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夜歩く/J.D.カー

It Walks by Night/J.D.Carr

1930年発表 和爾桃子訳 創元推理文庫118-35(東京創元社)/(井上一夫訳 創元推理文庫118-14(東京創元社)/文村 潤訳 ハヤカワ文庫HM5-2(早川書房))

 本書の密室トリックは、“密室から犯人が消失した”現象を演出するもので、当然ながら密室状態の現場からの脱出経路が問題となります。が、殺人現場となったカード室の二つのドアはいずれも施錠されているわけではなく、監視によって密室状況が成立しているにすぎないので、廊下にいたフランソワ刑事の移動(「二階見取り図」(創元推理文庫版10頁)参照)に着目すれば、そちら側のドアが脱出経路であることを見抜くのはさほど難しくないでしょう。

 ここで、“犯人”がカード室から脱出した後に喫煙室を経由して、いわばワンクッションおいてあるのが面白いところで、現場のカード室とは直接行き来できない喫煙室から姿を現わすことによって、特にフランソワ刑事の目を欺くのに大きく貢献していると思われます。ただし、カード室側に設けられた喫煙室のドアの不自然な配置は見取り図を見れば一目瞭然なので、これも見破るのは比較的簡単ではないでしょうか。

 実際のところは単なる密室からの脱出ではなく、被害者を装った“犯人”が現場に入る姿を目撃させるトリック*1が組み合わされている……というよりもむしろそちらの方が主眼で、被害者が実際よりも遅くまで生きていたように見せかけることによって、犯人が最後に自白しているようにアリバイが確保されることになります。つまり、アリバイトリックに密室の装飾を施すことによって、アリバイが問題だとまったく意識させることなく*2、共犯者ヴォートレルはもとより実行犯ルイーズ夫人を安全圏に置いているわけで、なかなか巧妙だと思います。

*

 本書では、序盤から狂気の犯罪者ローランが敵役に据えられていますが、そのローランが整形手術を受けて顔を変えていることで、“犯人探し”――誰がローランなのか――の興味が保たれています。それでいて、ローランの陰に隠れた“もう一人のサイコキラー”が用意されているところなど、よく考えられているといえるでしょう。

 もっとも、ゴルトンの証言などから“サリニー”が別人にすりかわっていたこと――ローランが“サリニー”になりすましていたこと*3は、早い段階から見え見えになっているといわざるを得ません。当の“サリニー”が殺害されてしまったことがミスディレクションになり得るかもしれませんが、発表当時であればいざ知らず、今となってはその程度のひねりは十分に予想できる範囲といわざるを得ません。

 なお、妻であるルイーズ夫人がなりすましに気づかなかったのは、本来であればいささか不自然に感じられるところですが、“なにしろ本物のサリニーが目の前にいた時でさえ、サリニーでなくローランを見ていたのですから。”(241頁)というエクスキューズがよくできていると思います。

 そして、ローランが“サリニー公爵”になりすましていたことが見えてしまえば、バンコランが指摘している(258頁)ようにルイーズ夫人の証言が怪しくなりますし、何よりヴォートレルが殺された時点で他に容疑者がいなくなるといっても過言ではないでしょう。

 とはいえ、バンコランに追い詰められたルイーズ夫人の告白で明らかになる狂気、そして“あの煙草の一本を――吸えば――なぜかはわからないけど――なんだってできる私になるの。”(291頁)という台詞に表れた、憐憫を誘う無自覚が印象的です。さらに、事件を的確に要約した“夫人は三人の男と言いかわしたが、なろうことなら三人とも殺してしまったことだろう。”(291頁)という最後の一文*4が静かに強調する怪物性が、何ともいえない余韻を残しているのが見事です。

*1: 本書の場合は実行犯ではなく共犯者ですが。
*2: アリバイトリックであることが明らかになれば、強固なアリバイがある(ように見える)人物に疑いが向いてしまうのは避けられません。
*3: 余談ですが、サリニーの死体が地下の酒蔵の壁に隠されていたのは、やはりエドガー・アラン・ポオ「黒猫」へのオマージュなのでしょうか。
*4: 創元推理文庫旧訳版(井上一夫訳)では、“ルイズ夫人は三人の男と愛を誓って、三人とも殺してしまうような女だったのだ。”(同書288頁)となっていますが、サリニーを殺したのはローランであってルイーズ夫人は関与していなかったわけですから、厳密にいえばこれは誤りということになるでしょう。

2000.01.05再読了
2008.05.24再読了 (2008.06.19改稿)
2013.12.20創元推理文庫【新訳版】読了 (2014.01.10一部改稿)