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コラム310
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始めに | このHPで自分が経験した災害記事を書く事になるとは思いませんでした。
経験したことをHP公開する事が良いのか悪いのかは分かりませんが私の一つの記録として公開することにしました。 今まで、ニュースなどで大震災のニュースを見ていましたが、私自身が直接被災者となったのは今回が初めてです。 地震が起きた日からの行動を私個人の経験と考えのみ載せてみました。 |
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3/11 |
14時46分、会社事務所に居る時に携帯電話にエリアメールがブーブーと激しく鳴り響きました。 その数秒後に激しい地震揺れが発生!その揺れがさらに激しく揺れ出しました。 慌てて事務所外に出ると車とトラックが揺れで左右に揺れ続け、その揺れから車がひっくり返るのでは思う程の揺れが続きました。 工場内の作業者も外に逃げてきたものの地震の揺れは収まらず、立っているのがやっとの揺れがその後も続き、周りの民家からは揺れによる砂埃が舞っているのが見えました。 荷物など崩れ落ち、コンクリートにひびが入り、地響きで人の悲鳴がかき消されるような感じでした・・・。 おそらく数十秒の揺れだったのでしょうが、ものすごく長く揺れていたように感じました。 地面はあちこち凸凹で段差が発生しており車の通行を妨げる状態。
車を移動させた後、携帯電話で連絡が出来ない状態、iメールを試しにしてみると送信できるのが分かったのでメールで家族や知人に連絡をつなげるものの地震の被害状態が分からない。 電話は回線がパンク状態・・・。 すぐ自治体の消防車が海沿いの川にかかっている橋に待機して避難指示を始めました。 その橋から川をみると通常の川の水位が減っていて川底が見えるような勢いで水がひき始めました。 消防の警報で「津波が来るので避難するように」との指示が起き、地域の人たちがそれぞれ避難する事に。 この時点では今一大津波による避難というのがピンと来ていませんでした。 その為、全力で逃げるというよりはのんびり避難というか、避難自体が半信半疑でどの程度の津波が来るのか理解できず、人の流れに沿って移動するような状態。 避難途中に高台に居る人から「津波が来るから急いで逃げろ!!」と言う声が聞こえて来て、慌てて逃げると右側に見える川沿いの土手から川を上っていく津波の波が土手から顔を出して見えており慌てて走りました。 多くの人か近くの高台にある神社に避難したものの海の状態が見えない事から、違う高台に上り海を眺めると土手の高さまで水位が上がった川と水門から逆流した海水で今、避難時に通った道が水浸し・・・単純に数メートルの津波が押し寄せたのが理解できました。 高台から津波を見ていた人は青い海が津波で真っ白になって陸に押し寄せたという事です。 |
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その後、高台から他に2回程津波を見ましたが初回程の高さはありませんでしたが、何回に渡って津波が押し寄せた事がわかりました。 この高台から見て海岸線沿いに北と南の方から煙が上っているのが分かり火災が発生していたのですが、その煙の上がっている方面が津波で壊滅的被害を受けて火災が発生した事が分かったのは後日です・・・。 |
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その後、避難指示をしている警察の許可をもらって、津波がひいてから駐車場に残っている車を移動させることになったのですが津波でドアの高さまで水没してしまった為にエンジンがかかってもエアクリーナーから海水を吸い込んだ事でその後、エンジンがやられてエンジンが壊れた車が多かったようです。 または水没でエンジン大丈夫でも電装系がやられてしまった車など波をかぶってダメになった車が多発しました(海水による電子回路の腐食でしょう)
結局、大津波警報が出ていたままなのに、自宅に帰ったのは夜になってしまいました。 帰り道にパイパスで帰るか市街地を通って帰るかが、地震により道の状況が分からず悩んだのですが、賭けでパイハスを通って帰ると殆ど問題無く帰れました。 家の塀が道路に散乱しているところも・・・・。 帰りに寄ったコンビニには食料品はすでに売れ切れで棚に何もなくお菓子だけが残っている・・・。 自宅では水道が断水でしたが電気は生きていました。電気が生きていただけでも助かります。 この時点では原発の事は頭にありませんでした。
後日ですが、私が居た地域を襲った津波の高さは10メートル未満(おそらく5メートル前後ぐらい)であり、原発を襲った津波と同等の10メートル以上の津波が襲ったのであれば・・・私の地震直後の行動を考えると間違いなく津波にのまれたと考えるべきでしょう・・・・・。 その為、私が今こうして生きているのは津波の高さによるものだったと分かり、津波に対しての認識の無さと結果的に運だけで生存が決まってしまった結果を考えると何も言えません。 |
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3/12〜15 |
その翌日からも津波警報から避難する事無く会社の瓦礫や土砂かたずけをする羽目になり、余震と津波警報で何度か避難するとかしないとかを何度も経験しながら個人的に「避難しなくて大丈夫か?」と思わせる状態でした。 しかし、地震よりも津波の影響で工場は壊滅、片づけても泥砂と瓦礫で酷い有様・・・工場はダメ状態。
情報が夜だけだったのでニュースなどで震災の被害などもあまり理解していなかったのですが、さすがにヤバイ気がしてきました。 その後に今度は三号機建屋が大爆発・・・・。これにはある意味、終わった気がしました。 結局三号機の爆発に伴い自分達も避難所に逃げる話になり、近くの避難所に逃げるくらいならば車で自宅に戻った方がまだマシと判断して自宅に帰る事になりました。 次の日からは地震当日から気になっていたガソリンが給油できずに居た為、車の移動に不安が生じていたところに、仕事も自宅待機となったのですが、どうやら第一原発からの放射能漏れで周辺住人の避難が続出・・。 自宅周りの家を見ると車が相次いで無くなっていました。(行政を初めみんな逃げ出したみたい・・・) この頃は知人友人と電話が中々つながらない状態だったのでメールで情報交換をすると、私の知人友人ではみんな無事が確認できました。 |
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3/16〜21 |
親戚より避難するから一緒に逃げようと連絡があり、家族会議の結果、取りあえず食料と水が出る鮫川村の親戚に身を寄せる事になりました。 合計10人程度を二台の車で移動と言っても車が全然走っていない。いわき市の街自体が沈黙しているような感じ・・・・。 (避難についても私のような30代ならば放射能の影響も子供ほど影響受けないでしょうから私だけならば避難はしなかったと言えます、現に私の親は「この歳になって逃げてもしょうがない」と避難しませんでしたから・・・) 鮫川村に避難といっても西に移動しただけで県外に避難したわけでもなく放射能の脅威が無くなる距離でも全然ありませんが、食料と水が確保されているという事で、少しでも生活改善と原発から距離を離れるという意味で早速移動することになったのですが、事前に知人が移動ルートが地震被害が無い事を教えてくれていたので、無事目的地までたどり着けました(このルートも4月11日の余震で崩れ落ちてしまった道がありますが・・・・)。 夕飯で炊きたてのご飯を食べたのも親戚の家でお風呂に入ったのが震災以来初めてでした。 水のありがたさが改めて感じました。 避難した親戚の家は農家ででかい家なのですが居候なので大人しくしているしかありませんし、外は放射能の問題もあるので出れません。 避難している場所は携帯電波が届く届かないギリギリの場所(驚)で、ブーストで電波を増幅させてメールで友人に連絡をすると、結構みんなそれぞれに避難している人ばかり・・・結構遠くに避難している人が多かった(苦笑)みんな考える事は同じだなぁ・・と感じました。
相変わらず余震が続き、ニュースでは原発の回復が滞っている話ばかり、ただ東京消防庁や自衛隊の放水作業にはただ感謝。 但し、原発から40kmのいわき市よりも60kmの福島市の方がはるかに高く放射能の流れが飯館村を経由して盆地の福島市と郡山市に流れ込んでいるように思えました。 この時点で円による距離で範囲を定めても意味が無いと思いましたし避難空域の指定が良く分かりませんでした。 結局、放射能については私のような大人は問題無いでしょうが小さい子供は大丈夫だろうか?子供への影響については不透明なままでした。
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3/22〜23 |
何日間も大変世話になっていた親戚でしたが、村の避難所に移動する事になりました。
やはり、長い避難生活では普段から生活しているわけでもない人間同士の生活は色々と難しいです。 |
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今回、移動する事になった避難所と言っても元々宿泊施設として使用していた場所なので、家族ごとに部屋別に分かれられた上に、風呂や食堂もあり、赤十字の人と各家族から代表を出して当番で身の回りの対応をすることになっていました。 右写真は避難所として使われた施設前です。 |
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全体で30人程度の人が避難者としてきていましたがすべていわき市からの避難でした。 翌日、私の都合で私達家族だけ急遽帰る事になりました。 |
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3/23〜 |
ここで問題になったのはガソリンです。避難で消費しているのにガソリン給油が出来ずにいた為です。
いわき市の方では7時間並んで入れたという話もあり、こんな話は例外だとしても数時間並んで入れたというのは本当なので戻ってもガソリン入れられないと移動方法が無くなってしまう、 やっているガソリンスタンドもあまり無い上にすぐ無くなってしまうので情報を集める事に。 普段から入れていたガソリンスタンドのESSOは完全に沈黙・・・。 たまたま見つけたシェルは給油量の制限も無く満タンで入れらたのでここで全車給油して尚且つ10リッタータンクにも入れて置くことが出来ました。 タンクはサーキット用に使用していたガソリン専用のものです。こんなことで役に立つとは・・・。 その後、ガソリンは徐々に入れられる場所と並ぶ車の量が減っていきました(見た限りシェルとエネオスがよく店を開いていました)。 後は水道が出れば落ち着くのですが、こっちは回復が遅れていました。 回復が遅れた理由は聞いた話ですが、どうやら原発で行政と専門業者が逃げた事で人手が足りず遅れているらしいとのこと・・・・・・。 毎日、市のHPで水道の復旧地域を確認する毎日。 近くの浄水所に水汲みに行くと並ばないで水汲みが出来る程度で10人くらいしか人がいませんでした。 聞いた話では夜の10時に言って深夜2時過ぎに帰ってくるほどの行列だったそうです。殆どの家庭で水が出なくなったそうですから・・・・。 しかし、自宅に戻ってから体重を測ったら痩せていた・・・・・約5kgぐらい減ってました、身長173cmで体重52kgは二十代前半の体重・・・・。 |
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外では彼方此方で復旧作業がみられ、電車が放置されていた常磐線も復旧の動きがありました。
常磐線のレール点検車両を見かけて復旧しているのが分かりました。 |
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3/25〜 |
この日の昼ごろに水がちょっぴりだけ水道が出るのが判明(感激)
夕方には水道が回復、避難から二日程度で水が出るようになりました。 さすがに水が赤みがかっていました。錆の所為でしょうね、しばらく流しているうちに元の水道水に戻りましたが、水洗トイレが普通に使える事と流し台が使える事、そしてお風呂にはいれるようになった事が感謝です。 水の有難さは使えなくならない限り、あまりに当たり前すぎてこんな事(断水)が無いと分からないと思いました。 鮫川村に避難していた親戚を迎えに再度出発。 親戚一同と合流していわきに帰宅。 その後、水道の復旧が進み彼方此方で水が出るようになって大分、ライフラインが回復してきたようです。 しかし、外を見ていると春が近づいているのが分かるのに外を歩くのに気を使うような環境になっている事が切なく感じます。 こんなに良い天気でも放射能が来ていると考えると悲しい限りです。
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4/1〜 |
ガソリンも並ばなくても開いている店があったり、コンビニも商品が普通に置いているようになってきました。
結局、いわき市の場合、ライフラインの復旧に原発影響で業者が入らなかったりして流通が滞ったのは間違いない事です。 色々な人に話を聞くといわき市は放射能の所為で入ってくるのを恐れる業者が多発、その為に資材が入荷してこない為に相当の被害があったようです。 |
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原発問題が解決せず相当大きな問題になっています。 外に出かけていると春の陽気になっているのに大気が放射能で汚染されている・・・・・天気がよく普通に出かけたり外出する事を気を使うような状態・・・・。 異常な状況です。 |
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4/11〜 |
夕方5時過ぎ、雨が降る中カミナリが鳴る様な悪天候の中で大きい余震が。
余震というのにはでかい揺れで電気が切れる中、慌てて外に出たものの、また断水になる心配があったので風呂に水をためる事に。 この地震M7の揺れという余震と呼べないほどの大きな地震、その後にもまたでかい揺れが・・・・流石に疲れました。 夜になって停電は回復したもののいわき市南部の方では一晩停電が回復しなかったようです。 しかも土砂崩れや通行不能になった道まで発生、明らかに一か月前の地震よりも酷い被害が発生した場所があるような状態・・・・・。 次の日、水道が一時的に断水になったものの夜には回復したものの、市全体では断水に逆戻り。 道路も3月11日の大地震では何でも無い所が今回の地震で歪んでいる所が多く、地盤が弱っている所に今回の余震でダメージが大きくなっていたようです。 死亡した人も出て、未だに余震を心配し続ける事が続く事に。 次の日は余震のパニックでコンビニなどの店が混雑、ガソリンスタンドも渋滞・・・・今回の余震は余計でした、精神的に地震を恐れる羽目に十分逆戻りしたと感じます。 |
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近くの公園で桜を見ました・・・・・本当であれば毎年、富岡町の夜の森公園を見に行っていたのですが原発から10km以内では行く事すらできません。
この公園も地震の被害で立ち入り禁止になり地震の影響がなくなりません。 |
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私が遊びに出かけた場所は津波で被害を受けたところと原発で立ち入り禁止になったところが多く、私が足を運ぶ場所の多くを失いました。 今の時点では地震から復興したとは言えませんし、これからの事が不安だけが先に進んでいるような感じです。 |
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4/20〜 |
徐々に子供も外で見かけるようになりましたが、大気中の放射能は低減しても地面に降り積もった放射能は蓄積されるのでその放射能による被ばく(特に地面まで背の低い小さい子供)の影響がどうなのか不安です。
政府は20mシーベルトを年上限としましたが、福島県の放射能分布を見る限り1mシーベルト以上で汚染されている地域は中通りの大半と浜通りでも半分以上の地域に広がっていると思えるので、大人はともかく子供などの影響は無くならないでしょうね・・・。 県外に子供を避難させたという親の気持ちもわかりますが、日本中にある原発が今回と同じ被害の可能性があるかぎり、どこに逃げても放射能の危険性があると言うのも笑えん話です。 おそらく対策を施しても今回の地震、今回以上の地震が今後起きない保証はなく絶対の安全性はあり得ないと思います。 とにかく第一原発の安定化作業と避難空域の事故終息がどうなるか未だに気が抜けない状態です。 |
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4/22〜 | 避難地域の解除 | |
5/12〜 | 一号機がメルトダウンしてると発表 | |
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最後に |
大震災のニュース内容自体が、途中から震災から原発ニュースがメインになりましたが、二か月近くになるとニュース記事の中から震災関係のニュースそのものが消えて来ています。 おそらく放射能による人間への影響は毒物のようなある一定以上の量ならば肉体に影響して死に至るという単純な話ではなく放射線により細胞の遺伝子が壊され細胞の異常によるガンの発症・・・・その影響が何年も何十年も後に発症してくる・・・・・そうすると放射能の影響との因果関係とかが明確に把握(証明)しているニュースは非常に少ないと思いましたし、「今5μシーベルトの大気はx線600μシーベルトと比較すると今すぐ体に影響ないレベルです」という説明は5μシーベルトがどの程度で、肉体に影響がこの程度なのでまったく問題ないと説明してくれれば安心するのに、行政の説明だとその数値が体にどうなのかが分からないままの不安を感じる説明でした・・。 結局、正しい情報の公開が政府から発表されていない為に、不安になった人達は原発の近くに住む人は放射能に汚染されている、福島県は放射能で汚染されているという話になっていると感じました。 ニュースで原発から30km県内の南相馬市の人が福島市に避難したらスクリーニングをしていない事を理由に診療を拒否した記事を読んで感じたのは、南相馬市よりも福島市の方が放射能濃度が高いのに関わらず原発からの直線距離で汚染度を判断している・・・・・・福島県内の人がこのような判断をしているのならば、県外の人は福島県の人を風評するだろうし、外国は日本そのものを風評するのは間違いないだろうと感じました。 数値や情報で正確に判断するのではなく距離で汚染を判断する、その方が楽だから・・・・・。 このような事はおそらく人間の本質なのかもしれません、私も原発から遠い位置に住んでいたのならば、やはりこのような考えになっていた事を否定できませんし・・・・。
また食品の風評は、 福島県に住んでいる人が県内産ではなく県外の野菜を購入する。 福島県産の去年のコメが売れない(何故・・・)。 原発から200kmも離れている千葉県の野菜が売れない。 このような話の時点で水産食品はもとより福島県内の食品関係は放射能が基準内であろうとも震災前の値段では売れないだろうし大ダメージを受けるのは間違いない話です。 今回の震災で福島県は他県と違って震災復興が原発の為にストップしてしまっています。 その為、復興が遅れることによる影響て苦しむのは一般市民であり、私自身どうなるのか分かりません。
原発で作業している方々はともかく、政府と東電の対応は素人の私から見ても情報公開や処理対応に疑問があるものであり、現在の情報をそのものが信用できない・・・毎日測定している放射線の数値すら本当か?と思えました(実際に地元で測定した方の話では数値は正しいらしいですが)。 日々、原発関係の情報をみている限り、何が正しい情報であり現在、放射能で汚染されている地域はどの程度汚染され、それによる人体への影響が情報によって差がありすぎ・・・・(特に政府から後になってから公開したり、情報を修正するのはやめてほしい・・・・) はっきり言って原発を気にしない人は良いでしょうが、気にする人はこの状況下はつらい筈です、本当の事といつになったら原発が落ち着くのかまったく分かりませんから・・・。
そんな中でも避難時に世話になった親戚の方々や親兄弟などには世話になりましたし、友人からも避難して来いと心配してもらったり、ネットで知り合った人からも心配や励ましをいただいたのも確かです。 人の交流がありがたいと感じたのは震災の中で感じた事です。この場を借りて心配して下った方々に感謝しております(特に千葉県と長崎県に住んで居られる方々には感謝します)。 人間は一人では生きていけないという事を感じました。
私は震災を初めて経験しましたが親兄弟や知人友人の殆どが無事であったのは不幸中の幸いと言えます。
本当にこのような災害が起きるとは思ってもみませんでした。
今回、震災によって被災され亡くなられた多くの方々のご冥福を祈ります。
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