紅蓮館の殺人/阿津川辰海
「第二部」の序盤、嘘をついていた登場人物たちの正体が次々と暴かれていくのが見どころで、いかにもうさんくさい小出が盗賊というのはともかく、財田雄山の親族――“貴之・文男・つばさ”の三人が偽者(詐欺師)、そして久我島が妻を殺した殺人者だったことに驚かされます。葛城が指摘するように数多くの手がかりが用意されていますし、つばさの視点で記述された場面の冒頭には堂々と“天利つばさ”
(39頁)と書かれている(*1)のですが、これらの嘘はつばさ殺しの謎と直接関係がない(*2)こともあって、盲点となりやすいように思います。
後に明らかになるように、隠し通路の発見には“本物の貴之”の侵入が不可欠なので、館に住んでいる“財田一族”は偽者でなければなりません(*3)し、金庫の消失を糸口とした解明のためには、“本物の貴之”が原稿を狙っていることを知る人物――依頼を受けた盗賊――がいた方がいいのも確かでしょう。しかし、ここでまとめて大々的な“暴露大会”が展開されるのには、他にもいくつかの狙いがあるように思われます。
まず、登場人物の大半が信頼できないにもかかわらず、脱出のために協力しなければならないという、サスペンスフルな状況が作り出されているのはいうまでもないでしょうが、その中にあって、登場人物たちの間に――“嘘に気づく体質”の威力を身をもって体験することで――“葛城が手がかりとして持ち出す証言は信頼できる”という共通認識が生じ、証言をもとにした推理が受け入れられる“場”が構築されているのが、見逃せないところではないでしょうか。
また、“犯罪者は犯罪者に隠せ”といわんばかりに、どさくさにまぎれて(?)暴かれている久我島の妻殺しが、〈爪〉には似つかわしくない粗雑な犯行と、それが暴露された後のやたらに情けない態度で、真相を強力に隠蔽するミスディレクションとなっているのも効果的。久我島一人だけが犯罪者となれば露骨に怪しくみえてしまうのは否めないところですが、“暴露大会”のおかげで久我島が浮き上がることなく、しっかりミスディレクションとして機能しているところがよくできています。
そしてもう一つ、“財田一族”・久我島・小出の嘘が次々と暴かれた結果として、“もう他に嘘つきはいない”とミスリードされてしまうのが実に巧妙。実際には、飛鳥井が“あれは殺人ではありません。犯人はいません。いわば(中略)不幸な事故です”
(142頁)と嘘をついていた――推理の誤りではなく殺人だと知っていた――わけですが、この“暴露大会”の中で葛城に“スルー”された(理由については後に検討)ことによって、飛鳥井に疑いを向けることが一層難しくなっている(*4)のは間違いないでしょう。
ついでにいえば、“暴露大会”を見越して(?)事件発覚直前に挿入されている、貴之の父・雄山に対する心情が描かれた意味ありげな一幕(105頁~106頁)も周到で、館に住んでいた“貴之”が偽者だと判明した時点で、本物の貴之が館に侵入していたことを示す読者へのヒントに転じる、何とも大胆な企みに脱帽です。
さて、つばさを殺した〈爪〉の正体については、その犯行声明ともいえる甘崎の絵(*5)が重要な手がかりとなっていますが、額の内側に煤が入り込んでいたことから絵がタイミングが特定される――と同時に寝たきりの雄山が除外される――のを皮切りに、全体として、山火事による極限状況をうまく組み合わせることで手がかりに仕立ててあるのが目を引きます。
“A3の画用紙”
(227頁)に描かれた絵に折り目がないという手がかりは、“丸まった跡や、折り目一つさえない”
(269頁)と、さらりと書かれていることもありますが、“あるべきものが存在しない”ではなく、“なくてもおかしくないものが存在しない”でもなく、“(大事な絵なので本来は)あってはならないものが存在しない”形なので、目立たないことこの上ないところが非常に秀逸。そしてそれが、“限られた荷物での緊急避難”という特殊な状況において初めて、手がかりとして意味を持つことになっているのがお見事です(*6)。
一方、額のビスについては、葛城の様子(270頁~273頁)から重要な手がかりであることは明らかですし、“犯人が素手で触れたはずのビスに煤が残っていない”というポイントまで示されているのですが、しかし手袋の内側には煤が残っていたことと合わせると矛盾するようにしか思えず、意味がよくわからないところがよくできています。この、“片手だけが綺麗なまま”という不可解すぎる状態に対して、それを生み出す状況として用意された“肩掛け鞄の紐をつかむ”という解答は、実に鮮やかというよりほかありません。
〈折り目の条件〉に、葛城が指摘する“タイミング”
(398頁)の問題を加えると、それだけでも決まりといってもいいようにも思われますが、さらに〈肩掛け鞄の条件〉でしっかりと容疑者が絞り込まれることで、久我島が〈爪〉だったという――“暴露大会”を経てのミスディレクションからすれば――意外な真相にも、十分に納得できるところです。
犯人が明らかにされて終わりではなく、そこからさらなる謎解きが幕を開け、ついには“名探偵vs元名探偵”が展開される……のが本書の白眉ではあるのですが、この部分の謎解きの手順には、少々怪しいところがあるのは否めません。
まず発端として、久我島に停電時のアリバイがあったことで“別の人物が天井を落とした”とされていますが、よく考えてみるとこれだけでは不十分。問題はウィンチの“偽装”が前提とされている点で、実際にはワイヤーが人為的に外されたことを裏付けるものはないわけですし、そもそも久我島にとって“最後の一手順は、完全に不要”
(414頁)なのですから、そこだけは本当に事故だったと考えても差し支えないはずです。
この推理は、ワイヤーを外す理由を“ウィンチによる電動操作が出来なかったから”
(215頁)としたところから怪しくなっている――というのも、飛鳥井がそうであったように“事故死に見せかける”
(411頁)のが目的だとすれば、停電の有無にかかわらずワイヤーを外す必要がある(*7)からで、結局のところ、ウィンチの状態をもとにして“停電中に偽装が行われた”と断定することはできず、久我島のアリバイは第三者の関与を示す根拠とはなり得ません。
さらに、葛城は匂い袋の匂いが消えていたことを手がかりに、〈爪〉による装飾を“剥ぎ取った”人物は、匂いを確認できないまま消臭剤をまいた――〈爪〉による装飾の知識があり、なおかつ風邪をひいていた飛鳥井の仕業だと結論づけていますが、“存在しない未知のものを剥ぎ取ることは出来ない”
(418頁)という印象的な言葉も含めて、非常に面白くよくできた推理だと思います……消臭剤が使われたことが確認されてさえいれば。
気をつけて読み返してみましたが、おそらくは“飛鳥井さんは(中略)消臭剤をまくことで匂い袋の匂いを消した。”
(416頁)という、葛城による断言が消臭剤の初出で、“後出し”感がぬぐえない……ということもありますが、消臭剤は痕跡を残さないのが理想(*8)ですから、そもそも“先出し”が不可能なのが致命的。死体発見時の現場で匂いの描写がないとはいえ、それは直ちに“匂いが消された”ことを意味するものではないわけで、“存在しないものを確かめることは出来ない”――したがって、推理としては成立しないことになります。
もっとも、これらの問題については、“嘘に気づく体質”を考慮に入れて葛城の思考の推移をたどってみると、だいぶ事情が変わってくるように思います。まず、前述の“あれは殺人ではありません。”
(142頁)という飛鳥井の嘘に、葛城は当然気づいたはずですから、その時点で“殺人だと知っている”(*9)飛鳥井を疑ったのはまず確実といっていいでしょう。
そこから甘崎の絵の発見を経て(*10)、手がかりをもとに“〈爪〉=久我島”という結論に行き着いたところでも、久我島に停電時のアリバイがある/飛鳥井の関与が判然としないことから、推理に確信が持てない――ということが、“最後のピースが嵌らない。(中略)僕は信じたくないのかもしれない”
(273頁)という台詞に表れているように思います(*11)。さらに、“暴露大会”に際しての“最後の嘘に辿り着くために必要な手順”
(283頁)という言葉をみても、その時点で犯人が確定していないことは明らかでしょう。
そこから一転して、“僕にはもう、〈爪〉が誰か分かっています”
(357頁)と飛鳥井に宣言するに至っているのは、その間に起きた出来事(*12)――倉庫で場違いな巾着袋を発見したことによるところが大きいのではないでしょうか。つまり葛城は、巾着袋=匂い袋が見つかったこと(*13)を手がかりに、〈爪〉が以前の犯行と同様に装飾を施したこと、そして飛鳥井が装飾を剥ぎ取った――さらにワイヤーを外して天井を落とし、事件性をも剥ぎ取った――という事件の構図を見抜いたと考えられます。
そしてそこから逆算して推測すると、風邪をひいて匂いを確認できない飛鳥井が、現場で匂い袋を目にしただけで匂いを消そうとした蓋然性は、十分に高いといえるでしょう。したがって、やや唐突にも感じられる消臭剤の一件は、そこまで飛鳥井の行動を読みきることで、実際には確認できない“決め手”の存在を推理したもの、ととらえることができるのではないでしょうか。
「エピローグ」では、最後の謎として残されていた“つばさ殺しのきっかけ”が明かされますが、(定番の“アレ”とはやや違った形ながら)名探偵自身が原因だったという真相は、葛城を打ちのめすには十分すぎるほど。惚れっぽい田所にも同時にダメージが入ってる(と思われる)のが効果的(?)ですが、さらに名探偵と助手の関係に“楔”を打ち込んで追い討ちをかける飛鳥井の――というよりも作者の――容赦のなさに圧倒されます。それを受けた葛城の最後の言葉は、“探偵続行宣言”と受け取るにはあまりにも悲痛で、田所も合わせてその行く末を案じずにはいられません。
*2: 最終的には、つばさが本物だったとしても事件の真相は変わらない――偽者だったがゆえの事件ではないことは明らかです。
*3: 隠し通路の所在を推理可能とするための、このあたりの作り込みが非常に秀逸です。
*4: もちろん、葛城と並んで“探偵”の側に収まっていることに加えて、明らかに〈爪〉ではあり得ないということもありますが。
*5: 飛鳥井と田所の再会まで含めると、偶然にもほどがあるのは確かですが、それだけに甘崎の絵の登場には驚かされました。
*6: 本物の貴之まできっちり除外されている(397頁~398頁)ところもよくできています。
*7: 飛鳥井の独白(「* 一日目 深夜」)では、偽装の際にたまたま
“折あしく停電が起こっていた”(412頁)とされていますが、これは推理を保証するものではありません。
*8: 香料入りで“匂いが残る”消臭剤の場合、匂い袋の匂いが残っている状態と区別がつかないので、飛鳥井の目的には適合しないことになります。
*9: 葛城の推理のもとになった手がかりの一つが、つばさが残した図面(195頁)の
“お宝!”の位置だった――そして他に手がかりは見当たらない――ことを踏まえると、この時点で飛鳥井が“殺人だと推理する”のは不可能だと考えられます。
*10: 飛鳥井が〈爪〉ではないことは明らかですが、まだこの段階では“〈爪〉がつばさを殺した”とは限らない――例えば、つばさと〈爪〉の間につながりがあり、飛鳥井とトラブルになった末の殺人である可能性もあり得る――ように思います(
“つばささん殺しの犯人と〈爪〉は同一人物と考えられる”(263頁)という台詞は、飛鳥井当人のの前だから、とも考えられます)。
*11: 特に
“信じたくない”という言葉が向けられる相手は、(田所を除けば)元名探偵の飛鳥井くらいしかいないのではないでしょうか。
*12:
“私と〈爪〉……この中の七人のうち、二人までが人殺し”(339頁)という久我島の言葉もありますが、これは“嘘”というにはやや微妙かもしれません。
*13:
“手首”と一緒に
“森の中に捨てることに”(411頁)しておけば、という気もしますが……。
2019.09.28読了