「よしっ!完璧!」

 四井紀香は満足げに叫んで汗をぬぐった。その視線の先にはぴかぴかに磨き上げられた廊下がある。彼女の右手に握られた雑巾が作り上げた芸術品だ。

「これだけ頑張れば・・・」

 呟いた紀香の顔が真っ赤に染まった。

「お、お兄様も褒めてくださるかしら・・・紀香、いい子だねとか言ってくださって・・・あ、あた、頭なんかなでてもらえたり・・・」

 ぐにぐにと身をよじらせて妄想に浸る紀香の耳に玄関のドアが開く音が聞こえた。

「お兄様?」

 ぱっと顔を輝かせて階段を駆け下りる。

「おかえりなさ・・・い・・・ませ・・・?」

 飛びつかんばかりの勢いが急停止した。

「うん!ただ・・・いま?」

 入ってきた少女も同様に硬直する。少女二人、真っ白な空気の中で見詰め合う。ある意味熱い視線だがたぶん愛は芽生えない。

「あの・・・おにいちゃんのおともだちですか?」

 先に我に返ったのは入ってきた少女のほうだった。

「!?・・・あなたが誰かは知りませんが、お兄様の妹は私一人です!」

「ふぇ!?」

 むっとして言い返した紀香の言葉に少女は大きな目をさらに大きく見開く。

「たしかに夏希はおにいちゃんのいとこだけど・・・でもおにいちゃん一人っ子だからほんとうの妹なんていないもん!」

「ほーっほっほっほ!ところがどっこい!」

「レトロだね」

 夏希の強烈なつっこみに紀香はぐらりとよろめいたが何とか持ち直した。

「くっ・・・ともかく!私、四井紀香はお兄様の実の妹ですっ!そりゃあお母様は違いますけど・・・」

「四井・・・おにいちゃんの、お父さんの家?」

「名門四井が二子、四井紀香とは私のことです」

 確かなふくらみを見せる双丘をそらす紀香に夏希は一歩あとずさる。小学生である以上勝負にならないのはわかっているが少々くやしい。

「血がつながってるだけなら夏希だってつながってるもん!それがちょっと近いか遠いかだけじゃない。夏希はずーっとまえからおにーちゃんをおにーちゃんって呼んでたんだよ!?」

「あら、私もお兄様のことはずっとお兄様と呼んでましたわよ?」

 言いながら目が少し泳いだのを見逃さず夏希はじーっと紀香を見つめる。

「いつから?」

「・・・5年くらい」

 夏希は両の手のひらを上に向け、『やれやれ』といったポーズをとった。

「夏希は生まれてから9年間ずっとだよ?お風呂だって一緒に入ったことあるし」

「お、おふ・・・!?」

 紀香は激しくよろめいた。思わぬハードパンチにひざが笑う。

「わ、私などお兄様に一緒に暮らそうといっていただいた身です!」

「にゅっ!?」

 カウンターが綺麗に入った。夏希は倒れそうになる体を必死に支える。

「ふーっ!」

 威嚇する紀香の背後でつちのこ(オーラ)が寝転んだ。

「うにゅーっ!」

 負けじと睨み返す夏希の背後で三毛猫(オーラ)が耳の裏をかく。

 竜虎・・・否、蛇猫相打とうとした瞬間。

「ただいまー」

 いたって気楽な声とともに、ドアが大きく開いた。

 

『おにーちゃん!    風間夏希』

『お兄様っ!      四井紀香』

 

 

 風間恭一郎はぽかんとしたまま玄関を見渡した。たいして広くもないそこに、妙なオーラを背負った少女が二人。

「お兄様!この生意気なお子様が!」

「おにーちゃん!あの意地悪なつり目が!」

 言ってから再びにらみ合う。

「誰がつり目ですか!」

「夏希、お子様じゃないもん!」

 しばし沈黙してから・・・

「ていていていてい!」

「えいえいえいえい!」

 二人の少女はポカポカといたって低レベルな格闘を始めた。

「あー、なるほど・・・大体状態はわかったんだが・・・」

 恭一郎はがりがりと頭をかきながらつぶやく。

「どーしたもんかなこれ・・・おい、いー加減にやめろ!」

 紀香と夏希はその一言でぴたりと動きを止めた。

 ただし、一瞬だけ。

「えいえいえいえい!」

「ていていていてい!」

 グーにした小さなこぶしを適当に叩きつけ、お互いの口をいーっと引っ張る。

 それは、典型的な子供の喧嘩。

「やめろっちゅーんじゃ!」

 恭一郎は額に青筋を浮かべながら両手でチョップを繰り出した。

 ずべし。

「あうっ!」

「はにゃぁ!」

 頭のてっぺんをおさえて涙ぐむ二人に恭一郎は顔をしかめて見せる。

「まったく、おまえらの相性がいいとは思わってなかったが会ってすぐ喧嘩になっているとは・・・いったい何が原因だ?」

「それは、その・・・」

「えっと、その・・・」

 二人は同時に口ごもり、ごにょごにょと呟きながらお互いに視線を向ける。恭一郎を取り合ってと素直に言うのもなにやら恥ずかしく。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 しばし沈黙。

 そして。

「ていていていていてい!」

「えいえいえいえいえい!」

「いい加減にしろ!」

 もう一発チョップを放ってから恭一郎は深くため息をついた。

「ったく、おまえらだっていとこ同士なんだぞ?ちったぁ仲良くしようって気には何ねえのか?」

 少女二人、口を尖らしてお互いを見つめる。

「無理です」

「夏希、やだ」

 同時に答えてから同時にむっとする。ある意味、非常に息の合った二人だ。

「・・・で?夏希はどーしてここに?」

「あ、うん。おかーさんが仕事でドイツに行くから、この週末はこっちに泊めてもらいなさいって。あ、観月おねーさんにはちゃんと電話したよ?」

 ちなみに、観月おばさんと呼ぶと死が待っている。

「そうか。じゃあ今日と明日は泊まりだな」

「なんですって!?」

 紀香は慌てて恭一郎に詰め寄った。

「こ、ここ、このお子様と同じ屋根の下で寝ろとおっしゃるのですかお兄様っ!」

「別にお前と同じ布団で寝ろと言ってる訳でもあるまいし、何故にそこまで驚く?」

「夏希はおにーちゃんとおなじお布団で寝るんだもんね?」

 夏希がさり気無く放った必殺の一撃に紀香はガクンと崩れ落ちた。二人にしか見えない空想レフェリーがカウントを取り始める。

(1・・・2・・・3・・・4・・・5・・・)

「まだやれますわっ!」

「!?なにがだ?」

 いきなり倒れていきなり立ち上がり、あまつさえ奇声をあげる紀香に恭一郎は少しあとずさった。

「いえ、お気にめさらずに・・・しゅっしゅっ」

 ファイティングポーズを取り、軽くジャブを打ちながら紀香は答える。

「それよりお兄様、これからデートをいたしましょう!」

「は?」

 おもわず呆然とした恭一郎の右腕を素早く抱きかかえて紀香はぽっと顔を染めた。

「ええ。兄妹二人きり、ゆっくりとお買い物など・・・駅前に大きなアウトレットモールができたと聞きましたし・・・紀香、行ってみたいのですが・・・」

 うるうるとした瞳で見上げられて恭一郎は考え込んだ。どうにもこの手の『お願い』に弱い男である。  

「はぅっ!だめだよおにーちゃん!こんなどくふの言うこと聞いちゃ!おにーちゃんは夏希と遊ぶの!」

 夏希は叫びながら恭一郎の左腕をぎゅっと抱きしめる。

「誰が毒婦ですか!妙に難しい罵倒をぺったんこの分際で!」

「う・・・まだ発展途上だもん!おにーちゃんからはなれてっ!」

 両手を反対側に引っ張られて恭一郎は遠くを眺める。

 何がいけなかったのだろう?俺が何をしたというのだろう?シベリアの夕日は何故あんなにでっかいのだろう?いや、関係ないのだが。

 その時。

「お困りのようねっ!」

 むやみやたらに元気のよい声が響き渡った。

「誰だ・・・?」

 首だけで振り返った玄関のドア、そこを開けて一人の少女が立っていた。ウェーブのかかった髪、にんまりと浮かべた笑顔、泣きぼくろ。

「愛の天使、らぶりーみっきー・・・レギュラーだから、登場よ!」

「・・・ともかく、たすけてくれ・・・」

 びしっと決めポーズをつけて叫ぶ天野美樹に一瞬ぐったりしかけてから恭一郎は気を取り直して助けを求める。

OK!いい?このまま両サイドに思いっきり引っ張って」

 言われるとおりに紀香と夏希は恭一郎の両手をぎゅーっと引っ張った。

「・・・おい」

 頑丈な体をしている恭一郎は大して痛がりもせずに美樹をにらむ。

「先に手を引っこ抜いたほうが勝ちってことで」

「とぇい!」

 恭一郎は一声叫んで二人を振り払い美樹の脳天へとチョップを叩き付けた。

「ほら、とりあえず脱出できたじゃない」

「おまえに頼った俺が馬鹿だった」

 唸るように呟き恭一郎ははぁっとため息をつく。

「わかった。じゃあみんなで行こう」

「このお子様とですか?」

「このつり目と?」

 にらみ合う少女二人を放っておいて恭一郎は携帯電話を取り出した。

「どしたの恭一郎」

「いや、この面子だとまとまるもんもまとまらん」

 美樹に言って形態を耳に当てる。

「おう、俺だ。ああ、いやそれがだな・・・」

 紀香達の見守る中恭一郎は電話をかけ終わりうむとうなづいた。

「葵も呼んだからこれで大丈夫」

 

 

『・・・あんた、ものの見事に状況がつかめてないわね。 天野美樹』

 

 

「何で情況が好転しねぇんだろうなぁ」

 龍見駅の駅前に出来たアウトレットモールは地上5階、地下1階のなかなかに大きな建物である。

 数々の専門店と小奇麗なレストラン。6階分をぶち抜いた吹き抜けを中心にガラスを多用した設計で、まだ新しいこともあって大勢の客がそこを往来している。

「ですからっ!アクセサリーを見に行くんですっ!」

「お洋服を見に行くのっ!」

「あたし、スポーツ用品見に行きたいな。ダンベル買うの」

「私、おなかすく。食べる、良い」

「つーか何故みーの奴までいるんだろうな・・・」

 遠い目をしたまま呟く恭一郎の隣で神楽坂葵は小さな体をより小さくした。家に遊びに来ていたみーさんをつれてきてしまたのは彼女である。

「ごめんね恭ちゃん・・・せっかく呼んでもらったんだけど・・・私、このメンバーをまとめきるのは無理みたい」

「いや、お前が悪いわけじゃねぇよ」

 即座に言って恭一郎は葵の頭をわしわしと撫でる。

「そうですわ葵お姉さま。悪いのはこの年上を敬わないお子様ですわ」

「わがままばっかり言ってるのはこのつり目で陰険なあくじょだよ葵おねえちゃん」

 同時に言ってしばしにらみ合い・・・

「ていていていてい!」

「えいえいえいえい!」

 ぽかぽかと喧嘩を始めた二人に恭一郎は軽く頭を振った。

「俺、とりあえず靴見てくるからどこ行くか決まったら呼んでくれ」

「かしこまりました。さぁ行きましょうお兄様!」

 言い残して歩き出した恭一郎の手を素早く紀香が握る。

「あっ、させないもん!いこうよおにいちゃん!」

 間髪いれずもう片方の手に夏希がしがみつく。

「とりあえず、私、ここ」

 同時にみーさんが背中におぶさる。

「じゃあ、葵ちゃんは正面かな?」

 美樹は葵を恭一郎に押し付けた。葵は反射的にしがみつく。

「・・・・・・」

 恭一郎は体中に女の子をぶら下げて本日3度目になる遠い目をした。

 どこか遠くへ行こうか・・・どこか北のほうへ・・・カニとウニがうまいところへ・・・

 

 

『愛里さんとエレンが足にすがりつけば完璧なのにねー 天野美樹』

『てめぇ・・・                  風間恭一郎』

 

 結局大騒ぎのままアウトレットモール中を見てまわり、恭一郎はようやく帰ってきた風間家の居間でぐったりとしていた。

「しっかし、なんだってあんなに仲がわりぃんだあいつらは」

 思わずもらした呟きに隣で新聞を読んでいた風間母・・・風間観月は思わず苦笑を漏らす。

「なんだよ母さん。なんか知ってんのか?」

「んー、そうね。これでもあんたより16も年上だからね」

 風間観月三十三歳はそう言ってクスリと笑う。葵や美樹とは一味違う包容力のある笑みだ。

「ちっ・・・」

 意味もなく赤くなった恭一郎はそっぽを向いて頭をかく。

「根本的に仲が悪いってわけじゃないのよね。どっちかっていうといいコンビになるんじゃないの?あんたでは教えられないものを夏希が教えてくれるかもね」

「・・・そーかぁ?」

 疑わしげな恭一郎の鼻を観月はぴんっと指先ではじいた。

「そーなの!微妙な乙女心ってやつをね。あんたはみんなを導いていける子だけど、万能じゃない。人間だからね。それに・・・ぶつかり合ってはじめて磨かれる輝きも、この世にはあるってことよ。あんたと葵ちゃんだってピンチを迎えてはじめて素直になれたでしょ?」

「まぁ、そーだけど、な」

 わずかな沈黙。親子の間にやわらかい空気が流れる。

「見守ってあげてね。あの二人も。風間と四井がいがみ合うのは、あたしの代で終わりにしたいから・・・」

「わかってる。俺たちがまず変わっていかなきゃな」

 再び二人の間に沈黙が満ち・・・だが。

「お兄様っ!」

「おにーちゃん!」

その静かな雰囲気は居間に飛び込んできた二人の少女によってこなごなに粉砕された。

「夕食の下ごしらえなのですがつけだれの醤油と酢はどちらを先に・・・」

「宿題でわかんないとこがあるんだけど・・・」

 同時に言い出してにらみ合う。

「ふっ・・・その程度の算数が解けないなんて、所詮お子様ですね!」

「ふんだ!料理の基本のさしすせそもわからない人に大人ぶられたくないですー!」

 今にもつかみ合いに発展しそうな二人を眺めて恭一郎はぽんっと手を打った。

「ちょうどいい。夏希、夕食の準備を手伝ってやれ。それが終わったら紀香が宿題を見てやれ。俺はその間に風呂入ってくるからなー」

「え?」

「おにーちゃん?」

 言うだけ言って恭一郎はさっさと居間を出てしまい、後には呆然とした少女二人と苦笑する観月が残される。

 

『まったく、こういうことには鈍い奴だね、ホント。   風間観月』

 

 

「この調子で交流を持たせてやれば、もともといい子だからな、あいつらは・・・」

 鼻歌交じりにシャンプーをあわ立てて恭一郎はシャワーでそれを一気に洗い流す。

 さて体を洗うかと近くに掛けてあったタオルに手を伸ばした瞬間だった。

「お兄様っ!」

「おにーちゃん!」

 風呂場のドアを叩き壊さんばかりに開けて紀香と夏希が飛び込んできた。

しかも、二人とも素肌の上にタオルを巻いただけのあられもない格好である。

「が・・・」

 恭一郎は大事なところをかろうじてタオルで隠したまま口をパクパクと開け閉じする。頭の中は真っ白だ。

「夏樹さんっ!従妹の身でお兄様のお背中を流そうなどとふしだらな!こういうことは実の妹の私が!」

「紀香さんこそ自分の年齢を考えてっ!紀香さんもう15歳じゃない!紀香、まだ9歳だから問題ないもん!」

「ある意味そっちのほうが犯罪的ですっ!」

 まったくだ。

「ええい、かくなる上は勝負ですっ!」

「うんっ!のぞむところだよ!どっちがおにーちゃんをぴかぴかにできるかってことで!」

 ぶんっ!と恭一郎の方を向いた二人の両眼が怪しい閃光を放つ。

「おにーちゃん・・・」

「覚悟っ!」

 叫びざま、綺麗な放物線を描いて二人の体が宙を舞った。獲物を襲う肉食獣特有の、美しくも危険な舞いでが恭一郎を襲う。

(ああ、俺は死ぬのか・・・?)

などと恭一郎が意味もなく死を覚悟した瞬間だった。

「はいそこまでー」

 のんきな声とともに、二人の体が宙吊りになった。別に重力が消えたわけではない。背後から伸びた腕が二人の首を猫でも掴むようにぶら下げていたのだ。

「おもしろそーだから、かーさんもまじろっかしらね?」

 ニヤニヤ笑いとともにそう言ってくる腕の主・・・観月に恭一郎は真っ白な頭のままぶんぶんと首を振る。

「あはは・・・冗談だってば。それより、そのままだと風邪引くわよ。さっさと体洗って湯船につかりなさいねー」

 けらけら笑いながら観月はじたばたする少女二人をぶら下げて出て行きかけてふと振り返った。

 

 

『そういえば、ちょっと見ないうちに立派になったわねーあんたの。 風間観月』

『ぶはっ!                          風間恭一郎』

 

 

「お兄様、こちらのフライ、おいしいですわよ?」

「おにーちゃん、このドレッシング夏希のオリジナルだよ!使ってみて」

 夕食の席でも少女二人の攻撃は容赦なく続く。

「お子様の作ったドレッシングなどお兄様はお使いになりませんっ!引っ込めなさい!」

「むー!そのフライ揚げたのは夏希だよ?忘れたの?」

 しばしにらみ合い。

「ていていてい!」

「えいえいえい!」

 目の前でかっちんかっちんと打ち合わされる二組の箸をかたやぐったりと、かたやけらけら笑いながら恭一郎と観月が眺める。

「なぁ母さん。ほんっとに相性がいいってのか?この二人が・・・」

「じゃなきゃ、こんなに早く打ち解けないでしょ?」

「打ち解けてるって言うのか・・・?これが・・・」

 確かにもう十年来の関係のように二人は向き合っている。どちらかというと、十年来の敵のように・・・

「まぁ、いいけどよ」

 恭一郎は呟いて一気にご飯をかきこんだ。

「おかわり!」

「はいお兄様!」

「あ、ずるい!夏希がよそうんだから!」

 かっちんかっちんと箸が火花を散らす。

「・・・母さん、頼むわ」

「はいはい、大盛りでね」

 

 

 それから数時間後。

 夜の素振りを終えた恭一郎はもう一度シャワーを(しっかりと風呂場のドアに鍵を掛けて)浴びてから部屋へと戻ってきた。面倒くさいので電気はつけないまま木刀をベッドの近くに投げる。

「ったく、どーしたもんかなあいつら・・・」

 恭一郎は呟きながら目覚ましのスイッチを入れ、着ていたシャツを床に放り捨てた。

「ほっとくわけにもいかねーし、なんであんなにも喧嘩ばかりなのかもわかんねーし」

 短パンを同じく脱ぎ捨てて恭一郎はベッドに向かった。彼の睡眠スタイルは寝巻きを着ない。寝るときはトランクス一丁だ。

「まーいーか。明日は金曜だしな・・・」

 あくび交じりにあまり関係のないことを言って恭一郎は布団をめくった。

「お疲れ様ですお兄様」

 そこに、紀香が居た。水色の浴衣を着て、持ち込んだらしい枕とともに。

「ああ」

 恭一郎は無表情に言って紀香の隣に寝転んだ。

「お布団掛けますわね」

 紀香はニコニコと呟いて自分と恭一郎に掛け布団をかぶせる。

「おやすみなさいませお兄様。よい夢を・・・」

「・・・・・・」

 恭一郎は答えない。思考は布団をめくった瞬間から止まったままだから。

 どこからか犬の遠吠えが聞こえる。時刻は夜の12時をわずかに過ぎたあたり。静かな夜。本来ならトラブルとは無縁のはずの休息の時。

 なのだが。

「おにーちゃん、もう寝てる?」

 10分ほどのタイムラグをおいて、ドアが静かに開いた。

「もう寝てるんだ。ごめんね。でも、一人で寝るの、さみしいから・・・」

 入ってきた夏希は音を立てないようにそうっと部屋に入り、ベッドへと近づく。

「隣で寝ても・・・いい?」

 恭一郎は答えない。答えられない。だが夏希はそれを承諾と取った。

「おじゃましまーす」

 夏希は布団をめくらず、隙間からごそごそと中に入る。

「これでよしっと・・・じゃあお兄ちゃん、おやすみなさーい」

 恭一郎の隣のスペースに納まり夏希は満足げに呟いて目を閉じた。

 恭一郎を中心に、紀香と夏希の川の字状態。

「・・・・・・」

 恭一郎の燃え尽きた頭の中で、不死鳥のごとく何かが蘇ってきた。

「い・・・」

 何とか搾り出したその声に寝ていた筈の紀香と夏希はパッと目を覚まして恭一郎の方を向いた。

「あ・・・!」

「え・・・!」

 そして、恭一郎を挟んで二人の少女の視線がばっちりと合う。

 そりゃもう、からみあうというよりも取っ組み合う勢いで。

「な、なんであなたがお兄様のお布団に潜り込んでるんですかっ!ふしだらな!」

「そ、そっちこそなんでおにーちゃんと一緒に寝てるのっ!?」

「いい・・・に・・・」

 恭一郎はキリキリと歯軋りをしながら言葉を搾り出した。

「・・・?どういたしました?お兄様」

「どこかいたいの?おにーちゃん?」

 二人の視線が恭一郎に集まった瞬間!

「いいかげんにしろっちゅーとんじゃぁっ!」

 恭一郎はバンッと跳ね起きた。仁王立ちになって二人の少女を見下ろす。

「あ、あわわ・・・お、お兄様?」

「え、あのあの、おにーちゃん?」

 目を白黒させる紀香と夏希に恭一郎は額に青筋を立てたまま微笑んでみせる。

「おまえら・・・人の睡眠時間にまで・・・」

 その両眼がきゅぴーんと輝いた。

「おしおきだぁっ!」

「あ、あう・・・お兄様!そ、そんなところを・・・あっ・・・!」

「だ・・・駄目だよおにーちゃんそんな・・・あ・・・」

 途切れ途切れに二人の声が響き・・・

「ふぅ・・・」

 恭一郎は額に浮かんだ汗を片手でぬぐった。ひと運動した心地よい充実感が体を満たす。

 目の前に、着衣を乱した紀香と夏希の体があった。

 二人の体はぐるぐる巻きにロープで縛られていた。ついでに、逆さになっていた。でもって、天井からつるされていた。

 一言で言うと、逆さ吊りである。

「ったく、ふたりして何してんだよおまえらは・・・」

 ふぅとため息をつく恭一郎に少女二人は何かを言おうとするが口に張られたガムテープのせいでごもごもとしか聞こえない。

「いいか?なにを争ってるのかは知らねぇが、日々睡眠をとることはだな・・・」

 恭一郎がお説教を始めようとした瞬間だった。

 がたん。

 窓の外で何か音がした。

「ん?」

 恭一郎は呟いて振り返った。窓の外・・・それはつまり、開けっ放しだったカーテンから見える美樹の部屋。

 部屋の主たる美樹はそこに居た。何やら青ざめた顔で、明日の準備をしていたらしい鞄を足元に落としたままで。

「美樹?」

 恭一郎の呼びかけに美樹はぷるぷると振るえる指でこちらを指差してくる。パクパクと開閉する口は何を伝えようとしているのだろうか?

「なんだ?」

 恭一郎は首を傾げて部屋の中を見渡した。いつもどおりの部屋。脱ぎ捨てた服。逆さ釣りにされた少女が二人。そして自分。

 はたして、外から見たら?

 

 ぱんつ一丁で女の子二人を縛り上げている男が一人。

 

 恭一郎はゆるゆると振り返り、こっちを見て硬直したままの美樹を見ながら口を開いた。

「ぶら下がり健康法というものを・・・」

 直後、美樹の左腕が放った電気スタンドが恭一郎の顔面を強打した。

 

 

『こ、こっこ、この!ど変態がぁあっ!     天野美樹』

『俺は・・・無実だ・・・          風間恭一郎』

 

 

 翌日。四井紀香はすこし眠い目をこすりながら学校へとやってきた。私立朝霧女子高等学校付属中学・・・県下に名だたるお嬢様校である。

「おはようございます。みなさん」

 ドアを開ける前に背筋を伸ばし、凛とした態度で紀香は教室へ入った。見栄だとも思うが、長年体に染み付いた生活習慣はなかなか変わらない。

「おはようございます紀香さま」

「ご機嫌麗しゅう」

 挨拶してくるクラスメートに軽く頷いて答えて紀香は自分の席に座った。

「あの、紀香さま。今月末の部長会ですが長刀部としてはやはり紀香さまに出席していただきたいとのことですが・・・」

「・・・わかりました。ろくに練習にも出ていない身で顔を出すのも気が引けますがこれもひとつの義務でしょう」

 ちなみに、紀香はそのネームバリューゆえにこの手の会議で発言力が強い。様々な代理出席依頼が飛び込んでくる所以である。

「あの、紀香さま・・・来週のお茶会なのですが・・・」

「ええ、スケジュールはあけてありますよ」

 紀香の答えに話し掛けてきた少女はぎゅっと身を縮めた。

「それが、その、準備の都合でさ来週に延期に・・・も、申し訳ありません!」

「・・・そうですか」

 静かな声に少女はその後に続く怒声を予想して涙ぐむ。

「それは仕方ありませんね。次からは気をつけてください」

「え?・・・あ、はい!」

 ぱっと顔を輝かす少女にかすかに苦笑して紀香はパンッと手を打った。

「さぁ、もう先生がいらっしゃいますよ。皆さん、席にお戻りなさい?」

「はい、紀香さま!」

 群がっていた少女たちは一斉にお辞儀をしてそれぞれの席に戻る。

(紀香さま、最近すっごくお優しいね!)

(うんうん!もぅ、さいこー!)

 小声で話す声を耳にして紀香はクスリと笑った。

 確かに、変わった。それも、明確な理由で。心にゆとりと安らぎを・・・そして、自分らしく生きるという事をくれた人。

 でも・・・だからこそ。

 

『・・・お兄様・・・渡すもんですか!あんな小娘に! 四井紀香』

 

 

「紀香さま、ごきげんよう」

「ええ、また明日」

 部活に向かうらしいクラスメートに挨拶をしながら紀香は教科書やノートを鞄に収めた。

 金曜日の放課後は、明日は学校がないという開放感をはらんで学生たちをハイテンションにしていく。

「さて、部活にでも出ましょうか・・・」

 昨日は掃除したくてさぼってしまいましたしと頭の中で付け足して頷いたときだった。

「あの・・・紀香・・・さま・・・」

 ぼそぼそとした声が背後から聞こえた。

「はい?」

 振り返ると、晴れ渡った外の空と対象的にどんよりとした空気をまとった少女が立っている。あまり話したことはないが、たしか同じクラスの少女のはず。

「えっと、確か・・・磯辺清香さんでしたか?私と同じ長刀部ですわよね?」

「はい・・・紀香さま・・・今日は・・・部活へ?」

 上目遣いの問いに紀香はえぇと頷いた。

「そ、それでは・・・少しお話・・・ありますので・・・あとで少しお時間を・・・いいですか?」

「?・・・ええ、まぁかまいませんが?」

 紀香の答えに磯辺はぱっと顔を輝かせた・・・筈なのだが、どこかどんよりとした雰囲気は消えない。ありていに言ってしまえば、なんか怪しい。

「では・・・お先に・・・」

 そう言って磯辺はそそくさと姿を消した。

「なんでしょう?まぁ、いいですけど」

 頭をひねりひねり、紀香は机の中に何も残っていないのを確認して立ち上がった。ゆったりとした足取りで長刀部の練習場へと向かう。

 その途中。

「ねぇねぇ、あれだれだろーね?」

「さぁ、でもちょっとかっこいいね!ワイルドで」

「えー、怖いだけだよぉ。何か手に木刀とか持ってるしー」

 窓の外を眺めて話し込んでいる少女たちの言葉が紀香の脳髄を激しく刺激した。

 ワイルド・木刀・かっこいい(紀香主観)とくれば?

「お、お兄様!?」

 びたんっと窓に張り付いた紀香の勢いに喋っていた少女たちがのけぞる。

「え、あの、紀香さま・・・ですよね?」

 学校中に名の知れた有名人の奇行に戸惑う少女を無視して紀香は目を凝らした。

 窓の外、少し離れたところにある門の外に立つ青いブレザーを着崩した男。外ハネした髪と片手に下げた袋に入れた木刀。

「お兄様っ!」

 次の瞬間、紀香の姿が消えた。

 少なくとも、少女たちの目にはそう見えた。

「おにぃさまぁああっ!」

 叫びながら、指の先をピンと伸ばしたスプリンターな走りで紀香は廊下を駆け抜けた。すれ違う生徒たちや、時には教師たちもが目を丸くしているのにも気づかずに。

 3秒で下駄箱から靴を叩き出して足を入れ、底のゴムが少し熱で溶けている上履きを代わりに叩き込む。

 靴紐を結ぶのももどかしく紀香は外へと飛び出した。あまりの勢いに思わず道をあける生徒たちの間をスカートをバタバタと言わせながら疾走する。

「お?」

 恭一郎は近づいてくる足音を聞きつけて顔を上げた。

「お兄様ぁっ!」

「よぉ」

 こっちに突っ込んでくる紀香に手を上げて声を掛ける。

「どうしてここ・・・きゃっ!」

 叫びながら急停止しようとした紀香はよく結べていなかった靴紐を踏んで激しく転倒した。ごろごろと転がり恭一郎の足にぶつかってようやく止まる。

「なにやってんだか」

「あぅぅ・・・」

 苦笑する恭一郎に顔を真っ赤にしながら紀香はよろよろと立ち上がった。

「で、あの。お兄様、どうしてここに?」

「おう。母さんの仕事が切羽詰っててな。今日は徹夜仕事でかえらねぇってんで、どっか外に食べに行こうと思ってな。迎えに来たぞ」

 その言葉にぱっと顔を輝かせた紀香だったがはたと我に返って考え込んだ。

「あの、お兄様。私、今日は部活に出ようかと・・・」

「あー、おっけ。何時ぐらいに終わる?適当に時間つぶしてからまた来るからよ」

 恭一郎の言葉に紀香はキラキラと瞳を輝かせる。

「ああ、お兄様!なんておやさしい・・・6時ごろに迎えに来て頂けるとうれしいのですが」

「よっしゃ。じゃあ6時にここでな。行こうか、夏希」

「うん!いこー!」

 瞬間、紀香の時間が止まった。立ち去ろうとする恭一郎の影から夏希が自慢気な笑みを見せる。

「ちょぉっとまったぁ!」

「またまたレトロ」

 夏希のつっこみを無視して紀香はぐっと拳を握り締める。

「行きますっ!私も時間つぶしいたします!」

「あん?部活は?」

「さぼりますっ!この小娘にだけは負けられませんっ」

 恭一郎の問いに紀香はごぉっと背後に炎を燃やした。何事かと遠巻きに見物していた生徒たちがあとずさる。

「へへーんだ!おにーちゃんは紀香と遊ぶんだもんねー!としまはひっこんでなさーい!」

「なんですって!?誰が年増ですか!私は15ですっ!」

「夏希より6歳も上じゃない!夏希が25のとき、紀香さん31歳じゃない!」

「わけのわからない仮定をこのお子様が!その関東平原みたいな体を何とかしてからお言いなさいそういうことは!」

 二人してにらみ合う妹たちに恭一郎はため息をついた。

「なんか、慣れてきちまったのが怖いぞ・・・」

 そして。

「ていていていていてい!」

「えいえいえいえいえい!」

 学園一のお嬢様と誰とも知れぬ小学生との盛大でせせこましいポカポカ喧嘩に野次馬たちがざわめく。

「あーもう、わかったから行くぞ」

 恭一郎は半ば投げやりに呟いて二人のえりくびをぐいっと掴んだ。

「お、お兄様!?」

「おにーちゃん?」

 じたばたする二人をそのままぐいっと持ち上げて恭一郎はやれやれと言った顔で歩きさる。

 残されたのは、ぽかんとした顔で見送る中学生一同。

 

『い、いまの・・・紀香さま?    生徒A

『さ、さぁ・・・多分・・・     生徒B

 

 

「いいか?喧嘩したら容赦なく折檻だからな?」

 商店街を軽く見て回ってからやってきた近所のファミレスの前に立ち、恭一郎は背後の二人に声をかけた。

「もちろんですわお兄様。このぺったんなお子様さえ黙っていれば」

「大丈夫だよおにーちゃん。このとげとげなつり目が黙っていれば」

 同時に言ってにらみ合う二人に恭一郎は笑顔で指をワキワキと鳴らす。少女たちは顔を引きつらせてぶるんぶるんと首を振った。

「なら、よし」

 軽く息をついて恭一郎は店の中へと入った。紀香と夏希もこづきあいながらそれに続く。

「さて、なに食うんだ?どーせ俺のおごりなんだから何でもいいぞ」

「・・・いいんですか?お兄様?そんな無理をせずとも」

「おにーちゃん、そんなに財政状態よかったっけ?」

 頼もしい言葉に恭一郎は心の中で涙した。

「いーんだよ。いくら俺だってそれくらいのよゆーはある・・・っつーか、うちの家計握ってんのは俺だぞ。わかってるかおまえら」

 何しろ、朝夕の食事も掃除も洗濯もほとんど恭一郎がやっているのだ。紀香が来るまではほとんど主婦のような生活をしていた彼である。

「いーからさっさと決めろ。ちなみに俺はスパイシージャンバラヤセットだ」

「えっと私は・・・スパイシーチキン定食を」

「じゃあ夏希は、唐揚げ定食」

 恭一郎と紀香は共に辛い物好きだ。ひとりそうでない夏希はちょっと疎外感を感じたりする。

「しかしまぁ、一週間お疲れ様って感じだな」

 やけに背の低いウェイトレスに注文を済ませて恭一郎はぐっと伸びをした。

「・・・特に昨日今日と疲れた気がします」

「・・・奇遇だね紀香さん。夏希もだよ」

 しばらく沈黙してから二人は静かに笑みを漏らす。

「ふっふっふっふっふ」

「あははははは・・・」

 乾いた笑いを聞きながら恭一郎はやれやれと水を飲んだ。

「ふたりとも何をそんなにいがみ合ってるんだか」

 あなたが原因です。

「はい、スパイシージャンバラヤセットとスパイシーチキン定食、唐揚げ定食でーす」

 さっきのウェイトレスが両手と頭にトレイを乗せてやってきた。ひょいひょいと歩いてきた割にトレイの中身は水平のままだ。

「匠の技・・・か」

 妙に感心している恭一郎達の前に滑るような動きでトレイが置かれる。

軽く頭を下げてウェイトレスが下がってから恭一郎はスプーンをジャンバラヤに突っ込んだ。

「まぁあれだな。おまえらも何でライバル意識持ってんのかしらねぇけど」

 だから、あなたが原因です。

「これから顔を合わす機会も増えるだろうし仲良くするんだぞ。それなりに」

「・・・うー」

「・・・むー」

 不満げな顔でにらみ合う少女たちを眺めて恭一郎は珍しく困り顔のままスプーンをくわえた。

「しっかしいったい何が気にくわねぇんだか」

 ですから。あなたが原因です。

 

『・・・とげとげ(ぼそっ)    風間夏希』

『・・・ぺったんこ(ぼそっ)   四井紀香』

 

 

「ごちそうさまでしたお兄様」

「ごちそーさまおにーちゃん」

 ファミレスからの帰り、家に着く直前。二人の少女にぺこりとお辞儀されて恭一郎はパタパタと手を振った。

「厳密に言えば俺が稼いだ金じゃねぇんだから気にすんな」

 ポケットから出した鍵でドアを開け、恭一郎は家の中へと入る。

「ただいまっと・・・ああ、そうだ。俺はこのまま着替えてランニングに行くからな」

「はい、お兄様」

「うん、わかったよ」

 二人の返事にうむと頷き恭一郎は二階へと姿を消した。途端。

「・・・さて、夏希さん?」

「・・・決着を、つけるときだね」

 二人の間に灼熱の視線が走る。

「とりあえず、勝負はお兄様が家を出てからと言うことで」

「それまで、準備だね」

 うんと頷いて二人は玄関を後にしそれぞれの部屋へと向かった。

 数分して二階から降りてきた恭一郎は靴を履きながらふと動きを止める。

「・・・なんか、闘気がただよってるよーな?」

 くいっと首を傾げてから、

「ま、いーか」

 アバウトである。

「じゃあ、行ってくるぞ」

 そう言い残して恭一郎はドアを突き破らんばかりの勢いで外へ駆け出た。外で足踏みをしていた美樹にビッと親指を突き出してから全力疾走に入る。

「とうりゃぁあああ!」

OK!今日もれつごー!」

 龍実町名物、白と黒の彗星の始まりだ。

「・・・行ったようですわね」

 あっという間に見えなくなる二色のトレーニングウェアを門柱の影から見送って紀香は静かに庭に出た。

「・・・どうしてもやるのね?」

 既にそこに立っていた夏希は呟いて手にしていた長いものをぶるんと振るう。言葉とは裏腹にやる気満々だ。

「いまさら命乞い?」

 ニヒルに微笑んで紀香も携えていた長い棒を一振りする。

「・・・ちなみに私は長刀部なのですが、夏希さんは何使いなのですか?それは」

 紀香の視線の先にあるのは夏希の手にした武器だ。40センチほどの柄の先に長さで1メートル20センチ、幅は30センチはあろうかと言う刀身がついている。木製なのはおそらく練習用だからだろう。

「夏希だって、風間式大刀斬馬術の使い手だもん」

「噂には聞いています。確か観月母さまの実家が道場だとか」

 ちなみに観月自身は剣道しかやっていない。

「どっちがおにーちゃんの本当の妹か・・・」

「やはり、剣でもって決めるが常道」

 二人はどちらからともなく間合いを詰め、互いの武器を構える。

「いざじんじょうに・・・」

「勝負ですっ!」

 刹那、二人の影が動いた。

「てぇえい!」

 へなへな。

 掛け声だけは勇ましく紀香の棒が夏希の脇を力なく通り過ぎる。

「ちゃんす!」

 へろへろ。

 姿勢が崩れた紀香を狙ったはずの練習用斬馬刀があさっての方向を薙いだ。

「ボディが!甘いですわ!」

 ひょろん。

「泣いて、叫んで、そして、しんじゃぇえ!」

 ぽてん、どてん、ひょい。

 声だけは死闘を繰り広げながら、二人の武器はどーしよーもないほどにへっぽこな動きでそこらじゅうの地面を叩いて回る。

「・・・や、やりますわね」

「・・・なかなか・・・手ごわい・・・」

 ちなみに、二人の攻撃はどちらも相手にあたっていない。

「夏希さん、あなた・・・風間式大刀斬馬術の使い手と言ってましたね・・・どの位の技を修めてますか?」

 息を切らして向かい合ううちに、ふと気づいて紀香は夏希に声をかけた。

「うっ・・・そういう紀香さんだって、長刀術・・・どれくらいできるの?」

 しばし沈黙して、二人は同時に口を開いた。

「茶帯・・・」

「緑帯・・・」

 要するに、どっちも素人同然である。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 どうにも痛い沈黙が二人の間を満たした。

 その時。

 ぴろろろろろろろ・・・

 縁側に置いてあった紀香の携帯電話が無機質な電子音を上げた。

「?」

 首をかしげた紀香は夏希が頷くのを見て携帯電話に近づいた。

「・・・非通知?」

 画面には相手の電話番号が表示されていない。少し警戒しながら紀香は電話を耳に当てる。

「もしもし?四井ですが・・・」

 電話の向こうからは、静かな息遣いしか聞こえてこない。

「もしもし?」

「うさぎは・・・」

 眉をひそめた紀香の耳になにやらぼそぼそと言葉が聞こえる。

「は?」

 思わず尋ね返すとさっきよりも若干はっきりとした声が返ってきた。

「・・・うさぎは、寂しいと死んじゃうのよ?」

 ぶつん。

 

 つー、つー、つー。

 

「・・・・・・」

 紀香は無表情に突っ立ったまま、携帯電話を落とした。

「?・・・どーしたの?紀香さん」

「い、いえ?さっぱりわからないながら何やら無闇に不吉な電話が」

 近づいてきた夏希に答えながら紀香はうーむと考え込む。

 ただの悪戯電話だと思うのだが、何やら聞いたことのある声だったような?

「あの冥府から響くような独特な声色・・・ついさっきも聞いたような・・・」

 そう呟いた瞬間。

『少しお話・・・ありますので・・・あとで少しお時間を・・・いいですか?』

「ああああああああっ!」

 頭の中で再生された声に紀香は飛び上がった。

「わ!わわわわわ!」

 驚いてその場に倒れた夏希にかまわず紀香はあたふたとその場で回転する。

「忘れてましたっ!まさかまだ部室に!?」

「な、なんなのいったい?」

 不意の奇行におびえた表情を見せる夏希に紀香は一瞬だけ弱気な顔をしてからバシッと表情を引き締めた。

「すいませんが、勝負はお預けです。私は行かねばならないところができました」

「・・・うん。わかった。夏希も一緒に行くよ」

 突然な台詞に紀香はポカンとした顔で夏希を見つめる。

「よくわからないけど、紀香さん・・・大変そうだから。ピンチの時には一人で居ちゃ駄目だっておにーちゃん、言ってたから」

 立ち上がった夏希の姿にほんの一瞬だけ恭一郎の姿がだぶって見えた。

 その事実に、紀香はさびしげな笑みをちらりと浮かべる。

「すいません夏希さん・・・行きましょう!」

「うん!」

 頷きあって二人は表へ飛び出した。

 

 

『・・・というか、あの人・・・なんて名前でしたっけ?  四井紀香』

 

 

「鍵・・・開いてます」

 夜の長刀部の部室。そのドアノブを握って紀香はささやいた。夏希がうなずくのにうなずき返し、ゆっくりとドアを開ける。

「・・・誰も、いないみたいだよ?」

 中をのぞきこんで夏希が囁く。

「とりあえず、入ってみますね」

 そろそろと足音を殺し、紀香は部室へと足を踏み入れた。ロッカーの立ち並ぶ中を奥へ奥へと。

「どう?紀香さん?」

「更衣室には誰も居ませんね・・・談話室を見てみます」

 奥の扉を開けて中を覗き込む。電気は落とされ、人気はないのだが・・・

「テーブルの上に何か紙が置いてあります」

 電気をつけて紀香はテーブルに近づいた。普段お茶を飲んだり菓子を食べたりしているその机の上に大きな紙が一枚。

「あら?・・・これ、校内の見取り図ですね?」

「この学校の?」

 夏希に頷き見取り図に目を落とす。確か来賓に配るために職員室に置いてあったものだ。

「何故こんなものが?」

 呟いた紀香の目がふと止まる。見取り図の、とある校舎に書き込みがあったのだ。

 線で書いた人と、なにかどばっと広がった赤いインク。

「うげ」

 思わず呟いた紀香の顔が引きつる。

「の、紀香さん・・・この校舎って?」

「と、隣です。この建物の脇の」

 二人はやや青ざめた顔で窓を開け、そろそろと上を見上げてみた。

 校舎の上・・・屋上に、満月をバックに立っている人影。

 しかも、どう見てもフェンスの外に。

「きゃあああああああ!?」

「あれ、あら、あろ!?」

 二人して叫びあたふたと走り回る。

「って、こんなことしてる場合じゃありません!」

「う、うん!とりあえず屋上に急ご!」

 頷きあって二人はバタバタと部室を飛び出した。やはり鍵の開いていた校舎に突っ込み靴も脱がずに階段を駆け上る。

「だ、大丈夫・・・です・・・か!?」

「な、つきは、大丈夫・・・」

 息も切れ切れに5階分の高さを走り抜け、二人は荒い息をついた。

「ともかく・・・いきます」

 そして、紀香は震える手で屋上のドアを開ける。

 冷たい夜風に目を細め、見透かした屋上の奥に人影があった。

「・・・るーるーるー」

 風に乗って聞こえる謎の歌に紀香は少し顔を引きつらせてゆっくりと足を進める。腰までのフェンスの向こう、屋上のわずかな縁に立っているのは間違いなく今日の放課後に話し掛けてきた女子だ。

「あ、あの・・・」

 紀香が恐る恐る話し掛けると、その少女はゆっくりと振り返った。

「うさぎは、寂しいと死んじゃうのよ?」

「う・・・す、すいません。ちょっとごたごたがあったので・・・」

 引きつった顔で釈明しようとする紀香に少女はゆっくりと首を振った。

「いいえ・・・もういいのです・・・」

 一息区切ってどんよりとした笑顔を浮かべる。

「私はここから飛びますから・・・」

「おおおおおおおおやめなさいっ!い・・・いそ・・・何とかさんっ!」

「名前も・・・覚えて・・・くれていないのですね」

 うっとつまった紀香をむしろ楽しげに見つめて少女・・・本名磯辺清香はゆっくりと後ずさる。

「っ・・・!」

 瞬間、紀香は猛然とダッシュを始めた。1テンポ遅れて夏希もそれに続く。

 だが。

「いそ・・・なんとかさん!」

「いそ・・・なんとかおねーさん!」

「る〜らら〜」

 駆け寄る二人を馬鹿にしたようなのんきな声を残して磯辺の体はふんわりと宙へと飛び出した。

「るーららら〜・・・」

「あああああっ!」

 紀香たちの悲鳴と対照的なのんきな歌とともに磯辺は落下して行き・・・

「ん?」

 それとともに、白い何かが落ちて行く。長くて、弾力のありそうな。

 ゴム。

「ば〜んじ〜・・・・」

 そして、磯辺はびよぉんと音をたてて屋上へと戻ってきた。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 表情という表情を全て無くしてそれを見つめる紀香と夏希の前で磯辺は落ちたり跳ね返ってきたりを繰り返す。

「帰りましょうか?」

「帰ろっか。夏希疲れちゃったよ・・・」

 呟いている二人の前でびよんびよんとゴムが揺れて、そしてやがてそれが止まった。

「あー・・・」

 屋上から逆さづりのような姿勢でぶら下がり、磯辺はぶらんぶらんと揺れる。

「あがれません〜・・・」

「知りませんよそんなことは・・・」

 3階ぐらいの所にぶら下がっている磯辺の上げた声に紀香はがっくりと肩を落とし、いやいやながらゴムを手に取った。

「あ、一応手伝うよ・・・」

 いたってローテンションながら夏希もゴムを引っ張り始める。

「お手数・・・かけます・・・」

 磯辺は引っ張り上げられながらぶつぶつと呟く。

「全く・・・本当に・・・手数・・・ですっ!」

 ゴムだけに伸びるので引っ張りあげにくいのをこらえて紀香達は必死に磯辺を引っ張り上げる。

 ゆっくりゆっくり上がってきた磯辺の体に手が届きそうになったところで、紀香はふと思い出して口を開いた。

「そういえば・・・私に何の用だったんですか?いそ・・・なんとかさん」

「磯辺です〜・・・私の用なんですが・・・」

 磯辺はスカートのすそを押さえながらにへらっと笑う。不気味だ。

「紀香様〜?」

「なん・・・ですか?」

 ゴムを引っ張り引っ張り紀香は食いしばった歯の隙間から返事をした。

「好きです」

「んばらっ!」

「きゃぁっ!」

 思わず手を離しかけた紀香は夏希の悲鳴を聞いて慌ててゴムを掴みなおす。

「半分・・・冗談・・・です」

「ってことは、半分本気なの?」

 夏希の問いに磯辺はにへっと笑った。

「・・・いや、やめてくださいな。本気で」

 げっそりとした顔で紀香は呟く。

「あ・・・」

「私はノーマルです」

 きっぱりと答える紀香に磯辺はゆらゆらと首を振った。

「そう・・・じゃなくて・・・」

「というより、私はお兄様以外に興味ございません」

「あ!ぬけがけ!夏希だって!」

 騒がしい二人を順繰りに見渡し磯辺はあーとかうーとか呟く。

「いえ・・・そのフェンス・・・」

「フェンス?」

 磯辺がふらふらと指差すフェンス。腰までの、紀香と夏希がのしかかっているフェンス。

「折れそうですよ・・・」

「はい?」

「ふぇ?」

 二人は同時にフェンスを見つめた。その視界が、ゆっくりとずれる。スローモーションで、折れたボルトが・・・おそらくフェンスを固定していたのだろうボルトがすっ飛んで行く。

「危ないですよ・・・」

「言うのが遅いですっ!」

「きゃぁああああっ!?」

 満月の下、夜空へのダイブ。ある意味ロマンチック。

 紀香の頭の中をそんなフレーズが流れた。

「現実は・・・過酷ですけどね・・・」

「あなたがいいますかそれを!」

 支えを無くした紀香と夏希が・・・その二人に引っ張られていた磯辺が・・・もつれ合うように落ちて行く。

「も、もう駄目・・・!」

 ぎゅっと目を閉じて叫んだ夏希に紀香はキッと鋭い視線を向けた。

「この程度であきらめるんじゃありませんっ!」

「え?」

 紀香は歯を強く強く食いしばり、落下しながら目処をつけた雨どいへと素早く手を伸ばした。

 がつっ!

 低い音を立てて紀香の落下が止まる。

「つかまりなさいっ!」

 鋭く叱咤されて夏希は紀香の体にしがみつく。磯辺も紀香の足にぶら下がる。

「お、重いっですっ!」

 両手でプラスチック製の雨どいにぶら下がり紀香はうめく。15歳の女の子としてはわりと力はあるつもりだが、3人分の体重を支えられる筈もない。

「でも、根性ですっ!」

 爪がはがれ、血が頬に飛ぶ。筋肉が千切れそうに痛い。

「む、無理だよっ!」

「やらなくちゃいけないことに!無理も何もありますかっ!」

 夏希の叫びに紀香は修羅の形相で叫び返す。

「あなたとて!お兄様からそれくらい学んだでしょう!あなたも磯辺さんも助けて私も助かる!それでなきゃ意味ないんです!無茶してこそ・・・頑張る意味が・・・!」

 その手が軽く滑った。数十センチを滑り落ちてから舌打ちをひとつして再び雨どいを掴みなおす。

「このっペースでっ・・・何度か落ちたら飛び降りれる高さになるかもしれませんねっ」

 切れ切れに紀香は叫び地面までの距離を目算する。今、3階ぐらいの高さ・・・およそ10メートル。

「・・・・・・」

 ただひたすらに前へと視線を向ける紀香を眺めて夏希はほろ苦く笑った。その姿に、恭一郎の姿が重なったのだ。

「・・・っ、よいしょっ!」 

 夏希は勢いをつけて体を振った。

「あいたたっ・・・夏希さん!何を?」

「窓に・・・足、届きそうなの」

 わずかに引っかかった足を頼りに体を壁に押し付ける。

「磯辺さん!一緒に体振ってください!」

「・・・へい」

 ふたりして体を揺らし、窓のふちに足をかける。

「やった!」

 夏希が歓声を上げた瞬間だった。

「あ・・・」

 紀香は空っぽの表情で呟いた。視線の先に自分の手がある。

 指先から流れた血のぬめりで雨どいから滑り落ちた手を。

「わっ!」

「あー・・・」

 支えを無くした夏希と磯辺もせっかく足のかかった窓枠から滑り落ちる。

 後に待つのは、10メートルの距離と激突の衝撃だけ。

「あ、あきらめません・・・!」

「夏希も・・・!」

「一応・・・私・・・も・・・」

 もつれ合い、三人は何か掴むものはないかと校舎に手を伸ばした。

 だが、雨どいはもはや遠く、窓枠にも手が届かない。

(駄目・・・なのですか!?)

 紀香は歯を食いしばり、ぎゅっと目を閉じた。

 夏希もまた、目を閉じて体を丸める。

 重力という無慈悲で平等な力が二人の体を地面へと引き寄せ・・・

「神楽坂無双流!」

 あきらめかけた二人の目がぱっと開いた。その声は、その言葉は、絶望的状況をひっくり返す魔法の・・・

「外技・破陣っ!」

 瞬間、紀香たちのすぐ下・・・2階のガラスが文字通り粉々に砕け散った。破片すら残さず吹き飛んだ窓の中に、黒いトレーニングウェアが現れた。

「お兄様っ!」「おにーちゃん!」

 同時に叫んだ二人に恭一郎はガラスを粉砕した腕を降ろしてにやりと笑う。

「おうよっ!」

 恭一郎は割った窓に足をかけ、一気に飛び出した。落下する紀香と夏希を空中でキャッチし、それぞれ片手でがっしりと支える。

「あ、あわわ・・・」

「お、おにーちゃん・・・」

 抱きかかえるように支えられて紀香と夏希は真っ赤になって恭一郎にしがみついた。

「覇っ!」

 ずさささささささささささっ!

 下への落下を斜めへの滑空に換え、恭一郎は砂煙をたてながら何とか着地を成功させた。三人分の重みに少々痛む足首をぐるりと回してから立ち上がる。 

「ったく、無茶しやがって・・・」

 呟きながら睨みつけられて紀香と夏希はしゅんと俯いた。

「だって・・・その・・・」

「夏希達・・・えっと・・・」

「だが」

ぷちぷちと弁解する二人を見て恭一郎はにっと笑みを見せる。

「よくがんばったな。二人とも。さすがは俺の妹だぜ」

 恭一郎はそう言って紀香達の髪をわしわしとかき回した。二人の顔がぼっ・・・と真っ赤に染まる。

「えへへ・・・」

 夏希は真っ赤な顔で笑いながら紀香に視線を向けた。やや困ったような顔のまま、紀香も照れた笑いを浮かべる。

(あ・・・紀香さんってほんとは・・・たれ目気味なんだ・・・)

 その笑顔が愛嬌のある・・・優しげなものであることに気づき夏希は目を丸くした。

(夏希さん・・・笑顔がかわいらしいですね)

 紀香もまた驚いていた。なにせ出会ったときから延々と喧嘩をしていたので、その事実に気づくのにずいぶんと時間がかかったのだ。

「さて・・・窓吹き飛ばしちまったしな・・・そろそろ警備会社が来るころだからさっさと逃げるか」

「はいおにいさ・・・あ!」

 首をコキンとならして歩き出した恭一郎を見て慌てて立ち上がった紀香は、ふとあることを思い出して青ざめた。

「いそ・・・いそ・・・何とかさんはどうなったんでしょう!?」

「そうだよ!いそ・・・何とかさん、そのまま落ちてっちゃったよ!?」

 夏希もあたふたとあたりを見渡す。

「おう、それなら、ほれ」

 恭一郎は苦笑しながら校舎のほうを指差した。

「え?」

 きょとんとして紀香がそちらに視線を向けると・・・

「ほーい、レスキュー完了だよ〜」

 むやみやたらと自信たっぷりな笑みがこちらに近づいてくるところだった。

「ああ、ご苦労さん。美樹。こんどなんか奢るからよ」

OK!期待してるよん」

 美樹は背中に磯辺を背負ったままでぶいっとポーズを取る。

「つーかよ、こいつは何者だ?」

「えっと、なんと言いますか・・・」

 紀香は答えようとして口ごもる。自分に告白しようとした挙句、屋上からバンジーしてとどめに自分たちと一緒に落下した人。

 なんとも阿呆な現実に、爪のはがれた指より頭が痛くなった。

「それ追求するの、後にしない?警備会社の人に捕まると面倒だよ」

「・・・そだな」

 美樹に言われて恭一郎は大きく頷いた。

「さあ、行こうぜ」

 さっさと歩き出した恭一郎の後に磯辺を背負ったまま美樹が続く。

「・・・紀香さん、大丈夫?」

「ええ、ご心配なく」

 夏希に支えられて、爪のはがれた指を押さえたまま紀香は歩き出した。

 

『・・・ありがとうございます  四井紀香』

『・・・どういたしまして    風間夏希』

 

 

 十数分後。風間家の庭に一同は逃げ延びていた。

「とりあえず、脱出には成功したか・・・」

 恭一郎は呟いてコキコキと首を鳴らす。その傍らで。

「紀香さん・・・その・・・昨日から、ごめんなさい」

 夏希は小声で謝ってペコリと頭を下げた。

「いいえ、こちらこそ・・・大人げありませんでした。すいません」

 紀香も微笑みながら頭を下げる。

 穏やかな空気で和んでる二人を眺めて満足げに頷いてから恭一郎はふとあることに気がついた。

「おい紀香。おまえ、爪はがれてんのか?」

「あ、その・・・落っこちたときについ・・・」

 ぱっと背後に隠した指を恭一郎は素早く掴んだ。

「・・・結構ひどいな。だが、まあ後には残らないだろ。しばらくすれば普通の爪がちゃんと生えてくるはずだ・・・って、砂くらい取っとけよ。痛いだろ?」

 そう言って恭一郎は紀香の指をそっと口に含む。

「!?」

「!?」

 紀香と夏希は二人同時にびくっと飛び上がって顔を見合わせた。

「あ・・・あ・・・」

 こっちを指差してパクパクと口を開け閉じする夏希に紀香は反射的にニヤリと笑う。

「これでよし。後でちゃんと手当てを・・・どうした夏希?」

「・・・ううん、なんでもないの」

 ニッコリと・・・こめかみに青筋を立てたまま微笑んで夏希は紀香を睨んだ。

「そこのとげとげとしまーが、ちょぉっと態度悪いだけだから」

 語尾にハートマークでもつきそうな口調だが、内容は・・・

「!・・・うふふ、嫉妬は醜いですよ。お・こ・さ・ま?」

 こちらも口調だけは柔らかく、中身は棘だらけで。

「あは、あはははは・・・」

 夏希の背後で三毛猫(オーラ)があくびした。

「うふ、うふふふふ・・・」

 紀香の背後でつちのこ(オーラ)がごろごろと転がった。

「・・・あーもう、仲良くなったんじゃねぇのかお前ら・・・」

「・・・あんたさ、日々天然っぷりがあがってんのね」

 ぐったりする恭一郎を美樹が冷たい目で眺める。

「やはりあなたのようなお子様にお兄様の妹たる資格はありませんっ!」

「ふーんだ!紀香さんみたいなウニおんなにおにーちゃんの妹をやらせないもん!」

 しばし沈黙・・・そして。

「ていていていていてい!」

「えいえいえいえいえい!」

 始まったお子様ケンカを眺めてため息をつく恭一郎の袖がくいっと引っ張られた。

「あん?」

 振り返ると、なにやらどんよりとした雰囲気を漂わせたままで磯辺が微笑んでいる。

「じゃあ、とりあえず私が妹でどうでしょう兄ちょち・・・」

「兄ちょち・・・?」

「あにちょち」

 半眼で呟く恭一郎の腕に磯辺はぴとっとくっついた。

「ああああああああっ!いそ・・・何とかさん!私のお兄様に何をしてるんですか!」

「いそ・・・何とかさんはこのウニおんなが好きなんでしょ!?おにーちゃんから離れて!」

「なんていうか、今は兄ちょちにらぶらぶらんでぶー」

 紀香と夏希は素早く視線を合わせた。

(夏希さん。今は・・・)

(うん!休戦だね・・・)

 そして。

「お兄様!今お助け致します!」

「おにーちゃん!ちょっと待っててね!」

 飛び掛ってきた二人を磯辺は恭一郎にまとわりつきながらひょいひょいとかわしていく。

「二人の世界へ兄ちょちと〜」

「くぅぅ、ちょこまかと面妖な!」

「あーん、つかまんないー!」

 恭一郎は遠くを眺めながらぼんやりと考えた。

 北へ行こう・・・いやマジで。なんか、むっちゃ寒いところへ・・・

「葵〜っ!ヘ〜ルプ!」

「あんた、贅沢って言葉知ってる?」

 美樹の言葉をかき消すように、妹たちの叫びが夜空に吸い込まれて行く。

 

『えいえいえいえいえいえい!    風間夏希』

『ていていていていていてい!    四井紀香』