唱二の気まぐれ日記
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2002年−1月1日

 新年あけましておめでとうございます。
 昨年中はお世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 去年の世相を表す漢字一文字は、「戦」が選ばれたそうです。確かに、テロ事件や、それに対する報復攻撃等々で、戦争続きでした。しかし、「戦争の世紀」だった20世紀が終わり、新たな世紀に入ったとたんにこの有様では、なんだか不安ですね。
 太平洋戦争前、政府が大政翼賛会が創設されて、日本が戦争一色に染まりつつあるとき、敢然と政府批判、反戦演説を行った議員がいるそうです。その名を、斉藤隆夫(多分。ちょっとうろ覚え。さっきまでテレビでやってたんです)。
 曰く、「この世の中に、およそ戦争ほど馬鹿げたことはない。世界平和、共存共栄、世界秩序等々の美名を建て前に、国民に多大な犠牲を迫るのは、まったく愚かなことである」
 この演説に対して、結構たくさんの激励の手紙が寄せられたそうです。当時の日本国民にも、意外と賢明な方がたくさんいらしたんですね。
 まったく、今のどこぞのエゴイズムの固まりのような国の奴等に聞かせてやりたいものですが。

  国も、宗教も、天国も地獄もないと想像してみよう。
  全ての人々が平和に暮らしていると想像してみよう。
  君は僕のことを夢想家だというかもしれない。
  でも、僕一人じゃないはずさ。
  いつか君も僕たちに加わって、
  そうして、世界が一つになることを、僕は望んでいるんだ。

 今年こそ、平和の世紀元年になって欲しいと思います。




2001年−12月25日

 今日はNHKで、「日本人〜はるかな旅〜」がやっていて、冒頭、私の実家のある多摩ニュータウンで見つかった、縄文時代の遺跡が紹介されていました。多摩ニュータウンは、田舎だ、山の中だと、都心の人から言われるけれど、今の都心なんかよりずっと昔から人が住んでいた、伝統ある土地なんだなぁ、と勝手に解釈。実際のところ、縄文時代は、今の都心はおそらく海の底で、住みたくても住めなかっただけだとは思うのですが。
 この番組のオープニングで「私たちはどこから来たのだろう」という字幕がでますが、自分たちの由来を知ることって大切ですよね。自分たちの歩んできた道を知って、これから自分たちの歩むべき道を考える。科学技術も大切だけれど、こうした自分自身について考えることも同じくらい大切です。ちょっと乱暴になってしまうことを承知の上で言えば、科学技術はこれからの自分たちを作っていく方法でしかなく、そういった方法の前に、自分たちがどこに向かうべきかを考えなくてはいけないことを考えれば、自分について考えることは、科学技術よりもずっと大切かもしれません。
 このあいだ、飲み会の時に文学部の人と話したのですが、理系をはじめ文学部以外の人は「文学部は何の役にも立っていない」と言います。確かに、直接お金になるようなことはあまりしていません。けれども「お金になること=役に立つこと」でしょうか?
 文学部の分野の一つに「文化人類学」というものがあります。これは、以前はいわゆる「未開の文化」に入っていき、「野蛮な文化」を調査する、みたいな、ちょっと差別的な思想もあったようですが、今では違います。今、文化人類学で大切なのは「他者理解」です。違う文化や違う思想を理解する。これが一番大切なのです。
 この「他者理解」は、地球の平和を作っていく上でも、重要なキーワードです。例えば、アメリカがもう少しイスラム社会を理解して、イスラムに対して配慮のある行動を前々から取っていれば、ニューヨークでの同時テロも起こらなかったかもしれません。
 これまた少し文学部を重視しすぎている感があることを承知の上で言えば、文学部は、人間について研究するところであり、これは、人間が生きていく上での基礎中の基礎です。他の学部などが行っている研究は、全て文学部で行っている人間研究の上に立っています。
 どんなに科学技術が進歩しても、その科学技術を使う人間がダメでは、その技術が悪用されたりします。文学部は、人間を育てて、せっかくの技術が悪用されないようにする、そんな潜在能力も秘めていると思います。これからの世界で一番重要なのは、今では主に文学部が行っている、人間研究だと思います。
 というわけで、「文学部なんて必要ない」と思っているみなさん、もうちょっと文学部を見直してください(懇願)。



2001年−11月8日

 ああっ、早速週1回更新の方針が崩壊! ダメダメですね。今日は2時間目が休講(1時間目は元々ない)ので、その時間を使って更新。
 今回は、もう少し明るい話題。

 札幌の、北15条西1丁目か2丁目くらいのところ、藤学園の南側に、「ふうせんかずら」という喫茶店を見つけた。
 ふうせんかずらというのは植物の名前で、東京の実家で毎年育てている一年草。実の付き方が特徴的で、袋がぷくっとふくらんでその中に小さな種が入っているのである。
 今までも何度か店の前を通ったのだけれど、中に人がいるのが見えて、なんだかちょっと恥ずかしくて入れなかったが、昨日はたまたま誰もいなかったので、これはチャンスとばかりに店に入った。
 お店の中はとてもきれい。落ち着きがあって、風情がある。和風に整えられていて、棚や床、椅子やカウンターまで木でできていて暖かい感じ。和風の器も並んでいる。このお店では器も売っているらしい。
 カウンターに座ると、目の前にふうせんかずらが飾ってある。この秋切り取ったものを干して乾かしたものらしい。
 コーヒーを飲みながら、喫茶店のマスター(女性である)と色々話をする。東京でふうせんかずらを育てていたことも話した。私がこの店で勉強したことは2つ。ふうせんかずらはお茶花(茶道の時に添える花)だということと、ふうせんかずらの花言葉「ふくらむ夢」。
 東京では、適当に鉢植えにして育てていたから、お茶花なんて考えたこともなかった。ふうせんかずらってとても小さな花なのだけれど、「ふくらむ夢」なんて、健気。未来を夢見て精一杯咲いているような、そんな感じがする。

 小説のネタに使えそう、などと思って、少し書き始めた大澤でした。色々イメージをふくらませていたら、結構長いお話になってしまいそうだ。いつできるかわからないけれど、気長に待っていてくださいませ。題名は多分、シンプルに「ふうせんかずら」でしょう。




2001年−10月23日

 暗い話題ばっかりで申し訳ないのだけれど、自殺の話題。
 気付いた人もいるかもしれないけれど、今日、「クローズアップ現代」を見た。
 内容を簡単にいうと、父親が自殺して、残された子供が心に傷を受けている、ということ。子供は、周りから、父親は弱かったから自殺したんだと思われたくない、という理由で、周りにうち明けることもできず、一人で自分を責めたり父親を責めたり、悩んでいるのだそうである。
 自殺は弱いからするもの。確かにそうかもしれない。私のある人は、私が、太宰の前期や後期のような作品を書くと大抵、それを超えろ、といったアドバイスを下さる。こちらの勝手な解釈かもしれないが、この言葉は、自殺は弱くてはかなく耽美だ、けれどもそれを超えて強くなれ、といった具合に聞こえる。
 けれども、それはいわゆる「超人」の論理。強い人間だけが言えることのように思える。強くなれって言われてもねぇ……。なれないから自殺とか死を考えちゃうわけで……。川でおぼれている人に「川から上がれば苦しくなくなるよ」と言っているような感じ。
 やはり、川でおぼれている人は、川に入って助けてあげなくてはいけない。心が弱り切っている人には、話を聞いてあげたり、理解してあげようという姿勢が大切なように思う。
 多分、今の日本人の半分くらいは、死にたいと思ったことがあるだろう。それが、死ななくてすんだか、本当に自殺してしまったかの差は、本当にわずかだと思う。タイミング悪く、誰かから心ない一言を受けて傷ついて、自殺してしまった、とか、そんな感じ。人間なんて、みんな弱いのである。
 こういうとき、川岸から「強くなれ」じゃなくて、川の中に入って「どうしたの?」「大丈夫?」といった言葉をかけてあげれば、そして、その人の話を聞いてあげれば、少しは元気が出るかもしれない。
 私にとって、川の中から聞こえた優しい言葉は、太宰の小説だった。「俺も君と同じようなことを考えていたんだよ」と聞こえた。自分と同じことを考えていた人がいた、というだけで、随分救われた。私が死ななくてすんだのは、少なくとも「強くなれ」という言葉ではない。私は、そういう、同じ境遇にいる弱い人を、助けてあげられるような小説が書きたい。
 人間は弱い。だから助け合うわけで。もっと人のことを理解してあげるように、努力しましょ。

 なんだか、とりとめのない日記になってしまった。ま、日記なんてそんなものだろうか。




2001年−10月21日

 日記は久しぶりの更新。他のページの日記を見ていたんだけれど、みんなかなりマメに更新している。それに引き替え……、と思うと、更新したくなってきた次第。

 このあいだ、大学の授業で、ドイツ帰りらしい先生がこうおっしゃっていた。
「ドイツでは、人は働くために生活しているんじゃない、生活するために働いているんだ、という意識が広く浸透している。だから、1年に1度、6週間連続で休みを取ることが許されている」
 ドイツについては、この手の話には事欠かない。他にも、休みを取りやすくし、労働時間も長くし過ぎないことで、自分の仕事に誇りが持てる、という考え方も聞いたことがある。短時間に集中して仕事を行うことで、長時間仕事をするよりも効率が良くなった、という話も聞いた。
 さて、一方日本を振り返ってみると、まあ、自分はまだ学生であるから、直接体験では語れないが、少なくとも働いている人の話を聞く限りでは、ドイツと正反対の方向へ進んでいるとしか見えない。
 父の帰りは毎晩午後9時。7時、8時に帰ってきたら早いほう。朝も7時、8時には家を出る。休みも、夏と冬に一週間くらい取る程度。
 その他、家族だけでなく、何人かの社会人の方の話を伺ったが、どうも、日本では、人は働くために生活をしていて、長時間仕事をすることで仕事への誇りを失っているようである。

 私の考えでは、企業にとって大切なものは二つある。一つはお金。もう一つは労働力。
 企業は、金を払ってくれる客に対しては、幅広く、行き届いたサービスを提供する。市場調査をしたりして、客のニーズに合わせてサービスする。
 が、労働力を提供してくれる労働者に対してはどうだろうか。労働者に対して、労働の仕方について希望を調査したり、それに基づいた労働体制を提供しているだろうか。極めて疑問である。むしろ、札束を目の前にぶら下げれば、どこまでも走り続けるだろう、というような考え方に基づいて、無茶な残業をさせたり、休みを取れなくしているように思える。
 こういった状況には、多分、労働組合にも問題がある。聞いたところでは、労働組合があっても、「賃金を減らしても良いから労働時間を減らせ」という要求は出ないのだそうである。  昔は、労働者がそういう働き方を望んでいたのかもしれない。そして、労働組合の中でも、昔の人が労働組合のトップなので、今まで通りの要求しか出さないのかもしれない。が、今の若者が、はたしてそういう働き方を望んでいるのだろうか。そうは思えない。少なくとも、私は違う。
 このような、新しい労働力の希望を聞かない会社は、いずれ衰退するだろう。昔のような労働体制では、有能な若者は集まらない。将来の後継者が集まらないということは、その会社の先はないということなのである。
 最近、フリーターの増加が問題視されているが、こういった労働条件にも、問題の一端があると思う。若者に問題があるのではなく、頭の固いアホな年寄り連中が若者の求める、新しい、魅力ある働き方に耳を貸さないことに問題があるのだ。

 あーあ、日本で働くのやだなー。僕もドイツに移住しちゃおうかな。日本なんて見限って。ははん、衰退の一途をたどるがいいや。ざまあ見ろ、日本企業。




2001年−7月6日

「そういうときはジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる。」
「それでも飛べなかったら?」
「描くのをやめる。散歩したり、景色を見たり、昼寝をしたり、何もしない。そのうちに急に描きたくなるんだよ。」
 いつも、深く共感しながら見るひとコマ。「魔女の宅急便」後半のワンシーンである。
 自分も、昔そういうことがよくあった(「昔」というのは、今はどちらかというと時間的または体力的に書けなくなることが多くなっている、あるいは、ジタバタする前に書くのをやめちまってる〔<おい。〕という意味であって、決してスイスイ書けるという意味ではない。念のため)。全く、絵描きの子の言う通りなのである。書いても書いても気に入らなくて、100枚近く書いた小説をポシャにした経験もある。ポシャにして、しばらく何もせずにいて、ふっと書きたくなって書いたのが「春」だった。
 2人は夜にも話をしている。
「あたしね、キキぐらいの時に絵描きになろうと思ったんだよ。それがね、ある日全然描けなくなっちゃった。描いても描いても全然気に入らないの。それまでの絵が誰かの真似だってわかったんだよ。どこかで見たことがあるってね。自分の絵を描かなきゃって」
「苦しかった?」
「それは今でも同じ。でもね、そのあと、前より少し、絵を描くってことがわかったみたい」
 絵描きに限らず、創作をする者にとって耳の痛いところであろう。少なくとも、私にとってはそうである。自分の作品を書けているか。誰かの物真似になってはいないか。全く自信がない。今でも書くことに苦しんでいるか。小説を書くということが、以前と比べて多少でもよくわかるようになったか。……。
 色々な創作を、読んだり、見たり、聞いたりしている以上、それらの影響を完全に排除した全くのオリジナル、などというものは不可能にしても、少なくとも、取り入れたものをよく咀嚼して、自分のものとして吸収して、表現するようにしなくてはいけない。自分はそれができているのだろうか。反省しきりである。それができるようになると、きっと、書くのが苦しくなって、でも、書くということが少しわかるようになるのだろう。
 このシーンで絵描きの子は、創作をすることに自信と誇りを持って語っているように、私には見えた。宮崎駿監督の、創作に対する自信と誇りが乗り移っているのかもしれない。見るたびに、自分が創作をしていることが、少し誇らしく思えて、自信がでてくる。一方で、これくらい人に感銘を与えられる作品を書かなくてはいけない、と気持ちも引き締まるのである。
 宮崎監督の作品は、同じ創作者として(などと、宮崎監督と自分を同じ位置に置くなどおこがましいことこの上ないが)色々と考えさせてくれる。自分を改めて省みる、いい機会を与えてくれるのである。
 これからも、頑張らねば。




2001年−3月10日

 目が覚めると、函館はすぐそこだった。
 昨晩、夜行快速ミッドナイトで札幌を発ち、6時半には終点函館に着く予定なのである。「青春18きっぷ」を使った札幌から東京への帰省旅行である。
 函館でミッドナイトを降り、改札を出て、まずは腹ごしらえ。次に大きな荷物をロッカーに叩き込み、函館観光開始。海峡線と奥羽本線との連絡が悪く、急いで青森へ行ったところで、待たされるだけなので、函館でも観光しようというわけだ。
 まずは、かつて青函連絡船として活躍した「摩周丸」。もっとも、まだ朝早かったので中には入れず、外から見ただけだったが。摩周丸は函館駅近くの港に静かに停泊していた。威風堂々としたその姿は、私の知らない摩周丸の往年を想像させたが、対照的に、灯の消えた船体は憂愁を漂わせていた。思わず、足をそろえて、右手の指先を額の右端にあて、ブリッジに向かって直立不動、敬礼の姿勢を取った。
 その後は、適当に函館の街を散策。本当は五稜郭に行きたかったのだが、少し遠そうだったので、今日はとりあえず、次に来たときに備えて函館の街を下見しようというわけである。ゴローウニン事件で有名な高田屋嘉兵衛に関するものがあちこちにあった。私は日本史をやっていた関係で、高田屋嘉兵衛については少し知っていたが、せいぜいゴローウニン事件の人、くらいの知識しかなかった。また、ゴローウニン事件の重要性についてもあまり知識がなかったのである。
 ゴローウニン事件は、ただゴローウニンと嘉兵衛を交換した、というだけでなく、当時、日露両国が一触即発の状況だったのを、嘉兵衛の努力により戦争が回避され、さらに両国の友好関係を築くきっかけになった事件だったのである。また、嘉兵衛は、この事件だけでなく、函館を拠点に貿易を行い、函館の発展に大きく貢献した人物だったのである。
 これらのことを、私は函館に行って初めて知った。いや、以前、「菜の花の沖」というドラマでちょこっと聞いたことがあったが、函館に行かなければ、そのまま忘れ去っていたに違いない。全く、日本史で大学受験をしたくせに、情けない限りである。
 さて、その他にも面白そうなところは山ほどあったのだが、もちろん、とても電車の待ち時間に見切れるものでない。そこそこにして切り上げ、駅へ戻ったのである。
 函館はいい街だ。石川啄木が函館を好み、友人に宛てた手紙に「函館で死にたい」と記したため、本州で死んだ啄木の遺体が函館に葬られた、と聞いたが、啄木の気持ち、よくわかる。古い港町特有の、少しひなびた感じと、昔からある街に見られる雑然とした感じが、上手く調和していて、何となく落ち着くのである。
 北大水産学部のキャンパスが函館にあると聞いていたので、見てみたいと思ったが、どうもこちらはJR五稜郭駅の近くらしいので、また今度、といういうことにした。

 国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。
 ……といっても、越後湯沢に着いたわけではない。青森に入ったのである。
 函館はもう雪は少なく、この分なら本州に入れば雪とはおさらばだろう、と思っていたが、甘かった。東北は北海道以上の豪雪地帯であることを忘れていた。青森駅周辺はそれほどでもなかったが、蝦夷の国と陸奥の国を隔てる青函トンネルを抜けたとき、吹雪いていて、ぎょっとした。結局、これをしたためている、山形と新潟の県境においても、まだ雪とは別れられていない。雪と離れられるのは、おそらく、関東地方に入ってからのことだろう。
 あと約9時間半後には、実家の最寄り駅、南○沢に着いていることだろう。あるいは、既に実家に帰り着き、自分の布団に潜り込んでねているか……。
 とにかく、あともう一頑張りである。

(この日記は、確か夜行快速「ムーンライトえちご」内で書いたんだったと思います〔苦笑〕)




2000年−10月18日

 今日、札幌では雪が降った。今シーズンでは初雪である。
 雪というのはきれいなものだ。真っ白な花びらみたいなものが、ひらひらと舞ってきて、地面にぶつかるとすっと消える。 今日は風が強かったのだが、そんな日には、雪が上空に吹き上げられることもある。まさに、乱舞。 遠くでポプラの木が、寒さで震えているかのように、風にゆれていた。それを、見せまいとするかのように、雪が舞い、視界をさえぎる。 部屋の中から見ていると、幻想的な気分になる。ありきたりだが、 真っ白に染まった世界や、その中を一人歩いている少女を思い浮かべてしまう。
 だが、こんなことを言っていられるのも、恐らく、雪がまだ積もっていない、今の時期だけ。 雪が積もって、視界どころか、行く手をさえぎるようになったなら、きっと、雪なんて見るのも嫌だと思うようになるに違いない。 今のうちに、幻想的な気分を楽しんでおくこととしよう。



2000年−10月11日

 今日、ようやく北大の情報処理室でパソコンが使えるようになった。インターネットし放題である。ただ、難点を言えば、学校のパソコンには一太郎が入っていないことである。 それから、私がいつも、ホームページをアップするのに使っているソフト、FFFTPがないのも使いづらい。FTPエクスプローラの使い方がよくわからないので…。
 ま、それも、無料でインターネットができるという利点を考えれば、大きな代償ではない。
 本当は、帰省についていろいろ書こうと思っていたのだが、こんな日記になってしまった。うーん……。
 気が向いたら、帰省についても書こうかな……。



2000年−7月31日

 今日の国会は、見応えのある一幕があった。
 民主党・無所属クラブの、水島広子議員の質問である。  はつらつとしている、というのが第一印象であった。国会議員には最も多い、老練な、権謀術数に長けた方々とは違い、若々しく、まっすぐな感じのする人だった。あとで聞いたところによると、この人は精神科医で、6月25日の衆院選で初当選を果たした新人なのだそうである。
 そして、印象もさることながら、発言内容も注目すべきものがあった。
 その内容は、@少年法改正について「犯罪を犯した子供を、ただ厳罰に処するだけでことが解決する、と考えるのは短絡的だ。加害者の子供にも心の傷があり、それを癒して、更生をはかることが大切だ」。A「各個人間の違いを認めることができ、個性を重んずることができるような子供を育てていくべきだが、そのためにはまず、大人が率先してそのように行動し、手本を示すべきだ」。など。
 これはまさに私の考えである。よく、国会議員は国民の声を代弁するのが仕事だ、などといわれるが、私の考えを代弁してくれた議員は、この水島広子議員がはじめてである。
 また、これらの意見を支える理由に、説得力がある。
 @に関して、何しろ、実際に精神科医として子供達と接してきたというのである。いわば心の専門家だ。実体験に基づく発言というのは、説得力があるものだ。私も、自分の意見に自信が持てる。
 Aに関しても、たとえば、彼女は夫婦別姓を貫いているという。どうしても戸籍上の姓が必要なときには、一時的に書類上離婚し、済んだらまた婚姻届を出す、という手段まで用いているらしい。夫婦別姓は個性尊重の一つの例であるが、彼女は、口で「個性尊重」と唱えるだけでなく、実行も伴っているのだ。
 また、「夫婦同姓は日本の伝統であり、これを崩すのに国民の同意が得られていない、という理由で夫婦別姓は先送りされているが、夫婦同姓は開国の時に西洋を真似て導入されたもので、日本古来の伝統ではなく、先送りする理由にならない」という、私が前々からどうしても言いたかったことを、しっかりと述べてくれた。聞いていて、スッキリした。
 そして、最後に、驚いたことには、「6月分の給料が全額支払われたのに驚いた。議員の給料は日割りで支払われるべきだ」という発言まで飛び出した。少し極端な言い方をすれば、これは「自分たちの給料を減らせ」と言うことだ。なかなか言えることではない。
 なお、この水島議員の発言は、この日の国会が首相の答弁に対する代表質問という形のものであったことを考えると、いささか型破りなものだったらしい。が、私は、これこそが国会のあるべき姿だと思う。党の代表だけが発言・質問する、ということ自体がおかしい。国会とは、みんなで話し合いをする場所だ、と私は教わった。いつでも、誰でも、議長の許可があれば発言できるのが、自然な形だろう。
 総じて、水島議員はかなり高く評価できる。自分の体験に基づいて、自分の言葉で自分の考えを発言している議員がどれほどいるだろうか。私の選挙区に水島議員がいたならば、迷わず彼女に一票を投じるだろう。
 彼女が発言している最中、思わず「そうだそうだ!」「いいぞいいぞ!」「ひ・ろ・こ! ひ・ろ・こ!」などと叫んでしまった。このまま水島議員のファンになってしまおうか(笑)。
 本当は、すぐにチャンネルをまわすかテレビを消すかするつもりだったのだが、つい水島議員の発言に聞き入ってしまった。このような、魅力・説得力ある発言が、これからもっとたくさん飛び出るよう、国会議員の方々には努力していただきたい。と同時に、私たち有権者も、そのようなよりよい議員を誕生させるよう、選挙の時には是非真剣に候補を選び、投票したいものである。



2000年−7月25日

 先日、やっと、ついに、亀の段ボールテーブルから解放された。新たな、まともなテーブルを手に入れたのである。
 ことの発端は、コタツの売り切れだった。春の大学合格が決まってからしばらくした頃、コタツがほしいと思ってコタツを頼んだのだが、売り切れだったのである。そこでしかたなく、しばらくの間は段ボールをひっくり返して使おうと思ったのだ。
 が、やはり使いづらい。次第に段ボールの中心部分がへこんできて、皿が傾いてしまうのである。汁物などは良くこぼれてしまい、困ったものだ。また、段ボールが低く、少し背を丸めながら食事をしなければいけなかったのも、いい気持ちはしなかった。一時しのぎのちゃちなのでいいから買おうと思ったのである。将来コタツを買う予定なのだから、コタツと同じような格好をしたローテーブルではなく、背の高い普通のテーブルのほうがいいかと思った。さっそく札幌のロフトへ行って探したのである。
 ところが、ちゃちなのがない。以前来たときは、ちゃちなものも見かけたのである。しかし、ない。ちゃちだと思っても、デザインがいいんだかなんだか知らないが、値段は高いのである。
 一番安かったのは、木製のダイニング三点セット。"SALE"の札が貼ってあり、イチキュッパであった。他のものはみな、テーブルだけで二万突破、テーブルと椅子一つで二万突破、といった代物ばかり。なかばしかたなく、かなりいいものだがこの木製の三点セットを買ったのである。
 このテーブル、7月20日に届いたのだが、さすがになかなか使い心地がいい。鮮やかな肌色、木目。久々にちゃんとしたテーブルで食事をしたときの感激はひとしおであった。また、テーブルに座り、ユーミンを聞きながらすするコーヒー・紅茶は格別だ。至福の時である。
 しかし、イチキュッパのダイニング三点セットを持っている一人暮らしの学生など、そうはいるまい。なんとも贅沢なものである。今までも、親にずいぶん金を出させてしまっていたが、これでまた、さらに親に頭が上がらなくなった。



2000年−6月19日

 今日は太宰治生誕の日。と同時に、彼の水死体が上がった日でもある。この日を彼の命日とし、「桜桃忌」と呼んでいる。 いや、確か「太宰治生誕祭」だかなんだか、名前が変わったのだが、私も忘れてしまったし、今でも「桜桃忌」で通っている。この日は、私のような太宰治ファンには特別な日である。
 太宰文学は「青春の文学」と呼ばれている。高校など、いわゆる思春期、青春期の若者に共感を与えることが多いのである。 思春期、青春期のものの考え方は、とても純粋で、人間にとって大切な部分が多いと私は思う。太宰の小説は、そういう部分と共鳴するのだろう。 「太宰は気狂(きちが)いだ」という人がいる。確かにそういう面もあるが、それはあくまで表の部分。その気狂いの裏には、太宰の純粋な心が隠れているような気がする。
 作家という職業には、思春期、青春期の頃のような、純粋な部分が必要だと思う。俗世間にどっぷり浸かって、思春期・青春期を思い出せないようでは、小説なんて書けないだろう。 そう考えると、「未だに太宰を卒業していない」という作家が何人かいるのも肯ける。
 「卒業」とは、そこで身につけるべきことを全て身につけ、修了することである。よく「私は太宰を卒業した」などと言っている人があるが、 それはただ単に「太宰のことを考えるのをやめた」だけで「太宰を中退した」という表現が適切であることが多いように思う。 太宰をある程度理解し、彼の考え方をふまえて次に進むのでなければ、「卒業した」とは言い難い。また、「卒業していない」と言う人の中にも、 この考え方で行くと「卒業」している人が多いように思う。
 私は、太宰を「卒業」して、よい作家になりたいと思う。
 今日はサクランボ(経済事情によりアメリカンチェリー)でも買ってこようか。
 ……これは日記なので、多少論理的でないような所もあるかと思いますが、見逃してください。(^^;



2000年−6月10日

 今日は、札幌市営円山球場へ、プロ野球、横浜−阪神戦を観戦しに行った。私は阪神ファンなのである。
 部活の、もう一人の阪神ファンの先輩と一緒に、円山球場へ行った。私は円山球場へは行ったことがないので、先輩にくっついていったのだ。
 円山球場は森の中にあり、とてもいい雰囲気だった。北海道神宮が近くにあり、霊験あらたかな、というか、何か特別な感じがした。 都心のど真ん中にあり、観光名所化している東京ドームとはエライ違いである。
 レフト側の入り口から外野席(椅子はなく、全部芝生である)にはいると、これがまたすごい。外野の天然芝の鮮やかな緑、内野の焦げ茶色の土、そして真っ青な空のコントラストが、とても印象的だった。 左手には、バックスクリーンの後ろに緑に覆われた大倉山がそびえている。あのスキーのジャンプ台もしっかり見える。ジャンプ台は、山の上方から川が流れ出て次第にその幅を広げていく様子に、 よく似た格好をしていた。
 私が球場に入ったときには、もうずいぶん人で埋まっていて、陣取るのに一苦労であった。
 選手は練習を始めていた。ボールがミットにおさまるバシッという音や、ボールがバットにぶつかるときの、乾いた、カンッという音がはっきりと聞こえてきて、心地よかった。 私は持ってきたカメラで選手の練習風景を撮った。
 午後1時半、プレイボール。
 試合の経過は、新聞に載っているのでそちらを見ていただきたい。ここでは印象的だった場面だけ、記しておく。
 まずは新庄のホームラン(NHKのサタデースポーツではこのシーンは流れなかった。なぜだろう?)。実は、打った瞬間を見逃してしまったのだが、ボールがスタンドへ吸い込まれるところはしかと見届けた。 まさに吸い込まれるという表現が適当で、レフトスタンド(私の座っているところからは遠かったが)へ、すうっと飛び込んできたのである。
 そして、横浜・波留のエラーも印象に残った。ああっ、ダメか、と思った瞬間、波留のグラブからボールがぽとりと落ちた。2者生還で、1点差に詰め寄った。 なお、このエラーのあと、レフト・三塁側(阪神サイド)のスタンドから、波留コールがおこった。背中を向けてうなだれる波留がちょっとかわいそうだった。
 それから、もう一つ感じたことは、新庄の背中が、テレビで見るよりもずいぶん大きく見えたことである。阪神を最下位脱出、Aクラス入り、そして優勝へと導いてくれそうな、頼もしい背中であった。
 ところで、試合が始まると、声援がとてもにぎやかである。練習の時のようには、ボールがミットにおさまる音やボールがバットに当たる音は聞こえてこない。鳴り物入りのお祭り気分の応援もにぎやかでいいが、 バシッ、とか、カンッ、とかいう音が聞こえてくるような静けさの中で試合を観戦してみたい。いや、何もずっと静かにしていろということではない。一つ一つのプレイに対して歓声を上げたり拍手を送ったりするのは、是非やるべきだ。 ただ、ピッチャーが投球をするときの一瞬の静けさ、そして緊張。次に何が起こるかわからない、そんな緊張感を、味わいたいのである。そういった静けさや緊張感があれば、盛り上がるときには、かえって今以上に盛り上がれるのではないかと思う。
 なお、試合の結果は知っての通り、阪神7−6横浜で阪神の勝ち。六甲颪(ろっこうおろし)を思う存分歌ってきた。中には、球場の外に出てからも、集まって、六甲颪を歌ったりして喜んでいるファンもいた。

 実はこの日、入場料はかからなかった。チケットを買う直前に、知らないおじさんが「これやるよ。二人分あるからちょうどいい」と言って、先輩と私の二人分、招待券らしいチケットをくれたのである。おそらく、 もらったけれど何かの都合で見られなかったのだろう。あるいは、余っていたのか。とにかく、そういうわけで、本当は今の経済事情から考えて、今日しか見に行けないかと思ったのだが、明日も見に行けそうである。 ただ、大学の課題がまだ終わっていないので、そちらとの兼ね合いもあるのだが……。
 ともかくも、今日はとても貴重な体験をした、良い一日だった。



2000年−6月2日

 今、北海道大学は大学祭の真っ最中である。
 大学祭の情報など載せているが、実は、私はこの手のものが嫌いである。
 祭りそのものはいい。だが、クラスで出し物(北大には一年の時にはクラスがある)を、などということになると、ひどい拒絶反応が現れる。 なぜクラス全員でやらなくてはならないのか。やりたい者だけで勝手にやっていればいい。やりたくない者まで巻き込んで、費用もふんだくるとは、近代個人主義に悖る(もとる)行為だ。 小・中学生じゃあるまいし、いい加減にしてほしいものである。小・中学校までは、行事も教育の一環だろうが、大学まで来てそんなことはあるまい。事実、大学祭で潰れた土・日の分の振り替え休日などはない。 大学祭は、あくまで希望者が行って楽しむべきものだ。
 つい最近まで、私は、なぜこんな全体主義的なことを強行するのか、わからなかった。日本人にはファシストが多いのかと憂えたものである。 しかし、大学の授業で、日本を始め東洋は元々個人の所有意識などは弱く、むしろ共有財産という観念の方が強かったのだ、ということを習って、ようやく理解できた。 そもそも日本では「個人」という意識が弱かったのだろう。何事も、たとえば村人みんなで協力して行っていた。今の全体主義的な祭りの行い方は、その名残なのだ、と。
 だが、「理解する」のと「許す」のは別である。理解できても、やはり、強制的に参加させられ、生活費を巻き上げられるのは許せない。無理をしてみんなにあわせて、やりたくないことをやって……。 そうして得られるものは? 馬が合わないのに無理矢理あわせてできた、1・2年で交流のなくなる友人と、心身の疲労、それだけである。
 近頃少年犯罪が取り沙汰されているが、これも、このような前近代的なファシズムにも近い活動が個人を縛り付けていることも、一因となっているのではないか。 事実、私も、無理矢理参加させようとするクラスメートをぶん殴ってやりたいと思ったことが何度もあった。
 大学祭などの強制参加のやり方を理解はできるようにはなったが、これに対する拒絶反応が鎮まることは、当分なさそうだ。



2000年−5月20日

 今年3月、北海道大学に合格。現在は北海道在住である。  今日は、「更新履歴」にあった以下の文章を独立させ、「唱二の気まぐれ日記」としてまとめた。  なお、今日は北海道大学文芸部で、ちょっとした食事・飲み会があり、 そのあとにこんなことをやっているので、もう午前1時である。眠い……。なお、午前1時とは、5月20日午前1時のことである。 言い換えると5月19日25時。5月20日25時ではないので、一応注意書き。



1999年−11月24日

「大澤唱二、ってどんなひと?」が一応完成。受験が近付いている。早く受かって北海道に行きたい。



1999年−10月7日

 10月3日のマーク模試、自己採点の結果かなり良い成績だった。 嬉しいのだが、この模試の時の疲れが、未だに抜けない。うう、眠い。



1999年−9月

 勉強の合間を縫って少しずつホームページを作る。涼しくなってきたので勉強もはかどるようになった。



1999年−8月4日

 「更新履歴」へ記入を開始。 このホームページ作りは、先輩作家防人因果氏の「防人因果ホームページ」を、かなり参考にしている。感謝感謝。



1999年−8月2日

 「初めて来た方へ」が完成。受験生、こんなことをしていていいのか?



1999年−7月下旬

 自宅にて、ホームページの作り方の書いてある本を発見。受験生(浪人生)であるにもかかわらず、ホームページ制作を開始する。



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