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最終更新日11/03/07

コラム

コラム307

意味

 変なタイトルですが、何か好きな事や集中しているときはいいけど、ふと我に返ると自分は今何のために生きているのだろうと感じる事があります。

すでにコラムで話している孤独感を感じる事と非常に似ている気がします。

人間は生きて行く為に生きているのですが、この当たり前の事ですら普段は考えないようにして過ごしていて考えない事自体が疑問に思ったりもします。

人間が生きる理由を家族や家庭の為と言っても、人間は根本的に「独り」であると私個人は考えるので、本来は他人の為ではなく自分自身が生きていく意味を見つけないと行けないと思うのですが・・・・その理由をちゃんと言える人は少ないように思います、私は今時点で自分が何の為に生きているのか明確に答えられませんし・・・・。

だから、人間は自分が今生きている理由をちゃんと見出しているのでは無く、ただ惰性的に生活して生きているのかも知れないと感じます。

生きている理由を「家族の為」と言っている人でも、その言っている言葉を掘り下げて自分の生きている理由を言葉に出来る人は、殆ど居ないように感じます。

ある意味、惰性的に生きていている事を何となくも感じていながら、まじめに生きている理由を見つけようと考えるとその意味すら分けが分からなくなって考えるのをやめているのではないかと言えます。

 

あくまで予想ですが若い頃は好きな事をする、好きな事を追い求めると言うような事で夢中になる事で生活が楽しいし充実していたので、その事自体がある意味「生きている理由」だったような気もします (好きな事をする事をそう感じたにすぎません)。

しかし、歳を取って今まで生きた事を振り返って見ると、これからの事を考えると今まで何もしていないし、何も変わっていない自分・・・自分が今まで生きて来て、他人へ多少なり影響を与えたり他人を必要としても、他人との交流の中でも自分自身としては、「生きている」、「生きていく」事の答えが出ていないように感じます・・・・・。

この手の話を考えるとその時の精神状態によって色々と考え方が変わってしまいますし、この様な話をする相手も非常に限られます。

ただ、この手の話を出来る人と意見を交換した限り、まじめに突き詰めていくと大体の意見としては「非常にヤバイ話」と言う事を言う人が多いです。
恐らく鬱や自殺にまでなりかねない様な題材に成り得ると言う事です。

これは、この問題が初めから答えが見えない題材でありながら、答えが無いかもしれない・・・・と言う事で、自分が生きている意味そのものは本当は理由など無いかもしれない・・・・と言う結論に達成してしまい「非常にまずい」と言う事です(苦笑)。

この問題は年齢が経つにしたがって肉体的劣化に伴い尚更、答えを出すのが難しくなるような気がします。

私が趣味として続けている事も自分のやりがいみたいな感触を感じていますので自分の生きている意味の小さな理由の一つになっているような気もしています。
「何かをする」、「何かやろう」とする事は社会的や家庭的なことではなくて一個人の人間が生きていくことに大きく影響しているんじゃないかなと思っていますが・・・・。

 

どんな人(大人)でもいずれ来るのでしょうが、
結婚している人は子供が独立したとき、
働いている人は定年になったとき、
家族がしんだりして居なくなった時、

今無意識に依存している存在(場所や空間や人)が無くなったとき、一気に喪失感や孤独感が襲うように思います。

ただ、これらの喪失感や孤独感を家族や他人と接する事で他人との会話などによってストレスを緩和し、たとえ答えが出ない事でも前向きになれる場合もありますので人と接する事はとても大切な事だとこの頃は感じます。

私自身がもっと歳を取る事で、ここで話している生きている意味はもっと大きくなるでしょうし、尚更答えを考えなくなる様な気もしています・・・。

私個人は趣味を生きているやりがいとして感じていますが、あくまでそれをする事で「楽しい」という感情が生まれなければ長くは続かないと思います。

自分自身が「楽しい」と思える事を、持続、継続させる事は案外大変と思いますが、NSXを趣味(維持や弄り)として考えるとよく続いたと言えます。

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