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どこまでも殺されて/連城三紀彦

1990年発表 新潮文庫 れ1-13(新潮社)

 手記の中で加害者と被害者の立場が入れ替わっていること、すなわち“殺されて”“殺して”と読み替えればいいということは、比較的予想しやすいのではないかと思います。現実には一人の人間が何度も殺されることはあり得ないのですから、手記が一言一句真実であるはずがありません。そして、最小限の改変で意味が通るようにしようとすれば、加害者と被害者の入れ替えが最も自然でしょう(しかしこの立場を入れ替えた記述によるトリック、どこかで見たような覚えがあるのですが……)

 手記の主が両親を失っていることから、橋本安彦ではないのではないかとまでは考えたのですが、明らかに最近起こったはずのバス爆破事件の発端が学校内の出来事だというミスディレクションに引っかかってしまいました。また、苗場直美の“もう一人の橋本という台詞も、年上である父親の方を指しているとは考えにくい表現になっています。

 手記の中で加害者と被害者が入れ替えられている理由ははっきりしませんが、結末で示されているように最初の事件が正当防衛だったとすれば、それはまさに加害者と被害者の入れ替わりに他ならないわけで、その“殺され(かけ)た/殺した”という体験が後々までも心理に影響を与えたと解釈できるかもしれません。

 ところで、探偵役である苗場直美の言動には釈然としないところがあります。例えば、最初の四つの事件の新聞記事のコピーを横田に見せた場面(213〜216頁)“陽子が何か言おうとするのを遮って”ただ“探し方を間違えていただけよ”としか横田に告げない(216頁)のは、作中の直美の立場であればまったく意味のない行為であり、“名探偵”よろしく演出効果を狙っているか、あるいは(あり得ないはずの)読者の目を意識したものとしか考えられません。

 新聞記事のコピーについてもう一つ気になるのが、横田がこの時点で真相に気づいていないことです。例えば東京駅の事件は“僕”が中学一年生の時に起きたもので、“僕”が橋本安彦であれば5年前になりますが、実際には30年近く前のことだったわけですから、コピーを見ただけで古い新聞だということに気づくのが自然ではないでしょうか(字の大きさや鮮明さなど、明らかな差があると思われます)

2006.07.29読了

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