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塔の断章/乾 くるみ

1999年発表 講談社文庫 い88-2(講談社)

 文庫版で追加された作者自身による「塔の解説」では、作者の企みが懇切丁寧に説明してあり、それに付け加えることはあまりないように思います。が、何点か思ったことを。

 メインのネタの一つである、「塔の序章」に仕掛けられた叙述トリックは、やはりよくできています。とりわけ以下に引用する部分は絶妙です。

「あの――赤ちゃんのことに決まってるでしょ」
 女は顔をわずかにしかめ、手を腹部にあてて、それでも勝ち誇ったように言った。
(中略)
「いや、しかしそんなはずはない。ちゃんとそうならないように――」
「でも、できちゃった。よくあることでしょ」
 男は嘆息した。
「本当なんだな。知らなかった……。ところでそれは、いつ?」
「あの夜」
 女の答えに、男はハッと息を飲んだ。思い当たることがあったのだろう。
(7頁〜8頁)

 「塔の断章」の冒頭を読むことで誤認がさらに補強されるのはもちろんですが、上に引用した部分を読んだだけでも次のように解釈してしまう可能性が高いでしょう。

「あの――赤ちゃんのことに決まってるでしょ」
 女は顔をわずかにしかめ、手を(胎児の宿った)腹部にあてて、それでも勝ち誇ったように言った。
(中略)
「いや、しかしそんなはずはない。ちゃんとそうならないように――」
「でも、できちゃった。よくあることでしょ」
 男は嘆息した。
「本当なんだな。知らなかった……。ところでそれ(=妊娠したの)は、いつ?」
「あの夜」
 女の答えに、男はハッと息を飲んだ。思い当たること(=避妊に失敗した可能性)があったのだろう。
(誤認の例;括弧内は筆者が補足)

 思い込みというのは恐ろしいもので、正直に白状してしまいますと、「塔の断章」を最後まで読み終えて“女”が辰巳であることが明らかになった後もしばらくは、このやり取りの意味を上のように勘違いしたままでした。天童が香織だけでなく辰巳までも妊娠させてしまったのかと……。

 よく考えてみれば、この直前に辰巳は生理が始まっている(242頁)ので妊娠しているはずはありませんし、天童が辰巳を妊娠させたからといって“もうお終い”(8頁)というわけではありません。正しくは、以下のように解釈すべきだということになります。

「あの――(香織さんの)赤ちゃんのことに決まってるでしょ」
 女は顔をわずかにしかめ、手を(生理で痛む)腹部にあてて、それでも勝ち誇ったように言った。
(中略)
「いや、しかしそんなはずはない。ちゃんとそうならないように――」
「でも、できちゃった。よくあることでしょ」
 男は嘆息した。
「本当なんだな。知らなかった……。ところでそれ(を知ったの)は、いつ?」
「あの夜」
 女の答えに、男はハッと息を飲んだ。思い当たること(=女(辰巳まるみ)の動機)があったのだろう。
(真相;括弧内は筆者が補足)

 上に示した誤認の例と真相とを見比べてみると、ダブルミーニングの巧みさがよくわかると思います。

 「塔の解説」で言及されている、に関する伏線にはまったく気づきませんでしたが、説明されてみると確かによくできていると思います。また、これも「塔の解説」で言及されている、「辰巳まるみ=男」と誤認させるミスディレクション、より正確にいえば“実際には男性である辰巳まるみを女性と誤認させる叙述トリックが仕掛けられている”と誤認させる、いわば“偽叙述トリック”もお見事。


 もう一つのネタである“走馬灯”は、非常に面白く感じられました。これもある意味では“偽叙述トリック”というか、主人公の“回想”であることは間違いないのですが、外部の客観的な視点から眺めてみると時系列の逆転が起きていない*1という、読者の意表を突いた真相が秀逸です。

 「塔の断章」の2章目(17頁〜24頁)で秀一が辰巳に香織の死に至る顛末を小説にまとめるよう依頼し、さらに次の章(24頁〜35頁)で辰巳らと香織の出会いが描かれているという配列が、やはり真相を見えにくくしているように思います。もちろん章が進むにつれて、どう考えても香織の死とは結びつかなさそうな(辰巳の)昔の思い出などが挿入されていき、単純には受け取れなくなっているのは確かですが*2

 もう一つ、ノベルス版にはジグソーパズルを組み立てるような感じで読んでいただければ、良いのではないかと思います”という「著者のことば」が付されているのですが、これが強烈に意地の悪いミスディレクションになっています。まじめに“ジグソーパズルを組み立て”ながら読み進めた読者は、そんな必要がまったくなかったという真相に直面させられるわけで、(意外な真相ではあるとはいえ)脱力感もひとしおだったのではないでしょうか。冷静にみても、少々あざとすぎる感は否めません*3

 それにしても、「塔の解説」を読むと、“走馬灯状態”における時間の進行の制限や、エピソードの選択に関わる“検索キー”など、細かいところまで気を配って書かれているのがよくわかり、感心させられます。アイデアそのものに肩すかしを感じられる向きもあるかもしれませんが、作者の細かい配慮と工夫にはやはり見るべきところがあるのではないでしょうか。

*1: 西澤保彦の(以下伏せ字)『死者は黄泉が得る』(ここまで)を思い出しました。
*2: その昔の思い出の中でも、例えば“平田クン”の死が描かれている章(121頁〜128頁)などは、《マルチメディア企画室》の平田との関連を疑わせる、意図的なレッドヘリングになっていると思います。
*3: 文庫版カバーの紹介文には“誰もが驚くジグソー・ミステリ”という表現がある程度で、ノベルス版ほど強力に読者をミスリードするものではありませんが。

2007.02.16読了

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