安心してね?」
「時間・・・じゃあやっぱりこれって」
 少女はその呟きに頷き、にっこりと微笑みながら美樹の背後へするっと回り込んだ。
「そ。ちょっとローカルな時間旅行・・・あなたにはこれからのこと、しっかり見てもらって・・・それから決めて欲しいの。あたしの・・・答えも一緒に・・・」
「え?」
 振り返った美樹の視界には誰もいなかった。冷たい風がひゅっと美樹の髪を揺らす。
「つーか寒っ!」
 叫びながらあたりを見渡すと、さっきまで生い茂っていた木々の葉が全て散っている。ちらほらと見える白いものは間違いなく雪だ。
「はいはいもう驚きませんよ。また跳んだ訳ね」
 ちょっと自棄気味に呟いて美樹は歩き始める。
「ともかく、あの子が何考えてるにしろこれが行き当たりばったりじゃないのは間違いないのよね」
 だったら、近くにあの子が見せたがっているものがあるはずだ。
「んむ?」
 そして、それらしきものに行き着くまで、長くはかからなかった。
 いつぞや劇をやった大講堂の脇にかけられた立て看板。そこにでかでかと「卒業式」の3文字が踊る。
 いつの時代も学生のすることは変わらないらしく、周囲には記念撮影や抱き合って泣いている学生が闊歩していて。
「・・・あたしも、来年はそっちぐみなのよね」
 思わず美樹は呟いていた。あと1ヶ月もすれば3年生。受験やら何やらで、今までほどは遊べなくなるだろうし・・・
「恭一郎達、どーすんだろ?進路・・・」
 言ってから美樹はぶんぶんと首を振った。
「いけないいけない。いまは取り敢えず目の前の事態に対処せねば」
 うむと一人頷いて再び歩き出そうとした美樹の目がふと止まる。
「決着をつけようぜ醍醐!」
「はっはっは!今日も今日とて絶好調の俺に勝てる気か!?」
 講堂の脇で向かい合う二人の男子生徒。
 片方はさっき見たのより少し背が伸びた豪龍院少年。そして、それに向き合っているのは制服をちょっと着崩し気味にしているワイルドな少年。
 その外ハネした髪と握っている木刀に、美樹はひどく見覚えがあった。顔に浮かぶ不敵な笑みにも。
「恭一郎・・・じゃない・・・よね」
 その顔立ちは明らかに恭一郎とは別人だ。だが、まとっている雰囲気は同じ。
「覇っ!」
 美樹が戸惑っている間に木刀の少年は鋭い踏み込みとともに醍醐の胴に突きを打ち込んでいた。
「奮っ!」
 腹筋の厚みだけでそれを防御し、醍醐は少年に鋭いチョップを見舞う。
「喰らうかよ!氷雨っ!」
 異様に早いすり足で後退しながら横薙ぎに繰り出された剣閃に美樹は目を見張った。その独特の動きに見覚えがあったのだ。
「はっはっは!甘いぞ!」
 醍醐はその巨体に似合わぬ素早さでいったん開きかけた間合いを一気に詰める。
「ちっ!」
 舌打ちとともに放たれた木刀の一撃を側頭部で平然と受け止め、醍醐は少年の両肩をがしっとつかんだ。
「離しやがれっ!」
「すぐに離してやるって」
 何とかそれを振り払おうともがく動きを逆に利用してするりと背後に回り込み、醍醐はそのがっしりとした腕で少年の腰をホールドした。
 そして。
「絶・好・調っ!」
 雄叫びとともにブリッジの要領で少年の身体を背後の地面へと叩きつける。
「ぐはっ!」
 苦しげな声とともに少年の手から木刀が離れた。それを横目で眺めながら醍醐は腹筋を使ってひょいっと立ち上がる。
「原爆落としという技だ。今はそんなにメジャーじゃないがそのうちきっと流行るぞ」
「・・・そうかよ」
 得意げに語る醍醐に少年はねっころがったまま恨めしげな視線を向けた。
「しかし、どうした神楽坂?いつもより技に切れがないぞ」
 少し離れて見物していた美樹の眉がぴくりと跳ね上がる。
「・・・なるほどね」
 一人頷きながら美樹は再び耳をすました。
「迷いは剣を鈍らせるといつも言ってるのはおまえの方だろうに」
 醍醐の言葉に神楽坂と呼ばれた少年・・・神楽坂雄大はふてくされたように視線を逸らす。
「・・・おまえ、龍実大に行くんだろ?」
 雄大に問われて醍醐はうむと頷く。
「推薦でな。体育学部だ」
「・・・俺は、卒業したら東京に行かなくちゃならねぇ」
 雄大はそう言って舌打ちをした。
「おまえと殴り合えるのも今日が最後かもしんねぇんだよ。向こう行ったらしばらく帰ってこれねぇしよ」
「神楽坂家の当主になるってのも大変だな。その点俺は気楽だけどよ」
 醍醐の言葉に雄大はがばっと飛び起きた。
「俺は当主になんかなりたくねぇんだよ!そんなもんになるよりも俺はおまえと合美と沙夜花と4人で・・・」
 言葉が力を失い、視線とともに地に落ちる。
「4人で・・・やっていきてぇんだよ・・・ずっと・・・」
「・・・神楽坂」
 醍醐は呟いて雄大の肩を掴んだ。
「おまえらしくもないぞ神楽坂。嫌なら、やめればいいだろう。全てをかなぐり捨てて自由を掴むのも一つの生き方だ。俺は止めない」
「・・・わかってる。俺が言ってることはただの甘えだよ」
 雄大の声には、相変わらず覇気がない。
「でも、本当に楽しかったんだ・・・ここに入学して、あんたらに合ってからの3年間は」
「・・・そうだな。この学校でしか味わえない・・・最高の高校生活だったよ」
 醍醐は呟き、そのままにやっと笑った。
「でもな!お楽しみはここからだ!俺とおまえの勝負はまだ完全に決着が付いた訳じゃない。たかだか大学が違う位大したことじゃない。他の星にいるわけじゃあるまいしな!」
「醍醐・・・」
 ようやく、雄大は顔を上げた。その顔に凶悪な笑みが甦る。
「喰らえっ!」
 そして、醍醐が何かを言う前に雄大はその鼻っ柱に頭突きを打ち込んでいた。
「ぬおっ!?」
 さすがに悲鳴を上げる醍醐の胸にとんっと拳を当てて雄大は大きく頷く。
「逃げるんじゃねぇぞ!そのうち絶対決着をつけるからな!大学でもちゃんと鍛えてろよ!俺は絶対この町に戻ってくるからな!」
「わかってる・・・ぞっ!」
 醍醐は語尾にのせて雄大の額に頭突きを叩き返していた。雄大のそれの数倍大きく鈍い音が響く。
「ぐはっ!」
 たまらず地に伏した雄大に醍醐はかっかっかと笑いを向け、手をさしのべた。
「おまえこそ、もっと鍛えねぇとな」
「ちっ・・・馬鹿みてぇ堅い頭しやがって・・・」
 呟きながら雄大がその手に捕まろうとした瞬間。
「雄大様ぁあああああああ!」
 遙か彼方から何かが土煙をあげながらつっこんで来た。
「やばっ!」
 醍醐が叫びながら身を翻すよりも早く、その鼻先を何かが通過する。一瞬おいて、頬からつつーっと血がたれた。
「き、貴様っ!志野森っ!あぶねぇだろうが!」
「黙らっしゃい!この無礼者っ!」
 醍醐の怒声に正面から叫び返し、ものすごい勢いで駆け寄ってきたその少女は地面に突き立っていたなぎなたをむんずと掴みあげる。
「お、おい沙夜花・・・ちょっと落ち着けよ」
 引きつった笑顔で雄大は立ち上がり、醍醐を睨んで威嚇音を発している少女に呼びかけた。途端、少女の全身から殺気が消え失せる。
「雄大様、ご機嫌麗しゅう。少々遅いのでお迎えにあがりました・・・」
 和服型に改造された制服の裾をつまみ、志野森沙夜花は優雅にお辞儀をしてみせる。
「申し訳ございませんがほんの一時、お待ちいただけますか?」
 申し分ない微笑みのままゆっくりと沙夜花は醍醐の方に顔を向けた。
「今すぐこの下賤な男をただの肉塊に変えて見せますからっ!」
 文楽人形のような唐突さで沙夜花はくわっと目を見開き勢いよく長刀を振り回す。
「ぬおっ!」
 慌ててそれをさばいて醍醐は1メートル以上飛び退いた。冷や汗を拭って雄大に視線を向ける。
「おい!その物騒な馬鹿をなんとかしろ!おまえの言う事しかきかねぇんだから!」
「すまん・・・この場合俺の話も聞いてない・・・」
「覚悟ぉっっっ!雄大様のお顔に傷をつけた罪、万死に値しますわよぉっ!」
 なぎなたを振りかざし突撃してくる美少女というシュールな光景に、醍醐は人類の生み出したもっとも優れた戦術で対処した。

 36計、逃げるにしかず。

「待ちなさいぃぃぃ!」
「待つかぁぁぁっっっ!」
 みるみるうちに小さくなる二人を見送って雄大は軽く肩をすくめた。足下に転がっていた木刀をひょいっと蹴り上げ、空中でキャッチする。
「・・・・・・」
 しばし沈黙したまま雄大は立ちつくしていた。さっきまで騒いでいた生徒達もあらかた帰ったらしく、ちょっと離れたところで何やら笑っている少女以外にこちらを見ている者も居ない。
「・・・斬っ!」
 しばし迷った後、その少女は無視することに決めて雄大は横薙ぎに鋭い剣閃を奔らせた。
 ぴっ!
 鋭い音を立てて風が鳴る。その音に満足して雄大は木刀をおろした。
「今度は、さっきみてぇな無様な負け方はしねぇぞ」
 呟いて足を踏み出しかけ、雄大は『ん?』と振り返る。
「ぱちぱちぱち」
 口で言いながら拍手をして、そこに小柄な少女が立っていた。雄大が入学して、豪龍院醍醐という男に出会ったとき・・・既にその隣にいた女子生徒。
「合美じゃねぇか。どーしたんだ?醍醐の奴が探してたぞ」
 俺とどつきあう前にと付け加える雄大に合美とよばれた少女は、あははと笑う。
 それは、雄大の目にはどこか寂しげに映った。
「伝言、頼めるかな?」
 雄大が首を傾げると、少女はまた無理矢理な笑顔を浮かべる。
「ダイちゃんに、さよならって」
「・・・・・・」
 数秒の沈黙の後、雄大は深いため息をついた。
「やっぱり、そうか・・・ここから、離れられないのか?」
「え?」
 ぎょっとした表情で呟いてから、合美はくすっと笑顔になる。
「やっぱばれてたんだ・・・神楽坂君には」
「・・・神楽坂ってのは、もともとそういう家系らしいからな」
 眉をひそめ、彼にしては珍しく困った表情で雄大は首を振った。
「あいつ、怒るぞ。勝手にいなくなるなって」
「うん・・・でも、しょうがないんだよ。もう一回顔合わせたら・・・何もかもを喋っちゃいそうな気がするから・・・」
 合美はそう言って視線を雄大の背後に向けた。そこでこちらを伺っている美樹をちらりと見て、再び雄大に向き直る。
「もう、決めちゃったことだしね。みんなとの生活はホントに楽しかったけど・・・やっぱりあたしはこっちがわで、ダイちゃん達はそっちがわだよ」
「・・・天を支え、地を踏みしめ、刃をかざして人となる」
 唐突に雄大が放った言葉に合美は『は?』と首を傾げた。
「うちの流派に伝わる心構えの言葉だ。世界そのものとも戦えるのが人間だっていう意味らしい」
 軽く息をつき、雄大は鋭い視線で合美を射る。
「この地を護るのは、おまえだけの役目じゃねぇぜ。人は誰しも、大切な何かを護るために世界と取っ組み合うものだ。醍醐の奴も・・・きっとそうするだろう」
「・・・なら」
 合美は言おうとした言葉を一度止めかけ、おそるおそる口にしてみた。
「なら、期待しても・・・いいのかな。ダイちゃんにもう一度会えるって・・・ここへ戻ってきてくれるって・・・」
「来る。絶対に。ここは・・・俺達の場所だったから」
 雄大は手の中の木刀をくるっと回す。その刀身に、『天』の文字が刻まれている。
「だから、別れは言わない。あいつも言わないだろう。もちろんおまえも言うな」
「・・・うん」
 合美は笑顔を作った。無理矢理なわりにはいい笑顔だと内心で満足。
「じゃ、またね!」
 そしていつものように、なんでもないように、さりげない言葉。
「おう」
 それに片手を上げて答える雄大もいつもと同じそっけない挨拶。
 それっきり、合美は振り向かずにそこから走り去っていく。どこか、雄大達とは違う場所へ。
「おーい」
 それと入れ替わりに聞こえてきた声に雄大はゆっくりと振り向いた。ちょっとぐったりとした表情で醍醐が走ってくるところだった。
「やっとあの深刻な馬鹿娘を振り切った・・・」
「おうよ、ご苦労さん。そろそろ帰るか。駅前にでも寄ってくってのもいいな」
 雄大の言葉に醍醐は『うぅむ』と唸る。
「いや、合美がみつからねぇんだよ。先に帰っちゃいないと思うんだが」
 雄大は静かに首を振った。
「そりゃみつからねぇだろ。あいつはあっち側とやらに帰っちまったし」
「・・・は?」
 わけがわからないと首をかしげる醍醐に雄大は静かな言葉を連ねる。
「あいつはもう居ない。ここを卒業する俺達じゃあ・・・そう簡単には会えないだろうな」
「何言ってるんだ。あいつも俺と一緒に龍実大に進学するぞ?」
「調べてみるといい。載っていたはずの名簿からも、有ったはずの写真からもあいつは消えてるだろうよ」
 ちょっとだけ間をおき、雄大は舌打ちをした。まったくのこと、あの少女は俺に面倒ばかり押しつけると。
「それに・・・思い出せるか?醍醐。あいつは一体どこに住んでいたんだ?あいつの両親は?俺達はあいつんちに行ったこともあるはずだぜ?」
 途端、醍醐の顔が青ざめた。
「な、なんでだ・・・思い出せない。何も・・・」
「卒業しちまったんだよ。俺達はあいつからさ」
 ひらひらと卒業式のパンフレットを振る雄大の襟を醍醐はむんずと掴んだ。
「おまえ、なんでそんな落ち着いてんだよ!」
「・・・伝言を、頼まれたからな」
 雄大は呟き、自分の襟を締め上げてくる醍醐の手を逆に掴む。
「倒っ!」
 鋭い叫びとともに醍醐の身体がぐるんと1回転した。精妙な小手投げである。
「待ってるってよ。ここで」
 ずどんと音を立てて地に伏した醍醐に雄大は静かに声をかけた。
「待って・・・いる?」
 呆然と聞き返す醍醐に雄大は頷いてみせる。この際、嘘も方便だと内心呟きながら。
「あいつはこの学園にずっと居る。俺の予想だが多分外れてない・・・合美はもう俺達には見えないあっち側に居る」
 醍醐が立ち上がるのを見ながら雄大は立ち並ぶ校舎に目を向けた。
 3年間。
 たったそれだけだが、ここで4人は笑っていたのだ。
「その境界線を・・・普通の人間だったら見逃しちまうようなそれを平気で突き破れる奴が現れたとき、きっと会える」
「・・・俺達、今日で卒業だぞ。その俺達でも出来ると思うか?」
 醍醐の問いに雄大は静かに首を振る。
「駄目だろうな。それはこの学園の人間にだけ許されたチャンスだろうから・・・だが、次を育てることは出来る」
 そして、醍醐ににやっと笑みを向けた。
「おまえ、大学で教員免許取れよ。そして、この学校に戻ってこい。俺は・・・東京で勉強して神楽坂を継ぐ。継いで、この学校の理事会に入る」
 醍醐は自分の手のひらを見下ろした。
 そして、ぐっとそれを握りしめる。
「俺達の次を、俺達が育てる・・・か」
「ああ。合美と一緒にな。そしてその時が来たら・・・言えなかったことを、改めて言おうぜ」
 その言葉に一つ頷き、醍醐は大股で歩き始めた。
「・・・行こうか、雄大。こっちからが・・・スタートなんだからな」
「おうよ。そうこなくっちゃな」
 そして二人は振り返らず。
 その日、豪龍院醍醐と神楽坂雄大は六合学園を卒業した。


「・・・あれが、見せたかったもの?」
 去っていく二人を眺めて美樹は呟いた。
「これも、だよ。これはあたしとダイちゃん達との別れ・・・でも、それが本当の別れにならなかったからいまだにあたしは迷ってる・・・」
 答えは、予想通り背後から返ってくる。
「なんか、わかってきたよ。あたしも・・・まだ迷ってる」
 美樹はわずかに俯き、だがすぐにまっすぐな視線で振り返った。
「それでも、あたしはあたしよ。あんたじゃない。わかってんでしょうね?」
「うん・・・だから、あなたに見てほしかったんだよ」
 合美は軽く微笑み、美樹の肩にぽんっと手をのせる。
「というわけで次の舞台にご案内!」
 そして、美樹の身体を勢いよく振り回した。
「うわっ!?」
 美樹は勢いのままくるくると回転し。
「サタデーナイトフィーバー!」
 右の人差し指を高々と空に突きつけ左手を腰に。大きく開いた足で地面を踏みしめて姿勢は右に傾きぴたっと止まる。
「いぇい!」
 しばし沈黙が流れた。
「・・・むなしい」
 つっこみ不在の現状にため息をもらして美樹はあたりを見渡す。合美の姿は既になく、あたりは秋の装いに変貌を遂げている。
「やれやれ、こんどはいつなのかしらね」
 首をコキコキと鳴らしながら美樹は歩き出した。
「今までのパターンで行くと近くに居るはずよね。校長が」
 歩くこと数分。
「ほら、ね」
 そこに、醍醐は居た。木の葉のつもった木陰で昼寝としゃれ込んでいるその顔には、さっき見た高校時代から確実に年月が積み重なり青年の顔つきになっていた。
「ふむ」
 美樹は呟き、素早く物陰へと移動した。一度だけとはいえ顔を合わせているのだから、のこのこ出ていくのも危険だろう。
「おや?」
 その醍醐に近づく影がある。生真面目そうな顔をした少女がひとり、足音を殺して忍び寄って来たのだ。
「・・・・・・」
 爆睡する醍醐の隣にその少女は静かに腰を下ろした。物静かな容貌の中、眼鏡越しの視線が暖かい。
「ほぅほぅ、あの目つき、あの表情・・・惚れてますな?」
 美樹が猫のような笑いを浮かべて見守る中、醍醐はようやく目を覚ました。
 一つ伸びをしてむっくりと起きあがる。
「・・・沢木じゃないか。どーした?」
「おはようございます豪龍院先生。よく眠れましたか?」
 声の響きに、無理矢理怒っているような調子がある。つんとそっぽを向いた視線もややぎこちない。
「・・・どうした?沢木?」
「先生、現在の時刻は午後4時10分なんですが・・・なにか思い当たることはありません?」
 言われて、醍醐はむうと唸った。Yシャツの背中に付いた落ち葉を払い落としながら首を捻る。
「いや、とくに思いつくことはないぞ」
「職員会議ですっ!」
 少女は憮然とした表情で叫んだ。眼鏡がずれ、慌てて位置を直す。
「おお、そういえばそんなものもあったなぁ・・・」
「もう・・・いくら武装教師に任命されていて出席義務がないからっていつもいつもさぼらないでください!浦木教頭がまた怒ってましたよ?」
 ちなみに武装教師とは六合学園における生徒指導係のようなものだ。めったに仕事はないが仕事の時は大概とんでもない大事件である。
「はっはっは。問題無い。なにせ俺は今日も絶好調だからな!」
 何の理由にもならない事を言って笑う醍醐に沢木はふぅとため息をついて見せた。呆れてるようなふりをしているがどうにもその笑みが隠し切れてない。
「まぁ、今回も私が代わりに出ておきましたけど。内容は書類にまとめて職員室の先生の机に置いときましたから後で目を通しといてください」
「おう。いつもすまねぇな」
 はっはっはと笑いながら醍醐は沢木の頭をくしゃくしゃと撫でる。途端、少女の白い肌が耳まで真っ赤に染まった。
「べ、べべべべ別に大したことじゃありません」
 声もあうあうと震える。
「わ、私は・・・その、私・・・先生が・・・」
「ん?」
 首を傾げられ、沢木はがっくりと肩を落とした。
「・・・先生のクラスの、学級委員ですし」
「うむ。ご苦労。いつも助かってるぞ」
 腕組みをしてうんうんと頷く醍醐の隣で沢木はぽかぽかとふがいない自分の頭を叩く。
「じゃあ、俺がそのうち偉くなったら秘書はおまえにやってもらおうかな」
「はぃ!?」
 目を丸くして聞き返しても、醍醐は笑って答えない。
「・・・はい、是非・・・」
 沢木は小さな声で呟き、まだ赤いままの顔で微笑む。
 一人の少女の人生が、今・・・その方向性を確かに見いだしたのだ。


「うぅむ、そーいや思い出したわ。一回会ったことあるぞあの人・・・学園長の秘書の人だわ。あの沢木って人」
 その微笑ましい・・・そして、自分には何故かいっこうに縁のない種類の光景に美樹は呟きを漏らし、む?と唸りを上げた。
「つーことは、あの人・・・」
「お似合いでしょ?」
「うひゃぁっ!?」
 考え込もうとしたところに声をかけられて美樹は30センチほど飛び上がった。醍醐達が気づいてないことを確認してから後ろへ振り返る。
「び、びっくりしたじゃな・・・」
 非難しようとした声が止まった。そこに立っていた少女・・・合美の目に、涙が光っていたからだ。
「沢木裕子ちゃんは卒業後専門学校に通って秘書になるのに必要な勉強をいろいろとして・・・ダイちゃんが学園長になったときに約束通り秘書としてここに帰ってきたの」
「・・・自分の思いを糧にね」
 合美はぎこちない笑みを浮かべた。その視線は、一度たりとも醍醐の方に向こうとはしない。
「見たくないの?彼と・・・その側にいる女の子を」
 美樹の容赦ない一言に無理してつくっていた笑顔が崩れた。合美は身を翻し、その場から逃げようと走り出す。
「あ!待ってよ!」
 美樹は慌ててその後を追った。校舎の間を駆け抜け、非常階段を上り、合美の背はとある校舎の屋上へ消えた。
「はぁ、はぁ・・・疲れる・・・!」
 地上6階分を一気に駆け上がり、美樹は荒い息をなだめながら屋上を見渡した。
「ありゃ?」
 そこに合美の姿はない。その代わりに、コンクリートに寝っころがって寝ている男子生徒が一人。
「・・・跳んだ・・・みたいね」
 そして、あたりを照らす真夏の太陽。
「ふむ。取り敢えず校長は居ないみたいだけど・・・」
 呟いて美樹は少年の方に視線を向けた。
 やや大柄な少年だ。がっしりとした引き締まった身体はちょっと前に見た醍醐の高校時代を思わせる。そして、何よりも目を引くのはその真っ赤に染められた髪の毛だ。
「どっかで見たわね。確かゲーセンで・・・」
 反射神経も経験値も申し分ない美樹を対戦格闘ゲームで圧勝してみせたどこかの大学生と顔が似ている。
「つーことは、ここって結構あたしの時代に近いって事か」
 呟き、頷いた瞬間。
「とぉぉぉぉぉぉぉっっっっっ!」
 高い声が、あたりに響きわたった。
「!?」
 思わず当たりを見渡した美樹の目に、給水塔の上から身を躍らす人影が映った。スカートの裾をひるがえし、その女子生徒は寝ている少年の上へと数メートルのダイブを敢行する!
「すぅぱぁっ!稲妻!きぃぃぃっく!」
 そして、絶叫とともに繰り出された蹴りが少年の腹を激しくえぐった。
「・・・・・!」
 当然、悲鳴すら出せず少年はのたうち回る。
「つーか、死んだっしょ。今の・・・」
 あまりの光景に後ずさる美樹の前で、少年の動きが止まった。
 そして。
「痛いぞ。友美」
 赤髪の少年は平然とした表情で立ち上がる。
「まじっすか?」
 呆然と呟く美樹が遠く見守る中、三上友美は腰に手を当てて唇をとがらす。
「あのねぇ!今何時だと思ってんの!5時間目、もうとっくにはじまってんのよ!?まともに授業に出ようって気はないわけ?」
「・・・あまり、ないな」
 言うが早いかとんできたボディーブロウを片手でさばき、赤髪の少年・・・六合学園空手部所属の山名春彦はぐっとのびをした。
「腹一杯食べれば、眠くなるのは当然だろう友美」
「普通の人はそれを我慢して授業を受けるのよっ!せめて教室で寝なさいっ!」
 言ってから友美ははぁっと息をついた。
「ともかく!せめて6時間目はちゃんと出なさいよ?」
「・・・努力しよう」
 誠意のない答えにぶつぶつ言いながら友美は春彦に背を向けて歩き出した。階段を下りようとしたところで、そこに立っていた美樹に目を向ける。
「あなたも、さぼりは程々にね?」
「ぅえ!?・・・は、はい」
 うろたえながら頷く美樹に笑顔を向けて、友美はすたたっと階段を駆け下りていった。 後に残された美樹は春彦の方に視線を向ける。
「・・・寝るか」
 春彦は、再びコンクリートの上に寝っ転がり、
「!」
 ばっと飛び起きた。
「はぁっはっはっは!」
 途端、彼の頭上から豪快な笑い声が響く。
「またあんたか!」
 春彦は叫びざま両腕をクロスさせて頭上に構えた。一瞬おいてずどんっと重い衝撃が全身に伝わる。
「うむ!絶好調なワシのモンゴリアンチョップを受け止めるとは立派だ!」
「俺を奇襲するのが最近の流行か!?」
 とんっと背後に跳び、春彦は半身になって構えを取る。
「はっはっは!三上君が気づかなかっただけの話!ワシは最初から待機していたからな!」
 対照的に、醍醐は腕組みなぞして仁王立ちだ。
「よっぽど暇なんだな。学園長という仕事は・・・」
「なに、秘書が優秀なだけである!」
 そう言って醍醐は不意に動き出した。静から動へ。8歩分の間合いを2歩で埋めて逆水平チョップを見舞う。
「っ!」
 左腕でそれをブロックして春彦は右のミドルキックを醍醐の脇腹に放った。
「奮っ!」
 野太い叫びとともに分厚い腹筋でそれが受け止められたのを確認せず、春彦は跳んでいた。
「覇っ!」
 叩きつけた右足を支点にして空中で身を翻した春彦の左足が後ろ回し蹴りとなって綺麗な円を描き醍醐の側頭部を抉る。
「むっ!」
 醍醐は顔をしかめてわずかによろめき、だが素早い動きで空中の春彦を捕まえていた。「しまっ・・・!」
 春彦の叫びにニヤリと笑い、捕まえた体をぐるりと回す。頭を下へ、足を上へ。
「絶校長!パイルドライバー!」
 そして、その名の通り杭打ちの動きで春彦の頭をコンクリートの床へと叩きつける!
「っ!」
 だが、地面に衝突する直前に春彦は動いた。
 関節がきしむのにかまわず腕を後ろに振り、ちょうどそこにある醍醐の膝の裏側を左右の親指で痛烈に突き刺す。
「何ぃ!?」
 反射的に膝から力が抜け、叩きつける力が弱まった。姿勢も崩れ春彦は背中から床に衝突する。
「くっ・・・」
 取り敢えず醍醐の肩のあたりを蹴り飛ばし、春彦は飛び退いた。数歩分の間合いをあけて改めて筋肉魔人と向かい合う。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 そして、数秒の沈黙を経て。
「今日はこのくらいである!」
 醍醐は満足げに頷いた。
「・・・毎日毎日襲撃してくるのはやめて欲しいのだが・・・」
「これがワシにとっては最高の楽しみである!」
 げっそりと呟く春彦に醍醐ははっはっはと笑う。
「まったく、どいつもこいつも・・・」
「そう言うでない。この分で行けば今年の予算編成戦ではワシを倒せるかもしれんぞ?」
 ニヤリと笑う醍醐に春彦はそっけなく肩をすくめた。
「部には居るだけだ。あまり興味はない」
「そうか・・・まぁ、好きにするがよい。この学園は貴殿らのような生徒が好きなように暮らせるためにあるのだからな」
 その言葉に、様々な思いをにじませて醍醐は踵を返した。
「ああ、そう言えば」
 去っていく大きな背中に春彦はふと声をかけた。
「この間、あんたに伝言を頼まれたぞ。古いタイプの制服を着た俺と同い年くらいの女に」
 醍醐の足が止まった。
「・・・ついでに言えば、たぶんあれは人間じゃない。気の流れが、どこかおかしかった」
「・・・その少女は、なんと?」
 振り返らず放たれた問いに春彦は記憶を正確に再生する。
「たしか、『今回はタイミングが合わなかったから会えなかったけど、次は会えそうな気がする。2001年の2月8日、7時58分に8号館で、初めてあったときの約束をお願い』・・・だそうだ」
 風。夏も近い熱い風が、二人の間を吹き抜けた。
「そうか・・・すまんな」
 醍醐は呟き、歩き始めた。立ちつくす美樹に気づきもせずやや呆然とした表情で階下へと降りていく。
「2月8日って・・・今日じゃない」
 呟いて美樹は振り返った。何となくだが、そこにいるのはわかっていた気がする。
「そう。でもまだ・・・あたしはダイちゃんに会っていいのか・・・会ってどうするのかわかんないの」
 合美は呟き、視線を落とす。
「ともかく、ダイちゃんとあたしの話はこれでおしまい。ここから4年間・・・あたしはダイちゃんと接触してないから。・・・というか、あそこの山名君達が卒業してからは出てこれなかったんだけどね」
「出てこれない?何で?」
 美樹の問いに答えず、合美は一歩踏み出した。
「さ、こっちよ」
 そう言って美樹の手をとり、屋上の端へと導いていく。
「あれ?」
 屋上にいたはずの赤髪の少年が居ない。それに、暖かな風に混じるこの香りは・・・
「桜・・・だね」
「そう、これは2000年の4月」
 合美はそう言ってすっと遠くを指さした。
「あ・・・」
 思わず美樹は声を漏らす。その先に・・・六合学園の校門に、少女が居る。
 初めて見る校舎に、校庭に・・・六合学園という場所に目を輝かせている・・・転校してきたばかりの少女。
 天野美樹という名の。
「あなたは、この時間のあなたと入れ替わることが出来るわ。この1年間は無かったことになり、あなたは今の記憶のままもう一度この一年をやり直すことになるの」
 合美は淡々と言葉を紡ぐ。
「そして、それはあたしも同じ。あなたが入れ替わる同時に・・・あたしももう一度あの日に戻るつもり。卒業の日・・・あたしに勇気が足りなくて、黙ってダイちゃんと別れちゃった日へ・・・」
 やりなおす。
 この1年間を。
 恭一郎と、葵と、エレンと、愛里と、みーさんと、貴人と・・・出会い、歩んできた日々をもう一度。
 そうしたら。
 今度はうまくやれるだろうか?住友安則とさっさと別れて、恭一郎ともへんに意地を張らずに向かい合って。
 向こうはこっちを知らなくても・・・美樹は風間恭一郎という男をとてもよく・・・知りすぎるほどによく知っているのだから。
 そう。たぶんうまくいくだろう。
 奪い取るのではなく、もっと自然な形で。
 出会った頃、あの二人はまだ・・・お互いに相手を好きになっちゃいけないと思いこもうとしていたのだから。
「・・・でも」
 でも、そうしたら。
 消えてしまう。初めて恭一郎が戦うのを見たときの驚きも、一緒に野球部と戦ったことも、結構緊張した劇も・・・恭一郎の胸で、思いっきり泣いたことも。
 もう一度やり直して、同じ事をしたとしてもそれに価値があるのだろうか?
 美樹の作る、新しい世界においても多分恭一郎と葵は仲がいいだろうし、楽しそうだろうけど。
 ずるをした美樹は、本当にそれで思いっきり笑えるのだろうか?
 だから。だったら。
「合美ちゃん。あたしは・・・自分の時間に戻るよ」
「・・・いいの?2度目のチャンスはあげられないよ?」
 合美の言葉に美樹は遠く遠く、視線を投げた。
「あたしの好きな人は・・・風間恭一郎は、この手のずるが嫌いな人だから」
 そして、にかっと笑う。
「ついでにいえば、あたしもだいっきらいだから」
 静かに微笑む合美に一つ頷き、美樹は背後の柵に身をゆだねた。今日も青く高い空を見上げて笑う。
「だから合美ちゃんもいままで戻らなかったんでしょ?あたしにして欲しかったのは、自分が間違ってないっていう確認」
 言葉を区切り、美樹は笑みを消した。
「でも、それは甘えよ。六合学園剣術部の、天野美樹はそんなことを許さない」
 ばっと身を起こし、美樹は合美の襟を絞り上げる。
「あなたが何者なのか、どんな運命を背負ってるのかは知らないわ。でも、どんな人だろうと、自分の選択は自分で選びなさい。心の剣で、運命を切り開きなさい」
「・・・それが、あなたの好きな人の生き方?」
 暗に『本当にそれはあなたの生き方なの?』と問う声に、美樹は大きく頷いてみせた。
「あたしが大好きな、風間恭一郎というヒーローから・・・あたしがもらったもの。あたしの・・・何より大切なたからもの」
 合美は微笑んだ。
 やはり、この少女が・・・いや、この少女達が。
「ありがとう。あたしも、決心できたよ」
 その言葉に美樹は少女の襟から手を離した。ビッと二本の指を合美に向ける。
「OK!じゃあもどりましょっか。あたし達の、『今』へね!」
「うん。でも、ちょっと問題があるのよね」
 そう言って合美はてへっと舌を出して見せた。
「問題って?」
「うーん、なんていうか・・・元の時間に戻すとね、戻っていた分の時間が経過しちゃうのよ。戻ったら八時くらいかな」
「あちゃー。恭一郎達帰っちゃってるだろうなー」
 美樹がぺしっと額を叩くと同時に合美はすっと離れた。
「それとね?状況も、あの続きなんだよね。まぁいろいろあってああいう形でしか移動させられなかったし・・・ね?」
「は?」
 なんとなく嫌な予感を覚える美樹の肩にとんっと合美は手のひらをのせる。
「まぁ大丈夫だからさ、遠慮なく落ちてよ・・・ね!」
 そして、美樹の身体をぽんっと後ろに押す。
「ひょっとしてぇぇっっっっ!」
 反射的に後ろに出した手が宙を切った。一瞬遅れて身体全体が宙に投げ出される。空の色が青から黒に色を変え・・・


『うっそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!   天野美樹』


「・・・・・・」
 何度と無く確認したカレンダーの日付。今日に入ってから幾度も見つめた時計の針。
「沢木、ちょっと出るぞ」
 傍らの机で書類をまとめていた女性に一声かける。
「・・・はい。行ってらっしゃいませ」
 沢木裕子は音もなく立ち上がり、深く頭を下げた。その前を通り過ぎ、豪龍院醍醐はゆっくりと歩みを進める。
 ここまで来るのに、21年かかった。
「長かったな・・・」
 呟き、約束の場所へと。
 長い時間をそこで過ごしている醍醐にとって、すでにありとあらゆる建物は自分の一部のようなものだ。
 六合学園8号館、3階廊下。そこで立ち止まる。
「時間は・・・7時56分か」
 懐から懐中時計を出し、時間を確かめる。
 窓の外に視線を投げ、醍醐は時計をしまった。代わりに取り出したのはいつもの覆面だ。
「・・・ワシは」
 言いかけて言葉を入れ替える。数年ぶりに。
「俺は、今まさにっ!」
 視線を投げた窓の外にちらりと影が見えた。
「絶・好・調っ!」
 そして、醍醐は跳んだ!


「うひゃぁああああっっっ!」
 月が綺麗だなどと場違いなことを考えながら美樹は落ちる。
 体中を冷たい空気がなで回し、あと数秒すれば固い地面がそれに代わるはずだ。
「やばいじゃないのよぉおおおおっ!」
 思わず悲鳴が口をついた瞬間!
「絶・好・調っ!」
 あたりを征する叫びとともに真横のガラスがはじけ跳んだ。
「えぇっ!?」
 きょとんとした美樹の身体を太い腕が抱え込む。
「はぁっはっはっは!」
「校長!?」
 真下への落下に横からの勢いが加わり、二人は斜めに落下していく。
 そして、一秒も満たない浮遊の後。醍醐の足が地面についた。
「奮っっっっっっっっっっ!」
 衝撃が体中をきしませる。人二人分の体重に重力の加速だ。とてもじゃないが人間の身に耐えられるものではない。
 だが。しかし。
「くぁっ!」
 いつか、お願いしたいことがあるんだ。
 初めて会ったとき、あの子はそう言ったのだ。
 だから、鍛えたのだ。
 あの日からは、人の限界を超える為にも。
「絶・好・調ぉぉぉぉぉっっ!」
 そう、だから。
 醍醐は全身の筋肉でそれに耐えきった。数メートルを滑り、履いていた草履が両方ともはじけとんだがまぁ概ね無事だ。
 静かな空気があたりを満たす。醍醐はニヤリと笑った。そうとも。俺は今、絶好調なのだ。これしき、できないものかよ。
「大丈夫か?天野君」
「は、はぁ」
 びっくり顔で固まっている天野美樹を地面に降ろし、改めて醍醐はその少女を眺めた。
「ふむ・・・やはり、会ったことがあるな。貴殿とは」
「ぅえ?あ、そ・・・それは・・・」
 口ごもる美樹に醍醐は首を振った。
「いや、説明はいらぬ。この後・・・聞けるであろうしな。それに貴殿には迎えが来ておるぞ」
「え?」
 美樹は醍醐が指さした方向に顔を向ける。そこに。
「恭一郎・・・」
 風間恭一郎が居た。その隣に神楽坂雄大と、どこかで見たような女性が立っている。
「おまえなぁ、いきなり出てってそのまま行方不明になんじゃねぇっての」
「あは、あはは・・・ごめん。探しに来てくれたの?」
 ちょっと不機嫌そうな顔で言ってくる恭一郎に美樹はぱしんと両手を会わせてみせる。
「当たり前だ。俺が相棒を置いて帰るとでも思ったのか?」
「・・・ううん。なにせ、あんたは風間恭一郎だもんね?」
 美樹は言って、恭一郎の腕に自分の腕を絡ませた。
「お、おい!」
「いーからいーから。校長達はこれから大事な用が有るんだからあたし達はさっさと消えるの!」
 引きずるように恭一郎を引っ張り、美樹は醍醐達にぺこんと頭を下げる。
「じゃあみなさん!合美ちゃんによろしく!」
「・・・ああ」
 代表して頷く醍醐にもう一度頭を下げ、今度こそ恭一郎を引きずって美樹は歩き出した。
「引っ張るな!」
 恭一郎は一声叫び、何とかまともに立って歩き出した。取り敢えず、組んだままの腕は振り払わない。
「・・・どうしたんだよ、おまえ」
 問いに美樹はすこし俯く。
「なんでもない。ちょっと、心境の変化・・・」
 大切なものをすこしあきらめて、もっと大切なものを手に入れて。
 やっぱりちょっと胸は痛むけど。
「それよりどーしてあたしがあそこにいるってわかったの?」
「ああ、親父が・・・」
 言いかけて恭一郎は顔をしかめる。
「葵の、親父が連絡してきた。電話で」
「いーじゃん親父で。どうせ数年後にはホントに親子になるだろうし」
 美樹は憮然として顔をそむける恭一郎にあははと笑い、もう一度身を寄せた。

『ん・・・迎えに来てくれて・・・ありがと   天野美樹』


「さて、時間ぴったしだな」
 神楽坂雄大は呟いて携えていた木刀を肩に担いだ。いつもの日本刀ではなく、いずれ恭一郎が受け継ぐであろう天地人の4本目・・・『刃』である。
「六道さま、来てくださるでしょうか」
 雄大に寄り添って、神楽坂沙夜花は携えたなぎなたを持ち替える。
「来る。あいつは約束を破らない」
 豪龍院醍醐は覆面をはずし、空を見上げた。
「俺は約束を守ったぞ。もう・・・出てきてくれてもいいだろ?」
 声が消えるよりも早く。
「うん。そうだね」
 21年ぶりに、その声を3人は聞いた。
「合美・・・」
 醍醐の声に六道合美はてへへと照れ笑いをもらす。
「久しぶり、みんな老けたね〜」
「うるせえ。渋みがましたといいやがれ」
 雄大がふんとそっぽを向き、沙夜花が笑ってその手を握る。醍醐はやれやれと肩をすくめ、合美もあははと笑い。
「・・・俺達はこんなに年をとって、だが合美は・・・本当にあのころのままだな」
 やがて、醍醐はぽつりと呟いていた。
「・・・ごめんね」
「いや、いい。でも教えてくれ。おまえは一体・・・」
 問われて合美はちょっと首を捻る。
「ん・・・みんな、どのくらいわかってる?」
 言われて雄大はとんとんと木刀で自分の肩を叩く。
「だいたいのことは予想できてはいる。俺が理事会の記録から推理した事と、醍醐が学園長になるときに受け継いだ資料で」
「そっか。じゃあ正直に言うね。あたしは・・・この六合学園そのものだよ」
 明るく言われて、醍醐と雄大はちょっと気が抜けた。
「まぁ、そーだろうな。名前もまんまだし」
「うむ。安直である」
 二人がかりで言われて合美はむーっとうなり声を上げる。
「ひっどぉ。衝撃の告白なのにぃ!」
「はっはっは。気にするな!俺は今、絶好調だからな!」
「それは関係ありませんわよ。豪龍院」
 沙夜花のつっこみに醍醐は笑って答えない。
「・・・ごめんね。みんな。たった一言言うために21年も待たせちゃって」
 だが、しばらくして合美のはなった言葉にその笑いが止まった。
「合美・・・」
 何かを言いかけた雄大を手で制して合美は笑う。
「天野ちゃんに春彦君、葵ちゃん、風間君・・・それに沢木ちゃん・・・それから、神楽坂君も志野森さんもダイちゃんも・・・私っていう学舎を使ってくれた、大切な子供達」
 涙に気づかないかのように合美は笑う。
「ありがとう・・・本当に。卒業しても、ここを忘れないでいてくれて。ここを護るためだけに呼ばれたあたしに、人間と同じような喜びを与えてくれて・・・」
「合美!俺は・・・!」
 醍醐が一歩踏み出すと合美は3歩後ずさった。
「駄目だよ。あたしはダイちゃんが大好きだけど・・・」
 その微笑みを、3人は死が瞼を塞ぐまで覚えていたという。
「それと同じくらい、この学園のみんなも好きなんだもの」
 くるりと合美は身をひるがえす。
「ダイちゃんが学園長で、あたしがここの精霊で・・・だから、ここの生徒達はみんなあたし達の息子で娘。それで十分だよ。今は天野ちゃん達が居るから結構自由に出てこれるし・・・」
 その姿が半ば透き通る。
「だから、あのとき言えなかった分、ここで行っておくねー!」
 動けない3人へと、踊るように振り返り。
「みんな、大好きだよ!また、いつでも会えるから!」

 ばいばい。またね。


「・・・俺達は、そろそろ帰るぜ」
 雄大は、ぽつりと呟いた。既にその場には3人しか居ない。
 いや、この学園そのものが彼女なのだから・・・ここにいる限り、4人一緒か。
「ああ。気をつけてな」
 腕組みなどして頷く醍醐の背をぱんっと叩いて雄大は歩き始めた。優雅にひとつお辞儀をして沙夜花もその後に続く。
「・・・・・・」
 醍醐は、夜の冷たい空気を吸い込み、そし吐き出した。
 一人だ。
 だが、思ったほどはつらくない。
 それは、おそらく・・・
「・・・学園長」
 ためらいがちな声に、醍醐はゆっくりと振り返った。
「沢木か・・・」
「・・・申し訳ございません。一部始終、見てしまいました」
 俯いた沢木に醍醐は近づいてくる。
「あ、あの、処分は如何様にも受けます。本当に申し訳・・・」
 ぽん、ぽん。
「え?」
 頭にのせられた、分厚く大きな手のひら。
 まだ15歳だったあのころから、彼女が憧れ続けている暖かな。
「かまわんよ。むしろ・・・見ていてくれてよかった」
 呆然としている沢木に微笑み、醍醐はその肩を軽く抱いた。
 気づいてはいたのだ。自分が受け持っていたクラスの、生真面目な学級委員の眼差しには。
 自分たちの都合に巻き込まれ、その少女はもう31歳の立派な女性となっている。
 正直、待たせ過ぎた。
「ワシは・・・この学園を護っていこうと思う。この学校に集うあらゆるモノが、最高の学園生活を送れるように」
「・・・はい」
 沢木は額を醍醐の胸板に当てる。眼鏡がずれたが、この際かまわない。
 何しろ、ずいぶんと待っていたのだし。
「手伝ってもらえるだろうか?これからも・・・」
 一瞬以上の間。16年分の。
 それでいいのかという迷い。知ってしまった思い人の過去。
 自分はそれを埋められるのか?それに、彼は自分を必要としているのか?
 必要としているとして、どういうふうに?

 そして、沢木は決断した。

『私は・・・    沢木裕子』


 数ヶ月後のことになる。
 職員室の掲示板に、遅ればせながら人事通知が張り出された。

『職員一覧から、下の名前を削除する。
  学園長秘書 沢木裕子      』


 そして。

『代わって、以下の名前を追加する。
  学園長秘書 豪龍院裕子     』