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最終更新日12/09/17

コラム

コラム326

葬儀

 先日、身内に不幸が合り葬式に参列したのですが、この頃、告別式や火葬、納骨に立ち会うような機会が全然無くなっていて、今回久しぶりに葬式に参加して見て感じたのは葬儀そのものよりも人の死が自分にとって身近になった事を感じました。

子供の頃、祖父母が死ねば悲しんだだけであり、人の生死について考えることよりも死と言う事が遠い話であり、自分の事として捉える事は有り得ない為、完全に「死」が人事でした・・・、自分が20代ぐらいの時でもやはりまだ人事だったと記憶しています。

流石に30代になって葬式で身近な人の葬儀に出ると悲しいというよりも、その人が死んだことを自分に置き換えて考えると大分死そのものが近くなった気がします。

人間が死ぬこと自体がどのような事か?と問われれば今居る世界から消えてなくなる事であり、人の死が影響を与えるのは関係する一部の人間でしかありません。

その為、人の死が死に到る過程で「痛い」「苦しい」と言う事が死を怖くさせているのも事実ですが消えて無くなる事が怖いと感じたりもしています。

自分が生きている中で他人との接点もありますが、それらが大きく影響する人は僅かであり、影響を与えた人も時間の経過とともに薄れるので、実際に人一人の死が大きく影響するのは家族などの一部に限られるような気もしています・・・・。

人間が生きている意味の一つに人に必要とされると言う考え方もありますが、他人に必要とされていると言うのも案外分かりづらい話だと言えます。
他人に必要とされたとして、それが何十年と続いているかと言うと実際には僅かな期間だけであり生涯に渡って・・・と言うことは中々あり得ない。
家族だとしてもその時その時の生活環境が変わっていく為、特に身近な親子の関係ですら変動していくと感じます。

結局、自分が死んだ時と考えると何も分かっていないし何も理解していないで今を生きている、生きている意味と言うよりは・・・惰性的に生きているのかもしれません。

ただ、私がひとつ言える事は今生きている自分が生きていられるのは、これから先の事を知らないからだと思います。

もし、自分の未来が知り得て死ぬ時期が分かったとしたら、それでも生きる意味を考えながら生きられる人のような精神を持っている人は殆どいないと私個人としては思うからですが・・・。

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