■ 発端 ■

 

ある日、僕は自殺を目撃した。

 飛び込み自殺だった。家の近くにある踏み切りを電車が通ろうとしたその時に、隣に立っていた女性がいきなり線路内へ身を投げ出したのだ。

 駅と違いあまり減速していない電車の車輪に巻き込まれた彼女の肉体は胸から下を轢断され、指も、肩も、乳房も、くすんだ褐色の内臓も、陰部も、腿も、膝も、ありとあらゆる部品が轢き潰されて混ざり合い、飛び散った。

 電車は急ブレーキをかけて数十メートル先に止まり、何事もなかったかのように踏み切りは開き。

 そこには、ぼぅっと立ち尽くす僕と、線路の向こう側でぺたりと座り込んだ少女だけが残された。

 僕の体には飛び散った血の斑点がつき、お気に入りのシャツが一枚駄目になり。

 そして少女の方は吹き飛んだ肉片を体中に浴びて既に意識を失っていた。

 一人の人間が肉の寄せ集めになる。

 隣に立っていた時には何も注意を向けていなかったような『普通の人』がだ。

 こうではない、と。僕は思った。

 これでは戻せない。これでは人間でない。人を肉に分けるならばもっと綺麗にするべきだ、と囁いた。

 それが、きっと始まり。

 霧崎イツキという人間にとっての、終わりの始まり。

 

 

HoRoBi E-01 Black Arm 

 

 

■ 解体現場(1) ■

 

 哀願。

 霧崎はそれがあまり好きではない。

「お願い!助けて!殺さないで・・・!」

「駄目だよ」

 だから、それを聞いたら即座に断ち切ることに決めている。はっきりと告げて尚うるさければ手順を変えて喉を先に潰すこともある。

「ひぃっ!」

 いくら叫ばれたところで辺鄙な街の、しかも夜の工事現場に人が居るわけは無い。心配は無用だ。

 ・・・もっとも、その為にわざわざ街を離れ、電車を乗り継いで郊外へやってきたのだから当たり前なのではあるが。

「嫌・・・なんでよ!なんでわた、わ、わたし、殺されなくちゃ・・・わたしがなにしたって・・・」

「君でなくてはいけないということは、確かに無いね。強いて言うなら君の中身が綺麗だからかな?」

 淡々と言われて女は言葉を失った。霧崎はその様子を見もせず、左手にはめた腕時計にちらりと眼を落とす。

「あぁ、早くしないと終電がなくなっちゃうね。無駄話は避けよう」

「な・・・」

 右手には一本のナイフ。口にしたのは殺人の予告。左手には腕時計。口にしたのは日常の時刻。

 アンバランスな現実。

「じゃあ、ちょっと我慢してくれるかな」

「い・・・」

 嫌、と叫んで逃げようと身をよじった女の膝がかくんっと折れた。一瞬遅れて体そのものが地に横たわる。

「ちょっとずれちゃったね。残念」

 うっすらと笑いながら霧崎はナイフを引き抜いた。

 わき腹から斜め上へと突き上げられ、左肋骨、下から6本目と7本目の間を通って心臓を貫いたそれを。

「もう3ミリずれれば心臓の真ん中だったのになぁ」

 その笑いが苦笑であることに女は不快感を感じていた。

(何よこいつ・・・あたしを・・・殺しといて・・・)

「ん?ああ、気持ちはわかるよ。確かに、僕には真剣みが足りないよね」

 霧崎の笑いは、女の体から力が失われるのと対照的に大きくなる。

「でも、しょうがないだろう?僕にとっては、あなたを殺すこと自体はどうでもいいんだから。でも殺さなくては解体できないわけだし・・・矛盾だね」

 勝手な言葉に、女はもう反発も恐怖もしない。恐怖と痛みで彼女の脳は思考できるだけの機能を保っていない。

「おっと、まだ駄目だよ。死んでは」

 霧崎は言葉と同時に再度ナイフを繰り出した。鋭利な刃先が音も無く鳩尾に沈む。

「気持ちはわかるけど、僕にとってはまだ始まっても居ないんだ。悪いけどもうちょっとつきあってほしいな」

 途端、弛緩していた意識が急激に覚醒した。鮮やかな赤、消えかけていた痛覚、むせ返るような血臭、口内に溢れる血と胃液の味。

 すべてが、鮮やかに彼女を襲う。

「が・・・ぎぃ・・・!」

「大丈夫。死なないよ・・・いや、訂正しようか。死ねないんだよ」

 霧崎は静かに言い、ピクピクと痙攣する女の柔らかい腹部を一気に切り開く。

「ああ、やっぱり綺麗な内臓だね。お酒もタバコもやらないんだ。いいことだよ」

 微笑みながら霧崎はナイフを更に滑らせた。下腹部から陰部を経由して太ももの内側、膝までの肉を一気に切り裂いて一度手を止める。

「・・・っ!・・・ぁ!」

 女の絶叫は声にならないまま唇を濡らした。

「ああ・・・本当に・・・綺麗だ」

 心からの呟きと共に閃いた霧崎のナイフが女の膝関節に食い込んだ。ガキリと骨に食い込む音がする。

「ここが難しいところでね」

 言葉とは裏腹に滑らかに動く手がぐるりと円を描く。一瞬の遅滞も無い。

「ほら、君の足だ。綺麗な形だろう?断面から覗く筋までいい造形をしているよ」

 女の目の前に差し出されたそれ・・・さっきまで彼女の体の一部であったモノをぼんやりと眺めた。

「あ・・・は・・・」

激痛の中で女は笑みのような表情を浮かべる。未だ死ねていない。狂うことすら出来ない。

笑うしかないという状況は実在する。

それが女の学んだ最後の事項になった。

(・・・わたし、が、ちいさく、なって、く)

 もう一方の足、両の腕、乳房。左右に分けて肋骨の一そろい、背骨、腰骨。一つ一つ丁寧に掻きだされた内臓。

丁寧に、鮮やかに切り取られ、彼女の傍らで湯気を立てている。

(・・・あれ・・・いまの、しんぞう?)

 痛みは、無くなっていた。あるいはそれを感じる神経も解体されただけかもしれないが。

(なんでしなないのなんでいたくないのなんでこわされるのなんでできるのなんでいきるのなんでわらってるのなんで・・・)

 パーツを失うごとに単調になっていく思考の中で女は繰り返す。

(なんできもちいいの?)

「・・・なんでだろうね?」

 霧島は静かな呟きと共に自らの行いを見下ろす。

 女に残されているのは頭とそこから伸びる不健全に白い脊髄。それだけだ。

「ああ、本当に・・・綺麗だね。素晴らしいよ・・・」

 たとえ誰かがそこを見ても、殺人の現場だとすぐに理解は出来なかっただろう。

 それほどまでに、それは完全で徹底的な分解。

 人という存在を根底まで突き崩す、存在を犯す行為。

「も・と・・て・・・」

 そして、そこは未だ殺人現場ではなかった。女はその状態で尚、生きていたのだから。

「ふふふ・・・欲張りだね。君は」

「・や・・・もっと・・・ころして・・・」

 途切れ途切れの言葉に霧島は優しげな笑顔で首を横に振る。

「ごめんね。だけど僕は、顔だけは壊さない主義なんだ」

 言いつつナイフの切っ先を女の首、その切断面から内部へと容赦なく突きこむ。

「だから・・・ごめん。君は本当に死ぬことになる」

「ん・・・」

 女の首は一度だけ不満そうにびくりと震え、そのまま動かなくなった。

 見開かれたままの目の中で瞳孔が拡散し、噴出しつづけていた血が抜けきって止まる。

 遅延していた死・・・それが速やかに、容赦なく女に救いを与えていった。

「さて、と」

 霧崎は立ち上がった。あたりに散らばっている女の服だった布きれを一枚拾い上げて、握っていたナイフの血を拭う。

「ありがとう。それと、おやすみ」

 それが、霧崎にとって三度目の殺人の全容。

 そして、終わりの始まりだった。

 

 

■ 幕合 解体衝動 ■

 

 

「先生、聞きましたか?葉座守駅の近くの事件、これで3人目ですよ」

「ええ、酷い状態だったようですね・・・」

 霧崎は、教師である。

 あまりレベルの高くない女子高で数学など教えている。

「生徒達に注意するよう呼びかけた方がいいですかね?」

「いえ・・・今の時点ではそっとしておいたほうがいいと思います。事件がおきたのはかなり遠くですし・・・」

 その言葉にそうですねぇと頷いて同僚はため息をつく。

「まったく、なんでこんなことをするんでしょうねぇ」

「さぁ・・・」

 曖昧な返事をして霧崎はコーヒーカップに口をつける。

 なんでと問われると、霧崎にもそれはわからない。

 人が殺したいと言うわけではないはずだ。人間の中身に何故惹かれるのかも、実はよくわかっていない。

(異常だね・・・それは間違いない。わかっているつもりだよ)

だが、何故そうなってしまったのか・・・普通の家に生まれ、普通の生活をし、堅実に教師になった。

「なんででしょうね」

 心から呟く。

 本当に何でだろう。

 そして、一つだけわかっていること。

「大丈夫ですよ。そんなこと、長く続くわけがありませんから」

 そう。崩壊は、きっと近い。

 

 

       黒い男 ■

 

 

 男を見た。

 帰り際、校門を出たところに立っていた男を。

「・・・くく」

 大して興味も無いので霧崎はさっさとその脇を抜けて駅へ向かう。くぐもった笑いが、男の歪められた口元からこぼれた。

「・・・?」

 眉をひそめて足を止めた霧崎に、男はゆっくり、ゆっくりと顔を向ける。右の目をやや細め、左の目は閉じている。

「半端者め。傑作じゃないか」

「・・・何をいきなり言うんです?僕に用ですか?」

 問われた男はもう一度喉で笑い左のまぶたを上げた。

「・・・・・・」

 霧崎の口から声は出ない。感じた感情は警戒。

男のまぶたの下・・・左の眼窩には、何も存在していなかった。ただ、赤黒い闇が凝っているのみで。

「俺みたいなのが来ることくらい予想はしていたんだろう?そんなに睨むなよ」

「・・・何者・・・いえ、なんなのですか?あなたは」

 悲鳴でもあげるべきだったと気づいたのは、そう言ってからだった。人間の中身というものを見慣れている霧崎にとってはたいした事でなくとも、普通眼球が無く、しかも義眼も入れていない眼窩を見せられれば恐怖と嫌悪を抱くものだ。

「誰でもいい。神蝕が三段階までいったが支配から逃れたなど稀な事象だが、今は追求している暇が無い。この領域の主はもはやおまえではないからな」

 男は言うだけ言って踵を返す。ひらひらと振っている右腕の反対側・・・まっすぐ下を向いた服の左袖には手のひらがない。

 どうやら、この男は目だけでなく腕も片方無くしているらしい。

「・・・何を」

 霧崎はただその背を見送っていた。隻腕、隻眼。髪から服、靴にいたるまで黒く染まったその姿を。

 男の言葉は何も理解できなかったが、ひとつだけ、感じたこと。

「僕を壊すのは、君だね・・・?」

 

 

■ 解体衝動(2) ■

 

 

『わたしを、ころして・・・』

 翌日の放課後。

生徒達と挨拶を交わしながら階段を降りていた霧崎は、耳元に響いた言葉にふと動きを止めた。

 周囲には既に人の姿は無い。さっきすれ違った少女のうちの誰かの言葉なのか、それとも自らの中から沸きあがった言葉なのか。

 それを判別するのを、霧崎は既に諦めている。

「・・・・・・」

 不意に脳裏をよぎった鮮やかな映像に霧崎は軽くよろめき、壁にもたれたままで目を伏せた

 艶やかな臓物、丁寧に取り除いた肋骨の白さ、脂肪層の濁った黄色。そういったものが、鮮やかに、脳裏へと浮かぶ。

「・・・結局、それが僕の願望だからね」

 再び開いた瞳には、鈍く沈む光が宿っている。

「せんせーっ、さよならー!」

「・・・はい、気をつけて帰るんだよ」

 手を振りながら追い抜いていく生徒に軽く手を挙げ、霧崎は薄い笑みを浮かべた。

「気をつけて、ね」

 

 

       解体現場(2) ■

 

 

 喧騒からやや離れた路地裏が、霧崎の選んだ第四の現場だった。

「く・・・」

 その日の相手は、気の強そうな女子高生。唇を噛み締め、霧島を憎悪に満ちた瞳で睨みつける。

「いい眼だね。心の強さは体にあらわれるよ。うちの生徒にも見習わせたいな」

「教師なの!?人殺しがモノを教えるなんて何考えてるのよ」

「さあ?これは趣味だからね。職業とは特に関係ないよ」

 しれっと言う霧崎に女子高生は舌打ちした。

 空からは殴りつけるような雨。傘の柄を手が白くなるほど握り締めた女子高生に対し、霧崎が手にしているのは左右に一本ずつのナイフだけ。

「最低っ・・・!そんな奴・・・あたしが逆に殺してやるわよ!」

 女子高生は叫び、傘を閉じた。勢いよくそれを振ってから金属製の先端を霧島のほうに向ける。

「最高だね。君は・・・ああ、本当に早く見たいよ」

「見たい!?何をよ変態っ!」

 霧崎は微笑み、雨で滑らないようにナイフを握りなおした。

「いやいや、そういうものではなく、もっと深いところ・・・君の、中身をね。きっと綺麗な内臓だよ」

「っ・・・死ねええええええっ!」

 少女は嫌悪に顔を歪めて叫び、閉じた傘を腰溜めに構えて突進する。その動きはつたないが、かなり早い。

「当然の要求だね。でも・・・その要望には応えられないかな。悪いけど」

 対する霧崎は落ち着き払った口調で呟いて一歩前に出た。

「あああああああっ!」

 女子高生は絶叫と共に霧崎の右目に傘の先を突き込む。

 

いや、突き込んだ、筈だった。

 

 がくんっ。

「な・・・!」

 しかしその瞬間、彼女の視界から霧崎の姿が消えていた。

一瞬遅れて視界そのものも左に傾く。

「な、何よこれ・・・?」

 声にならない疑問と共に女子高生はゆっくりと目を足元に向け。

「きゃああああああっ!?」

 喉が張り裂けそうな程に悲鳴を上げた。

 左の、足首が、無い。

「うん、余分な肉付きのまったくない、素晴らしい足だね」

 倒れ伏し、水溜りに顔から突っ込んで倒れた少女はその声を聞いてぎりっと奥歯を噛み締めた。

「この・・・変態っ・・・!」

「そうだね、自覚してるよ」

 両手で体を支え、痛みに顔を歪め。泥にまみれ。

それでも霧崎を睨みつける少女の顔に怯えは無い。

「く・・・冗談じゃないわよ!あたしの・・・あたしの足、返しなさいよ!」

「もちろん。これは君のものだからね」

 霧崎は眺めていた足首を丁寧に地面に置き、笑みを崩さない。

 その笑顔が、温かなものであることに。

 少女は、初めて恐怖を覚えた。

「あんた・・・一体・・・」

「次は、もう片方と手首かな」

 その言葉より早く霧崎の体は動き始めている。

水溜りに波紋を作ることすらなく迫った刃が街灯の無機質な光を弾いて閃き、少女の体から左の手首と右足の膝を奪い取る。

「痛っ・・・痛いっ!くっ、こ、このおおおおっ!」

 制服を泥の色に染めて転げまわりながらも少女は唯一無事な右手で石を拾い上げて霧崎の顔面へと投げつけた。

「・・・凄い」

霧崎はあえて動かず、その石を顔で受け止めた。ガツ・・・と頬骨が鈍い音をたてるのを見て少女の顔が引きつる。

「痛くないの!?」

「痛いよ。はは、君に言われるのも複雑だね」

 再度閃いたナイフが手首の欠けた左手の肩をえぐり、残っていた部分を全て泥濘の中に弾き飛ばした。

「ぎ・・・く、くそぉっ・・・!」

 少女が右手で殴りつけてくるのは放置し、今度は太もも、股間近くに深々とその刃を埋め込む。

「ぎゃあああああっ!」

 どこにでもありそうなそのナイフは頑丈な大腿骨の抵抗をやすやすと打ち切り、両方の足を一気に切り落とした。

「さて、いよいよ胴体を開けるよ」

「い・・・」

 嫌、の一言よりも早く霧崎のナイフは少女の鳩尾に突き立つ。

「痛いっ!痛い痛い痛い痛い!」

 絶叫とともに掴まれた右肩へ少女の爪が食い込むのに目を細め、霧崎はそのまま音も無く少女の腹を切り開く。

「あ・・・」

 制服ごと、あまりにも滑らかに切り開かれた自らの身体に痛みを一瞬だけ忘れて少女は呟いた。

(なんで・・・ナイフだけでこんなことできるんだろう?包丁で魚の骨を切るのだってあんなに難しいのに・・・)

 痛みと恐怖で麻痺し切った頭が意味もなく思い出す、料理をしている自分・・・あまり上手ではない・・・それと目の前で踊る白刃が、上手く繋がらない。

「美しいね・・・特に肺腑の綺麗さは息を呑むよ。造形が完璧なだけじゃない。機能もさぞかし優秀なんだろうね」

「そりゃ・・・そうよ・・・あたし・・・陸上の選手・・・なの・・・よ」

 苦しい息の合間にそう言ってくる少女に霧崎は驚きの目を向ける。四肢のうち3本までを失い腹を切り開かれた人間がいまだまともな受け答えが出来るとは。

「・・・本当に・・・」

 本当に、なんなのかは、霧崎自身にもわからない。

 心の中に一瞬だけ浮かんだ言葉とは裏腹に、霧崎の身体は左のナイフで腹皮を大きく広げた形で固定して内臓の摘出を開始していた。

「やぁ・・・い、や・・・あ、あた、あたしの・・・か、ら・・・」

「・・・・・・」

 少女の引き締まった体に納められていた生の証、脈打つそれらを傷つけぬように丁寧に切り取り、傍らに並べる。

 高揚感は・・・少ない。あるべき場所を離れたその器官類を美しいとは思うが、それを奪い取っているという快感が、今回に限って無い。

「痛いかな?」

「いたい・・・」

 生存に必要な条件を大きく割り込んでいるにも関わらず、少女ははっきりとそう答えた。

「でも・・・きもちいい・・・」

「・・・そう」

 一瞬の寂寥感。

だが、自分でも理解できないその感情は一瞬で心の海へ溶け込んでいく。代わりに浮かんできたのは解体者としてのいつもの言葉だけだった。

「大丈夫。まだまだ・・・死ねるからね」

 血が抜け、白みを増していく少女の表情が明確な快感に緩んでいくのを片方の眼で確認しながら・・・

 霧崎は、本格的な解体を開始した。

 

 

■ 黒い男(リフレイン) ■

 

 

 霧崎は学園へ向かう際、電車を利用している。自動車の運転免許は持っているがアパート暮らしで自家用車は持ちにくい。駐車場を借りるのが面倒なのだ。

 家を出て踏み切りを渡り、十分ほどで済む駅への道のり。

「・・・あなたは」

 その途上の道端に、黒い男は立っていた。

「よう、また会ったな」

 皮肉気な笑みを浮かべ、片手を軽く挙げて。

「・・・・・・」

 無言でその脇を通り抜けようとした霧崎の髪の先が目の前を通過するのを見送り、隻眼の男は笑みを深くした。

「またも無視とは冷てぇじゃねぇか解体屋」

「・・・なんですか?それは」

 とぼけながら振り返り、霧崎は密かに重心を前傾気味にとる。いつでも襲いかかれるようにだ。

「・・・やめておけよ。どうせおまえには俺をバラせない。今は他に目当てがあるが、滅ぼして欲しいと言うのなら、考えないでもないけどな」

 何気ない調子で返される言葉にもまた、謎の言葉がちりばめられている。

(でも、戯言とも思えない。妄想や幻想という感じもしない・・・第一、彼は『解体屋』と僕のことを称した)

 今のところ、霧崎本人以外知るはずのない事実を、男は知っている。

「何の用ですか?僕に」

「調べてるうちに色々わかったんでな。次が起こるまでは暇なんでお前をからかいに来たってわけだ」

「次・・・?何の次なんです?」

(確証があっても現行犯以外で捕まえない?いや、確証がないから揺さぶりに?)

「くっくっく・・・」

 何気ないそぶりを装って考え込む霧崎に男は喉で笑う。

「一つ忠告してやろう。おまえは、何も理解していない。理解できていない。疑うべきことはいくつもあるがおまえは気付いていない」

「疑う?何をです?あなたをですか?」

 言いながら、霧崎は自身でそれを否定していた。

(違う。この男は嘘をついていない。嘘をつくもの特有の筋肉の硬直が発生していない)

 男の高度に発達した身体、その中身と外見を交互に観察しつつ続ける。

「誰とも名乗らず、人を待ち伏せているような男に忠告される覚えなど、僕にはないんですがね」

「まあそう尖るなよ。今おまえに降りられては餌として旨みがない。かといって放置しとけば、あとで面倒だ。その程度の暇つぶしなんだからな」

 霧崎は更に警戒を深めて男に向けていた視線を細める。

「改めて聞きます。あなたは何者ですか?」

「くくく・・・可愛いじゃねぇか。一応、俺を人間の分類とは認めるわけだ」

 眼球のない左目の眼窩を霧崎に向けて男はひとしきり笑い、肩をすくめた。

「わかってんだろ?何なのかと聞くならば・・・おまえにとっても、『滅び』だ。俺個人に対する名前は、今は無い。あと一度しか会う機会は無いが・・・呼びたければ好きに呼ぶがいい」

 霧崎はしばし沈黙し、言葉を慎重に選んで口を開く。

「では、あなたのことは『丸山三郎太(仮名)』と呼ぶことにする」

「・・・・・・」

 男は唖然とした顔になって数秒間硬直した。ようやく反撃に成功して霧崎は少し満足する。

「・・・ちっ・・・わかった。頼むから妙な命名はよせ。俺は・・・ジン。そう呼んでくれ」

「・・・素直になったついでに、何をしに来たのかも教えてくれないかな?」

 霧島の追撃を、しかし男・・・ジンは再度馬鹿にしたような笑みを浮かべて首を振った。

「自分で気づけねぇなら俺にとっておまえは役立たずだ。餌が嫌なら自分で鎖を食いちぎれ・・・時間はいいのか?」

「・・・・・・」

 霧島はちらりと時計を眺めた。

「大丈夫だよ・・・ん?ジン?」

 戻した視線の先に、黒い男の姿は無い。

 逃げられた、という思いと共に見逃してもらえたという安堵も浮かぶ。

「・・・どちらだろうね」

 呟いて髪をかき上げ、その先端を弄びひとりごちる。

「あと一度、か」

 どうせ、そのときに答えはわかる。

 

 

■ 声 ■

 

 

 数日後の放課後。

 担任教師ではない霧崎はその日に予定されていた3度の授業をいつもどおりにこなし、放課後の校舎内をゆっくりと歩いていた。

「せんせぇ、さよーならー!」

「はい、最近は物騒ですから気をつけて」

「あはは、だいじょーぶだよ!じゃあね!」

 けらけらと笑いながら手を振る生徒たちに手を振り返して霧崎は屋上に向かった。

 軋むドアを押し開けて、転落防止のフェンス越しに校庭を見下ろす。

「物騒ですから・・・気をつけて・・・か」

 その言葉の軽さに吐き気を覚える。

4人、4人目・・・」

 あの日解体した少女は、霧崎にとって特別な意味を持っていた。

 それまでの3人を解体したときには、快楽のみを感じていて。あの日もまた、それを感じていたのは間違いない。

人を壊し、中身を取り出したいという欲望・・・それは、確かに霧崎本人のものだ。

(なら何故、こんなにも苦い?)

 問いへの答えは明確だ。

(・・・あの少女が・・・僕にとって好意的な存在だった。それが理由だね)

 笑い、じゃれあい、帰宅する生徒たち。嫌そうな顔で廊下にモップをかけている掃除当番。校庭を駆ける部活動の・・・陸上部の、生徒。

 その姿に少女の屍体の幻想が重なり、霧崎は顔をしかめる。

「違う・・・」

 そして、結論へと繋がる一つの事実。

「あの、強い少女までが・・・僕の解体を受け入れたことが・・・」

 吐き気を覚えるほどに、不愉快なのだ。

 なんて、無様。

「くっ・・・」

 呻きと共に眼をつぶり、落ち着けと自分に言い聞かす。

(解体などしなければいい。それだけだ)

 首を一つふり、校舎に戻ろうと踵を返した霧崎の前に・・・

「先生、お話があります・・・」

 眼鏡越しに鋭い視線を送ってくる少女が、居た。

「・・・うかがいましょう」

 瞬時に心のチャンネルを切り替えた霧崎は日ごろ生徒たちに見せている物静かな笑みを顔に形作る。

「あの、綱橋市で起きた・・・猟奇事件のことです」

「猟奇事件、ですか?」

 問い返し、少女を観察する。

 見覚えの無い少女だ。制服を着ている以上この学校の生徒なのだろうが・・・

(いや、どこか・・・記憶にひっかかる)

 考えているうちに少女は一度深呼吸をしてから口を開いていた。

「はい。昨日亡くなったのは・・・わたしの友人でした」

「・・・それは、ご愁傷様でしたね」

 霧崎の言葉を聴いた少女は軽く頷き、それから思い出したように頭を下げた。

「すいません。まだ名乗っていませんでした。2年の葦原涼子です」

「・・・それで、昨日の事件についてなにか?すいませんが生徒のみなさんにはあまり情報を流せないのですが」

霧崎は当たり障りの無い言葉で切り替えしたが、少女・・・葦原は静かに首を振る。

「いえ・・・私が聞きたいのは、先生がどう思うかですから」

「・・・僕が?」

「ええ。先生は、何故私の友人が殺されたと思いますか?」

 少女は伏し目がちに、だがきっぱりと問う。

「さて、ね。推測は出来るけど・・・僕の推測を聞いたところで・・・」

「それを、お聞きしたいんです・・・お願いします」

 誤魔化す為の台詞が何十と霧崎の脳裏をよぎり・・・

「そうだね。おそらく彼女たちが殺されたことに理由は無い」

 だが、選択したのは、そのうちのどれでもなかった。

「殺された意味、なかったって言うんですか・・・?」

「いや、そうではなく・・・殺すことそのものに意味があった、と思う。より正確に言えば生きたまま解体することに、だけどね。おそらく、誰が殺されるかの選択基準は見るに値する身体をしていたというだけじゃないかな。警察の調査でも彼らの間に繋がりはないと判断されたようだしね」

 そうですか・・・とうなだれる葦原を見おろし、霧崎はひとつ息をつく。

「でもね、目的の無い殺人なんてものはいつまでも続くものではないから・・・」

 ずっと感じていた予感。

 あの、黒い男を見てから確信に変わった事。

 『あと一度』の言葉が指す事。

「だから・・・その殺人犯が死ぬのも、そう遠くは無いだろうね」

「・・・つかまる、ではなくてですか?」

 葦原のその言葉で霧崎は確信した。

 この少女は、霧崎の正体を知っている。少なくとも、そうだと疑っている。

「こんなことをする奴に、まともな結末など似合わない」

 それを感じ、なお霧崎は口をつぐまない。

 解体を愛する、人の中身をぶちまける背徳的な快感と共に・・・

「きっと、それまでの行為にふさわしい無様な死を迎えるだろうね」

 胸中に等量うずまく、殺人への嫌悪のままに。

「・・・そうですか」

 葦原はぽつりと呟き、深く頭を下げた。

 その時。

『・・・・・・』

「!?」

 囁くような、耳に届くか届かないかという掠れた言葉。それを耳にした霧崎の身体がピクリと震える。

「ありがとうございます。先生・・・おつかれさまでした」

 そんな様子を気にするでもなく葦原は頭をあげ、ぱたぱたと階下へ続く階段へと向かった。

「・・・追って・・・きなさい?」

 呟きと共に、少女の去っていったほうを見つめる瞳が、徐々にその意味を変えていく。

 ゆっくり、ゆっくりと。

「そうか。君も、求めているんだね?一度だけ、一瞬だけしか味わえない快楽を」

 解体者の目に、なっていく。

「いいとも。今日は・・・君にしよう」

 

 ・・・そして、最後の事件が始まる。

 

 

■ 追跡者 ■

 

 

 葦原涼子は足早に街を歩いていた。

 もうすぐ7時になろうかという繁華街は、意味を成さない喧騒で彼女を包む。

「・・・・・・」

 葦原は圧倒的なざわめきを耳から締め出し、一つの気配に全ての注意を向けていた。

 十メートルを経て追跡する、霧崎に。

 

 

「・・・・・・」

 解体者は5人目の獲物と見定めた少女をゆっくりと追う。

(さて、どこでしかけようかな)

 いつもとは違うシチュエーションだが、結局のところやることは変わらない。

(・・・問題は、どうやって人目につかないところへ連れて行くかだね)

 これまでは絶対に見つからない場所を探し、そこで待ち構えていた。動機も特に無く、解体したくなるような身体を持つ女を通るのを待っていた。

 日常生活を捨てる気がない以上、それは当然の配慮である。

(・・・しかし、確率的におかしくは無いかな?)

 ふと、そんなことを考える。足は的確に葦原を追い続けたままで。

あるいは、以前ジンに言われた言葉がそうさせたのかもしれない。

(これまでに解体の為に街に出たのは4回。4回とも潜んで一時間以内に素晴らしい中身を持った人間に遭遇・・・)

 前を行く制服の後姿からは視線を外さず、通りを行く通行人をちらちらと覗う。

(ストレスで胃が痛んでるね。こっちは煙草を吸う・・・おやおや、物凄い偏食だ。この腸は酷い。彼は・・・うん、筋肉の発達具合が汚いね)

 気をつけないと肩がぶつかりそうな人ごみの中に、霧崎を満足させられそうな体の持ち主は居ない。

 場所が悪いのかなどと不審な思いが脳裏に浮かび始めたときだった。

「・・・ん?」

 視線の先で葦原がすっと進路を変えた。大通りから離れ、人気のない裏通りに足を運ぶ。

(・・・誘われてる、のかな?)

 霧崎は考えるのをやめ、葦原の消えた細い路地へと向かう。

 おそらく、少女は霧崎が『解体者』だということを知っている。それを考慮すれば、彼女が何らかの罠を張っている可能性は高い。

「警察に捕まって終わり・・・そんな結末は避けたいものだね」

 精神を研ぎ澄まし、辺りを覗う。十数メートル先を歩く葦原とついていく自分。人通りのない通りだから振り向かれればそれで終わりという状況が既に3分16秒。

(間違いないね。彼女は、わざと人気の無いところへ来たんだ)

 なら、そろそろ頃合だろう。

「葦原君。そろそろいいんじゃないかな?」

「・・・そうですね」

 足を止めた霧崎に合わせるようにして葦原もまた立ち止まり振り返る。

「さて、僕を・・・いや、『解体者』をどうしたいのかな?」

 あっさりと言い放って霧崎は微笑む。

「さっきも言ったけど、警察は勘弁してほしいな。そういう結末は僕には似合わない」

「止めたいなら、殺したらどうです?」

 挑戦的な・・・むしろ挑発といえる発言は、しかし霧崎に冷静さを与えていた。

(現行犯でつかまえる為の囮じゃあないね。さっき僕は自白している。わざわざ危険を冒す意味はない。それ以前に周囲に僕を捕まえる人間が居ない)

「殺す?・・・嫌だね。何故そんなことしなくちゃならないのかな?」

 言いながら、ふと気付く。

(彼女・・・僕が解体するにふさわしい体の持ち主だ・・・)

 自らの言葉を、逆説的に繰り返す。

(それなのに何故、解体したくならないんだ?)

 そして追跡の間に気付いてしまった問い。

(何故僕の前には、いつもこれだけの体が投げ出されるんだ?無防備に・・・)

「むしろ君こそ僕を殺してみたらどうかな?君にはその理由があると思うけどね?」

「先生にだってあるんじゃないですか?それとも、私の体では興味の対象外ですか?」

 その言葉を受けて湧き上がる衝動を、霧崎は無理矢理押しとどめた。

(おかしい・・・彼女は何故、自分がそういう体だと知っている?僕自身、何故そんなことがわかる?一目見ただけで内臓や筋肉の状態を見極めるなんて、可能なのか?)

 今、霧崎の目は葦原の身体を見通している。筋肉のしなり、眼球の動き、内臓の蠕動・・・肉体の持つあらゆる動きが、視覚として『見える』。

どこをどう切り裂いていけばいいのかも、それを見れば容易に推測できる。

(僕は何者だ?いや、者・・・モノ・・・?)

 一度抱いてしまった疑問は、あふれ出すように霧崎の思考を塗りつぶしていく。

(僕はいつから人を解体していたんだ?僕は何故、解体するんだ?僕はどうやって人を解体していたんだ?このナイフは何処で手に入れたんだ?何故僕が解体した人たちはあんなにも長く生きていたんだ?)

 今までにも考えたことのある疑問、そこから派生する新たな疑問、無限に続く自問自答の海に囚われ動きの止まった霧崎は、ふとそれに気付きゆっくりと顔を上げた。

「・・・君か?」

 抽象的な問いに、視線の先の少女は・・・葦原は唇の端を歪めて答えなかった。その代わりに、一言だけ呟く。

『私を、解体しなさい』

「っ・・・!」

 瞬間、霧崎は走り出していた。一歩目を踏み出すと同時に引き抜いていた両刃のナイフを逆手に構え、一瞬で葦原との距離を0に詰める。

(さあ、味わおう・・・彼女の身体を切り裂き、ぶちまけ、不可逆なその快感を・・・!)

 最短の経路を通過し柔らかな肉体に突き立てられようとしているナイフは少女の右腕を肩口から切り飛ばそうとし・・・

「違うっ・・・!」

 薄皮と制服の生地を切り裂き背後へ抜けた。

「ぁああああああっ!」

(解体しろ。切り、晒し、剥ぎ取り、撒き散らし・・・)

視野を深紅に染め上げる衝動に全力で抗い、霧崎は奥歯を噛み砕かんばかりに噛み締める。

「な、なにを・・・!」

 驚愕の表情で硬直する葦原の横を霧崎は駆け抜けた。そのまま足を蹴りのように勢い良く振り回し、その反動で反転。

 どんっ・・・!

 そして、狙い済ました肘打ちが葦原の鳩尾を痛打した。

「ぁ・・・!」

 空気の塊が吐き出され、崩れ落ちるようにその身体がコンクリートに倒れ込む。

「・・・ぅ・・・」

小柄な少女は、気絶したのかピクリとも動かない。

「っ・・・はぁ・・・はぁ・・・」

 身体に負担のかかる動きに乱れた息を整え、霧崎は足元に横たわる少女を見つめた。

「僕の中に解体衝動がある・・・それは事実・・・偽りは無い・・・」

 否定できないそれをナイフと共に固く握り締める。

「でも・・・」

 自分の中の衝動が、外からの干渉で・・・この少女の言葉で解き放たれたこともまた、隠しがたい真実だ。

「本心ではなかったのか・・・?僕が、殺してきた彼女達への行為は・・・」

 呆然と呟いたその言葉が消えるか消えないかという刹那。

「本心だろうよ。ただ、それがおまえだけの本心じゃなかったってだけでな」

「っ・・・!?」

 声。葦原のものでも霧崎のものでもない、第三の・・・そして男の声。

「よう、解体屋」

 そこに、黒い隻眼の男・・・ジンが居た。

 

 

■ 死望推定 ■

 

 

「・・・君も・・・僕を操るものか・・・!?」

 霧崎は混乱が抜けないまま呟き右手のナイフを握りなおした。息を整え、どこへそれをつきたてるべきか目を凝らす。

「やめときな。言っただろ?俺はバラせねぇ」

 だが、ジンは警戒した様子も無く肩をすくめるばかりだ。

「・・・何者なんです?あなたは」

 いつぞやも聞いた誰何に男は嘲笑を浮かべた。

「くだらねぇこと聞くなよ。聞いてどうすんだ馬ぁ鹿」

 沈黙する霧崎に男はゆっくり近づいてくる。

「おまえはただ黙って・・・」

 禍々しい笑みと共に近づいてくる男との距離は3メートル。それを、霧崎は射程距離内と判断した。

「ぁ・・・!」

 ゆっくり迫る黒い男の圧力に小さな叫びをあげて、霧崎は地を蹴った。パンッ!という破裂音と共に地面が爆ぜ鋭利な銀光が男の左わき腹へ・・・そしてその先の心臓へと迫る。

「くく・・・速いな解体屋」

 呟きよりも早く、やや旋回して男の体へ到達した刃がずぶりと肉に埋没した。

 水面に落とした石が沈むかのように何の抵抗もなくナイフは突き進み、肺をかすめて最重要器官・・・心臓へと進む。

 だが。

「そんな・・・!」

 霧崎の口から意思を離れた声が漏れる。

 それは、驚愕。

「こんな感触、あるわけない!こ、これでは・・・もう止まってるじゃないか・・・!」

「おまえの概念ごとき、俺には通用しない。いいからどいてろよ・・・最初から、おまえに用はない」

 心臓を抉り出す筈だったナイフ・・・だが、驚愕の為に動きの止まったそれはただの接点に過ぎない。

「・・・来た!邪魔だ!」

 そこを、ジンは掴んだ。ナイフごと霧島の腕を掴み背後へと乱暴に放り投げる。

「っ・・・!」

 頭から地面に叩きつけられた霧島は壊れた人形のようにねじれた姿勢で転がり・・・

「な・・・!」

 倒れたままで、それを見た。

「くははははっ・・・!我慢できずに起きてきたか!?」

 哄笑と共に右腕をかかげているジン・・・そしてその手で喉元を鷲掴みにされ、吊り上げられた女。

「な・・・!」

 裏返った悲鳴が漏れた。

「貴様が・・・パニシュキャリア・・・!世界への背約者・・・!」

 掠れた声と共にその女はジンに憎しみの目を向ける。制服を着た、やや華奢な身体は葦原のものだ。

だが。

「葦原さん?・・・じゃ、ない・・・!?」

 その女の顔は、葦原の真面目そうな面差しではなかった。表情が変わった程度ではない。いくら激昂しても、骨格レベルで変貌することなどあるはずもない。

 そこに付いているのは、二十代も半ばを過ぎた女の顔。

元は美人と呼べたのであろうその頭も、少女の小柄な体とスケールがあわず不気味さのみを感じさせる。

「ははっ!顔も擬態してたってわけか!融合ッつぅよりまさしく侵食だなぁおい!」

 ジンは叫びながら右手に力を込めた。掴んでいる喉をギリギリと締め上げながら瞼を上げ、何も入っていない左の眼窩をあらわにする。

「餌に食いついたうえにあっさり捕獲されるたぁだらしねぇなぁ!?」

(捕獲・・・?)

 それは、捕まえるという意味だ。動けなくし、意のままにするという意味。

「違う!ジン!」

 その瞬間。霧崎は思考よりも早く叫んでいた。

「何?」

 思いがけない方向からの声にジンは一瞬だけ視線を霧崎に向ける。

それは、致命的な瞬間。

「アハハハハハハハハハハハ・・・ッ!」

 女は甲高い笑いを上げていた。喉をジンに捕まれたまま、

「ジン、避けて!」

 ジンの、まさに耳元で。

「・・・首が伸びるのか・・・!?」

 ジンは叫びざま女の喉を掴む手を離し、バッと身をそらす。喉元をかすめてガチンと音を立てて歯が打ち合わされた。

「こんな・・・」

 霧崎はその光景に吐き気を覚えながら呟く。

バックステップし距離をとったジンと向かい合う女。その身体は依然として葦原のものだ。

 そして、その頭は・・・頭もまた、葦原のものに戻っている。

 あくまでも頭部だけが。

顔面から、女の首を生えさせて。

「なんて・・・不恰好な」

顔全体が正面に伸びたように発生した首と、その先についている怒りに歪んだ表情の頭を見つめ霧崎は思わず呟いた。

「油断したな。隠し腕ならぬ隠し頭とはなぁ?」

「・・・ジン。あれは頭だけじゃないよ」

 霧崎は混乱する思考を無理矢理落ち着かせて叫んだ。瞳に映った、見えるはずがなく、そしてありえないそれを直視し。

「あん?」

 今度は視線を外さずジンが聞き返し・・・

「逃がさないぃっ!」

 刹那、女の腹がばんっとはじけた。制服を内側から突き破って飛び出したピンク色の何かがジンと霧崎の身体にまとめて巻きつき、締め上げる。

「ちっ・・・なんだ?これは・・・?」

「小腸。彼女の身体に近い辺りは他の内臓を継ぎ足して長さを補ってるけど」

 背中合わせに縛り上げられた状態で霧崎はやや引きつった笑みを浮かべていた。

「・・・なんでわかるんだろうね。保健の成績、悪かったんだけど」

「・・・ああ、犬神憑きだからだろ。元、でもな」

 ジンが呟いた言葉に霧崎の中の何かがピクリと震えた。

「犬・・・神?」

「おまえに神蝕したモンだ。見たいんだろ?内臓。んで、それをぶちまけたいと思っているはずだ」

 霧崎は反射的にナイフを探した。だが、さっき転んだ時にでも落としたのか見当たらない。

「・・・こんな時になんだけど・・・君は、本当に何者なの?」

「知っても意味は無い。俺という個体には、既に意味は無い。俺はただ、滅びとして神蝕を逆に侵食していくだけだ」

 ジンは身体を拘束する肉色の鎖を眺めながら呟く。

「神蝕・・・神に、侵されること。まず空間が侵され、それに触れた人間が侵され、最後には神そのものが具現化すること。おまえの中に具現化した犬神はこの地の神蝕が最終段階に入った証拠、だったんだがな」

「・・・・・・」

 霧崎だけではなく、女も訝しげな表情でジンを見つめた。どうやら彼女にもその台詞は理解できていないようだ。

「くく・・・この程度のレベルの神蝕領域に3人も概念形質者が発生していたこと・・・そしてその一人がとてつもなく愚かだったのが俺にしてみれば幸いってわけだなぁ?」

 ジンは馬鹿にしたような笑みを女に向けた。

「何がおかしい!あんたみたいな餓鬼が・・・!」

「餓鬼、ね。俺は21歳、あんたは32歳。まあ、そんなもんか?四方津香津美さんよぉ?」

(ヨモツ・・・?・・・32歳?)

 霧崎の疑問をよそにジンは唾を吐き捨ててから喋り続ける。

「あ・・・あたしのことを知ってる・・・!?」

「調べりゃあわかる話だ。霧崎は神憑りだが、宿った神が既に死んでいる。残った欲望と能力が融合して概念形質に発展したみてぇだが、人格とのバランスは取れているから暴走はしねぇ。なら、3度の事件は何故おきた?第一、犬神を殺したのは誰だ?」

「ちょ、ちょっと待ってジン・・・!どういうことだ?僕は・・・!」

 霧崎の全身から汗が吹き出る。脳内に蓄積されていた疑問が組合わされ、解きほぐされ、結論を導く。

「答えは一つ。霧崎の中の神を殺し、概念形質を引きずり出して操っていた奴がいるってわけだ」

「ぼ、僕に・・・殺しをさせる為に?」

「違う。自分を、殺させる、為だ」

 ジンはくく・・・と喉で笑った。

「四方津香津美。32歳。某風俗店勤務。自殺未遂で入院すること14回・・・そして15回目で自殺成功・・・のはずだった」

「・・・自殺なんて、してないわ」

 女・・・四方津はふんと鼻を鳴らす。少女の顔面から伸びた生首が笑う姿は不気味以外の何者でもない。

「あたしはただ味わいだけ・・・あの快楽・・・この世に二つとない極上の・・・」

「死の、快楽・・・」

 霧崎は呆然と呟く。

「僕が与えてきたもの。そうだ。僕は確かにそう言った・・・まだまだ死ねる、と」

「四方津香津美は自傷症と診断されていたらしい。やれやれ・・・超弩級のマゾってわけだ。だからこそ求めてたんだろ。桁外れのサドを」

 動かない四方津を見据え、霧崎は首を振る。

「理解できない」

「する必要が無い。知るべきことは3つ。奴は殺されたがっていて、他人と融合することでその欲望を何度も味わうことができ・・・」

 ジンはそこで一度言葉を区切り、身体を締め上げる肉の鎖を右手で掴んだ。

「そして、ここで俺に滅ぼされるってことだけだ」

「あたしの身体は壊せないわよ!既に死んでいるものはこれ以上殺せない!」

 四方津の叫びと共にその身体からガキリという鈍い音が響いた。一瞬置いて肋骨がわき腹を突き破って飛び出し、ジンのほうに鋭い先端を向ける。

「キャリアのほうはここで死んでもらうわ。そして霧崎センセイはこの葦原の『言霊』でもう一度染め上げてあげる。アタシ好みの・・・解体人形にぃ!」

「!・・・芦原君の力!?」

 霧崎が驚きの声をあげると同時に、二人を縛り上げていた内臓がずるずると元に戻り始めた。抗いがたい力で四方津の方へと引っ張っていく。

「そうだ。あの身体・・・葦原涼子だったか?あいつも持ってんだよ。概念をな。言葉を媒介にした洗脳・・・神蝕の第2段階、願望の具現化。願いは『自分の話を聞いて欲しい』か?人格ぶちこわして操るとこなんざ中々にエグいだろ?」

「・・・僕が今、僕のままでいるのは・・・その能力が僕に向けられて」

 霧崎の言葉にニヤリと笑みが返ってくる。

「頭のいい子は好きだぜ。そう、その時おまえは犬神に変貌しかけていたんでそいつが身代わりになって生き延びた・・・

 ジンは言いながら左のまぶたを開いた。ぽっかりとあいた空洞が四方津を睨む。

「・・・あの様子じゃ、あっちはもう死んでるかもな」

「いや、彼女は生きてるよ。あちこち混ざってるけど、彼女の脳髄はいまだ機能を失っていない。パーツも欠損せず残っている」

 それこそ憑かれたような目で葦原を・・・奇怪な屍人を宿してしまった少女を見つめる霧崎にジンは一瞬だけ笑い、それから全ての表情を顔から消した。

「なら、祈ってるんだな。そのガキが生き延びられるように。俺がそいつまで滅ぼさないようにな」

「あんた馬鹿なの!?あたしの体は殺せないって言ってんでしょ!?」

 内臓を巻き上げ、鋭い肋骨をカチカチと鳴らしながら四方津は叫ぶ。その先端がジンと霧崎に突き立つまで、あと数秒。

「馬鹿は、おまえだけだ」

 そして、ジンは空っぽの左目を閉じた。ウィンクのような歪んだ表情で霧崎の方へ顔を向ける。

「なぁ霧崎センセよ。俺はあいつをどうしようっていうんだ?」

「え・・・」

 霧崎は一瞬眉をひそめ、すぐに口を開く。

「殺そうっていうのでも壊そうというのでもない。滅ぼす、と」

「そう。俺は・・・に・・・い」

 その言葉に聞き取れない何かの言葉で答え、ジンは左のまぶたを上げた。

そこに。

「!・・・目が!?」

 黒い、漆黒の眼球が、そこにある。

「殺すことと、壊すことと、滅ぼすことは別の概念」

 そして、同じ色の腕が肉の鎖を掴んだ。

 黒い、左腕。

 存在しないはずの。

「滅べ。堕ちた神よ」

 呟きにズブリという裂音が混じる。それは、ジンの爪が自らに絡みつく内臓に突き立った音。

「な、嘘っ!」

 四方津は思わず悲鳴を上げた。

「か、から、あたしの体がぁああっ!」

 絶叫。

突き破られた臓物は黒く変色し、灰となって崩れ落ちる。

「嘘よっ!葦原の体じゃないのよ!?これ、こ、これはあたしの・・・あたしの体なのよ!?パニシュキャリアと戦う為に持ち出した本物なのよ!?」

「死ぬという概念を宿した体は壊れない、か?ははは!パニシュキャリアの名を知ってることといい、誰かに入れ知恵されたな!?」

 ジンは哄笑と共に絡みつく臓物の残骸を振り払った。解放された霧崎は地面に投げ出されて転がる。

「概念を宿す・・・」

「そういうことだ霧崎。おまえのナイフが欠けもせず骨を断てるのと一緒。神蝕された者はその願望にそった変化を遂げる。永遠に死に続けるのが願望なあいつの肉体は常に死んでいるってわけだ。停止した肉体は壊れない・・・筈だった」

 ジンは黒い左腕で飛び散った内臓の破片を拾い上げ、ブチリと潰した。肉の質感を失い黒い灰になって消滅するそれを地面に投げ捨てニヤリと笑う。

「だがなぁ?聞いてないみたいだが神蝕体は神蝕体で侵食できるんだよ馬ぁ鹿。てめぇごときが絶対なわきゃねぇだろうが!センセのナイフでもてめぇより神蝕率がたけぇぜ?」

「そ、そんな、わけ・・・!」

 反論しかけて四方津は慌てて飛びのいた。一瞬で距離を詰めたジンの左腕が腹を突き破って飛び出した肋骨のうち数本を叩き折る

「ほらな?脆いもんだろ?」

 折れた骨は空中で砕け散り風に混ざって消えた。塵すら残らない。

「あたしの体が・・・壊れる・・・」

「滅びる、だ。概念形質者なら言葉は選べ阿呆」

 黒い左目でジンは四方津を睨む。

「それが・・・ジンの持ってる概念・・・?」

 霧崎の問いに、返答は一瞬遅れた。

「世界から『ずらして』いても俺の体を蝕み続ける最悪の、な。もともとは指一本だけだったんだぜ?」

「悠長に喋ってんじゃないわよ!」

 鞭のようにしなった内臓がジンの頬をかすめて地面を殴りつける。爆発したように弾けた地面にも滅びの男は嘲りの笑みを崩さない。

「今ので俺の頭を潰せないようじゃ三流もいいとこだぜ。よけてすらいねぇってのによ。所詮他人に取り付くだけがとりえのおまえじゃ戦闘屋の俺っていう害悪は止められねぇ」

「な、舐めてるんじゃ・・・」

 ない、と四方津は言い終われなかった。

「舐めるなと言ったものは、自分が世界を舐めている」

 瞬時に掻き消えたとしか思えないスピードで迫ったジンが、息がかかりそうな密着状態で言ってくるのに四方津は驚愕し、反射的にのけぞった。

 ビチリ。

 音。水っぽいそれと共に地面に薄い肉片が叩きつけられる。振りぬかれたジンの爪が四方津の顔から剥ぎ取った頬の肉、実に5センチ。

「あ、あた、あたしの、かお・・・顔!か、かか・・・!」

「ああ、安心しろ。今のおまえは二目と見られねぇほど醜いが、最初から死体に欲情なぞしねぇ」

 あからさまな挑発。だが、四方津はもはや激昂しない。

「傷、傷、傷、傷・・・・もっと・・・!」

 引きちぎられる痛みを快楽として悶える異形の女に黒い左手の男は目を細める。

「言い忘れていたけどな」

「死ぬのね・・・あたし、また死ねるのね・・・あは、あはああははははは・・・・!」

「俺の左腕で滅ぼされたものは、どんな概念だろうと無効になる。おまえはもう乗り移れない。転生することもないし安らかに眠ることも出来ない」

 黒い眼球の赤い瞳孔が爛・・・と鈍く輝いた。

「こいつを防ぐ手段はない。感染しちまえばどんな手を使っても滅んでいくだけ。俺自身すら徐々に食いつぶされているようにな」

 冷たい声に四方津の哄笑が止まる。

そんな馬鹿なという思い、傷つかぬはず『本体』があっけなく朽ちていった事実。

残ったのは・・・恐怖。

「ば、馬鹿じゃないの!?あんた何がしたいのよ!あ、あた、あたしはただ死にたいだけなのに!何であたしを・・・!」

「そういう台詞は概念を持ってない奴にのみ許される」

あとずさる四方津をジンは無表情に睨む。

「欲望で世界を塗り替えた神蝕者は、もはや世界から保護されねぇんだ馬ぁ鹿」

「あ、あははははは!できるの!?あた、あたしの体、葦原と融合してんのよ!?何の罪も無いこ、この哀れな少女まで一緒に滅ぼそうっての!?」

 長く伸びていた首が葦原の顔面に戻る。サイズのあわない顔面を少女の頭部に貼り付けた不気味な姿で叫ぶ四方津にジンは思わず失笑した。

「そいつも神蝕者だろうが。かってに滅べ。それに・・・」

 すっと指差した先は四方津ではなくその背後。

「さっきから忘れてねぇか?もう一人の危険人物をよぉ」

「!?・・・霧・・・!」

 ズブリ、と。

 言い終わることなく鋭い刃が四方津の喉に突き立った。

「悪いけど」

 霧崎は低い声で耳元に囁く。瞬間、ナイフが彼女の首をグルリと一周した。頚椎を切断したボグリという鈍い音が響く。

 一拍置いてどす黒い血流が噴き出した。宙に撒き散らされたそれは霧のようにあたりを支配し、解体者の体をもまだらな赤に染め上げる。

「君ごときの醜い体で彼女の中を汚さないで貰いたいな。彼女の中身は、血管の一本一本にいたるまで極上の芸術品なのだから」

「あ、あが・・・ぎ・・・・」

 意味を成さない悲鳴を上げる四方津の髪を掴み、霧崎は切断したその頭部をジンの方へ放り投げる。

「・・・うまく、いったね」

 そして、そこにそれはあった。手袋を脱ぐように、四方津の頭部を引き抜かれた・・・葦原本人の顔。

「そんなわけないじゃない!あたしはその子と融合して・・・!」

「概念形質に物理的な状態なぞ関係あるか。奴はこの世界でもっとも『解体』に適した存在なんだからな・・・霧島センセよ、面倒だから残りの内臓も掻き出しちまえ」

 転がってきた死望者の頭を蹴り止めて言ってきたジンの言葉に霧島は薄い色の笑みを浮かべる。

「言われる、までもない。一つたりとも残すはずないじゃないか」

 突き立てられたのは胸。心臓の淵。そのぎりぎりを掠めて金属の冷たさが埋没する。

(この完璧な中身を、少しでも傷つけるなんて出来る筈もない)

 口には出さず呟きながら、霧崎は抱きしめた葦原の体から異物を・・・四方津の内臓を一つずつ切り取り、ナイフの先に引っ掛けて引きずり出す。

「あ・・・ぁ・・・・!」

「悪いね葦原君。もう少し我慢してほしい」

 意識がないままに呻く声は悲鳴なのか、それとも・・・

「ん・・・ぅ・・・はぁ・・・!」

「よく頑張ったね・・・これで、最後」

 判断をつけず、最後に残された肺・・・煙草の影響でどす黒い・・・を掻き出し、自ら踏みにじって霧崎は呟いた。

「あとは、ジン・・・」

 対照的に、少女の体を大事に抱えて数歩下がる。

「ああ」

 腕組みをしてそれを眺めていたジンは呟いて足元の頭部を拾い上げた。

「嫌ぁああっ!あたしが何したって言うのよ!助けて、ねぇ、お願いだから・・・そ、そうだ!あたしは誰にだって入れるのよ!?あなた好みの誰かに入って・・・なんならあっちの・・・!」

「ありがとう、クソ女。おかげさまで気持ちよく滅ぼせるよ」

 わざとらしい爽やかさで微笑み、四方津の見開かれた瞳に親指を突き入れる。

「ぎゃあぁぁあああぁアアアアア!」

 甲高い悲鳴と指を濡らす鮮血にジンはぐっと唇の端を歪める。笑みが、嘲りのそれに変わる。

「自らの存在が終わるなんてこと、おまえには慣れたもんだろ!?」

 叫ぶ声に、ポキリという軽い音が混じる。

 それは四方津の頭蓋に黒い指先が突き立った音であり。

「ギ・・・!?」

 数限りなく死に続け、同じ数の人間の命を道連れにしてきた女が最後に耳にした音だった。

「ただし、次はない。永久に、何も」

 囁くような声と共に、かつてヒトと呼ばれていたものの残骸が黒く染まり、一瞬おいて粉々に砕け散る。

「・・・滅」

 残った黒い粉も軋むような音を立てて形をぼやけさせ、完全に消滅した。残されたのは、散らばった臓物と辺りに撒き散らされた大量の血液。

 そして、黒い左腕の男と血まみれの女。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 沈黙の中、霧崎は抱えていた葦原を地面に下ろした。そのままゆっくりとナイフを構える。

「・・・僕のような存在・・・『神蝕者』って言ってたね。それに対する君のスタンスは一貫していない。全て滅ぼすようなことを言っておきながら、僕が芦原君を助ける時間を稼ぐ為に四方津の注意を惹きつけたりもしている」

 ジンは滅びを宿した左腕を前に突き出し、黒眼でもって解体者を射る。

「で?それがどうしたってんだ?」

「つまり・・・君が滅ぼすものの定義に、僕や芦原君は入っていないと見ていいんだね?」

 沈黙。そして。

「ちっ・・・少しくらいビビれよ。可愛げのねぇ奴」

 ジンは舌打ちをして腕を降ろした。

「この地に発生した神蝕領域は本来の依り代であるおまえの中に生まれた結晶が死んだ時点でほとんど消滅していた。今まで継続されていたのは四方津がその代わりを務めていたからに過ぎねぇ」

「?・・・よくわからないが・・・もう僕や芦原君に力はないってことかな?」

 こちらはナイフを下ろさず呟いた霧崎は、しかし自分でそれを否定した。

「いや、まだ視えている。芦原君の綺麗な内臓も、君の鍛え上げられた肉体も。その左腕と目以外は全て・・・」

「一度概念で自分を変えちまった以上人間には戻れねぇよ。だが、おまえ自身でなくなる危険は、もう無い。概念を先鋭化させることで能力は向上するが、それ以外は身に付かない。・・・ようするに、おまえは神蝕者にはならない」

 半分も理解できないで戸惑いながらも霧崎は一つの感情に支配され、言葉を搾り出す。

「つまり、君が滅ぼす対象に僕たちはならないんだね?」

 ジンは薄笑いと共に肩をすくめてそれを肯定した。

「ああ。どこへでもかってに消えな。ただ概念形質者はこの世界にとって異物なことに変わりはない。気をつけなければ・・・何を笑っている?」

「いや、心配してくれてるんだな、と」

 不審気なジンから一度目をそらし。

 ダンッ・・・!

 霧崎は地面を蹴った。ジンの方へ。

「はっ・・・!」

一気に距離を詰め、何の工夫もなく真っ直ぐナイフを突き出す。

「む・・・!?」

 ジンは眉をひそめて左腕をあげ、黒い掌でナイフを受け止めて握る。一瞬だけドクン・・・と震えたナイフは次の瞬間漆黒に染まった。

「・・・やっぱり駄目みたいだね」

 霧崎は一瞬の空白を経てその得物を手放し、とんっと飛びのく。

「・・・何がしたいんだお前は」

 ジンは眉をしかめてナイフを投げ捨てた。滅びに感染したそれは地面に落ちるよりも早くこの世から消滅する。

「さっき、あなたは言ったね。概念形質は先鋭化すればするほど強力な現象を引き起こすと。現状では僕の形質である『解体』はあなたの『滅び』に負けているけど・・・」

 わずか3歩分の距離で霧崎とジンの視線が交差した。

「極限まで先鋭化すれば、その『滅び』・・・解体できるはず」

「・・・俺を解体したいと思ってるのか?救いのねぇこったな」

 くく、と喉で笑う男に対し霧崎は口元を緩めて首を振る。

 ・・・その頬が、僅かに赤い。

「いつかあなたを蝕むんでしょう?その『滅び』は。その前に『解体』してあげようと思ってね。概念ごときに君を滅ぼされてはたまらない」

「はあ?」

 ジンは目を丸くして霧崎を見つめる。そうしていると、まだ若いのがよくわかる。

「な、なにを企んでいる・・・?何が目的だ!?」

 狼狽するジンに、霧崎は笑みを浮かべたまま肩をすくめた。

「目的は特に無いよ」

 くすりと微笑み、やや上目遣いに男を眺める。

「ただ、僕はあなたが好きになったらしい」

 言って、霧崎は片目を閉じた。

「これでも、一応女なんでね」

 

                                  〜 End 〜

 

 

 

 

 

 

■ ブラックアーム ■

 

 

 何故僕の中に解体衝動があるのか。彼は犬神憑きだから内臓に興味がわくのだと言ったが、その犬神とやらは何故僕の中にいたのか。何処から来たのか。

彼が語らなかった、何故の部分に、実は心当たりがある。

 僕はどこまでも普通で、特別なところが全くなかった。真面目でまっとうであることを求められ、自分でも自分をそう定義していた。

 ある意味、誰もがそうだろうと思う。自分は平凡な人間であると自覚し、特別に憧れながら特別でないことに安堵している。それが、普通であるということ。

 楽な生き方。そして、脆い生き方。

 そんな普通の生活のさなか、僕は事故を目撃した。

 飛び込み自殺だった。家の近くにある踏み切りを電車が通ろうとしたその時に、隣に立っていた女性がいきなり線路内へ身を投げ出したのだ。

 駅と違いあまり減速していない電車の車輪に巻き込まれた彼女の肉体は胸から下を轢断され、指も、肩も、乳房も、内臓も、陰部も、腿も、膝も、ありとあらゆる部品が轢き潰されて混ざり合い、飛び散った。

 電車は急ブレーキをかけて数十メートル先に止まり、何事もなかったかのように踏み切りは開き。

 そこには、ぼぅっと立ち尽くす僕と、線路の向こう側でぺたりと座り込んだ少女だけが残された。

 僕の体には飛び散った血の斑点がつき、お気に入りのシャツが一枚駄目になり。

 そして少女の方は吹き飛んだ肉片を体中に浴びて既に意識を失っていた。

 一人の人間が肉の寄せ集めになる。

 隣に立っていた時には何も注意を向けていなかったような『普通の人』がだ。

 こうではない、と。僕は思った。

 これでは戻せない。これでは人間でない。人を肉に分けるならばもっと綺麗にするべきだ、と囁いた。

 あるいは発狂寸前の恐怖に対抗する為の逃避だったのかもしれないが、他ならぬ僕にそんなこと判る筈も無い。

僕はことあるごとに浮かんでくるひき潰された肉片を忘れる為、逆に整然と腑分けされた内臓を思い浮かべた。どうすればそうなるのか、そうできるのか、思い描いた。

 それが、おそらくは僕の衝動のルーツ。

 結局僕は怖がりで弱い。ただそれだけ。

「・・・まぁ、そんなところ」

 そして。

 あの時飛び込んだ女性。彼女は胸から下を車輪で断ち切られた。

 下の部分は轢き潰されて飛び散ったが、上は何処へ行った?

 あの時肉片を浴びた少女は、あるいは眼鏡をかけては居なかったか?

 終わってしまえばどうって事のない、自分勝手な三人のそれが始まり。

 彼を含めれば、四人になるわけだけれど。

「・・・・・・」

 無言で屋上のドアを開け、フェンス際から夕暮れの町を見下ろす。

 彼はあの後、やや慌てたようにその場から駆け去った。自称21歳、僕より5歳年下。

「なかなかに可愛いところがあるじゃないか」

 そんなことを呟きながら、ポケットに突っ込んだ刃物を軽く握る。

 あれから数日がたち、僕は一本のナイフを購入した。

 今でも僕は街行く人の中から解体したくなるような体を持った人間を探しているし、巡り合ってしまえば解体衝動がこみ上げる。

 でも、僕はもう人を解体しないつもりだ。それをすればヒトの世に隠れ住むのに支障をきたす可能性があるし、なによりも彼と違う側に立ってしまうことが辛い。

 首を振って、静かにナイフを取り出す。

 小さいながらもきちんとした鞘の付いた、戦闘用の頑丈なものだ。僕が使う以上切れ味は考慮する必要はないので研いだりはしていない。

「先生!」

 背後から聞こえてきた声は聞きなれたそれだったので得物を隠したりせず振り向くと、彼女・・・葦原君はこちらにてけてけと走り寄ってくるところだった。

「先生・・・また事件のこと、考えてたんですか?」

「まぁ、そんなところかな」

 僕は曖昧にそう言ってごまかす。彼女の概念、『言霊』を使われたら、すぐにばれそうではあるが、彼への想いは一応伏せてある。

 ・・・我ながらバレバレかな?とも思うけど。

「新宿の事件、やっぱり概念形質者がらみみたいです。多分『飢餓』とか『飽食』とかその辺だと思いますよ」

「そう・・・詳しい情報、まとめてあるかな?」

「はい。警察のデータを直接引っこ抜いてますからほぼ正確なはずですよ」

 僕は一つ頷いて遠い空に視線を投げる。

 結局僕は臆病で弱い。今も解体衝動を殺すことが出来ない殺人鬼だ。

 ・・・それでも、生きているから。

 なんとか現実と折り合いをつけて生きていこうと思う。できるだけ殺さないように戦ってみよう。その為には・・・まぁ普通でない人間には覚悟してもらおうか。

 僕の手の中にあるナイフ。その刃を僕は黒く塗りつぶした。

 この黒い武器が、彼と僕を繋いでくれることを願って。

 概念形質者は言葉を大事にする。

 彼は、そう言ったのだから。