ヴィクトールは、いつもの日のように学芸館の一室で訪れる者を待っていた。
と、いっても本人はそれを認めるのを潔しとはしないだろう。
それに、その待っているものは、来る筈がないのだ。
何故なら‥‥。
コンコン。
その時。
扉が鳴った。
「はいれ」
いつものように言う言葉。
だがそこに恐れと不安が同居しているのを誰が見て取れただろう?
来る筈がない。
来て欲しい。
その台詞で扉が開く。その向うには。
「‥‥レイチェルか」
「はい。ヴィクトール様」
そこに立っていたのは、金のウェーブに青紫色の瞳。言わずと知れた女王候補レイチェルであった。
なにかわからない落胆を覚えながらヴィクトールが、
「よく来たな。女王候補ってのも大変だと思うが‥‥」
いつもの台詞を言おうとした時、
「ワタシは、学習しに来た訳じゃないワ、ヴィクトール様」
遮られた。
「ん? じゃあ、話しか何かか?」
「いいえ」
そういうとレイチェルはにっこりと微笑んだ。
「ワタシが何しに来たか、自分の胸に手を当てればわかるでショ」
「‥‥‥アンジェリークの事か」
「ええ」
そう言うとレイチェルは腕を組んだ。
「どうしてですか? どうして、アンジェリ−クを断ったんですか」
「‥‥‥」
そう。
ヴィクトールが待っていたのは、アンジェリーク。
だが、訪れる訳がないのだ。
何故なら。
先日、アンジェリークの告白をヴィクトールが断ったから。
有り体に言えば『振った』。
「あの子が、遊びやいい加減な気持ちでそういう事を言う子ではない事は、ヴィクトール様が一番良く知ってる筈です。なのに‥‥。
毎晩隣でずっと泣かれてるワタシの身にもなってください」
すこしうんざりとした顔。
「それは‥‥」
「でも」
急にレイチェルはヴィクトールの言葉を遮った。
「今日は、もう一つ用があって来たんです」
「なんだ?」
「夕べ、新宇宙の女王にワタシが決まりました」
それは、物理的衝撃に近い感覚。
「そ、そうか‥よかったな」
取りあえず、祝いの言葉を口にする。
「ええ。ありがとうございます」
‥‥じゃあ、アンジェリークは女王になれなかったんだな‥‥。
それは、どこかほっとしたものを感じさせた。
ん? 何故俺がほっとするんだ?
ヴィクトールが、自分の中に芽生えた疑問を押しつぶしている時、
更に重ねて、レイチェルが言葉を発した。
それも、 こんなに機嫌の良いレイチェルをみたのは、初めてなぐらいににこにこしながら。
その言葉とは。
「それで、あの子‥‥アンジェリークを補佐官として新宇宙に連れていきます。それをご報告したくて」
「そ‥‥ん!!」
一瞬絶句したヴィクトール。
「あれ? なんで驚くんですか? あの子は、新宇宙の女王候補のひとり。おまけにあの子とワタシの親密度200%なんですから、片方が女王になれば片方は補佐官になりますよ。」
確かにそうだった。
そう言う結果を考えていなかったヴィクトールの方が可笑しいのだ。
可笑しいのだが‥‥。
「そう考えると、ヴィクトール様がアンジェを振ったのって、凄くいいことでしたよね。
ワタシは大事な友達と離れる事なく、ヴィクトール様は王立派遣軍の将軍として栄光の道を歩いていけるし‥ そうそう。独身だから誰か国の有力者から『うちの娘を貰ってくれないか?』とか言われて、きっと
『出世街道まっしぐらっ』ですよね〜」
レイチェルは、蕩々と話している。
「‥‥‥」
ヴィクトールは、なにやら難しい顔をして黙りこくっている。
そんな様子を見た少女は、首を傾げた。
「なんで黙ってるんですか? 双方よかったね、って言ってるのに」
「あ、ああ‥‥そうだな」
その言葉も何やら歯切れが悪かった。
「それとも、なんですか? ヴィクトール様、アンジェリークのこと、やっぱり好きなんですか?」
レイチェルの顔がすぅっと冷たくなった気がした。
「な、何を言うんだ。あいつと俺とは14も年が離れてるんだぞ?」
「そう‥‥ですか」
その言葉をきいた少女の顔が俯く。
「‥‥好きかと聞いたら『年の差』が出て来たか‥‥‥」
次の瞬間、ヴィクトールは激烈な視線に晒された。
「だったら文句ないですよね、彼女を連れていっても。彼女がどんなに泣いてもヴィクトール様には関係ナイんだから」
「そ、それは」
「年の差? 自分は彼女に似合わない? それとも王立派遣軍の将軍たるものが女王陛下に顔向けできない?
‥‥なんとでも理由つければいいワ。自分が納得するなら。
‥‥そして一生後悔し続ければいいのヨ。
部下を死なせてしまったことも、アンジェリークのその手を離してしまったことも」
「!!」
一瞬、拳が固まった。
その様子に気づいたレイチェルは、鼻先で嘲笑う。
「殴りたい? 殴ればいいよ。それだけの事はいってるもん。
でも、ワタシだってあんたを殴りたいのよ!」
苛烈さは、部屋をも侵食し、まるで気温があがっているかのように錯覚させる。
ヴィクトールは、額を流れる汗を拭った。
「ワタシは、絶対あの子をあきらめない! 自分の気持ちを無理矢理誤魔化して泣かせるような男になんか渡さない。
あの子の涙だって止めてみせる。
だって、私達はずっと一緒なんだから」
そこで一息つく。
「ただ、それをヴィクトール様に言いたくて。
‥‥すみません。ちょっと感情的になりました。ワタシ、いい女王になりますヨ。ヴィクトール様に教えてもらった精神の強さで」
レイチェルは、ひとつ深呼吸するとペコリと頭を下げた。
「でも」
紫の瞳が、一層色濃くなる。
「今、言った事もこれからする事も、ワタシは絶対後悔しませんから」
誰もいなくなった部屋。
ヴィクトールは、椅子に腰掛けた。
無意識に手が動いてる。そしてそれは、引き出しの奥から目当てのものを見つけだしたらしい。
すっと出て来た。
『それ』を弄ぶ手。
「‥‥14も離れてるんだぞ‥‥あいつは17で俺は31‥‥」
手は、それを開け、中身を取り出した。
「おまけにあんな華奢で‥‥細くて‥‥こんな傷だらけの俺なんかに似合う訳‥‥」
その中身を口にくわえる。
「それに、俺は女王陛下から新しい宇宙の女王の資質を育てる為に‥‥呼ばれたんだぞ‥‥」
シュポッ。
紫色の煙がたなびく。
そこまで来て、やっと自分が何をしていたのか気づいたらしい。口元の煙草をむしり取るとそのまま手で握りつぶした。自嘲気味の嘲笑いがもれる。
「こんなもので、誤魔化すのか‥‥」
握りしめた手のひらから、皮膚の焦げた嫌な匂いが立ち昇った。
あの時。
湖のほとりで。
俯いてたアンジェリーク。
『すまない‥‥‥』
その一言で、俺は全てに別れを告げた。
‥‥‥本当に?
彼女を求める気持ちはなかったのか?
心の何処にも?
『嘘つき』
その時。
コンコン。
またもや扉が鳴った。
「‥‥はいれ」
またきっと、レイチェルだろう。いい足りない事でもあったのか?
そう思い、促した次の瞬間。
ヴィクトールは、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる事になる。
「ア‥アンジェリーク‥‥」
床では倒された椅子が、音を立てて転がっている。
しかしそんな事は、ヴィクトールはまったく気づいていなかった。
ただただ、目の前にある顔をみていた。
その栗色の髪を。
その蒼碧色の瞳を。
その薄桃色の頬を。
その珊瑚色の唇を。
「あ、あの‥‥レイチェルにちゃんと御挨拶して来るようにいわれて」
すこし赤くなりながら、そう告げる少女。
が、急にその顔が固まる。
「ヴィクトール様、手っ!」
ぱたぱたと走り寄り、ヴィクトールの握りしめた右手をとった。
「あ‥ああ」
それでやっと自分が火傷している事に気づいたらしいヴィクトールを無理矢理水道口に連れていき、傷口を流水に晒した。
「‥‥どうしたんですか?」
十分くらい冷やしただろうか?
二人は椅子に座り、アンジェリークはヴィクトールに聞いて薬箱をだし、火傷に薬を塗り、包帯を巻いていた。
「いや‥‥ちょっとな‥‥」
言葉を濁すヴィクトールをじっと見た後、何も言わず少女は包帯を巻き続けた。
「火傷は後が痛むので、ちゃんとお医者様に行って下さいね」
綺麗に巻き終えるとそう言って微笑むアンジェリーク。確かに先程よりずきずきして来るのを、ヴィクトールは感じた。
だが、それよりも心の中がその笑顔でざわめいた。
「‥‥残念だったな」
ふと、呟く。
「え?」
「女王だ。お前は良く頑張っていたのに」
「いいえ‥‥当然だったと思います。レイチェルは、やっぱり凄いです。これからは、せめてレイチェルを助けていきます。
‥‥‥ヴィクトール様には、本当にお世話になりました。ありがとうございます」
その笑顔は、やっぱりいつものように穏やかで、それでいて少し寂しげで。
その笑顔を見た瞬間。
(もう二度とこの顔を、俺は見る事も叶わなくなるのか?)
そんな強烈な想いが、ヴィクトールの胸の中を嵐のように吹き荒れた。
ここで、少女を見送ってしまえば‥‥それこそ、この扉の向うに消えてしまったら‥‥その瞬間に、自分の全てが一緒に消えてしまうかもしれない。否、消える。絶対に。
「アンジェリーク‥‥」
「じゃあ、ちゃんと病院に行って下さいね」
アンジェリークは、そのまま一礼をして出ていこうとした。
(大丈夫。まだ、大丈夫)
笑って御礼が言えた。
それだけでも自分を褒めてやりたい。
本当に、好きだった。
この人とずっと生きていきたいと思った。
それは、通じていると思ってたけど。
『すまない‥‥』
あの一言で、終わってしまった。
後は、ただ、この人の未来(さき)の幸せを願う事だけ。
それだけは、誰にも負けないから。
アンジェリークは、もう一度深々と頭を下げ、顔をあげないまま部屋を出ていこうとした。
その手が。
掴まった。
「‥え?」
アンジェリークの右手は、しっかりとヴィクトールの包帯の巻かれた手に捕まえられていた。
その衝撃で、アンジェリークの瞳が滲む。
「どうして‥‥?」
「アンジェリーク」
「‥‥手を放して下さい‥‥」
何度、この手に助けられただろう?
何度、この人の存在が自分の支えになっただろう?
でも、もうこの手は私のものにならない。
わかってるから。
お願い、止めないで。
行けなくなる。
今でも、一番好きなのに。
「お願いします、放して下さい‥‥これ以上」
私の心をかき回さないで。
これ以上好きになったら‥‥心が破れてしまうから。
「だめだ」
「‥‥なんでこういう事するんですか?」
「わからない」
その手は、アンジェリークの力ではどうしようもない程、しっかり握られていて。
アンジェリークの蒼碧色の瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。
「‥‥私に好かれたら困るくせに、離れようとしたら捕まえる。
これじゃ、私、どうしたらいいのかわからなくなっちゃいます。ボロボロになっちゃいます‥‥!」
その言葉は、まるで悲鳴のようで。
たまらず、ヴィクトールは少女を抱きしめた。
「‥‥そうだ。俺なんかと一緒に来たら、お前はきっと後悔する。お前の華奢な身体は、心はボロボロになってしまう。
なのに‥‥なのに」
その台詞に、少女はハッとした。
「なんで、この手が放せないんだ? なんでお前がいなくなるのを黙って見ていられないんだ‥‥俺は‥‥俺は」
頬に落ちてくるのは、温かい雫。
それは。
アンジェリークは、更なる衝撃を受けていた。
自分より強い、自分より大人だと思ってた人から流れるこの雫。
「‥‥ヴィクトールさま‥‥?」
視界にはいるのは、その赤銅色の髪の毛だけ。
それは僅かに震えていて。
まるで『子供』のよう。
何故か嬉しかった。
今までも、『優しくて厳しい大人な男の人』として大好きだった。早く自分もそれにつり合うようになりたいと一生懸命背伸びしていた。
でも。
今は前よりも、もっと温かい、もっと大きな愛おしさが胸を溢れ出るようで。
「‥‥莫迦です‥‥」
凄く凄く嬉しかった。
ヴィクトールが自分の事を考えていてくれた事を知って。
やっぱり、確かに『通じて』いたことを知って。
でも。
私は、ヴィクトール様と離れる事が一番辛いんです。
逆に言えば、一緒にさえいられれば、この世の誰よりも幸せなんです。
それを、わかっていなかったんですか?
アンジェリークは、手をそっとその背中に回した。
自分の中の暖かさを伝えるように。
今までわかってもらえてなかった気持ちを込めて。
そっと抱きしめた。
何を言われても、もう離れる気はなかった‥‥。
「ヴィクトール様、大好きです‥‥離さないで下さい」
ふたつの影は、いつまでもいつまでもひとつだった。
「レイチェル」
庭園のカフェテラスで、グレープフルーツジュースを前に座っている新宇宙の新女王を見かけた王立研究院主任は、声をかけた。
ジュースを飲む訳でもなく、ただストローで意味もなくかき回していた少女が、顔をあげる。
「‥‥泣いてたんですか」
声を少々低めて、訊ねる。
「‥‥泣いてないワヨッ」
ぐいっと目を拭うと、いつもの蒼紫の目がすこし赤くなった。
エルンストは、特に許しを得るでもなく、当然の顔をしてその隣の椅子に腰掛けた。
「‥‥ヴィクトールさんになにかいいましたね」
これまた断定的な言葉を投げかける。
「‥‥まどろこっしいのヨ、あの二人」
「それは、同意見ですが」
手をあげて、野菜ジュースを頼む。
「で?」
「‥‥あの子を補佐官にして、新宇宙に連れていくって言ったノ。どんな事をしても。
あの子ったら、毎晩泣いてるんだもの。それこそ夢の中でも。
ワタシの友達にそんな事をした奴には、いいお仕置きヨ。
ワタシの力は、ヴィクトール様もよく知っている筈だもの。脅しにはいいデショ?」
ちょっと誇らしげに言うレイチェル。
その様子にちょっとエルンストの口元が緩んだように見えたのは、錯覚だろうか?
「‥‥本気だったでしょう?」
その声の中に、からかうような声色を感じたのだろうか? 少女は、キッと青年をねめつけた。が、それも一瞬で消える。
「もちろんよ。
泣かせるような真似をしたら、どこからでも取り返しにくるわ。あの子は、ワタシの大事な大事な‥‥友達なんだもの。
あの子を泣かせるものは、どんなものでも許さない。
‥‥でも、今は連れていく方が、泣かせてしまうから‥‥」
語尾が震え、俯いた少女の肩に、エルンストはそっと手をおいた。
「きっと大丈夫です。‥‥なんてったって研究院始まって以来の大天才のたてた計画なんでしょう?
今頃、二人してあなたに感謝してますよ」
「‥‥それはそれで不愉快なんだけどネッ」
またもやぐいっと拭かれた顔は、更に赤く染まった。
「‥‥エルンストッ! 今日はとことんつき合って貰うわヨ!
ここのケーキ、すべて食べ尽くしてやるっっっ!!」
「はいはい。でも、程々にして下さいね。新宇宙に行くのに重量オーバーでいけなかったなんて話はいやですから。一緒に行く者として、とても恥ずかしいですからね」
「‥‥あんたも言うようになったわね」
「お陰さまで」
いけしゃーしゃーというエルンストに最初ふくれていたレイチェルもくすっと笑い出し、周りの視線を集めていた。
すべては、新宇宙の女王が選出された日のことだった。
おわり
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